エッセイ

2014-05-06(火)

困っている人

同僚に勧められて読んでみました。
大野更紗さんという若い女性が書いた本です。
ビルマ(ミャンマー)の難民と知り合い、その足で現地へ出かけるような活動的な人です。
しかし突然襲った難病との戦いがこの本のテーマです。
一言でいえば、壮絶です。ちょっと想像することができません。
麻酔もかけずに筋肉を切り取るなどということも、今の医学にはあるのです。
全く病名がわからないまま、1年が過ぎます。その間は検査の連続でした。それに伴う膨大な医療費。両親の不安はいかばかりでしたでしょうか。
やっと病名がつきます。
皮膚筋炎、筋膜炎脂肪織炎症候群。
ステロイド剤の大量投与により、眼球は開いたまま、目も閉じなくなります。危篤状態にもなりました。その後難病医療費助成と身体障害者手帳の交付を申請します。友人の助けがなければできないことでした。
お尻の肉が腫れ、そこから血と膿の混じった液体が流れ出たりもしました。MRIに入るたびに新しい病気が加わります。卵巣嚢腫も発見されました。
この悲惨な状況をよく彼女は文章にしたと思います。
呻いて泣くだけの日々を埋めるものが唯一、言葉だったのかもしれません。その後、病院の近くに引っ越したり、それはそれはすさまじい日常の風景が描かれています。
ポプラ社から出版され、最近は文庫にもなったそうです。明るい文の裏側にある、さまざまな医療現場の課題、制度の問題などにも言及しています。
いずれにしても、免疫系の病気の類いまれな困難さというものが、これでもかというぐらい描かれています。
文章は爽やかです。それだけに現実の壮絶さが、いっそう重く感じられてなりませんでした。

2013-11-30(土)

空気を読む

いかにも日本人らしい表現です。
多くの似た感受性をもった人間が、一つの島に生きていれば、互いの間隔をうまくとらなければ息苦しい状況になってしまいます。
だからこその「空気」なのでしょう。
「阿吽」という言葉の響きや、「?啄同時」という表現を聞いていると、なるほど日本人は特殊な環境の中にいるとあらためて感じます。
賢明な人は常に他者との距離をはかり、その中で場の空気を読み取ることに長けているともいえます。
それができなければ、集団のリーダーになることは難しいかもしれません。と同時に出過ぎる杭は打たれないという言葉もあります。
ただ人間関係だけに汲々としている人の脇で、我が道を行くというタイプの人もいることにはいます。
しかし一度転ぶと、奈落は近いかもしれません。
相手の面子を大切にし、謙虚で、常に場の空気を読み、そして主張すべき時は、毅然として自己の信念を述べる。
そのようなことができれば、この国では十分に生きていくことができるでしょう。
しかしそのなんと難しいこと。
多くの日本人論の中に出てくる空気論は面白いものです。だがあまりにもそれだけを前面にだすと、やがて保守化が進みすぎる危険も孕んでいます。
さらにあえて言えば、「事実」に対する感度の鈍さだけは、どんな時でも許されることではありません。

2013-10-02(水)

マック閉店

昨日、突然駅前のハンバ-ガー屋さんが閉店しました。今年に入って採算の悪い店を次々と閉じているとのこと。過当競争の厳しさをあらためて感じさせられました。
ここ数年、マックの経営環境はめまぐるしく変化しています。簡単にいえば、客単価を下げてみたり、再び上げてみたりしながら、単品での商売をセット販売に切り替えています。
そのために売り上げの悪い店は容赦なく切っていくという方針なのでしょう。
ぼくはほとんど利用したことがありませんでした。駅前に開店してから16年目という話ですが、わずかに数回、それもテイクアウトだけです。
昨今、飲食店で喫煙をするという光景が大変に少なくなりました。それを残しているのが、この店でもありました。
いつも駅から下りると、ガラスの向こうに何人もの客の姿が見えました。向かって右側が喫煙を許されている場所のようです。
そうか、あれからもう16年かという感慨をもって入り口の挨拶状を読みました。
ところでこの店の撤退の仕方にはいささか驚きました。前日まで何事もなかったかのように営業していたのです。
それが翌日の朝通りかかると、閉店の挨拶が正面に掲示され、中で数人が片付けをしていました。夕刻を待つまでもなく、完全になにもかもがなくなっていたのです。残されたのは、がらんとしたビルのみです。
従業員達の生活はどのようになるのか。学生時代、息子がここでアルバイトをしていたこともあるのです。パートの人は次の職場を探さなくてはなりません。
念のため、ネットで閉店予定の店を検索してみました。9月末で閉じると宣告された店は近くにもう一店ありました。と同時に開店する店の報告も多数なされているのです。
近くに女子大があります。大学生が結構利用していたのです。サラリーマンも使っていました。しかし夜の時間が弱かったのかもしれません。なんといっても住宅街です。飛び込みの客をつかむのは至難だったのでしょう。
マックは今後自主店舗経営よりフランチャイズなどにシフトしていくという記事もありました。
資本の論理は想像以上に厳しいものがあります。
あのビルは今後どのように使われていくのでしょうか。
それにしてもあの立ち退き方の見事さには舌を巻きました。
方丈記の言葉が思い起こされます。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。或は去年焼けて、今年作れり。或は大家亡びて小家となる。

まさに至言ではないでしょうか。ちなみに駅前のスーパーも夏に撤退しました。駐車場のスペースがとれずに苦心したようです。その後にはすぐコンビニ店が半分の面積で開店しました。

2013-06-08(土)

メダカの季節

もう何年になるでしょうか。ずっとメダカを飼っています。といっても殊更に手をかけるという訳ではありません。
一番最初は大きな水槽や蛍光灯、さらには循環ポンプを買い込んだりもしました。部屋の中で見ても、メダカは大変に愛嬌のある魚でした。しかし手入れは大変です。一週間に一度は水槽の内側につくコケを落とし、さらに下にたまった汚れを全て取り除かなければなりません。
これは想像以上の手間でした。
やがて世話をすることに疲れ、とうとう大きな鉢を買い込みました。
最初は睡蓮鉢も中に入れましたが、やがてそれにも疲れ、とうとうメダカだけになったのです。
シンプル・イズ・ベストとはよく言ったもので、それからはあまりかまわずに月日が過ぎています。
とはいえ、水草や水藻は時々変えなくてはなりません。夏場は卵を産みますので、それがうまくつくようにホテイアオイを入れます。
この草は愛らしいきれいな花まで咲かせます。
さてこの季節は一日に20匹くらいの赤ちゃんメダカが誕生します。
大きな鉢の片一方には大人のメダカ。もう一つには生まれたばかりのメダカが入っています。
どうしても分けないと、親たちは子供も卵も食べてしまうのです。野生は実に残酷な現実を孕んでいます。
毎日、水を少しづつかえ、さらにエサを与えます。
赤ちゃん用のエサはこまかくすりつぶされていて、粉薬よりもさらにキメが細かいのです。それをほんの少しやります。これを大量に与えると、水質がすぐに悪くなります。
一回、水草を移動すると十日間ほどはそのままにしておきます。すると、付いていた卵がみなかえるということになるのです。
先刻ちょっと数えてみたら150匹以上はいました。
ほんの糸くずのような命です。実にささやかな命です。しかなんともかわいらしい。どれほど人間が威張ったところで、この命を生むことはできません。
しかしその大半は秋を待たずに死んでしまいます。これも現実です。生き残るのは10匹いればいい方ではないでしょうか。しかしそれがまた次の年には大きくなって次の命を生むのです。
通常は3年から4年は生きます。中には尾ひれが曲がってしまっているのもみかけます。しかし一生懸命泳いでいる姿を見ているのはいいものです。
さて今年はどうなるのでしょうか。
赤ちゃんメダカが元気に追いかけっこしている様子をじっと眺めていると、時間のたつのを忘れます。
生きているということはそれだけですばらしいと感じる瞬間なのです。

2013-04-20(土)

欲しいもの

昨今の若い人たちは志向が内向きだとよく言われます。なにもかも揃って、これといって不満もなく、さて何が欲しいのかと訊かれて首をかしげてしまうといった人も多いのではないでしょうか。
将来があまりに見えないこの不透明な世の中を生きていくには、それなりのしたたかさも必要です。
今日の新聞の投書欄にも、何をしたいのかわからないという高校生の質問が寄せられていました。これといって不満はないが、さてこれから何をしたいのかと問われると、全くわからない。友達はあれこれと職業をあげて話し合っているが自分には、そうした望みがない。
どうしたらいいのでしょうというものです。
これこそが「今」なのでしょうか。身の回りを眺めてみても、どうしてもこれが欲しいというものは少なくなっています。
かつてならまず男子は車と答えました。ところが現在は免許証を取る人の数も3割程度減っているといいます。車も軽自動車で燃費がよければ、それでいい。東京に限っていえば、数分に一本電車があり、格別欲しいとは思わないという意見も多々あります。
外国旅行もくたびれるし、お金がかかる。言葉が通じないし面倒くさい。家にいる方がゆっくりするなどという意見が多いようです。本当にこのままで内向きな日本人が大量生産されたら、今後どのようになっていくのでしょうか。
プロと呼ばれる人も確実に減ってます。皆がそこそこできる。しかし圧倒的な力をもって、あたりを睥睨するスターはもういません。それぞれが小さくまとまってひっそりと生息しているのです。
日本人はこれからどこへいくのでしょうか。ますます不思議な国になっていくような気がしてならないのです。
若者達が揃って口にするのは安定です。確かに不安定なこの時代に、先々のことを予想するのは難しいのかもしれません。もう一つのキーワードは家族でしょうか。特に子供というものをもってみたいという人もいます。
自分の周囲に安心できる一種のバリアのようなものをつくり、そこで安らぐということが、一番の望みなのかもしれません。居心地のいい住まいなどというのもその中に入ってくるのでしょうか。
モノはあふれかえっています。しかし本当に欲しいものはなかなか手に入らない。時代はどこへいくのでしょう。殊更に飢えることもなくなったエアポケットのような場所に現在、ぼくたちはいます。しかしガラスの天井があちこちにあり、やや空気が薄くなりつつある実感も持っています。
どうやって現状を打開していくのか。時代閉塞という言葉は、ずっと以前から使われ続けてきました。
欲しいものが欲しいというコピーに語られる、「欲しいもの」とはいったい何なんでしょう。そして、それを探すことは可能なのでしょうか。

2013-04-12(金)

風姿花伝

久しぶりに『花伝書』を読みました。今までもその時々目にはしてきましたが、なぜかまた読みたくなったのです。
読めば読むほど味わいの深まる不思議な本です。
世阿弥は能について語っているだけなのに、けっしてそれだけにとどまらず、広く芸能全般について、あるいは人生の種々相を見事に論じているのです。
たまたまここ数年、落語という一つの古典芸能を通じて、芸というもののほんの片端に触らせていただいてる身としては、心にしみる言葉がたくさんありました。ことに強い印象を持ったのは、風姿花伝第三問答の条々です。これは一問一答形式になっています。申楽を演じる人々の苦悩がそのままの問いかけの形になっているので、大変迫力があります。
その中に、座敷の吉凶ということがあります。どうやってそれを知ればいいのかという方法論をストレートに訊ねています。
とくに神事の能などで見物人がたくさんおしかけ、落ち着かない時にどう人々の心を静めるかということです。それこそ刹那を狙い澄ましてぴたりと幕開きの一声をあげよとあります。タイミングの妙でしょうか。間といってもいいかもしれません。その一瞬の時に声を出さなければ場は死んでしまうとあります。
また陰陽の和するところを知らなければ、面白くはならない。陰の時に陰の申楽は慎まなければならないとあります。昼でも座敷がしめって寂しい時は心を入れて華やかに舞うということです。昼は場合によって陰の気になる時があるものの、夜は陽の気になることはないと言い切っています。
これなども落語を語る時にそのまま使える内容のような気がします。特に今日のお客は重いという表現を噺家はよくします。その時に意識して使える忠告なのではないでしょうか。
またよく「稽古は強かれ、情識はなかれ」という表現もつかわれます。これは自分より芸格が低い人をどうみるかという時の一問一答です。その時に使われるのが「上手は下手の手本、下手は上手の手本」という言葉です。どんな人からも、学ぶことはあるということです。
情識という表現はうぬぼれと言い換えてもいいでしょう。「稽古は常に厳しく、うぬぼれはなくせ」というのが、世阿弥の格言なのです。それだけ、人は自分に甘いということなのでしょう。これも心に刻んで精進しなくてはならない大切なことです。
また「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」などという表現は難しいものです。これが芸の神髄ですよと語ってみても、それは他者にとって大抵実につまらなくささやかなものでものであったりするのです。しかしそれこそが一番大切なものであることが多い。そこがまた芸能というものの持つ奥深さでもあります。
その他に男時、女時を知れとか、さまざまな表現がちりばめられています。どれも実感を持って読むことができました。どの言葉も自分の身を削りに削って精進した人だけが口にできるリアリティに満ちあふれています。時分の花をまことの花にすることのいかに難しいことでしょうか。最後に語られる秘伝秘伝という言葉の重みをこれからもじっくり味わいたいと思います。

2013-04-02(火)

擦り傷

随分と昔に転んだ記憶があります。それ以降、全くそんなこともなく、傷の治療法について考えたこともありませんでした。ところが、今回ちょっとしたことで転倒して、膝小僧を擦りむいたのです。
さっそく傷口を消毒し、ガーゼをはって治療を試みました。やれやれ、これで一安心と落ち着いたところまではよかったのです。
しかしお風呂に入るのは大変です。片足をあげたまま、浴槽につかるというのはなかなか難儀なものです。
それでもなんとか身体を洗い、さて傷替えをしようと再び、消毒をし、ガーゼを付け直しました。
数日、こんなことが続き、以前ならばそろそろ薄い皮が出てくる頃だと思っていましたが、擦り傷というのは案外長引くものです。そこで他に適当な治療法はないものかと、ネットを検索してみました。
すると驚いたことに、今までやっていた治療法がすべて間違っていると書いてあったのです。
生まれてこの方、ずっと同じ方法で試みてきたのですが、どうも最新の考え方とは反対のようです。
まず消毒薬を使ってはいけない。さらに傷口を乾かしてはいけない。さらにガーゼで覆うのはやめて、むしろ湿潤な状態を保つこととあります。効果的なのは料理用のラップで傷口を包むこととありました。
これには本当に驚きました。以前はスプレー式の傷口を乾燥させてしまうものまであったのです。
それが乾かしてはいけないというのです。
消毒薬はせっかく傷口を治そうとしている細菌類を殺してしまうことになるのだそうです。ガーゼで乾燥させるのも同様で、とにかく湿った状態に保っておくということが、最新の治療法なのだそうです。
これには本当に驚きました。
かつてはすぐに瘡蓋ができてしまえばなおったと思っていましたが、あれは少しも治癒したことにはならないのだとか。
目からうろこというのはこういうことをいうのでしょうか。
さりとて、足にラップを巻くというのは抵抗がないわけではありません。
擦り傷の治療法一つにも、時代の流れがあるのだとしみじみ感心しました。さて、今日からどの治療法にしましょうか。目下ひどく真剣に悩んでいます。どなたかご教示いただければ幸いなのですが…。

2013-02-15(金)

曼荼羅の人

陳舜臣の『曼荼羅の人』を読み終えました。
空海については、以前司馬遼太郎の『空海の風景』という作品を読んだことはありましたが、それ以来です。
前から空海には興味がありました。
東寺などへいくと、かつては本当に荒れ果てていたという話を聞きます。それを今のような状態に戻したのは、ひたすら弘法大師の徳であると多くの人が語ります。
それだけ魅力のある人だったのでしょう。
ぼくの家の宗旨は真言宗豊山派です。この宗派の大本山は奈良の長谷寺です。そこへ行った時も、不思議な感覚にとらえられました。
ここ数年法事が続き、何度もこの宗派独特の密教的な所作にも触れました。そのあたりから関心が広がっていったのかもしれません。
曼荼羅の世界にも興味があります。
この小説は空海が遣唐使船に乗って留学をするところから始まります。嵐にあい、予定とは全く違う南の土地へ流されました。そこからどうやって長安の都までたどりついたのか。それが前半です。
空海は言葉というものが持つ力を本当によく知っていた人だといえるでしょう。最初に辿り着いた土地の役人に書いた書状などは、これを読んだだけで、只者ではないということが、すぐに了解されたとあります。その文字の美しさととともに韻律の響きのみごとさ、内容の豊かさ。どれをとっても学識の広さと深さを実感できます。
後半は青龍寺の恵果阿闍梨から灌頂を受ける場面です。わずか2年しかいない、それも日本から来た僧が、はるか以前から修行している現地の僧達を飛び越して灌頂をうけることについては、嫉妬や非難が多くあったことは、容易に想像できます。
しかしそれを超えるだけのものを空海がもっていたということなのでしょう。彼は唐の言葉以外にも仏教のためならなにもかも学ぶ意欲に満ちていました。
道教、ゾロアスター教、キリスト教の寺院まで訪ね、教えを請うています。その意志力が日々の行動の中にあらわれていたと考えるのが自然かもしれません。別の意味でいえば、狡猾な側面もみてとれます。言葉は悪いですが、利用できるものは権力であろうとすり寄っていきました。
唐の皇帝にも、重臣にもさらには日本の帝にも。20年の留学予定期間をわずか2年で切り上げ、帰国した彼のその後はまさに波乱万丈でした。最澄との関係にも興味があります。当時、帝の信任あつかった最高位にいた最澄と、無名の空海。
そこからのドラマがまた実に人間臭くもあります。
陳舜臣のこの作品は唐にいる間だけのものですが、これ以降の空海にも大いに興味があります。今後も関連した本を読み続けていこうと思います。

2013-01-29(火)

夏目漱石の『門』を久しぶりに読み返しました。
何度読んでも面白い作品です。
ストーリーが特にあるという訳ではありません。
ある下級官吏の日常が淡々と描いてあるだけです。
『それから』は主人公代助が他人の妻となった女性を取り戻そうとして、往来へ飛び出していくところで終わりました。
しかし『門』はその後に続く作品とはいえ、もっと日常を色濃く反映しています。
宗助と妻の御米は諦念に満ちた暮らしをしています。
大学時代の親友と暮らしていた彼女を奪って遁走し、暮らし始めたものの、子供を流産、死産し、今ではすっかり静かな生活の中にひたりきっています。
しかし弟の小六が書生として世話になることになった坂井という大家のところに偶然、御米の前夫がやってくるという話を聞いたところから、宗助の神経症がさらに強くなります。
それを少しでも和らげるべく、鎌倉への参禅を試みるというのが、この作品の概略です。
漱石の作品には三角関係がよく登場します。『こころ』などはその代表的なものでしょう。人は己に正直に生きていこうとすればするほど、難しい場面に遭遇するものかもしれません。
他者の存在が、自分のこころを明るく照射するという側面をもっているのです。愛憎が世界を照らすとも言えます。
かつて大学で学んだ自分が、このようにひっそりと市井の中に暮らしているということを主人公は、強く自覚しています。
しかしそのことを大声で話すこともありません。
ところが彼の知的レベルを自然にあぶり出してしまうのが、崖上に住む大家の坂井です。社交的な坂井は、宗助の中にある鬱屈したものを時にとらえながら、しかしそれを殊更表面に取り出そうとはしません。
やがて大学時代に今の妻、御米を奪った友人との邂逅までセットされそうになり、慌てふためくというあたりも見事に構成されています。
最後は禅寺でのシーンです。
これには多分に漱石自身の経験が色濃く反映しているものと思われます。最後に家に戻った宗助に向かって、春になった喜びを告げる御米が登場します。
その彼女に「うん、しかし又じき冬になるよ」と呟く宗助に救いはありません。
人生にこれといった勝者もなく、また敗者もない。ただ日常が永遠に続くという漱石のテーゼがここに示されているのです。
何度読んでも面白いというのは、自分自身の変化が逆に読み取れるからかもしれません。
この作品はそうした意味で、試薬の働きをもしているのでしょう。不思議なほどに静かな小説です。ここに漱石のもう一つの側面がよく出ているといっても過言ではありません。

2012-12-03(月)

隣の芝生

姜尚中さんといえば知らない人はいません。『悩む力』は大ベストセラーになりました。ぼくも彼の著者はかなり読んでいます。『在日』は好きな本の一つです。しかし彼の息子が数年前に亡くなっていたことは知りませんでした。
自殺という話もあります。あるいは姜尚中さん自身が言うように病気だったのかもしれません。
二十代半ばで亡くなっているのですから、普通のことではありません。かなり親子の葛藤があったようです。そのことが原因で彼の妻は新興宗教にも入信したとか。
いろいろな情報が週刊誌に掲載されていました。
彼の著書を出していない文春だから書けた内容だという報道もあります。
在日の息子に生まれ、有名人となった父親を持つ息子には、並々でない重圧があったことと思われます。それを跳ね返すだけの力がなかったのかもしれません。ずっと家に引きこもっていたそうです。
名誉と金を手にしても、なお手にできないものがあるという事実に愕然とさせられます。
詳しい話はいずれ、彼が公にするそうです。それまでは静かに心の整理を待つ以外にありません。
どこの家も一歩中に入れば、なにか問題があるものです。
隣の芝生は青くみえる、という諺には一面の真理があるとしみじみ思います。
姜尚中さんは東大も近くやめるそうです。
これも別の意味で重圧だったのでしょうか。

2012-10-01(月)

通常通り

毎朝、テレビのニュースは、新幹線や通勤電車が通常通り運行されていますと告げています。いつもだからどうしたの、という気持ちで聞き流しているだけですが、考えてみれば通常通りにものが動くということは大変なことです。殊に台風の時など、多くの人が駅や空港で立ち往生したまま、動きがとれません。あらゆる予定が狂ってしまうのです。
あの大地震の時もそうでした。
いつものようにターミナルに向かった生徒の大半が学校に戻ってきました。何もかもが動かなくなっていたのです。
仕方なく、あの日の夜は学校に泊まりました。
福島や宮城など、被災地の人たちはその状況が今も続いてるのです。
帰れなくなってしまった人のなんと多いことでしょうか。
毎日、当たり前のように暮らしが続いて、そこに笑いや涙がある。そうした日常がいかに大切なものか。
良寛は一日中、子供たちと手まりをして遊んだと言われています。なににも束縛されない、昨日と変わりない生活。そのことの大切さが、身にしみていたのでしょう。

この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし

霞立つながき春日に子供らと手鞠つきつつこの日暮らしつ

考えてみれば、人間の暮らしというものは実に単純なことの繰り返しです。しかしそれを繰り返せるということの中に、本当の幸せがあるのかもしれません。
通常通りにものが動くということのありがたさを、噛みしめる時なのでしょう。

2012-07-07(土)

幸福

世界一幸せな国といえば、まず最初にブータンの名があがります。しかし最近のアエラを読んでいたら、それもままならないという実感を得ました。
人間の欲望には限りがないというのが、今の感想です。あれだけものを欲しがらずに生きてきた人々も、さすがに情報化社会の波には勝てません。
知ればやはり欲しくなるのです。以前なら誰もが貧しかったのです。その差は僅かなものでした。だから欲しいという気持ちもわかなかったに違いありません。
しかし今はネットの時代です。あらゆる情報が瞬時に入ってくる。富の偏在もすぐにわかるということになります。
学歴の高い者が高給を得ることも知りました。さりとて自分の身を振り返れば資力が十分にあるとも思えません。
以前ならそこで自分の「分」というものを知り、諦めました。ある意味で信仰とともに諦念こそが、世界を形作っていたのです。だが現在はそうではありません。仕方がないから自動車を購入する際に高い税をかける。そのことで多くの人々には縁遠いものとなるでしよう。
それでも人の欲望には際限がないのです。以前チベットの空の上を毎日飛ぶ飛行機を眺めている少女の話が、テレビで紹介されていました。
今は首都に行って働き、自分もいつか飛行機に乗りたい。ここでの生活には未来がないと彼女ははきはきと答えていました。
知ってしまうということはつらいことです。だからといって愚かなままでいればいいということにもなりません。
本当の幸福とはなにか。自分のいる場所で輝きなさいという言葉があります。まさに「知足」ということにつきるのでしょう。しかしそれを行うにはあまりにも世界が早く、小さくなりすぎました。

2012-04-22(日)

愛嬌

今日の新聞に「仕事力」と題して内田樹が短い文を載せています。面白いと思いました。学ぶ姿勢のある人間は伸びるというのです。確かにそうしたことは言えるでしょう。何にも興味、関心のない人間には伸びしろがないのです。
その中で、彼は学ぶ力を伸ばすには3つの条件が必要だと述べています。
その第一は不全感です。自分が無知であるという自覚。多くのことをこれからも学び続けていかなければならないとする飢餓感。
その第二は欠如を埋めてくれるメンター(先達)を探し当てられる能力を持っていることです。自分を一歩先へ進め連れて行ってくれる人ならば、生きていても死んでいても、全ての人がメンターになりうるというのです。
さらに第三は素直な気持ち。他人がどうしてもこの人には教えてやろうと思わせるだけのものを持つことです。これを内田さんは「愛嬌」と呼んでいます。素直な気持ちで教えてくださいと傍らに寄ってきた人を、邪険にするということはありません。
むしろ自分の持っているものをなんとかして、相手に教えてやりたいと思うのが普通でしょう。教えてもらいたいと心の底から願えるだけの心の飢餓感をもてるかどうか、それが試されているのかもしれません。
本当に学びたいという人たちには、確かに愛嬌と呼べるものがあります。それは自らが至らない者であるという自覚に支えられているからです。
そうした時、人は謙虚になります。それが愛嬌に繋がるのです。年齢も社会的地位も、なにも関係がありません。学びたいとする人としての根本的な欲求がなぜ美しいのか。そこにこそ、まさにこの不思議な力が宿っているからに違いありません。
朝、いい文章を読みました。

2012-03-29(木)

フェイスブック

大変な世の中になったものです。インターネットの時代だなとしみじみ思います。デジタル・ディバイドという言葉がありますが、この装置に対する理解がなければ、これからの時代を過ごしていくことは無理だと感じます。時代はメールのレベルではありません。
あらゆる場面にネットが登場しています。銀行の預金管理、株の売買、確定申告、商品の売買、オークション、SNS、データのクラウド化。考え出すときりなく出てきます。
今や、宇宙の観測も地震の予知もネットで知る時代になりました。
そんな中でぼくがSNS始めたのは、今から何年前でしょうか。ミクシィが全盛でした。ここにくればかなりの交友範囲を設定できました。ただし実名でないだけに、本当のところはなかなかわからなかったというのが実情です。誰が見たかという足跡がつくのも厭でした。
その後フェイスブックが登場し、ツィッターと並んで、今や世界中の人が使っています。災害の現場でも現実に力を持ちつつあります。ぼくもなんの気なしに始めたところ、あっという間に多くの人と知り合いになりました。最初は仮名で試みましたが、実名に変えたころから、急激に広がりを見せました。
かつての教え子たちが今、何をしているのかが瞬時にわかります。メール機能もついているので、すぐに連絡も可能です。写真や動画を見ているだけで、彼らの日々の暮らしがどのように進んでいるのか、手にとるようにわかります。
すごい時代になったというのが、実感です。
しかし同時にたくさんの問題を抱えていることも事実です。多くの人々に自分をさらけ出すことが、どこまで安全なのか。不安がないわけではありません。
これからの時代は時も場所も関係なく、果てしなく人間のつながりが広がりをみせていくのでしょう。国境の意味を感じないといえなくもありません。しかし現実に会える人間の数は限られています。現実の日常にそれほど劇的な変化があるわけでもありません。
自分自身をさらすというもう一つの非日常的な芝居に飽きた時、人はどこに向かうのでしょうか。
繋がることのすばらしさを知ると同時に、不安を覚えなくもない昨今なのです。

2012-01-22(日)

シンプルライフ

ドミニック・ローホーという人を知ったのはある語学番組ででした。それまで全く気にとめたこともなかったのです。少し調べてみると、かなりの本を昨年出版し、そのどれもがベストセラーになっているらしいのです。早速興味を持ち、ちょっと書店を覗いてみました。
どれもがそれほど厚い本ではなく、すぐに読めてしまいます。しかしこれをここに書かれている通り実践するのは、かなり大変だろうとすぐに感じました。
近年、「断捨離」という言葉をよく耳にします。不用なものを捨て、自分の身の回りを軽くしようという試みです。それだけ日本人は多くのものを持ちすぎているのかもしれません。
なぜなのでしょう。これはなかなかに難しいテーマです。
ローホーさんの意見によれぱ、持たないこと、あるいは持てないことに対する恐怖心からきているのではないかというのです。何もないところから這い上がってきた世代の人にとっては、なおのこと、持っているということが安心感の支えでもありました。しかし今や、持たないということが一つのステータスになりうる時代になったのかもしれません。
ローホーさんはいいます。日本のデパートは美しすぎ、何も買わないで帰ってくるということができないと。
それならばどうしたらいいのか。結論は簡単です。行かなければいい。お金を持っているとつい買いたくなります。カードも同様です。そういう装置として、業者はクレジットカードを持てと勧めるのです。
ということは買わなくても済むものを無理に手に入れようとしないということにつきます。
あるいは必要なものの数をつねに計算し、それ以上に買わないということでしょう。しかし言うは易く行うは難しです。
彼女の著書にはさまざまな表現が満ちあふれています。
「大事なもの以外なにもいらない」をつねにおまじないにして生きるなどというのはどうでしょう。
あるいは「少なく」が「多く」をもたらすことを現実に実感してみるというのはリアリティーがあるでしょうか。
彼女の家には本当にものが少ないようです。低いテーブルと椅子、それに食事をする時の場所があればそれで十分だと言います。
石の家よりは木の家、壁には絵画をかけないそうです。そうしたものにはなんの変化もありません。それよりも花を置いておくと、時の移ろいを感じるとか。さらには光と影を大切にし、お客様のたたずまいこそが、その日の部屋の風景を一変させる最大の要素だとも話しています。
こうした生き方がフランス人に特有のものなのか。あるいはこれからの日本人にも通用するものなのか。これからも検証し続けていきたいと思います。

2012-01-04(水)

ほどほど…

精神科医、香山リカと社会学者、橘木俊詔との対談集『ほどほどに豊かな社会』を本屋でつい立ち読みしてしまいました。タイトルが気になったからです。なるほど、ほどほどの社会をこれからは目指して生きていく以外に道はないと日頃感じていたからかもしれません。
内容にこれといった目新しさはありませんでした。肩の力を抜いて喋りたいことをただしゃべり、それを本にしたという程度のものです。
しかし「中庸」という言葉の意味をもう少し考えなくてはいけないと実感しました。
去年起こった津波や原発事故はあまりにも自然や、科学の怖ろしさを甘くみていた故の惨事ではなかったでしょうか。必ずいつかは起こりうることが、絶対にないと信じこまされていたからこそ、その衝撃も計り知れないものがあったのです。
絶対などというものがこの世にはないという、ごくあたりまえのことが目の前で証明されました。同時に人間のはかなさも感じました。
ここから立ち上がるには、何を手にすればいいのでしょうか。そのひとつが、「ほどほど」という言葉ではないかと感じます。
世界が富を追い求め、あくせくしていく中で、幸せをどこに見いだすのかということもあらためて考えなくてはならくなりました。ぼくたちにかせられた大きな課題です。
ちなみにブータンは世界で一番幸せを実感している国という話です。しかしそれも現代文明を十分に知らないからこそという側面を持っています。
皆が車社会の恩恵を味わうようになったら、今の幸福感を保てるのかどうか。先日チベットの少女へのインタビューで聖地ラサと上海とどちらに行きたいと訊ねたら、上海と胸をはって答えていました。草原のはるか上を毎日飛行機が飛んでいきます。200人も一時に乗れる乗り物があるということなど、信じられないと呟く少女の中にも、既に大きな変化が訪れているのです。
だが、もうこれ以上便利にならなくてもいいというところまで、人類が来ているのも事実です。
どれほど電子機器が人との距離を縮めたといっても、心の距離がそれに正比例して近くなったというわけではありません。
ほどほどの社会を築いていくために自分がやれることはなにか。新年にあたって、そのことをあらためて考えて続けていこうと思います。
ぼくたちは今、本当に難しい時代を生きています。

2011-11-13(日)

ご理解とご協力

毎朝、電車の中で聞かされる文句がこれです。だいたい携帯電話を車内で使わないでくださいというお知らせです。最後に必ず乗客の皆様のご理解とご協力をお願いしますと車掌さんは呟きます。
勿論とりたてて不平はありません。アナウンスの内容は至極まともなものだからです。本など読んでいる時、近くで携帯電話などを使われるのは誠に迷惑です。それは全くそうなのです。
しかしどうもこの「ご理解」「ご協力」の2字には愛着が持てません。確かに理解をして、協力をしなければならないのはもっともなのです。反対はできません。
それでもこの言葉にはどこか有無を言わせぬ権威のようなものを感じます。慇懃に呟いているだけに、かえってそう感じるのかもしれません。これくらいのことは理解できるだろう。だったら必ず協力しろよと背後から囁かれているような気さえするのです。
これはぼくだけの僻みかもしれません。そんなことは毛頭考えず、ただ挨拶の一環として喋っているだけに過ぎないのかもしれません。
しかしこの表現の出てくる場面を思い出すと、これでも不平があるのかという時にだけ、使われているような気がして仕方がありません。
いつも理解できるわけではないし協力もしたくないと思いつつ、しかしそれは人間として許されないことだと、皆が認識しているシーンだけに特有な表現のように思えます。これは考えすぎなのでしょうか。
世の中には理解も協力もできないことが、山のようにあるような気がして仕方がない昨今なのです。
やはりこれは僻みなのでしょうか。あえて言えば、言葉の暴力に近いような気もするのですが。

2011-09-20(火)

気仙沼その後

前々任校で教えた生徒が某テレビ局のディレクターとして活躍しています。2年前にはドキュメンタリー部門で最高の賞を獲得しました。それは嵐の日の気仙沼港の様子を実に温かい目でとらえたすばらしい作品でした。何度も放送されたので、きっと見た人も大勢いることだろうと思います。
彼女の感性の鋭さが見事に結実した傑作でした。嵐の日だからこそ、漁師達は上陸し、いつも以上に自然な表情をみせます。風呂屋の番台に座る女性とは20数年のつきあいです。俺たちの裸をずっとみてるからなと日焼けした男達は笑います。
一方、バーのママさんは、寄港した船の乗組員に次々と携帯電話をかけ、一本釣りをします。また浜のすぐそばにある古いトラックの荷台を改良した店には、たくさんの漁師たちが、経営者の女性の顔を見たくて会いにきます。一杯のんだり、肩こりの薬を塗ってもらったり、さながら彼らの母親そのものでもあります。
そうしたごくささいな日常を彼女の目で切り取ったこのドキュメンタリーにはたくさんの優しさがこもっていました。浪人せざるを得なかった時、何度も彼女をバスの中でみかけました。単語帳を必死でみつめていた横顔が忘れられません。人一倍の頑張り屋でした。
その彼女が東京に転勤したという話をきいて、しばらく後、津波が気仙沼を襲ったのです。彼女は再び、取材を試みます。カメラに写ったかつての人々に出会うため、気仙沼に赴きました。
そこで見たものは瓦礫の山と茫然と佇む人の群れだったのです。それでもあのお風呂屋さんを訪ねます。
ボイラーも潮につかり、再建には2千万円がかかると告げられます。60才を遙かに過ぎた主人は廃業も考えていました。
さらに飲み屋を再開したものの、気仙沼に上陸できない漁師たちは、ママさんがいくら携帯をかけても店にはやってきません。
改装したトラックで商売をしていた女性は、流されたトラックを廃棄し、自分は仮設住宅で今後の生き方を模索せざるを得ないのです。
あの日から全てが変わってしまいました。それでもなんとか生きていこうとする人々の横顔をカメラは追い続けます。もう生きることに疲れたと述懐する女性を責めることはできません。
昨日、放送された気仙沼の状況はとても復興していく町のそれではありませんでした。カメラを回すのもつらかっただろうと思います。少しだけですが、彼女の後ろ姿も映っていました。お風呂屋さんの奥方と抱き合うシーンも印象的でした。
ディレクターとはいえ、長い間の取材で心が通い合っていたのでしょう。救いがない状況だけに、事実をありのまま伝えようという気概を感じました。これからどのような方向で取材を続けていくのか。あるいは東京に戻り、また別の方面に活路を見い出すのか。それはいずれ彼女自身が決めることです。
頑張っているかつての教え子のつくった映像が、少しでも人々の力になればと祈らずにはいられませんでした。ていねいな取材が相手の心の襞に分け入っていく様子が手にとるようにわかりました。

2011-07-31(日)

畑の向こうのヴェネツィア

仙北谷茅戸さんという人が書いた『畑の向こうのヴェネツィア』(白水社)という本を午前中読んでいました。
なんとなくこの名前からいかめしい男性の姿を想像していたら、そうではなく女性のようです。15才の頃、父親に連れられ1年間ヨーロッパで暮らした後、日本に戻ってこられた方でした。
大学でフランス文学を学んだ後、ロータリー財団の奨学金を得てイタリアのヴェネツィア大へ留学。このあたりから彼女の感性がさらに研ぎ澄まされていったような気がします。
友人の数はそれほど多くはなかったようですが、同室で1年以上もたえず一緒に暮らした女性とは、一生の友人になったと述懐しています。
その後もそのまま日本語を教えるという仕事についた彼女は、ヴェネツィアに住みつきます。
現地で結婚して子供をもうけ、彼らとはそれでも日本語で会話をする習慣だけは捨てませんでした。父親や祖母とはイタリア語、母とは日本語というバイリンガルな日常を、子供たちは器用に使いこなします。
日本に一度戻った時も、子供にあまり生活上の齟齬はありませんでした。言葉というのは本当に不思議なものです。
この本の中はほとんどが思い出に彩られているので、特筆すべきなにかがあるというのではありません。ただいつか海に沈んでいくこの街に対する愛情が色濃く描かれています。
細い路地から路地を歩く時の楽しさ。雪が降り積もった冬のゴンドラの風景。遠くに見える鐘楼も、そして鐘の音も全てがこの街の財産です。
現在も現地の大学で日本語を教えているという筆者の日常が透けて見えるいいエッセイだと思いました。
こういう本をソファに寝そべりながら読んでいられる時間こそが至福の時ではないでしょうか。
ヴェネツィアは何度行っても魅力的な場所であることに間違いはありません。

2011-06-26(日)

僕ならこう考える

吉本隆明の本はどれも難解です。学生の頃、必死で『共同幻想論』などを背伸びして読みました。しかし一番心に残ったのはなんといっても彼の詩です。その中でもイザベル・オト先生とミリカという少女との間で苦悩する『エリアンの手記と詩』はぼくにとってかけがえのないものになりました。
あれからかなりの年月が過ぎ、今はもうそれほどに難しい本を読もうとは思いません。彼が夏目漱石のほぼ全ての小説を解説した『夏目漱石を読む』などが一番気にいっているでしょうか。
ここにあげた『僕ならこう考える』というのは実に軽い本です。若者の悩みにインタビューの形で答えたものをまとめただけのものです。
しかしなかなかに含蓄があってさらりと読めるのにもかかわらず、心に残りました。つい最近、再読をした時も印象はあまりかわりませんでした。
その中でも一番気にいったのは、人は2才までにどのように育てられたかで、その人の人間観、人生観のほぼ全てが決定されてしまうというものでした。彼は三島由紀夫や夏目漱石、太宰治などを例に出して、解説しています。
あたたかい環境の中で育てられた子供はけっして横道にそれることはないというのです。その後は無理になにかを学ばせるのではなく、その子供の潜在的な能力に任せる以外はないというのが、吉本の基本的な考えです。親にできることはほとんどなく、あとはただ見守るだけだというのです。
事実、そのようにして子育てをしてきたというのが、父親としての現在だそうです。また、どこかに必ず一人は伴侶になるべき人がいると信じることも大切だと言います。まだ出会っていないのならば、待ち続ける以外に方法はないと断言しています。
これはある意味、諦念とともに自分を投げだした一つの形なのかもしれません。逆にそれだからこそ、長い時間、強く己を保ち続けていられたとも言えそうです。

2011-04-25(月)

無常

今度の地震で、世界を驚かせたことの一つに、日本人の我慢強さがありました。他の国だったらありえないほど、冷静で沈着な行動が目立ったという報道がなされ、今更ながらに日本人の持つ特性がマスコミにとりあげられたりもしたのです。
ニュースを見ていると、本当にこれだけひどい被害を受けながら、多くの人が黙ってその状況に耐えています。そしてふと漏れ出る言葉の中に感謝の気持ちがたくさんこもっています。
東北の人は我慢強いとよくいわれますが、それだけではやはりないと思います。
日本人の特異性がもしそこにあるのだとすれば、それはなんといってもこの国の民族の底に流れる無常観ではないでしょうか。あらゆるものは流れて同じ場所にとどまることはないという、あの仏教的無常観です。あるいは宗教を超えた土着的な感性といった方がいいのかもしれません。
そうしたものが通奏低音のように日本人の血の中に流れ続けているような気がします。
原発で働く多くの人たちも自分がやらなければという使命感に燃え、多くの健康被害を抱えつつ、難問に挑んでいます。もちろん、人災であることは歴然の事実です。しかしそれもこれも無常というキーワードを当てはめてみると、見えてくる風景があります。こうした感受性が若者たちの中にもあるということにも驚かされました。
やはり血は水よりも濃い。今回の災害を通じて、そのことをあらためて感じたのはぼくだけでしょうか。

2011-03-20(日)

遠い風景

悪夢のような大地震から一週間が過ぎました。余震に悩まされながら、それでも随分と揺れなくなってきたなというのが、今の実感です。最初の頃はあまり頻繁に地震があるので、なんだか船に乗っているような、不思議な気分がしたものです。
翌日からは電車が動かなくなったり、計画停電が始まったりと目まぐるしいことでした。真っ暗でヒーターもついてない電車に乗るというのも、滅多にないことです。
それもこれも全てはあの地震が原因なのです。揺れだけだったら、被害がこれほどに拡大することはなかったでしょう。津波の怖ろしさを改めて実感しました。
一つの街が目の前で消えていくという光景を自分の目で見た子供達はきっと一生忘れられないに違いありません。一種のトラウマになってしまったことと思われます。
つまり確かなものはなにもないということです。それまで自分が因って立っていた大地すら、沈下し水の中に消えていくのです。
あれ以降、風景が以前より遠くなった気がします。自分が見ているのはひょっとすると幻影なのではないかとさえ思うこともあります。
あるいはいつ崩れても不思議はない不確かなものとして、そこにあると感じます。
『方丈記』を書いた鴨長明は地震や火事の様子を実に細かく描写しています。無常の世を生きた人にしてはこの世に対する執着も並々でなかったのです。
遠い風景の中を歩いている自分と周囲の人々との距離感をこれからどう考えていけばいいのか。あちこちの避難所で感謝の言葉を述べている人々のなんとけなげなことでしょう。ただ頭が下がります。甘えることをしないで生きてきた人達が、はじめて他人に甘えることを許された光景でもあります。
以前より霞んだ風景が広がるこの3月の後半。
春を待つ人々の心に何が宿っているのでしょうか。奢りに対する反省もあるでしょう。家族への信頼、命に対する感謝。あらゆる感情をもう一度自分の中でゆっくり見つめてみたいと感じました。

2010-12-28(火)

歌は世につれ…

昔から歌は世につれ、世は歌につれと言います。しかし前半が真実に近いのに対して、後半はさてどんなものでしょう。
先日、なかにし礼がNHKで3時間にわたって歌謡曲史を語った番組を見て、あらためてそう思いました。軍歌、戦時歌謡から戦後の歌まで、その変遷はあまりにも急激です。
シャンソンの訳詞をしていた彼がいつの間にか歌謡曲を量産するまでになった話は聴き応えがありました。
しかしかつてスターと呼んだ雲上人がいなくなった現代において、歌謡曲と言われるジャンルは急速に衰退しています。
少し以前に自由に音楽をつくりそれを販売できる今のような時代が来るとは、誰も予想できなかったでしょう。音楽に携わるあらゆる人がレコード会社専属だった時代から、音楽出版というものをつくりあげた渡辺プロに今や昔日の面影もありません。
フォーク全盛の時代もとうに去り、ダウンロードが販売の主たる形態になっています。KポップやAKB48に代表されるような、ある種のしかけを通してしか、今や音楽の最前線に出会うことはありません。とうに音楽から人の哀しみが抜け落ちてしまいました。
世の中がそのように変化しているからです。けっして世の中が歌にあわせて変化しているわけではありません。
これからいわゆる歌謡曲と呼ばれるものがどこへいくのか。それを見ていくことが、世の中を知ることと同義になりうるのかどうか。もうしばらく時間がかかりそうです。
テレビ局が全てを牛耳っていたかつてのスター誕生番組が消え、フォークが消え、サザンオールスターズがなんとか息を長らえ、さらにジャニーズ事務所が新しいアイドルを量産し、Kポップが隆盛し、その隅で演歌が細々と生きています。
聴衆の前で歌うことなく、ただ口をあけているだけなのに、それでいて人気があるという女性グループさえあります。
ポップスに哀しみはいらないのかもしれません。人の中に哀しみがあふれかえっているからなのでしょうか。
美空ひばりのいた昭和はとうに彼方へ去ってしまいました。

2010-11-20(土)

鴎外の恋人

舞姫は面白い小説です。何度読んでも不思議な味わいがあります。近代的自我が崩壊する図式を描いた小説としての定評もありますが、授業をしていると実にいろいろな発見があります。
さらに筆者、鴎外森林太郎の生き様の中でよく語られる、彼の遺言にも興味がひかれます。「余は石見人、森林太郎として死せんと欲す」というあの言葉です。事実、彼の墓には陸軍軍医総監などという階級をあらわした文字もありません。
なにがそこまで彼を頑なにさせたのでしょう。
その秘密を解くカギがNHKで昨日放送されました。
それは『舞姫』の中に登場するエリスの実像に迫ろうとする番組でした。詳細は番組そのものに譲るとして、今までさまざまに言われてきたエリスの正体をほぼつきとめたことによるものです。
それによれば、鴎外がドイツから戻ったその4日後に横浜に着いた15才の女性アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトがその人だというのです。
謎をとくカギはハンカチなどにイニシャルを組みあわせた記号を刺繍する際に使う型金にありました。ディレクター今野勉氏の洞察は実に興味深いものです。
その真実を極めるべくドイツに飛んだスタッフの前に、次々と知られていなかった事実が明らかになります。
ルイ-ゼがなぜ乗船名簿の名前を少し違ったものにしたのか、またわずか15歳の少女が一等船室を使えた理由などを当時の住所録、親の結婚にまつわる教会の証明書、さらには乗船記録、旅行時の法律など、さまざまな角度から調べ上げました。
それによれば相続した財産により、高額の渡航費もルイーゼの祖父が所有していたアパート10数室の家賃2カ月分で賄えることを突き止めたのです。
鴎外はおそらくこの少女と暮らしていたものと思われます。しかし当時の陸軍は外国人との結婚を認めていませんでした。それを知っていてもなんとか説得しうると思ったのでしょう。
ところが一番の関門は母親でした。一時は軟化したそうですが、私をとるのか、あの娘をとるのかといわれ、ついに諦めざるをえなかったのです。帰国のための旅費なども含めて、森家はまたかなりの借財を抱えることになりました。
この後すぐに男爵令嬢、赤松登志子と結婚。しかしまもなく破綻します。鴎外が次女に杏奴(あんぬ)、三男に類(るい)としたのはルイーゼの名から取ったと想像されるという意見も興味深いものでした。時代に翻弄され、国家につぶされそうになった森林太郎が最後に守り得た場所が、唯一、石見人森林太郎というアイデンティテイだったのかもしれません。
考えてみれば、人の一生はあまりにも複雑な陰影をおびているものです。鴎外の作品をこれからも続けて読んでいきたいと思いました。

2010-10-16(土)

ごきげんな人

ごきげんな人についてある医者が書いている記事を読みました。今月号の文藝春秋です。機嫌のいい人というのは基本的に長命なのだそうです。これだけストレスの多い時代に、いつもきげん良くいるためには、ある種の才能が必要なのかもしれません。
笑っていると、他人が集まってきます。楽しそうだからです。すると笑っていた本人は以前より楽しさが倍増するそうです。性格まで自然に明るくなっていくとか。結局人間とは他人の目に映った自分を見て生きる脳髄なのかもしれません。
他者の目にどのようにうつるのか。それが実は一番大切なことでもあるのです。太宰治の『斜陽』にはいくつもの独白が出てきます。その中で一番有名なのは、主人公の遺書です。そこにはいつもはおまえは道化のようだと言っていた人々が、主人公が本当に苦しんでいる姿を見て、どうせ苦しいふりをしているだけだと呟いたということが書かれています。
これはある意味で、人間の真実を描いています。道化ということを人一倍意識していた太宰にははっきりと見えた風景なのでしょう。
人間の本当の姿は他人には結局認知できないものなのかもしれません。しかしでは自分にはわかっているのでしょうか。それも曖昧な要素が多いのです。そこに複雑な人間の本質があります。
とすれば少しでもごきげんな状態でいる時間を長く持つことで、他人との関係を円滑にするしかないのでしょうか。
医学的にいうと、気むずかしい人とごきげんな人とでは寿命が平均10年違うのだそうです。楽天的というのとも異なりますが、どこか「ごきげん」という表現には今の時代を象徴しているある種の本質的な生き難さをも感じます。

2010-08-12(木)

高校中退

青砥恭という人の書いた『ドキュメント高校中退』を読みました。実に救いのない本です。
貧困が全ての原因であるといってしまえばそれまでですが、ここまで話が煮詰まってしまうと、もうどこにも脱出口が見えません。
格差問題が語られて久しくなりました。昨今は本屋さんへ行くと、この主題の本が実にたくさん出版されていて驚かされます。
以前は収入の格差、学歴の格差などが日本をどのように覆っているのかというのが、メインテーマでした。最近では女性同士の格差や、希望そのものの格差にまで言及されています。ジニ係数という特殊な関数を駆使して説明をしていた頃は、まだゆとりがあったのかもしれません。
しかし今はそれも遠いことのように思えます。
正社員になれない人の数が急激に増え、さらには学校を卒業しても就職できないという昨今の現状まで報告されています。
それでも大学まで行けた人はまだましなのかもしれません。
高校に入学しながら、わずかの期間に中退してしまう生徒の数が大変多いのです。
その原因の大多数は貧困にあると著者は言います。なぜ高校をやめるのでしょうか。中退の連鎖は以下のようになります。
低学力、学習意欲の欠如、生活習慣のなさ、人間関係の未成熟、もの、動物、性行動への依存、親からのDV、貧困層の囲い込み政策、やめさせたがる教師。
これらが連鎖環となって襲いかかるのです。少しでも家庭に教育力がある家の子はやめません。一度でも他人に褒められた覚えがあれば、あるいは親の愛情が感じられれば、なんとか踏みとどまります。しかしそれなしに生きてきた子供達は、あっと言う間に野に出ていってしまうのです。
中退した後の現実はさらに悲惨です。
正社員につくことは事実上不可能です。
男子と女子ではここから、大きく人生の形をかえていきます。
公立高校は今年から授業料が基本的に無料になりました。しかし体育着、修学旅行費、遠足代、教科書代、通学費など、かなりの費用が必要となります。
入学式の日までに制服が買えず、退学していく生徒もいるというのがこの国の現実でもあります。
全てが自己責任という、甘い言葉で覆えるような現状ではないでしょう。一方で教育費をふんだんに使える家庭もあります。ますます格差が広がるというこの国の現実をどう考えたらいいのでしょう。
読んでいて頭が痛くなりました。
以前からこの国に格差はありました。しかし今のこの差にはどこか不気味な表情がまとわりついているような気がしてなりません。

2010-05-08(土)

言の葉

詩人茨木のり子の本『言の葉』を読みました。詩人というのは不思議な感覚を持った人たちです。言葉に対する感受性が並々ではありません。普通の人なら脇も見ずに通り過ぎてしまう日常の言葉の中から、光りの束を一つづつ紡ぎ出していく人達なのです。
この本は前半が詩、後半がエッセイで構成されています。詩の部分には懐かしい詩ばかりが収録され。あらためてこの詩人の言葉の世界が豊穣であることを感じました。
「詩集と刺繍」というタイトルの詩は実にユニークでありながら、言葉の本質をうまくついています。

詩集のコーナーはどこですか
勇を鼓して尋ねたらば
東京堂の店員はさっさと案内してくれたのである
刺繍の本のぎっしりつまった一角へ

そこではたと気づいたことは
詩集と刺繍
音だけならばまったくおなじ
ゆえに彼は間違っていない

けれど
女が尋ねたししゅうならば
刺繍とのみ思い込んだのは
正しいか しくないか

この詩はこれ以降も続きます。言葉で世界を紡いでいくことは刺繍につながるのかもしれない。この詩の中の一節に「二つのししゅうの共通点は、天下に隠れもなき無用の長物」とあります。
まさに無用の用そのものです。役に立つとは何のことでしょうか。実利主義、効率主義優先の世の中にあって、詩が果たす役目はまさにそこにあるような気がしてなりません。

後半のエッセイの中では金子光晴の話が断然面白かったです。その彼の最晩年の言葉の中に、「ぼくが見舞いに行ったとき、ケロッとしてるのはたいてい治るね。ところがぼくの顔みてほろほろ泣くのがいる。そういうのはたいてい死んじゃう」という一節がありました。
茨木さんの夫君がこの時、糖尿と肝機能障害で入院していましたが、まさにこの話の通りになり、その後すぐに亡くなってしまったそうです。
彼女の夫の遺影の前で、「いまは八方ふさがりだと思うかもしれないけど、その人間になんらかの美点があれば、必ず共同体が助けてくれるもんです」と金子は呟いたとか。
それからしばらくして、この老詩人は鬼籍に入ったのです。
茨木さんはエッセイ集の中で、天皇制にも韓国語学習の話にも言及しています。どれも実に味わいのある、ああその通りだと感心させられてしまうものばかりです。
感受性を干からびさせずに生きていくことのなんと難しいことでしょう。そのことをあらためて強く実感しました。

2010-03-28(日)

言い立て

日本語の美しさ、面白さは言い立ての中にあるのかもしれません。
なんといっても歌舞伎の台詞は見事です。「弁天娘女男白波」の台詞などは聞いているだけで心地がよくなります。

知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂(まさご)と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ケ浜、その白浪(しらなみ=泥棒のこと)の夜働(よばたら)き、以前をいやあ江之島で、年季勤めの児ケ淵(ちごがふち)江戸の百味講(ひゃくみこう)の蒔銭(まきせん)を、当(あて)に小皿の一文子(いちもんこ)、百が二百と賽銭の、くすね銭(ぜに)せえだんだんに、悪事はのぼる上(かみ)の宮、岩本院で講中(こうじゅう)の、枕捜(まくらさが)しも度重なり、お手長(てなが)講を札附に、とうとう島を追出され、それから若衆(わかしゅ)の美人局(つつもたせ)、ここや彼処(かしこ)の寺島で、小耳に聞いた音羽屋の、似ぬ声色(こわいろ)で小ゆすりかたり、名さへ由縁(ゆかり)の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことさ

七五調の連続が実にみごとなリズムを作っています。

また市川團十郎のお家芸の中に『外郎売り』というのもあります。
これはよく演劇の滑舌の練習などにも使われますので、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
ぼくも何度か見ました。その度にどうしてあんなに長い台詞が覚えられるのか、不思議でなりませんでした。

拙者親方と申すは、御立合(おたちあい)の中(うち)に御存知のお方もござりましょうが、 お江戸を立って二十里上方、相州(そうしゅう)小田原、一色町(いっしきまち)をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、 欄干橋(らんかんばし)虎屋藤右衛門(とらやとうえもん)、只今は剃髪(ていはつ)いたして円斎(えんさい)と名のりまする。

というのがその最初の部分です。これはとにかく長大なものです。
他には啖呵売(たんかばい)などと呼ばれるものもあります。一番オーソドックスなのは、やはり「蝦蟇の油売り」でしょうか。これは落語の中にも出てきます。あるいは「寿限無」などもユニークです。
さらに最近稽古をしていて、面白いと感じるものの中に『金明竹』という噺があります。
突然、上方からやってきたお客が訳のわからないことを言い出して、それを理解できないまま、人に伝えるというディスコミュニーケーションを戯画化した噺です。

わてな、中橋の加賀屋佐吉方から使いに参じましてん。
先度(せんど)仲買いの弥市(やいち)が取り次ぎました道具七品のこってございます。祐乗(ゆうじょう)宗乗(そうじょう)光乗(こうじょう)三作の三所物(みところもん)。備前長船(びぜんおさふね)のじゅう則光(のりみつ)、横谷宗珉(よこやそうみん)四分一(しぶいち)ごしらえ小柄(こづか)付きの脇差、この脇差な、柄前(つかまえ)が鉄刀木(たがやさん)や言うておましたが、あれ埋れ木(うもれぎ)やさかい、木ぃ~が違(ちご)うております。念のため、ちゃとお断り申します。
自在は黄檗山金明竹(おうばくさんきんめいちく)ずんどの花活(はないけ)には遠州宗甫の銘がござります。織部の香合、のんこの茶碗、古池や蛙とびこむ水の音と申します風羅坊正筆(ふうらぼうしょうひつ)の掛け物、沢庵、木庵、隠元禅師(たくあん・もくあん・いんげんぜんじ)張りまぜの小屏風(こびょうぶ)、あの屏風なわての旦那の檀那寺が兵庫におまして、兵庫の坊主のえろう好みます屏風じゃによって、表具にやって、兵庫の坊主の屏風にいたしますとあんじょう、お言伝え願いとうおまんねんけど。

この噺を稽古しながら、音楽と同じように覚えればいいのだと気づきました。メロディとリズムで覚えるのです。中に出てくる人名や品名はいずれもたいそうなもので、研究をすれば実に内容豊かなものです。
しかし噺を覚える段階では、そういったことを度外視して、まず音から入ります。
さらにこれから稽古しようと思っている噺に『黄金餅』というのがあります。古今亭のお家芸です。その中には次のような台詞が出てきます。

下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私もくたびれた。

これも大変に覚えにくいものです。町と通りの名前が多いので、なかなか差をつけにくく、そのために難渋するのです。しかし言葉のリズムの良さは絶品です。
このようにして、日本語独特の味わいというものを声に出して語るということはとても楽しいです。
『声に出して読みたい日本語』という斉藤孝の本がしばらく前に随分売れました。やはり、この国の言葉には不思議な生命と言霊が宿っているのかもしれません。
これからもできるだけ、楽しい時間を持ち続けたいものです。

2010-03-16(火)

雪国

久しぶりに『雪国』を読み返しました。表現方法について授業を試みましたので、本文をもう一度読んでみたいと思ったからです。
結論からいえば、大人の文章だなとしみじみ思いました。表現に抑制がきいていて、それが登場人物たちの心の様子を自然と浮き彫りにさせます。
散文詩といってもいいかもしれません。島村と駒子の心の対比が実に見事です。島村という男の徒労感、それに対してどこまでも執拗に食い下がろうとする駒子。山あいの温泉場の情緒がこれでもかというくらいに色濃く漂っています。
表現は抑えてありますが、男女の愛情表現は細やかです。ぼんやり読んでいると、何が書いてあるのかわかりません。しかし丹念に読み込むと、そこに男女の愛情交歓の姿が仄見えてきます。
表現が直截的でないだけに、想像をいくらでもたくましくさせることができます。
場面転換においても雪をはじめとして、蜂などの登場も鮮やかです。また島村が次第に駒子を通じて葉子に心を動かすシーンなども、うまいなあと感心させられました。
清水トンネルを抜け、湯沢の町に入るあたりの表現は、日本文学にとっても貴重なものではないでしょうか。
島村を冷たい男だと断じることも可能でしょう。しかし彼が駒子の心を映す陰画となることで、さらに明晰な風景がそこに展開されるのです。
寂しい人間の心の内が、雪の白さに重なります。
鈴木牧之『北越雪譜』の一節が実に効果的に何度か登場しています。越後の人々の雪の中での暮らしを描いたこの随筆と、『雪国』の世界が重なり、なおいっそう澄んだ哀しみを生みます。
散文詩といっても過言でない、この小説が生まれる背景には、川端に繋がるたくさんの親族の死があったことを思わなければなりません。
終盤になって天の河をめぐる表現が何度も出てきます。その向こうにいくつもの人の死が想像できるのも、島村の孤独と徒労感のなせる業なのでしょうか。

2010-03-06(土)

捨て耳

面白い表現です。この言葉はどこからきたものなのでしょう。先日読んだ柳家権太楼の『大落語論』にも、彼の師匠の柳家つばめが書いた『落語の世界』にも載っていました。
捨て耳というのは、人と話をしている時に神経を別のところへたえず持って行く行為をいうそうです。
噺家の前座修行は実につらい理不尽なことの連続です。勿論、師匠方にお茶をいれたり、着物をたたむなどというのはあたりまえのことですが、その間に太鼓をたたいたり、座布団を返したりといくらでも用事はあります。
しかし言われたことをやっているだけでは評価されません。
つねに意識を先へ先へと働かせていなければならないのです。高座から芸人が降りてくるのに、太鼓の用意にとりかかれなかったとか、帰りの靴を出してなかったとか、ありとあらゆるところに神経を使わなくてはならないのです。
師匠方の靴も草履もみな似たようなものばかり。その中で、帰る方の靴をどうやって見分けるのかということも、立派な修行の一つになるのです。売れている師匠の靴は明らかに高そうで、いいものなのです。それを瞬時に見抜く目も必要です。
そこまであらゆることに心をつくせるということが、芸人として生きていく上でもっとも大切なことになるのです。
さらには楽屋内で仕事をしながら、先輩の話を聞き続ける。そして噺を覚え、独特の間を盗む。教えてもらって学んでいるうちは、まだ一人前とは言えません。ここに捨て耳の効用があるのです。
力のある者だけが生き残るというのは、人間のいるあらゆる場面において通用する鉄則なのではないでしょうか。
しかしいくら運をつかんでも、それをその次に伸ばすことができるのかどうかは、またその人自身に負うというのも厳しい現実です。
捨て耳という行為はどの世界にも通用する生きるための方法論かもしれません。そしてそのことを他人に悟られてはならないのです。
実はここが一番難しいのではないでしょうか。

2010-01-06(水)

冷えは万病のもと

『心もからだも「冷え」が万病のもと』という本を読みました。身体を冷やすことの怖ろしさについては、以前からよく言われていましたが、心を冷やすということについて、じっくりと考えたのは今回が初めてでした。
現代はストレス過多の時代です。会社でも神経を磨り減らし、家に帰ってもゆっくりとリラックスできないとしたら、これほど不健康な生活はありません。
家族との会話で、こころを暖められないというのは、なんと不幸なことでしょうか。
また肉体的にも冷やしすぎているというのがぼく自身の実感でもあります。夏の冷房。冷たい飲み物のとりすぎ。さらに薄着もおしゃれの観点からは必要なのでしょうが、そんなことよりまず冷やさないことが大切です。
このことは五木寛之の『養生の実技』にも書いてありました。腹巻きや靴下の2枚重ねなども有効だということです。
さらにこころを冷やさないこと。ストレスをためないことの重要性もまた実感します。現代は鬱の時代といわれています。誰もが憂鬱なこころを抱いて、日々を生きているのです。
楽しいことはすぐに消え去り、つらいことが急速に覆い被さってきます。どうしたらそれらをはねのけることができるのでしょうか。
一つの方法論はやはり「知足」ということでしょうか。足るを知るということが、どれほど人間のこころを安定させることか。多くを望めばかならずストレスはたまります。
だからといって夢を持つなということではありません。
さて肉体的には、関節を冷やさないということも、大きなポイントです。足首、首筋をたえずあたためておくことが肝要なのです。少しくらいの風邪ならば、首筋にあたたかい布を巻いておくだけでも、かなりの効果があります。
また生姜を上手に使い、発汗させることもいい方法です。
いずれにしても、こころと身体はいつも車の両輪のようなものです。どちらも冷やさずに、つねに暖めておくこと。
そのためには何をしたらいいのかということを、常に考えていなければなりません。幸せの形は皆一人一人違います。
それだけに「知足」への方法論もまた異なるのです。

2009-12-13(日)

落語論

コラムニスト堀井憲一郎の『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』の2冊を今回読んでいて、しみじみと落語はライブのものだと感じました。DVDはCDよりもなお、タチが悪いと彼は言います。
場の臨場感が抜け落ちた、いわば脂ののっていない秋刀魚を食べるのに喩えればいいのでしょうか。
なまじっか、映像があるだけにかえって悪いと言われると、なるほどそんな気もしてきます。
とくに近著『落語論』(2009年7月)はぼくにとって大変興味ある内容のものでした。
内容は三部に分かれていて、本質論、技術論、観客論からなっています。その中でも特に噺をする立場から書いた技術論の部分が出色でした。彼曰く、落語は音楽であるというのです。あるいは歌といってもいいのかもしれません。
あるリズムとメロディにのって心地よく異次元へ連れていく演者が最も優れているというのです。
音と言葉の二つの要素を「気」で他の世界へ運びます。それにはやや高めのキーの方が陽気な気分にさせるのです。
ただし自分の歌に酔いしれていては、よく聞こえません。登場人物が二人だったら、その話を聞いている裏の人物の時は、一定のリズムで打ち返してあげるという冷静な操作が必要になります。
いつも冷静な第三者の視点を持っていなくてはなりません。
さらに自分の芸が陽か陰かを知らなければなりません。どうやっても自分のカラーを抜け出すことはできないのです。それぞれの演者が持っている特製を最大限に生かすということでしか、噺の大成はありません。
漫才との違いは相手の話に本気で対立してはいけないところにあります。隠居が与太郎の話に本気でつっこむと、笑いが出なくなります。つねにゆとりをもって流していくのです。音楽で言うところの裏拍ということになるのでしょうか。
この裏拍が実は想像以上に大切なものなのです。ただの相鎚の場合も、それが大変必要なものとなります。
さらに複数の人を声で演じ分けないということもあります。無理に高い声を出したり、低くしたりすることはありません。
声の質をよく捕まえること、さらにブレスをどうとるのかによっても、客の気が変化していきます。一人一人の演者にはそれぞれ独自の間合いというものがあるのです。
客の緊張をつかんだら離さないために、間も必要となります。これもブレスと深い関わりがあるのです。
今、落語ブームだといわれていますが、いずれまた落ち着く時がやってくるでしょう。かつての江戸文化が失われつつある現在、ノスタルジーだけで、人が集まっているとは考えられません。
むしろそこに流れている時間感覚、人間認識に自然吸い寄せられていると言った方がいいのではないでしょうか。

2009-10-03(土)

エントロピー増大の法則

エントロピーは確実に増えていきます。このことだけは間違いありません。つまり秩序あるものは必ず崩れていくということです。
エントロピーとは乱雑さと言い換えてもいいかもしれません。ぼくの机の上にはさまざまなアイテムが並んでいます。もちろん一番場所をとっているのは大きなボックス型のコンピュータとモニター。これだけでかなりの位置を占めます。
しかしそれ以上に厄介なのが、その周囲にある雑多なものたちです。本もあればラジオもあり、これらは次々と机の上を浸食していきます。あるところまでいくと、どうにも仕方がなくなってまた次の行き先を求めるということになるのですが、それまでの時間が長い。
つまり最後には片付ける、掃除をするということになります。エントロピーの増大を防ぐということです。
机の中も全く事情は同じです。どこに何が入っているのか、もうほとんどわかりません。確実に秩序は崩れていきます。
さて自分の肉体となるとこれはどうなるのでしょうか。生命は常にあらゆるものの攻撃によって駄目にされています。次々と秩序は犯されているのです。
命はこのエントロピー増大の攻撃に常に抗わなければなりません。もう追いかけられてどうにもならないという時が、すなわち死を意味します。
死とはエントロピーが増大したあげくの究極の形です。
それではエントロピーは全く減少しないのかということも、考えたいテーマです。太陽の命はあと50億年と言われていますが、地球が生まれてから46億年、この星はずっとエントロピーを増大させてきました。しかしあと、50億年すると地球は消えてしまうのかもしれません。
その時にこの星のエントロピーは極大から極小に向かうのでしょう。それまでずっと大気汚染だとか、地球温暖化だとか叫び続けながら、ごみを排出し続けてきた運命なのでしょうか。
ただ宇宙全体の規模でいえば、地球が冷えて消滅しても、それがまた爆発し、他の星に対して新たなるゴミになる可能性はあります。
ということは宇宙にとってみれば、エントロピーは依然増大しているということになるのかもしれません。
ただし宇宙全体の膨張ということを考えてみると、そこでなんとかつじつまをあわせているということになるという楽観論もあります。
そんな先のことまで考える余裕もなく、とにかく机の上を整理し続けないことには、何も始まらないことに間違いはありません。とにかくゴミを捨てることです。これを別名、ぼくは一種の冗談でネゲントロピーと呼んでいます。

2009-09-12(土)

夢見たものは

作曲家、木下牧子の曲の中で一番有名なのは、なんといってもこの『夢見たものは』でしょう。もう一曲といわれたら『鴎』をあげる人も多いのではないでしょうか。それほどによく耳にする曲となりました。
ぼくもこの二曲には強い思い入れがあります。
ことに『夢見たものは』は曲もさることながら、詩がすばらしいです。立原道造の世界がそこに現出しています。小国寡民という表現が許されるとしたら、この世界はもう完全に独立した別の風景といってもいいのではないでしょうか。
おとぎ話にでも出てくるような幸せな場所が、美しい旋律とともに語られると、もう何の想像力も働かなくなってしまいます。
立原道造はかつて建築家でもありました。信州の高原を題材にした詩が多いのも、彼の特徴です。追分の油屋に長く滞在した話は今でも語りぐさになっています。
詩を紹介しましょう。

夢見たものは‥‥

夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて

田舎の娘らが 踊りををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢見たものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

美しい詩です。曲もすばらしいです。こういう世界にひたっていると、真の幸福というものは、それほど遠くにあるものではないということをしみじみと実感するのです。

2009-09-01(火)

欲深き

落語もまんざら捨てたものではありません。
まくらと呼ばれる噺の最初の部分だけでも十分に面白いです。
柳家小三治には『まくら』という本があります。これは抜群に面白い。もう文明批評と呼んでもいいものも数多く入っています。噺家はこのまくらで客の反応をみます。そして極端なことをいうと、その場で演目を替えたりもします。それだけにまくらを話すときの真剣さは並々のものではありません。
もちろん、演者はそのことを客に悟られてはなりません。
小三治の『まくら』はあまりにも評判が良かったので、続編も出版されています。一度手にとってみてください。
さて噺に入る時、よく引き合いにだされる川柳にも味わい深いものがあります。特に欲に目がくらんだ人物が登場する時に使うのがこれです。

欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を忘るる

実に含蓄のある表現ではありませんか。人間の欲望には際限がありません。そのことが人生を大きく狂わせる材料ともなります。
あらゆる犯罪には欲望がからんでいます。
捨てる勇気、諦める勇気も同時に必要です。しかしそれを実行することのなんと難しいこと。
シンプルライフを実践した人だけに広がる心の平安を想像してみることが大切です。ものを持って幸せになった時代はとうに過去のものなのかもしれません。

2009-07-22(水)

マニュアル

誠に便利です。新人を教育する時には、この通りやればとりあえず形になります。しかしそれで終わりということになってしまうと、実に索漠たる気持ちになるのです。
これはある落語家がよく噺のまくらで使うマニュアルばかのネタです。
その師匠がある日、楽屋にいる若い前座さんのために、とあるハンバーガーショップに立ち寄ったと思ってください。そこで彼は30個ばかり注文しました。
いつものようにその店員さんはありがとうございます、とはきはきした声で挨拶をしました。そこまではいいのです。その次の台詞が実に「こちらでお召し上がりになりますか」というものだったとか。
まさか30個のハンバーガーをたった一人で食べる訳がないじゃないかと彼は高座で吠えておりました。
さらに、コーヒーを注文すると、こちらコーヒーになりますと呟いたとか。またまたその噺家はかちんときて、コーヒーになるということは、その前はなにか別のものだったのかとつい訊きたくなったそうです。
ひとつひとつの言葉を大切にしている落語家だからこそ、気づく様々な表現のおかしさということなのでしょうか。
今日もとある店に入り、コーヒーとパンを注文したら、ごゆっくりどうぞと挨拶されました。このお店は入り口にさまざまなパンを置いて、お客が勝手にトレイにのせてとる方式になっています。そこまではいいのですが、いちいちパンが焼けるたびに、その商品についての解説をし、あたたかいうちにどうぞというようなことを店員が一斉に呟きます。時には誰かのいうことを復唱したりもします。
マニュアルがあるらしいということは、しばらく店の中にいれば、誰でも気づくのです。
毎回、同じことを言うので、なんとも不思議な光景に見えて仕方がありません。
自分で全てを誰にも言われる前に気づき、行動するということは大変な努力を要します。それを短時間でこなすためにあらゆるマニュアルが必要となるのでしょう。
しかし真のサービスは、その彼方にあるということもまた事実なのです。何かを注文するたびに、「よろこんで」と叫ぶ居酒屋チェーンや、ドアを開けると「ようこそ」と挨拶するファミリー・レストランもまた異様な風景です。
客が正面玄関に現れるたびに、ごく自然に応対し、時にはそのお客の名前を口に出して迎えるというホテルのドアマンの話をいつかテレビで見た記憶があります。
さらに部屋に残していったたった一枚のメモでも、必ず捨てずに保管しておくというある老舗ホテルの話を読んだこともあります。
その一枚のメモ用紙が、お客様にとってどれほど大切で意味があるものなのかまで、想像した末の行動だとか。
たかがマニュアル、されどマニュアルなのかもしれません。

2009-07-05(日)

セグメンテーション

かつて勤めていた頃、ある会社のマーケット戦略について記事を書かされたことがありました。もちろん、そういう類の勉強をしてこなかったぼくとしては、全てが新しい課題だったのです。
取材の前の準備段階として、本屋さんに飛び込み、片端からマーケット関係のキーワードを探してまわりました。とにかく横文字が多く、こうした分野の研究はアメリカ主導なのだというのを実感しました。
その時、学んだ言葉の一つがこのセグメンテーションという表現です。分割するという言葉がなぜ大切なのかといえば、それによってマーケットの質が劇的に変化するからです。
そこに潜在する客層のニーズにあわせて、こまかく丁寧に商品を展開していくことが、最大の眼目でした。
幸い、この時の記事は上司にも高く評価され、なるほど大学で学ぶよりも、必死になって書店の棚の中を駆け回った方が、血になり肉になるのかなと自分でも納得したものです。
火事場の馬鹿力という言葉にもある通り、どうしても必要になれば、基本的なことぐらいはなんとかカバーできるものなのかもしれません。
よく言われることですが、何事もできないなどといわず、できますと言ってから始めても遅くはないそうです。少なくとも何もしない人よりは一日早くものごとが進められるのですから。
つまり他人より、どんな場合でも一日の長があるということなのでしょう。ポジティブ・シンキングと並んで、これは大切なことなのかもしれません。
さてここからは現在の文化状況についての話です。
マーケットがあまりにもセグメント化されすぎてしまいました。
その結果、人々はあまりにも狭い共通の話題だけが通じる蛸壺の中に閉じこもっています。かつて専門馬鹿となじられた研究者と同じ地平になぞらえることができるでしょう。
お互いに使う表現も違い、感情の表出の方法も違うのです。あえて言えばバカの壁に代表される「異文化非理解」路線です。
少しでも領域が違えば、何も共通の話題がなくなります。かつてのオタク文化よりも状況はもっと悲惨です。
ある作家を好む人が、別のタイプの作家のものを読むかと言われれば、それは残念ながらありません。こうして、全世代に共通して読まれる小説というものも消失しかかっています。
太宰治とか夏目漱石などというのは稀有な例かもしれません。しかし『人間失格』『こころ』は読んでも他の作品はどうでしょうか。同時代に似たような質の作家がいるのかといえば、もはや皆無です。かろうじて村上春樹の都市伝説だけが多くの世代にうけいれられています。
おそらく彼が最後かもしれません。あるいは彼がそこまでの浸透力をもっているのかどうか。それにもやや疑問が残ります。
軸のなくなった時代。共通の言葉を失った時代。
人々はますます自分の穴の中へ首をつっこみ、そこへ言葉を紡ぎ出さざるを得なくなっています。
マーケットのセグメント化が、ニーズの激しい変化を引き起こし、その結果として、あらゆる世代に共通する感情を喪失したと言えるのかもしれません。

2009-06-13(土)

現代落語論

今でもその本の装丁を思い出すことができます。三一書房のごくありふれた新書版でした。友人に借りた記憶があります。おそらく落語家が書いた本としては、かなり初期のものだったのではないでしょうか。
彼が20代後半に出した本だそうです。立川談志はその頃から一家言を持った落語家として知られていました。
この本は今ではもう絶版になっています。しかし噺家仲間や、好事家の間では半ばバイブル扱いされています。1965年の刊です。
今回どうしても読みたくて探しました。すると2002年に講談社から出た『立川談志遺言大全集』の中に全て所収されていることがわかりました。
さっそく読み始めたというわけです。実はこの本を上梓後、1985年に彼は第二部も書いてます。今回はそれもあわせて読みました。
巷間、イメージされている彼の風貌とはまた違う、照れ屋でいたずら坊主な少年の横顔もそこには見て取れます。
なんといっても松岡(彼の本名)青年にとって、落語は世界そのものだということです。たった一人で、この世に住む人間の業を表現する最高の芸術だと信じているということです。
これほどに落語を愛している噺家というのはそれほどいないのではないでしょうか。半ば意地になっても一人で本当の噺家になりたいと願い続けてきたのではないかと思います。
名人と呼ばれた人々の風貌を語るときの彼は、本当にうれしそうです。志ん生や文楽と同じ楽屋で同じ時間を過ごしたということが、何よりの勲章です。そしてその粋な名人の芸をわかってくれる人が減ったということを嘆いています。
師匠である五代目柳家小さんに対する信頼も厚いものがあります。師匠はどんな時でも自分をわかってくれるはずだという絶大な信仰に近いものを持っていました。
後に袂をわかち、師匠の元から離れることになりますが、それでも自分は小さんの弟子だという自負はけっして弱くなることはありません。
落語というのは赤の他人に、自分の持つ全ての芸を無料で教えるという不思議な世界の産物です。それだけに憧れて入門する師匠の存在は絶対です。反抗することは許されません。
三遊亭圓生が引き起こした落語協会の内紛以降、寄席の地図も大きくかわりました。談志はいつも現代に通じる落語とは何かということを考え、むしろあせっています。
この芸を愛する故に、どうしたら本物がうまく次の時代に引き継がれていくのかということを考え続けています。あらゆる生活様式が変わってしまった現代、どの噺が残るのか。どれはもう消えていくのか。浪曲、講談のように衰退していく芸でしかないのではないか。
彼は煩悶し続けます。その悩みを素直に書き込んだのが、この2冊ではないでしょうか。
かつて紀伊国屋寄席で聞いた談志の『鼠穴』が今でも耳の底に残っています。やはりうまい。しかし今の彼を聞こうとは思いません。志ん朝に真打ち昇進で抜かれた時の悔しさを語る時の談志が好きです。
しかしあまりにも今のぼくからは遠いところにいるというのもまた事実なのです。
とにかく面白い本でした。好きな人にはたまりません。

2009-05-27(水)

深夜特急

沢木耕太郎の『深夜特急』は彼のベストセラーです。長い間、これほど読まれ続けている本も珍しいのではないでしょうか。
26才の時に始めた香港からロンドンまでの旅の様子は、多くの青年達の心を熱くしました。
ことに香港からインドまでの旅は心に残ります。小田実の『なんでも見てやろう』に触発され、いつか旅に出たいと考えていた筆者が、旅立つきっかけになったのは、なんとなくルポライターとして売れてきたという実感を持った時でした。
なにもかもをご破算にして、もう一度全部最初から始めてみたかったそうです。それも全ての旅程をバスで走破するという突飛な内容のものでした。
かつて五木寛之はナホトカから大陸間横断鉄道でロシアに入るというこれも壮大な旅を計画し、それは後に『青年は荒野をめざす』という小説に結実しました。
しかし沢木耕太郎の旅はそれとも違います。
香港での熱狂シーンは実に愉快です。マカオでのギャンブルにのめり込むところはぼくの大好きなところといっても過言ではありません。ルーレットに近い形の博打にある一定の流れがあるのを見抜き、それまでの負けを次第に回復していきます。
しかしそれも簡単なことではありませんでした。ディーラーとの心理合戦の様子は実にスリリングです。最後にそれまでのマイナスをほぼ取り返したからいいようなものの、もしここで負けがこんでいたら、彼のこの後の旅はなかったかもしれません。
マレーシア、シンガポールにはほとんど興奮せず、やはり次のハイライトはインドでしょうか。とくに死者を火葬するシーンをずっと見続けていたという一章は胸にせまるものがあります。一方で不幸な死に方をした人たちは、そのまま川に沈められ、やがて浮いてきたところを鳥についばまれていくのです。人の死があまりにも日常の近くにある場所を訪れ、本当に衝撃を受けたようです。
彼はそれ以後、何もかもを捨てるという単純な行為を続けます。その土地の人と同じものを食べ、同じような衣類を着て、さらにもっとも安いホテルに泊まります。時にそれは淫売宿であったりもしました。娼婦にからまれ、さらには彼らと友達になり、そのヒモたちとも親しく話をします。
子供たちとの出会いはいつも最も印象的な場面をたくさん提供してくれました。インドでは親しくなった子供が、お別れにたったひとつのピンをくれます。それがその子にとって唯一の財産だったのです。
そうした光景が、ベナレスでもカトマンズでも繰り広げられていきます。
熱を出し、終日ホテルの天井のしみをみつめ、なんでこんなところに自分はいるのかと完全に朦朧とした意識の中で考え続けます。
バスに乗り、三等車に乗り、時にたばこを勧められ、子供と遊び、彼の旅は続けられました。
このシリーズを読んでいると、沢木耕太郎という人間の柔らかさをしみじみと感じます。その心の襞が後に多くの仕事を生み出していったのではないでしょうか。彼の父を描いた『無名』という本もあります。いつも無名であろうとし、しかし敗れざる者としてしたたかに生きていく力の源泉をここにはみることができます。
後にこの旅を模して、多くの若者が外国へ旅立ちました。旅は人を磨きます。真に望む者には、豊穣な時の堆積となるでしょう。
しかし逆にそうでない者にとって、それはたんなる移動でしかありません。そこにこそ、この『深夜特急』というシリーズの持つ真骨頂があるのではないでしょうか。
多くの若者達に読んで欲しい本です。

2009-04-05(日)

硝子戸の中

漱石の作品を時々無性に読みたくなる時があります。彼の持っている文体が自然に引き寄せるものなのかもしれません。特に短編は味わいが深く、何度読んでも飽きません。実に不思議です。
多くの作品の中でも『硝子戸の中』は出色ではないでしょうか。なんということもない日常が表現されています。
ああ、漱石という人はこういう風に生活していたんだなということが、とてもよくわかります。
『道草』にも出てくるような話もありますが、大概は他愛もないエッセイの積み重ねです。
読んでいて一番に感じるのは、この作品が全編を通じて末期の眼に彩られているということです。多くの登場人物の死がここにはごく自然に描写されています。
あんな元気な人が自分より先に死ぬはずがないのに、どうして自分はこうやって病気をしながら生きているんだろうといった表現が、あちこちに散りばめられています。
なんということなしに入った床屋の主人が、共通の知り合いを持っていて、そこから話が懐古談に発展します。
かつての寄席や妓楼がごくさりげなく登場します。
あるいは勝手に送りつけてきた色紙に賛を書けと要求する人物や、自分の身の上話を小説にしてくれないかと懇願して帰る女性の話など、大変面白い内容のものもあります。
しかし読んでいて感じるのは、漱石という人がかなり偏屈な人だったという印象でしょうか。
妻の夏目鏡子が書いた『漱石の思い出』にもかなり気むずかしい夫の一面が描かれています。学習院で講演した時の礼金についての話など、そこまで堅苦しく考えなくてもいいのにと思わせるものもあります。
つまらない短編を読むのなら、漱石の方がずっと味わい深いのではないでしょうか。
末期の眼がこれほど奥まで染み通っているとは、今回読み返してみるまで気がつきませんでした。
これも名品の所以でしょうか。

2009-02-15(日)

美空ひばりと日本人

宗教学者山折哲雄の書いた『美空ひばりと日本人』を読みながら、いろいろなことを考えました。この歌手くらい、多くの日本人に好きにせよ、嫌いにせよ影響を与えた人はいないと思います。
彼女の存在そのものが、日本の戦後の風景そのものであったといって言い過ぎではないでしょう。
そのくらい焼け跡から高度経済成長への過程において、彼女の存在感は圧倒的なものでした。
太い声から高音域まで、実にいくつもの色合いをもった歌手でした。暴力団との関係、母親との密着度。弟への偏愛。いずれも美空ひばりを語る時に忘れてはにならないことです。
歌は好きだけれど、人間性は嫌いだという台詞はずっとこの歌手についてまわりました。バッシングも何度か受け、マスコミから敬遠された時期もあります。
それでも『柔』『悲しい酒』などのヒットが、彼女の存在を再び浮き上がらせました。古賀メロディの哀切さは、説教節や御詠歌にまでさかのぼることができると山折さんは言っています。短調のメロディが、日本人の奥底に眠っている情念を掘り起こすことに成功したのでしょう。
港や酒に代表される演歌の世界は、知らずに漂泊、無常を抱え込んでいる民族の心に訴えたのかもしれません。
彼女以後の演歌歌手の優等生ぶりとは全く正反対の美空ひばりという人間の存在感は、それだけ強烈なものでした。
一卵性親子と呼ばれた母親の死、弟の死を経て、彼女は本当の孤独を知るようになります。そして自らの肉体もやがて滅び去るその最後に、大舞台に登場し、それが本当に最後の公演となりました。
山折さんはその時のビデオを何度も見て、彼女が歌の中で流す涙もついに涸れ果ててしまったという事実に気づきます。
いつもなら涙をうかべて歌う『悲しい酒』の時もついに、一筋も流れなかったというのです。そこに生きる力の衰えを見たと彼は書いています。
これだけ日本人の心をえぐりとった演歌歌手はそういないに違いありません。しかし現代の子供達はもう短調の曲を聴こうとしません。その理由の第一はコマーシャルソングにあると言います。長調のメロディに馴れた子供達の中枢神経に、短調の哀切なメロディは巣くっていないのです。
演歌はやがて、浪曲や講談、説教節などと同様消えていく運命にあるのかもしれません。自分のことを積極的に語ろうとしない現代の演歌歌手と完全に一線を画した美空ひばりの時代も、やがては伝説そのものになっていくのでしょうか。
酒と怨みの歌の系譜はブルースにもない日本独自の世界だと思います。東京キッドや越後獅子の世界には不思議な心のたゆたいがあります。常に北をめざす演歌とは日本人にとって、どういう意味を持つのか。もう少し考え続けてみたいテーマでもあります。

2009-01-10(土)

浅草雑感

正月、どうしても訪ねたくて浅草に行ってきました。士農工商と言われた江戸時代、一番心豊かに生きていたのは工商と呼ばれた町人たちだったのです。
その殆どの人が、大川(隅田川)を中心とする浅草近辺に住んでいました。いわゆる下町と呼ばれるところです。
最近、続けて池波正太郎の本ばかり読んでいます。あまりにも現実にコミットしすぎた作品はつらく、それでいて、まったく浮世離れした小説も読みたくありません。
そうした気分に一番しっくりくるのが彼の作品なのです。
池波正太郎はもう随分と前に亡くなってしまいましたが、浅草で生まれ、ずっとこの周辺で生きた作家です。
彼の作品世界は、この場所を離れては成立しません。それだけに生まれ育った土地勘のようなものが、縦横に生きています。土地の名前だけでなく、そこにある風景が本当に目の前に蘇ってくるのです。
一言でいえば懐かしいということでしょうか。
『剣客商売』も『鬼平犯科帳』もそうした土地の匂いに支えられて成功したシリーズだと言えるのではないでしょうか。
浅草はまた落語の舞台でもあります。吾妻橋の上から身を投げようとした男を助けるという文七元結にしても、ちょっと離れた根岸の里が出てくる茶の湯にしても、あるいは遊女三千人御免の場所といわれた吉原遊郭にしても、本当に豊かな題材に満ちた場所なのです。
今はなんの面影もない吉原の地を歩きながら、ぼくの古くからの友人の家の辺りを歩きました。
その友の母上は実に気っ風のいい下町の人で、本当にぼくによくしてくれました。ああいう気持ちのいいお母さんを生んだ土地というだけで、ぼくには浅草という場所が貴重なのです。
堤にあがって、隅田川を眺め、待乳山聖天へも赴きました。この寺の門前で、池波さんは生まれたのです。
また川を渡った東側の土地は、永井荷風の作品に出てくる有名な場所です。断腸亭日乗には玉の井遊郭の様子が実に的確に描写されています。
向島百花園の風情を思い浮かべつつ、浅草はとにかくいいところだなとしみじみと今も思うのです。

2008-11-29(土)

一日一生

天台宗大阿闍梨、酒井雄哉さんの書いた一日一生 (朝日新書) という本を何気なく本屋で立ち読みしてしまいました。
なんということもなく、彼の日頃の様子が書いてあります。しかしそこに示されていることは、誠にその通りだなあと感心させられることばかりでした。
比叡山に入るまでの人生は、本当に波瀾万丈だったようです。結婚して2ヶ月で奥様に自殺された時には、もう目の前が真っ暗になったとか。
その彼が比叡山千日回峰行に挑んだ話はテレビなどでも随分紹介されました。
この行は1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日間行じます。定められた礼拝の場所は260ケ所以上もあります。4年目と5年目は、同じく30キロをそれぞれ200日。ここまでの700日を満じて、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけるのです。
深夜には仏のための水を汲みにいくという行まであるのです。
6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります。
前半の100日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。
そして最後の100日間は、もとどおり比叡山山中30キロをめぐり満行となるものです。
考えただけで、気の遠くなるような話です。
この行を実に2回も行ったというのが、酒井雄哉という僧侶なのです。
これだけを聞かされると、なんと意志の強い超人的な人なのかと、本当に驚いてしまいます。しかし彼の言っていることはごく当たり前のことばかりなのです。
この本のタイトルにもなっている一日を一生と思い、真剣に生きなさいという表現には、酒井さんの深い思いを感じずにはいられません。
山道も歩けなくなったら、足で歩かずに肩で歩くのだそうです。意識を足から次第に肩まで上げていくことで疲れを感じなくなるのだとか。凡人には到底わからない世界の話です。
全体を通して、あたりまえのことを当たり前のようにして感じることのいかに難しいかということが説いてあります。
前半生で様々なつらいことを経験し、三十九歳から修行を始めた酒井さんの哲学がここには満載されています。読み終わった時、身体が心なしか軽くなったような気がしました。

2008-11-14(金)

手紙

学校の帰り道、いつも同じ商店街を通ります。すると必ずこの曲が流れているのです。アンジェラ・アキの「手紙」です。最初の部分のフレーズがいつの間にか耳について離れなくなりました。
この曲は今年のNHK学校音楽コンクールの課題曲です。全国大会の放送の最後にも全員が起立して歌った印象的な場面がありました。
この曲には不思議な力強さがあると思います。
今までにもこのコンクールからは合唱の定番となった名曲がいくつも生み出されています。この「手紙」もきっとそうしたものの一つになるのではないでしょうか。
確信をもってそう言えます。
テーマは15才の自分が未来の自分に手紙を書き、その返事が未来の自分から再びやってくるというものです。
歌詞をここに掲載してみます。

拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう
十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです
未来の自分に宛てて書く手紙なら
きっと素直に打ち明けられるだろう
今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ひとつしかないこの胸がなんどもばらばらに割れて
苦しい中で今を生きている
今を生きている

拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたいことがあるのです
自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる
荒れた青春の海は厳しいけれど
明日の岸辺へと 夢の船よ進め
今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど
苦くて甘い今を生きている

人生の全てに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて
keep on believing
負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じ歩けばいいの?
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう
今を生きていこう

拝啓 この手紙読んでいるあなたが
幸せな事を願います

悩み多い日々を送っている15才の主人公の手紙に対し、かつて悩んでいた日々を思い出しながら、今もやはり悩み続けている本人が手紙を出すという不思議な構成の歌です。中学生の心に訴えかけるものがとても強いのでしょう。多くの人の共感を得ました。
人はいくつになっても悩みを抱きながら生き続けるにちがいありません。そうした人生の応援歌になりうる曲なのではないでしょうか。いろいろなシーンでこれからも歌われるに違いありません。
かつてぼくもNHKのコンクールに出場したことを懐かしく思い出しました。中学、高校と歌を歌い続けて本当によかったと今でも心から思っています。

2008-10-25(土)

養生

つい先日近くの公園へ行ったら、芝生の中にこの立て札がありました。養生中につき立ち入り禁止と書いてあったのです。その時、養生というのは本当にいい言葉だなとしみじみ思いました。
芝生を元気にさせてあげるという行為に対して、実に的確な表現ではないでしょうか。試みに他の言い方をしようとしても、きっとこれほどにぴったりな言葉は見つからないだろうと考えます。
この他にも工事現場などではマスキングのことを養生というようです。特に塗装工事などをする時に、汚れてはいけない部分を、テープではって隠します。このことを養生というのです。
これもやはり見事な表現です。さらには引っ越しなどの時に、床や壁が汚れてはいけないので、とくに危険な部位にはダンボールやクッション材などをあてて保護します。このことも養生というのです。
業者がここも養生しましょうなどと呟くと、ぼくはつい嬉しくなった記憶があります。日本語の持っている奥深さをしみじみと感じたからかもしれません。
しかしこの表現を有名にしたのはなんといっても貝原益軒(1630-1714)でしょう。
彼の著書『養生訓」は大変多くの人に読まれました。天から与えられた命をどのようにすれば、もっとも健康的な姿のまま、長らえさせることができるのかということを、必死になって説いた本です。
たくさんのことが書かれていますが、その根本はやはり少欲ということにつきるのではないでしょうか。人間の欲望には際限がありません。しかしそれをそのまま行使していると、心も身体もすさんだものになってしまいます。
昼眠ることも彼は勧めていません。もちろんたくさんの食事を一時にとることもです。
心の平安も保つことも重要だと記しています。あらゆることが欲望と紙一重なのかもしれません。
養生という表現の中にこめられた人というものについての認識がここにはたくさんちりばめられています。
現代を生きるぼくたちにとっても、けっしてこれは古い話題ではないのです。

2008-09-07(日)

師匠

浜美雪という書評などで活躍している評論家の『師匠噺』という本を楽しく読むことができました。落語の世界には師匠と弟子という不思議な関係があります。
師匠はその弟子に寝る場所、食事、衣服、さらには芸までを無償で与えます。前座から二つ目、さらに真打ちになる時まで、あれやこれやと世話をやくのです。正月にはお年玉を配ります。
俗に内弟子といわれる住み込みの弟子が家にいると、師匠の奥さんはほとほと疲れるといいます。親子以上に気をつかい、それでいて、師匠にどの程度のメリットがあるのかといえば、それは謎です。
しかしこれが噺家の世界というものなのです。自分自身も師匠に面倒を見てもらい、噺を教わり、さらに他の兄弟子や、師匠方に稽古をつけてもらう道筋までつけてもらったというわけです。
その恩返しといえばいいのかもしれません。
しかし弟子になるのも容易なことではありません。1年や2年も通ってやっと願いがかなうということもあります。師匠の高座を毎日わきで聞いているわけですから、わざわざ稽古なぞしてもらわなくても、その間合いまでが似てくるということになります。
まさに師匠の芸に惚れて入門するのですから、その影響は絶大です。噺の中にふっと師匠の影がよぎるというのもこの世界の妙かもしれません。
普通、三べん稽古といって、師匠が同じ話を三回だけしてくれます。それをあとはひたすら覚えるのです。テープレコーダーもない時代からこの方法はごく当たり前のものとして通用してきました。
極度の集中力がそれを可能にするのでしょう。
柳家であれば最初は『道灌』という噺からはいります。これは登場人物が二人だけという噺なので、基本を覚えるには恰好のものです。
自分の培ってきた芸を無償で、入門したばかりの若者に教えてくれるのです。どんな大看板といわれる人でも、これは同じです。またその後はあまり多くの噺を教えるというのでもなく、だいたいは兄弟子や、他の師匠に習うというのもこの世界の面白さです。
あまりに師匠にくっつきすぎてしまうと、自分の味わいというものがそこなわれてしまうと考えられたのでしょうか。
古今亭には古今亭の流儀があります。同じ噺でも、誰に教えてもらったのかがすぐにわかるというのが、この世界なのです。
最近人気の出てきた柳家三三(さんざ)などは、どうみても小三治によく似ています。その彼が師匠から教えてもらったのは、道灌の最初の部分で「ご隠居さん、こんにちは」「誰かと思ったら八っつぁんか」だけであったといいます。このやりとりの中に長屋での両者の関係、家の広さ、調度品の佇まいなどがあるわけです。
掛け軸に何がかかっているのかを想像させなければいけません。それほどに難しいものが噺なのです。一朝一夕にできあがるようなものではありません。
入門後、十年以上たって真打ちになれた頃には、すっかり噺家の世界の住人になりきるということになるわけです。ですから師匠をしくじるということは決定的な失点になります。これが原因で落語家をやめていった人は数え切れません。
別の師匠に詫びを入れてもらって復帰するとか、落語協会から、もう一つの落語芸術協会へ鞍替えをして、芸名をかえた人までいます。
特に面白かったのは、柳家小さんと柳亭市馬、柳家さん喬と柳家喬太郎、古今亭志ん朝と古今亭志ん五の話などでした。いずれも不思議な縁でつながった人たちです。
芸は一代限りのものですが、噺は芸人達のものです。自分が多くの噺家の間にはさまり、それを繋いでいく役目を背負っているのだという感慨も、また芸人を育てる礎になっているのではないでしょうか。

2008-08-23(土)

アスペクツ・オブ・ラブ

久しぶりにアンドリュー・ロイド・ウェバーの曲集を聴いていたら、この一曲にとらわれてしまいました。
彼のミュージカルはジーザス・クライスト=スーパースターを見たのが最初です。主演は鹿賀丈史さん、日生劇場でした。あの時も曲作りのうまい人だなあと感心した記憶があります。
多くのキャストの群舞が美しい演出でした。
あれから多くの作品を見ています。そのたびにこの作曲家はサビをつくるのがうまいと感心させられました。特にこの一曲というメインの作品に全力を傾けます。
そして忘れられないメロディを書きます。難しい音を使う訳ではありません。それでいて胸にせまる曲をつくるのです。
キャッツのメモリー、エピータのアルゼンチンよ、泣かないで、オペラ座の怪人の主題歌など、いくらでもあげることができます。
今日、たまたま聴いていて、サビの盛り上げ方がうまいなあと思ったのが、このアスペクツ・オブ・ラブでした。
彼のことを現代のモーツァルトなどと呼ぶ人がいるようですが、ぼくからみると、むしろ演歌の作曲家に近いような気がします。
サビの作り方などは、まさに演歌の手法そのものです。
キーを半音上げながら、最後に絶唱するあたりなどは、まさに彼の手練手管にやられたという気分になります。
それでも聴いていると、つい一緒に歌いたくなるというあたりが、やはりロイド・ウェバーなのではないでしょうか。
またこのアスペクツ・オブ・ラブという曲は歌詞が実にわかりやすく、それでいて不思議な味わいを持っています。
彼が離婚した後に書いたというのもある種の因縁を感じさせます。
ああ、そういうことも確かにあるなと思わせてしまうだけのものを持っているのです。

Love,
Love changes everything:
Hands and faces,
Earth and sky,
Love,
Love changes everything:
How you live and
How you die

Love
Can make the summer fly,
Or a night
Seem like a lifetime.

Yes, Love,
Love changes everything:
Now I tremble
At your name.
Nothing in the world will ever
Be the same

不思議な才能を持った作曲家です。
演歌をつくらせてもかなりのものを書くだろうと思っているのはぼくだけでしょうか。

2008-07-16(水)

教員採用

ここ数週間、教員採用不正事件の話を興味深く見ています。
それにしても大分県の惨状は目にあまります。しかしどこの県にも似たようなことがあるのではないでしょうか。これがただ大分県だけのこととはどうしても思えません。
教育の世界というのは内向きの狭い世界だなとあらためて感じました。教員の子供の方が試験に合格しやすいというのは、なんということでしょう。
ここもまた世襲かと厭気がさしてきます。
毎年10人以上が合否をさしかえられたというのですから、開いた口がふさがりません。不正に合格した人がいる反面、当然翌年から教壇に立つはずだった人が落ちたのです。
こんなに理不尽な話があるでしょうか。
生徒達は、自分の習っている先生もお金を払ってなった人なのかとふと思うことでしょう。心の中に巣くった不信感は、容易なことでは拭い去ることができないのではないでしょうか。
ここであえて妙なことを考えてみました。
それはテストの点数が高ければ、いわゆるいい教師になれるのかということです。そんなことを言い出したら、何を基準にすべきなのかとお叱りを受けるのは承知の上です。
高いレベルの知識を持っているということは勿論大切なことです。しかしそれだけはやはり教育ができないというのも、また実感に近いものなのです。
若手と呼ばれる教師になぜ生徒がなつくのか。これも技倆だけでははかれない問題です。
最後は人間性の問題に落ち着くのかもしれないという気もします。内容もさることながら、生徒達はまず話しやすく、気さくに相談に乗ってくれる教師を求めています。豊富な知識量と教育力があれば鬼に金棒ですが、それだけでは生徒に評価されることはありません。
学校外で有名な教員が、はたして校内で高く評価されているかというと、これにもいくつか疑問が残ります。
今後、大分県では人事の刷新があるとのことです。それまで評判の高かったいわゆるよい教師と言われている人が、実は低い得点で差し替えられていたという事実も浮かんでくるのではないでしょうか。その人のかわりにやってきた正規の基準で合格した人が、本当にそれだけの価値をもっているのかどうかもわかりません。
現在の学校には、企業経営のノウハウが大量に導入されています。そのことが現場をぎくしゃくさせていることも否めない事実です。このあたりについては尾木直樹『教師格差』などの著作があります。
今後、大分県の教育界がどのように変化していくのか。またそれにつれて現場がどうなるのかを見守っていきたいと思います。
いずれにしても、教師を志望する若者が減りつつある現在、それだけ魅力のある現場を誰がどのように作り出していくのかということは、多くの教育関係者に考えてもらいたいことです。

2008-06-29(日)

アイデンティテイ

自分がどこの何者であるのかということは、その人間の根幹に関わる問題です。どこの国に生まれ、何人であり、両親は誰で、どのように生まれてきたのかなどということも当然含みます。
一般的にアイデンティテイと呼ばれるものにはさらにたくさんの要素が加わり、その中で、自己というものが規定されていくのでしょう。
名前も勿論大きな要素になります。いくつもの名前を持つということは、そのたびに自分が自分にとって誰であるのか、他者にとって誰であるのかということを再認識させることになるのです。
姜尚中さんが4年前に書いた『在日』という本を読みながら、そのことをあらためて考えました。彼は1950年、熊本に生まれ、長い間、永野鉄男として生きてきました。
その半生を半ばいとおしいものを懐かしみ、さらに捨ててしまったものを追いかけるようにして書いたのが、この本なのです。
養豚とどぶろくの製造が彼の幼い頃の風景でした。
こんなに自分の生まれた頃の様子を素直に書いた文章に出会ったのは久しぶりのことです。
最近の姜尚中さんの文は政治的であり、諦念とともに時に激しい怒りをぶつけるようなものが多いので、あまりにも意外でした。とくにその中でも一緒に暮らしていたおじさんと呼ばれる人物に対する愛着がとてもよく出ています。
彼を失った時の悲しみが、目に見えるようでした。柔らかく暖かな心が、こういう環境で育てられたのかということを再認識もしました。
自分が何のために生きているのかもわからなくなった大学時代、その後のドイツ留学、さらには指紋押捺反対運動の前面に自然と押し出されてしまった日々の様子。
恩師との出会い。偶然に舞い込んできた大学への就職話。その後の苦悩など、読んでいくだけで、彼の人生を追体験しているような気になります。
しかし根本はやはり彼の出自から今日までの中に綿々とつながれてきたやさしい人々の面影でしょう。母親に対する愛情にもしみじみとしたものを感じます。
しかしどんなにつらい目にあっても文句一つ言わず、働き続けたおじさんの姿にはこの国での一世たちの姿が重なります。いつもよれよれのズボンをはいていたおじさんを看取ったところで、昭和の野辺送りが終わったのかもしれません。
韓国と日本の関係はこの数十年の間に大きく変化をしました。金大中事件に象徴されるような国家間の関係も、今はむしろ静かな季節を迎えています。
30年以上も前にぼくが韓国をはじめて訪れた時、夜間の外出が禁止されていたことなど、今ではもう夢物語かもしれません。それとともに在日の人々も変化してきました。
姜尚中さんが強く意識するような光景もやがては消えていくのかもしれません。しかしそうはいっても島国日本の体質がどのように変化していくのかは、まだまだ大きな問題であることに違いはありません。
彼の一番柔らかいところに触れたという気持ちが今でも強く残っています。政治的な内容は読み飛ばしてしまっても、一読の価値があると思いました。

2008-06-05(木)

柳家小三治の落語家論を読みました。つい最近ちくま文庫に入ったばかりです。元々の本が出版されたのはもう7年も前のこと。ある雑誌に連載したものの中で、とくにいいものだけを集めたという体裁になっています。
小学館文庫から出た落語の速記本3冊とともに、今、ぼくの机の上に積み重ねられています。
特に小さんの家に内弟子に入った頃のエピソードはどれも実にふんわりとしていい味です。掃除の仕方の話では、雑巾の絞り方から、下駄の拭き方、足袋の洗い方に至るまで、細かく書き込まれています。
どうせつらい作業をする期間は2、3年でそれほど長くはないのだから、思い切り若いうちに修行させた方がいいというのが、師匠の考え方だったようです。あるいはおかみさんの発想だったのでしょうか。
小さんは面と向かって何かを教えるタイプの人ではありませんでした。芸は盗むものだというのが師匠の基本的なスタンスでした。
それでも噺を聞いてもらうチャンスは何度かあり、そのたびに一生懸命口演すると「おまえの噺は面白くねえなあ」と呟いたとか。
このあたりも師匠の横顔が実に彷彿として、いい気持ちになります。叱られて悔しいというのでもなく、不思議な感情をもてあましている小三治の表情もまたみてとれるのです。
全編を通じて最もよかったのが、桂文楽のところへ師匠が入門の挨拶につれていってくれた時のことです。
当時、文楽といえば、もう名人の名を欲しいままにしていました。
「今度入りました小たけ(小三治の前座名)で…」と彼が挨拶すると、「いいかい。痛いっと思ったらそれが芸だよ」と名人は呟きます。
この台詞はどのようにも解釈可能でしょう。聞き手が本当に痛いと感じるまで、噺ができるようになれば、それはもう立派な芸だということでしょうか。
そこまでのリアリティを噺の中で展開できる人は、そう多くはありません。面白くやろうとしなくていい。落語はそれだけで十分に面白くできていると小さんはよく語ったと言われています。つまらないギャグをとばすことも、内輪ネタも不必要なのです。
笑いをとろうとして小器用に振る舞っているうちに、芸の力が衰えてしまうというのが、この世界の怖さでもあります。
痛いと本当にその登場人物の了見になって感じるかどうか。そこから噺家の存在が消えてしまうという瞬間があれば、それこそが本当の芸だということでしょうか。よくわかりません。
いずれにしても、なんと遠い道であることかとしみじみ思います。
桂文楽だから言えた台詞なのかもしれません。
彼がよく口にしていたという「あばらかべっそん」の時代も遠くに去りました。
芸は一代のものです。真の意味でけっして伝承はできないのかもしれないのです。厳しいといえば、それだけのことです。しかしそれが芸というものの本質を言い当てているような気もします。

2008-05-18(日)

新書の楽しみ

毎日の通勤時間はもっぱら読書タイムです。ぼくにとって貴重な時間なのです。ここのところ、ほぼ2日に一冊、新書ばかりを読んでいます。岩波新書といえば、昔は随分と堅いイメージのものでしたが、昨今は全くそんなこともありません。
さらには多くの出版社から興味ある内容のものが次々と上梓されています。つい先日読んだものの中でいえば、やはり橘木俊詔さんの『格差社会』(岩波新書)が大変面白かったです。
彼はここ10年ほどの間に起こった日本社会の変化を格差というキーワードを元に分析し続けている第一人者です。親の学歴、収入によって子供の教育から将来設計までが大きく変化する時代を、自助努力と自己責任というきれいな言葉で包み込むだけでは無理だという内容のものでした。
その流れの中にあるのが、『下流社会』でベストセラーになった三浦展『格差が遺伝する』(宝島新書)です。使われているデータは少し古いものですが、確かに日本は変化しつつあります。
政治家の息子が政治家になり、医者の子弟が医者になるという構図は、どこかで歪んでいるとしか言えません。
そういう時代背景を背負って悩みを持ち続ける人も多いのでしょう。精神科医の香山リカ『悩みの正体』(岩波新書)も面白いものでした。
いくら頑張っても報われないと感じる人がいかに多いことか。そこまで考えることはないんですよと呟いても、なかなか患者の心に届かないと本書にはあります。
まじめに生きてきたのに、幸せになれないという訴えには真摯なものがあります。
そんな中で異色だったのが、在日3世で本当にさまざまないじめにあい、その中から立ち上がってきた辛淑玉さんです。
彼女の『悪あがきのすすめ』(岩波新書)は絶対に負けないためにどうすればいいのかという指南書です。諦めずに戦い続けるための元気をもらう本といっていいかもしれません。
こういう人の存在は、格差社会の今日、ますます貴重なものになるだろうと確信しました。
さてそれでも自分は救済されないという意識は宗教に向かうのかもしれません。小沢浩という富山大の先生が書いた『新宗教の風土』(岩波新書)も大変面白いものでした。
一向宗の影響が色濃い風土で、新しい宗教に向かう人々は何を考えているのでしょうか。あなんたんの霊水、浄土真宗親鸞会、御手南会などという新宗教の内部にまで入り、その教義と信仰をしている人にインタビューした内容のものです。
現世の利益を得たいという人々の真面目な欲求を、従来の宗教が取り込めないとしたら、そこから新しい教えが生まれたとしても、なんの不思議もありません。
冒頭にある女性の遍歴の話は、読んでいて、しみじみなるほど、これでは宗教にすがるしかないと納得させられてしまうものでした。
学者として、一切の先入観を持たずに、それぞれの宗教の内側に入っていこうとした心の軌跡がよく描かれています。
いずれにせよ、心の時代であることに間違いはありません。ものがこれだけ豊富にありながら、しかし満足できない社会です。人々はどこかでいらいらしながら、ちょっとした差をかつてのように許せなくなっています。そうした時代の流れの中で、こうした本が読まれていくというところになにかがあるのでしょう。
毎日の読書の中から、さらに現代を読み解き続けていきたいと思います。

2008-04-27(日)

最近、しみじみと縁ということを考えます。どうしてこの人と知り合ったのかとか、どうしてこの人とずっと一緒にいるのかと考えると、不思議でふしぎで仕方がありません。
昨日もずっとご縁のあった方が亡くなられ、お通夜とともに、告別式に行ってきました。2日間、僧侶の読経をきいているうちに、若かった頃のことをたくさん思い出しました。
よく大学の授業をさぼっては、その方の職場へお邪魔しました。すると厭な顔ひとつせず、すぐにぼくを近くの喫茶店に誘ってくれたものです。ぼくとちょうど10歳違いました。実の兄も10歳上なので、ちょうど、もう一人の兄という位置づけだったのかもしれません。
何を話したのか、今となってはもう覚えていません。しかしその時間はぼくにとって貴重なものだったのです。学校でのことや、将来の仕事の展望、あるいは家や友人のことを話したのかもしれません。
彼はどんなことでも親身になって聞いてくれました。長居をしてしまう時は2時間もいたかもしれません。
とにかくとりとめのないことを次々と話しました。他にはそれだけぼくの話を聞いてくれる人はいなかったのです。そういう人に若い時に出会えたということは、大きな財産でした。
後に一緒に仕事をしたこともあります。旅に出かけたこともありました。信州のある峠道に、たくさんの石仏があるということで、そこを訪れたのです。
帰りには、彼のお姉さんの家に泊めてもらい、歓待をうけました。昨日もその方にお目にかかり、5人兄弟の中で私一人が残ってしまったとしみじみ呟いておられました。
それもこれも縁です。
人が人に出会うというのは、本当に不思議なことの重なりの中での出来事だと思います。
時代は次々と経巡り、人はまた旅を続け、やがて来た場所へ戻っていくのでしょう。それでもまた旅を続けなくてはならないからこそ、縁という不可思議なものが生まれるのかもしれません。袖すりあうも他生の縁とはうまい表現です。
棺に花を捧げ、本当に長い間、お世話になりましたと語りかけました。その瞬間、これからは奥様を支えてあげなければと心に誓ったのです。

2008-03-26(水)

誰でもよかった

ここ数日、不穏な事件が続いています。刃物を持って突然通行人に斬りかかるとか、ホームで前に立っている人を線路に突然突き落として殺してしまうといったものです。
キーワードはどちらも「誰でもよかった」の一言です。殺された人の家族にとっては、何とも無念な出会い頭の事故というしかありません。
犯人はどちらも普段は大変物静かで真面目な人柄だったそうです。いじめにあうとか、自分の将来像を見失いかけていたということはあるものの、だからといってすぐに殺人に至るなどということは誰も想像できなかったにちがいありません。
なぜなのか。これから多くの心理学者が分析を試みることと思います。
ただ一言でいえば、彼らはともに死にたがっていたということです。あるいは何も考えなくても暮らせる刑務所に入りたがっていたのです。つまり完全に自分というものを社会から抹殺するための手段として、他者を殺すということを考えたのでしょう。
自殺するほどの勇気はないけれど、しかし現実の人間関係に翻弄される、この複雑な空間にはいたくなかったのです。その結果としての無差別殺人ということに、結果としてはなってしまいました。
現代という時代の空洞を垣間見る思いがします。誰もが未来図を描けなくなっている昨今、前進する能力に少しでも欠けているという実感を持っている人々は、どうしていいかわからなくなっているのかもしれません。
自殺できる人はそれだけで十分に強い意志力を持っているのです。むしろ大多数の人間は、この世界から消えてしまおうとしても、それができず、右往左往しています。生の実感とはほど遠い場所にいて、なおそれでも生きているのです。
そうした人間達の中で、どうにも動きがとれなくなり、他者との関係が作れなくなった者が、ある意味では塀の向こう側に行くため、あるいは合法的に他者に殺してもらうために、誰でもよかったと呟きながら、殺人を行うのです。
これから先はいくら社会学者や心理学者が分析しても、全てが明快になるとはとても思えません。むしろ文学の領域なのではないでしょうか。事件性のあるものから文学が得るものというのは、ある意味で荒涼とした人間の魂の風景かもしれません。
嘘寒いといってしまえば、それまでですが、現代の不安というだけではおさまり切れない人の心の闇の深さを感じます。

2008-03-16(日)

鎮魂楽

世の中は変わります。人の気持ちがどんどん変化していきます。お葬式も今では4分の1が僧侶を呼ばないものに変化しているそうです。ぼく自身、そうした形式のものに何度か参列しました。
昨今ではその時のために特別のCDまで発売されているそうです。
内容はG線上のアリアから千の風になっての賛美歌バージョンまで実に多彩なものです。
時代はまさに人の死まで変えつつあるのです。
かつてなら親族だけで密葬にするということはそれほど多くはありませんでした。しかし昨今はかなりの葬儀が、こうした形式で行われているようです。
長寿社会を迎え老人も増え、逆にいえばそれだけ死を考える時間のゆとりが増えたのかもしれません。
個人や家の墓よりも、樹木葬を望む人もいます。
30年後には一人暮らしの世帯が最も多くなるという発表もありました。
日本はいまだかつてない、国の未来像を見据えていかなければなりません。五木寛之が監修したというこの「鎮魂楽」というCDの売れ行きは、もしかすると、日本人の心の変化を測るバロメーターになるかもしれません。

2008-03-02(日)

早春賦

この季節になると、つい早春賦を口ずさんでしまいます。実にこの時期の気分をうまく表現した歌だと思います。

春は名のみの 風の寒さや。
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず。
時にあらずと 声も立てず。

氷解け去り 葦は角ぐむ。
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空。
今日もきのうも 雪の空。

春と聞かねば 知らでありしを。
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。

大正2年の作品です。作詞吉丸一昌、作曲中田章。
特に二番の角ぐむという表現は面白いです。なんとなく角が生えてきたような感じというのでしょうか。芽が突き出ていく時の様子が想像できます。「ぐむ」というのは涙ぐむなどと同じ表現で、そういう感じになるという状態だろうと推測されます。
さらにあやにくという表現も面白いものです。これは生憎と書いて、普通はあいにくと読むのでしょう。元々はあやにくの方が正しいようです。さていよいよその時が来たと思ってはみたものの、生憎といい天気の日が続かないということのようです。
この表現も今の季節の気分にぴったりです。ちょっと今日は暖かいなあと思って薄着になると、翌日はまた冷え込んでしまい、北風に吹かれるということになるのです。
春という表現に一喜一憂する頃の気分が実に的確に表現されています。春と聞かねば知らでありしをという歌詞も素晴らしいものです。春と聞かなければ、知らないでいたのにというところでしょうか。それくらいまだ春の気分には遠いのです。しかしなんとなく春がそこまでやってきているという予感には満ちています。
だからこそ、この表現が当てはまるのでしょう。
また3拍子を基調とした音の作りが、この曲を春にふさわしいものにしています。実際は8分の6拍子ですが、3拍子の音の使い方は見事です。
つまり詞と曲がたぐいまれなくらいぴったりと合っている歌だと言えるのではないでしょうか。
こういう歌に出会えるということもこの季節の楽しみの一つなのです。ちなみに歌の舞台になったと言われる長野県穂高町には歌碑があり、信州安曇野では早春賦音楽祭も開かれているそうです。
本当の春が訪れるのはいつのことでしょうか。

2008-02-16(土)

カラオケ

ある本にカラオケに関する面白い話が載っていました。それによれば、カラオケというのは並行遊技だというのです。聞き馴れない言葉ですし、はじめて見たような気もします。すなわち、お互いに同じ空間にいながら、全く別の遊びをしている状態をさす表現のようです。
歌っている人間はひたすら自分の歌に熱中し、聞いてるだろう人間は次に自分が歌いたい歌を必死に探します。つまり共同作業として一緒に歌を作り出すというような状況ではなく、それぞれの個人が同じ空間にいて、別の行動をしているというわけです。
それでは誰かが歌い終わったときの拍手はどうなのでしょう。確かに熱狂的なのをあまり見かけたことはありません。むしろまばらで散漫なものの方が多いのではないでしょうか。よく考えてみれば、多分に義理の感情に刺激されてのものかもしれません。
もちろん本当に感動し、拍手をする人もいることでしょう。しかし、それは圧倒的に少数のような気がします。
個人が他の個人と離れつつある昨今、ある意味でゆるい関係を保ったまま、楽に遊べる遊技の一つがカラオケという装置なのかもしれません。そうでなければ、これほど全国的に普及しなかったのではないでしょうか。
無論、すべての場合がここに示されたようなものではないでしょう。本当に仲のいい友達同士がさらに親睦を深めているケースも多々あるにちがいありません。
それでもなお、個人が蛸壺に入ってしまったような状態での娯楽という意味で、半分皮肉と悲しみをこめてカラオケという遊びを観察することもできると思います。やはりその内情はまさに並行遊技と呼ばざるを得ないものなのかもしれません
今回ちょっと面白い記事だったので、自分なりにも考えてみました。全てがここに示されたようではないでしょうが、個人同士が正対して、ともに遊べるような娯楽というものは、今の時代もう数が限られているというしかなさそうです。

2008-01-31(木)

靴を脱ぐ

あたりまえといえば、誠に当たり前の話ですが、日本ではだいたい家にあがる時、靴を脱ぎます。しかし靴を脱がない国も多いと聞きます。たまたま授業でそんな文章を読みました。
そこで生徒に訊いてみると、中国人の家庭では半々でした。韓国人の家庭では靴を脱ぎます。アメリカ人やオーストラリアで生活していた生徒達は、その家の習慣によって違っていたと言います。
なるほど、世界は広いです。日本人にとって当たり前のことが世界でそのまま通用する訳ではなさそうです。
ところで今の高校には上履きがありません。生徒は土足のまま、校舎にあがってきます。最初その光景が異様に見えました。
何人かの生徒にこれも感想を訊いてみると、面倒臭くなくていいという返事が多かったです。なるほど、これも違う文化を多様に受け入れるということなのかもしれません。
担任をしていると、上履きの後始末にはかなり悩まされます。とくに卒業式が終わって数日後に待っている仕事の一つがこの上履きの清掃なのです。大きな袋を持って、下駄箱から生徒が置き去りにしていった上履きを片付けます。
これが最後の担任の仕事といっても過言ではありません。
ことほどさように、日本ではまず外と内との区別を明確にしたがります。うちの会社、うちの学校という表現は、逆にいえば、外の人間に対してどこか冷たい響きをあわせ持っています。
高温多湿の風土だからこそ、床を高くしたということもあるのでしょう。それが玄関と床との段差にもなりました。
それがそのまま人々の意識の底にこびりついて離れないのに相違ありません。
外国人の受け入れなどに対しても、日本は大変厳しい側面を持っています。EU諸国の労働者移動の現状などをみていると、本当に全く国境があることを感じさせなくなりました。
逆に今の日本の状況は周囲を海に囲まれているこの国の特殊性ということから類推できるでしょう。あまりにたくさんの外国人に押し寄せられたら、日本の労働環境が一変するということもあるに違いありません。
外国人と多く出会う日常の中で、感じることは実に多岐にわたっています。高校に入りたくても外国人を入学させてくれるところは、現在ほとんどありません。そこで異常に高い倍率をくぐり抜けられたものだけが、安い費用で実に丁寧な教育を受けられるのです。それ以外の人たちは、放っておかれている状態に近いのです。
これからもこの国では靴を脱ぐという習慣がなくなることはおそらくないだろうと思われます。外と内との関係をどのように作り上げていくのか、模索はまだまだ続くのではないでしょうか。

2008-01-19(土)

環境

氏より育ちという表現をよく聞きます。人間はどのような環境におかれたかで、その後が決まるという考え方です。
最近は随分と少なくなりましたが、以前中国残留孤児の皆さんがたくさん来日した頃、明らかに日本人とは風貌から挙止動作までが違うことに驚きました。
それは北朝鮮に拉致されていた数人を飛行機のタラップ上で見た時にも感じたことです。考え方から行動の様式まで、人間は環境に大きく左右されるもののようです。
また乳母日傘などという表現もあります。裕福な家でのんびりと幼い時を過ごした結果、どことなく鷹揚な雰囲気を持つ人間が出来あがるということも、また容易に想像できます。
しかしたとえ裕福であっても、甘やかされて育てられれば、そこには大きな陥穽も待っていることでしょう。
貧しい環境の中でも一生懸命に努力する親の背中を見続けてきた人は、全く違う価値観を持つものなのかもしれません。
おそらく人間は環境の産物なのです。だからこそ、孟母三遷の教えといったものがあるのでしょう。
だとしたら親はどのような環境を子供に用意したらいいのでしょうか。これが理想だなどと言えるものはおそらくないでしょう。皆がみな、それぞれの立場で違う結論を出すと思います。
ただ一つだけ言えることは素直に感謝できる人間になるためにはどうしたらいいのかということではないでしょうか。これは簡単なことのようでいて、大変に難しいことです。
そこには宗教的な要素が必要なのかもしれません。他人は全て利用すべき者だなどという極端な考えを持つ人は少ないにせよ、常に他者に向かって感謝する心を持ち続けるということは、大変なことです。
子供は親の背中を見て育つものです。どのようにきれいな言葉遣いをしても、その背後にある真意を驚くほど正確に見抜いています。
怒っていないと言いながら、人は真に怒りを覚えていることだってあります。
生きるということは、よりよい環境を自分の周囲に意識して築いていく営為につながるのかもしれません。意識してそうしなければ、よい空気はあっという間に汚れてしまうかもしれないのです。

2007-12-22(土)

ことばの杜

NHKのアナウンサー、松平定知さんが、この12月に古巣を退職し、有限責任事業組合ことばの杜に所属するというニュースを読みました。この組織の名前を聞くのは初めてだったので、いったい何をしているところなのだろうと少し興味を持ちました。
昨今はインターネットという便利な道具がありますので、すぐに調べることができます。それによると、退職した元アナウンサー達数人が集まり、将来の日本を担う子供達に、日本語の読み聞かせや指導を行うためにつくったものだと趣意書にありました。
山根基世さんが代表者だそうです。彼女が最初に書いた本を読んだのはもう20年以上も前のことでしょうか。
番組の中で日本のあちこちを旅した時のエピーソードが綴ってあったのを覚えています。
あれから時が過ぎ、彼らもこうした仕事をする時期に入ったのかなという感慨もあります。
このホームページの面白いのは、なかにいくつかのアーカイブスがあるところです。太宰治の魚服記や、森鴎外の高瀬舟、夏目漱石の道草、芥川龍之介の蜘蛛の糸などが朗読されています。
新潮社から俳優が精魂込めて読んだCDも発売されていますが、こちらもまた深い味わいのあるものです。
耳から聞く名作というのもまた読むのとは違う趣きのあるものなのではないでしょうか。もちろん目の不自由な人にとっては福音でもあります。
ぼく自身、日々言葉を扱う場所にいますが、それを教えることの難しさは並大抵のものではありません。
言葉の力と学力の関係など、考え始めると簡単に結論の出ないテーマばかりです。
退職したアナウンサー達の生きていく道はやはり言葉にこだわり続けるということなのでしょう。本当にことばを愛し、大切にしてきたからこそ、できる仕事なのかもしれません。
これからも彼らの活動を見守りながら、時々はアーカイブスの音源を楽しみに聞きたいと思います。

2007-12-01(土)

思い出

最近ふとある光景を思い出しました。ところがどこなのかわかりません。蚕棚のある農家がフラッシュバックのように脳裡をかけめぐりました。かなり幼い頃に連れていかれた一軒の農家なのです。
それがどこなのかまったく記憶にないのです。しかしその家で初めてたべたこんにゃくの食感を覚えています。それまでのものとは全く違うものでした。
こりこりしゃきしゃきという感じで、馴染んでいた四角いものではありません。まるいごつごつした玉のようでした。どんな味がしたのかも不明です。ただおいしいと思いました。
当時、ぼくの家の二階には数人の人が間借りをしていました。そのうちの一人の人の田舎にどうやら連れていってもらったらしいのです。確かOさんといいました。ご夫婦で暮らしていたという記憶があります。
山梨か長野だったような気もします。幼かったぼくがなぜ彼らについていったのかもわかりません。都心に暮らしていたぼくにとって、その田舎家の風情は実にものすごいものでした。こういう場所で暮らしている人がいるのだという感覚でしょうか。
家の前には都電が走り、駅まで歩けば、いくらでも人の波にでっくわします。さらにはたくさんのデパート群。そういうところで育っていた子供にとって、それはまったくの別世界でした。
しかしなぜ、あの風景が突如として浮かび上がってきたのかは謎です。ただ懐かしい一つの記憶の断片として、ふと思い出されただけなのです。
まだ小学校に入る前のことかもしれません。あの頃が今のぼくの核になっているのでしょうか。

2007-11-24(土)

死生観

ここのところ、現代文の授業でもっぱら入試問題ばかりを解いています。その中に生きることの意味を問うものがありました。近代以前の神がまだ十分にその意味を持ち得た時代と、産業革命以後の時代では、人の生きる意味が変化したというものです。
なるほど、現代は社会での自己実現が一つのメルクマールなのかもしれません。そこに人間の生の意味を捉えようとする考え方があるのは、ごく当然なことなのです。
かつて人は天国や浄土を夢見て、どれほど現世が悲惨なものであっても、ある意味では幸せに生きていけました。そこには宗教上、確実な来世が存在したからです。
しかし神なき時代に入りつつある今、ぼくたちは地球が丸いといって死んでいった科学者の存在が不思議なものにさえ思われてなりません。それは今や全て自明のことです。
逆にいえば、そうした場所からしか、自分の生を考えられなくなったのです。DNAの存在も知り、さらには生殖医療、あるいは皮膚からも細胞を増殖できるというニュースまで聞き、かつての人々とは全く違った死生観の中にいると考えない訳にはいかなくなりました。
しかし、それでもやはり人はただ生まれて死んでいくだけでいいのではないかという単純な思いがぼくの中にはあります。

ちなみに時々自分でも口ずさむ歌にこんなフレーズがあります。

昔おじいがよ サバニにゆられてよ
渡るこの海の 海の美(かい)しゃよ
昔おばあがよ パインの畑をよ
歩く姿のよ 姿の美(かい)しゃよ
ゆらゆらと白い波が 遠くに消えたよ
おじいとおばあのよ 景色も消えたよ

この歌には不思議な時間のたゆたいがあるような気さえします。なんの前触れもなくこの世にあらわれて、そして、自然に消えていく。ただそれだけの存在が人間なのではないかという歌です。おじいもおばあも、つまりはぼくたちの近い将来の姿そのものなのです。そこにはどんな意味もなく、ただの人の営みがあります。
哀しみも喜びも、その生にはこびりついていたでしょう。しかしそんな全てを忘れ、やがて遠くへ消えていく。それだけでいいのではないのかと最近考えたりしています。
確かに社会的自己実現を果たすということはすばらしいことです。しかし同時に肩ひじを張らずに、ただ生きていくということの力強さも考えるようになりました。
今年はぼくの周囲でも、たくさんの人が亡くなりました。長く生きるということはたくさんの死者に出会うということでもあります。

2007-11-04(日)

選ぶ

昨今は結婚式の引き出物も実に多様です。昔は比較的重くて大きなものが多かったような気もしますが、最近は軽くて小さなものも目立ちます。
なかには冊子が入っていて、自分で選んで欲しいというようなタイプのものもあります。
考えてみれば、人の一生はつねに選択の連続です。親だけは選べませんが、その後はかなり選ぶことが可能です。
学校から、会社から伴侶から、さらには住まいまで、本当に人間は選び続けていきていくわけです。
これは楽しいことでもありますが、反面苦しい作業でもあります。いつも自分の選んだものが最良のものであるかどうかを検証し続けなければならないからです。
かつて哲学者たちはこの営為をアンガージュマンなどと呼びました。しかしそこまで難しく言葉にしなくても、とにかく選ばなければならないのです。
さて、冊子のページをあちらこちらと翻しながら、家人は今も何をもらおうかと悩んでいます。それだけもうものがあふれているのでしょう。最初に何かをもらってしまえば、、多少の不満を述べるにしても、そこでこの話は完結するのです。
しかし自宅に帰って選ぶという行為をしなくてはならないということになると、これはまた苦しさを伴う作業になります。楽しいかもしれないけれど苦しいのです。
自動車を買うとして、さてどんな色でどんな車種でと考えていると、楽しい要素だけとはいえなくなってきます。学校も然り、伴侶もしかり。だから人はそこに縁という言葉を持ってきたのでしょう。
山のようにある偶然の糸を解きほぐせなくなった状態が、まさに縁なのです。
だから人は従容として、それについていくのです。
選ぶことは楽しく、そして苦しい。人生はつねにこの両者の狭間にあるということを肝に銘じておかなければなりません。

2007-10-20(土)

女性の品格

昨年の秋に出版された坂東眞理子さんの本が、180万部も売れているという話を授業でしたところ、いろいろな反応がありました。
外国から戻ってきている生徒を対象に授業をしていますので、通常の反応と違うということはよくあります。
特に人にすぐ恋を打ち明けないとか、陰徳を積むなどという話をすると、どうしてそんなに隠さなくてはならないのかという話になりました。
日本人はとにかく自分の意見を言わない、だから話していてもストレスがたまると主張するのです。外国から戻ってきた生徒達はたとえ授業中であっても実にオープンに自分の話をしたがります。
それに比べると、やはり日本で育った生徒達は控えめにみえます。もちろん、これは比較の問題に過ぎず、かつての生徒にくらべればオープンであることに間違いはありません。
いいことは陰にかくれてするなどという話は、どうしても外国から戻った彼らに理解できないのかもしれません。
自分を主張し続けなければ生きていけないのが、現在の世界の在りようです。日本ももちろんこうした潮流の中にあるのは間違いありません。ましてや、多民族の社会で暮らしてきた生徒達が、日本人のタテマエ社会になじめないのは当然といえば言えるでしょう。
中には日本人の冷たさについて言及した生徒もいました。みなが怖い顔をして人を睨むというのです。
そこまで日本人は他者を排除しはじめているのでしょうか。
かつて世阿弥は秘すれば花と述べました。
しかし秘するという行為に大きな意味を持たなくなった人々が増えていることは事実のようです。そこに慎みという感情を添えるというのも難しいのかもしれません。
女性の品格について話し合おうとした途端、日本人論に踏み込んでしまい、面白い時間を過ごすことができました。
外から眺めてみないと、本当の姿は見えないのかもしれません。岡目八目という言葉もありますから、案外そうしたものかもしれないと思いました。

2007-10-08(月)

激流中国

中国の変貌ぶりには目を見張るものがあります。昨日NHK特集で放送されたチベットの様子には全く驚かされました。
中核都市ラサまでの列車が開通したことで、観光客の数が飛躍的に増えたということです。
それとと同時に流れ込んできたものが、貨幣経済でした。それまで自給自足のような生活をしていたチベットの人々の前に現金がばらまかれ出したのです。それと同時に経営管理、労務管理という資本の論理が当然のように展開し始めたのです。
ラサから200キロも離れた集落で暮らしていた男性は、ラサ第一の大型ホテルに楽団員として雇われます。
1年間の年収が3万円だった彼にとって、一ヶ月2万円になる収入は夢のようでした。しかしそこにもあっという間に労務管理の論理が流れ込みます。
仕事の質をランク付けされ、賃金が4割も下げられてしまうのです。抗議をしても無駄でした。中国人の経営者は冷徹なまでに資本の論理を貫き通します。
それでいて、チベット独自の宗教儀式などをホテル内で行えないかと寺院の長老を訪ね、現金を置いてくるしたたかさも経営者は持っています。日本人向けなどへのパフォーマンスの企画です。
儲かることにはあくまでも貪欲に、人件費を切り詰めることにも熱意を示すというようにも見えました。
彼は古い民具が高く売れるとわかった途端、数百キロの道をいとわず買い出しの旅にも出ます。しかし人々は仏具を売ろうとはしません。敬虔な仏教徒である彼らにとって、仏像などは崇拝の対象であり、それを売ってしまうことなど考えられないのです。
同行させられた若い楽団員は、古民具が買い取った額の数倍で旅行客に売れることを知ります。
自分もそうした商売を始めようかとまで考えるのです。
年老いた母は、心配をし、ただ祈ることを息子に勧めます。
古い価値観や伝統が、目の前で資本の論理によって変化していくせめぎあいを見ていると、息苦しくなります。
何が一番人間にとって幸福なのでしょうか。楽団員にとって、妻子や親のために少しでも生活をよくしようとすることが、親にとっては不安な道のりの一歩でもあるのです。
ラサは変わりました。チベットはかつてのチベットではないのかもしれません。
しかしそれでも人々は生きていかなければなりません。自分から楽団員の仕事を辞めた彼は、次に何をしようとするのでしょう。
彼の一年後の様子をさらに取材し続けて欲しいと思いました。
中国の格差は日本の比ではありません。
この国はどこへ向かおうとしているのでしょう。とても気になって仕方がありませんでした。チベットよ、おまえもかと呟きたくなる瞬間もあったのです。
この後も激流中国のシリーズを見続けていきたいと思います。

2007-10-01(月)

ラジオ

ラジオという言葉を聞くだけで、懐かしさを感じるのはぼくだけでしょうか。かつて大学受験講座や深夜放送などを、聞いていた世代にとっては懐かしさ以上の思い出があります。
しかし世の中がIT化していく中で、随分と古びた印象さえ持ってしまうようになりました。一口にラジオといってもFM放送もあれば、AM放送もあります。あるいは短波をイメージする人もあることでしょう。
FMは音がいいですから、音楽番組を中心として、十分に存在価値があります。地方の小さなFM局はその地域に根ざした番組を放送し、時には緊急放送としての意味も持ち得ています。
アイポッドなどをトランスミッターでFMに飛ばし、好きな音楽だけを聴いているという図式を最近はよく見かけます。
一方、短波は競馬や株と相場が決まっています。
それに比べると、中波はどうでしょう。車に乗っても最近はあまり聞かなくなってしまいました。
おしゃべり中心のAM放送は一般的にラジカセなどではいい音になりません。ほんのおまけのようにくっついているいわゆるループアンテナと呼ばれるものをつけても、雑音が入ってよく聞こえないこともあります。
メーカーもあまり中波の技術には力を入れていないなというのがよくわかります。つまりお金にならないのでしょう。それでいて、放送局の方に活力がないかといえば、そんなことはありません。
一日中、建物の中で仕事をしている人にとって、ラジオ放送は欠くことのできないものです。よく建築現場などへいくと、大きなトランジスターラジオをつけっぱなしにしている光景を見かけます。
何か音が欲しいというときに、ただ音楽だけでは面白くないのでしょう。やはり言葉があって、歌謡曲があっていう風景が好ましいのです。
さらに老人達にとっての憩いの時間をつくるという意味でのラジオの魅力もあります。深夜つい眠れないお年寄りや、明け方早くに目が覚めてしまう人にとって、早朝から放送してくれる番組などには、しみじみとした内容の人生を感じさせるものも多いのです。
NHKなどではそうした時間に放送されたものを出版し、多くの人にも受け入れられています。
つまり中波は遅れてきた、あるいはずっと後ろからしかししっかりした足取りで歩き続ける本当の大人なのかもしれません。
病気で療養している人たちにとって、テレビとは違い、耳だけで聞けるというメディアの持つ意味も大きいのです。
さて中波にはその他に語学普及や生涯学習などの意味合いもあります。これこそが一番隠れたファンを持ち続けているかもしれません。
テープやMDに録音して、通勤や通学の途中に聞くというスタイルも随分と定着しました。しかし、それも次第に少数派になってきたようです。
近年、MP3として録音可能なラジオも開発され、これをそのまま小さくて軽いオーディオプレイヤーに入れて利用するという方法も出てきているのです。
新しいラジカセなどには、そうした機能も積まれつつあります。今までAMはパソコンとあまり相性がよくありませんでした。雑音にも悩まされました。
しかしこれからは新しい方向性も出てくるものと思います。
高齢化社会の中、一生習び続けるというための場を求めて、多くの人が中波の世界に期待しているのです。
古くて新しいAM放送に、また一つの波がやってきているのかもしれません。

2007-09-01(土)

携帯電話

1年半ほど使っていたのが、妙に重く感じられ、つい先日買い換えました。その前の半月くらいは息子が新しいのを買った時、おまけにくれたのを使っていたのです。こちらは実に軽くて具合がよかったのですが、しかしいかんせん、液晶が小さく、メールが打ちにくくて仕方がありませんでした。
そこで例によって型落ち品をあさり、ポイントとあわせて安いのを手に入れたというわけです。
最近の携帯電話はあまりにも多機能で、とても全てを使いこなすなどということはできません。テレビがあり、GPSがあり、さらには音楽まで聴けるというのですから、これから先、どういう開発をしていったらいいのか、他人事ながら気の毒にもなります。
昨今はいくつもの会社が半額サービスを始め、いよいよ体力勝負ということになってきました。1円携帯もやめる方向にあるということです。高い通話料に支えられ、さらには販促金に支えられて、ここまで一般的になった端末ではありますが、もう限界に達したということでしょうか。
何年も買い換えない人がばかを見るという今のやり方には確かに無理があります。どういう場所へ軟着陸をすればいいのか、それはこれからの動向を見ていくしかないでしょう。
実際、何軒もの携帯ショップを覗くと、同じ商品でありながら、値段が全く違います。これも実に不思議な現象です。系列の電話会社によっても、全く値段が違います。通常4万円近いという端末がなぜ1円で売れるのかというのも考えてみれば、不思議な話ではあります。
あの手塚治虫の描いた鉄腕アトムは、先見性に満ちた漫画だとよく言われます。そこには未来の世界の予測がさまざまに示されています。しかしなぜか携帯電話を使ったシーンはなかったそうです。
アトムは公衆電話でお茶の水博士と連絡をとっていたとか。つまりそれだけ少し前には予測不能だった現実の中に今、いるということなのかもしれません。
塾を出た時間が自動的に家に知らされるなどというシステムが可能になるなどと誰が考えたことでしょう。誘拐を怖れ、GPS機能までつけたということも、喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのかさえわかりません。
いずれにせよ、ものすごい現実のなかを生きているのが現代のぼくたちなのです。そのわりにやっていることは少しも進歩しないよう気がするのはなぜでしょうか。

2007-07-22(日)

9才の壁

昨日、帰国子女のための学校相談会へ行ってきました。たくさんの親子が都心のビルの中の会場にいる様子は、やはり壮観でした。多くの人がまだ一時帰国中ということで、たくさんの資料をもらい検討に入ることでしょう。とまどいも多いと思います。まさかこれほどまでに過熱しているとは、と呟く親御さんもいました。
なかには小学生連れの親子もいました。これから日本の中学校へ入るのでしょうか。あるいはもう少し現地の学校にいて、適当な時期に戻ろうという人もいるのでしょう。
日本は島国ですから、出かける時よりも、戻ってきた時の方が難しいという話もよく聞きます。どうこの国のシステムに自分を適応させていくのかということに悩む人も多いそうです。
その中でもよく耳にするのが、この9才の壁という言葉です。このあたりから一気に言葉が抽象的な概念語になり、内容が高度になります。
その時どの言葉を使っていたのかということで、大きな影響を受けるというのです。いわばアイデンティティにからむ重要なテーマなのです。幼い頃から父親の仕事の関係で外国を転々としている生徒をたまに見かけます。一見、周囲の生徒と全く同じに見えますが、その行動パターンや言葉遣いなどを聞いていると、全く不思議な人格の人間にみえてきます。
つまりこの国の事情がわからないまま、戻ってきているために、どういう行動が望ましいのかということを阿吽の呼吸で理解する能力に欠けているのです。
島国の中で同じ民族の一員として暮らしていると、どうしても視野は内向きのものになります。しかしそうしたことがよくわからないまま、再適応しようとしても、大変に難しいのです。さらには漢字の問題もあります。全く書けないとか読めないということではないにしても、小学校の4、5年レベルからやり直さなければなりません。
そういう意味で親は大変な責任を感じざるを得ないのです。最近のように中高一貫の学校がたくさんでき、さらには私立の攻勢もあります。
学校の特色をだすために、なるべく帰国子女を別枠でとろうとします。これが一時の流行でなく、きちんと個人の資質の問題とあわせて、十分に議論されていかないと、実に不思議な人格の持ち主を大量生産するという愚を犯してしまうことにもなります。
日常的にそうした生徒をたくさん見るという不思議な環境にいるせいか、幼い頃、多くの国を経巡るということが、大変難しい内容をはらんでいることを最近、強く感じています。

2007-07-12(木)

白ロム

息子が新しい携帯電話を買いました。昨日のことです。2年以上使った携帯はとうとう、バイブレーション機能が破綻したとのこと。マナーモードにしておくと、どこから電話があっても全くわからないそうです。そこで新しいのを買い求めたというわけです。
今度のはテレビが映るとか。全く技術の進歩には驚いてしまいます。さてその時になぜかもう一台、外国でも使える電話をくれたそうです。これだよと言ってみせてくれたのは、とにかくコンパクトで今、ぼくが使っているものの半分くらいしか重さのないものでした。
どうしておまけにつけてくれるのかというのが、素直な感想です。調べてみると昨年の4月に売り出されたものだとわかりました。
きっともう売れない商品なのでしょう。ぼくはそれまで知らなかったのですが、中に入っているカードを今の携帯から移しかえれば、今度は新しい携帯として、同じ番号で使えるということです。
これには大変驚きました。こういうことになっているのかというのが正直な気持ちです。誰でも知っている事実なのかも知れませんが、ぼくにはショックでした。
さてそれ以上に驚いたのが、カードを抜いた携帯を白ロムと呼んで、売買の対象になっているということを知ったことです。そういう関係のサイトをみていると、実にたくさんの携帯の写真が並んでいます。買ってすぐに契約を破棄し、こうした業者に売ってしまう人がいるのでしょう。
インセンティブで成り立っている携帯販売の実態を、全て知り尽くした人たちの新たな商売です。10ヶ月以上経たないと安く買えないシステムを逆に利用して、それ以前でもカードの入っていない商品を買い、今使っている携帯からカードだけを取り替えれば、全く新品の最新型携帯になるのです。
全く人間は次々といろいろなことを考えるものだとただ感心しました。
ぼくの今度の電話機は実に軽く、嘘のように機能が少ないです。しかし幾つも買い換えてきた身としては、これ以上に何が必要なのだろうかという印象も持ちます。
それにしても技術の進歩と人間の知恵のバトルは当分続くことでしょう。昨日は本当に驚きました。ものの過剰は、それ自身罪悪なのかもしれません。

2007-06-22(金)

孫と病気

つい先日、ある記事を読んでいたらこの二つのことが書かれていました。つまり年をとると、必ず孫自慢と病気自慢の話で、盛り上がるというのです。そう言われてみると、なるほどそんな気がしないでもありません。
孫というのはもってみると、本当にかわいいものだそうです。機嫌のいい時だけかわいがり、なにかものを買ってあげたりして、それでいてむずがったりした時は、親へ戻してしまえばいいのです。どこか愛玩動物に似た要素を持っているのかもしれません。
しかし他人の立場になってみれば、必死になって身内の子供の様子を語られても、それほど共感できるものではありません。だからこそ、孫自慢はするなということなのでしょう。
そういう存在を持たないぼくとしては、さてなんと言ったらいいものなのか、少し言葉につまります。せいぜいそういう日が来たとしても、どっぷりと浸かりきるのだけは意識して避けなければなりません。
さてもう一つが病気自慢です。これは自慢という表現にはあたらないのかもしれませんが、しかしまさにぴったりの表現だといえます。年寄り同士の会話となれば、どっちがどれほど重いということを比較して遊んでいるようにも見えます。
こうした時にもっとも優越感を抱けるのは、まさにより重い病気を抱えた人なのです。これもばかばかしいといってしまえば、それまでですが、まさに日常風景そのものかもしれません。
病院の待合室などというのは、まさにこの典型かもしれないのです。かくして、この二つにとらわれない、全く新鮮な視点をつねに獲得しておかなければ、実にみじめな老後を迎えるということになるのでしょう。
もって瞑すべしなのです。

2007-06-08(金)

ある女性のエッセイを読んでいたら、滝が好きだという話が載っていました。豪壮な水の群れが一気に滝壺に向かって砕け散る風景が美しいというのです。
なるほど、そう言われてみれば、そんな気がしないでもありません。かつて両親がナイアガラの滝の前で撮った写真を今でも時たま見ることがあります。黄色い合羽を着込んで滝の音に気圧されながら、それでも微笑んでいる姿は誠にいいものです。
ところで日本にはそれほど大きな滝はありません。ぼくの経験でいえば、やはり日光の華厳の滝でしょうか。あれは流水の量を調節できるのだと聞きました。何度かみていますが、家族みんなで遊びにいった時の写真が、一番いい顔をしています。もう10年も前の話です。
高校時代の合宿の時も、あの滝の前でした。さらには小学校の修学旅行でもあそこで撮りました。
やはり絵になる滝といえるのかもしれません。個人的には竜頭の滝なども風情があって好きです。茶屋の前に大きな植木鉢があり、そこにナスタチュウムが咲き誇っていました。その時の風景がなぜか忘れられません。
滝といえば、やはり世界に目を向けなくてはならないのでしょう。 かつて、ザンビアを旅行した時、6時間近くマイクロパスに揺られてザンベジ川のほとりについたことがありました。
川が国境線にもなっているのです。この川はザンビアとジンバブエの境を流れ、モザンビークを通ってインド洋にまで注いでいます。 途中にある滝が世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア滝です。
はじめて見た時には本当に驚きました。日本にはない風景です。スケールが大きいというだけではない、自然の造形を感じました。
はるかに離れた細い道を歩いているだけで、びしょびしょになってしまいます。水量はそれほど多くない季節でしたが、それでも迫力がありました。
こういう場所も世界にはあるのだなというのが、第一の感想です。近くにあったおみやげを売る掘っ立て小屋で、カバの彫刻を買いました。堅い木に掘ったもので、日本で買ったらいったいいくらするのかというようなものです。それがたったの500円でした。
彼らにしてみれば、それは10倍ではきかない値打ちをもっているのです。世界は広くて本当に多様です。
今、授業で山崎正和の「水の東西」という作品を扱っています。日本人は噴水をあまり好まないという話です。おそらく無理に自然をねじ曲げて、それを鑑賞するという意識を持ってはいないのでしょう。 だからといっては語弊があるかもしれませんが、上から自然に流れ落ちる滝は、日本人にとってなじみのあるものなのです。しかしヴィクトリア滝ほど、大きくなっては、これはまた美の意識を阻むものなのかもしれません。
日本人はなによりも、繊細さということを大切に生きているような気がします。

2007-05-27(日)

手紙

長い間、気にかかっていた人に手紙を書きました。といってもごく簡単なものです。昨今はメールばかりになってしまい、なんとも味気ない思いをしていました。
メールは大変便利なものですが、どこかに仕事の匂いをひきずっています。会社のデスクでならなんでもないことでも、私信にメールをつかうということには、まだいくらかの抵抗があります。
それでもやはり便利さに引きずられて、つい使ってしまうというところが、現代人の悲しい性かもしれません。
ところで花の名前を知っているということが女性の品格につながるという本を先日読みました。
なるほど、樹木の名前を知るということは、人生を豊かにするためには不可欠なことかもしれません。季節に咲く花の名前なんか知らなくたって生きてはいけます。しかし豊かに暮らすためにはやはり、一木一草に目がいくという心のゆとりがやはり必要なのでしょう。
それと同じことが手紙にもいえるのかもしれません。
書いてみてやはりよかったと思いました。これから投函してきます。返事はなくてもいいのです。
ぼくがその人に出したかったという気持ちが真実のものであれば、それで十分なのです。
いつも見返りを期待してはいけません。
孔子の言葉にもありました。人知らずしていからずということです。人に認められようと認められまいと、自分の努力を続けていくことが最も大切なのではないでしょうか。
当たり前のことをすることが、どれほど難しいことか、最近しみじみと感じる場面が増えました。

2007-05-19(土)

愛嬌

今日なんとなく本屋さんで立ち読みをしていたら、ある雑誌に載っていたこの言葉に惹きつけられました。それは愛嬌という表現です。教育雑誌に掲載されていた記事には、最近愛嬌のない子供が増えていると書いてありました。
テレビの番組などで、およそ子供とは思えない話し方をする場面に出会うこともよくあります。どこか老成したような子供を見ていると、それでけでなんとなく厭だなという感情を持つものです。
一言でいえば愛嬌がないのです。そうした子供達は自分も失敗をする一人の愚かな人間であるというところから、出発できていないのかもしれません。親たちが子供の誤りを認めようとしないか、あるいは叱るので、仕方なく彼らも自己防衛にはしった結果の集大成かもしれません。
俗にこまっしゃくれた子供といいますが、まさに夜遅くまで塾通いをしている子供へのインタビューくらい後味の悪いものはありません。親の価値観をそのまま反映してしまった結果といえるのではないでしょうか。
かつて小児は白き糸の如しなどと言いました。まさに親の色に染まった果ての愛嬌喪失ということであるならば、こんなに悲しい結果はありません。知識をいくら蓄えても、それを自分の血や肉にし、さらには人間性のレベルにまで昇華させることができなければ、むなしさだけが残ります。
かつて清少納言は枕草子の中で愛嬌(あいぎょう)の少ない存在として、蠅と梨の花をあげました。
「蠅こそ、にくきもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。」という一節と「梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔など見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを…」とあります。
蠅はすぐに理解できますが、梨の花はどうしてすさまじき存在だったのでしょうか。全くわかりません。日本での評価はこのように大変低いのですが、中国では大変珍重されました。そのことはこの後にすぐ紹介されています。
よく考えてみると、愛嬌というものほど大切なものはないのかもしれません。その人がいるだけで座がぱっと明るくなるというのはすばらしいことです。
瞬間的な反応の早さも必要でしょうが、同時にまず挨拶と笑顔のすばらしい人というのはそれだけで、十分に人の心を和ませる存在だと思います。
成績の良さももちろん大切です。しかし社会に出た時の武器はむしろ愛嬌の方に軍配があがるのではないでしょうか。自分の失敗や欠点をさらけ出せるものの強さは、頭でっかちの秀才には見えないもう一つの確かな世界なのかもしれません。

2007-05-03(木)

規制緩和

NHKの特集を見ました。高速バス営業の実態というものです。ここまでやる会社があるのかというのが、今の実感です。かつての半値でドル箱路線、東京、大阪間を運行しています。
その新興企業に1万2千人がエントリーし、内定者は7人というのですから、これもまた驚きです。とにかくバス会社の現場がどうなろうと、彼らは目標の数字を達成するためになんでもします。
予約が入らなくなると、すぐにネット検索をし、100円でもライバル企業より安くします。
そのしわ寄せは全て中小のバス会社に押し寄せるというわけです。国が決めた最低のバスチャーター料を半分に値切るということもあるそうです。
運転手は東京と大阪との往復をひたすら深夜行い、家に帰るのは週に一度だけとか。現場は走らせても赤字がかさむだけだと悲鳴をあげていました。
しかし一方で新興の企業は勢いをとめようとはしません。新しいバスを韓国から購入し、独自のバス会社まで立ち上げます。さらには観光会社を経由して孫請けしていた会社を切ります。
このようにして、少しでも採算のいい経営戦略を練ろうとするのです。
業界の戦いは熾烈です。その結果として、深夜バスの惨事が起きました。その会社の社長は同乗していた自分の息子を亡くしています。それでも走らなくては会社がつぶれてしまうと悲鳴をあげていました。
少しでもチャーター料をあげてもらわないと、やっていけないと呟くバス会社の経営者に向かって、安さと安全性は両立すると企業の経営者は言います。
とても運賃の値上げを言い出せる状況ではありませんでした。その後、その孫請けの会社は仕事を切られてしまいます。
この新しい会社に応募する人たちは、どのような心境でドキュメンタリーを見たのでしょうか。
放送終了後、ネット上にはたくさんの批判が展開されているようです。その大半は絶対にこの会社のバスには乗らないというものでした。
社長は十全の自信を持って取材に応じたものと思われます。その顔つきには、生気がみなぎっていました。韓国やアジアへの進出も心がけたいとする勢いは止まることがないのかもしれません。
しかしふと数年前のITバブルの頃を思い起こしてしまいました。若い社員しかいない、数字しか眼中にないこの会社に未来があるのでしょうか。
その結果が出るまでには数年かかるのかもしれません。
規制緩和の波はあらゆる業界に押し寄せています。その勢いは待ったなしです。それだけに自分の安全は自分で守らなければいけない時代に入ったのかもしれないのです。
この番組に出演したことが、会社の宣伝になったのか、あるいはその逆なのか。もう少し見守っていきたいと思います。
それにしても大学生を二人抱えているというバスの運転手さんの疲れ切った表情が今も目に焼き付いて離れません。

2007-04-22(日)

牛がいて、人がいて

今日の新聞に沖縄最南端の町、竹富町への移住者が多くなったという記事が出ていました。若い人を中心に随分人口が増えているのだそうです。離島ブームもあるのでしょう。観光産業などに従事する人がそのまま、住み着いてしまうのだとか。
やはりゆったりとした時間を過ごしたいと思うのに違いありません。給料はそれほど高くないものの、使うところもありませんから、暮らしていくには十分過ぎると記事にはコメントが載せてありました。
都会のラッシュアワーの対極が離島の生活と言えるのかもしれません。毎日、流れていく雲と潮騒の音を聴く生活です。自分が生きている意味を問い直すには恰好の土地なのでしょう。
かつてぼくの住んでいる家の近くにも牛が住んでいたり、ちょっと歩くと豚小屋がありました。
勤めていた学校の裏山を越えていくと、大きな鶏小屋もありました。そうしたものが今はほとんどなくなってしまったのです。急激な風景の変化は、時に驚くほどのものとなります。あっという間に幹線道路にトンネルが掘られ、車の往来が激しくなったものです。
ここ10年ほどの間に牛たちはどこへ引っ越していったのでしょうか。その姿を日常的に見ることはできなくなりました。
今の土地へ引っ越して30年。その間の変化はまさにこの国の変貌そのものです。竹藪しかなかった場所に突然駅が出現し、ビルやマンションがたちました。大型店舗が次々と開店し、少し前の風景が全くの白日夢と化しました。
牛がいて、人がいてという風景はもう過去のものです。
どうしてもゆったりとした時間を持ちたかったら、最南端の島へ行くしかない時代なのかもしれません。
「牛しかおらんよ」と呟き、南の島で生きていく「ナビィの恋」の登場人物さながらに日常を過ごすのは、至難の業だということなのでしょうか。

2007-04-14(土)

生きる

いのちというものは不思議なものです。これだけ科学が発達したといっても、いのちを生み出すことは容易なことではありません。結局いのちのあるものが次のいのちを作り出す以外に方法がないのです。
我が家にもたくさんのいのちが生まれました。昨年のことです。偶然のように買ってきたメダカが、次の生命を作り出したのです。
それを大切に網ですくって別の水槽に入れました。すると数週間後に、糸クズのような新しいいのちがうまれたのです。目だけが黒く点のようでした。かれらの一生はだいたい1年だといわれています。だからもう次の生命を彼らが今度は作り出さなくてはなりません。
病気になって死んでいったものもいます。大きくなれずに、ひれをくさらせてしまったのもいます。自然淘汰というのは厳しい現実です。
そのまま他のメダカと一緒に入れておくと、病気が伝染すると書いてありました。そこでビオトープをつくり、移したりもしました。たった2匹のために水生植物を買い、鉢を買い、沼にあるという土まで買い込みました。おそらく死んでしまうだろうと予測していたからです。
ところが長い冬が終わり、水がぬるむ頃になってふと見ると、中で泳いでいるではありませんか。餌もなにもやってはいませんでした。時々水をかけた程度です。真冬は零下になったことと思います。それでも春になって鉢の中で泳いでいる姿を見て、不思議な力を感じました。
生きるということの強さに感動したのかもしれません。今年もたくさんの生命が再び生まれることでしょう。毎週水を換えたり、毎日食事を与えていたのよりも、外においておいた鉢の中にいるメダカの方が強いとは。彼らは尾の枯れる病気にかかっていたのです。それでも逞しく泳いでいます。
生命は不思議です。そしてだれにも作れない。そのことにあらためて厳粛な緊張を覚えました。

2007-04-01(日)

夢幻能

今日は能の本を読んでいました。世阿弥の書いたものの大半は全て夢です。
最初に旅の僧などが登場します。しかしその後に出てくる第二部の登場人物はほとんどが夢の中の人間なのです。なかには狂女もいます。
全てが夢であるというのはなんと便利なことでしょう。というより、この話は夢だと呟くことで、ぼくたちは限りない自由を手にしているともいえます。
本を読みながら、突然四十年も前のことを思い出しました。この話は夢ではありません。しかし限りなく夢に近いといえばそうもいえます。あるいは脚色をして小説にできるかもしれません。しかし今そういう気持ちにはどうしてもなれないのです。
登場人物は友人の姉です。その友人はしばらく学校を休んでいました。特別に親しい間柄というのでもありません。以前から知っているという程度でした。ある日、一家はぼくの家のそばに引っ越してきたのです。
それからは時々道で出会うようにもなりました。父親はいなかったようです。離婚したのでしょうか。ついぞ姿を見ることはありませんでした。
彼は少し胸を悪くしていたようです。今ではあまりみかけませんが、軽い結核のようでした。それが原因で学校をしばらく休んだのです。
彼には数才年上の姉がいました。その人の姿を見るのはなぜかベランダにいる時が多かったようです。洗濯物を干していたのか、あるいは布団を干していたのか、あるいはただ外を眺めているだけだったのかもしれません。
ぼくが坂を下りていくと、不思議と彼女がベランダにいたりしました。やがて大学へ進む頃、その友人も1年ほど遅れてどこかの学校へ入ったような記憶があります。経済生活をどのようにして維持していたのでしょうか。どうもその姉の給料に頼っていたような節があります。他には収入の道がなさそうでした。あるいは離婚した父親から仕送りがあったのかも知れません。彼女はどこへ働きに行っていたのでしょうか。なにもわかりませんでした。
親しくはないので、働きに出ていることも風の噂に聞いたのです。 それから数年が経ちました。とにかく自分のことにしか興味がもてない時代でした。彼女のことなど、完全に忘れかけていたのです。
しかし彼の姉はその家にいました。普通なら結婚して家を出ていく年です。なぜか気になりました。それとなく近所の話を総合すると、やはり友人の病気の世話と同時に母親の面倒を見ているということでした。それで婚期が遅れているらしいとのこと。生活の面倒もみていたのでしょう。
そういうこともこの世の中にはあるだろうとぼくは思いました。
なぜか時々ベランダ越しにみる彼女の姿に寂しそうな影が宿るのを感じました。しかしどうしようもありません。
会う度に軽く会釈だけはしました。すると嬉しそうににっこりと微笑んでくれたのです。家の様子はけっして明るいものではありませんでした。どこかに膜のかかったような、不思議な気配をもった家でした。
その後、ぼくの家は少し先の駅へ移転しました。それからもう二度とその土地へ戻ることはありませんでした。
ぼくの記憶の中で、坂の途中の家は今でもそこにとどまったままです。
もしかしたら友人の姉はそのままベランダにたたずんでいるのかもしれません。
夢幻能の話を読みながら、突然前後の脈絡もなく、そんなことを思い出したりもしました。

2007-03-18(日)

春よこい

いよいよ春がやってきます。
春の歌はたくさんありますが、その中でもやはり「春は名のみの風の寒さや」で始まる早春賦はいい歌だと思います。
人の哀しみがどこかに滲んでいて、それがこの歌を背後で支えているような気がするからです。
ところで、今日ある場所で下に示した詩が掲げられているのを見かけました。しみじみと読んでいたら、いい詩だなあと感心してしまったのです。
実にあどけない表現ですが、ここにもまた別の意味での哀しみを見ました。

春よ來い 早く來い
あるきはじめた みいちやんが
赤い鼻緒の じよじよはいて
おんもへ出たいと 待つている

春よ來い 早く來い
おうちのまえの 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待つている

子供の頃にうたった歌です。あの頃は何も考えずに歌っていました。作詞者は早稲田文学の同人、相馬御風です。最初、この歌詞と詩人のイメージが重ならずに少しまごつきました。後から調べてみると、随分たくさんの童謡をつくっていることもわかりました。
童謡をつくるのは想像以上に難しい仕事です。自分の中に宿っている童心をごく自然に掘り起こしていく作業だからです。サンテグジュペリではありませんが、かつて自分が子供だったことを忘れてしまっている大人がいかに多いことでしょう。
そうした意味で、この詩をじっと眺め、さらには歌っていると、なぜか悲しい気持ちになってきます。
実にいい歌です。
この詩人があの「都の西北」と歌い出す早稲田大学の校歌を作った人と同一人物であるとはとても思えません。
詩人の魂というものが、どれほど複雑なものであるのか、あらためて考えざるを得ませんでした。

2007-03-11(日)

コマンスメント

かつて1年間だけ担任をした生徒達の卒業式へ、昨日参列させてもらうことができました。今までなら学年の途中で転勤をしてしまうなどということは、よほどのことがない限り考えられなかったのです。
生徒指導部を3年間やった後、本当に念願がかなって2度目の担任にしてもらいました。それだけに新鮮で楽しい日々でした。
確かに生徒との年齢は毎年離れていきます。保護者会をすれば、かつては皆自分より年上だったのに。今では逆転しているのです。
そういうとまどいにも似たことはいくらもありましたけれど、それでも教員というのは生徒と一緒にいて遊ぶのが好きな人種なのです。そうでなければ、人間相手の神経を使う難しい仕事につこうなどとは思わないでしょう。
いわば数字とは無縁の仕事だったのです。しかし近年はそんな暢気なことも言っていられなくなりました。効率重視の時代背景は教育現場にも強い影響を与え始めています。
しかしそのことをここで書くのはやめておきましょう。とにかく転勤のシステムがある日突如変更され、同じ学校にいられなくなりました。それもこれも効率重視の余波かもしれません。
さて、それよりも昨日の卒業式です。
卒業という言葉はなるほど、いい表現です。ひとつの仕事を終えて次へ向かうという意味なのでしょうか。しかし他の表現を探すとすれば、それはコマンスメントということになります。この言葉はフランス語のコマンセという始めるという意味の動詞の名詞形にあたります。ちなみにフランス語ではコマンスマンと発音します。
実にいい響きを持った表現です。
卒業という言葉は一つの仕事を終える側面に強くスポットをあてていますが、コマンスメントはむしろ未来を強く照射しています。
ぼくはかつてこのエッセイ欄に卒業というテーマで文章を書いたことがありました。2004年の3月です。
ぼくの言いたいことはそこに全て網羅されています。何も付け加えることはありません。
本当に何度卒業したらあるべき自分に出会えるのでしょうか。
しかし今回はあえて卒業ではなく、コマンスメントという表現を使いたいと思います。旅立ち、出発の日に胸をはって凛として生きていってほしいと思います。
始まりにはやはり笑顔がふさわしいです。
健康に十分留意して、活躍をして欲しいと今はただ祈るばかりです。

2007-03-03(土)

赤目

面白い言葉です。昔からあったものでしょうか。判然とはしません。人間の目というものはやはりすごいものです。あらゆる光をとりこんでそれを拒絶しません。網膜の奥深くでとらえ、しっかりとした認識を繰り返すのでしょう。
以前知人が網膜剥離症になったので、見舞ったことがありました。じっと上を向いたまま動いてはいけないという過酷な話をその時に聞きました。なんでも剥がれた網膜を特別な糊で眼底に貼り付けるのだそうです。
そのような糊があるということに驚きました。医学の進歩というのは底知れないものがあります。
さて赤目はデジタルカメラの映像に時々出現します。このまま写真にしたのではなんともおかしなものになってしまいます。
しかし最近ではそうした映像も簡単に修正できるようになりました。これもデジタルの時代なのでしょうか。あっという間に赤かった目は黒々とした深みをたたえてくれるのです。
驚くほどの早業にはやはり感嘆してしまいます。
先日ある知人の結婚式に参加した折も、そんな写真が数枚ありました。それを修正した後、写真屋さんに出してしみじみと式の様子を話し合ったりもしたのです。
最近では明るさも色合いも、光源までも変化させることができます。となると、いったい本当のものというのはどこにあるのかということにもなってきます。語源としてのオリジナルというものは、もうなくなったのでしょうか。
これが原盤だといわれて親近感を覚えるということもなくなってしまうのかもしれません。かつては作家の原稿などというものもよく見かけました。
これからは全てデジタルデータだけということになるのかもしれません。複雑なのか単純なのか、それさえも判別不能な時代になったとしみじみ思います。

2007-02-18(日)

おしゃべり

市場(いちば)を市場(しじょう)と読みかえた時から、心の豊かさが消えたという話をしてくれたのは、明治学院大の勝股誠先生でした。彼はアフリカ研究の第一人者でもあります。
なるほど市場(いちば)にはたえず人々の喧噪があり、賑わいが絶えません。埃も汚れも汗もそこにはあり、笑ったり泣いたりと忙しいことでしょう。
それに反して市場(しじょう)はさびしい響きを持っています。ぐるりとめぐらされたコンピュータを相手に、一刻も手を抜くことはできない戦いが繰り広げられます。一瞬にして何億というお金が取引され、その度に勝者と敗者が生まれるのです。
現代はまさにそうした時代なのでしょう。
勝股先生のお話を伺ってから数年後にアフリカを訪ねる機会がありました。その時に一番驚いたのは、とにかく男があまり働かないということです。一日中、木の下に座っておしゃべりをしていることもあります。それほどに効率のいい仕事がないということもあるのでしょう。しかしそれだけが理由とも思えませんでした。
一方、女性達はよく働きます。一般に結婚年齢が低く、一夫多妻型の土壌があるだけに、年をとると、捨てられてしまう人たちも多いのです。
そうした女性達がなんとか自立するためのプログラムもたくさんありました。何がよくて何が悪いのかという判断を簡単にすることはできません。

さて話を日本に戻してみるとどうなるのでしょうか。最近は傾聴ボランティアという仕事まであると聞きました。お年寄りの話をただ聞くというのです。みなが孤独におちいり、だれとも話をすることのない日々を送る老人も多いのです。
先日は巣鴨のとげぬき地蔵を訪れる老人達をテレビでとりあげていました。毎週ベンチに座り、そこで知り合った友達と会話をするのだそうです。
おしゃべりにはお金がかかりません。そして時間はいくらでもつぶれます。こんなに省エネルギー型の社会をつくりあげる素材は他にはありません。自分と似たような境遇の人もいることでしょう。人の輪はつきることがありません。さらには自分の手料理を持ち寄って歌をうたえる店もあります。
これもある意味でおしゃべり優先の形かもしれません。
日本は経済優先の市場(しじょう)社会ですが、ひょっとするとあちこちに市場(いちば)をたてずにはやっていけない閉塞した社会になりつつあるのではないでしょうか。一日中、話をしてつきないアフリカの男達の景色が今、日本のあちこちにも現出しているような気がします。それが進歩なのか、後退なのか。それすらも判断がつかない日々が続いています。

2007-01-30(火)

つまづく

最近、気のせいかよくつまづきます。これは老化現象の一種なのだそうです。段差のあるところで機敏な行動ができなくなっている証拠なのです。
今日も散歩をしながら、そんなことを考えていました。しかし次の瞬間、つまづくのもそんなに悪くはないと思い直しました。
確かに転べば骨折や捻挫のおそれもあります。しかし人生でのつまづきは案外大きな糧をもたらしてくれるものかもしれないのです。
そうはいっても、あまりに大きなつまづきはやはり後から回復するのが大変です。しかし幾つかのつまづきは人を大きく成長させるための糧になるのではないでしょうか。
はじめから全てがうまくいくということはまずありません。皆、多かれ少なかれいくつも失敗を重ねて今日を迎えているわけです。むしろ大切なのはそのつまづきをどう乗り越えてきたのかという点にあるのではないでしょうか。
そこにこそ、人間の真価があらわれるのです。
どんな失敗をしてきたのか、自分に問うてみるのもひとつの試みかもしれません。そしてそれをどう後の生き方に役立てたのかもあわせて考えてみたいものです。
ちょっとしたつまづきを大きな糧にできるかどうか。それを常に自己に問うということができる人は、さらに大きな成長を遂げることが可能な人なのでしょう。いずれにしても謙虚と素直さが最重要であることは間違いのないところです。
今日は木々の間からもれる光がまぶしいくらいに美しい一日でした。充実した時を持てる心のゆとりを、ありのままに甘受したいと思います。

2007-01-21(日)

ベーグル

昨今ではこのパンの専門店まであるといいます。なかなかの人気ぶりです。ちょっと前まではクロワッサンの方が人気がありました。しかしバターがちょっと多めなので、ダイエット志向の女性からは少し敬遠されたのでしょうか。
ぼくがはじめてベーグルを口にしたのは、10数年前のアメリカ旅行の時でした。ホテルの朝食に出たのです。確かアトランタだったと思います。大きな目玉焼きが2つにハム、サラダとこのベーグルが2つ。モーニングセットが10ドルくらいではなかったでしょうか。
アメリカ人は朝から随分食べるなあと思いました。
このパンは今までに味わったことのない食感をもっていました。外は堅いのですが、中は柔らかいのです。それでいて、バター臭くありません。あまり油ををつかっていないという印象でした。とても中身がつまっていて、一つ食べると、かなりおなかが苦しくなりました。
なんでもニューヨークのベーグルは、麦芽と塩を使うのだといいます。時にごまがかかっていたりして、とても香ばしいかおりがしました。
甘みが押さえてあるので、とても食べやすく、それ以後アメリカを旅行している間中、ベーグルの店を探して買い求めたものです。コーヒーとこのパン一つだけで数ドルという値段でした。
帰ってきてから、パン屋さんを子細にみてまわっても、まだ日本にはほとんど出回っていませんでした。
妻もベーグルという名前は知りません。おそらく作っているパン屋さんはあったものと思われますが、まだ一般的なものではないようでした。時々あの特殊な食感を思い出しては、どうして日本ではやらないのだろうと感じたものです。
しかし時がたち、今やベーグルはお店の真ん中に堂々と登場するようになりました。
専門店もあります。実際その名前を頭にかぶせた店が駅の中に登場したのには驚きました。
明日の朝もぼくはベーグルをいただく予定です。
不思議な時の流れを感じます。

2006-12-29(金)

私は忘れない

先日、加藤登紀子のコンサートに行き、いろいろと考えることがありました。元々はなんとなく決めた日程にあわせただけでした。人によっては毎年ここで会おうと約束していると聞きます。元気をもらうのだとか。熱狂的なファンに支えられていることも知りました。12月だけで18回もステージをこなすのは並々のことではありません。
途中ギター一本だけで好きな歌を勝手に口ずさむシーンもありました。シャンソンや、もっと激しい革命の歌などもレパートリーの一部です。しかしぼくにはこの歌がとても懐かしかったのです。
昔、よく歌いました。あの頃は結構彼女の歌をうたっていた記憶があります。

いつの間にか 夜が明ける 遠くの空に
窓を開けて 朝の息吹を この胸に抱きしめて
あなたの行く朝の この風の冷たさ
私は忘れない いつまでも

もしもあなたが 見知らぬ国で 生きていくなら
その街の 風のにおいを 私に伝えておくれ
あなたのまなざしの 張りつめた想いを
私は忘れない いつまでも

「海の色がかわり 肌の色が変わっても
生きていく人の姿に変わりはないと
あなたは言ったけれど
あの晩 好きな歌を次から次へと歌いながら
あなたが泣いていたのを 私は知っている
生まれた街を愛し、育った家を愛し
ちっぽけな酒場やほこりにまみれた部屋を
愛し 兄弟たちを愛したあなたを
私は知っている」

いつかあなたが 見知らぬ国を 愛しはじめて
この街の 風のにおいを 忘れていく日が来ても
あなたの行く朝の 別れのあたたかさ
私は忘れない いつまでも

「あなたのいく朝」という歌は夫であった藤本さんが収監された日の様子を歌ったものだそうです。3年8ヶ月という刑期が、28歳だった彼女にとって重い意味を持つことは誰にでも想像がつきます。
まだ結婚の話も親にはしていなかったそうです。あれから歳月がたちました。祈ることばかりしかできないのが、人間というものかもしれません。時代はどんどんと変化し、人だけが置いてきぼりにされてしまいます。
こんな風に時がうつるということを、若いときは夢にも思いませんでした。悲しく厳しい現実です。
彼女の夫はやがて刑期を終え、その後自然と共生するための農業をめざしました。現在もそれは形となって残っています。歌い終えた加藤登紀子は少し涙をためていました。
いろいろなことを思い出してしまったのでしょう。人にできることは、忘れないことだけなのかもしれません。やがてその人間がこの地球上から消え果てていったとき、全てはなくなるのでしょう。しかしそれを誰かが忘れないで伝えるということでしか、人が生きてきた証を次に届けることはできないのです。
風の匂いも別れのあたたかさも、けっして忘れてはいけないものなのです。それが生きるということです。

2006-11-12(日)

うまくいっている人

本屋さんを歩いていると、たくさんこの手の本が並んでいます。外国人の書いたものを翻訳したのから、日本人が書いたものまで、実に多く出版されています。
あの人はどうしてうまくいっているのかとか、うまくいっている人が心がけていることとか、そのタイトルも千差万別です。
試みにいくつかの本を読んで見ました。
すると見開きで読めるものばかりです。一種の自己暗示に近いものもあります。
内容は至極単純です。
自分のミスははやく忘れろ、とか自分のことしか語らない人の前をすぐに去れとか、自分を愛せとか、そばにいて気分が悪くなる人とつきあうなとか、それはごく単純なものばかりです。
しかしじっくりと読んでいると、なるほどうまくいっている人というのは、こういう行動の傾向があるなと感心してしまいました。
基本は自己肯定、自尊心につきます。これ以外にはない。いやなことはせずに、つねに気分を安定させ、つらいことはすぐに忘れるというものです。
誰でもこれができれば実に楽でしょう。そう簡単にいかないからこそ悩むということにもなるのです。
しかし逆にいえば、皆このようにうまくいっている人になりたいと思っているのに間違いはありません。だとするなら、まず徹底的に自分の周囲を見回してみることです。
自分を最も高く気分のいいレベルにおしあげ、最高度の仕事や勉強にいそしむために、何をするべきなのか。
逆にいえば、他人に対して自分がどういう態度をとれば、互いに気分よくいられるのかということも大切です。
あまり褒めすぎず、へつらわず、さりとて無視するのでもない。そうしたコミュニケーションの基本こそが、逆にうまくいっている人の根幹なのでしょう。
どの本を読んでも同じことが書いてあり、これは樋口裕一のベストセラー『頭のいい人、悪い人の話し方』の裏返しバージョンでもあると気づかされたのです。
自尊心をどううまくコントロールするかという命題は、中島敦の名作『山月記』に通じるものがあります。そうでないと、李徴のように虎になってしまうということにもなりかねません。

2006-10-14(土)

グラミン銀行

うれしいニュースがありました。
今年のノーベル平和賞をムハマド・ユヌス氏が受賞したとのこと。
この記事はエッセイⅡの中にもありますが、ここに再録しておきたいと思います。
こういう風にして、貧しい人々を助けることができるという典型的な成功例です。
諦めてはならないということの証左でもあります。
素直に彼の受賞を喜びたいと思います。
グラミン銀行の成功はまさに草の根主義の福音なのかもしれません。

今日、NHKで放送された「未来への教室」を見ながら、感じることがいくつもありました。これはアメリカで学位をとった経済学者で後に祖国バングラデシュのために銀行を設立したムハマド・ユヌス氏の足跡を紹介した番組です。彼が自分で高校生達に解説を加えながら、どのようにして祖国をこれからより豊かな国にしていくのか、という大きな課題をともに考えていこうとするものでした。
バングラデシュはパキスタンから独立したものの、世界最貧国の一つからいまだに抜け出ることができません。農業以外に主要な産業がないのです。農民達はわずかなお金にも不自由し、1タカ(2円)の現金ももっていない時代が続きました。飢餓で苦しむ人たちが大勢いたのです。ブローカー達は農民が作る竹かごや陶器などを安く買う一方で、利息の高い貸し付けをずっと続けていました。
字も書けない多くの女性達は貧困の中で日常を過ごす以外に手はありませんでした。そこでユヌス氏は実際、彼らがいくらあれば自立できるのか調べたのです。その結果、わずか10タカで材料を仕入れ、それを独自のルートで販売できるということを知ります。銀行にかけあって金をかり、それを農民に貸し、回収してみてもやはり銀行は農民を信用しようとはしませんでした。
大学で経済を教えていた彼は、自己矛盾に陥ります。自分が教えている経済学と現実とのギャップがあまりにも大きすぎたのです。
そこで彼は決心をして、学生達と調査に乗り出します。その結果から必ず貸した金が回収できるという自信を持ち、自ら最も貧しい人たちのための銀行を設立します。その名もグラミン銀行です。グラミンとは農民のことだそうです。もちろん土地を持っている人には貸しません。5人で一つのグループをつくり、連帯の環を広げていったのです。
その結果、最初に500タカを借りて、陶器の製造を始めた人、竹かごの材料を買った人などがいました。現金を渡すとき、彼らの手は電気が走ったように震えていたといいます。それまでの人生でみたことのない金額のお金だったのです。
多くの女性達は家族のしがらみの中でただ黙々と働くだけでした。しかしそれでも苦しい状況は改善されなかったのです。アジアの女性達は本当によく働きます。彼らに国の未来がかかっているといっても過言ではありません。子供の教育も女性達に負うところが大きいのです。
銀行の融資のおかげで短大や、大学へ行ける家も増えました。その彼らの中からグラミン銀行へ勤めたいという若者も出てきています。日本円にして1万円を見たことのない人たちが大半だという国を想像できるでしょうか。ぼく達にとって、それはひょっとすると一日のアルバイト代かもしれません。しかし世界は広いのです。彼らはその国に生まれた故に、貧困の循環から出られません。
もしぼくがたとえばバングラデシュに生まれたとしたら、どうなっていたのか。それを今想像するのは大変難しいことです。当然学校へ行くことも困難だったでしょう。教育は貧困の連鎖を断ち切る最大の武器です。しかしそれも学費が払えなければ、かないません。
多分、親の暮らしを再び同じように繰り返すしかなかったでしょう。文字など書けなかったかもしれません。何か矛盾があっても疑問など持つ能力がなかったかもしれません。しかしその方が幸せなのだというのは、先進国で安楽な生活をしている人間の奢った考え方です。
他の国からの援助ももちろん大切です。しかしそれだけでいいというものではありません。いつも自助が必要です。その国の人たちが自立の契機を常にみつけなければ、援助は砂漠にまいた水と同じです。ITをきっかけにして、次々と新しい戦略を練るアジアの国が増えました。インドなどはその代表といってもいいでしょう。アセアンの中も中国の台頭を経て、一枚岩ではありません。
先日もマレーシアのマハティール首相は日本は今、アジアの目標にはならないと明言していました。かつてルック・イースト政策を提唱し、日本を目指していた国からも今や疑問が多く寄せられています。
日本も難しいところにさしかかっています。
グラミン銀行をユヌス氏が設立した時のような、全く新しい視点が今どうしても必要です。(2001年7月25日)

2006-10-01(日)

癒されるということ

癒しという言葉はもう流行語の範疇を超えて、今や誰もが日常的に使います。現代人にとってはストレスからの解放ということが最大のテーマでもあるのです。
食べるものに不自由せず、死なない程度にはとりあえず生活ができるということになると、次により安逸を求めるというのは、当然のことかもしれません。
今まで動物は自然とともに生きてきました。もちろん人間もです。 長い間、日本人は旅をするということも知りませんでした。とくに農業国では、土地から離れるということは、不可能でした。
それだけに、旅というのは大いなる気晴らしであったと思われます。遊牧民族では考えられない、旅の恥は掻き捨てなどという不思議な表現もこの国には生まれたくらいです。
さて現代人にとって移動は一つの日常に過ぎなくなりました。外国へ行くことも旅することも、殊更に珍しいことではありません。日々の生活の延長のようにもみえます。
連休などになると、人々はごく普通に移動を繰り返します。
さてそうした環境の中、情報はますますそのスピードを早めています。コンピュータによる管理は、現代の人間を取り巻く環境を息苦しいものにさせています。
全てが機械に監視される社会になりつつあるのです。
四六時中、どこかで誰かにみはられています。自分のことを誰かが自分以上によく知っています。そしてそのネットワークの中で生きていかなければならないのです。
誰もが、自然の中にひたって鳥の鳴き声を聞きながら、ゆっくり食事をしたいと願いながら、その実、朝の通勤ラッシュにもまれ、職場へと急ぐのです。
せめてイヤフォンから流れてくる音楽に身を委ねるということが、ほんのわずかの息抜きと言えるかもしれません。
ペット、音楽、エステ、岩盤浴、オーガニック野菜の栽培、霊場めぐりなどなにもかもが、あなたを癒しますと言って日々耳元で囁いています。
子供の会話にもそれじゃ癒されないよなどという表現が飛び出てくる時代です。どこまでストレスを抱えて、人々は生きていくのでしょう。
一方では、テロリズムの犠牲になって、人が死んでいく社会も厳然として存在するのです。
かつて経験したこともない、出口なしの不思議な社会が、今ぼくたちの前には大きく屹立しているのです。しかしそこからどう抜け出ていくのかという方法論は、残念ながらいまだに見えていません。

2006-09-23(土)

講演集

考えてみると、今まで実にいろいろな講演を聞きに出かけました。文学者のものがやはり多いです。話し方やその時の気配はやはり実際に聞かなくてはわからないものです。
大学まで来てくれた方々にもお礼を言わなければならないでしょう。
その時の話はぼくの血や肉になっています。
しかしあらゆる講演を聞くなどということは、無論不可能なことです。そういう時はどうしても本に頼らざるを得ません。
講演集も今までに随分読みました。やはり作家のものが多いのですが、そうでない科学者のものなども好きです。
以前はよく森敦のものを読みました。彼が月山で毎晩した講演はなかなかの傑作です。数学に対する造詣の深さにも驚かされました。
江藤淳のものも好きです。実に理知的で、しかも明晰です。
ところでこのところ熱中しているのは、司馬遼太郎の講演集です。朝日文庫から5冊出ています。一巻づつ読み始めましたが、面白くてやめられません。
歴史上の人物について語ったものが多いのは、当然ですが、それだけではありません。
とにかく実に視野が広い。このことに驚かされます。仏教を論じていたかと思うと、すぐに儒教、キリスト教、イスラム教というように広がっていきます。
彼の興味の源泉は、なんといっても日本人はどういう民族なのかということにつきます。この国にイデオロギーというものはあったのか。信長、秀吉の特性から、医者の世界の特殊性、さらには経済、政治というものに対する考え方、世間とはなにかというところにまで伸びていくのです。
実に数十年にわたる彼の軌跡が、今そこにいるように語られているので、本当に面白いのです。
明治の話かと思えば、一気に奈良時代まで飛びます。その知識というより、骨格の確かさに目をみはるといった方がいいのでしょうか。
毎日、あちこちで行った講演を味わいながら、知るということが本当の力になるには、実に長い歳月が必要だなとしみじみ感じます。なんといっても発酵していく時間の醍醐味というものがあります。
大きな知性を失ったものです。
これからも彼の著作を読み続けていきたいと思います。

2006-08-13(日)

音楽座

この劇団のことを書こうとすると、少し胸が痛くなります。はじめて土居裕子主演『シャボン玉とんだ宇宙までとんだ』を見たのはいつのことだったでしょうか。多分、もう15年くらい前のような気がします。
その時の衝撃は強いものでした。なんといっても土居裕子の声の透明さと艶やかさには驚きました。本当にきれいな澄んだ声で、主題歌を歌ったのです。
その歌は今でも歌うことができます。もちろん楽譜ももっています。虹色のシャボン玉空まで飛ばそうというサビのところは、かなりおしゃれなコードで、いい響きです。
彼女は一度死んでそして蘇り、ある音楽家志望の学生と恋に落ちます。まだ四季のミュージカルをそれほど見ていない頃でした。ぼくにとっては一つの洗礼になったような気もします。
その後「とってもゴースト」という作品も見ました。これは何が人間にとって一番幸せか、大切なものかというテーマの重いミュージカルでした。この主題曲もよく覚えています。
この二作で完全に音楽座のファンになったといってもいいでしょう。ダンスのシーンがとても美しかったのです。
とくにそれまでの照明とはがらっとかわって、プリズムやミラーの入った特殊なあかりに変化するのです。その演出は実に巧みなものでした。
その後「マドモアゼル・モーツァルト」とか、「アイ・ラブ坊ちゃん」など、さまざまなミュージカルをみせてくれました。
ぼくが関係したある演劇鑑賞団体のお披露目式の時には、わさわざ音楽座のメンバーとスタッフが集まってくれて、「シャボン玉…」のダンスシーンや歌なども披露してくれました。今でも忘れられないいい思い出です。
あの劇団からは何人もの優秀な俳優が育っていきました。しかしその後、親会社の脱税事件などの影響で、音楽座はとうとう解散を余儀なくされたのです。
土居さんもそうした意味で、活躍の場を随分と狭めることになりました。本当に気の毒でなりません。最近はいろいろなところに活路を見いだしていますが、以前のように力を出しきっているのかどうかということになると、少し疑問も残ります。
しかしその音楽座も昨年あたりから、また活動を開始しました。今年も秋に公演を予定しているとか。
四季に大きく水をあけられてしまいましたが、それはそれとして、もう一つのミュージカルシーンを東宝などとともに、広げていってほしいものです。
財政基盤の弱さはいかんともしがたいところはありますが、彼らの持っている力は並々のものではありません。
また若い世代に音楽座の底力を見せてほしいものです。ぼくも応援を心からしていきたいと思います。

2006-07-28(金)

渡り廊下

つい先日司馬遼太郎の講演を聴く機会がありました。最近は様々な媒体で、亡くなった作家の話を追体験することもできます。さてそこでの主題は日本と西洋の小説の構造の違いについてでした。
元々は建築の話が主でしたが、その中にふっと小説の構造についての話が挟まったのです。
司馬遼太郎の言うところによれば、日本の小説は平屋だということです。どんな話もそれほどに複雑な構造を持っているわけではなく、むしろそれらを次々と廊下でつなぐ形式のものが多いというのです。
それに反して、西洋の小説はとにかく基礎工事をしっかりしたものが多く、最初は本当に退屈で、なかなか読み進むのがつらいというのです。
面白い指摘だと思いました。教会の尖塔などをみても西洋のものは石造りで土台がしっかりしています。ドストエフスキーなどを連想してみれば、すぐにわかるかもしれません。
『カラマーゾフの兄弟』にしても『死霊』にしてもその話は延々と続きます。そして登場人物の関係を把握させるために、説明部分の描写が長いのです。そのかわり、ストーリーが進み始めると、これは面白いとしかいいようがありません。
さて一方、日本の小説はどうか。なんといってもその典型は『源氏物語』でしょう。よく『(原)ウル源氏物語』はどのような構造であったのかという話を聞きます。
紫式部が書き始めた時は、現存しているものとは全くイメージが違っていたというのが現在の通説にもなっています。
彼女は最初からすべての巻を構想していたのではなく、次々と脇筋が広がるにつれ、その構造を継ぎ足していったようです。
まさに渡り廊下でつながれた小説といえるのではないでしょうか。仔細に読んでいくとわかりますが、ほとんどの文章に主語がありません。誰の行動かを探るのは、それぞれの場面で想像していく以外にないのです。
この点は驚くほど、西洋のものと構造の違いをみせています。元々日本人には全体の構成を最初からするという性行がないのかもしれません。そういうことがもっとも苦手な民族だと考えた方が自然なのではないでしょうか。
だからといっては語弊があるかもしれませんが、日本ではエッセイがとてもよく売れます。五木寛之は最近『新、風に吹かれて』という作品を発表しました。かつての『風に吹かれて』もいまだ売れていると聞きます。
デラシネと呼ばれる根無し草を標榜し、加賀の一向宗に根を置く、蓮如に深い想いを抱く作家に、多くの人の共感がなぜ集まるのでしょうか。
構造を持たない、あるいは持ちたがらない日本人の心性について、もう少し考えていきたくなりました。

2006-07-15(土)

あの人は今…

近年、ややテレビというものに食傷気味です。そのせいか、たまに興味があるものを覗くという程度でしょうか。
放送局の方も低予算でそこそこ視聴率をとれるものとなると、企画は当然似たものになります。どのチャンネルをつけても同じような顔ぶればかりになると、ますます見る気もしなくなってしまいます。
局の方でもいよいよネタに困ると「あの人は今…」などという昔活躍したタレントの現在の様子を取材したものなどを登場させたりするようです。
まったくテレビとは無縁の世界へ行った人もありますが、だいたいは芸能界に半分くらい足をつっこんで生きている人が多いようです。
それだけのうまみがあるということなのでしょう。かつてのヒット曲を後生大事に生きていくという姿を見ると、なんとなく一抹の哀れも感じます。
それでもヒットや人気に恵まれた人などはいい方で、使い捨てられていく人間のなんと多いこと。
昨今では政治家だけでなく、タレントの二世、三世も珍しくありません。かつての仲間内からちやほやされるのでしょう。歌舞伎の世界でも若旦那などと呼ばれ、それは居心地のいい場所であると想像されます。
使う側から行っても番組宣伝上、大変効果的で誠に具合がいいのもまたむべなるかなというところです。
しかしこれも一歩間違えるとと甘やかされた末に、業界から放逐されるのですから、本人もよほど、根性を据えてかからなければなりません。
荒川洋治の『言葉のラジオ』という本をたまたま読んでいたら、かつて人気のあった作家達もやがて忘れ去られていくことに苦悩しているという一文がありました。
龍胆寺雄などいえば、かつては大変な人気作家でした。今の村上春樹をイメージすればいいでしょうか。しかし今彼の名前を知っている人はまれです。さらにいえば直木賞で有名な直木三十五などは賞の名前に残っているだけで、実際に彼の著作を読んだ人がどれくらいいるのでしょうか。
大いに疑問です。
なんの世界でも消え去るもののその早さにただ驚かされるばかりです。となると、やはり毎年文庫本を出版している各社が出す百冊の本に残るような作家は息の長さだけで、賞賛されるべきかもしれません。
試みに毎年夏に出る「新潮の100冊」の小冊子を手にとってみると、その半数は入れ替わっています。10年前からずっと入っているのは半分以下です。つまりそのラインナップがこの国のスタンダードということになるのでしょうか。
夏目漱石、芥川龍之介などはずっとその地位を他者に譲っていません。またカフカ、カミュなども同様です。また安部公房、遠藤周作なども確固たる場所を占めています。
文芸の世界も日々変化し、携帯で小説を読む時代になりました。それにつれて携帯作家と呼ばれる人も登場しています。
出版社の体力も落ち、作家の世話を焼きながら、一人前になるまで育て上げていくだけの気力も時間もありません。この点は芸能の世界と全く同じといえるでしょう。
まず売れるか。これが基本です。そのためには少々のことには目をつむるということになります。
その結果が、あの人は今のシリーズに直結していくということになれば、これはおもしろうてやがて哀しきということにもなるのではないでしょうか。

2006-07-09(日)

女の敵は…

昔から、女の敵は女だとよく言われます。本当なのでしょうか。確かに一面ではそうしたことが言えるかもしれません。
女性は同性に対して厳しい目を持っています。その立ち居、ふるまいから着ているもの、持ち物にいたるまで、同性としてのゆるぎない視点でチェックをおこたりません。少しでも自分たちと違うところがあると、それとばかりに槍玉にあげる傾向もあります。
よく女性の多い職場は大変だといいますが、それは当たらずとも遠からずといったところでしょうか。
よく生徒に女子大を勧めると、なんか怖そうとよく言います。実際にそんなことがあるとは思えませんが、どうも女性ばかりの世界になると陰湿ないじめを連想するようです。
やっぱり男子が少しでもいれば、かなりの程度緩衝材になるというのは事実かもしれません。
女性の社員が多いといわれるデパートでも、それぞれの会社で女性占有率はかなり違います。そして一様に男性の社員の多いデパートの方が働きやすいという話も伝わってきます。
昨今では女子社員だけの研修会というのもあるようですが、終わった後の懇親会などで繰り広げられる話の内容は、男性社員の研修会の比ではないとも聞きます。
口のきき方も男性のいる場面とは違うということもあるようです。
細かな指摘は、少しのことでも許せないという女性特有の感情に根ざしているからなのでしょうか。そのあたりは判然としません。
しかし女子高などは全ての行事や委員会を自分たちで行わなければいけないので、かえって自主性が育つという側面もあるようです。それに同性だけの気楽さもあるでしょう。
いずれにせよ、女の子だからここまででいいという育て方から、そろそろ脱却しないと、本当に女の敵は女という言葉通り、互いにつぶし合うだけの存在に堕してしまうということにもなりかねません。

2006-07-01(土)

ぼける仕事

『60歳でぼける人、80歳でぼけない人』という本を読みながら、古典を教えていると、ぼけるなとしみじみ思いました。なんでもこの本によれば、つねに新鮮なことをしていないとだめなのだそうです。
とくにぼけやすい仕事として教師はその筆頭にありました。毎日同じことを繰り返しているからかもしれません。科目の中でもとくにいけないのは、数学と古文だそうです。これは本当に同じことの連続といってもいいでしょう。
いかにも新しいことをやっているようには見えるものの、その内実は似たようなことばかりです。文法が突然かわるわけではありません。いつも使う脳をまた今日も使うということの繰り返しです。
そこへいくとやはり芸術関係は違うようです。つねに新しいものを創造するということが大切なのでしょう。
どこまでも解決しないことを延々と続けるということが大切なのかもしれません。とにかく脳に血液を送り続けることが大切なのです。
年はとっても自分のことは自分でするという気構えがなによりも必要なのです。経済の自立も同様です。
さて明日から何をして生きていけばいいのやら。

2006-06-18(日)

いいこと

世の中にはそんなにいいことばかりありません。
しかしいい顔をしていれば、人は自然と集まってきます。不愉快そうな表情は人を遠ざけるでしょう。
そんなことは誰でもわかっています。しかし実行することのなんと難しいこと。腹の虫がおさまらないという時は、どうしようもありません。
人間はいつも感情のおもむくままに生きています。もちろん、理性でコントロールしていますが、表情にも言葉にもすぐに反映されます。どうしたらいいのでしょうか。
そんなにいい方法があるとは思えません。一番手っ取り早いのは、不平、不満のタネをすぐに捨ててしまうことです。誰だってそれに水をかけて、肥料をやれば、増えていきます。やがて立派な花まで咲かせてしまうかもしれません。
それはいずれ徒花となります。悲しい話です。できたらそうしたくはありません。とすると、やはりいい顔をしていることにつきます。なんといっても笑顔です。笑うことです。そうすると、人はつり込まれて寄ってきます。楽だからです。くたびれないからです。
それしかありません。
いいことを積極的に探す目も必要です。これには知性がどうしてもいります。どんなつまらないものにも、いいことの芽はあるからです。心を平穏にして、怒らないということも大切なことは言うまでもありません。
しかしここに示したことの難しさ、迂遠なことは想像するに難くありません。それでも生きていくことは、この難事の積み重ね以外にはなさそうです。
とにかく耐えることでしょう。いずれまたいいことがみつかることを信じて。

2006-06-10(土)

昇龍のこと

あれは今から35年ほど前のことです。
なんとなく上野の駅でアルバイトをすることになりました。今のようにこぎれいになった上野ではありません。
まだ東北の匂いをたっぷりと含んだ一大ターミナルでした。
ぼくは知り合いの紹介で、駅の売店へバナナと甘栗を卸す会社に勤め始めました。勿論短期のアルバイトです。
キオスクのお姉さん達が注文してくれる数だけ、商品を置いてくるのです。各番線にはたくさんのキオスクがあり、それを一つ一つていねいに廻るのが仕事でした。
駅の隣にある駐車場の一室が商品の倉庫でした。そこへ赴いては、甘栗などを仕入れるのです。
駅というのは外からみると、割合に簡単なつくりのようですが、しかし一歩中へ入ると、地下のトンネルがあったりして、それはちょっとしたラビリンスでもありました。
休憩時間になると、駐車場の一室に戻り、そこで話に興じたというわけです。しばらく後には売り子をやってみないかといわれ、東北本線の入り口などで、バナナを売ったりもしました。
さて昼食時になると、足は自然と闇市の名残りをのこすアメ横へと伸びるのでした。なんといっても値段が安くて、ボリュウムがあったのです。
その中でも特に足繁く通ったのが、中華料理屋「昇龍」です。ちなみにこの店は今でも営業を続けています。行列のできる店です。
売り物はジャンボ餃子です。とにかく大きくて食べきれません。小さなカウンターだけの店でした。ただし当時は今よりも少し小ぶりだった記憶があります。
その注文をとるお兄さんが独特の中国語風の言い回しで、イーとかリャンとかいう数字を交え、厨房へ伝えるのです。その勢いがたまらなく好きでした。
数年前に一度訪ねましたが、人こそ違え、全く同じ符丁を使っていて、思わず嬉しくなったのを覚えています。
頭がつるつるのお兄さんでした。今どうしているでしょうか。
その後、アルバイトを辞めてしまい、昇龍を訪ねることはなくなりました。しかしいつも店先に並んでいた人の気配と、隣の屋台、さらには奥の海苔屋さんの明るい電灯の光を懐かしく思い出します。
最近はアメ横も随分整備されてしまいましたが、ぼくにとっては懐かしい場所の一つです。

2006-05-28(日)

ポッドキャスト

ネット活用はますますその広がりをみせています。
最近ではポッドキャストというものが力を得て、次々とそこへ参入する業者があるようです。
知らない人にとっては全く無縁のものですが、しかし深く広く世の中を席捲しているのです。
アップルが作り出したこのシステムは携帯音楽プレーヤーを前提としたソフトです。登録しておくだけで、自動的に番組が配信され、自分の持っている機器の中に取り込まれます。その番組をどこでも聴けるというのが特徴といえるでしょうか。
ネット上にあるラジオとでもいえばいいのかもしれません。このようなシステムを考えた人たちはやはりすごいと素直に思います。
ただしここからが問題です。それほどにすばらしいものを作り上げたとしても、問題はやはり内容なのです。コンテンツが貧弱であれば、だれも魅力を感じません。どんなに音がいいといっても最新の音楽を全て流してくれるわけではありません。それはやはり買わなければならないのです。
としたらずっと長く聴いてくれ、さらにはスポンサーにとってもメリットのある番組を提供し続けられるものを探さなくてはなりません。
そこで配信する側もいろいろと知恵をしぼりました。
一番驚いたのが、なんといっても落語です。これには正直やられたと思いました。最近はビデオでの配信もあります。
二つ目を中心とした若手がここから育っています。人気も出てきているようです。落語協会もオンデマンドで配信していますが、それよりもこちらの方が携帯ツールに入るだけ手軽だといえそうです。
さらにはニュース。これも定番でしょう。
最近はこれら以上に力の入っているのが、英語関係の番組です。時と場所を選ばないという意味では一番今の人たちのニーズにあっているかもしれません。ライフをはじめとして、ECCもタイムマガジンもやっています。
あるいは3分英語のように簡単な会話をトピックスのようにして配信している局もあります。
外側ができたら次は中身です。中身がつまらなければすぐに飽きられてしまいます。器も大切ですが、なにを食べさせてくれるのかの方がもっと気になります。
トレンドは動くとはいうものの、やはりソフト重視の時代であることは間違いがないようです。

2006-05-21(日)

セレクト・ショップ

近頃はセレクト・ショップなるものがはやっているそうです。本屋さんを例にあげると、店主のセンスで選んだ本がところ狭しと並べられた店のことをいいます。
確かにちょっとかわった傾向の本屋さんがいくつかぼくの通える範囲にもあります。おもちゃや食品、CDなどとのコラボレーションもありということでしょうか。
現代はあまりにも選択肢が多すぎて、何を選ぶのかということだけで疲れてしまう傾向があります。
ちなみに自動車のカラー・バリエーションをみてみれば、そのことがとてもよくわかります。どのメーカーも他社にはない独自の色を出しています。似てはいるものの、やはり違うのです。携帯電話も同様です。
品質、性能、色、形状。そのどれもが次々と変化し、一つとして同じものがありません。
確かに人に押しつけられるのは厭です。これを買えと言われたら、おそらく答えはノーでしょう。そこに自分らしさを出したいのです。しかし同時に選び続けることにも疲れています。
もう少し楽に商品をセレクトできないものかといつもいらいらしています。
多品種少量生産はまさに現代の合い言葉です。かつて松下電器は水道方式といって、同じものを上流から下流へ大量に流し続けました。それでも物の売れた時代があったのです。
しかし今ではそれも夢物語です。誰もが個性を声高に主張します。しかしやはり選び続けることに疲れているのも事実なのです。
そこに登場したのが、セレクトショップです。自分の好みをある程度わかっている人がいて、そこへ行けば安心して品物を買える。いわば自分のかわりに最新のアンテナをたて、商品をセレクトしてくれる人のいる場所がそれです。
洋服の好み、靴の好み。みんな選んで置いておいてくれるのです。けばけばしい色のものが好きでない人のためには、生成りや藍などの自然色でまとめられた商品だけが並べられています。あるいは素材が同じものばかりで構成された店もあります。
本屋さんの例も同様です。そこへいけば、自分好みの本があります。だから安心していられる。くたびれないのです。
しかしよく考えてみると、これも衰弱のひとつなのかもしれません。本当はどんなに疲れても、選び続けなければならないのではないでしょうか。それこそが生きるということの不条理に通ずるからです。
選んでくれることの有り難さと、その矛盾をかかえ、これからもあえて自分で選ぶ生活を続ける意志をもたなくてはと思いました。

2006-05-14(日)

ずる休みのすすめ

日本人は概して真面目な民族のようです。だからずる休みなどというと、それだけで目くじらをたてる人もいるくらいです。でも人間死ぬときにもっと職場にいて働きたかったという人はあまりいないとか。
できればもっと遊びたかった、家族と過ごしたかったという人の方が多いにきまっているのです。最近は大人のずる遊びなどという本があったり、そうしたサイトも見かけます。
それだけ生活にゆとりが生まれたということなのでしょうか。あるいは働くことの意味を根底から考え直さざるを得ない状況があるのかもしれません。
右肩あがりの時代なら働いていれば、いつだって生活はよくなっていったのです。しかし今ではそれも夢です。あるいは望まないリストラもたくさんあります。それならば、できる時にずる休みをしてしまえと開き直りたくなるのも道理というものかもしれません。
山へ海へ行くのもいいでしょう。あるいは都会の中へ深く潜り込んでしまうのもすばらしいことです。
いずれにしても日常から一歩出て、みんなが働いている時間を無為に過ごすということに意味がありそうです。
誰のためのものでもない、自分のための時間をどう使うのかというところに、ずる休みの意味がありそうです。後ろめたさを全て忘れて、堂々と休めばいいのです。
こんなことを書いていると、ばかなことをいっているんじゃないというお叱りを受けるかもしれません。しかし仕事というものは所詮、誰かと替わることが可能なものなのです。自分でなければだめだと言い切れるほどの人は幸せでしょうが、いったんラインをはずれてみれば、会社も組織も今までと同様に動いていきます。
自分がいなかったらどうにかなってしまうと信じたい気持ちは十分に理解できますが、しかしそうしたものではないのが本当のところではないでしょうか。
時には自分の立地点を冷静になって見いだすためにもずる休みが必要なのかもしれません。自分のかわりがどうしてもできないもののために生きるという姿勢があれば、なにごとにもゆとりができ、今までの視点をさらに超えた豊かさを取り戻せるかもしれないのです。

2006-04-30(日)

つつじ

花の季節です。街路樹の花水木がことのほかきれいで、夕闇に浮かぶその色をみているだけで、惹きつけられてしまいます。この世の色ではないような気さえするのです。
ピンクよりももっと濃く、それでいて、清楚な色合いをしています。まさに神のつくりたもうたものという他はありません。
夕刻の太陽の色と、やがて夜になろうとする時間のあわいにその花がそこにあるだけで、なんともいえない妖しさを作り出しています。
またつつじも咲き始めました。白いのも赤いのもピンクのも、それぞれにみごとなものです。
ぼくは生来漢字が苦手なので、いつもつつじを見るたびに、その文字をかえって思い出そうとしたりもします。自分でも不思議です。しかしそれはひどく難しくて、憂鬱や薔薇と同様、一生書けるようにはならないだろうと思います。
しかし最近は便利な道具がたくさん出来、特に電子手帳のようなものを持っていると、すぐに漢字を引き出すこともできるようです。
さてつつじとはどんな文字を書くのでしょうか。試みにひいてみると、実に難しいです。躑躅と書きます。
こんなに難解な文字をさらさらと書ける人はどんな人なのでしょうか。ぼくはしばらくこの漢字の連なりを眺めてしまいました。
すると、まったく不謹慎なことにこれがどくろという漢字に見えてきました。試しにこれもひいてみると髑髏という文字なのです。
どこかなんとなく似ているような気がするのはほぼくだけでしょうか。
どくろとつつじという配合の妙はまさに漢字だけのもので、それ以外の繋がりはどうもなさそうです。しかし、どこか背後に共通点があるのかもしれません。そんなことも気になる季節です。
桜の花には死体が似合うといいますが、さてつつじはどうなのでしょう。誠にとりとめもないことを考えながら、今日も春の一日を過ごしました。

2006-04-16(日)

えぐい

筍の季節です。ぼくの部屋から見える竹林にも、朝から人の姿がありました。どうやら筍を掘りにきているようです。出勤のために外に出ると、スコップを持った人がいたりして、ちょっと面白い風景です。
さて今日の食卓にもどうやら筍が顔をだしそうです。台所にはゆであがったばかりのがありました。季節を感じさせる食材です。
昔おじさんの家の裏ではじめて筍掘りをした時のことを思い出しました。ちょこっと土から出たくらいのが、柔らかくておいしいのです。あまり大きくなったのはもうだめです。
というのも竹というのは成長の早い植物で、あっという間にうまみの成分がなくなってしまうものだとか。
それと同時に俗にえぐいという渋みの感覚が強まってきます。試みに辞書をひいたらこんなことが書いてありました。
「灰汁が強く、喉をいらいらと刺激する。また、そのような感じがあること」
なるほど、的確に表現してあります。
昔、大人達がこの言葉を使うたびに、なぜか不思議な感じがしたものです。普段の生活の中では滅多に使わないものだったからでしょうか。
えぐいという言葉はぼくの中でいつも筍とセットになっています。しかし最近はこれを日常語として使っている場面にも出会うことが多くなりました。微妙な感覚をあらわすのに向いているからでしょうか。
渋みというものの持つ個人的に厄介な感情を、えぐいと表現がみごとに掬い上げた好例かもしれません。
今日の夕飯は筍ご飯でしょうか。
季節の香りを味わえそうです。

2006-03-28(火)

毎日会う人

毎朝の通勤は大変です。1時間ちょっとかかります。以前の学校よりも少し遠くなりました。しかし今度の職場には電車だけで行けるので、時間の予測はきちんとつきます。実にありがたい話です。
ターミナル駅で降り、たった一駅ですが別の電車に乗りかえます。そこから歩いて8分くらいでしょうか。現在の学校に到着します。
この道は線路の脇なので大変細く、大きな車は入れません。通り抜けができないので、ほとんど歩行者専用道路のようです。
1年間、通っている間にたくさんの人と毎日会うことになりました。いつも同じ人が同じ時間に歩いています。しかし話しかけることもありません。実に不思議な関係です。
ある父親と娘さんはいつも楽しそうに小学校まで坂を上ってきます。ぼくとすれ違うのは坂の途中です。手をつないで、娘さんはいろんな話をしています。お父さんは出勤の途中なのでしょう。必ず、お嬢さんと手をつないでいます。いいなあと思います。
小学校の入り口にはいつも同じ先生が立っています。黒縁のめがねをかけ、校門をくぐろうとする子供たちにおはようと大きな声をかけます。
これもいいなあと思います。本当はぼくも挨拶をしなくてはいけないのかもしれません。でもなぜか恥ずかしくて、つい黙ったまま、通り過ぎてしまいます。
さて途中で右に曲がるのですが、必ず5人くらい見知った人に出会います。もちろん、どこの誰かは知りません。一人は外国人です。この人の家はすぐにわかりました。玄関から出てきたところで、顔をばったりと会わせたからです。いつも英字新聞を持って、せかせかと歩いています。女性二人は毎日着ているものがかわります。
最近はとても春らしい色づかいのものになりました。一人は髪が長く、もう一人は短いのです。
いつもトレンチコートのひもを腰のところでぎゅっと結んでいる男の人にも毎日会います。
ちょっと胃が悪いのかもしれません。朝はなんとなく不快そうです。この人にはどこかで会った記憶があります。多分、ぼくの関係している仕事の部署にいるのではないでしょうか。たしか、何かの講演会でお目にかかったことがあります。
もちろん、名乗ったりはしません。むこうでもこの道を通るのは誰と、おおよそ推量していることと思います。考えているのはぼくだけではありません。こいつはいったい誰だろうと、お互いに考えているのです。それが実に愉快です。
このようにして1年が過ぎました。土手にはまた菜の花が咲いています。ぼくの周囲にもいろいろなことがありました。それを全てのみこんでの1年です。こういう風に、人は歳を重ねていくのでしょう。
いつも帰りによる本屋さんには新しい本が積み上げられています。去年の今頃売れた本のことなど、もう誰も気にしていません。それが生きていくということなのでしょうか。
不思議で不思議で仕方がないこの頃なのです。

2006-03-16(木)

就活

また就活の季節になりました。黒いスーツに身をかためて電車に乗っている女子大生がなぜか目につきます。
最近は景気が上向きになったという話も聞きます。きっとそれぞれの目標に向かって頑張っていることでしょう。
エントリーシートなどという表現も「エンシ」と呼ぶのだというのは、つい最近知りました。日本人はなんでも言葉を縮めるのが得意です。
そう言われてみると、就活という表現もその一種だと気づかされました。
幸い、ぼくはたいした就職活動もせずに最初の会社に入りました。試験と面接を一度しただけです。
今のようにシステマティックでなかったからかもしれません。もちろん、あちこち受験しましたから、不合格のお知らせだけはたくさんもらいました。
ところで会社と個人の相性というものも確かにあるのでしょう。どんなにいい会社だからと周囲で慰留してみても、やはり辞表を出してしまうという話をよく聞きます。それぞれの会社には特有の文化がありますから、それになじめないと、なかなか勤め続けるのが難しいのかもしれません。
最近では仮に仕事を始めてみて、自分にあうかあわないかを判断するというシステムもかなり取り入れられているようです。こうした考え方は、殊に忙しいといわれている業種では必要なことなのかもしれません。
仕事とはいうまでもなく自己実現の場です。そこで地道に働き続けていけば、必ず得られるものがあるはずです。
ポイントは簡単です。人の悪口を言わず、人を許し、さらに目標を持って正直に生きる。さらには自分にできることをやりとげ、新しい可能性にもチャレンジする。そうした姿勢を持ち続けていけば、10年後には、大きな実りを得ることができるのではないでしょうか。
成功する人と失敗する人との差は紙一重だと思います。そういった意味で就活中の若い人たちに心からエールを送りたいです。初心を忘れずに、もし入れなくてもくじけず、入社できたら驕り高ぶらずに、一つ一つ仕事を覚えていってほしいものです。
最後に一つ。やはり基本は挨拶ではないでしょうか。これがきちんとできれば、それほどの失敗はしないものです。人間は想像以上に感情の生き物ですから。

2006-03-04(土)

春は名のみの

早春賦という歌は、まさに今頃の季節を歌ったうたです。今日もちょっと外へ出てみましたが、まだ風が冷たく感じられました。日のあたるところはいいのですが、ちょっと陰になると、急に冷えてしまいます。
しかしいい歌はいいものです。この歌の詩が文語調で書かれているためか、抒情があります。最近は学校でもほとんど唱歌を歌うことがなくなったと聞きます。
こうした歌を語り継ぐということも大切なのではないでしょうか。
ところで、卒業式も間近に迫ってきました。式歌も現在50歳代の人にとっては「仰げば尊し」、40代では「贈る言葉」、さらに「未来予想図」「卒業写真」、あるいは「卒業」、最近では「旅立ちの日に」へと変化しているそうです。
どれもみなすばらしい歌ばかりです。こうした世代の差はあって当然のことでしょう。
しかしそうしたものを超えて、やはりいい歌をいつまでも残して欲しいと思うのはぼくだけでしょうか。

せっかくですから「早春賦」の歌詞をここに記しておきます。ぜひ口ずさんでみてください。

春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空 今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを 聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か いかにせよとの この頃か

2006-02-25(土)

人は見た目

竹内一郎という演出家でもあり漫画家でもある人の本を読んでみました。やはりタイトルに少し心動かされるところがあったからです。大変なベストセラーのようです。立ち読みくらいはしたことのある人がいるかもしれません。
さてその内容については多くの人が感想を述べているので、ここではあえてやめておきましょう。
読み終えてみて、人はやはり見た目かなという気分も半分以上したというのが実感でしょうか。他人を判断する時、非言語的な要素が確実に大きいということは全くその通りだと思われます。
どんな顔つきか、髪型か、何を着ているのか。人はやはりその風体から他者を判断しがちなものです。昔から詐欺師は紳士の顔をして寄ってくると言います。
お金を扱う仕事に就いている人ほど、外形にこだわる気持ちが人一倍強いようです。信用以外にはなにもない商売といっても過言ではないでしょう。銀行員がラフな恰好をしていたのでは、誰も信用しないのかもしれません。
まばたき一つでもあまりすると、自分の話をちゃんと聞いていないのではないかと他人は思うと言います。大統領選挙の演説をテレビでする時も、その瞬きの回数で当落がきまるという話は印象的でした。
とすれば、やはり着るものにも持つものにも少しは神経を使わなければいけません。ボロは着てても心の錦は演歌の中だけの話なのでしょうか。
いつも着たきり雀のぼくとしては、大いに反省させられる材料ばかりでした。さてどうしたものでしょう。コーディネーターにお願いをして、毎日、しゃれたネクタイやスーツを着込まなくてはならないのでしょうか。頭の痛い話です。
それにしても人間は第一印象でかなり好き嫌いが出るようです。今度鏡をみながら、にっこりと微笑む練習をしなくてはならないかもしれません。この年になって、まさか整形外科にも行けませんし…。

2006-02-12(日)

つぼみ

梅のつぼみがふくらみかけてきました。つい先日も紅くふくらんだつぼみをしみじみと眺めてしまいました。
もうすぐ春です。楽しみです。また風がやさしく頬をなでる季節がやってきます。
かつて染織家の志村ふくみさんの『一色一生』という本を読んだ時、なるほどと感心させられたことがありました。まだ咲く前の桜の枝を煮詰めると、淡い桃色に水が変色していくのだそうです。
ところが咲き終わった木の枝をいくら煮詰めても、なんの色もでないとか。
生きる力はまさに咲く前の枝に全て閉じ込められているのかもしれません。徒然草にもそうした記述があります。
命はいつも正直です。
だからこそ、見る人間を試しているのかもしれません。真っ正面から向き合おうとする人にしか見えない真実というものが、この世にはたくさんあるような気もします。
ぼくにはまだまだ何も見えません。本当に残念です。時間がいつかそうした目を作り出してくれるのでしょうか。
それも今はわかりません。
とにかく春の来るのが待ち遠しい今日このごろです。

2006-01-31(火)

見えない時間

詩人吉野弘の「風が」という詩の中に見えない時間という表現が出てきます。この詩は有名な合唱曲「心の四季」の中の第一番目に登場する名曲です。

風が

風が桜の花びらを散らす
春がそれだけ弱まってくる
ひとひら ひとひら 舞い落ちるたびに
人は 見えない時間に吹かれている

光が葡萄の丸い頬をみがく
夏がそれだけ輝きを増す
内にゆかしい味わいを湛え
人は 見えない時間にみがかれている

雨が銀杏の金の葉を落とす
秋がそれだけ透き通ってくる
うすいレースの糸を抜かれて

雪がすべてを真っ白に包む
冬がそれだけ汚れやすくなる
汚れを包もうと また雪が降る
私は 見えない時間に包まれている

見えない時間に人は吹かれ、みがかれ、最後に私は包まれていると表現されています。一つのことをじっと観察しているという詩人の態度には怖ろしいものを感じます。
ぼくたちは本当に見えないものと対決をしながら生きているのかもしれません。しかしそれに身を委ねるということの心地よさを、また味わうことも可能なのです。
実はそれこそが詩人の願ったことなのではないでしょうか。
見えない時間をどれだけ意識したかで、人の価値は決まります。声高でなくてもよいのです。自然のいとなみにただ耳を傾け、自らを空しくすることで、世界は豊饒になるのかもしれません。
今朝、この詩につけられた高田三郎の曲を聴きながら、しみじみとそう思いました。見えない時間を意識することは難しいことです。
しかし時は確実に過ぎ去っていきます。
『徒然草』には「沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるがごとし」と書かれています。至言というほかはありません。

2006-01-15(日)

カレンダー

また新しい年になりました。ぼくの机の脇にあったカレンダーも新しいものにかえなくてはなりません。
以前ならどこへいってもちょっとした店でもらったものですが、最近はあまりくれません。というより、カレンダーは自分で買うものに変化したようです。
店の名前が大きく入ったデザインはどうもという人が多いのでしょう。それでも宣伝効果があるとみこんだ会社は、やはり以前と同じように配っているようです。
やはりファッションや化粧品関係、あるいはデザインを前面に出す自動車などのメーカーは随分お金をかけています。
しかし元々そういうものに縁のない衆生であるぼくのところへは、なにも来ませんでした。
先日、ある電気店でもらったものもあったのですが、どうも発色がよくない上に、ぼくのイメージとはかけ離れたものでした。おまけに店の名前が一番下に大きく印刷してあり、結局それは廃棄処分になってしまったというわけです。
近年は毎年JICAから送られてくるカレンダーを机の脇にかけています。世界中の子供達に焦点をあてた心あたたまる写真が多いです。
日本のODA予算が削られていく中で、ぼくのような者にまでカレンダーを送っていただき、大変感謝しています。
凝ったデザインのものより、まず心あたたまるものに、惹きつけられるのはなぜでしょう。お金では買えないものに今年はまた大きく目を向けていきたいものです。
1月の写真は地震と津波で大被害を受けたインドネシア、バンダアチェに新しい船が来た様子が写し出されています。
船の横で微笑んでいる女の子に真の幸福が訪れることを祈らずにはいられません。

2005-12-30(金)

先端恐怖症

駅というのはたくさんの人が集まるところです。商圏としてもこれ以上の立地はありません。
開業当時は閑散としていた駅周辺も、あっという間にたくさんの商店が並び始めました。それと同時に駅のコンコースにも多くの店が開業し、今では駅の中だけで、ほとんどの買い物がすんでしまいそうな勢いです。
最初のあの閑散としていた風景を記憶している身としては、今昔の感にたえません。
住民の数が増えれば、また店舗が増えるという循環がみごとになされています。さて最近、リニューアル工事と称して、駅の周辺の工事が始まりました。構内の全てを一新し、内装を全て斬新なものにかえていく工事です。
それまでの薄暗かったところに全面アクリル板をとりつけ、外からの日がみごとにあふれかえっています。
ところで昨日、あることに気がつきました。長く続いた蛍光灯の傘の上に、突起状の細い針のようなものが一面に突き出ているのをみたのです。
よく見ると、それは大きな駅の表示板の上にもありました。なるほど、人が集まれば、そこには鳥もあつまるのかもしれません。直接的には鳩の害でしょうか。まさかカラスということはないでしょう。いや、あるいはカラスかもしれません。
とにかく駅員が困り抜いているのを知ったどこかの企業が開発したものでしょう。
あれだけ針先がとがっていれば、そこへとまることは不可能です。なるほど、よく考えたものです。以前新宿の都庁へつながる歩道に路上生活者が住み着いた頃のことをふと思い出してしまいました。
あの時も東京都は彼らを追い出すのに苦労したのです。そしてその後にできたものは、突起状のモニュメントでした。もちろん、今でもそれはあります。
あの歩道を歩く時、なるほど、これでは住めないなといつも思います。昨日はそれと全く同じ感想を抱きました。あの蛍光灯や、駅表示板を追い出された彼らはどこへ行くのでしょう。
先端恐怖症の鳩などと笑っている場合ではありません。ぼくたちもどんどん心安らぐ場所を追われているような気もするのです。
環境破壊などと大上段に振りかぶる必要はありません。すでに自分たちの心のなかから安らぎが日一日と失われているような気がしてならないのです。
昨日は駅でなかなかやってこない電車を待ちながら、そんなことを考えていました。

2005-12-22(木)

電波時計

新しいものが好きです。なぜか自分でもよくわかりません。といって時代の最先端をいっているというわけではありません。家には液晶テレビもなければ、DVDレコーダーもありません。ハイブリッドカーに乗っているという事実もないのです。
きっと時代の最後尾にならない程度のあたらしもの好きというあたりが、一番ぴったりした表現に近いでしょうか。
男性は一般に機械いじりが好きだといいますが、ぼくも電気関係のものは嫌いではありません。こうしてパソコンをいじり、ホームページを立ち上げたりしているのも、その証拠だと思います。
まだ自分でつくったことはありませんが、チャンスがあったらいつかパソコンの自作にもチャレンジしてみたいと考えています。
今使っているのはメーカー製のものですが、以前の機種でも空いているわずかの隙間を探してハードディスクを勝手に増設しました。今度の機種もDVDの書き込みができるものに換えました。なんども中をあけ、サイズを測ったりしながら試みたのです。
そういう作業を通じて機械の構造を知ることができます。それはそれでまた楽しいのです。
さて今日は近くの電気店で、電波時計を買ってきました。これも前から欲しかったものの一つです。日本にある2つの基地から発信される電波をひろい続け、たえず時刻を正確に刻むというところにロマンを感じます。
以前、義父が電波時計でなおかつソーラーのものを欲しがっていたので、探したことがありました。これだと半永久的に狂うことがありません。
つねに正確な時刻を知らせ続けるという、時計に与えられた根本の使命を果たすという点が面白いです。
さて今日求めたものはそこまでのレベルではありません。電源はあくまでも電池です。スイッチを入れた途端、日付と時刻が変化しました。本当に正しい時間なのかどうか、思わず電話で確認したぐらいです。
正確さはまさにマニュアルに書いてある通りでした。完璧です。次の問題はこの時計を使いこなすぼく自身の時間感覚です。
さてどうなることでしょうか。きっと今までと同じように無自覚にだらだらと暮らすことになるのでしょう。
あくまでも正確な時計と、それに反比例するかのように無駄の多いぼくの生活との対照はこれからも、当分の間続くことになりそうです。まったくやりきれない思いもしますが、案外このあたりが人間の実像なのかもしれません。

2005-12-09(金)

多すぎる本

本屋さんをひやかすのは、ぼくにとって大きな楽しみのひとつです。売れている本から、まったく売れそうもない本まで、とにかくところ狭しと並べられた本の数々は、まさに宝の宝庫です。それを見て回るだけで、随分と心躍る時間を過ごせるのです。
近年、ますます書店が大型化し、ちいさなところは生き残るのに精一杯ということのようです。
ということはたいていの人にとってついつい、大型書店に足を運ぶことが多いということにつながってしまいがちです。
一歩足を踏み入れるやいなや、本の多さにはいささか辟易してしまう人が多いのではないでしょうか。普通ならどれを読もうかと考えるところですが、まずその数に圧倒されるのです。大袈裟にいえば、どこから検索をはじめたらいいのか、悩んでしまうといったところでしょうか。ちょっと前なら背表紙が必ず何かをささやきかけてくれたものです。
ところがこの物量作戦の前にはちょっとそのエネルギーも萎えてしまいそうになります。
戦後、どんなものでも活字になっていれば売れたという時代から、今は活字なんかになることすら珍しくもなくなりました。
出版点数は膨大なものでしょうが、店頭に飾られることなく、そのまま出版元に送り返されるものも多いと聞きます。
どんな思いで人々が執筆したのかなどと考える余裕もなく、すぐに売れない本は消えてしまいます。そして誰もそのことを悔やみはしません。
また翌日、似たような企画の本があらわれるからです。
本屋さんを覗いて疲れを覚えるのはぼくだけでしょうか。
山のように積み上げられた株の本を見て、こんなふうにお金をもうけるための本が積み重ねられた時代はなかったなとしみじみ感慨にふけってしまうのです。
もう少しなにもかもがゆっくりと進んでいけばいいのになあと思いながら、パソコンに向かっているという現実もまた一方にはあります。
時代は確実に変化しています。しかしこんなに多くの本がほとんど読まれることもなく、断裁されていくのはあまりにも悲しい気がします。

2005-11-22(火)

名前

これは不思議な話です。特に日本人にとってはその感が強いのではないでしょうか。それは何か。名前です。通常、日本人にとって名前は一生変化しないものです。
結婚して姓が変化することはあっても、名がかわるということはありません。どうしても不合理な場合は裁判で名前を変更する合理的な理由などを訴え、認められなければならないのです。
もちろん戸籍の記述などを変更することはできません。
しかしこれが中国ではごく簡単だというのですから、また不思議が増えてしまいました。
最近、何人かの中国人に確かめてみたところ、自分も変えたという人に出会いました。特になんの手続きもいらないらしいのです。今日から変えるということになったら、その場でかえてしまえばいいそうです。
親からもらった名前だから、多少気に入らなくても我慢するという発想がありません。今までの名前とはさようならをして、新しい自分になるのです。
つい最近読んだ中国関係の小説にも、そのような場面が出てきました。文化というのはまさに不思議のかたまりです。だから違いを知ることが楽しいのかもしれません。

2005-11-11(金)

劇場

ここ数日、なぜか劇場のことを考えています。
とにかく好きだというのが一つの理由でしょうか。演劇関係の人には小屋ともよばれますが、そうした空間が好きなのです。
一言で言えば、非日常ということでしょうか。そこで繰り広げられることがらがどんなものであれ、光に照らされ、音の鳴るあの異空間が好きなのです。
あるいは匂いといったらいいのかもしれません。なんとなくそれまでの生活とは違う気配に満ちた場所です。たぶん、そこで繰り広げられることに対する期待が強いからなのでしょう。いつもと違う魂の鼓動を感じます。
さて新しい劇場には想像もできない魅力を感じますが、今までに全くそうではない空間にも遭遇してきました。テント公演などもそうしたものの部類でしょう。あれは弘前の劇団だったでしょうか。
神楽坂の赤城神社というところで行われた公演がありました。東北の持つ不思議な地域性に彩られた面白い芝居でした。今でもあの時の光景がまざまざと蘇ってきます。
あるいは公園全体を舞台にする劇を見たこともあります。あちこちで行われるパフォーマンスを気分に応じて見るというものでした。
しかしなんといっても一番多いのは劇場そのものでの公演でしょう。本当にすわったら動けなくなるような小屋から、やっと舞台が見えるようなところまで、いったいいくつの場所を訪れたことでしょう。
寺山修司の天井桟敷が公演した身毒丸などという芝居は、紀伊国屋ホールの中央に舞台を特設したものでした。あれも不思議な空間だった印象があります。
とにかく演じられた場所の持つ力が現在のぼくを作ってくれているということに素直に感謝をしたい気持ちです。
ところで小屋には当然楽屋もあります。あるいは大道具や小道具の搬入口も必要です。その作り方ひとつで、使い勝手の良さに違いが出るということになります。小さな出入り口から搬入しなくてはならない小屋もあれば、舞台の後方がそのまま開いて、搬出可能なものまで、それはさまざまです。
また座席の下の照明一つにまで神経をとがらせるのが、演じる人間の性でしょう。それでなくては本物とはいえません。富良野塾の公演の時も、完全な暗転が欲しいという希望が、かなえられない不満を主宰する倉本聡さん自身が語ってくれたことも、懐かしい思い出です。
これからも可能なかぎり新しい劇場を訪ねてみたいものだと思います。芝居だけではありません。コンサートのための場所にもまた興味をひかれます。最近はとにかくすばらしい残響時間をもった音楽専門ホールもたくさんできています。
いつも新しい出会いがあるということはとにかくすばらしいことです。演劇や音楽はいつまでもぼくの興味の対象であり続けることでしょう。

2005-11-08(火)

高速道路

縁あって、昨今はよく高速道路に乗ります。一番多いのが首都高速です。いつが最初だったか、今ではまったく記憶にありません。感想はただ一つ。よくみんなこんなに難しい道路を走れるものです。神業に近いのではないでしょうか。
たえず車線をかわらなければなりません。そうしないととんでもないところへ連れていかれてしまうのです。環状になっていますから、また元へ戻れるということはあるものの、一瞬で出口を見逃し、くやしい思いをしたこともあります。
あるいは全く意志に反して、横浜の方までドライブしてしまったことさえあります。とにかく難しいのです。トンネルの中でも、時々車線変更を余儀なくされます。
混んでいる時は、なかなか隣のレーンにうつれません。まもなく別の高速に入ってしまうという限界のところで、やっと変更できた時は、思わずため息がでます。
高速で走れる時ももちろんありますが、一度渋滞になると、もうどうしようもありません。ただ我慢です。トイレの場所もちゃんと覚えておかないと、大変なことになります。首都高にはそれほどにありませんから、何号線に乗ったらどこにトイレがあるのかという心づもりを持っていなくてはなりません。
最近は2ヶ月に一度くらい首都高に乗ります。夜遅くなると、不安ではありますが、テールランプの流れをみているだけで、自分が深海魚になったような気がしてきます。
東京駅も日銀も皇居も全て眼下に見え、それは壮観なものです。毎日新聞の脇を猛スピードで走り抜けながら、自分が日常とは全く違った生物になっているような気にもなります。
おかげさまで事故もなく、今まで過ごしてきました。
しかし通行車線に入るときは今でも緊張します。あれがやめられないという人もいますが、できれば、乗らずにこしたことはないのです。随分昔、父を車に乗せて市ヶ谷の病院へ連れて行ったことがありました。あの時は迷いに迷って、着いたのは午後の3時過ぎでした。当日、入院する予定になっていたので、病院の関係者はやきもきしたとか。
携帯もない時代だったので、玄関で待っていてくれました。懐かしい思い出です。

2005-10-29(土)

樹木

気は木に通じるのかもしれません。大きな樹木の下にいると、なぜか力をもらったような気分になります。樹齢数百年という木には、やはり生命力が宿っているのではないでしょうか。
最近、読んだ本の中にもそのようなことが書いてありました。それは槐(えんじゅ)という木の話です。元々この木は非常に目が美しく、彫刻やあるいは仏壇などにも向いているということです。
その木の下に立つ主人公が、ふと自分の生きてきた過去を振り返り、結局全てを見てきたのはこの木だけであったと述懐するのです。
その主人公とは孟嘗君ですが、彼が生まれてすぐに殺される運命に陥った時、その木にまたがって助けてくれた人のことを思う場面にも出てきます。
考えてみれば、人間の命よりもはるかに確かで長いのが樹木の生命なのではないでしょうか。そう考えると、幹の香りや、日に映えてまぶしく輝く葉の様子など、全てが美しいものに思われます。
また冬になって裸木になった時の雄々しさにも憧れを感じます。むしろ哲学的とでもいった方がいいような、幹の姿には不思議な力が宿っています。
かつて『戦争と平和』というトルストイの小説を読んだ時にも、何度も菩提樹の木の下で主人公達が語りあうシーンのあったことを今、思い出しました。
ぼくちたの生活の中に樹木は人智をはるかに超えたものとして登場します。人の命のはかなさを思う時、樹々の生命の強さ、長さになぜか粛然としたものを感じる人が多いのではないでしょうか。

2005-10-17(月)

天命反転

大垣駅より近鉄養老線養老駅下車徒歩10分とあります。その名も養老天命反転地。不思議なネーミングです。つい最近知りました。ダダイスムの流れを継ぐ建築家荒川修作さんが作ったという遊園地の名前です。
その設計コンセプトが実にかわっています。一部だけご紹介しましょう。

何度か家をでたり入ったりし、その都度違った入口を通ること。
中に入ってバランスを失うような気がしたら、自分の名前を叫んでみること。他の人の名前でもよい。
自分の家とのはっきりした類似を見つけるようにすること。もしできなければ、この家が自分の双子だと思って歩くこと。
今この家に住んでいるつもりで、または隣に住んでいるようなつもりで動き回ること。
思わぬことが起こったら、そこで立ち止まり、20秒ほどかけて(もっと考え尽くすために)よりよい姿勢をとること。
バランスを失うことを恐れるより、むしろ(感覚を作り直すつもりで)楽しむこと。
楕円形のフィールドを歩く時、「極限で似るものの家」の光景をできるだけ思い出すこと。そしてその逆も試すこと。
空を、すり鉢形の地面に引き下ろすようにしてみること。
5つの日本列島のそれぞれを、自分がどこにいるのか位置付けるために使うこと。
日本と呼ばれる列島との、見えたり見えなかったりするつながりで、自分がどこにいるのか常に問うこと。
進む速さに変化をつけること。
フィールドを歩く時に、取らなければならない極端な姿勢を、近くの形と遠くの形の両方に関連付けること。
不意にバランスを失った時、世界をもう一度組み立てるのにどうしても必要な降り立つ場の数、種類、位置を確かめること。
しばしば振り向いて後ろを見ること。
一度に焦点を合わせて見る場所(知覚の降り立つ場)は、なるべく少なくすること。

どうでしょうか。これを読んでいるだけで不思議な幻惑にとらわれます。1995年にできたというこの遊園地をどうしても訪ねてみたくなりました。
ダダには想像の契機があります。確かに再生力という点からみれば、弱さも残りますが、しかしこれもひとつの世界観であることに違いはないのです。

2005-10-05(水)

ものくるる友

『徒然草』というエッセイ集は実に味のある書物です。今から700年も前にこんなことを書いていた人がいるというだけで愉快な気持ちになれます。授業でやりながら、つい微笑んでしまうことすらあります。この随筆集がこれだけ長い命を持っているという理由も、まさに人間の真実をみごとに描いているからでしょう。
先日も「友とするにわろき者」という段をやっていて、全くそんなこともあるなあとしみじみ感心してしまいました。
そのうちのいくつかをご紹介しましょう。
若い人、強い人、酒飲みなどとはつきあうのをやめろというのです。酒飲みなどはすぐに理解ができますが、若くて強い人の何がいけないのかとなると、これは様々な解釈が可能です。
確かに若くて血気盛んな人というのはつきあっていて疲れることもあるものです。そういう点が、兼好法師の気分にそぐわなかったのかもしれません。心静かに暮らすということとは正反対の存在であることは確かですから。
さてもう一つの面白い話は、つきあってもいい友という話です。これはもっぱら実用的で、ものをくれる友人を大切にせよというのです。なるほど、そう言われてみればその通りかもしれません。
しかし今の時代にこういう人がどれくらいいるのでしょうか。子供などがいれば、少し手を通しただけの衣類などがもらえると、ありがたいかもしれません。子供はすぐに大きくなってしまうので、ちょっとした貰い物でも大変重宝するのです。
と、ここまで考えて、やっぱり何かを他人からもらえるというのは大変嬉しいことに違いはないという結論に達しました。
どんなにものがたくさん余った時代であっても、やはりいただけるというのは、無条件にいいことです。
それはきっと鎌倉の昔とかわりはないのかもしれません。
なるほどと、やはり相槌をうちたくなりました。
さすがに兼好法師です。人間はどうやら少しも進歩していないようです。

2005-09-27(火)

夢のハワイ

ある年代以上の人なら、アップダウンクイズの存在を覚えているはずです。10問正解が続くと、ゴンドラが頂上に達し、ついに夢のハワイへの切符を手にすることができるのです。
ロート製薬の提供だったこの番組はかなりの視聴率を誇りました。司会の小池さんは必ず、10問答えて、さあ夢のハワイへ行きましょうとオープニングで叫びました。
せっかく途中までいっても間違ってしまうと、下まで降りなくてはいけないというルールも巧妙なものでした。
最後に10問答えてタラップから降りて来る時、日本航空のスチュワーデスが首にレイをかけ、ハワイアンの音楽が流れる演出もみごとなものでした。
制服を着たスチュワーデスの姿が目にまぶしかったのをよく覚えています。
今から考えてみれば、本当にいい時代だったと思います。ハワイはあの頃、本当に夢の島でした。
大学生の旅はおそらく信州あたり、最も遠くて沖縄か北海道だったと思われます。しかしそこまで行けた人は、そう多くないに違いありません。
それくらい日本は貧しかったのです。
それでは今と比べて不幸だったのかどうか。それはよくわかりません。もう尺度そのものが変化し、何を基準にしたらいいのかわからないからです。
しかしあの時代はあれで十分に楽しかったのです。おりしも大阪万博が始まり、日本は高度経済成長の時代に入りました。
オリンピックで都会が高速道路だらけになり、渋滞が各地で起こりつつありました。
あの時代はなんだったのでしょうか。今となってみると、まるでお伽話のようです。
さて現代、ハワイはもう夢のハワイではありません。誰でもがポケットマネーでいける島になりました。おみやげのマカデミアナッツをほおばりながら、次はどこへ行こうかともう候補地を探しているのです。
20年たったら、今はどんな時代に見えるのでしょうか。そう考えると不思議な感慨についひたってしまいます。
知っている人間は次々と彼岸へ旅立っていきます。本のタイトルではありませんが、そして誰もいなくなった。
ひょっとすると、これだけが本当の真実なのかもしれません。

2005-09-23(金)

使い捨て

久しぶりに自転車を修理し、乗り始めました。秋の爽やかな風の中を走るのは、実に気持ちのいいものです。
長い間、放置していたため、かなり汚れていました。チェーンに油をさして調子を整え、買い物籠を取り除いたりもしました。随分スポーティな感じに変身したのです。
半日、近所を散策しました。ぼくの住んでいる地域は丘陵地なので、あまり自転車にとってめぐまれた環境ではありません。それでも山の近くを走ったり、車ではちょっと寄らない店に立ち寄ったりして、楽しい時間を持つことができました。
しかし長い間、放置していたためでしょう。後輪のタイヤそのものがかなり磨耗して、バースト寸前だったのです。
家に戻ろうとして、長い坂を必死に走っている時、突然破裂するような音と共に、タイヤがパンクしてしまいました。
以前からパンクの修理くらいはしていたので、さっそく100円ショップに行き、バンク修理キットなるものを求めました。最近はなんでも安く手に入るので助かります。このキットには虫ゴムから、パットに糊、さらには取り付け金具までが入っていました。
さて後輪のチューブを出して修理しようとしてはみたものの、あまりにもひどいタイヤの状況を見て、これは交換しかないと判断しました。以前、スポーツ車で試みてはいたのですが、いわゆるママチャリは初めてでした。
近所の店でタイヤを買ったところまでは上々でした。なんとかはずしてとりかえればいいのだろうと軽く考えていたのです。インターネットでもいくつかやり方を紹介しているサイトがあり、それを参考にしました。
しかしママチャリの後輪は難攻不落の城のようでした。そう簡単にはいかないのです。ギヤとブレーキが全てセットのようにして組み込んであるために、これをはずすのが容易ではありません。
というか、こういうことを想定して作っていないということもよくわかりました。1万円~2万円の自転車なら、何年かもてばそれでいいということなのでしょう。わざわざ後輪をはずす手間や工賃を考えたら、新しいのを買ったほうが安くつくのかもしれません。
ちなみにチェーンも一ヶ所、ちぎれかかっていました。これも特殊な工具がないと修理はできません。いずれしても両方を直してもらったらかなりの額になります。
せっかく途中まで試みたものの、ついに諦めざるを得ませんでした。
新聞には今朝も安い自転車の広告が掲載されています。どこでつくられているのかわかりませんが、安い材料と安価な賃金で作られたものが、こうして次々と輸入され組み立てられていくのです。
そして駅前に山と積まれ、やがて市の駐輪施設に雨ざらしになり、その後はスクラップになるか、別の国へ大量にひきとられていく運命となるのでしょう。
仕方がありません。600円を払って粗大ゴミのシールを張り、来週には行政に引き取ってもらうことにしました。
なんでも使い捨てです。箪笥の中に入った古着も、またどこかの国へ流れていきます。安いものを買って一夏使えばいいという発想も確かに存在価値はあるのでしょう。もう一生着ても着られないくらいの衣料を日本人は持っているという話を聞きました。
真実かもしれません。
靴もはけずに町をうろうろしている子供たちをアフリカでたくさんみました。本当に理不尽な世の中です。
ぼくの自転車騒動はこれで終わりです。秋風の中を走りたいと思い、ついまた広告に目を凝らしている自分がいることも事実なのです。

2005-09-16(金)

祭り

祭りというのは、心躍るものです。あの太鼓や笛の音が聞こえてくるだけで、心が波立ちます。
ぼくにとって一番親しみのある祭りは、なんといっても新宿花園神社のものでした。
家の裏手がすぐに神社だったのです。当時の花園神社はかなりの敷地をもっていました。現在の3倍以上はあったものと思われます。参道がかなり長かった印象があります。
幼かったぼくにとって、そこで繰り広げられる光景は全て新鮮でした。神楽殿で踊られた舞を半日見ていたこともあります。あるいは香具師の口上をずっと聞いていました。バナナ売りはもちろんのこと、瀬戸物を売る店や、さらには小屋がけ芝居の口上もぼくには親しいものです。
今にも舞台で大スペクタルが演じられるかのようなあの独特な口調は、今でも身体の中に巣くっています。
ベルの音が鳴ると、もうどうしても小屋の中に飛び込みたくなるのです。人間の心理を巧みに使った技としかいえません。
そしてあの御輿の壮観だったこと。幼かったぼくにとって御輿は憧れの的でした。いつか勇壮な恰好をして、かついでみたいと真剣に思いました。
さて子供達にとって親しみのあるのは山車でした。
ただ引っ張るだけでしたが、たくさんのお菓子をもらい、とても嬉しかったです。
祭りの翌日に神社を訪れると、それまでの喧噪が嘘のようでした。まだ片付けられていない屋台なども見受けられ、それは悲しいような風景だったのをよく覚えています。
金魚が数匹、まだ泳いでいたり、ゴミが散乱したりもしていました。しかしそれもこれも全てがぼくには愛おしかったのです。祭りの日には皆が輝いてみえました。大人達が信頼すべき確かなものに見えたのです。
それまでの日常をかなぐり捨て、本当に力強かったです。ああいう日が二度とくるとは思えません。あの都会になぜこれだけの非日常が現出したのか、今となっては謎です。浅草の三社祭などは今だに大変な喧噪ですが、新宿のそれは随分と小さなものになってしまいました。
子供の頃のぼくにとって、本当に懐かしい原風景の一つです。一生忘れることはありません。

2005-09-09(金)

髭剃り

男と生まれて面倒臭いなあと思うのが、髭です。なんといっても毎日剃らなくてはなりません。最近はかなりいい髭剃りがあるので、随分楽になりました。それでも5分以上はかかります。
以前はもっと性能の悪いものしかありませんでした。いつも剃り残しがあり、不快だったのです。なんとなく触るとざらざらするのです。それに皮膚も痛くなります。いわゆる剃刀負けというものです。
それが新しい高品質の髭剃りだと嘘のようにつるつるになります。
しかしこの歯がしばらくすると次第に切れなくなるのです。替え刃はとても値が張り、そう容易に取り替えられるものではありません。内側と外側の歯を買い換えようとすると。新品で全部買い換える時の半値以上はします。
微細な技術の賜物であることに違いはありません。本当に正確な歯の動きをしなければ、きれいには剃れないのです。しかしきちんと剃り上がった時の心地はいいものです。
女性が自分で納得のいくお化粧をしたときと似たような気分かもしれません。それにしても毎日のことで面倒なものです。しかし剃らなければ、すぐに無精髭が生えて汚くなってしまいます。
アラブの国々では髭をたくわえないと、一人前の男性としてはみてもらえないという話を聞きました。しかしきちんと整えることの方がかえって面倒なのではないでしょうか。
最近では全自動の髭剃り機もあります。使用後、水の中につけただけで、完全に汚れを落としてしまうというものです。
すごいものが開発されたものです。そこまでいかなくても丸ごと、水洗いできるものが増えました。石けん液で洗えるものもあります。本当に随分進歩したものです。
しかし石鹸を使うと、切れ味が落ちると主張する人もいるようです。油を塗ってもだめだといいます。
ちなみにアフター・ファイブ・シャドウとは5時過ぎにまた髭が伸びてくることをいいます。つまり最低一日に2度、髭剃り機のご厄介になるのが男の宿命というものなのかもしれません。

2005-08-24(水)

難しい言葉です。先日読んでいた小説にもありました。そこでは男と女の結びつきのことをさしていました。
もっと他の人と暮らしていれば、こんなことにはならないのにと思いながら、それでも顔をあわせれば喧嘩をし、叩かれそれでも一緒にいるという夫婦の話でした。
業というのはもともと仏教から出ている言葉のようです。カルマという表現を耳にしたことがあります。仏典では因果応報の意味に捉えていて、ここでの内容とは微妙に異なっているかもしれません。
それほど悪い意味ばかりではないのです。
しかしぼくにとって業という表現は、どうしても切れない縁というものに近いイメージを持っています。自分ではもうやめたいと思いながら、しかしそこへ向かってしまう。
芸術を志す人にも似たような面があるかもしれません。それを捨てれば実に平安な人生が訪れたのかもしれません。しかしそれを捨てることができない。
書、絵画、演劇、音楽、学問。あるいは宗教。必ずしも恵まれた境遇にいたから、業にとりつかれるというだけではありません。本当に無惨な境遇の中にも、この業はあるのです。それは想像以上に様々な相貌をもっているのでしょう。
芸術家の生涯は殆どがこの業という言葉でくくられるのではないでしょうか。
すなわち、そうせざるを得なかったということです。他の何かになれる、あるいはすることができる力をもっていたにも関わらず、やはり神はそこにいてそれをしろと命じたのでしょう。
どうしようもない関係を引きずりながら、それでも自分の宿命と考えて生きて死んだ人がどれだけいることか。
この世は業の塊かもしれません。そんなに偉くなりたいのか、そんなにお金が欲しいのかと言われても、その人間一人に解決を委ねることはできません。あるいはこんなに苦しい思いをして、なぜこれをしているのかと問われても、答えられないでしょう。
良くも悪しくも業にとりつかれてしまっているのです。
幸も不幸もない。ただ一本の道を歩いていくしかないのです。それを断ち切るには、その人間であることをやめなくてはなりません。
意志の強い人には可能でしょう。しかし普通の人間にとって、これほどに難しいことはないのです。走り出した電車から飛び降りる覚悟が必要でしょう。
可能かもしれないけど、とても怖ろしい。だからこそ、人は人なのかもしれません。

2005-08-18(木)

のようなもの

樋口裕一氏の本が売れているということです。もともとは予備校で小論文を教えている先生ですが、時流に乗るというのは怖ろしいものです。明治大学の斎藤孝氏も最初はおずおずという感じでしたが、最近では、なんでこんなに本を出さなくちゃいけないのかという状態になってしまっています。
ここまでくると、名前を載せただけの企画になっている印象は否めません。少し味気なく感じるのはぼくだけでしょうか。
さて樋口さんの本のタイトルは『頭のいい人、悪い人の話し方』というものです。なんとも直截的な題です。
論理的な人とバカな人、その話し方の違いはと言われると、思わずドキリとさせられます。しかし内容はごくオーソドックスなものといって差し支えないでしょう。
何気ない会話に、その人の知性が現れるというのはあたりまえのことでもあります。ぼくたちは常に、他人を分別して生きています。これは好むと好まざるとに関わらずといったところでしょうか。
そこでの尺度として、最も大きなものはその人の持つ気配であり、使う言葉です。たわいのない世間話の中からでも、互いにその人の人間性を推し量ろうとしています。話し方ひとつで、仕事ができるかどうか判断したりもします。全くくたびれる話です。
そこで筆者は「道徳的説教ばかりする」「他人の権威を笠に着る」「具体例を言わず抽象的な話ばかりをする」のパターンを示しています。さらにはこんな話し方では異性に嫌われるという実例として「何でも勘ぐる」「優柔不断ではっきり言わない」「自分のことしか話さない」もあげています。
さらには人望が得られない話し方として「おべっかばかりで自分の意見がない」「ありふれたことしか言わない」「正論ばかりを口にする」などを槍玉にあげているのです。
ぼくにも随分思い当たる節があり、ちょっと耳が痛かったです。ということはつまり、ぼくもバカの一人ということなのでしょう。
しかしこういうちょっと何に見えるとか、最低な人間に見えないためのノウハウなどというハウツー本ばかりが売れるというのも、少し悲しい気がします。
人々に余裕がないのか、時代が浅薄なのか、意見の分かれるところでしょう。どうしたらいいのか、またわからないところが、病んでいる時代ということなのかもしれません。

2005-07-31(日)

アルハンブラの思い出

タルレガというギターの名手が作ったこの曲をはじめて聴いたのは高校時代でした。友人のY君が実に巧みに弾いてくれたのです。トレモロというかなり高級なテクニックを使う演奏は、一朝一夕にできるものではありません。
ぼくは器用にギターを弾きこなすY君の技量に感心したものです。後年、自分がこのアルハンブラ宮殿を訪れるとは思ってもみませんでした。
グラナダまでマドリッドから夜行に乗っていきました。草原を走る列車はこの地域特有の蒸し暑さにうだっていました。
ぼくは車掌に何度も交渉して、なんとか寝台車に滑り込むことができました。本当に運がよかったのです。ここはクーラーもきき、別天地だったのをよく覚えています。
グラナダに着いたのは早朝でした。駅前のカフェで簡単な食事をしながら、街の様子をしばらく眺めていました。途中で知り合った気象大学の学生さんとこのころはずっと旅を続けていたのです。
めざすアルハンブラ宮殿は丘の上でした。背中にしょったバックパックが肩に食い込み、それでもなんとか丘を這い上がっていきました。
途中で教会に立ち寄ると、静かな礼拝の時間でした。ほんの僅かの人が祭壇にぬかずいていたのです。
やっとのことで宮殿に着いた頃は、もう息が上がっていました。スペインは本当に起伏の多いところです。その後訪ねたトレドでもやはり、長い坂道に難渋しました。
711年にイベリア半島に進出したイスラム勢力は瞬く間に半島を制圧し、コルドバなどの都市では西ヨーロッパより遙かに高いレベルのイスラム文化が花開きました。
しかしキリスト教勢力がこれを徐々に押し戻し、15世紀後半にはついにイスラム最後の砦であるグラナダが陥落し、イベリア半島は再びキリスト教勢力のものとなるのです。
アルハンブラはイスラムの芸術性の高さを本当に見事に描き出しています。あの水の使い方のすばらしいこと。装飾の細かなこと。パティオの風景が今でも蘇ってきます。
砂漠の多い地帯に領土を持っていた彼らは、水を生活の中にどう取り入れるのかということにはことのほか熱心だったようです。
それにしても「アルハンブラの思い出」という曲を聴いていると、あの要塞の上に立っていた時の自分自身が思い起こされてなりません。
ピカソの生地マラガまではほんの僅かです。もう少し時間があれば、寄ってこられたのにと思うと、今でも残念でなりません。
スペインはもう一度どうしても訪れたい魅惑に満ちた国です。名曲を聴きながら、宮殿の威容をつい思い出してしまいました。

2005-07-24(日)

モチベーション

動機付けなどとよく訳されますが、これはなかなかに微妙な要素をたくさん含んでいます。というのも、英語合宿に参加し、英語漬けの生活をする中で、生徒がどのように変化していくかをありのままに見る機会を得たからです。
語学というのは、短期集中ももちろん効果的なものですが、ぼくは元来螺旋階段のように漸進するものだと考えています。
突然急激に進むということも確かにあるでしょう。しかし気がついてみたら、以前より理解できるようになったというのが、本当のところなのではないでしょうか。
英語が好きで入学してみたものの、自分以上にできる人があまりにもたくさんいることに、少し驚きを持ったという生徒も多いようです。なんといっても外国で生まれ、そうした環境の中にいた人は強いのが、ある意味で当たり前です。
日本人の中に育ち、ごく普通に中学校で英語を学んできた人にとって、数日間の英語漬け特訓は息苦しい面も持っていたようです。
かえって英語嫌いにならなければいいのですが、劣等感の方が強くなってしまったのでは、せっかくの合宿も効果半減ということになります。
最終日、やっとこれで英語だけの生活からしばらく足を洗えると思った人もいたのではないでしょうか。もしそう思ったなら、それはごく自然なことで、むしろいまこそ母国語の力をつける時かもしれません。
最後はやはりコンテンツの勝負になると思います。どんなに発音が美しくても、内容が伴わなければ、十分な英語力とはいえません。ユーモアも人間性を養わない限り出てこないものです。
例えばインドのネール首相はそれほど、うまい英語を話した訳ではないということです。しかし、いつも彼のまわりにはたくさんの人垣ができたといいます。
それは彼の話す内容が、他の誰よりもすぐれていたからなのです。
そうした意味で、今回の合宿にはそれなりの意義があったものと信じます。へんに斜に構えるのではなく、むしろ積極的に自分の能力を磨く場面を作ってほしいものです。
生徒の一人は言いたいことは山のようにあるけれど、どうしてもとっさに単語が思い浮かばないと話してくれました。これも実感でしょう。
そこから少しづつ這い上がっていくしかありません。どのような手段であれ、気づきの場であったということは、大きなモチベーションになったと思います。
今回の反省をこれからの学習にいかせれば、それがもっとも大きな成果となりうるはずです。ぼく自身、随分いい勉強になりました。モチベーションもあがったと思います。
これからもまた螺旋状の勉強を続けていく覚悟ができました。感謝したい気持ちでいっぱいです。

2005-07-09(土)

内反小趾

外反母趾という言葉はよく耳にします。しかし内反小趾というのは初めてでした。
実はちょっと若者向きのスニーカーを買ったところから、この話は始まります。近くにあるアウトレットショップには休日ともなると、若者がたくさん押し寄せます。そこでぼくも一つ最新のスニーカーを求めようとチャレンジしたわけです。
元々、甲高だんぴろという典型的な日本人の足を持っていますので、やめておけばよかったのです。しかし魔がさしたというやつでしょうか。必死になって自分にあいそうな靴を探しました。
この靴探しという代物は結構厄介なもので、デザインだけで選んでもうまくいきませんし、サイズだけでもだめです。
両者がちょうどマッチしたところで、相槌を打つわけですが、なかなかうまくいったためしがありません。
その日もかなり努力はしました。いくらアウトレットといってもかなりの値がします。当然選ぶのも真剣にならざるを得ませんでした。
そして最終的にはいつもより、ちょっと細めのしかし足にフィットしたものに出会うことができました。5ミリ長めでないとうまく入らないというのが、気にはなりましたが、なんとか折り合いをつけたのです。
さてそれから数ヶ月。とうとうギブアップということになりました。症状はまさに外反母趾の正反対、内反小趾というやつです。小指の付け根が腫れて赤くなり、とてもスニーカーを履くような気分ではありません。草履の方がいいくらいです。どうやら全治1ヶ月とのこと。当分、幅の広い靴しか履けそうもありません。
今回のことで何より驚いたのが、外反母趾の正反対の概念があり、ちゃんとそれにあった言葉と症状があったことです。
なにをばかばかしいと言われれば、それまでですが、かなりぼくとしては感動しています。というか、驚いています。実際患者になった自分自身の足をさすりながら、女性はもっと大変だろうと同情を禁じ得ませんでした。
先の細い靴などを履く女性は、この両方の症状を同時に発生させることもあるとか。全くお気の毒なことです。美をとるか、実をとるかは大変に難しいです。
これも究極的には、個人の意識の問題に還元されるのでしょうか。それにしても痛いのにはまいりました。教訓、年をとったら若者のように恰好をつけてはだめですね。

2005-07-03(日)

農業国だった頃

日本は長い間、農業国でした。だから変化にも弱いのです。
これだけ情報が飛び交い、日々変化する時代に、どうしていいのか誰もわからなくなっているような気さえします。
北朝鮮、韓国、中国ともどのようにつきあえばいいのか、道筋が見えません。靖国問題もそうです。
中国はここぞとばかりに突き進んできます。当然そこには戦略もあります。国と国との対応には勝ち負けの要素が強いのです。それにどう対応したらいいのかわからなくなっています。北朝鮮にも経済発動ができません。
常任理事国に入りたくてうずうずしているようですが、その戦略も見えません。
石油はどんどん値上がりし、経済は踊り場からもう一つ抜けきれません。
というか日本全体がどこへ向かっていったらいいのか、なかなか見えてこないのが現状でしょう。かつてのように経済優先で突き進めた時代は楽でした。今はもうそれもかないません。
どんどん中国が追いかけてきます。彼らには頭脳もセンスもあります。改革もうまいです。やがて日本は追い落とされてしまうかもしれません。少子化で生産性が低くなり、小さくまとまった国になれればいいですが、一歩間違えれば負担ばかりが高く、それに見合った社会にならないかもしれません。
農業だけをしていればいい時代は楽でした。真面目に働いていれば、明日の生活は予測できたからです。
しかし今、明日は見えません。誰もがどうしたらいいのかという指針を求めています。
どこにそれが存在するのでしょうか。日本人は理屈よりも雰囲気を大切にする傾向があります。勢いのいい言葉に煽られる傾向もあります。一番、避けなくてはいけないことです。
これからの時代を生きていく若者達はもっと学ばなくてはいけないでしょう。それにも方法論と戦略が必要になることはいうまでもありません。
記憶に頼る勉強だけでは、もうどこにも進めないのです。

2005-06-17(金)

チップ

日本人にとって一番やっかいなのは、なんといってもチップです。外国暮らしが長ければ、そんなこともないのでしょうが、短期の旅ではまず悩みます。
先日、英語の講座を聴きながら、なんて日本は単純な国なのだろうと、あらためて感動してしまいました。それくらい面倒臭いものです。
ヨーロッパにいけば、必ずトイレットの入り口に女性がいたりして、その人にチップを渡さなければいけません。
アメリカへ行ったら、各州の税金の約倍は支払わなければならないとあります。最近の相場では15%から20%、場合によると30%ぐらい出すこともあるそうです。
こうなるともう税金みたいなもので、ちょっとした店にはいるのが怖ろしくなります。一度の飲食代がどれくらいかわかりませんが、その2割以上をいつも余計に支払うというのにはかなりの抵抗があります。
しかしほとんど時給のないアメリカなどのボーイさんにとっては、これが死活問題となるわけですから、まあ仕方がないといえば、それまでではあります。
日本ではよほど高級なところへ行かない限り、サービス料などというものはとられません。言われた額だけを払えばいいのですから、こんなに単純なことはありません。中国でもまったく同様です。
たかがチップといいますが、これだけでも調べてみれば、文化の構造がはっきりと見えてきます。
かつてヴェネッチァに行った時、荷物を運んでくれたボーイさんにチップを渡したことがあります。
本人はすごくたくさんあげたつもりだったのですが、どうも少なすぎたのか、がっかりされた顔をよく覚えています。イタリアのリラは単位だけが異常に高くて、実際の価値はほとんどないのです。
今度行った時は、前回の轍を踏まないようにしたいものです。
しかしたかがチップ、されどチップです。本当に世の中は複雑な構造になっていると感心してしまいます。

2005-06-05(日)

安部公房のエッセイ集『砂漠の思想』は今となってみると、大変懐かしい本だ。その最初に出てくるのが、ルナールの警句、蛇、長すぎるなのである。いかにも卓抜な切れ味で知られる安部公房らしい、世界への誘惑に満ちた書き出しである。
なるほど蛇は長すぎる。あんなに長い必要はない。
とにかくぼくの最も嫌いな生物のひとつだ。あんなものを首に巻き付けている人を見ただけで、卒倒しそうになる。というか、そういう類の人とは友達には絶対になれない。
ぬるぬるしているというのは嘘だそうである。ウナギとは違うのだ。むしろかさかさとしているという。触ったことがないから、よくわからない。
昔、八ヶ岳へ行った時、がそごそと長いものが突然動き出した。あの時は、本当にもうダメかと思った。すぐ声をあげて逃げたのである。妻には笑われた。それくらい嫌いなのである。唾棄すべきものという表現が一番あたっている。
マングースとハブのショーなどというのも見たことはあるが、どうもああいうのには馴染めない。ハブ酒などといってアルコールの中につかっている蛇を見ただけでもういやな気分になる。まむし酒も同様だ。どうしてあんなものを手に入れたいのか、その精神構造がよく理解できない。
ことほどさように蛇が嫌いなのである。ではどうしてか。安部公房も書いているが、多分それはあまりにもほ乳類と形が違い、彼らの日常というものが容易に想像できないからだろう。
ぼくも多分その通りに違いないと思う。昔は家の守り神で、屋根の梁をよく這っていたものらしい。
白蛇などは神の遣いとして信仰までされたと聞く。
いずれにしても蛇は長すぎる。ああいうものと暮らさなければならないのだとしたら、ぼくには田舎暮らしは一生出来ないに違いない。
幸い都会にあまり蛇はいない。しかしこっちにはもっと怖いものがたくさん棲息しているのである。

2005-05-29(日)

動物たちへ

ぼくは今まで、動物たちにあまりに冷淡でありすぎたかもしれない。ふとそんなことを考えた。小さな頃はただ集めてきて、結果としてそれを殺してしまった。
時に昆虫であったり、魚であったり、鳥だったりしたこともある。どうしたって子供というものは、それほど生き物の心性ということには着目しない。つまり自分勝手なものだ。せっかく飼うことになったカメや金魚にだって、ほんのきまぐれでエサをやる程度である。
もちろん最初は熱心に、そしてしばらく後にはほとんど忘れて、また外へ飛び出してしまったものだ。
小学校の高学年になってもザリガニ取りなどに熱中したが、ビニール袋いっぱいになった彼らの行き着く先は、結局どこかのどぶあたりがオチだった。なんてかわいそうなことをしたのだろう。
元々、ぼくの家には犬も猫もいなかった。大都会の片隅に住んでいた身としては、そんなものが家の周囲にいては厄介千万だったのである。なんといっても家のまわりはビルだらけで、とにかく人がそれほど住んではいなかった。
つまり子供の頃からあまり動物といい関係をつくってこなかった。そのことが後年になって人生のちょっとしたツマヅキにもなったような気がする。
幸い、配偶者になった人はあまり動物が好きでなかったので、家の中ではあまり混乱が生じるということはなかった。
しかし実家へ行くと、大都会で暮らしていたことへの反動か、郊外へ引っ越したのを契機として、父親がいろいろな動物を飼いだしたのである。最初は金魚だった。これくらいならまだいい。彼らの意志でこっちへ寄ってくるということはないからだ。
次はメダカだった。これは増えた。なんでもなつくものらしい。とんとん水槽をたたくと、確かにそばへ寄ってきた。
その次がインコだ。これは実にやっかいで、毎日エサをやらないと死んでしまうし、鳥かごの掃除も想像以上に面倒くさい。おまけに羽があちこちに飛ぶ。
さらには家の中で放し飼いをするということになって、母親はやめてくれと再三懇願したが無駄だった。事態はいよいよ極まった。この鳥は食事をしている時も、頭の上を飛ぶ。まあ、それくらいしかやることはないのだろう。同情には値する。
さて父の頭が一番とまりやすいと見えて、そこを常宿にしているうちはよかった。だが、これがどんどん人間に馴れて、まことにたいへんなことになった。
つまり四六時中、家の中をうろうろしているのである。一緒になって食卓のものをつまむようになったのは想像に難くない。
しかし生き物には寿命というものがある。この後始末というものも大変なことだ。
昨今はそうした葬儀を一手に引き受けてくれる会社もあるという。ペットのご葬儀なんでもOKというやつだ。もちろん、お墓の面倒もみてくれるのである。このレベルになると、やはり犬、猫の類が一番多いようだ。かみつきガメやワニに異常な愛情を傾ける御仁もいるだろうが、爬虫類や両生類には、やや想像不可能な日常というものがあり、それがどうしても一線を画すということになる。
ここでぼくは重大な告白をしておかなければいけない。それは犬がどうも一番苦手な動物の一種だということをである。こんなことをいうと笑われるかもしれないが、どうも噛みつかれそうな気がするのだ。別に相手はどうとも思っていないのだろうが、吠えられるだけで実にまいる。
この犬を飼いだしたのはいつだったか。ぼくが家を出て結婚した直後だったかもしれない。息子達が次々といなくなった腹いせということでもあるまいが、突然コロちゃんが家に登場した。
しかし当然のことながらこれがどんどん大きくなる。家に入ろうとすると吠えられるのでまいった。そばへいってなでてやるなどいうことができない。ぼくはあの畑正憲氏とは違うのである。あんなふうに犬やライオンの顔をぺろぺろ舐めるなどという荒技はとうていできない。
しかしこのコロちゃんもやがて絶命し、その次にもまた二代目コロちゃんがあらわれた。彼とも決して良好な関係ではなかったことをここに告白しておこう。
つまりぼくは動物たちにとって、決していい人間ではないのである。というか最悪の無視されるべき存在なのだ。
ここでひとつくらいはなにかいい関係はないかと思って過去を振り返ると、子供達が家で飼ったインコが死んだ時、これこそが生命の教育だと信じて、近くの小学校の校庭の隅へ埋めにいったことくらいか。あの時は子供達と一緒に合掌をした。
あの頃ぼくは完全に生き物係だった。毎日、餌箱を吹いて、新聞紙を取り替えた。罪滅ぼしの意識が少しはあったのかもしれない。
ことほどさように動物愛好家とはほど遠い暮らしをしている。
今日はなぜかカンガルーや象のことばかりを考えている。どういうわけだろう。不思議な一日である。
この欄は今まで、全て「ですます」調で書いてきたのに、どうしてもそれでは気分がおさまらない。どうぞご容赦願いたいものである。でもどうしてこういう文を書こうとしているのかもわからない。人間というのは実に不可解なものである。

2005-05-21(土)

若さ

失ってはじめてわかるものの一つが、若さでしょう。昨日の体育祭を見てしみじみそう思いました。時間と言い換えてもいいかもしれません。
誰もが同じ時間をもっているはずなのに、しかし無駄に費してしまったと自戒しているのはぼくだけでしょうか。
若い頃は、自分が若いということを全く自覚していませんでした。今の時間がいつまでも続くと考えていたのです。まさか年齢が先に進むなどとは思ってもいませんでした。
父や母、そして叔父や叔母は最初からその年であったように存在していたのです。もちろん、合理的に考えてみれば、それがばかばかしいものであることは自明です。しかし時間は自分の周囲だけは止まっているかのように見えました。
おそらく、、昨日体育祭で燃え尽きた生徒達も同じような気持ちでいるだろうと思います。
いつまでも高校生でいたいという気持ちと同時に、自分が年齢を重ねるなどということが、あってはならないと考えているのではないでしょうか。
数十年にわたって教師という仕事をしながら、たくさんの若者達を見てきました。時分の花といってしまえばそれまでのことですが、やはり若さは美しく輝いてみえます。
おそらくそれはその時だけ花開くものだからでしょう。神がわずかの時間、彼らの頭上にそうした約束の大地を繰り広げていてくれるのです。
やがて夢見る頃を過ぎて、そのきらきらと光る時間がよりいっそう美しいものに見えていくのかもしれません。しかしもう一度同じ時間を与えようと言われても、さてすぐにそこまでフィードバックしたいかといえば、これはなかなか難しい話です。
その時代にはやはりつらい苦しいこともあったと思われるからです。時は一度だけ。それがやはり人間に与えられた平等の原則なのかもしれません。
それだけに輝いて欲しい。輝き続けていてほしいと願うのです。かつて若者であった者たちを、心癒すのもやはり若い人々の一途な心だけが持つ特権なのでしょうから。

2005-05-15(日)

挨拶は難しい

話を3分以上してはダメだそうです。人の神経はそれほど集中が効かないとか。そう言われてみればそんな気もします。
このところ、職場がかわったこともあって歓送迎会が続きました。あちこちで挨拶をしたり、また人の話を聞く機会もあったというわけです。
いくら3分といわれても、つい長くなってしまう人もいますし、中には自慢のような話があったりして、ちょっと聞いていてつらい時もあります。
ことほどさように挨拶というものは難しいものです。どんなに練習をしても、今日はうまくいったなどというためしはありません。かぼちゃがたくさん並んでいると思えといわれても、やはり目の前には生きた人間が座っているというわけです。
こんな話をしない方がよかったなあと後で後悔することもあります。しかしそれも後の祭りなのです。自分の失敗談を入れなさいとか、結論を先に言いなさいとか、本を読むといろいろなテクニックが載っています。
今日こそはなんとかやり過ごそうと思っても、うまくいかないのが挨拶というものです。そうであるならば、せめて謙虚に短く、どこか光る一言を残して、さっと壇上から去る努力をしなければならないでしょう。
これからもやっぱり挨拶は難しい、とそのたびごとに呟いていそうな気がします。

2005-04-23(土)

人は寂しき

昨日、タレントのポール牧さんが飛び降り自殺をしました。いつもテレビに出てくる時のあの明るさが、記憶の底にあるだけに意外な印象を受けたものです。
得度までして、僧侶になっても人は煩悩から抜けられないものなのでしょうか。肉親や兄妹をなくした悲しみが大きな引き金になっているのではないかと新聞にはかかれていました。もちろん収入の不安定さなどもその遠因にあるのかもしれません。
人の心の中は誰にも覗くことはできません。というか、自分自身でも本当に心の内側をみることはできないのかもしれないのです。俗に魔がさすという表現を使いますが、これが一番真実に近いような気もします。
ぼくは子供の頃から軽演劇と呼ばれるものを見続けてきたので、ことさらこうしたコメディアンの存在を近しいものに感じます。
ところが昨今のテレビの作り方をみていると、古い芸人の活躍する場はほとんどなくなりました。いわば素材としての面白さだけで勝負する時代になったのです。それだけに飽きられることもまた早くなりました。若いタレントが使い捨てられていくスピードのなんと早いことでしょう。
浅草を代表とする軽演劇の土壌で育った芸人たちにとって、今の笑いは異質なものに見えるはずです。それでも生きていかなければならないところに、日々の苦しみがあります。
ポールさんは自身の芸をなんとか今のテレビの枠の中に押し込めようと努力したのではないでしょうか。話題作りにも励んだと思われます。
髪を剃って僧籍に入り、さらに新しい笑いを追求していました。しかしそれもサイクルの短いテレビの世界では生き残るだけの資質にはなりえなかったのでしょうか。
かつての軽演劇と呼ばれるものは、ほとんど消えてなくなりました。渥美清に代表された良質な笑いは、根底に庶民と呼ばれる人々の悲しみを背負っています。どんな時でも笑い、我慢して生き続けなくてはならない人の哀しみを知っていたからこそ、人々は寅さんの中に、もう一つの別の豊かさをみました。
だが時代は明らかに変化しています。
今回の自殺はそうしたことに対する疲れから来ているもののように思われてなりません。かつて路地や裏道が存在し、そこに確かな生活がありました。しかしそれもたんなる記憶の片隅に追いやられようとしています。
新しい駅や、近代的なビルの背後に点在する人の寂しさを誰が、これから表現していくのでしょうか。
脚本家市川森一のコメントに、浅草の芸人で残っているのはビートたけししかいなくなった、とありました。
時代はどこへ進んでいくのでしょうか。

2005-04-09(土)

桜と狂気

いよいよ春爛漫。いい季節になりました。桜がみごとに咲き、日本は四季のはっきりした国だとしみじみ感じます。
季節の移り変わりがこれほどみごとな風土にはそれにあった文化が生まれるのは当然のことでしょう。
和歌も俳句もこの季節感に支えられているのです。
さて桜は咲くときも美しいけれど、散るときもまたみごとなものです。散華という言葉はよく戦争などの時に利用されてしまいましたが元々はそんなニュアンスを含んではいなかったのです。
それは大和魂という言葉と同じ不幸な運命をたどりました。
さて桜に一番あう言葉は何かと考えてみると、それは狂気だろうと思います。どこか人が狂っていく時の様子に思えてしまうのは、ぼくだけでしょうか。坂口安吾は桜の樹の下には死体が埋まっていると言いましたが、まさにそれも狂気の一端かもしれません。
心中の道行きにも桜は必須です。こうした風景に死や狂気が似合うというのも、また日本の風土なのかもしれないのです。

2005-03-31(木)

鬱病からの生還

俳優、竹脇無我の書いた鬱病日記を読みました。実に8年間、この病と闘ったということです。彼の父親は有名なNHKアナウンサー、竹脇昌作です。あの口調を一度でも聞いたことのある人は忘れることはないでしょう。
それくらい有名な人でした。しかしその父親も昭和34年、40代後半で自殺してしまいます。このことが息子であった彼にとってどれくらい重いことだったのか、今度あらためて知りました。
父が自死したのと同じ年齢になった命日の日、彼は脂汗を流したといいます。その日を自分が超えられたということが、大きな事実だったのでしょう。
父のいなくなった家をなんとかするために、映画やテレビの仕事をなんとなく始め、人に自分をさらすという激務にだんだん神経がたえられなくなっていったものと思われます。
仕事のない日は、2ダースもビールを飲んで、じっと金魚を見ているという日々だったそうです。周囲の人も心配して、仕事の量を減らしてくれたりはしたものの、舞台やテレビの予定は通常、半年前に決まります。
仕方なくまた働くという日常がよくなかったのでしょう。とうとう電話さえも持てなくなるというところまでいきました。緊急入院をしてみたものの、しばらく薬を飲むと楽になり、それがまたこの病気を長引かせるもとになったのです。
完全に休養をとり、薬の投与を続けないと完治しないそうです。ここが鬱病のもっとも難しいところで、特に躁と鬱が交互にくる彼のような症状は、医者も大変判断に苦慮するものだといいます。
しかしそうした日々の中で、森繁久弥さんや、加藤剛さんからもらった手紙は実にありがたかったとその内容まで紹介しています。
一言でいえば、無理するなということでしょうか。自然体でのんびりいこうよにつきると思います。
8年かけてやっと生還した彼は、死ななくてよかったとしみじみ書いています。いずれ黙っていても人は死にます。急ぐことはないでしょう、というのは実感に裏付けられた言葉です。
心の風邪と言われる鬱病ですが、患者数は大変多いと聞きます。ストレスの強い社会だからこそ、また人はその身体を無防備にさらけ出してしまうものなのかもしれません。
心の健康ということが、いかに大切かということをしみじみと感じました。姉、兄などとの心の交流もこの病気から生還するために、いかに大切だったかということもよく書けています。何かへんだと感じたら、ためらわず心療内科や神経科へ行くことも必要な時代になりました。

2005-03-27(日)

スーツ姿

駅で若者達のスーツ姿を多くみかけるようになりました。
しかしどこか不釣り合いな印象は否めません。きっと会社訪問で使ったものなのでしょう。内定がとれてからは、しばらくタンスの中で眠っていたものと思われます。
ひょっとするともう研修が始まっているのかもしれません。今までGパンばかりはいていた学生が、突然ネクタイをしめたというところでしょうか。
お互いの会話もどこかぎごちなく、まだ顔をあわせて数日という雰囲気がよく出ています。長い就職活動の果てにやっとつかんだ社会への切符です。この出会いを大切にして欲しいものです。
親の期待も大きいものなのでしょう。ニートにもならず、フリーターにもならなかったのですから、それだけで、大変な親孝行というべきなのかもしれません。
さてぼく自身が入社した頃のことを思い出すと、何もかもがとにかく珍しかったのをよく覚えています。コピーとりから始めました。今はどうなのでしょうか。即戦力が求められている時代です。もっと内実は厳しいことでしょう。
三つボタンのスーツを着て大きなバッグを抱え、研修所へ赴くのはちょっと気の重い話です。しかしこれが人生の大切な一歩となるのです。
もしあの頃に戻れたら、ぼくは何をしていたのか。いくら違うように生きようとしても、結局は同じところに行き着いたのかもしれません。紆余曲折の果てに現在があるからです。
しかしだからぼくにとってはあの時代がとても貴重なのかもしれません。サラリーマン時代を過ごしたことは大きな財産です。あの時、コピーとりから始めたことには大きな意味があります。
研修などしてくれるような会社ではありませんでした。だが、毎日がそれこそ生の研修そのものでした。
今でもとても懐かしい日々です。あの時代に学んだことが、これほど後になって役に立つとは思ってもみませんでした。人間関係の作り方や、応対の仕方など、全て新人の頃教えてもらったことばかりです。
新入社員となった若者達のスーツ姿が、なぜかまぶしくて仕方がありません。これからの未来に、ついエールを送りたくなってしまいました。

2005-03-13(日)

大江光の音楽

音楽は人間を癒す最高の手段だと思います。どんなに言葉が違っても、音楽は心の襞の奥にまで届いていきます。
もう一度生まれ変わることができたら、今度は音楽家になってみたいと願う瞬間が何度あったことでしょう。
大学のグリークラブの指揮をしていた小林研一郎が美しい声で、アカシアの道を歌ってくれた時もそれは感じました。
人には美術に強いタイプと、音楽に強いタイプの2通りがあるといいます。ぼくには絵は描けません。しかしいい音楽ならわかります。どういう音で、どういう旋律を奏でようとしているのかということだけはわかります。それで今は自分を慰めている段階でしょうか。
以前はある鑑賞団体の会員になっていて、よく上野の文化会館へ通いました。大変有名なオーケストラやオペラばかりをみていたのですから、随分贅沢な話です。
しかし昨今はホールへ通うことも少なくなりました。もう少ししたら都心へでも引っ越して、また音楽会や芝居にうつつを抜かしたいものです。いつか実現する日がくるといいですが、夢のまた夢でしょう。
最近は仕方なくCDを借りてきては聴くだけの生活が増えました。今日は久しぶりに大江光のものをきいています。頭にこぶができて生まれた大江健三郎の息子です。生まれつきの知能障害であった彼に神が与えたものは作曲の才能でした。
誕生の時の様子は、大江の小説『個人的な体験』のモチーフになっています。後にイーヨーと呼ばれる造形のモデルにもなりました。
このCDは3枚目のものです。以前のよりもさらに洗練されています。亡くなった作曲家、武満徹に捧げたものもあります。バロックの音楽を感じさせるものや、新しい音を使ったものなど短いものですが、不思議に心安らぐ曲ばかりです。
フルート、バイオリン、ピアノの音を聴いているだけで、魂はずっと遠くへ運ばれていきます。人はどこから生まれてきたのでしょうか。なぜこれほどにいつも音楽を必要とするのでしょうか。
本当に分からないことばかりが、次々と堆積していくばかりです。

2005-02-27(日)

旅立ちの日に

4年前に卒業した生徒達がいよいよ、就職の季節を迎えています。高校で学んだことをさらに大学で伸ばし、いい友人を得て、大きく成長しました。
昨年には今まで経験したことのない就職活動も行いました。幾つ受けても内定がとれないとこぼしていた生徒もいました。学力だけをみるのではない社会の側面をあらためて知った諸君も多いことでしょう。
なんとか内定をもらうために、自分を見つめ続けた大切な期間だったと思います。自分が本当はどういう人間なのか、何に向いているのか、あるいは何ができる人間なのかと問い続けたことでしょう。
その結果として、いよいよ4月がやってきます。現代の就職はかつてのそれとは大きく違い、終身雇用や年功序列とは縁の薄いものになっています。
しかしそれでも縁あって就職したからには、大いに力を出して活躍してもらいたいものです。
これからの1年間は今までの数年にあたるのではないでしょうか。多分、驚きの連続だろうと思います。精神的にも一気に飛躍し、大人になるチャンスです。
親元を離れ、一人暮らしを始める人もいるでしょう。はじめて夢にみた一人暮らし。しかし現実は甘いものではありません。親の有り難みというものをいやというほど知る時がくるはずです。
それでもまずやってみなければ、なにもわからないのです。経験は最大の宝です。なんでも見てやろう、なんでもやってやろうの精神で是非、頑張ってください。
時には疲れ果てて、もう仕事をやめたいと思う時が出てくるかもしれません。そうした時こそ、友人の存在が本当に身にしみてありがたいものです。
旅立ちの日に言葉をと言われたら、凛として生きる勇気を持てと言いたいです。どんなことがあっても自分を大切に、誇りを持って生き続けてください。
生きることはそれだけで苦しいことです。しかしいいことも楽しいこともたくさんあります。
友達を大切に。
あたたかい春がすぐそこまで来ています。

2005-02-20(日)

続けるということ

この数年、ホームページやプログを開設する人が一気に増えました。以前よりハードルが低くなったということがあるのでしょう。誰でも簡単にページをつくることができます。
特にプログはハードルが低いようで、毎日のようにたくさんのサイトが生まれています。
卒業生達もかならずクラスのページを作って、そのアドレスを教えてくれます。しかし卒業直後はいざしらず、数ヶ月経つ頃から閑古鳥が鳴き始め、やがて掲示板にも誰も何もかかないという状態になってしまうことが多いようです。
期限がくると自然に消滅してしまうタイプのレンタル掲示板が多いのか、時々開こうとしてももうなくなってしまったということもあります。
こういう時は大変寂しい思いをするものです。人間は新しい場所へ出ていけば、当然違う行動様式をとるもので、いつまでも過去にしがみつくのは、逆にいえばおかしなことなのかもしれません。
しかし卒業直後の熱気に満ちた掲示板が寂しいものになっていくのは、やはり悲しいものです。そこに人の世の無常を感じるのも、仕方のないことかもしれません。
むしろ何もなかった時代の方が全て自然体でよかったのかもしれないのです。なまじ、いつでも連絡をとれる媒体を持ったが故に、人の心というものが透けて見えるということもあります。
そうした意味で、いつまでも続いているサイトを眺めていると、単純にああいいなあと感慨にふけってしまうものです。
今年もまた卒業のシーズンになりました。新しいサイトもまたたくさん生まれることでしょう。願わくば、あっという間に忘れられてしまうページにならないよう、是非ささやかでもいいから続けて欲しいものです。
続けるということはそれだけで、大きな意志を必要とします。無理にすることはありませんが、できるならいつまでも人の輪を保ってほしいものです。
なんの利害もなかった人のつながりだけが、結局は一生の財産になるのではないでしょうか。
人はいつも自己の利益だけを考えていきているものではありません。利他の心もまたたくさん持っているものなのです。誰かのために役に立てた時の喜びは、お金では買えないものです。
続けるということの意志の力をこの春、卒業する皆さんに忘れて欲しくはありません。
ささやかなことでいいのです。内容は当然、人によって違うことでしょう。
いつまでも続けていくことが大切なのだとしみじみ思います。

2005-02-05(土)

沈丁花

小さな花ですが、いよいよ春になるという予感を感じさせてくれます。強い匂いを好む人と、敬遠する人に別れるのは、当然かもしれません。
子供の頃、隣の家の庭からこの花の香りがすると、いつも不思議な気分にさせられました。どこかオリエンタルな風景を想わせもします。
花を一つつまんで、鼻先へもっていくと、沈丁花がいよいよ春を運んでくれるのだといううれしさで一杯になりました。
強い風がやがてやんで、いよいよこの花のさく季節になります。長かった入試シーズンも終わり、何もかもが一新する時です。
新しい旅立ちのためにはまず、一つのことをきちんと終えなければなりません。
そうしたことをじっとみていてくれるのが、ぼくにとってはこの花のような気がするのです。
駅へ急ぐ朝の道で、日を浴びながら思い切り香り高く咲いている沈丁花が、今は待ち遠しくてなりません。

2005-01-30(日)

文七元結

久しぶりに柳家小三治の「文七元結」を聴きました。40分にもなる長い話です。志ん朝が亡くなった後、正統な江戸落語を引き継ぐのは、この噺家以外にいないと思っています。
江戸前のべらんめえ調は一朝一夕にできるものではありません。
最高の録音技術で録られた高座だけに、息の調子までが手に取るようにわかりました。
博打に入れ込んで、とうとう無一文になった左官職人の長兵衛の娘、お久がなじみの吉原の店に身を売ろうとするところから、この噺は始まります。
ぼくが好きなのは最初の夫婦げんかの喧噪から一転して、吉原で大店を経営する女将の気っ風のよさにあります。
お金は50両貸しましょう。お嬢さんもお預かりしましょう。芸事や、お茶、お花など女性が学ぶべき一通りのことも教えてあげましょう。それまではお座敷に出して客をとらせることもいたしません。
しかし来年の暮れ、50両をきっちりと持ってこなければ、わたしは鬼になるよと呟き、長兵衛をきっと睨み付ける時の鬼気迫るすごさが、たまりません。
ここに大店の女将としての真骨頂があります。人の裏表というものを見事に描ききったシーンです。ここがきちんとできないと、この噺はおさまりがつきません。
さて娘と涙で別れたあと、橋にかかった時から、その後のべっこう問屋での様子までが、第2幕ですが、ここでの主人の大人ぶりにも感心します。50両をすられてしまったから死なせてくれという手代文七に、なけなしの50両を投げつけてその場を去る長兵衛の気持ちがいたいほど伝わってきます。
ここには娘に不憫な思いをさせた親の愛情としかし命と引き替えにはできないという揺れる気持ちが色濃く反映されています。演者の力が自然とでる場面です。
ここで親というものの持つ哀しみがきちんとあらわせないと、後半が生きてきません。
べっこう問屋の主人の粋をきわめた対応もみどころです。
最後、50両をあげるような人間がいるわけがない。また博打をしたんだろうと夫婦で大げんかをしているところへ、かしらを先頭にして、娘が送り返され、最後は文七と娘お久との祝言、元結問屋の繁栄という、気持ちのいい大団円になります。
善人だけで描かれた世界といえば、それまでですが、ここには親と子の美しい愛情が痛いほど描かれています。
以前、歌舞伎でも菊五郎の主演で観たことがあります。しかしぼくにはやはり落語の方が、より実感にちかいものを感じます。
小三治は本当にいい噺家になりました。やがて小さん襲名の日もやってくるでしょう。
人情噺には人間の感情の世界が強く描かれます。この噺を聴きながら、ぼくは涙が出てくるのを止めることができませんでした。

2005-01-23(日)

努力する姿

今朝、立川談志のインタビューが新聞に載っていました。なかなか興味ある面白い話です。それによれば、客は努力していると主張するような落語を聴きにきているのではないということです。
ただ面白いから聴くのだというのです。むしろ、自分の努力する姿を見せるなどというのは、芸人としては野暮だと主張しています。
さらっと面白い芸を見せ、聴かせて高座を降りるのが、最高の芸人だということなのでしょう。本当の芸人なら、しらずしらずのうちに精進ができるものなのです。
それが好きで、稽古をしていなくてはどうしてもイヤだというぐらいにならなければ、本物にはなれません。そうした長い時間の後に、なんともいえない味のある芸が表出するということになるのです。
俗にフラという言葉があります。あの芸人にはフラがあるというような表現を使います。これは生まれつき独特な味わいを持っている人をさします。
しかしこれも長い時間との戦いの後に生まれたものと考えるのが自然でしょう。努力を感じさせないところに、誠の芸というものがあるのです。
つまらないギャグなどをやっているだけでは長持ちはしません。あるいは一時、ちやほちされることもあるかもしれません。しかし時間は正直です。全てをあぶり出してしまうものなのです。
かつて桂文楽が国立劇場で大きな失敗をし、それ以降、二度と高座に上がることはなかった話はあまりにも有名です。
それだけの覚悟をもって努力を続け、その姿を誰にもみせないということが本当の芸人の生き方でしょう。
そうした意味で、談志の話は興味あるものでした。今日、粋とか野暮とかいう表現も死後になりつつあります。
だからこそ、こだわる人間がいると、つい快哉を叫びたくなってしまいます。

2005-01-15(土)

辞めてよかった

江波戸哲夫の『やめてよかった』(日本経済新聞社)を読みながら、ぼく自身かつてのことを思い出しました。
会社を辞めるというのはかなりのエネルギーを必要とします。入社する以上に多分くたびれるのではないでしょうか。周囲の人の目も気になります。敵前逃亡になったのでは、やはり後の関係が壊れてしまうからです。
その他、いろいろなことを考えるにつけ、当然のことながら悩むものです。退社後の生活に不安がないといったら嘘になるでしょう。
この本の中にも似たような話が出てきます。彼の引用している話は実に含蓄に富んでいます。
作家の宇野千代さんが男女問題に関して、ある読者から悩みを打ち明けられた時のことです。彼女は「迷うのならおやめなさい」と実にあっさりしたものだったということです。
「私は迷うより前にもうその人と暮らしていた」と呟いたとか。なるほど、本当にその決断に迷いがなければ、人は黙っていてもどんどん前へ進んでしまうものなのかもしれません。
なんとなくどっちにしようかと思い悩む時には、やめた方が無難なのかもしれないのです。
そう考えてみると、ぼくも随分昔、やっとのことで見つけた出版社を実にあっさりと辞めてしまいました。入社1年半後のことでした。若かったせいもあるでしょう。しかしあの頃は、自分の人生は自分で切りひらくという気概に燃えていました。その時一緒にやめた同僚が、今その雑誌の編集長をしているという話をつい先日聞かされて、なるほど人生は不可解だと思ったものです。
その後、フリー生活をしばらく続けたりもしましたが、それもこれも大きな目標があったからこそできたことなのです。
そうした意味で、決断と実行はいつも自分の中で表裏一体のものであったと言えます。
さてこれからの人生ではどうでしょう。いつリタイアするのか。これも考えなくてはいけません。辞めてよかったといえるように、つねに縦に自分の領域を広げる努力をする必要があるでしょう。
同じことを繰り返していたのでは面白くありません。いつでも新鮮な自分でいられるだけの、フットワークを持っている必要があります。
できないとはいわず、まずやってみること。これも大切な行動の基本でしょう。

2005-01-06(木)

あたりまえだけど、とても大切なこと

なんでこのような内容の本が出版されるのだろうと思いながら、つい立ち読みをしてしまいました。
修身の時間が転じて道徳となり、それも今や形をとどめていません。
道徳は当然死生観にまで踏み込みます。すると宗教を抜きにしてはどうしても語れません。しかし日本の公教育は宗教教育を禁じています。だからつい道徳を教える立場の教師も、腰がひけ、内容がおざなりになってしまいがちでした。
死の授業などというものを最近は取り入れている学校もあるようですが、まだ少数です。残念ながら倫理規範の弱い生徒が大量生産されるという悪循環をこの国は繰り返してきました。
さて内容はあまりにも単純なので、読んでいるとちょっとめまいがしてきます。しかしこういう本が売れる時代になったということなのでしょう。
親の世代も確かに変わりました。家での躾も十分に行われていないのかもしれません。だから逆にこのような本が新鮮にうつるのだと思います。
著者はハーレムの底辺校から優秀児を輩出し、米国で最も優秀な教師に選ばれたそうです。
日常のマナーが最終的に生きる指針にまでのぼりつめていくところが、この本の真骨頂かもしれません。
目次を見てみましょう。

大人の質問には礼儀正しく答えよう
相手の目を見て話そう
だれかがすばらしいことをしたら拍手をしよう
人の意見や考え方を尊重しよう
勝っても自慢しない、負けても怒ったりしない
だれかに質問されたら、お返しの質問をしよう
口をふさいで咳やくしゃみをしよう
何かをもらったら三秒以内にお礼を言おう

これを読んで、何かを考え、反省すればそれで十分なのかもしれません。しかしなんという時代になったことでしょう。躾までもがマニュアル化され、その行き着く先がこの本の存在なのかもしれないのです。

2005-01-01(土)

徒然草の感性

お正月の風景はいいものです。昨日と何が変わったというわけではないものの、やはりどこか心の引き締まる感じがします。
昔はよく凧をあげたりもしました。
叔母の家が川崎にあったので、そこへ行くと広場に出て凧をあげたものです。
しかし今そうした原っぱはなかなか見あたりません。子供達を取り巻く風景は一変したのです。
今は部屋の中でテレビゲームをするのが一般的なのでしょうか。何もかもがかわっていくのが人生だとしたら、これくらいの変化を受けとめられないようではもう生きていく資格がないのかもしれません。
ところで、兼好法師の書いた徒然草をほぼ毎年授業で読んでいます。そのたびに新しい発見があるのは、この随筆がよほど優れたものであるからに違いありません。
その中で、大晦日からお正月にかけての記述は、今までに何度も読みました。
京都の風景ですから、東京のそれとは少し違いますが、しかし元旦の様子を描いた一節などは、なんど読んでもその通りだなと感心させられます。
少しだけ引用してみましょう。
タイトルは「おりふしの移り変わるこそ」というものです。これはその最後の部分です。

追儺より四方拜につづくこそおもしろけれ。晦日の夜いたう暗きに、松どもともして、夜半すぐるまで、人の門叩き走りありきて、何事にかあらむ、ことごとしくののしりて、足を空にまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。
亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東の方にはなほすることにてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、花やかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

昨日と少しも変わらない空も、やはり新年となると、違うものに見えると兼好は書いています。追儺とか四方拜とかいう行事も今ではなくなってしまいました。
時代はどんどん変化しています。しかし人の心は案外昔も今も同じなのではないでしょうか。
千年近くの間、多くの人に読まれ続けてきた本には、人の心を打つ何かが確かにあると思います。

2004-12-11(土)

シュリーマンに学ぶ

このところ、また『古代への情熱』を読み返しています。何度読んでも面白い本です。このタイトルそのものはシュリーマンがつけたものではないそうですが、今では実に有名なものになってしまいました。
シュリーマンという人の評価は今もさまざまです。山師のように言う人もいれば、偉大な考古学者だと説く人もいます。しかし彼がトロイアの遺跡を発掘したことは間違いがありません。そこから出てきた夥しい数の収集品は、ギリシャの偉大な遺産となっています。
なんといってもこの作品の中では、子供の頃の様子がいちばん面白いです。8歳になった頃、父親からもらったというゲオルク・ルートヴィッヒ・イェラー著『子供のための世界史』という本で、はじめてトロイアの都のことを知ったとあります。城塞の門、スカイアイ門が炎上する風景をイメージし、本当にこの都があったことを少年は信じたのです。
著者は必ず、この燃え上がる城壁を見たに違いない。それを自分の力でいつか発掘したいと心に誓ったそうです。
それからの道のりは本当に果てしないものでした。商人の見習いとなってオランダで働き、その間に語学を一つ一つ修得していきます。 シュリーマンの一番すごいところは、なんといってもこの語学習得にあったのではないでしょうか。給仕の仕事をしながら、英語の勉強をする様子が生き生きと描かれています。
ここにはあらゆる外国語習得法のエッセンスがつまっているといっていいでしょう。
とにかく大きな声で音読すること。ちょっとした翻訳をすること。作文を書くこと。先生になおしてもらうこと。前の日の文を暗記すること。これだけをひたすら繰り返したのです。
彼は一つの言語について、ほぼ6ヶ月で十分だと言っています。
用事をいいつけられたら、使いに行くときは手に本を持って暗記し、司祭の説教は繰り返して呟いてみます。夜起きている時間は晩に読んだものを頭の中で繰り返しました。
このようにしてフランス語。オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語というふうに似た系統の語学を次々とマスターしていきました。さらにはどうしてもホメーロスの書いた叙事詩『イーリアス』を原語で読むためにギリシャ語、ラテン語にまで手を出したといいます。
この時の熱意がなければ、後のシュリーマンはなかったでしょう。かれはその後も商売を忘れることはなく、茶や藍、綿などの貿易商として巨万の富を得ます。
普通の人ならば、ここで悠々自適の暮らしを始めるところです。しかしそこからが彼のすごいところです。全ての仕事をやめ、いよいよトロイアの遺跡の発掘にかかるのです。
日本ではちょうど明治維新の年。彼は既に45歳でした。ローマからナポリを経て、イタケー島を調査します。そこから発掘可能な地域を次々と広げていき、ついにトローアス地方のヒサルリクという場所をみつけます。ここがトロイアの遺跡のある場所でした。
たくさんの人を雇い、全ての財産を費やして、かれはひたすら発掘にいそしみます。そこにはもちろん名声欲もあったでしょう。しかしそれだけでは説明できない熱いものを感じます。
今は文庫本ですぐに読めてしまいますが、その内側にある情熱はそう簡単に読み解けるものではありません。
語学習得法として読むだけでも一読の価値があるのではないでしょうか。何度読んでも新しい発見があります。

2004-11-20(土)

日和

寒い日々が続くと、妙に日差しが恋しくなります。それも小春日和がひときわ恋しいのです。
縁側で紅葉の紅くなったのを楽しみながら、さまざまなことを考えていた日々もとうに昔のこととなりました。
大学に入ってしばらくしてから、友人が東京を去ることになりました。何か考えたいことがあったのでしょう。あの頃は誰もが自分を見失いそうになっていました。
大学へいっても授業のない日もあり、正門の前にはたくさんの機動隊がいつも大きな車を横付けにしていました。
校内では拡声器の大きな声で、さまざまなアジ演説が行われていたのです。
そんなある日、友人から一通の手紙が届きました。消印は秋田です。その手紙の中にはただ能代はいいところだ、と書いてありました。ぼんやりと一日を暮らしているが、日和がとにかくあたたかくて柔らかいと書いてありました。
あの時、ぼくは本当に日和という言葉を実感したのだろうと思います。何があったのかはだいたい想像がつきました。
明日は機動隊に突っ込むという前の日にも会いました。歯ブラシを持ち、ヘルメットをかぶり、マスクと手ぬぐいで催涙弾をよけるのです。
その後、留置場に入り、それからの秋田行きです。彼が祖母のそばで、ただ冬の日和に身を委ねている姿が目に浮かぶようでした。
あれから月日が過ぎ、彼は高校時代の同級生と結婚し、今札幌に住んでいます。
もう何十年も会っていません。しかし日和という言葉を思い出すたびに、ふっとその表情が浮かんできます。高校時代の文化祭でイムジン河をうたったのも彼です。大きなベースが似合っていました。
今日は久しぶりに小春日和が戻ってきました。
これから外を歩いてみるつもりです。

2004-10-28(木)

枇杷と椎

子供の頃、ぼくにとっての遊び場は新宿御苑でした。正面から入らなくても入り口はあちこちにあったのです。子供だからこそ、できた芸当でしょう。
とにかく広い園内にはたくさんの木がありました。
その中でも一番に好きだったのは、なんと言っても枇杷の木です。夏になるととにかく登っては実を取りました。幾らでもなっていたのです。少し小さいのは酸っぱくて、それでも都会に住んでいる子供にとっては、自然の恵みそのものでした。
皮をむき、種をそこいらに飛ばしては、また次の獲物に挑戦するのです。皮をむくと、中にちょっと茶色の薄い膜があって、それが妙に新鮮でした。実が甘いのもあれば、少しも味のない、なんともおいしくないのもありました。それもこれも御苑の枇杷だったのです。
秋になると楽しみはどんぐり拾いにうつりました。椎の実を必死になって拾ったものです。
大きなものはかなりの重みがありました。それを袋に入れて家に持って帰り、炒って食べたりもしました。香ばしいかおりがして、ちょっと栗のようでした。
残りのにはだいたい爪楊枝をさして、独楽にした記憶があります。どんぐりというのはそこにあるだけで、なんとなく嬉しくなります。実に不思議です。
形に丸みがあり、それでいて存在感を感じるからでしょうか。椎の実をあちこちに見かける頃、一つの季節の到来を実感したのかもしれません。
ぼくにとってクヌギの実はあまり親しいものではありません。まん丸くてかわいい形をしていますが、園内にはあまりクヌギの木がありませんでした。どんぐりといえば、もっぱら椎の実を連想します。
時には池の側で遊ぶこともありました。一度などは足を踏み外して、落ちてしまったこともあります。まだ4,5歳の頃だったでしょうか。
夢見る頃と呼ぶこともできないような、本当に昔の懐かしい思い出です。

2004-10-27(水)

ジェットストリーム

故人になった人のことはすぐに忘れ去られていくものです。それがあたりまえです。それでいいのです。
しかし生きている人間の中にいつまでも鮮烈な記憶として残る人もいます。その一人がぼくにとっては声優の城達也なのです。彼はグレゴリーペックの吹き替えもやりました。
しかし城達也ここにありといえるのは、なんといってもあのジェットストリームがあったからでしょう。
レイモンルフェープルの演奏するミスターローンリーにのせて、毎日FMから流れてくる彼の声には、切ないまでの甘さがありました。
ぼくが最初にこの放送を聞いたのは高校にに入ってすぐの頃だったろうと思います。
友人の家を訪ねた時、とにかく聴いていけと勧められたのです。放送は真夜中の0時から、スポンサーは日本航空一社でした。
当時まだFM局はFM東海という実験放送の段階でした。ほとんどFMを聴けるラジオは電気店にもありませんでした。友人の父親が自作したというものすごく立派なステレオで、はじめてぼくはこの番組を聴いたのです。
今でもその時のことをよく覚えています。ナレーションがまさに機長のアナウンスをイメージしたもので、声の甘さと夜間飛行の魅力が実にマッチしていました。
文字通りパイロットプログラムとして始まったのは1967年だといいます。その後、FM東京に引き継がれ、彼が亡くなるまで27年間続きました。
はるか雲海の上を音もなく流れる気流は…とか、夜のしじまのなんと饒舌なことでしょうか、とかいう文句に続いて、今宵あなたの夜間飛行のお伴をするパイロットは、わたくし城達也ですと語るあの口調は、まさに一時代をつくりあげたと思います。
その後、たくさんのCDがジェットストリームの名で、世に出ました。ぼくは今でも彼の語りが入っているCDを聴くことがあります。
なぜかあの時代にふっと戻っていけるような気がするからです。ジャズを初めとした名曲にちりばめられた確かな時代の音楽番組でした。
とにかく懐かしいのです。彼の声がもう聞けないということが残念でなりません。城達也は本物の声優でした。

2004-10-10(日)

英語の達人、杉田敏

杉田敏さんがまた戻ってきました。といって話がすぐにわかる人は相当な彼のファンでしょう。何年にもわたってNHKビジネス英語の講師をつとめてきた人です。
独特な語り口と確かな語学力は圧倒的な魅力に満ちています。ぼく自身、「いつかは」やさしくなるビジネス英語と勝手にタイトルをかえて、3年ほど聞き続けました。毎週日曜日にその週の放送分をまとめて放送してくれるので、それを録音しておくのです。
前は1日20分、1週間でちょうど2時間でした。それがどんどん短くなり、その後講師がかわったところで、聞くのをやめてしまったのです。
なぜか急に面白くなくなりました。それが最大の理由です。それほど講師の力が講座のおもしろさを支えていたという発見は新鮮なものでした。
その頃とったテープがまだぼくの部屋の押し入れには山のようにあります。テキストは全部捨ててしまいましたが、テープはどうしても捨てられません。それだけの魅力に満ちているのです。
これはぼくだけの話ではありません。杉田さんのファンは想像以上にたくさんいるのです。だからこその復帰なのでしょう。
とにかく彼が1年半ぶりに戻ってきました。いよいよ10月から放送が始まったのです。
ぼくはさっそくまたテキストを買いこみました。こんなに安い講座はどこにもありません。レベルはあらゆるNHKの英語番組の中で、最も難しいものです。放送内容が15分になり、2日間づつ同じものになってしまったのは本当に残念です。
それだけ杉田さんが忙しい方だからでしょう。広告代理店の副社長という激務をこなしながら、またラジオに戻ってきてくれただけでもありがたいと言わなければなりません。
お相手はこれも以前と同じ、クリス松下さん。いいコンビです。以前、土曜日だけはジュリー・マッカーシーさんというNPRの記者の時もありました。今でもNPRを聞いていると、時々ジュリーさんのあのせっかちな話しぶりを聞くことができてとても懐かしいです。
その後土曜日だけは英字新聞の記者など、いろいろな人にかわりましたが、それ以前は土曜日も彼が担当していました。自在な英語力とビジネスの現場をよく知っている現実感覚が、みごとにマッチしていたのです。
いずれにせよ、さっそく今日3日分を録音しました。たった3日間分、45分しかないのは不満ですが、これも仕方のないことでしょう。
また通勤途中、聞くことにします。最初はテキストを見ないでという注意も嬉しいものです。
なんだかストーカーのような気もしてきました。

2004-10-07(木)

紫式部という人

授業で扱うたびに、この人について謎は深まるばかりです。一筋縄ではいきません。難しい内面を持っている女性です。
これだけの名作を残しながら、生没年さえわかりません。当時の女の人の地位の低さを象徴しています。受領の娘としてさまざまなことを見てきたはずです。結婚3年足らずで20才以上も年上の夫を失い、一条天皇の中宮彰子のところに出仕することになりました。
『紫式部日記』の中で彼女は宮中の様子を実にこまかく描写しています。それでいて人間批評は鋭く容赦ありません。
定子に仕えていた清少納言にはことに厳しく、ここまで言わなくてもいいのではないかと思われるほどです。
清少納言は得意顔でひどく厭な鼻持ちならない人物であり、利口ぶって漢字を書き散らしたりする。しかしその程度が低く、十分でないことが多いと書き記しています。
彼女よりも10才年長である清少納言は彰子の入内した翌年に亡くなった定子に仕えていたこともあって、ライバル意識はものすごいものだったようです。
紫式部はさらに同僚の和泉式部に対しても、かなり辛辣な批評を加えています。風流気取りが身について、たいして感動もしていないことをいかにもそれらしく書きこんでいるなどという批判には、厳しさを感じます。
彼女は兄が学ぶよりも早く漢籍を暗記し、親にどうしてこの子は男でなかったのかと嘆かせたとあります。宮中では最初「日本紀の局」などと陰口をたたかれました。それは天皇が、はじめて源氏物語を読んだ時、この作者はよほど漢籍に通じていると言ったというところから出ています。
そばにいた別の女房が、すぐにこのあだなをつけたもののようです。そのことに紫式部はたいそう腹をたてました。
そんなことがあって仕方なく、漢字などまったく読めない風を装いながら、宮廷づとめをしたとも書いています。
同じ女房仲間からもいろいろな悪口を言われたようです。彼女はことさらに気づかないふりをしました。
漢字の一という字も書けないような顔をして暮らしたと自ら綴っています。相当な自己防衛本能といってもいいでしょう。それでいて、相手のことはじっと観察しているのです。
内面の複雑な女性です。普通の男性ではとても太刀打ちできなかったでしょう。藤原道長との間には関係があったということです。
道長はどんなつもりで言い寄ったのでしょうか。
彼女はやがて老いを感じる中で、もう自分を偽って生きていくのにも疲れたのでしょう。回想には「憂し」という表現が目立ちます。
紫式部はけっして社交的ではなく、自省することの多い女性でした。彼女の内面を知る手かがりはもう『源氏物語』しかないのかもしれません。

2004-09-28(火)

星霜移り人は去る

先刻、少しだけ外にでました。もう秋です。暑さ寒さも彼岸までとはよくいったものです。急に風が冷たくなりました。
瞬間、このタイトルが頭をよぎったのです。
『星霜移り人は去る』。
「月山」で芥川賞を受賞した森敦のエッセイ集です。
放浪の作家と呼ばれる森敦は本当に放浪を続け亡くなりました。サブタイトルには「わが青春放浪」とあった記憶があります。
本箱から探そうと思ってはみたものの、どこにあるかわかりません。全くだらしのない話です。今までに何度も読んでいます。当時の高校生たちの気分が伝わってきます。
交遊録の部分は絶品です。太宰治、檀一雄、横光利一、菊池寛、佐藤春夫、中島敦。
五十年ほどの時間のなかに、筆者のまわりにいた人々のことが、淡々と語られています。時に同級生だったり、先生であったり、あるいは、文学上の友であったりとさまざまです。
戦前の京城での菊池寛らによる文芸講演会の席で、当時中学生だった筆者の才気あふれる演説。史上最高齢で芥川賞を受賞した、この人にふさわしい天性のユーモアと言うべきでしょうか。
なんともいえない語り口です。のんびりとしているものの、どこかに芯があります。だから聞いている人を引きつけてしまうのです。
月山で十夜連続して行った講演などは、実に味わい深いものです。
森は十代のときに、隣家に一ヶ月「逗留」し、家族から尋ね人広告を出されたという逸話も持っています。
少し寒いくらいの風の中にいると、本当に星霜は移るのだとしみじみ感じます。そして人はやがて去るのだと…。
どんな人間もあっという間に、この人生を駆け抜けていきます。それを誰も止めることはできません。
だから、森敦の交友録が光を放って見えるのです。過ぎていくものはいつか忘れ去られます。それ故に彼の言葉は重みをもってまたぼくの心に響くのかもしれません。

2004-09-16(木)

仲人

かつて人と生まれたら、3回は仲人をやるものだと言われました。ぼく自身は1度だけ、卒業生に頼まれてやったことがあります。
主な仕事は披露宴で、新郎新婦の紹介をし、その後に祝辞を述べることです。
燕尾服など持っていなかったので、貸衣装ですませました。雛壇の正面に座るのですから、かなりの緊張を強いられます。式の間もかしこまっていなければいけません。
かつては結納の式から仲人は出席するという風習もあったようです。あるいは引き出物を届けるという役割もありました。
それが頼まれ仲人という制度になってからは、随分と簡略化されたのです。
しかしそのシステムも近年では、ほぼ消滅してしまいました。先日の新聞にそんな記事が載っていました。
つまり仲人を頼む人がいなくなったのです。その理由の一つに終身雇用制の崩壊があります。かつてはずっと勤める会社の上司に頼めば、それだけで後々の面倒をみてもらえるという心づもりがありました。
なにかの時に引き立ててもらうというのも、日本的な会社組織ではごく普通のことでした。
しかし終身雇用の終焉とともに、この日本的な雇用体系にまつわる仲人制度も消滅してしまったのです。
上司に頼んでみたところで、彼らがいつまで同じ職場にいるのかわかりません。すぐにリストラの対象になることさえあるのです。
人間関係も随分と変化しました。コミュニティのなくなった都市では、近隣の知り合いに頼むということもありません。
つまり双方にとってのメリットがなくなったことで、仲人制度はその役割を終えたのです。
結納についてもその割合はどんどん落ちているといいます。最近は人前結婚などというのもよく聞きますし、レストランでの披露宴や、郊外にたてられた雰囲気のあるチャペルや付属の式場などで行われる結婚式も増えました。
昔のようにドライアイスの煙の中をゴンドラで降りてくるといったような演出は皆無です。これも意識の変化のあらわれでしょう。手作りということにひどくこだわる若者も増えました。
自分たちの感性で行う式に重点がおかれるようになったのです。親のための式ではありません。ましてや、両家のための式でもありません。
そうした意味で、近年の結婚式は以前よりより地に足のついたものになりつつあるといえるのではないでしょうか。
結婚年齢が上がり、非婚者も増え続けています。出生率は最低で、このままいくと、日本は労働生産性の著しく低い国になってしまいます。
本当のことを言えば、結婚の形にこだわっているような場合ではないのかもしれません。

2004-09-08(水)

文法はきらい

古文を教えるようになって、既に四半世紀が過ぎました。元々大学でじっくりと学んだわけではないので、いかにも促成の教師です。
高校時代は古文の文法が一番嫌いでした。
助動詞なんて、知らなくてもなんとかなったのです。入試の時も正確に覚えた記憶がありません。
しかし教師になる時は仕方がなく動詞の活用から勉強し直しました。紙に書いて一つづつ覚えたものです。
それでも教壇に立つと、ほとんど使うことはありませんでした。助動詞の意味などという細かいことまで、要求されることがなかったからです。
簡単な動詞の活用と意訳だけしていれば、それで十分でした。それほど大学を受験する生徒もいませんでしたから、必要はありませんでした。
だいたい、高校の古文は細かすぎます。あれでは誰でも古文嫌いになってしまうのではないでしょうか。重箱の隅をつつくように、理解できそうもない文法を次々に覚えさせていくのです。全くひどい話です。
よほどマニアックな生徒でなければ、記憶しようなどという気にはならないでしょう。しかしそれを教えていれば、とりあえず、教員も安心していられるのです。
入試にはそういった傾向のものばかりがでます。それもよく間違える難しいポイントをついてくるのです。
教師も仕方がないので、ますます細かいことばかり教え、本当の古文の持つ醍醐味からははずれていきます。人間の葛藤を知るための源氏物語も敬語のオンパレードに負けて、もっぱら敬語学習の場となってしまうわけです。
これでは面白いはずもありません。口語訳でもいいから、まず全体像をつかむところから始めるのも悪くはありません。
とにかく文学の香気をそのまま味わってほしいのです。徒然草も抹香臭い内容のものばかりではありません。そこには七百年も読み継がれている人間の生きる知恵が横たわっています。
そうした意味で、文法だけの古文からははやく抜けだしたいものです。本当の勉強は受験が終わってからということになってしまうのでしょうか。
残念ですが、それも一つの現実でしょう。しかし授業の中でも是非、古典の持つ味わいを鑑賞してほしいのです。
文法ばかり教えていて矛盾しているようにも聞こえるかもしれません。しかしこれこそが一国語教師の願いでもあるのです。

2004-08-27(金)

網戸の話

よんどころないことで、網戸をはずすことになりました。数ヶ月前のことです。全ての網戸をはずすのはなかなかの手間で、いったい何枚あったことでしょうか。
ちょっとした工事の間、長かったり短かったりするこの網戸たちは、家の奥深くにしまわれていたのです。
一つ一つのネジや、ストッパー(上の方をサッシとの間にはさんでとめる金具。現在はプラスチック製)も大切に保管されたことはいうまでもありません。
こういう時は、なぜかぼくの出番なので、ドライバーを持っては家の中をうろうろとした次第です。
さて工事も終わり、いよいよもう一度つけなければならないことになりました。なにしろ暑くなってくると、虫が飛び込んできます。これは早急になんとかしなくてはいけません。
そこで次々と窓に嵌めていったと想像してください。
一枚ずつやり始め、途中まではうまくいきました。しかし、なぜかストッパーが一つ足りないのです。きちんと袋に入れておいたはずなのにです。こういうことは割合によくあることなのかもしれません。
そこで近所の大型ショップへ赴くことになりました。網戸のストッパーくらいすぐにみつかると思ったのです。
しかしこれが案外てこずりました。どうも新しいタイプの網戸にはストッパーなどないこともわかったのです。それでも諦めきれず、もう一つの店も訪ねました。ここも大きな体育館が2つは入るのではないかという店です。
あることにはあったのですが、まったく形が違います。
窓にとめるのにストッパーが1つだと、どうもがたがたして落ち着きません。さっと開かないのです。
こんなものがどうしてないのかと、網戸の上の方をなんども眺めてはため息をつきました。
そこで仕方なく工事をしてもらった建築会社に電話をしました。すると特別注文なのでと断りながら、業者の名前と電話番号を教えてくれたのです。
普通なら100円もしないのに700円もするとか。これには驚きました。ちょこっとしたプラスチックの塊です。後日、人のよさそうな初老の男の人がそのストッパーなるものを届けてくれました。
その人がいうにはこれは特別なものなので、東急ハンズにもないというのです。その時は妙に感心して、なるほどそんなものかと思いました。しかし後から考えてみると、どうしてそんな特別な形のものをわざわざ作らなくてはならないのかと腹がたってきました。
今住んでいるところはどうもそういう家らしいのです。
こう書くと何か特殊なところにいるみたいですが、そんなことはありません。ごくありふれた家です。しかしなんとなく業者同士の談合がありそうな気配もします。
つい先日、社会保険庁が年に何度も使わない書式のものを印刷するための特殊な機械を毎年、すごいお金で借りていることがわかりました。あれなどもどうも怪しい匂いがします。
たかが網戸の話ですが、ぼくは今だに納得がいかないのです。
やはり特別ということは、時によくないことなのではないでしょうか。

2004-08-15(日)

萌え

「萌え」という表現は今の秋葉原を象徴している言葉だそうです。なんとなくオタクの街となった秋葉原にふさわしい気もします。
以前は家電専門店が多かったのですが、ここ数年でその雰囲気はがらりと変わりました。
今はフィギュアとゲームと自作パソコンの街です。
その中で、この「萌え」という表現はやはりフィギュアのものでしょうか。ぼくにはまったくこの種の趣味はありません。というか、どこか寒気がします。オタクの中でもっともオタク的要素を持ったものかもしれません。
漫画からさらに突き出て、その形を実際に追いかけ、色を塗り、形を整えるというのですから、ちょっとぼくの想像の外です。
しかし中年を含め、若い男性がたくさんこの手の店に吸い込まれていくのをみると、豊かさとはなんだろうとあらためて考えてしまいます。
どこかミヤザキ的なものを感じるのはぼくだけでしょうか。実際の世界と触れ合うことなく、形に拘泥していく若者達。フィギュアは年もとらず、否定もせず、ただ制作者の脇に黙って置かれたままです。いわばバーチャルの世界を浮遊している感覚に近いのかもしれません。その中で使われるこの「萌え」という言葉は、どこかまだ未成熟でいたいという強い願望に支えられているようにも見えます。
大人であっても精神は大人社会に組み込まれたくない、いつまでもモラトリアムでいたいという熱意を感じます。
何もかもが手に入る幻想に満ちた現代です。
せめて萌えていたいというあえかな願いをかなえてくれるのが、この街だとしたら、あまりにもそれは寂しいことです。
しかしそれでもたくさんの若者を魅了する何かが秋葉原にはあるのでしょう。昔のメードさんに扮したコスプレの喫茶店もはやっているそうです。そうした店で働きたがる女性もかなりいるとのことです。
今や「萌え」は男性だけのものではありません。
燃焼できる質を持てない、不確かな時代の言葉なのでしょうか。

2004-07-24(土)

フィナーレの発想

随分と昔、英文学者外山滋比古さんの『フィナーレの発想』という本を読みました。内容はほとんど忘れてしまいましたが、ただ一つ覚えているのは、最後のシーンから、自分の人生を振り返る姿勢をつねに持とうというものでした。
勿論、途中がどうでもいいというわけではありません。しかし最後に笑うものがもっともよく笑うと言われている通り、自分の人生が豊かで意味あるものだったと思えれば、それが一番幸せなことなのかもしれません。
最近は遺言状を書く人も多いと聞きます。大体の人はそこで自分の人生というものを振り返り、誰に感謝し、誰に何を残していきたいのかということを確認するのだそうです。
けっして高齢になったから書くというものではなく、50代に入り、自分の人生をもう一度検証したいとする人が、公証人役場に来て、人生と真摯に向かい合うと聞きました。
人間は最後まで、闘いを強いられる生き物なのでしょうか。どんな場面でもやはり自分なりに最高のシーンをつくりたいと努力する宿命を持ったものなのかもしれません。
ところで、スポーツは筋書きのないドラマだとよく言われます。ことに野球はこの暑い季節のハイライトです。
審判がゲーム終了を告げるまでは、どちらが勝つかわかりません。それくらい、様々なドラマに満ちています。
おりしも今日、都立高校が2校、準決勝に進みました。
特に後半の試合では、9回表の攻撃が見事でした。まるで何かの力が乗り移ったかのような試合ぶりでした。負けたチームは呆気にとられてしまったというのが本当のところでしょう。
勝利の女神は勝ったものの上でやさしく微笑んでいるのかもしれません。
しかし負けたチームにもたくさんの教訓を残してくれます。
フィナーレをどのように迎えるのか、その最後に託されたメッセージをどう理解するのかということにも、それぞれの人間の力量が問われています。

2004-07-21(水)

時代小説の楽しみ

学生時代、評論家の中島誠さんの奥様とふとしたことで知り合うチャンスがありました。その頃、中島さんは大変難しい政治的な評論などを書いておられ、後にまさか時代小説の評論まで書く人とはとても思えませんでした。
奥様は大変寡黙な方で、しかし温かい心の持ち主でした。いつも暇があると横文字の小説を読んでいたのを記憶しています。
あの中島さんが、時代小説の評論を書くというのも意外でしたが、以前の職場で一緒だった大久保智弘さんが、時代小説大賞をとられた時も驚きました。
大久保さんは独特な風貌の人で、以前から小説を書き続けているのはよく知っていました。しかしまさか時代小説に手を染めているとは少しも知らなかったのです。
ある日、新聞に大きな広告が掲載されているのをみて、大変驚きました。その後、家が近いということもあり、何度もお目にかかっています。いつも挨拶をしてはまた別れるというつきあい方もいいものです。
時代小説大賞は初期の目的を果たしたということで、つい数年前に終わってしまいました。その中から、直木賞をとった乙川優三郎さんも出ています。
この人の作品についてはいつくか読書ノートでもとりあげさせてもらいましたが、味わい深い作品が多いです。人は彼を藤沢周平の再来ともいいます。
確かに似た側面は持ってはいますが、読後感は全く違うものです。しかし文がうまいことは近年の作家の中でも出色でしょう。
夏休みに入り、さっそく藤沢周平とこの乙川優三郎の本を読み始めました。少し読み始めると、作品の世界にのめりこんでいくのが自分でもよくわかります。
少しづつ読まないと、残っている作品がなくなってしまうので、味読しているというところでしょうか。
司馬遼太郎とは全く違う時代小説の系譜というのがあってぼくは、本当に幸せです。山本周五郎も、海音寺潮五郎も、吉川英治もみなすばらしい作家です。いい作品をたくさん残してくれています。
読まなければもったいないような気分にさせられます。

2004-07-14(水)

まったく靴というものほど、厄介なものはないです。新しく買った靴がなんの違和感もなく履けるということは滅多にあるものではありません。
もちろん、靴屋さんで何度も脱いだり履いたりして試します。その上でやっとこれならと納得して買ったつもりでも、やはりなかなかあわないのです。
最近は自分専用の型をとってくれる靴屋さんもかなり増えました。しかしかなり高価であることに違いはありません。
それでもぴったりと足にあった靴を履けるのならと、お客は来るのです。この悩みはよほど深刻なものなのでしょう。
昔は自分の足にあったものなら、何度でも修理して使ったものです。その方が少々値ははっても結局楽なのです。
ぼく自身、ウィンティップスと呼ばれるきっちりとした靴を履いている時期もありました。サラリーマンの頃です。当時はきちんとした身だしなみが要求されました。
しかし右の足が左に比べて少々大きいのか、いつも小指が痛かったのをよく覚えています。
最近は4Eなどという横幅の広いものを履いていますが、それでもメーカーによって違いがあり、必ずしもうまくはいきません。
いつも足にあういい靴はないかと探し回るものの、なかなかこれだというものに巡り会えないのです。
安い靴はやはりダメです。しかし高ければいいというものでもありません。
欧米人に比べれば、日本人はすぐにどこでも靴を脱ぎたがります。やはり圧迫されているのがいやなのかもしれません。これも恥の意識などと関連するという説をきいたこともあります。
いずれにしてもぴったりの靴はどこにあるのでしょうか。つい先日もある方のお通夜に行って戻った時、それまでなんともなかった靴の底が突然2つに割れたことがありました。
たかが靴などとはいえないとしみじみ感じたものです。

2004-07-07(水)

ぶれないということ

難しい時代です。価値がめまぐるしくかわります。昨日まで最上の地位にあったものが、翌日にはもう地に落ちています。
かつては金銭で全てを買おうとし、企業もメセナなどと叫んで、さまざまな分野に余剰金を落としました。
しかしバブルがはじければ一転、ほんのわずかの広告でも出し渋るようになってしまったのです。
さて今はどうでしょう。憲法にも教育基本法にも見直し論があります。さらに高速道路、郵政事業と次々と手を入れかかってはみたものの、もののみごとに官僚達の手玉にあい、なんとも尻すぼみになってしまっています。
さらには大学の行政法人化も官僚の手に握られつつあります。何の権限もない学長という図式があちらこちらに広がっています。全ては文部科学省にお伺いをたてなければ、何も進みません。
東京都も同様です。
こうした時代の中で、自分というもののスケールをどこに置くのか、というのは難問中の難問といっていいでしょう。つまりぶれない基準点の構築です。
いや、もうそれはできないのかもしれません。つねに人は相対の中でしか動けないものなのかもしれないのです。としたら、ぼくたちに残っているものは何なのでしょう。
人は生きているだけでいい、と呟く人もいます。浄土宗の中にはそうした強い流れがあります。五木寛之の人気が続いている背景には、金沢に生まれ、浄土真宗の蓮如に育てられた仏教の持つ芯の強さがあるからかもしれません。
ぶれないというのは本当に難しいことです。人は不安の海をいつも泳いでいます。誰かに甘え、誰かにすがり助けてもらいたいのです。特にこうした時代は、どこにその基準点があるのかわかりません。
しかしいつの時代も同じなのです。どんな時代にも基準点は見えなかったのです。だから人は祈ったのです。というか祈らずにはいられなかったでしょう。
そこにしか真実はありません。
本当にちっぽけな人間が、疲れ果ててたどりつく場所が祈りなのでしょう。それにしても生きるということは、それだけで苦しいことです。あまりにもいろいろなことがありすぎます。
人をそれほどまでに試さなくてもいいのではないかと思うことすらあります。それでも生きなくてはならないのです。
どんなに便利な時代になっても、生きるということは毎日のつらい営みそのものです。

2004-07-02(金)

ノヴェンバー・ステップス

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」を聴きながら、この曲の不思議さにやはり惹かれる自分を感じます。ニョーヨークフィルの創立125年に曲を委嘱され、武満はそれまでの楽曲とはまた違うものを創りました。
それがこの小編成のオーケストラ曲なのです。なんといっても特徴は琵琶と尺八を使ったという点でしょう。
彼は自分でも曲についての解説をしています。
それによれば、洋楽の音は水平に歩行し、尺八の音は垂直に樹のように起るというものです。また尺八の名人がその演奏の上で望む至上の音は、風が古びた竹藪を吹き抜けていく時に鳴らす音だといいます。
一つの音楽がそこで完結したという印象を与えないことを武満は考えました。そこから創造されたのが、特別の旋律的主題を持たない11の段(ステップ)というものだったのです。
聴いていると、なんとなく懐かしさを感じます。静かな時間の中をたゆたっているような気がするのです。
初演は1967年ですが、それから何度も演奏されています。東洋的という印象はありません。自然に弦楽器と調和し、静かで哲学的な空間をつくりあげています。彼の友人だった小澤征爾は好んでこの曲を指揮しています。
「弦楽のためのレクイエム」(1957)と並んで、武満徹の代表作といえるでしょう。彼はあまりにも早く亡くなりすぎました。1996年、65才でした。たくさんのすぐれたエッセイを書いています。
生前二度ほど、新宿の中村屋で隣り合わせたことはどこかに書きました。
今もこの曲が響き続けています。穏やかな空間です。

2004-06-19(土)

演出

一度はやってみたいことの一つです。しかし創造のエネルギーは疲労と失望と喜びと不安と、さまざまなものの組み合わせからできているのではないでしょうか。
職業として選ぶということになると、二の足を踏んでしまいます。一生やるということになると、やれるかもしれないけど、やれないかもしれないという不安がよぎります。
芝居は子供のころから見ていました。嫌いではありません。しかし職業として選ぶとなると話はまた別です。
演出家、宮本亜門は子供のころから新橋演舞場の楽屋にいたといいます。実家がその前で喫茶店を営んでいたからです。父親も母親も大の芝居好きでした。
高校の頃、1年間学校へ行かなかったそうです。しかしその日々が今の自分をつくったと昨日のテレビ番組の中でも話していました。その時期を支えてくれたのは、ミュージカルナンバーだったのです。
彼の芝居を見たのはもう随分前のことです。デビュー作「アイゴットマーマン」はすばらしい舞台でした。今でもあの時の高揚した気分を思い出せます。登場人物の配置や所作が実におしゃれで、今までにない新しい才能だとすぐに感じました。
その後の活躍は誰もが知っているところです。今年は日本人として、はじめてブロードウェイで演出を試みるとのこと。
昨日の放送では、つい先日見たばかりの芝居の稽古場をずっと追いかけていました。とくに17歳のSAYAKAが本当に一人の役者として、どう育ちあがるのかというところに焦点をおいていました。
若い才能を生かすも殺すも、演出家次第です。その子の芽を自然に、さらには新しい発見をせまらなくてはなりません。
そうした意味では教育家の側面も持ちます。
演出家は自分に課すテーマも当然厳しくならざるを得ません。朝6時に起きて、曲を聴きながら、振り付けを考える姿に感慨を持ちました。夜の11時、たった一人、部屋に戻り、コンビニのお弁当を食べる姿にも感じるものがありました。
先頭を走るものは孤独です。いつだって創造の女神は孤独とともにしかいません。
それでも演出が芯から好きなのでしょう。芝居がすきなのでしょう。消えていくものだから、一瞬のものだから、また燃えるのです。
病膏肓に入るということでしょうか。
SAYAKAは幸せな船出をしました。しかしこれ以降は彼女自身の問題です。
宮本亜門の孤独をまた彼女もいつか感じる時がくるでしょう。しかしそこからしか出発できないことも確かなのです。

2004-06-12(土)

頑張らない

もう頑張る時代ではないのかもしれません。
ぼくたちは何かといえば、頑張れと相手に声をかけます。まだ自分自身にもそう呼びかけることが多いようです。
しかしそのことで、逆に疲れ、心の波立つことが多くなってしまうこともあります。軽率に頑張れとは言えない時代なのでしょうか。
もうこれ以上はできませんと言った生徒もいました。人の能力は千差万別です。頑張れる人がいれば、そうでない人もいます。
運動能力は抜群でも、音楽や美術となるとからきしダメという人もいます。
そうした人にただ頑張れと叫べば、それはいじめたことにもなるのです。
だから何をしなくてもいいといことにはなりません。ただ軽々しく頑張れと声をかけることは難しい時代です。
登校拒否の生徒はなんとか学校へ行きたいと悩んでいます。それをみんなで学校へいこうよと追いつめ、誘ったり電話をしたりすれば、これは暴力以外の何ものでもありません。
ただじっとそばにいるということが必要な時もあるのです。人がなぜ人を殺してはいけないのか。この答えはなかなかに難しいものです。そうした時に宗教が顔を出すのかもしれません。
それは禁じられている。殺生をしてはいけない。それ以上に人は何も言えないのかもしれないのです。全てを理性で割り切ることなどできません。近代は全てを論理で追いかけてきました。
その疲れが、今あらゆる場面にあふれています。
チャットやネットを通じて、バーチャルな時代を生きる若者達は、いよいよいくつもの困難を抱えることになりました。
自分の感情をどうコントロールし、燃え尽きない状態へ持って行くのか。これも新しい時代のテーマです。

2004-06-05(土)

運不運

人間の一生に運というものはあると思います。
確かに幸運な人は存在するものです。その反対に次々と不運なことが続く人もまたいます。
禍福はあざなえる縄のごとしという話をいつか、書いたことがあります。それがほとんどの場合の事実です。確かに一人の人をずっと追いかけていると、そうしたことの方がより真実に近いと思います。
それでもなぜか、その真理をはずれ、どんどん不幸に向かって行く人もいます。
なぜか、不幸になるのが見えているのに、その道に進みやはり案の定、苦労をし、そのあげく離婚をすればいいのに、それもせずに結果としてさらに次の不幸が待っているということもあります。これはもちろん、別の伴侶や職業や節目での選択など、そうしたことの全てを含んでの話です。
今まで随分多くの人の人生を見てきましたが、そうした中にはいくつか、こうした事例がありました。
なぜ、あの時別の方向へいかなかったのかと後で悔やんでみても、もう遅いのです。不幸になる人は、わざわざ倒れつつある電柱の下敷きになるようにして、その方向へ走って行くものなのです。
それを止めることはできません。もちろん、その人生の中にも春夏秋冬はあったことでしょう。しかしあまりにも春と夏が短いのです。それは本当に悲しいことです。
寝たきりになろうが、半身不随になろうが、やはり春と夏はあることでしょう。しかしどうせなら、もう少し別の形で人生を送って欲しかった。あるいは死んでほしくはなかった。そう思うことも何度かありました。
これを他人の傲慢と考える人もいることでしょう。他者の気持ちは十分にわからないものです。
しかしそれでもやはりあの時にもう少し別の道を歩いて行けば、とつい考えてしまうのです。
人生はやり直しがききません。それだけに運にたよることがあっても、ぼくはその人をずるいとは言えないのです。
それも一つの生き方だと考えることもあってしかるべきなのではないでしょうか。
話が少し曖昧になりました。しかしあまり詳しく書くことはためらわれます。こうしたことが人の世そのものなのかもしれません。

2004-05-31(月)

きれい

世の中がどんどんきれいになっていきます。
その中で、なんといっても一番に取り上げられる場所は駅でしょう。あっという間にきれいになりました。
ぼくの記憶に残っている駅にはガードがあり、どこかうさんくさいイメージがついてまわります。傷痍軍人の姿を見ることもたびたびでした。今の若者にその暗さと後ろめたさを語ることはもう不可能でしょう。
現在の駅は次から次へと改修工事が進み、かつての面影はありません。ほとんど空港のレベルに達してしまったところもあります。そこに入るお店もキオスクのイメージをはるかに越えて、実におしゃれなものです。
駅だけでなく、この国の公共施設はどこまでもきれいになっていくのではないでしょうか。図書館も公民館も市役所も大学も、ありとあらゆるところがきれいになっていきます。
しかしアスファルトを一枚めくれば、そこにはやはり赤茶けた土があるのです。そのことを忘れてはいけません。
自宅から会社のあるオフィスビルまで、まったく外に出ることなく行ける人も最近では数多いことでしょう。本当に便利になりました。雨の日など、傘も不要です。
しかしそれでもアスファルトの下には土があります。
きれいな駅の中にも、さまざまな形の人生があります。
現代は汚いものを隠し、全てをきれいなものだけにしてしまおうと熱望しているかのようです。
人間の死もその一つでしょう。
最近では死を家で迎えることも少なくなりました。あるいはお葬式も家ではしなくなっています。
全てがシステムの中に組み込まれつつある時代の空恐ろしさを感じます。
きれいは汚いより、はるかにすばらしいです。
しかしその中でなくしたものも、また多いということを忘れてはなりません。

2004-05-15(土)

蜜柑

羅生門を扱うのは何回目でしょうか。1年生の国語の教科書には必ずといっていいほど、この作品が登場します。
芥川龍之介は学生時代にこの小説を書きました。原作は『今昔物語』です。しかし実際の話と小説とは全く設定が異なっています。
今昔によれば、若い摂津の国に住む男が盗みを働くため、昼日中に羅生門の下に隠れていたとあります。
しかし小説では京都市内に住む使用人が、不況のあおりで職を失い、晩秋の雨の夜に羅生門の下で雨宿りをしたとあります。
元々、悪事をはたらくつもりできた男と、なんの仕事もなくて、どうしようかと路頭に迷っている若者では、全く価値観も正義感も違うのです。
最初、悪いことは厭だと呟いていた下人も最後は悪事をはたらき、暗い夜の中へきえていきます。
人間は最初から悪でも善でもないというのが、芥川の認識だったのでしょう。それがふとしたきっかけで、悪いことをするということは確かにおこりうることです。その内心のドラマを綴りたかったにちがいありません。
ちょうど1年の教材としても、人間の心の闇を考えるいい機会に違いないのです。この後、2年で『こころ』と『山月記』、3年で『舞姫』をやるというパターンは当分崩れそうにもありません。
生徒が好むのか、教員が好むのか。そのあたりは定かではありませんが。
さてつい先日、いくつかの作品を読み返しながら、かなり遅い時期に書いたといわれる『蜜柑』という小説が気になりました。
話はどうということもありません。遠くへ奉公に出る娘が、線路際に立っている弟たちに向かって蜜柑を投げるというものです。
しかしそれまで、彼の視野にも入らなかった、こうした底辺の人々に目が届くようになった理由はなんだろうと考えました。
『トロッコ』にも下層の人間は出てきますが、あくまでも少年が中心です。それに比べると、作者は明らかに変化しています。
もちろん、それを見ている学生という立場のところに芥川はいますが、それでも視点は以前のものとは違います。
虐げられた人々に対する感情がどのようなものであったのか、それを知りたいような気もします。
下町で育った彼にとって、下層の人々の暮らしは親しいものだったのでしょうか。奉公に出る若い娘を汽車の中でみかけるという経験はいつのものなのでしょうか。
もう少し調べてみるつもりです。

2004-05-02(日)

みんなの就職活動日記

ぼくの好きなサイトです。毎日必ずどこかの会社の欄を読み飛ばします。今、実際に就職活動をしている人達が、まさに自分の現在を書き込んでいるページなのです。
それだけにとても新鮮で、ある意味、現在の大学生の生の声がそのまま、届いてきます。もちろん全てが真面目な書き込みというわけではありません。しかしほぼ大半のものは、実に真剣な態度のものです。
どういう面接があり、それに対して何を感じたのか。会社の方針はどうか。筆記試験の内容はどのようなものだったのか。作文のタイトルは何か。
ほぼ日本中の大手、中規模の会社の情報を網羅しているといっていいでしょう。
時には感情的になって前の人の書き込みに対して、憤っている人もいないわけではありません。しかし自分が最終面接で落ちてしまっても、通過した人に対して、いい会社にしてくれと願ったりする文章も多々あります。若い人の心の優しさを感じる瞬間です。
あるいは内定が出た途端、もう誰も書き込まなくなってしまうサイトもあります。おそらく合格者には箝口令がしかれているのでしょう。あまり余計なことを書かれると、人事部が上から叱られるということになるのかもしれません。
そういう意味で、今月のプレジデントは人事部の本音に満ちた面白い企画でした。一読してみてください。
では一方の学生達は仕事に就くということをどう捉えているのでしょう。
つい先日も、興味ある記事が新聞に載っていました。それによれば会社の命令の方を個人の事情よりも重視するという若者が半数以上に達していたのです。
以前なら、個人の生活を優先するという態度が前面にでるところですが、このところの厳しい労働環境が、若者の意識を変化させたことは否めません。明らかに世の中が変化しています。
ぼくはこれからも毎日、いろいろな会社のサイトを覗こうと思っています。外からではわからない本当の素顔が、学生の目を通して、赤裸々に語られているからです。かつてサラリーマンをしていたという経験は、けっして無駄ではなかったと最近しみじみ思います。
生徒に話をする時にも、できるだけ、今という時代の諸相を伝えたいと願っています。

2004-04-25(日)

みんな一緒

いつの頃からか、なんでも一緒なのがこの国のやり方だと思って暮らしてきました。
同じ島の中に似たような人種が住んでいるのですから、それも無理のないことではありません。みんな一緒に幸せになろうという国の方針も、ある意味では価値があったのです。
もちろん、産業界からの要請も同様でした。とにかく均一の労働力を求める声が高かったのです。
経済成長が進む中で、仕事は複雑化しそれにあわせて、労働の質も高まりました。それに応えてくれる人たちがたくさん欲しかったのです。
まさに団塊の世代の論理でした。
あれから数十年。
日本は今、未曾有のデフレを体験しています。その中でゆとりという言葉も生まれました。みんな一緒でなくてもいいということになってきたのです。
ゆとりとは言葉を返して言えば、好きなようにしろということです。お金のある人は好きなように子供を教育し、ない人はお仕着せだけのもので済ませということなのです。
大学に入るのも塾へ行くのも本当にお金がかかります。有名大学への進学実績はそのほとんどが中高一貫の私立に握られています。公立側からの巻き返しも盛んに行われていますが、まだ途上です。
つまり経済的にゆとりのない層は、そうした場へ進むことも許されなくなっているのです。
似たような家庭の子供が集まる学校は、一面居心地のいいものでしょう。しかし社会の構造とは明らかに異なっています。
少し前なら刻苦勉励型の子供もいました。しかし今は非常に少なくなっています。
親が模範となる後ろ姿を見せられない社会になっているからです。朝から夜遅くまで農作業をしている父親の姿を見て、学ぶ子供の数は極端に減っています。店でずっと働き続ける親を持つ子も少ないのです。
つまり大多数の親は雇われ人となり、その労働現場を子供は見ていません。
父の背中はいつも疲れ切っていると、子供にみえるのです。そこにはモデルとしての勤勉や向上の図式が十分には見えません。そこへもってきてこの「ゆとり」です。
現代はある程度忍耐力と集中力を持った子供にだけ、その先の社会が開かれているのが現状です。フリーターの未来は実に暗いです。そのことはいくつものデータが示しています。
みんな一緒の幻想は壊れました。
これからはアメリカ型勝ち負けの社会になるでしょう。中流意識も変化していくはずです。そういう社会の中で、どうて生きていくのかということを、真剣に考えなければなりません。
みんな一緒の時代はとうに去りました。個人にとって本当の意味の戦略が必要になってしまった時代が到来したのです。

2004-04-17(土)

つつじの花

道路の拡張工事が始まってから、すでに数年が経過しています。勤務先の学校まで、毎日バスに乗ってこの光景を見ています。
最初の頃はこの家がなくなった、あの家が立ち退いたと思って見てはいたものの、そのうち、どこに何がたっていたのか、皆目見当がつかなくなってしまいました。
人間の記憶力などというものは、全くあてにならないものです。しかしそうは言っても大きな花屋さんも、ファミリーレストランもなくなると、いよいよ本格的な工事が始まるのだなという予感がします。
よく立ち寄った学校近くのお蕎麦屋さんも、今はもうありません。なかなか注文したお蕎麦がこなくて、いらいらと待っていた記憶も懐かしいものです。
しかし自然は正直です。花は生きています。途中にあるつつじの見事な生け垣は今でも健在なのです。
その一角だけ、今、本当に赤やピンクの花が咲き乱れています。みごとに刈り込まれているところを見ると、誰かが世話をしているのでしょう。毎年、この季節になると、公園越しにみえる紫の藤棚と並んで目に飛び込んできます。
ちょうどバス停の近くにあるというのも、また嬉しいものです。
しかし冷静に考えれば、このつつじもやがては切り取られてしまうのでしょう。春のあたたかさを伝えてくれたこの花をどこかに移植してあげられたらと思うのは、ぼくだけではないはずです。
確かに以前と比べ、交通量は増えました。道路も広げたいところです。しかし同時に懐かしい、心に残る風景が消えていくことには寂しさを感じます。
できたらぼくが現在の学校から異動するまで、この風景をとっておいてもらいたいと思うのは我が儘でしょうか。
近代はあらゆる風景を一変させてしまいました。川の両岸をコンクリートで固めたことで、風景は実に味気ないものになりました。
虫も魚も生きていく場所を失ってしまったのです。と同時に、ぼくたちの感性もどこか脆弱なものになりつつあります。
自然と生きていくということは難しいことです。生のままの自然はあまりに厳しいものだからです。しかし祖先達が怖れ、崇めてきたその風景を簡単に失ってはいけません。
そこに近代の病を癒す特効薬も存在しているのです。
毎日、みごとなつつじの花を見るたびに、来年また見られるのだろうかと、ふと不安になってしまいます。

2004-04-04(日)

山笑う

つい先日、家のそばを歩いてたら、なるほど山は笑っていると実感しました。
これは春の季語なのです。実に昔の人はうまいことを言うなあと思いました。
勿論、俳句には季語のないものもあります。しかし長い間、日本人が育ててきた言葉に対する感覚には時に驚かされるものです。
あたたかい春の日の中を歩いているだけで、山が本当に笑っているように感じられます。この季語を使った俳句には次のようなものがあります。

笑う山笠のごとくに平らなり
津軽野の泣面山も笑い初む

ところがこれが山眠るとなると、突然冬の季語となります。

山眠る如く机にもたれけり
山眠る大和の国に来て泊る

また山粧うとなると今度は秋の季語です。
このように同じ山という表現を使った言葉ではありますが、ほんの僅かの感覚を捉え、それを先鋭に表現する季語というものにはあらためて、先人達の感性の存在を感じます。

2004-03-14(日)

卒業

卒業式の季節になりました。感慨深い日々です。自分自身や、子供達、またたくさんの教え子たちの卒業のことを思います。
日本では多くの外国と違い、3月に卒業式を迎える学校が多いようです。桜の中を入学し、桜のつぼみがふくらみ始める頃、卒業するというのが、やはりぼくたちにとっては馴染みのある風景なのでしょう。
考えてみれば、学校というところは不思議なところです。偶然のようにして集った仲間達と数年間、さまざまな思い出を育むのです。若く、そしてお金も地位もないだけに、生の自分をさらけ出してぶつかりあうところでもあります。
それだけに一生の財産となる友人を作ることもできるのです。卒業して何年たっても、会えばその時間に戻れるというのも、同じ時を共有した者だけに許された特権なのかもしれません。
若さだけの持つ荒削りな時間は、そういつまでも長く続く訳ではありません。それだけに学生時代は懐かしいのです。
一言で言ってしまえば青春でしょうが、実際はもっと深い疑問や懊悩に彩られていると思います。
それでもそうしたものの一切と別れて巣立っていくのが卒業という現実です。
何度卒業したら本当の自分になれるのかと呟いたのは、自死した尾崎豊でした。この言葉は今もぼくにとって重いものです。
しかし現実を受け入れなくてはなりません。もうその場所へ戻ることはできないのです。としたら、次のステップへ進む以外に道はありません。凛として誇りを持ち、自分の夢の道のために、生きていくのです。
それでもつらい時は振り返ることもあるでしょう。懐かしむこともあるでしょう。そうしたことどもの全てが、卒業という言葉の中には含まれています。
ぼくは教員という実に不可思議な職業に携わりながら、この風景をずっと見続けてきました。毎年、新たな感慨があります。
かつてぼくの担任だったN先生は「堂々たる人生、牛の歩みのよし遅くとも」と色紙に書いてくれました。
牛の歩みより遅くてもいいから、堂々と進んでいけというメッセージを思い返す時、恩師はありがたいとしみじみ感じます。
卒業は一つの区切りにしか過ぎません。新しい出会いのために、また歩み続ける日々が始まります。
さてぼくは自分の子供達の卒業式というものに一度も出たことがありません。それでも巣立っていくものなのです。子供達は親の背中をたえず見ています。自分の生き様が問われているのです。
若者に未来がなければ、夢がなければ、それはもう老人と同じです。何度でも卒業して下さい。そして自分を探してください。
背筋を伸ばして凛としてまっすぐ前へ。
卒業生の皆さんのご多幸を心からお祈りいたします。

2004-03-07(日)

ゴムの木

結婚する時に、お祝いとしてもらったゴムの木が、ぼくの家にあります。最初は本当に小さな鉢に入っていました。まっすぐ一本だけが伸びたゴムでした。
くださったのはぼくたちの仲人をしてくれたある雑誌の編集長夫妻です。奥様は歌人として有名になられ、今はあちこちのカルチャーセンターなどで活躍しておられます。
とにかくもう随分と前のことです。
ところでゴムの木というのは本当に丈夫なもので、少々水をやらなくても枯れるということはありません。そのうち背丈がどんどん伸びて、ついに大きな鉢に入れ替えるということになりました。
当然、土も全てかえます。するとまたところを得たかのように、どんどん葉が出、幹も太くなっていきました。
一夏を過ぎると、成長したあとが実にはっきりとわかるのです。娘が生まれた頃には、立派な葉をつける木になりました。子供はその鉢の中の土をほじって遊んだりしたので、慌てて紙とガムテープでおおいをしたりもしました。
それでも破いてしまったりもしたものです。今では本当に懐かしい思い出です。
その後も何度か鉢を取り替えました。とうとう身長を超え、ベランダに置いても、簡単に移動できなくなりました。冬の間だけは、家の中にいれます。するとその大きいこと。
水苔をつけて、なんとか取り木をしようと何度か試みたりもしました。しかしなぜか途中から根は生えてくれないのです。
そこで仕方なく、またいくつかの夏を過ごすことになりました。
台風の時は、ひもでしっかりと結び、倒れるのを防がなければなりませんでした。
しかしあまりに成長しすぎたため、とうとう先を切らざるを得なくなりました。その頃はどこかに捨てようかという話も何度かしたのです。でもぼくたちの結婚生活の一部始終を見ている木を捨てることはできません。なんだか精霊が宿っているような気さえするのです。
そこでとにかく幹を半分まで切り、ほとんどの葉をとりました。これでやっと形が元に戻ったのです。
だが喜んだのもつかの間、またゴムの木は成長を続けています。今度は横に葉を広げ、もっと大きな鉢にしてくれと、ご主人様にかたりかけでいるのです。
水をやると実につややかな緑の葉が、さらに光って見えます。太陽の光に映えて、みごとなものです。もうこの木はずっとぼくの家にいることでしょう。途中たくさんの木を買いましたが、このゴムの木ほどに愛着のあるものはありません。
『星の王子様』の中にも自分だけの花の話が出てきます。なんでもない花一輪にも愛情をかけてあげれば、それはかけがえのないものになるのです。
マレーシアへ行った時、本物のゴムの木を見ました。天然ゴムを採る木はもっと細く、ぼくの家のものとは全く違っていました。
ぼくの家のゴムの木は、家の歴史を背負った特別な木なのです。

2004-02-27(金)

俳句という愉しみ

小林恭二の『俳句という愉しみ』という本を読み終えました。これは前作、『俳句という遊び』の3年後、1995年に岩波新書から出された本です。
とにかく読んでいて本当に楽しかったです。自分の感性をわずか17文字に埋めることが、これほど面白いものとは思いませんでした。
小林さんはどうしてもまた句会をやりたくて、画策したそうです。その結果が3年後、御嶽渓谷での会となりました。
ちなみに出席者は三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、大木あまり、小澤実、歌人岡井隆です。韻文家たちに加えて、岡井隆を呼んだというところが新しい味付けでしょうか。案の定、深みのある句が次々と生まれました。

濛々(もうもう)と雪の竹あり謡初
時計屋のいつも留守なる峡(かい)の冬
待春のすぐに謝る男かな

俳句というのは作ってみると案外楽しいものです。というか、頭の中をたくさんの想念がめぐります。それを切って切って、自分のイメージにあったものに育てあげなくてはいけません。その楽しさがこの文芸を今日まで生きながらえさせたのではないでしょうか。
豊穣な言葉の世界に酔いながら、また今日も訳のわからない駄句をつくっています。
いつかここに呼ばれたような俳人のレベルになりたいと願いつつ、しかしその道の遠さだけがしみじみと思われます。

2004-02-22(日)

禍福

試験の季節です。入試は昔からあり、結果が出るたびに一喜一憂する風景があちこちで繰り返されます。
科挙の行われた中国でも、それは同じことでした。近年は韓国の学歴社会の功罪が、よく喧伝されています。
勿論、試験は合格するためのものです。しかし残念ながらうまくいかないことも往々にしてあることです。
「禍福はあざなえる縄の如し」とか、「人間万事塞翁が馬」などという言葉を持ち出すまでもなく、人間にはいい時と、悪い時とがついてまわるもののようです。
一生運が悪かったという人もいるでしょう。あるいはなんとなくいつも悪い方向へ向かってしまうという人もいます。その反対に、いつも運が強く、なにをしてもうまくいくという人もいます。
しかしそれは外から見た場合のことではないでしょうか。その人の内面にまで踏み込んでみれば、そう単純なものではありません。
一度試験に落ちてしまうと、もう駄目かと思うことがあるのも事実でしょう。しかし人間の真価はその時、問われるのです。人間、それほどいいこともなく、それほどに悪いことが続くわけでもないというあたりが、真実ではないでしょうか。
プラスマイナスして、ちょっと浮いているというあたりが、一番理想のような気がします。しかしマイナスの渦中にいる時は、周囲の人に何を言われても、なんの慰めにもなりません。
だがその時こそ、本当の力を再び発揮する時でもあるのです。人間は一つの目標に向かっている時が一番楽しいのです。どんな資格でも、どんな試験でも…。よく内定ブルーという言葉を聞きます。
早くに学校や企業に内定してしまった人ほど、取り残されたような気分になると言います。
周囲の人が黙々と頑張っている時に、これでよかったのかとつい反省してしまうのです。それより目標に向かっていた頃の自分が妙に懐かしかったりするのです。
どんな仕事についても、その内側に入れば苦労がつきまといます。大きな組織に入れば、人間関係も複雑です。同じくらいの能力を持った人間がしのぎを削るのですから、その疲労度は測りしれません。
災いは誰の上にも起こること。生老病死は気のつかないうちに、いつか襲ってきます。肉親との別れもあり、夫婦の別れもあるでしょう。会者定離の原則を覆すことはできません。
だからこそ、愚痴をいうことなく、淡々と生きていく覚悟が必要です。悪いことばかりが続くことはけっしてありません。
ぼく自身の経験に照らしても、この言葉はきちんとあてはまっています。これからも多分同じでしょう。
昔の人は本当にうまいことを言ったものです。禍福はよじりあって進む一対の仲間なのです。上手につきあっていかなければいけません。マイナスの時こそ、本当の力を。プラスの時には謙虚さを。この二つが人生のキーワードでしょうか。

2004-02-11(水)

木蓮

いよいよ春。花が咲く季節になりました。沈丁花の強い香りが届くと、本当に春がくるのだなと感慨も新たになります。
しかしぼくにとって最も親しい花はやはり木蓮でしょうか。庭の木蓮が大好きでした。白と紫が一本づつありました。白い花が咲き始める頃、もう日盛りは暑いほどになります。
新学期に向けて、どこか心が躍る季節です。なにがどうしたというのでもなく、心が浮き立つのです。はるか遠くの田んぼへ遊びに行くと、雲雀のさえずりが耳に心地よく響きました。
やがて白を追いかけるようにして、赤紫色の方も開き、木蓮はその花びらを精一杯大きくします。
彼らはぼくが学校へ出かける時も黙って見送ってくれました。
勿論帰ってきた時も夕陽に沈みながら、その香りを届けてくれたのです。あの頃は何もかもが輝いていました。父も母もまだ若かったのです。家族でどこへ遊びに行くなどという習慣もありませんでした。しかしそれでも心地よかったのです。
格別においしいものを食べにいったということもありません。しかしみんなが十分に寄り添って生きていました。
高校生くらいになると、妙に大人びた行動をとることもあったのでしょう。それでも視野の中には家族があり、それはやはり穏やかな形をとっていました。
それもこれもあの木蓮の花が見ていたように思います。
後に引っ越した家で、父は今度は実のなる樹を植えようと言いました。その後、柿はたくさんの実をつけました。全部もぎとることもなく、野鳥が食べていくこともありました。
全てが懐かしい思い出です。
やはりぼくにとって木蓮は特別な花です。
春になるとなぜか木蓮が恋しくてなりません。あっという間に咲いて、落ちてしまう花びらの大きさと形にいつも驚いたものです。
まもなく季節は春。
また今年もたくさんの木蓮や、花水木に出会うことができます。

2004-02-07(土)

大島の思い出

テレビで大島の様子をルポしているものを見ているうちに、遙か昔のことを突然思い出しました。
あれはまだ学生時代のことですから、随分以前のことになります。ふらっと竹芝桟橋から東海汽船の船に揺られて、着いたのは翌朝のことです。大きな船でしたが、かなり揺れました。
船底のようなところで横になってはみたものの、気持ちの悪いことにかわりはありません。全くそれはひどいものでした。
さて船を下りても、どこへ泊まるという当てもありません。ぼくの旅はいつもその日の予定もないのです。
そこでさっそく砂漠へ行こうと思いました。あの頃は安部公房の『砂の女』の世界に近しいものを感じていましたので、とにかく砂を見たかったのです。
三原山は火山石ばかりがごろごろしていて、なんともすごい風景でした。そこから一気に裏砂漠へ出たのです。
かなり歩きました。その間、ほとんど誰にも会いませんでした。とても心躍る時間だったような思い出があります。
あの頃は人の行かない場所へ場所へと自分を誘っていたような気がします。随分妙な学生でした。
さてそこから大島公園へ入り、椿の森の中を歩きました。なんとなく島の空気には特有の湿気が宿っていて、それもまた心地よいものでした。
だんだん日暮れてくるにつれ、さてどこへ泊まったらいいものかと思案し始めた折、民宿の文字がぽつんと一つだけ見えました。場所は泉津というところです。
泊めてもらえるかと訊くと、まだ民宿を始めたばかりのところのようで、どうぞと早速中へ通されました。
結局その日、客はぼく一人でした。食事の間、ご主人と話をしました。なんでも東京からこの地が良くて引っ越してきたものの、なかなか土地の人間にはしてもらえず、やっと最近、近所の人がいろいろと声をかけてくれるようになったというようなことを問わず語りに聞かせてくれました。
将来なんとなく教員のようなものになれればいいと思っていたぼくは、大島にある高校の話などをして、いつか来られたら、こんな暮らしをしてみたいものだと考えました。
名物のあしたばをこれでもかというくらい天ぷらにしたり、おひたしにして出してくれたのです。
風呂は昔ながらの五右衛門風呂。これもなかなか味わいがありました。本当にいつか教師になれたら必ず来ようと心に決めたのです。
家に帰ってからも何度か年賀状などのやりとりをしました。父や母も喜んで、翌年同じ宿を訪ねたようです。口べたな人だけどいい人だな、と父は話していました。ああいう人は好きだと言いました。
あの後、ぼくはいろいろと紆余曲折の後、教員になりましたが、結局大島の高校へ行くことはありませんでした。
その後、三原山が噴火し、全島避難などという災難にもあいました。その翌々年から数年間、ぼくはクラブの合宿で大島を訪ねたものです。しかし泉津の民宿へ行くことはありませんでした。いい思い出をそのままの形で封印しておきたかったのです。
ご主人はあるいはもうお亡くなりになっているかもしれません。時が遙かに経ちました。
大島は今でもぼくにとって大切な記憶を埋めた場所の一つになっています。

2004-02-01(日)

ラジオの楽しみ

ラジオというのは不思議なものです。特にいつも親しくしているというわけでもないのに、急に具合が悪くなって横になると、なぜか聴きたくなります。
目を使わないというのがいいのでしょう。厭ならすぐに消してしまえるという手軽さも魅力です。
特に暇な時は寝ながらよく、NHK第2放送を聴きます。普段聴くチャンスのない講演会や、ちょっとした教養講座などが面白くて、つい耳を傾けてしまうこともあります。
随分昔に亡くなった人のライブラリーなどを聴いていると、懐かしさがこみあげてきて、時の流れを感じます。三國一郎さんの語りで歴史談義などを聴くのも大変すばらしいものです。三國さんの話術にはなんともいえない間があります。
さて今日は加藤道子さんが亡くなったとの報道がありました。加藤さんといえば、森繁久弥さんとたった二人で昭和32年から続けてきた日曜名作座が思い起こされます。
どれほどたくさんの登場人物があっても、全てをたった二人で演じ分けました。その見事さは聴いた人にしかわからないものでしょう。
あの独特な音楽で始まる日曜名作座が、彼女の死でとうとう終わってしまうと考えると、感慨があります。
ぼくは主にテープで聴いたものですが、古典も現代物もこなしてしまう力量には怖れ入りました。加藤さんは特に若い小娘の役をしたりするときは、本当に若々しく、逆に老婆の時は、いかにもという声を出したものです。
名優の死が、こういうライフワークとも呼ぶべき仕事を一つづつ歴史の中から奪っていくのだなとしみじみ思いました。
今日は桂文治さんも亡くなったとのこと。ぼくは伸治と呼ばれていた時代からしか知りませんが、いつもハンチングをかぶって、とぼけた味わいをだしていました。まさに飄々と風のように落語家人生を終えたようです。
近いうちにラジオでまた彼の高座を聴く機会があることでしょう。古典落語の名人達はみな放送局のライブラリーの中にしかもう生きていません。実に寂しいことです。

2004-01-16(金)

こころ

夏目漱石の『こころ』という作品を授業で取り上げるのは何度目でしょうか。いつもその時々に様々なことを考えながら、解説をしてきました。
しかしこの作品にはなかなかに難しいところが多いようです。というより漱石も鴎外も今では完全な古典であることを実感させられます。
乃木大将の殉死を契機にして、先生が自殺をするなどという事件を取り出すまでもなく、この作中人物達の行動様式が、次第に生徒には理解しづらくなっている面があるようです。
特にKという先生の友人は「精進」ということを何度も口にします。だがそれは禁欲でも摂欲でもなく、恋愛そのものを自分に禁じるものでした。現代は、ある意味で恋愛至上主義の時代といっても過言ではありません。
愛情のない生活はすぐに破綻し、離婚へと向かいます。その意味でKがお嬢さんに対して、恋心を抱いただけで、自分を愚か者だと問いつめる図式が生徒にとっては大変に理解しづらいものです。
またKが自殺し、先生とお嬢さんが結婚した後、先生は月命日に雑司ヶ谷の墓地を繰り返し訪れます。その理由がなんなのかを、全くお嬢さん(後に先生の妻)は考えなかったのでしょうか。何か不穏なものを感じてもいいようにも思います。
またKがお嬢さんへの恋を先生に告白しなかったならば、先生は本当にお嬢さんと結婚しただろうかというのも大きな疑問です。
他人のが欲しいものを、つい自分も欲しくなるというのは子供の心理としてよく語られることです。
いずれにせよ、『こころ』は大変に読み応えのある作品であることは事実です。人間の利己心や自己中心的な側面を実にみごとに描いています。それだけに現代という時代にも通じるものが多々あります。
しかしそれと同時に、時代の流れの中で変化してきた人間の考え方というものも、またあぶり出しているような気がしてならないのです。

2003-12-29(月)

我が輩は猫である

漱石の作品を久しぶりに読みかえしました。『猫』です。明治38年、38歳の時に書いた彼の処女作です。
友人、正岡子規の関係でちょっと何か書いてみないかと彼を誘ったのは「ホトトギス」を主宰していた高浜虚子でした。この年、漱石は東大で「文学論」という歴史に残る講義もしています。
さて『猫』は最初あんなに長くなるはずはないという代物だったそうです。しかし評判がよく、どんどんと書き続けられ、長編になってしまいました。
夏目漱石の代表作といえば『坊っちゃん』とともにこの『猫』がよく知られています。しかし全編を読み通した人があまりいないという点では、ちょっと不思議な感じもします。
特にストーリーがないというところがこの作品のミソともいえるでしょうか。だから面白いという人もいれば、どうも苦手だという感想もあります。
実際に読んでみると、これはなかなかきつい風刺に満ちています。そして彼の博識とともに、世態人情によく通じている一面をもみせています。歌舞伎から落語、英文学とさまざまな話題が飛び出してきます。作中にはラテン語の警句まで披露するしかけもあります。
登場するのはすべて高等遊民としての余計者ばかりです。苦沙弥先生をはじめとして、迷亭、寒月、東風、独仙などは皆いてもいなくてもいい類の人間ばかりです。そこへ金田を筆頭とする実業の人間があらわれ、互いに齟齬をきたすところから、ユーモアが生まれます。
特に寒月の結婚話に関連して、金田一族とのやりとりは絶品です。また最後の章では、寒月の登場で彼のバイオリン購入にいたるまでが語られます。これもなかなかに笑わせます。
さらに自分の子供達への愛情あふれる描写も実に心温まるところです。
いずれにしても猫の視点で人間を見ようとした分、内容は辛辣です。泥棒が山芋を持って逃げた話や、首くくりの松の話、銭湯での洗い場の描写など、どれも漱石の手にかかると、諧謔たっぷりの一幕ものの劇になるのです。
これ以降、死ぬまでの10年間に小説を全て書いたというのですから、漱石の懐の奥深さには驚かされます。
知識人の生き様と悩みを書き込んでいった後半の人生の萌芽が、この作品にもたくさん、顔を覗かせています。
それを見てとりながらも、しかしつい笑わされてしまうというのが、『猫』という作品の魅力でしょうか。

2003-12-14(日)

ナビ

長生きはしてみるものだとしみじみ思います。世間ではもうとっくに使われているカーナビというものを、はじめて体験しました。最初に自分の位置を認識させ、目的地を打ち込めば、あとは機械が女性の声で走るべき道路を教えてくれます。
開発当初は地図の不備などもあり、あまりうまく作動しなかったようです。しかし今は、DVDやハードディスク等を搭載し、ますます精度があがっています。
元々このシステムがつくられた理由は、圧倒的に軍事目的が中心でした。決まった位置を打ち込めば、あとは爆弾が勝手に飛んでいくというしかけです。
GPSなどという空から位置を探る方法が開発されたことで、トマホークなどの最新兵器に使用されるようになりました。というか、そのために開発をされたのです。
考えてみれば、ぼくたちの周囲にあるあらゆる機械は、そのほとんどが軍事技術の転用です。どんな小さな部品でもすぐに軍事目的に使えるのです。かつては共産圏にそうしたものを輸出しないための規制までありました。
現在でも北朝鮮などへの輸出にはかなり神経を使っています。それでも網の目をくぐり抜けて、出ていってしまうのが、実態なのです。
つまりそれだけ新しい技術と軍事技術は紙一重ということです。このことは考えてみれば悲しいことです。
誰だって、新しいおもちゃを見せられたら、使ってみたくなるのが人情というものでしょう。今回のイラク戦争でも、たくさんの新型爆弾が使われました。
航空機のエンジンを追いかけ回して爆破するなどというロケット弾は、少し前には、あればいいのにというレベルのものだったのです。
さてカーナビもまったく同じです。ちょっと前には、そんなものがあればいいなあ、と呟き、あっという間に実現すれば、さらなる正確さを求める競争に入っています。
時あたかも、エノラゲイが再び公開されるという話も伝わってきました。まさに広島に原爆を落とした飛行機の名前です。核の平和利用はずっと後のことでした。しかしそれも思ったようには、うまくいっていません。
便利さの裏側には、いつだってきな臭い戦争の匂いが宿ります。人は戦うことをやめられない生き物なのでしょうか。
それとも軍事関連の会社を元気づけるために、次々と死んでいく運命を持った生き物なのでしょうか。
希望の場所へ早くつけていい、と単純に喜んでいられるうちが幸いだと半ば感心しながら、いろいろと考えてしまいました。

2003-12-02(火)

世阿弥

山崎正和の戯曲『世阿弥』を久しぶりに読み返しました。昭和38年、俳優座の千田是也が演出し、その年の岸田戯曲賞を受けた作品です。
ぼく自身、かつてこの芝居を見た記憶があります。今度、戯曲を久しぶりに読んで、なるほどすごい作品だとあらためて感心しました。
山崎正和というと、すぐに思い浮かぶのは『鴎外、闘う家長』という初期の評論です。しかし彼自身も言っているように、やはりその真骨頂は劇作にあるのではないでしょうか。
足利義満の影として一生を生きようとした人間のアイデンティティがいやというほど、この作品には充溢しています。
戯曲が台詞を中心に創られているのは、ごく当たり前のことですが、その言葉の一つ一つが、実に研ぎ澄まされていて、ここちの良い響きを持っています。
どこかシェイクスピアの芝居に通じるものを感じるのです。世阿弥は自分の芸がどこまでも義満という男を飾るためのものであることを知り抜いていました。
しかしその反面、影としての自分の存在の中に不動の美を探し出そうとしたのも事実なのです。
そのことが次々と起こる権力闘争の中で、形をかえていくことを誰よりもよく知っていました。芸のはかなさと、それ故に持つ力を知悉していたのです。義満に仕えた女、葛野を自分のものにしたいと、世阿弥は真実思います。その時に登場するのが綾の鼓です。本来音がなるわけもない、この鼓を世阿弥は叩きます。
義満も葛野もその音を聴くのです。
他の誰にも聞こえない鼓の音はこの3人の異界に生きる人間の耳にだけは響きます。このシーンは圧巻です。
また世阿弥はこんな台詞も呟きます。
「見物ほど世に気まぐれなものはありませぬ。何が面白いのか、私自身わからぬ私に手を叩く。そうかと思うとつかの間に、人気は私を見放している。私は見物の喝采などというものを一日も真に受けたことはありませぬ。そのくせわたしという男は、見物のあの喝采の中にしか命はないのだ」
ここには山崎正和の演劇論の神髄がこもっています。
見られることにすがる役者と、そのみられることをどこかで厭い、呪っている役者の横顔が、見事に描かれているのです。
『世阿弥』を読んでいて、ぼくは何度となく、不思議な空間に引きずり込まれていく快感を感じました。それは芸が業と呼ばれるものを持つ所以だからでしょうか。
今、新国立劇場で上演中のこの作品をどうしても見てみたくなりました。

2003-10-21(火)

お背戸

童謡の中で好きな曲の一つが「里の秋」です。何度聴いてもしみじみとしたいいメロディです。しかしその背景にあるのはやはり、歌詞のすばらしさでしょう。

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

里山の風景がそのまま、目の前に現れたかのような美しい表現です。いろりばたのある日常はもうぼくたちの前から姿を消して久しいものです。しかしこの曲を聴いていると、ごく自然にその風景が見えてきます。
それが名曲といわれるものの、魅力なのかもしれません。歌詞の中でいつもひっかかるのは、最初のフレーズにある「お背戸」という表現です。辞書によれば、「家の裏の方、裏庭、すたれつつある標準語」とあります。
確かに今この表現を使う人はほとんどいないのではないでしょうか。裏庭にどんぐりが落ちるのを拾って歩くような生活そのものが、都会ではもちろん、地方でも消えつつあるのかもしれません。
民俗学によって使われた常民の生活がまさにそこにはあります。
ぼくたちはこの100年間の間に、それまでの暮らしとは全く違う、生活様式を手にしてしまいました。
そのことがこの童謡を聴くと、痛いほどよくわかります。懐かしさと同時に悲しい気持ちになるのは、いけないことなのでしょうか。

2003-10-04(土)

四季の時代

松崎哲久という政治学者が書いた『劇団四季と浅利慶太』(文藝春秋)という本を読みました。四季は今や、最大のカンパニーです。松竹、東宝よりも利益をあげ、日本中にたくさん自前の劇場を持ち、スターシステムとは無縁の興行を続けています。
慶応大学卒の浅利はジロドゥやアヌイなどの演出をしていた学生時代を経て、日生劇場への進出を果たしました。
あのころが一つのターニングポイントだったでしょう。鹿賀丈史主演による『ジーザスクライスト・スーパースター』をぼくもこの頃、見ています。
いわゆるストリートプレイとミュージカルの併存という劇団のスタイルがここ10年で大きくかわったのは、やはり『キャッツ』の成功に負うところが大きかったようです。
新宿南口のキャッツシアターが1年のロングランを成功させたことは、日本の演劇界にとってはじめてのことでした。
その後の大阪や、品川など、1年を超える公演というのは、この劇団が最初だったでしょう。
それまでのスターシステムを完全に取り去ることで、常に新しい俳優を必要としたことも、現在の稽古場新設に繋がる道でもありました。その後の流れは、もう誰もが知っている通りです。『ライオンキング』『オペラ座の怪人』の成功もミュージカル劇団への流れを加速しています。
たくさんの俳優が四季から流出し、皮肉なことに東宝のミュージカルを支えています。
また「自由劇場」新設は新しいストリートプレイへの意志とみてとることができるでしょう。
予約システムも全て変え、インターネットのサイトからも可能になりました。つまり情報公開の波に乗ったということです。
これは対税務署、対他社に対しての自信のあらわれとみることもできます。
一回の公演にかかる衣装代だけで10億を超える劇団などどこにもありません。さらに芝居だけで食べていける給料制の劇団もありません。この本では、彼らの基本給まで公開しています。
さて問題は、浅利の後です。彼が生きている間は人脈を活用した、様々な公演ができました。
しかそのあとは、まだ未知数です。いい日本製の芝居がいくつもありません。『夢から醒めた夢『異国の丘』『李香蘭』その他だけではまだ不十分です。
いい劇作家もつきません。四季の劇を書ける人が十分に育っていないのです。
浅利後について、考えることがこれからの四季にとって最大の眼目です。ミュージカルの裾野を広げた功績とともに、今後、『ハムレット』などを中心とした劇をさらに発展継承してもらいたいものです。
経営について書かれた本はこれが最初でしょう。しかしやや礼賛過多であることも否めません。
もっとつっこんだ将来の経営計画や、舞台芸術への意志を見せて欲しかった気がします。

2003-09-11(木)

若さ

昨日の体育祭を終え、さまざまな感慨が残りました。こうした行事はどこの学校でも行われているものです。それぞれにドラマがあることでしょう。
最近は応援合戦などに力を入れる学校がある一方で、当日欠席が目立ち参加する生徒数の少ない体育祭もあるようです。
そんな話をいろいろと聞く中で、昨日しみじみ若さということについて考えました。詳述はできませんが、今までさまざまなことがあって、なかなか一つにまとまらなかったクラスの応援が、みごとに花開いたのです。
団長の涙は本物でした。それを見ていた多くの職員にも、たくさんの思いがあったことと思います。
ぼく自身、本当によかったなあと感じました。いつかは報われる日がくるのだと確信しました。
それまでの道のりが長かっただけに、余計感動も深かったのでしょう。団員たちの喜びは並一通りのものではありませんでした。記念写真もさぞや嬉しかったことでしょう。
若さはやはりすばらしいと思います。その源泉をたどっていけば、荒削りではあるものの、「可塑性」という概念につきあたるのではないでしょうか。もっと易しくいえば「柔らかさ」です。あらゆるものを包み込んでいける柔軟性をもっているからこその若さなのです。
ぼくは困難を内に秘めつつ、それをいつか克服していこうとしたクラスのメンバーに脱帽しました。
こんなになにもかもがうまくいくのは怖いとある生徒は呟いていました。まさに実感でしょう。
しかしこれからの人生の中で、この結果とそれにいたるプロセスの重さは、彼らが想像している以上のものです。
若いということを甘く見て、つい否定しがちな大人がいることも確かです。しかし彼らのもつ柔らかさに学ばなければいけないことがたくさんあります。
さわやかな一日を終えて、やはり若さは武器だとしみじみ語れることは幸せなことです。
学校は誰のものでもありません。主役はあくまでも日々成長し、たくましくなっていく生徒たちなのです。

2003-08-22(金)

上手に年齢を重ねるということ

評論家、下重暁子さんの本をこの数日間に何冊か読みました。彼女はかつてNHKのアナウンサーでした。ぼくは当時ファンのひとりだったのです。
小学生の時、たまたま友人がNHKの公開番組に出るというので、そのお供をしたことがあります。その時、はじめて本人にお目にかかりました。
二言、三言話したことを今でも覚えています。
実に意志的な顔立ちの人でした。その後、放送局を辞め、文筆活動に入られました。最初どのようなものを書くのかと注目したものです。
すると、『二十代に女がすること』『女が四十代にしておくこと』などの女性を対象としたエッセイが次々と出版されました。
彼女自身の経験に根ざしたものだけに、なかなか説得力があります。ことに最近書かれたものは自身の年齢に重ねて、親の介護の問題や、夫との関係、さらには仕事とどのように向き合ってきたのかというある意味で、最も生々しい話題ばかりです。
陶器や、織物に興味を持ち、必ずいいものを毎日の生活の中で使う話や、五十代を前にどうしてもやりたかったバレーを始めた話など、興味がつきません。
自分の言葉でどのようにエッセイを書くのかという根本のところにも触れています。エッセイ教室を開いた時に「文章を書くことは恥をかくことと同じ」と受講生達に話したことなども面白いです。
その教室の中で、はじめから文の書き方を教えてもらおうとした人たちは結局、長続きしなかったそうです。
自分でとにかく学ぶ意志を持たない人は、先へ伸びるということがありません。事実、次々と個性を発揮した文を書き出したのは、独立独歩型の受講生だけでした。
顔は歴史です。男性は仕事で顔をつくり、女性は日常の中で顔を作ります。
それだけに凡庸な生き方をしていれば、時間は止まったままになるのかもしれません。
年齢を重ねていく中で、興味や好奇心を失わないこと、信じるものを見つけることなども必要でしょう。
必ずしも宗教でなくてもいいのです。自然や風土の中に自分だけのかけがえのないものを探すことで十分だと彼女は言います。
旅をし、友人、夫と語らう時をうまく使いながら、ごく自然に年をとっていく。これは簡単そうでいて、なかなかにできないことです。
つねに自分の美意識にのっとって生きることの大切さも実感しました。
彼女の静かな表情の中に、たくさんの恋愛体験があることも知りました。異性と長く平穏に暮らすということは、想像以上に難しいものです。駄目ならきっぱりと決断をしなければいけません。離婚をするには結ばれる時以上にエネルギーが必要となります。
彼女の表情を思い出しながら、読んだ本はどれをとってもしみじみと胸に響くものばかりでした。

2003-08-14(木)

ブランド

本当のことを言うと、ブランドについて語る資格がぼくにはありません。つまりどれがどこの製品だかよくわかっていないからです。
なぜあれほど高価なのかもよく理解できていません。
最近は小学生にまでブランド品を買い与えている親がいるという事実にも驚かされます。
質流れ品のバーゲンなどに並ぶ人たちの様子を、テレビでよく放送しています。100万円もするバッグを買って、それでも市価よりは安いと呟いている女性を見ると、もう言葉が出ません。
タレントの中には、特定のブランド品を買い漁っていることを笑いのネタにしている人もいます。
それも一つの芸なのかもしれません。
確かに人間、外見は大切です。第一印象は衣服や持ち物で判断されるものです。
しかしあまりブランドに傾斜している人を見るのは、いい気持ちのものではありません。自分というものを本当にもっているのだろうか、と時に疑わしくもなります。
品物はおそらくいいのでしょう。飽きずに長持ちするのかもしれません。
持つなというのではないのです。しかし振り回されるのはあまりに悲しいというより、滑稽です。
ブランド側に立てば、戦略的に日本人を籠絡するのはそれほど難しいことではなさそうです。
事実、青山や外苑前などには次々と外国の老舗ブランドが規模を大きくして出店しています。
わざと客数を限定し、内装に凝り、選ばれた人間にだけ商品を見せるといったような仕掛けの店舗すら出てきました。
これはマーケット戦略でいうところの、セグメンテーションにあたります。
いわば、高級感という雰囲気を買わされている訳です。
かつて売れない商品を安く出して、失敗したブランドもありました。現在では在庫調整をきちんとし、それでも売れない型落ち品は燃やしてでも消費者の手に安く売らない算段をしています。
たかがブランド、されどブランドです。
しかし、ものを持って幸せになった時代はとうに過ぎたのではないでしょうか。
問題はその内実にあるのです。
生きることと真摯に向き合うことでしか、もう本当に生の実感を得られない時代になりました。
今から、ブランド品を着て喜んでいる小学生を見ると、気の毒になることさえあります。

2003-08-05(火)

みみず

暑くなりました。そのせいか、歩いているとみみずの姿をたくさんみかけます。
マンションを出る通路のところをたくさん、這っているのです。どこから出てきたのでしょうか。暑いから涼しいところを探しているのかもしれません。
しかし彼らの大多数は本来の目的を達することなく、討ち死にしてしまいます。ぼくはなんだかその姿をみるのがつらいのです。
数時間後、外出から戻ったころには、もう完全に干からびています。中には踏まれてつぶされ、跡形のなくなったのもいます。
たかが、みみず。されど、みみずです。
このところ作家五木寛之は随分心のエッセイをたくさん出版しています。彼の感性はいつも時代にそっていて、それが人気の秘密なのでしょう。『不安の力』とはうまいタイトルだと思います。
今ほど、ものが豊かな時代はありません。しかしそれと反比例するかのようにみな大きな不安を抱いています。
核戦争まで話を広げなくても、身近なところにいくらでも不安の種ははあります。
老後、リストラ、年金、健康。このどれもが漠然とした不安の根元です。生き甲斐のない老後を送るのはだれでも厭です。しかしそのためには経済的な保証もなければなりません。
年金は頭打ちどころか、どんどん減額されていきます。
この不安を解消する道はあるのでしょうか。
彼の最近の仕事の一つに古寺巡礼があります。古いお寺を歩きながら、心の平安をさぐるというものです。これもいい仕事だなあと感じます。
そのアンテナの鋭さには思わず舌をまいてしまいます。マスコミはすぐさまビデオの販売という手段に訴え、そこでまたかなりの収益をあげようとしています。
しかしそんなことではなく、ここでは一人一人の古寺巡礼が必要かもしれません。
みみずのようにひからびて日盛りをのたうち回っているぼくたちだから、必要な巡礼なのです。

2003-07-27(日)

非を訴える

今日、放送された「プロジェクトX」を見ながら、いろいろなことを考えました。
ロボット犬AIBOの開発秘話です。
最初、数人で始まったSONYも次第に大企業病に襲われます。誰もが新しいことに手をつけようとしなくなるのです。
その頃開発していたコンピュータは他社の二番煎じで、部品も自社のものはほとんどありませんでした。
そういう現状に飽きたらず、有能な技術者たちは、次々と会社を去っていきました。
仕事には夢がなくてはいけません。しかしそれを実現するには非を訴える強力な人間が必要なのです。
当時誰も開発に手を染めようとしなかったのが、ロボットでした。開発部長は誰からも愛される犬のロボットに着手しようと考えてはみたものの、その道は平坦ではありませんでした。
人工知能の研究をしていた技術者は10万行に及ぶプログラムを書きました。
しかしなかなか思うような動作をしません。命令されたことをするだけで、生きているようには見えないのです。
全てのプログラムを印刷し、廊下に並べ、這うようにして、そのミスを探しました。
犬の歩き方だけを研究した技術者は多摩川の土手を何度も歩いたといいます。
開発責任者には一度やめた人間をあてました。本人を会社に呼び、極秘裏にAIBOの試作機をみてもらったのです。
その時、技術者魂が動いたのでしょう。彼がいなければ、このプロジェクトは仕上がらなかったと思います。次々と出す難しい課題にチームのメンバーの中には異動願いを出す者もいました。
開発後半では、床に寝転がってそのまま、寝てしまう者も出ました。そうして仕上がったAIBOでしたが、最後の最後になって、発売のゴーサインがでません。
開発部長は1000体だけ作らせて欲しいと、拒み続ける首脳陣につめよります。最後は自分が責任をとるという言葉で、やっと発売にこぎつけました。
当初の予想に反し、予約開始から20分で3000体が完売した時、社内では禁じられているシャンペンを皆で飲んだといいます。
非を訴える、新しい夢をみつめる人間がいなければ、開発はできません。
AIBOとは人工知能の「AI」と人間の相棒という意味からとった命名だそうです。

2003-06-12(木)

親子

つい数日前、評論家佐高信の父、兼太郎さんが亡くなられました。号を茜舟といいます。93歳の大往生でした。
向かうところ敵なしという感じの佐高さんにとって、唯一頭の上がらなかったのがこの父親の存在です。かつて3月の週刊現代には「父のように生きたい」というコラムを書きました。
佐高信の父、兼太郎さんは、定年まで山形県の県立高校で書道を教え、その後も書家として活躍していました。
佐高さんは比較的最近、感謝の気持ちもあって、作品を一冊にまとめてはどうかと父親に提案したことがあったそうです。すると父の兼太郎さんは驚いたことに、新作だけならいいと答えました。
90歳を過ぎても日々精進しているから過去の作品は、載せたくないということだったのです。
結局、本作りは断念しました。
佐高信さんは、世界は違うが、父のように生きたいと思うと文章を締めくくっています。
実はぼくの妻も佐高先生に教えていただいた生徒の一人です。彼女はこの時の指導が自分の書道人生の原点であるといつも語っています。かなの美しさを教えてくれたのも、先生だったのです。
昨年も今年も立派な年賀状を頂戴しました。
とても93歳になって書いたとは思えない堂々たる字体です。
いつでも筆を持っていれば、自分というものを律することができたのでしょう。
佐高先生に教えてもらわなかったら、今の自分はないと言い切るだけのものを妻はもらいました。門外漢のぼくからみていても羨ましい限りです。
いつも佐高信さんの著書を読むたび、背後に父親の存在を感じました。他の人に比べて特別に親しみを感じています。
彼は『墨』という雑誌にも随分長く、父親のことを連載していました。本当に尊敬すべき父親を失った佐高さんの心中を思うと、言葉もありません。
お別れの会は今月の22日だそうです。
妻は出席する意向のようです。もし行かなかったら一生後悔すると言っています。人は人の人生を動かすということなのでしょうか。
一期一会とは言い得て妙な言葉です。

2003-04-27(日)

圧迫

面白い言葉があります。
圧迫面接という不思議な表現です。厳しいことを次々と訊いて、その反応をみるという面接の方法のようです。
どこそこの会社は4対1で大変厳しい圧迫面接だったというような使い方をします。リクルート関係のサイトを見ていると、夥しい書き込みがあります。実際にどの会社がどんな面接をしたのか、ほとんどわかる仕組みになっています。
内容はどれも礼儀正しく、けっして今の若者も捨てたものではないと思います。
昨今の厳しい経済状態の中で、就職活動は全く楽観できるようなものではありません。
都心へ行けば、リクルートスーツに身を包んだ若者が、しきりに手帳を覗き込み、何か書き入れています。夏までに決まればよし、冬になってもまだ決まらない人もいます。
時たま、電車などで隣に座った人の手帳を垣間見たりすると、びっしりと訪問先が書いてあるのに驚くことすらあります。
「エントリーシートの効果的書き方」から「SPIの受け方」「面接の達人」に至るまで、書店に並んでいる本も様々です。
さて採用側が見たいのは、学生時代の成績や学力だけではありません。もちろん優秀であることにこしたことはないでしょう。
それでは何なのでしょうか。一言で表現するのは難しいですが、ぼくは柔らかさではないかと感じます。どのような状況にもすばやく反応し、様々な問いかけにも的確に切り返せる能力といった方がいいのかもしれません。
不況の時代です。とにかく柔軟性がなければ生き残れないのです。その意味での圧迫面接だと考えればいいのではないでしょうか。
難しくいえば、自己肯定力をどれだけ持っているのかを試されているわけです。最後まで自分の中でテーマを温め、それに応えていくという意志の強さも必要です。
途中でへこたれて、もう何も話せなくなったというのでは、これからの時代を乗り切ることはできません。
企業は自分たちが競争社会を生き残り、さらに発展していくための人材を求めているのです。
何度圧迫面接を受けてもへこたれない精神力とそれを切り返す力がどうしても必要です。
そしてむしろこちらから、疑問点を投げかけていくくらいの積極性がなければ、何度最終面接までこぎつけても、内定をもらうのは難しいでしょう。
それだけ、労働環境はしぼりこまれているのです。厳しい時代だけにとにかく頑張ってほしいというしか、今は言えません。

2003-03-24(月)

親しむ

今日、本を読んでいてつい降りる駅を忘れてしまいました。気がついたのはすでにドアが閉まった後です。やれやれと思いながら、それでも読書に夢中になっていつも降りる駅までわからなくなるというのは、幸せなことだなあと感じました。
今でも忘れられないのは、はるか以前、有吉佐和子が中国へ行った時のルポを読んでいた時のことです。このときは3つほど駅を乗り過ごしてしまいました。それくらい新鮮で面白いルポだったのです。
あの頃、ぼくにとって中国はまだ遠い国でした。それから後に自分が実際その国を訪れ、高校で授業までさせてもらえるとは思ってもみませんでした。
あれから何度、読書に夢中のあまり、駅を通過したことでしょうか。
しまったと思いながら、しかし全く自分が厭になるということは不思議とありませんでした。むしろ微笑ましく感じるのはなぜでしょう。そこに何か自分自身に対する愛おしさがあるからかもしれません。
それだけ熱中できる本を持てたということがなにより嬉しいのです。自分に興味のないものであれば、まさか駅を乗り越してしまうようなことはないでしょう。興味や関心は人間を別の広い場所へ誘う水先案内人のようなものです。
どんなに他人が面白いから読んでみろと勧めてくれても、やはり興味のないものには全く手がでません。そうした意味からいえば、いつもの降車駅を忘れてしまうくらい熱中できるというのはすばらしいことだと言えるのかもしれないのです。
評論家の小林秀雄は常に3冊の本を携帯していたといいます。もちろんその中には電車の中で読む本も入っていました。
彼はよく読書とは、著者に会いにいくことだと語っていました。本を読みながら、作者の息遣いが聞こえなければ嘘だと彼は書いています。彼らに直接会いにいくという境地になれれば、それこそが本に親しむということの極北なのかもしれません。

2003-02-24(月)

上医

南木佳士が10年前に書いた岩波新書『信州に上医あり』を再読しました。
南木の作品には芥川賞をとった『ダイヤモンドダスト』や『山中静夫氏の尊厳死』といった大変いい作品があります。けっして浮ついたところのない地味な作風ですが、好きな作家の一人です。
その中でこの新書に収められたルポは少し異質のものと言えるかもしれません。
昔何の気なしに読んで、いい作品だなと思いました。今度読み返してみて、やはりここに登場する佐久総合病院の院長、若月俊一さんの横顔と同時に、彼を心から敬愛している南木という医者がいたから、上梓できた本だという気がしました。
若月院長の横顔についてはこの新書を読んでもらえればすぐにわかるはずです。一言でいえば波乱に満ちた人生といえるでしょう。裕福な少年時代から一転しての貧窮生活。
東大医学部を卒業した後、共産党運動に身を投じようとする直前に転向し、その後アカという烙印をおされたまま、治安維持法で1年間の牢獄生活を余儀なくされました。大学在学中も1年間停学処分になっています。
卒業後、どこの医局でも拾ってもらえず、偶然分院の助教授の世話になり、それが元で外科を学ぶことになりました。その後戦争が激化。彼は佐久平にある小さな診療所へ疎開していきます。
そこで若月がみたものは、疲弊した貧しい農民でした。満足に医者にかかれない彼らに何がしてあげられるのかというところから、現在、1000の病床を持つまでになった佐久総合病院への道が始まるのです。
しかし南木の筆はけっして踊っていません。じっと若月という人間の日向と陰を見つめながら、清濁あわせのむロマンチストの横顔と、経営者の側面をみています。どうして自分が若月のいる病院へきたのかという原点から自身を見つめ直そうとしている点が、とても新鮮です。
医療も現在は予防医学から、さらには先端の専門医学へと変化しつつある時代です。その中で最初に佐久総合病院へ志願してきた医者と現在のように何もかもがそろっている状態で、日々診療にあたっている医者とは意識がまるで異なっています。200人近い医師相互の関係も現在は希薄になりつつあるといいます。
その中で日々仕事をしている自己の内面を凝視しながら、それでも若月という人間の大きさを素直に描いている点に共感します。若月俊一はけっして赤ひげ先生などではありません。いつも最後には腰を低くして、若い医者に酒をついでまわる、ただの人間なのです。
この新書は若月俊一という希有な信州の上医を描きながら、実は南木佳士という男の内面を描いたという側面も持ち合わせているのです。
そこがまたこのルポの斬新な所以でしょう。

2003-02-14(金)

新しい時代へ

西澤潤一という人は本当にユニークな人です。今までに何度もテレビなどでインタビューを見る機会がありました。そのたびに一陣の風が爽やかに吹き込んでくる気がします。実に気持ちのいい人です。
今の日本でもっともノーベル賞に近い物理学者であるとここ10年以上言われています。しかしそのことをのぞいて、教育者としても大学の学長としてもやはり大きな人物だと思います。
西澤さんがノーベル賞候補に挙げられた理由は、光通信技術の研究・発明についての功績ででした。光通信には「電気信号を光に変える光発振素子」「光を遠方に運ぶ伝送路」「光を電気信号に変える光検出素子」の3つが必要です。彼はその3つをすべて自力で開発していったのです。
光通信の最大の魅力は、一本の光ファイバーを使って電話回線なら2万3千回線以上、テレビでは30回線以上も収容可能である点にあります。光ケーブルが登場する前の同軸ケーブルでは、電話回線で2700回線、テレビでは2回線程度でした。
最初は光ケーブルもかなり太いものでしたが、今では開発がさらに進み、髪の毛の6分の1ぐらいの細さのケーブルで約1万キロ先まで情報を届けることができるそうです。
インターネットなどもいずれすべて光通信になることでしょう。これだけの大きな発明を一人の頭脳がなしとげたいうことにまず驚きます。
西澤さんの基本はまず常識を疑うところから始まります。光なんてどこかへすぐに拡散してしまうと考えるのは、ごく普通のことでしょう。しかしグラスファイバの中なら反射しつつ、先まで届くのではないかと想像したのです。
開発には約10年かかりました。GR型グラスファイバとは、ガラスファイバの中を通る光が、外に逃げないようファイバの中心に集束するようにガラスの中に屈折率分布を持たせたもののことです。
ガラスの純度を高め、ガラスファイバの内部を中心部から周辺部へいくにつれて徐々に屈折率を小さくすれば光は全反射し、中心部に集束され遠くまで伝わるというアイデアなのです。
これが世界を変えました。次々と特許を申請する西澤さんに対して、大学の研究者にあるまじき行為だという非難も多数ありました。産学協同が否定されていた時代、彼は一人で黙々と研究を続けたのです。
現在、岩手県立大学の学長として、センター入試によらない大学入試を試みています。記憶に頼る学生はいらないという主張は一貫しているのです。面白い生徒がたくさん集まるという話を嬉々とした顔で話す西澤さんの中には、教育者の面影が色濃くにじんでいます。
同じ東北生まれの宮澤賢治をもっとも敬愛していると、学長室に並んだ賢治の全集に思いをこめていつも語ります。
日本の進むべき一つの方向があると思いました。

2003-01-14(火)

やまない雨

今日、本屋さんで倉嶋厚の近刊『やまない雨はない』を立ち読みしました。倉嶋さんといえば、つい数年前まで、お天気おじさんとして、よくテレビに出ていた人です。
日本各地の気象台長を勤めた後、お天気キャスターに転身しました。
しかし97年に奥様がガンで亡くなり、そのショックで自身がうつ病になってしまったのです。この本はそのことを率直に綴ったものです。すでに10万部が発行されたとのこと。それだけ似たような境遇にいる人の共感を得たということなのでしょうか。
奥様に対する看病、医療への不信、がん告知の決断、尊厳死。最後にはとうとう遺書をしたため、自殺未遂したことまでを告白しています。
老齢になって伴侶に先立たれるというのは、特に男性にとっては決定的な打撃となります。事実、妻をなくした男性の生存率は急速に落ちるというデータもあるのです。
老年期とは「木枯らし、時雨、小春日和」が繰り返す、と倉嶋さんは書いています。兄弟と同僚に自殺者のいたことが、彼の自死を急がせた要因であると自分で分析もしています。
倉嶋さんは、妻に先立たれて生きる力をなくす「ダメ夫」ぶりを隠さずに書いています。
自分は不甲斐ない男です。だから私のことは、お手本になりませんとしたためています。悲しみを克服するという言葉は簡単ですが、実際それほど容易なものではありません。時間が全てを癒すとはいうものの、その嵐の中を生きている人にとって、それも簡単なことではありません。
奥様は倉嶋さんが鹿児島気象台長のとき、朗読奉仕活動に専心して60巻のテープを鹿児島の点字図書館に残しています。亡くなる直前には苦しい息の中で、冬物と夏物衣料の入れ替えのことまで心配していたそうです。
気象台時代のなれそめ、子宝に恵まれなかった寂しさ、夫婦の日常にふれたくだりなどが、ごく自然に書きとめられています。
その奥様の死で、悲しみと後悔の念がつのり、ついにうつ病になり、最後は自殺予定の場所に何度も立ち、ついに精神病院に入院まですることになりました。
倉嶋さんは苦しみの経験から、同じ境遇の人たちに自分をあまり責めないでと書いています。
「明けない夜はない」「やまない雨はない」などという表現を聞いたことがあるでしょうか。しかし実感をもってこの言葉が使えるようになるまでには、彼にとっても膨大な時間が必要だったのです。

2002-12-30(月)

家族

今年のキーワードは何かと考えながら、重松清の小説を読みました。代表作『ビタミンF』はテレビでもドラマ化されたので、見た人も多いことと思います。彼の小説は父親、家族がテーマになっているものが多いようです。
今回のは『流星ワゴン』という話です。一言でいってしまえば、自分が死のうとしたその日から、多くの死者に出会うという寓話です。しかしこの話はかなり痛みを伴います。主人公の男は5年も前に新聞で読んだだけの自動車事故をいつまでも記憶に留めています。ところが自分がふっと自殺を考えた時、事故死した父親と子供の乗るワゴンが目の前に現れるのです。
ここからは時間が輻輳し、不思議なことがいくつも起こります。
主人公は今まさに死にかかっている父や、自分の家庭の崩壊現場に直面していくのです。
妻は不倫をし、子供は中学校の受験に失敗してから、不登校になり、家庭内暴力をふるい始めます。その歯車がどこでどのように狂っていったのかを、一つ一つ死者たちとともに検証していくのです。
ぼくたちの日常は本当に同じことの繰り返しで成り立っています。しかしほんのわずかの瞬間に、やはり選択をし続けている自分がいます。その時、間違えてはいけなかったベクトルの方向を、何気なく踏み外してしまうことで、人は想像もしなかった別の場所へ連れていかれるのです。
金貸しを手広く商っていた父をなぜ愛せなかったのか、主人公は考えます。子供をどうしてあんな状態にしてしまったのか。妻をなぜ自分の側へ引き留めておけなかったのか。
一つ一つの理由はおそらく小さなものです。しかしその集まりがやがて人生の軌跡になっていくのです。
結局、主人公は最後の最後に自殺を思いとどまります。そして夜遅く家に戻る妻を駅まで迎えにいくのです。子供とも取るに足らない、しかしとても大切な時間を共有しようと努めます。一緒に海賊ゲームをして、遊んだりもするのです。
世の父親たちは確かに今、難しい場所に立たされています。しかし家族の持つ力を信じなければ、この時代、どこへ向かって進めばいいのか、見当もつきません。
今年のキーワードは月並みですが、やはり「家族」だったのではないでしょうか。この小説を読んで、しみじみそう思いました。

2002-12-08(日)

時の谷

師走になりました。歳月が音をたてて過ぎていきます。ついこの前、お正月だと思っていたら、もう年の瀬です。本当に1年の経つのがはやいと感じる今日この頃です。
毎年この時期、年賀状よりも先にやってくるのが喪中を知らせる黒枠の葉書です。父が、母が亡くなったという知らせが、次々と舞い込んできます。
今年も昔お世話になった友人の父上が亡くなりました。就職する時、いくつか会社を紹介してくれたのです。結局その出版社には行きませんでしたが、いわゆるコネを使って紹介してもらいました。大変有り難く、今でも感謝しています。
聞くところによれば、友人の母親は一人で暮らしているとのこと。心配なので、時々は信州から出てきて身の回りの世話をしているそうです。
実は今日、その友人から大きな段ボール箱いっぱいのリンゴが届きました。すぐにお礼の電話をすると、突然送りたくなったからという返事です。その返答を聞きながら、なんともいえない気分になりました。
昔、毎日のように会っていた友達です。彼は文学部を突然途中でやめ、その後医者になりました。大学に通っている時、下宿先を訪ねたことがあります。そこのご主人が大変親切にしてくれ、近在でも有名な蕎麦屋へ連れていってくれたりもしました。
あれから遙かな歳月が流れています。その間、何度か会ったことはありますが、しかしいつもは年賀状のやりとりがせいぜいというところだったでしょうか。
しかし突然送り届けられたリンゴを食べながら、年月の不思議さを感じずにはいられませんでした。
ふっと会いたくなるということが、やはり人間にはあるのでしょう。
その瞬間、かつての自分に戻れるという装置は、ただ人間同士の出逢いの中にしかないのかもしれません。
確かに写真もその一つでしょう。しかし友人達がもっている同じ時間と記憶は、今になってみるとかけがえのないものです。
なんの利害関係もなかっただけに、その時間の堆積が、いっそうきらめいて見えるのです。
年の瀬にぼんやりとそんなことを考えました。

2002-10-08(火)

父と娘

井上光晴が亡くなって、もう10年以上が経ちます。歳月は本当に早く過ぎてしまうものです。
今日、8月に上梓された娘、井上荒野の『ひどい感じ、父・井上光晴』を読みました。
ぼくは以前勤めていた学校で、荒野さんのすぐ下の妹を教えたことがあります。その関係で何度か、井上光晴さんにはお目にかかりました。一言で言えば面白い人です。やはりユニークだという以外にいいようがありません。
また彼が行っていた文学伝習所の講義にも参加したことがあります。オンザロックを片手に、その場で黒板に向かって小説を書いてみせてくれました。それは紀伊国屋ホールで行った連続講演を元にして出版された『小説の書き方』にそのままつながっています。
ある意味で、井上光晴はぼくにとって親しみのある作家だということがいえます。
ただし彼の作品を多く読んだかといえば、それは少し疑問です。とにかく堅く、難しいのです。その思想の背景がどこかごつごつとした岩盤によって支えられているのを、よく感じました。ドストエフスキーを敬愛する彼は、文庫本から次々と代表作が消えていくのを嘆いていました。
井上作品の中で、『地の群れ』という小説はどうしても忘れられません。こんなに厳しい小説があるのかと思いました。読んでいてつらかったのを覚えています。
さて今回の読書は、そうした意味で、大変懐かしいものでした。どれほど彼が父として娘を愛し、また二人の娘が父を敬愛していたのかがよくわかります。しかし文体はべたついてはいません。というより、父親の影響を強く受けていることがよくわかります。確か、荒野さんが、フェミナ賞という文学賞を受賞したとき、大変嬉しそうにその話をしていた記憶があります。
娘を作家にしたかったのでしょう。彼女が同人誌をつくり出した時、ものすごくそわそわとして落ち着かなかった話などは、興味深いものです。
虚言癖があったこと、自分をある種のドラマの中におこうとしたこと、妻との実に不思議な同士的関係など、彼女の筆はなかなか鋭いです。みんなで囲んだ食卓の様子や、その時の会話が蘇ってくるようです。
また癌にかかってからの態度もものすごいものです。彼の肝臓摘出手術の様子は原一男監督の作品『全身小説家』の中で見ることができます。それは本当に壮絶なものでした。
この作品にはどの場面にも井上の魂があります。大変すぐれたドキュメントです。瀬戸内寂聴が見舞いに訪ねるシーンなども、いかにもこれが井上光晴だと感じさせます。
彼からはいろいろなことを教わりました。
ぼくが書いたものをみてもらった時、「いい文だが、ぼくならこうは書かない」と呟きました。あの言葉はぼくにとって、今でも重いものです。

2002-07-14(日)

木々は光を浴びて

今日、光が緑の葉に降りそそぐのを見ながら、遅い昼食をとりました。妻の叔母が亡くなってからすでに6年。盆の墓参りに行ってきたのです。妻の両親が別の用事で東京に出てきたのもあって、叔父の家を訪ね、その後墓参をしました。あじさいで有名な寺です。庭は、もうすっかり枯れた花で、茶褐色に変容していました。
あれほど見事に咲き誇っていた花々も、時期が過ぎれば嘘のように枯れていきます。人生と同じなのかもしれません。しかし新しい芽は確実に、また次の生命を宿しています。
さてその後、近くの懐石料理店で、実にゆったりとした時間を過ごしました。その庭の緑が美しく、ぼくはしばしの間みとれてしまいました。
しかし正確にいえば、美しいのは緑だけではなく、そこに降る光です。とりわけ今日は暑い日でした。直射日光が容赦なく葉にあたります。風が吹くと、ときおり枝が揺れ、そこに影が生まれます。美しいといえば実にありきたりな表現ですが、それ以上にいい形容が思いつきません。
森有正のエッセイ『木々は光を浴びて』のタイトルが何度も頭の中をよぎりました。パリと東京の違いはありますが、木々の緑と光のコントラストほど美しいものはありません。ぼくはその風景にしばらく酔っていたのかもしれません。少しもアルコールを飲まずに、人は酔いしれることができるものなのです。
その時、ふとこのたくさんの木々の葉がもし赤だったら、心は酔うだろうかと考えました。もちろん秋の紅葉を思い描いていたのです。しかしどう考えても、赤に強い直射日光はあいません。むしろ柔らかな秋の澄んだ陽がふさわしいのです。
若葉から、濃い緑になる頃、まさにたくさんの樹木が陽を恋うて、風に揺らぐのかもしれません。
ぼくは今日一日幸せでした。
だがそれにしても人が亡くなってからの歳月のはやいこと。なぜなのでしょう。あまりに死んだ人は静かすぎるのでしょうか。

2002-06-10(月)

教育という幻想

数日前の朝日新聞に精神分析学者、岸田秀の文章が載っていました。彼の唯幻論はなかなかユニークで面白いものです。今回掲載された文章の要旨は、多くの人々が持っている教育に対する幻想を見事に打ち砕いてしまうものでした。
要約すると次のようになります。

①みんなが潜在的には平等な能力を持っているとする幻想。
②誰にとっても勉強は苦痛であるが、我慢して勉強すれば、そのうち役に立つという幻想。
③一定の正しい教育方法というものがあって、それを実施すれば生徒の能力が伸び、個性が開発されるという幻想。
④有害なこともあるのに学校教育は長期であるほど、無条件に本人のために有益であるとする幻想。
⑤ある学校に通学し、卒業すれば一定の能力とか教養とか技術とかが身についているという幻想。

ここに示されていることは、長い間議論されてきたことばかりです。どれ一つをとってみてもなかなか結論が出ないものばかりだということはよくわかるでしょう。しかしここにあらためて箇条書きにしてみると、なるほどと唸らない訳にはいきません。
ぼくのように毎日生徒と接している人間の立場からみると、まさにこの通りだと思わずにはいられないところが多々あります。
人間の能力は性格が違うのと同様、明らかに違うものです。また適性も異なります。ですから同じ進度で進む日本のような授業形態はもう完全に破産しているのです。習熟度別にできれば少しは解決しますが、予算の問題とすぐにリンクします。しかし、小規模で同じような能力の生徒を集めて授業をしない限り、非効率的であることは言うまでもありません。
また我慢して勉強するということがどの程度の意味を持つのかも、なかなかに難しいテーマです。そもそも役に立つということの内容が、ひどく曖昧です。ぼくは時々なぜ自分はこんなことを教えているのだろうと呆然とする時があります。
特に古語文法などは、入試がなかったら誰も学ぶものはいないでしょう。しかし役にたたないのかといわれれば、そうとばかりも断言できません。古文を読むのが好きな人にとっては苦痛ではないのかもしれないのです。
また教育法についていえば、これが最適だなどというものはありません。教えてくれる教師のことが好きになって勉強するということも間々あるのです。
ですからメソッドということをあまり前面に出し過ぎると、授業は方法論のためのものになりがちです。その構造をみてとってしまう生徒にとっては、あまりにも平板でつらいものでしょう。
また大学生の知的水準が落ちているという報告を耳にするたび、本当に教養をつける場所として大学がふさわしいのかということも考えてしまいます。岸田秀は義務教育は小学校4年まででいいし、大学の卒業証書は廃止せよと論じています。
学ぶということはどこまでいっても独学を主体としたものでなければなりません。いい教師はそのための水先案内人にすぎないのです。しかし今の教育の現場はあまりにも多くの野望が闊歩しすぎて、本質がみえなくなってしまっているような気がしてなりません。

2002-06-10(月)

わたしを束ねないで

1929年、茨城県の結城に生まれた新川和江は高等女学校を出ると17才で近所の新川家に嫁ぎます。生家は桑園で、母親同士が親しい縁でした。その後26才で長男を出産します。
しかしこれからが彼女の面目躍如たるところでしょう。夫は妻に何でもしてよいという人だったのです。そこで新川さんは小説、詩などの創作活動を始めます。彼女について詩人の茨木のり子は「環境にめぐまれてぐうたらな有閑マダムとなってしかるべきところを、精神の安住を嫌い、本質的な問いをたえず発し続けてきた」と述べています。
女に生まれ、恋をし、妻となり母となるという、ある意味ではごく平凡な人生の中に、しかしそれでも折れない自我の強さを感じます。
ぼくは彼女の作品の中で、ことにこの詩が好きです。いつ読んでもぼくをあたらしい気持ちにさせてくれます。この詩は、かつてあるテレビ番組の中で、母が子供の中学校の教科書を広げながら一緒に勉強するシーンに登場しました。あの時、ああいい詩だなと思ったのが最初です。
それからいろいろな詩集を調べ、新川和江のものであることを知りました。言葉は不思議です。本当にひそやかに語られたものが、心を打つのです。

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
草原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいくぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

稲穂、海、音、風、詩とつづく彼女の世界にひたりきれば、そこにはまったく違う自分がいます。終わりのない文章はいったいどこへ向かえばいいのでしょうか。

2002-05-30(木)

誰がシェルターに入るのか

田口ランディのメールマガジンを読んでいて、あるテーマに目がとまりました。最近ずっと考えて続けていたものに近かったからです。ここに示されているのはまさに生命倫理の究極の疑問かもしれません。内容はクローン人間は是か非かというレベルを超えて、彼らクローン人間は果たして差別されるべき存在なのかということです。
彼女の原文の一部をここに再録します。もちろんこれが全てではないので、正確ではありませんが、趣旨は十分に理解できると思います。

私はクローン人間を作っていいと思うのか? 否。絶対に反対である。では、私がこんなに反対する理由はなんだろうか。もしかして近未来にはいろんなタイプのサイボーグが出現し、クローンもアンドロイドも普通の人間と同じように市民権を得て生活できるようになるかもしれない。そうなったとき、クローンが作られてはいけない理由は差別問題以外に何だ?
もし、私に二人の子供がいるとする。一人が私が産んだ子供で、もう一人がクローンだ。そして二人は見間違えるほどにそっくりである。性格も、行動も。ある日放射能事故が起こり、核シェルターに入れと言われる。ところがそこには二人しか入れない。私と子供一人。だとしたら私はどうするか。
今の気持では自分の産んだ子供を連れて自分が入る。たぶん、クローンの子供は連れていかない。でも、クローンなら私の子供と同じなのだ。子供が二人いることと同じではないか? まったく同じ顔、同じ声で「おかあさん、助けて」と言われたら、私はどうするだろう。考えるととても恐ろしい。

インドとパキスタンの争いは昨日や今日起こった問題ではありません。その上、両国が核を持っているという事実はこの地域紛争を全地球レベルのものにしています。ある説によれば、もしこの両国が核戦争をしたら1200万人の人が死滅してしまうそうです。二つの国だけではありません。放射能を浴びた野菜や家畜、魚までもが汚染され、食用にならなくなってしまうのです。
まさにこうした現実の前で、いざ自分の子供をキャパシティの決まったシェルターに入れなければならないとしたら、ぼくたちはどうするのでしょうか。その時、本当に彼女が懸念しているような事態が起きないとは言い切れません。
クローン人間はもうまもなく地上に誕生するだろうと考えられます。これは必然でしょう。今までも臓器移植にからめて脳死判断などを行ってきたことを想えば、この流れはごく自然なものでしょう。その時、ぼくたちは偏見なく、彼らを差別の嵐にさらさないでいられるものでしょうか。性格も行動も同じ二人の子供をどのように親として扱えばいいのかは難問中の難問です。なぜなら人間には感情があるからです。
現在、朝日新聞に連載されている実の親からではない人工授精のケースの話も、人間の感情が技術を超えることはないという証左に満ちています。つまり誰が本当の自分の親かを探し続け、とうとう最後にはアイデンティテイ・クライシスに陥るという話です。なんとなく自分の親ではないという気配を知った子供は実の親を知りたいという感情に駆られます。そこでインターネットなどの手段を使って、自分の広告をするのです。誰が親なのか名乗ってほしいとか、事情を知っている人は教えて欲しいなどというものです。
さてクローン人間が出生した暁には、何が起きるのでしょうか。田口ランディの文章を読みながら、神なき時代に技術だけが先行していくことの恐ろしさをあらためて痛感しました。クローン人間の誕生はもう秒読みの段階に入っています。

2002-05-20(月)

共生の思想

『梅原猛の授業・仏教』(朝日新聞社)という本を読みました。これは2月に出たばかりですが、もう4版を重ねています。この本の面白さは中学校での授業の内容をそのまま採録したという点にあります。しかしだから内容が特にやさしいということではありません。むしろどうわかりやすく生徒に話すかというところに、梅原さんは一番神経をつかったように見受けられます。
彼が大学で講義をしている時最も強く感じるのは、今の大学生に知的好奇心が非常に少ないということだそうです。その原因の一つに暗記中心の科目が多いこともあります。道徳教育がなくなったことにも大きな危機感をもっています。どうしても小学校や中学校で授業をしてみたいという熱意を抱かせた原因は文明の基礎にある宗教について語る人がめっきり少なくなったという思いからによるものでした。
彼は空海がつくったといわれる綜藝種智院のあとに建てられた、洛南高校付属中学で授業を試みます。ここで梅原さんはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に触れ、今日人類がどこへ向かっていこうとするのかを考えようとしています。
現代の精神はまさに登場人物の次男イワンが言ったように「神がなかったら、道徳はない。道徳がなかったら人間は何をしてもいい」というところへ至ろうとしているかのようだと述べます。
現実は確かにこの方向に進んでいるかのようです。決して3男アリョーシャがもってうまれたような心のやさしい宗教的な方向へ向かっているとは思えません。ドストエフスキーは最後にアリョーシャを中心に据えて、この作品を書き終えたかったのでしょう。
しかしそれが書かれなかったところに、ある意味で近代の悲劇があるようにも思えます。
宗教を失ってから時代は既に長い世紀を経ています。神なき神学の時代が、いつまで続くのか誰にも予測はつきません。梅原さんは文明を支えたものは宗教だと言います。その中でアメリカの国際政治学者ハンチントンの名をあげ、必ず近い将来西洋の文明とアラブの文明、あるいは西洋の文明と東洋の文明の衝突が起こるだろうという予測を支持しています。
キリスト教の元に生きてきたヨーロッパ、しかし未だにイエスの再臨はありません。ロシア正教に代表されるロシアはマルクス主義の退潮により、どこへ向かおうとするのか、まだ道筋を見いだしていません。またアラブの宗教は強烈な一神教であるためにバーミヤン遺跡の破壊という行為までおこしてしまいました。
あるいは昨年の9月11日のテロは、まさにアラブの文明と西洋文明との対立と見て取ることができるでしょう。
インドでうまれたにも関わらず、カースト制の中では発展することができなかった仏教が今、日本にあります。アフリカのアニミズム的要素をもった日本の古い宗教や神道とうまく融合し、生きとし生けるものが共存していくという、東洋的思想の落とし子です。
小麦を主体にした草原を根本におく西洋的農業では、雨をそれほどに必要としません。しかし日本の米を中心とした農業形態には雨が必須です。つまりそこに人間の限界を知る自然への崇拝も生まれてくるのです。人間中心主義の西欧思想に比べて、なぜ東洋の特に日本の思想が共生的であるのかという理由の一つが、まさにここにあります。
「殺生」とは人が人を殺すということではありません。あらゆる命を奪ってはならないという思想です。ここがキリスト教とは全く違うところです。
今のままでいったら文明はあと500年で滅びるだろうと梅原さんは言います。原水爆、環境破壊、遺伝子操作などは一神教的な西欧中心の科学から生み出されたものです。しかし21世紀は人間の自然支配ではなく、生けるものとの共存というところに大きな意義を見いださなくてはいけないのかもしれません。
この本は日本にうまれた多くの仏教者を紹介しながら、時に中学生とのディベートなども含んだ大変示唆に富む本です。ここから入っていけば、十分に大きな広い場所へ出られるものと確信します。
2002-05-20(月)

楕円の人

『時の肖像 小説・中上健次』を読み終えました。この作品は昨年の9月「新潮」に掲載され、今年1月に出版されたものです。筆者は長い間、文芸雑誌「新潮」の編集者で中上とは最も親しい間柄だった小説家、辻章です。
80年代を駆け抜けた作家、中上健次が死んだのは1992年8月12日のことでした。この時の衝撃は今でもぼくの中に強く残っています。痩せて皺だらけになった顔の写真をそれまでに何度も見、彼がガンであることも知っていました。しかし中上はそう簡単には死なないと勝手に思いこんでいたのです。それだけに彼の訃報は大きな意味をもっていました。自分の中から大切なものが強引に奪われていく感覚に近かったのです。
ちょうどその頃、何度目かに書いた小説がたまたまある文学賞の最終候補になり、ぼくはその雑誌の編集者と話をする機会を持ちました。折しもその数日前に彼が亡くなったのです。ぼくは中上が死にましたね、と思わず初対面の編集者に呟きました。ええといったきり、しばらくの間会話がとぎれてしまったのを覚えています。
中上健次は詩人でした。作家であるよりも前に詩人であったと思います。彼の処女作『18才、海へ』を皮切りに初期の作品をほぼ全て読み、その後『岬』、『枯木灘』、『鳳仙花』、『水の女』、『熊野集』などへと進んでいきました。代表作はやはり『枯木灘』でしょう。路地と紀州熊野の地をみごとに一つの作品の中に凝結させました。秋幸という主人公に万感の思いを抱いて、本を読み続けたことを今、思い出します。
この小説は被差別部落の路地に住む男と女の生き様を、詩的に描いた戦後日本文学にとっての遺産であると信じています。『文芸首都』の同人として、その後長い間文学を志し続けた人間の証として、ぼくはかれの小説を読み続けました。
辻章のこの小説には、中上の持つ味わいが実にみごとに描かれています。酒を飲むことも時に暴力をふるうことも、全て彼の人間性の深奥に触れた時、はじめて理解できるものです。
中上が辻章の家にはじめて来た時、話の合間にこんなことを言ったとあります。
「文学っていうのは結局記憶のことだよな」
この話に続いて、辻はいや、文学ではなく、私小説っていうのはと言ったのだったかも知れないとし、生きていることそのものこそ、まっとうな文学だと中上は言ったのかもしれないと結んでいます。
それからしばらくして彼はとうとう入院をしてしまいます。
あれほどの思いをして発掘した在日韓国人作家、李良枝を失ったこともありました。今俺に話していることそのものが文学なんだよ、と彼女を説き、小説にまとめさせ、それを辻のいる編集部へ持ち込んだのです。その結果としての芥川賞も彼女の神経をさらに痛めつけることになってしまいました。
熊野に帰るといい、韓国が俺の故郷だといい、世界中を飛び回った中上の生涯はあまりにもあっけないものでした。しかし彼の文学の底にある詩は今もぼくを打ちます。人一倍神経が細かく、つねにはにかみやだった中上は、結局最後まで孤独な人間であったのかもしれません。
生きることに執着し、いつも小説を書きたがっていた彼の力を新しい世代の人たちは今どのように感じるのでしょうか。気になるところです。あまりにも血の匂いや汗にまみれすぎているととらえる人が多いのかもしれません。
辻章はこの小説の中でしたたかに自分を語っています。特に知能障害をもった自分の子の存在を語ることによって、その事実を知った後でどう中上が対応したかには、文学者の真の姿をみる思いがします。
中上健次はつねに醒めた目を持つ大人と無垢で無邪気な子供という二つの焦点をもつ、楕円のような人だったのではないでしょうか。

2002-05-11(土)

ある人生

高橋たか子の最新エッセイ『この晩年という時』(講談社)を読みました。彼女の書いたものを手にしたのは、本当に久しぶりのことです。10数年程前、突然フランスへおもむき、そこで修道女になってしまったときは本当に驚きました。
文章はなんともいえない味わいのものです。これは彼女だけの持つ資質に負うものと言っていいでしょう。『没落風景』、『遠く苦痛の谷を歩いている時』、『誘惑者』などを読んでみれば、その作風がある程度理解できると思われます。
また高橋たか子といえば、どうしても夫だった高橋和巳のことを最初に思い出してしまいます。彼はぼくの深層にあたるところに横たわった作家だと言えるでしょう。
今、机の上に1971年7月号の「文芸」があります。高橋和巳追悼号です。この年の5月、彼は不帰の人となりました。わずか39年の生涯でした。この本はぼくにとってとても大切なものです。何度も捨てようかと思いながら、なかなか整理できませんでした。それだけ愛着がある雑誌なのです。定価が200円というところに時代を感じます。
ぼくの世代の人間にとって高橋和巳はある種の重さと痛みををもって語られる作家だろうと思います。高校から大学にかけて、彼の著作をほぼ全て読みました。最初に読んだのが『憂鬱なる党派』という作品でした。そこから文芸賞受賞作『悲の器』さらに『邪宗門』、『我が心は石にあらず』、『わが解体』というように次々と読了していきました。
京大中国文学科で吉川幸次郎門下として活躍し助教授になった頃、全共闘運動が始まりました。彼は学生たちの思想に共鳴し、一躍時の人になったのです。
和子(たかこ)夫人とは同人誌「ヴァイキング」で知り合った仲でした。彼女は仏文出身で、和巳が文壇に登場して以来、夫人はいっさい執筆活動から退いたのです。しかし高橋たか子が本当の意味で作家になったのは、その病床日記からでした。
『臨床日記』と題されたこの作品は後に『高橋和巳の思い出』という構想社から出た本にもまとめられました。その一番最後には次のような記述があります。
「病名を知らず、不可能な時間を夢みたまま、主人は命を終えたのであろう。やすらかな顔であった」
絶筆は『遙かなる美の国』という作品でした。もう今では殆ど誰の目に触れることもないでしょう。現在では全集の中に収められているだけです。
高橋たか子は夫の死後、どのようにして生きていけばいいのか指針を失いかけたといいます。その時自分の内側を探っていく過程の中で、たどりついたのが他ならぬ文学でした。シュールレアリズムの強い影響を受けていたためか、半ば自動記述のようにして、言葉を紡ぎ出していったと書いています。
当時、『無明長夜』を書いた吉田知子、『黄色い娼婦』の森万紀子、『パルタイ』の倉橋由美子、『三匹の蟹』の大庭みな子などが内向の世代の文学を引き受けつつありました。その中に彼女も自然と含まれていったのです。
一言でいうなら、高橋たか子の文学は救済を簡単には見いだせない暗い作風のものばかりです。そこには人生の深淵だけが口を大きくあけて待っています。およそこの文学に救いをもとめるのは困難なことかもしれません。
しかし簡単なレベルを遙かに超えて、もっともっと遠いところまで、自身を掘り下げていく可能性に満ちた文学ともいえるでしょう。退いていくことで、限りなく前進のベクトルを身にまとうという修辞は正当なものでしょうか。
今69才になった彼女は言います。もはや2001年を過ぎ、私は「この晩年という時」に立つと。
あの頃から随分時間がたちました。もう一度二人の作品を読み直したいと強く思います。

2002-05-11(土)

家族の肖像

先日の新聞に、大学生の五月病は既になくなりつつあるというコラムがありました。今はそもそも勉強などする気がないのに大学へ入ってくる生徒が大多数だそうです。自分の偏差値にみあった居場所をさがし、適当に4年間を暮らすというのが一般的なのでしょうか。
今月の文藝春秋では東亜大学学長になってしばらくたつ山崎正和が、その感想を正直に書いています。今まで大阪大学にいた頃とは何もかもが違うというのは、率直なところでしょう。学力にもかなりばらつきがあり、漢字の読み書きや、作文力といった根本的なところで力不足が目立つと記しています。しかし性格は素直で、褒めてあげると喜んで勉強するというのも、また真実に近いと思われます。
むしろ目下の問題は、世の中に出ていく決心がつかない学生の留年、大学院進学、引きこもり、摂食障害の方にあるようです。さらにいえば、その前段階、中学、高校、驚いたことには保育園にまで五月病が降りているといいます。
この問題の底にはいったい何があるのでしょうか。伝統的な家意識が崩れ、しかしそれ以外の個人を支える規範がなくなりつつある今の社会のなかで、誰もが右往左往している様子がみてとれます。
昨年出版された村上龍の『最後の家族』にもまさにそうした崩壊していく家族の肖像が描かれていました。兄は完全な引きこもりとなり、不本意に入った大学にも通学していません。妹は高校に通う意味を見いだせず、宝石デザイナーの男と最後はイタリアへいく決心をします。
父は会社が吸収合併され、リストラの対象となります。母は自分の夫である男との関係に疑問をもち、ふとしたことで知り合った大工と時々はあって話をし、さらにはひきこもりの解消のため、精神科医との面接を繰り返します。
それぞれの行動がちぐはぐで、ここに家族のぬくもりをみることはなかなかに困難です。しかし誰もが家族という幻想の中に生きているのも事実なのです。
この小説には宝石デザイナーと大工という二人のいわば「つくる」人間が出てきます。自分のアイデンティティを「技術」の中に求めようとする男たちです。不確かな時代にもっとも確かなものは他の誰もが手にしていない技術です。そこに癒しを求めようと接近する登場人物には誰もが共感を覚えるのではないでしょうか。
村上龍はある場所で、これは『最後の家族』というタイトルにしたが、実はここからが出発なのだと述べています。全てが解体していく場所からしか、本当に新しいものは生まれてこないのかもしれません。
引きこもりの兄は隣家のドメスティック・バイオレンスを目撃し、なんとかして隣の奥さんを助けようと、女性弁護士に相談に出かけます。彼にとっては本当に久しぶりの人混みでした。しかし不思議と怖くはありませんでした。それまでは深夜一人でコンビニへ行くのがせいぜいだったのにです。
弁護士はそこで決定的な発言をします。
あなたの母親はあなたを救おうとしているのだろうという問いかけに、そう思っている、母はぼくを救おうとしてくれていると彼が答えた時、弁護士は次のように言います。
これがこの作品全体の基調音といってもいいでしょう。
「おかあさんは、あなたのためにいろいろな人と話すうちに、自立したんじゃないでしょうか。親しい人の自立はその近くにいる人を救うんです。一人で生きていけるようになること、それだけが誰か親しい人を結果的に救うんです」
引きこもりの親たちの会へ入り、なんとか息子を救いたいと考え始めた母親はそこではじめて真実の自分と向き合い、やがて自立していきます。その様子を息子はじっと見ていたのです。
『最後の家族』とは結局、原初へ戻る契機をつかむ家族のことなのでしょう。
大学生に五月病がないというのは、逆にいえば最も恐るべきことなのかもしれません。

2002-04-28(日)

神話の世紀

河合隼雄の『日本人という病』を読みながら、いろいろなことを考えました。この本では、今の日本人がどういう考え方を持つようになったのかというところに、焦点があてられています。特に自然科学の知が世界を席巻して以来、ぼくたちの日常から宗教性や神話が急速に衰えたという点を強調しているのです。
神話が取り扱う主題はさまざまですが、一番のポイントは「死」に関わるものです。自分が死ぬという体験は誰にとっても未知の領域です。二人称(あなたの)、三人称(彼の)の死はあっても一人称の(自分の)死は全く認識できません。
もともと日本人は太陽を拝み、神棚をつり、仏に手をあわせるような生活をしていました。しかし近来の生活は、そうしたものをことごとく排除する方向に向かっています。
自然科学は何度同じ実験をしても、結果が完全に同一でなければなりません。つまり曖昧さの排除ということがその根幹でしょう。しかし人間はもともとひどく曖昧な存在です。自分がどこから来てどこへ行くのかさえ全くわからないのです。
生命の問題はまさにその一部といえます。今日科学の知が進み、生命現象のかなり細かなところまで、認識できるようになりました。クローン技術などはまさにその先頭にたっています。しかしそれでもなお、ぼくたちの生がどこへ進むのかということについて、科学だけではすまないものがたくさん残っているのです。
一人称の死でなくても、肉親が亡くなった時、それが有機物である生命体の終焉であるととらえる人は少ないのではないでしょうか。やはりその人の魂がどこかに安らぐ場所をみつけたと信じることで、人間は心を落ち着かせるのです。最愛の恋人が目の前で事故死したとき、それはただの一般ではなく、あくまでも特殊なのです。なぜその人が死なねばならなかったのか、またその人はどこへ行くのかをぼくたちは考え続けます。
この問題は永遠です。すなわち人の一生は神話なしには成り立たないとも言えるのです。誰もが年をとって死ぬというのはごく普通の科学です。そのあとには何もないというのも科学です。だから頑張って勉強しても仕方がないとか、仕事をあくせくする必要はないとかいう結論も可能です。この考え方はあらゆる場面を通じて顔をのぞかせます。
また極楽や地獄の絵を見たという経験を持っている人もかなり多いはずです。しかしそれを科学的に立証することはできません。銀河系のどこにどんな星があるのかを研究している人も、地獄の場所は知らないのです。
しかし現実に肉親をなくした人は、どこかでその人の魂が癒されていることを信じたいのです。そこに生きることの難しさが絡んできます。
河合隼雄はこの本の中で「賭ける」ということを主張しています。わたしは地獄や天国はあると思う、あるいはその考え方に賭けるという一種の個人的な神話の生成です。これは既成の宗教ではありません。全く個人的な体験だとも言えるでしょう。
現代は誰もが神話を失っています。個人主義は自然科学と強い結びつきをもち、当然神話からは最も遠い場所にあります。
神話の知は何度同じ実験をしても、全く同一の結果を得るということとは次元が違うのです。自然科学の知との差をこれからも考えなければならないでしょう。
ひょっとすると、このことが一番大切な、これからの世紀を生きる人間にとっての正念場と言えるのかもしれません。

2002-04-02(火)

女の一生

女優、杉村春子がこの世を去ったのは平成9年。91歳の春4月でした。その少し前に『午後の遺言状』という映画に出たのは記憶に新しいところです。老いた舞台女優とその別荘の管理人。そして老女優の夫が管理人に生ませた子供。偶然に出会う泥棒と死に場所を求めてさすらっている能役者夫婦。それぞれが不思議な味わいを醸し出した作品でした。
モチーフは一つの石です。その石が生の意味を限りなく感じさせる重い意味を担っていました。最後にこの石で自分の棺をたたいて欲しいと願う老女優を杉村春子が、そのままの姿で演じたのです。
ところでこの作品の監督をした新藤兼人がつい最近『杉村春子の生涯』(岩波書店)という作品を上梓しました。表紙を見た瞬間、つい本を手にとっていたというわけです。
妻、乙羽信子がガンにかかり残り1年と宣告された時、新藤さんはどうしても杉村春子と一緒に妻の最後の映画をとりたいと思ったそうです。場面は蓼科の彼の別荘でそのほとんどを撮り、最後の海のシーンだけは金沢にしました。その頃、乙羽さんは発熱が続き、もう映画を撮る状態ではなかったといいます。しかしその日だけは不思議と熱がひき、ラッシュを見たとき、彼女は本当にうれしそうな吐息をもらしたそうです。
ひょっとすると自分の命の限界を悟っていたのかもしれません。その数ヶ月後、彼女は静かに息をひきとります。監督の妻になるまで、どれほど苦難の道があったのかということについては、それだけでひとつのドラマになるでしょう。前妻が病に伏して亡くなるまできちんと愛情こめて面倒をみた後、新藤さんは近代映画協会時代から同士であり、愛情を持ち続けていた乙羽さんと再婚するのです。実に気の遠くなるほど長い間、乙羽信子は夫になるべき男性を黙って待ち続けました。
その意志的な風貌と同時に、彼女のいくつもの作品をみれば、新藤兼人にとってどれほど大切な人であったのかが、すぐに理解できると思います。

さてもう一人の主人公、杉村春子は実に二度、夫となった男性と死に別れています。芝居と結婚した女の悲しみがそこには漂います。いつも愛するものに先立たれてしまう彼女は、それでも愛する人を探し続けていました。
そこに登場したのが劇作家、森本薫です。昭和19年、『怒濤』という北里柴三郎をモチーフにした作品で、杉村春子と森本は急接近します。もちろん彼には女優である妻がいました。しかし前夫、長広岸郎と死別して2年。39歳の彼女は誰か愛する人を求めていたのです。その前にたちはだかったのが、後に文学座の財産となる『女の一生』を書いた森本薫でした。
彼は杉村春子のために、この作品を完成させました。その頃、彼は肺を病んでいたのです。戦争が次第に苛烈さを増す中で、次はいつ上演できるかわからない『女の一生』をどんな気持ちで演じたのか、今想像することはできません。文学座の顧問、久保田万太郎は最後の公演の後、時節を待ってまた集まろう、それまでお互いの身体を大事にしようといったきり、しばらく絶句してしまったといいます。
感極まって、杉村以下女性陣たちも泣き崩れてしまったのです。
『女の一生』は激しい芝居です。一幕目の最後に主人公、布引ケイの言う台詞には万感の思いがこもっています。
「だれが決めたのでもない、私がきめた人生ですもの、だめならだめでないようにしていかなくっちゃ」
舞台の真ん中にすわり、正面をきっと睨み付けた杉村春子の表情が今でも忘れられません。
団員の脱退騒動、自分の後継者だと公言してはばからなかった太地貴和子の事故死。彼女の周辺にはいくつものつらい歴史が積み重なっています。
その一つ一つが、文学座の重鎮としての杉村をさらに磨き上げていったのでしょう。悲しいことですが、それが現実に鍛えられるということなのです。

2002-04-02(火)

介護の現場から

作家、丹羽文雄がアルツハイマーに冒されてから、15年以上の月日がたちました。かつて文壇の大御所と言われ、多くの弟子を抱えていた人とは思えない老後の現実です。娘の本田桂子さんが亡くなったのは昨年の4月。父はそのことさえも、とうに認識できない状態になっています。
中央公論社から数年前に出た『父・丹羽文雄 介護の日々』は圧倒的な共感を持って受け入れられました。介護保険法が話題になり、やがて法案として、日の目をみようという頃の話です。
アルツハイマーは恐ろしい病気です。現在ほとんど治療法がありません。少しづつ人格が壊れ、次第に何も認識できなくなっていくのです。
最初はまさかと思っていた彼女も、どうしようもない現実にさらされます。父が大好きで、最も尊敬する理想の男性であっただけに、その失望には表現できないほど深いものがありました。料理研究家という仕事のかたわら、気がつくとアルコールに手を出し、とうとう中毒症状で入院まですることになってしまいます。
そんな様子を見ていたのが丹羽文雄の弟子、瀬戸内寂聴でした。彼女はしきりに本の執筆を勧めます。今までのことをありのままに書いてみることで、気持ちを整理してみなさいと助言してくれたのです。数年間、厳重に封印していた事実を公にすることには当然のことながら悩みました。実に一年かかって、やっと自分なりに納得し、書き始めたのです。
しかし実際に発表したとき、その反響の大きさには驚いたそうです。日本中にこれほど同じ悩みを持っている人がいるのかという、単純な驚きでもありました。まだ在宅介護が中心で施設に入れることには誰もがためらいをもっている時代でした。介護は女の仕事だという社会認識から、誰もが抜け出せなかったのです。
彼女も在宅で最後まで頑張ろうと努力します。しかし自分の母親、夫の母親がそれぞれ全く違う種類の痴呆症状を示しはじめ、いよいよ張りつめていた神経にも限界が見えてきます。やがて介護保険発効とともに、彼女はすぐに申請をし、ケアマネージャーやヘルパーと共同戦線を組みます。もちろん、他の人よりずっと経済的に恵まれているとはいえ、介護の現場の苦労はどこも同じです。
しかも父親の様態は日毎に悪くなり、失禁を繰り返します。その時が自宅介護の限界の日だと覚悟を決めていた彼女は、すぐに施設を探し始めました。
入居の日、なぜか老人は動こうとはしません。夕方になってもう諦めかけていたところに、施設の車が迎えにきます。羽交い締めのようにして、車に父を乗せる姿をみて、本田さんは泣きじゃくってしまいます。どうしようもない現実と、肉親の感情に責められる瞬間だったのでしょう。
その後なるべく施設に顔を出して、父の様子をみるにつけ、一人の老人として扱われる父親の姿に悲しみを禁じ得ませんでした。先生と呼んでくださいというお願いや、何が入っているのかわからないほど、食材を切り刻んだものを出さないでほしいという願いも、そこではなかなか受け入れられません。
そのたびに彼女は家に連れ戻そうと考え、次の瞬間にはもう無理だと自分に言い聞かせるのです。
そうした日々の苦闘をまとめたのが、昨年11月に朝日新聞社から出された『娘から父・丹羽文雄へ贈る朗らか介護』という本です。
はじめに記したように著者の本田桂子さんはわずか六十五歳で不帰の人となりました。そしてそのことを知らない父親は現在、九十五歳を過ぎています。
彼女は介護をする人に対しての介護こそが一番大切だといい、痴呆老人を少人数で介護するグループホームの可能性を最後まで訴え続けました。
愛する父をなんとかしてグループホームに入れたいと願っていた途中での早すぎる死です。この本には彼女の講演の一部と夫、本田隆男さんのコメントも載せられています。
上手に死ぬことがいかに難しいかということをあらためて考える契機になりました。

2002-04-02(火)

僧になるということ

青木保著『異文化理解』(岩波新書)を読んでいたら、タイで僧侶になった時の経験を書いた一節が出てきました。筆者には『タイの僧院にて』(中央公論社)というかなり以前にまとめられたルポがあります。今回、どうしてももう一度読み返したくなり、再読してみました。
タイには一時僧の制度があります。これは男子だけに許されたシステムで、誰でもどこかのワット(寺)に修行僧として入ることができます。総じてすでに修行を終えたものは誇らしく、そうでないものは皆近いうちに必ずと思っているようです。すべて権力欲、物欲だけで支配されている訳ではない、この国の懐の深さを象徴している制度とも言えるのではないでしょうか。つまり全く別の次元で人間を判断する尺度とでも言った方がいいかもしれません。
タイの人々は日本人がとうに失くしたものを今でも、たくさん持っているような気がします。
僧になるには最初にパーリー語によるスワットモン(教典)を完全に覚えなければなりません。元々フィールドワークか宗教のどちらかに照準をあてようとしていた筆者は、最初僻地の民族と接触を試みます。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』に憧れていた彼にとって、ある意味では当然の帰結でした。しかしスパイ活動と間違われ、ついに活動を断念せざるをえなくなります。そうした過程の後、宗教への傾斜を深めていきます。
文化人類学の研究のために訪れた国で、青木さんは自分が僧になるなどとは想像もつかなかったと言います。しかし文化の内側に入るための手段として、これ以上のものはないとも言えるでしょう。もちろんその時の彼に邪悪な心はありませんでした。ただテラワーダ仏教(小乗仏教)と呼ばれる戒律を重んじる宗教の内部に自分を閉じこめてみたいという衝動からの純粋な願いだったようです。
二万以上ある僧院の中で、どこへ修行に行くのかということは大きな意味を持ちます。その意味で彼が望んだワット・ボヴォニベーはとんでもない雲の上の存在でした。ここはタイ教学の中心地であり、厳格な修行で有名なタマユット派の総本山でもあったのです。
毎朝の日課は托鉢(ピンタバート)から始まります。僧は黒い鉢を持ち、その中に食事を入れてもらうのです。その際、ワイと呼ばれる合掌をするのは施し(サイ・バート)をする側です。僧は一言も口をききません。無言で感謝の気持ちを伝えるだけです。
寺に戻り食事をした後、スワットモンを唱え、朝のお勤めが終わります。
ところでタイにはタン・ブンという考え方があります。これは僧になった人に功徳をつむことで俗世間にいながら、少しでも仏の道に近づきたいとする考え方の基本なのです。テラワーダ仏教では僧になって修行をつむ以外、救われる方法はありません。しかし少しでもその境地に近づきたいとする人間の気持ちには大いに共感を呼ぶものがあります。
筆者は結局半年の間、表面的には単調な日々を送るものの、精神的には大きな収穫をあげていきます。しかし歯の治療に訪れた時、長い間の食生活からか、血がとまらなくなり、栄養失調と判断されます。それが最後通牒でした。彼はスック(還俗)を決心します。長老に挨拶をし、最後に祈りを捧げ、長かった僧院生活に別れを告げます。
最近は外国人の禅僧もいる時代です。けっして珍しいことではないのかもしれません。 しかし日本人でこのような経験をした人はそれほど多くないのではないでしょうか。
長老に祈った時、頬をつたって落ちた涙はいくらでも尽きることかなかったといいます。
青木さんは最後に「私のこれまでの生の中で、物心ついてからあのような訳のわからない涙になきぬれたことはない。これが僧修行のもたらした最大のものであった」と綴っています。
僧になる修行はいつの時代でも容易いことではありません。しかし異国の地で、それをやりとげた人には見えた何かがあるはずです。この本を読みながら、何度も羨ましいという気分と自分には出来ないという相反する気持ちがこみ上げてくるのを感じてなりませんでした。

2002-03-17(日)

自分の感受性くらい

すぐれた詩は時に人を立ち止まらせます。茨木のり子のこの詩をはじめて読んだのはつい数年前のことでした。朝日新聞の論説に掲載されていたのです。ちょうど桃や桜の咲き始める今頃の記事でした。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

誰もが同じ恰好をしようとする時代だからこそ、他者と自分をきちんと区別していくだけの感性を養い続けなければなりません。ダメなことを時代のせいにしてはならないのです。確かに時代は動いています。というより一カ所にとどまる術をぼくたちは見失っています。それだけに尊厳を放棄することなく、自分の感受性を失うことなく、生きていくことが求められているのです。
人とおそろいであるということで、安心してはなりません。ぱさぱさに乾いていく心を他者のせいにしてはならないのです。自分が自分であるということを、声高にではなく、ひそやかにしかも自信を持って守り続けていく必要があります。
このことがいかに難しいことであるのかということも、よくわかっています。それでもやはり自分の感受性は自分で守り続けなければなりません。
これこそ、つらく苦しい、しかし心楽しい生き方ではないでしょうか。
薄桃色の桜が咲き始めたのを見たら、つい数年前に読んだ論説を思い出してしまいました。

2002-03-17(日)

幸福論

人間はなんのために生まれ、日々を生きているのかという問いは、多くの人によってよく発せられるものです。その時の一つの答えに「幸せになるため」というのがあります。なるほど不幸になるために生きていこうとする人間は一人もいません。しかしその幸せの中身を考え出すと、これはなかなかに難問だということにすぐ気づかされます。
とにかく人の数だけ、幸せがあるといった方がいいでしょう。かつて何冊もの『幸福論』と呼ばれる本を読みました。アランのものなどは大変有名な部類に入るのではないでしょうか。フランスでも日本でもいちばんよく読まれており,欲望,怖れ,悔恨などの情念からどうしたら自由になれるかが説かれています。
最近読んだのは宗教学者、ひろさちやの『幸福術』という本です。その中で一番今の気分にぴったりとあうのは、「おいしくものを食べる」という章でした。うまいものというのは世間にたくさんあります。そのおいしいものを食べるために、ぼくたちは一生懸命働き、たくさんのお金を持って、一流の店に駆けつけるのかもしれません。しかしそれが本当においしいものであるのかどうかということは、簡単には言えません。
心配ごとでもあれば、その食事が本当にうまいものになるかわかったものではないでしょう。しかし「おいしくものを食べたい」ということであれば、それはちっとも難しいことではないと筆者はいいます。家族そろって仲良く食卓を囲み、また親しい友人などと語り合いながら食事をすれば、それは本当においしいのです。
そのためにはいつも家族の絆に心を配らなければいけません。また気の置けない友人たちとのいい関係も大切でしょう。どんな食材でもそこにいる人間たち相互のあたたかな雰囲気で、おいしいものになるわけです。欧米でよく行われるホームパーティなどでも、料理は二の次、主役はあくまでも会話だと言われます。まさにここにこそ、「おいしいもの」の秘密があるのではないでしょうか。
給料が倍になればさらに豊かになろうと働き続けるのが日本人、その反対に給料が増えれば、半分の日数しか働かないのがインド人だとよく言われます。進歩が美徳であった時代はもう過ぎ去りつつあります。豊かになれば幸せがくると信じて働いた日本人は、今大きな試練の前に立たされているのです。
中国の人たちも、今は豊かになるという目標に向かって全速力で駆け抜けようとしています。しかしいつかそのことが、別の不幸を生み出す要因になっていくのかもしれません。貧富の差も増大しているといいます。気功集団「法輪功」の存在なども気になります。
家族がばらばらになって一緒に食事をとれないという状況はやはり恐ろしいものです。塾で夕飯を食べる子供、残業や、単身赴任で家族と食べられない父親、そこに本当の姿の幸福はありません。
日本人はバブル崩壊やその後に続く長期不況、アメリカでのテロなど多くの事実を目の当たりにしてきました。その中で唯一学んだことは、家族の大切さでしょう。テレビドラマも浮ついた恋愛ものがある一方で、確実な視聴率を稼いでいるのは家族の絆とは何かというより根本的なテーマのものばかりです。
食べ物は副食、おしゃべりは主食という幸福観は軍国主義の対極にあるのではないでしょうか。

2002-02-17(日)

化粧とは何か

林望著『恋せよ、妻たち』を読みました。最初何気なく読み始めましたが、案外おもしろく、というよりリンボウ先生の語り口につられて、つい時間を忘れてしまいました。タイトルをみてわかるとおり、ごく気楽な本です。しかし本音がかなり出ていて、そこに少なからず快哉を叫ぶぼく自身もいたというわけです。
その中でもジェンダー論に絡んで、なぜ花嫁姿には眼鏡が許されないのかというくだりはなかなかに面白いものでした。実はこの本を読むかなり以前に、遙洋子の『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』という物騒なタイトルの本を読んでいたこともあり、どうもジェンダー論にはやや剣呑なものを感じでいたのです。
しかしここでの論理はなかなかに理解しやすいものです。特に花嫁姿のばかばかしさについて言及したくだりは実に爽快でした。世の中が随分変化したとはいえ、結婚、女の幸せ、美しい花嫁という三点セットの刷り込みはそう簡単に崩れるものではなさそうです。女に生まれたなら一度はあのウェディングドレスを着てみたいものなのでしょう。男には全く理解できません。それにあの白無垢の花嫁衣装もです。
ちなみにトルストイはこんなことを言っています。
「幸福な夫婦はただ一様に幸福だが、不幸な夫婦はみなとりどりに不幸なのだ」と。
ぼくも今までかなりの結婚式に参列させてもらいましたが、あの白塗りにはリンボウ先生同様、やはりうんざりしたものです。この特殊な化粧法は今も昔も変わっていません。司会者の紹介と同時に登場する花嫁に多くの友人たちがきれいといって褒めそやすのも、ごく日常の風景です。これはいったいどういう心理状態から発せられる言葉なのでしょうか。
その上、眼鏡はダメというのもなぜか理由がわかりません。近視の人はどうしたってコンタクトレンズを買うしかないのです。しかしこれがなかなかに高く、眼鏡屋と眼科医が隣り合ってあるという状況は、限りなくあやしい関係を想像させます。というより癒着そのものです。
化粧は色気と隣り合わせにあります。なぜあれほどに女性は化粧をしたがるのかというのは、男にとって永遠の謎です。自然でいることがなぜできないのかというのもまたごく男にとって共通の問いです。ここに男女差別の温床があるとリンボウ先生は憤ります。上品な薄化粧ならいいではないかという思想にも彼は疑問を呈しています。どこからが薄化粧なのかという疑問も当然あるでしょう。本人の考え方によって全く程度が違ってくるものだからです。
やはり内面を直視し、受容し、真剣に等身大の自己を生きる潔さの中にこそ、本当の美があるのではないでしょうか。高校生とつきあっていると、まったく化粧っ気のない生徒もいれば、つけまつげにファンデーションべったりというのもいます。ちょっと前はやたらに黒い顔の生徒もいました。
どちらがより女性として魅力的かといえば、それは誰の目にも明らかでしょう。何も塗らなくても時分の美というものが、そこにはたっぷりとあります。笑顔で友達と楽しそうに話している様子に、ある種の感慨を持ったりもするのです。
箸が落ちても楽しいという時代を彼らは今まさに生きています。と同時にそうした彼らと共にいられるというぼく自身の幸せが交錯する訳です。けっしてべた塗りの顔や、金髪が見たいわけではありません。
オーデコロンしかり、煙草の匂いしかり。この世から不思議なものが消えてなくなれば、随分と食事の場も楽しくなることでしょう。化粧とは何か。それはある種の防護壁を築かなければ、世間に向けて立ち尽くすことのできない人々の悲しい性の証なのかもしれません。

2002-02-17(日)

演出術

蜷川幸雄の最新刊『演出術』(紀伊国屋書店)を読みました。大変分厚い本でしたが、読み始めたら、止まらなくなりました。これは彼の苦闘の記録です。自分でも本当は言いたくなかったことをいつの間にか、誘導尋問にあって話してしまったというのが真相でしょう。自分の負の部分を語るのは誰にとってもつらいことですが、逆にいえば、そこに創作の秘密が宿っているわけです。内容は前作の『千のナイフ、千の目』を大きく突き抜けています。
実際一つの芝居を想像力だけでつくりあげていく仕事というのは、厳しいものです。イメージが枯渇しているのを知っているのも本人ですし、失敗した舞台を見続けなければならないのもまさに本人自身なのです。彼は現代人劇場と櫻社解散の経緯を初めてここで語っています。しかもそのことを今も引きずって舞台造りの原点にしていることも告白しています。
仲間に裏切り者と罵られ、つらい言葉を浴びたことが終生忘れられないのでしょう。商業演劇へ行くことは当時の新劇人にとって背信行為そのものだったと思います。石橋蓮司や蟹江敬三などとともに行う芝居の拠点にしていたアートシアター新宿文化は小劇場そのものでした。劇作家清水邦夫との接点は時代への参加(アンガージュマン)だったのです。しかしそこから一気に、帝国劇場や日生劇場へ行くのは、彼らにとって何を意味していたか十分に理解できます。体制に擦り寄った男として、許せないという意識は、現在とは比べものにならなかったでしょう。
精神的には苦しい時代が続きます。しかしシェイクスピアの『リア王』やソフォクレスの『オイディプス』、エウリピデスの『王女メディア』など活躍の舞台は一気に広がりました。しかし芝居の世界は狭く、一人のプロデューサーが去ると同時に彼の仕事も減っていきます。もう蜷川はいらないという気配が、濃厚に立ちこめたのです。
この時期を救ったのは唐十郎でした。『唐版滝の白糸』『下谷万年町物語』という二作で、蜷川は復活の兆しをみせます。その後は秋元松代の『近松心中物語』や『元禄港歌』、樋口一葉『にごり江』と帝劇での仕事が続きます。しかし彼はこの頃の芝居をもう見たくないといいます。自分の中にある様式へのこだわりを突き抜け切れていないと考えているようです。いずれも再演を重ね、定評のある舞台ですが、今度やるときはもっと無名の役者で試みたいとも語っています。
しかし平幹二郎と太地喜和子との道行きのシーンは圧巻でした。今も目に焼き付いています。歌舞伎につきすぎてはいけないし、しかしそこからなかなか離れられないというのがこの時期の演出の難しさではなかったでしょうか。それを超えるためには次の世代を待たなければなりませんでした。『真夏の夜の夢』の唐沢寿明と大竹しのぶです。
さて、この後はやはりベニサン・ピットでの公演が大きな意味を持ちました。その間何度も外国公演をし、蜷川の名声は自分とは違うところで進んでいきます。しかし彼が地に足のついた活動を行うために作り出した蜷川カンパニーは精神の拠り所であったと思われます。
ベニサンは地下鉄都営線森下という不思議な場所にあります。もともと染色工場の跡地ですが、そこが現在は演劇の梁山泊になっています。芭蕉庵のそばといったらわかるでしょうか。近くには両国もあります。相撲部屋がいくつもあるところです。多くの芝居がここで稽古され、ぼく自身、なんどか訪ねたこともありました。その一角にあるのがこの小さな劇場です。
彼の芝居で一番多く見たのは『王女メディア』ではないでしょうか。群衆をコロスとしてうまく使うことを知った彼は、しかし批評家にそのことを言われると、次からは使わないなどという荒技をしてみせたりもしました。
『マクベス』を仏壇をイメージした舞台でやるとか、『テンペスト』を能舞台の背景の中で公演するとか、そのアイデアはまったくユニークなものです。しかし彼の根元にあるのはやはり昔の仲間を許せるのかという点につきるのでしょう。
今までほとんどが失敗作だったという彼にとって、絶望しか傍にはないと断言しています。しかし手を抜かないで一生懸命やっていく中で、その積み重ねが叙情を生み出すというのです。ある種の清潔感に裏打ちされた叙情がかすかな救済のイメージを作り上げるものなのかもしれません。
希望を語ってもすぐに癒されるわけではないでしょう。しかし語らずにいても熱望する心があればそれで良しとするのが蜷川の今いる場所であろうと思います。

2002-02-03(日)

秘すれば花

久しぶりに世阿弥の『風姿花伝』を読み返しました。実に味わい深い本です。かつて杉本苑子の『華の碑』という作品で、彼がいかに若い頃から苦労をした人間かということを知りました。将軍の傍近くに寄るということは、それだけの危険をたくさん孕んでいたのです。彼らの男色の相手として扱われた世阿弥は、幼い時から人間の裏表を見て育ちました。
また山崎正和の戯曲『世阿弥』は賤民としての猿楽延年舞の男をみごとに描いていました。後の世のイメージとは限りなく異なる世阿弥がここには登場します。
さて最初の章は実に意味深いところです。幼いうちは子供のやる気を出させるために型に埋没してはいけないことが述べられています。あまり無理に稽古をさせたりすると、それだけで能そのものに嫌気がさしてしまいます。これなどは今日の教育への重要な問題提議と言えるのではないでしょうか。早期教育の難しさがここにはうまくまとめられています。
さらによく引用されるのが「時分の花」という考え方です。それほどの稽古をしなくてもある年齢になれば、形が美しいだけに人々は褒めそやします。しかしその中に埋没したら、そこで芸の進歩は止まるというわけです。このことは一見当たり前のようですが、なかなか自分で認識するのは難しいものです。試みにテレビなどで活躍している若いタレントをみてみれば一目瞭然です。彼らのうちの何人がそのまま芸能界に残れるのでしょうか。時分の花がなくなれば、大抵はそこで捨てられてしまうもののようです。
序にある通り、「稽古は強かれ、情識はなかれとなり」というのがポイントなのでしょう。稽古をたゆみなくすることは半ば当たり前のことですが、「情識」という他者の意見に耳をかさないという仏語がここで生きてきます。人間はどうしても昨日と同じことをしてしまいがちです。それがうまくいったものならば、なおさらのことでしょう。しかも他者の言葉に耳を傾けず、つい狭いところばかりを歩いてしまうものなのです。
時分の花からまことの花へ移っていく道のりは実に遠いものがあります。どれほど芸が進んでも40歳を越えれば、直面(ひためん)の猿楽は見られないと世阿弥は書いています。これも厳しい言葉です。しかしここまででなんとか失せない花をもつことができたならば、それ以後は天下の名望を得ることも可能であると記しています。
彼自身、一座を率いながら後から追いかけてくる若手の実力におののいていたことでしょう。いつまでも将軍の庇護だけを当てにできないことは、本人が一番よく知っていました。
また問答の条も大変興味深いものです。とくにその場の気配をどう読みとるのかということに関しては、実に見事という他はありません。舞台は一度きりのものです。その時客席がどのような心理状態にいるのかによって、同じ芸が全く異なったものになります。さらに夜の猿楽と昼行われるものとは全く客の気分が違うので、どのような演目をやるのがいいかということにまで細かく言及しています。
ここには陰陽の考え方があり、人の心を浮き立てるには陽の気に通じるものを演じなければならないと彼は書いています。これなどは実際に舞台に立った者でなければわからない実践的なアドバイスです。後の世に能を舞う人達にとって、この本はさぞかし参考になっただろうと思います。しかしこれは長い間、秘伝書でした。一般に広く知られるようになったのは、明治に入ってからなのです。
その眼目がまさに「秘すれば花」です。この言葉は男時(おどき)、女時(めどき)などという言葉とともに、多くの人に知られています。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」という表現は含蓄の深いものです。見る人の心に珍しいという気分があれば、それが花です。人の心に思いもよらないという感覚を催させるものが花なのです。
これは常に何か新鮮なものを提供しなくてはならないという芸能の世界の厳しい掟をも示しています。昨日と同じことをしたのでは花ではありません。その先にあるという「しおれ」という世界まで行ったとき、俗に言う「幽玄」の美を見るのです。ここには秘したものの持つ為手の花があるのです。
万事に珍しき理を知るまで、芸の修行は続くのでしょう。しかしそれをもてあそべば、そこで花は再び失せるのです。
なんという厳しい生き方でしょうか。しかしこれはぼく達の人生を覆っているあらゆることに通じます。すぐれた古典が今も生きている所以がまさにここにあると言えます。

2002-02-03(日)

企業の命

新聞の報道によれば、雪印の内実はあまりにもひどいものです。これは企業ではないと日経連の会長にいわしめたのも、当然のことでしょう。数年前からのラベルの改ざんや、産地の偽装など、目に余るものがあります。
かつて雑誌社をやめて半年間、ぼくは四谷の雪印の裏にあるビルによく行きました。仕事を紹介してくれた人の会社がそこにあったからです。雪印は表通りに面した大きなビルで、いつもその脇にはられたロゴを見ながら、いいデザインだなと何度も感心したものです。シンプルでしかもなかなか勢いがあります。会社のステータスを示すには十分すぎるものでした。しかし今やこのていたらくです。企業のモラルはいったいどこにあったというのでしょうか。
ホンダの社長、本田宗一郎は自分が進めてきた低公害エンジンCVCCの開発に、常に檄をとばしました。しかしその発言の中に今こそホンダのチャンスだという言葉がでるにつけ、社員の不満は募っていったといいます。開発担当者達は、ホンダの未来だけを考えている訳ではありませんでした。そこには少しでも喘息に苦しむ子供達の数を減らしたいという、切なる望みがあったのです。
社長を親父と呼ぶ彼らにとって、意識の中で彼から遠ざかっていくことはつらい選択でした。しかし儲けることのためにだけ企業があるのならば、それは所詮商売のレベルでしかありません。少しでも社会に還元するという意識が、世界のホンダの矜持でもあったのです。そのことを悟った本田宗一郎は、その後開発現場に出ることもなく、エンジン完成後すぐに社長職を退きました。
企業は誰のためにあるのかということを常に忘れてはいけません。驕り高ぶった会社は必ず消えていきます。今までにいくつの企業が同じ運命を辿ったことでしょう。雪印は数年前の事件以後もその体質を改めることができませんでした。
確かに手を染めたのは一部の人間だけのことかもしれません。しかしその彼らを育てた背後には何らかの社内文化があったものと思われます。企業としての命はここで終わったと見た方がいいでしょう。消費者は既に彼らから離れています。
さて今や株価は下がり続け、100円割れの会社も珍しくはありません。現在はなんとかやっていても明日は倒産という可能性だってあるのです。そしてそれに伴うリストラの嵐です。特に建設関係は厳しいようです。ぼくの知り合いにも出向中の人がいます。友人の会社の20円という株価を見てただ呆然とするばかりです。
昨年あれだけ爆発的なヒットを飛ばしたユニクロももう飽きられてしまいました。素材が基本的なものだけに真似されるのも簡単だったようです。俗に企業30年説というものがあります。これは一番元気な時代が30年は続くというものですが、もうそんなに暢気な時代ではないのかもしれません。
情報化社会の今、人々は実に気まぐれです。新しいものへ飛びつくのもはやいですが、そこから去るのもまたはやいのです。企業はよほど腹をくくらなければ、生き抜いていけません。メセナと一時声高に叫ばれたものの、それも今や瀕死状態です。高い絵を買うのも有名な音楽家を呼ぶのもいいでしょう。しかしもっと地に足をつけた活動が日々の営みとして実践されなければ、その命を本当に芽吹かせることはできません。

2002-01-26(土)

才能とは何か

先日、NHKで放送した「アジア人間街道」を見ながら、才能とは何かということを考えました。この番組は中国経済特区として名を馳せた深せん芸術学校でピアノを学んでいる生徒達を題材にしたものでした。かつての日本と同じく、中国は今空前のピアノブームです。約五千万人の人がピアノを弾き、年間25万台が生産されています。その中で将来のピアニストをめざす生徒達が入学するこの学校は、憧れの的なのです。
さて今年13歳になる左章さんは今、一番注目されている女子生徒です。昨年、香港ピアノコンクールで2位に輝きました。しかしコンクール直前のレッスンの厳しさは想像を絶するものでした。午前中から先生とマンツーマンでの練習をし、昼食もピアノの傍らでとります。友達と話す時間も満足にとれません。一日10時間以上は練習しなければならないのです。彼女にとって定期試験はそれほどの難題ではありません。しかし年4回の試験を一度でも落第すると、即退学処分になってしまいます。
事実その瀬戸際に立たされている男子生徒も取材の対象になっていました。父親からの手紙を読み泣き出してしまう姿には、つらいものを感じました。一人っ子政策が行き届いている現代の中国において、親が家を移し、仕事もやめ子供のために全てを犠牲にするのは半ばあたりまえのことなのでしょうか。
しかしここまでやらなければ、やはり才能は開花しないのかもしれません。優秀な先生にきちんとしたレッスンをしてもらえる彼らはなんといっても一握りのエリートなのです。事実ここからショパンコンクールで1位をとったピアニストも生まれています。
かつて唐代中期の思想家、韓愈は『雑説』の中で、世の中には伯楽があってその後に千里の馬がいると主張しました。どれほどの優秀な才能であっても、それを見抜きさらに鍛え上げる名コーチがいなければ、埋もれてしまうものなのかもしれません。確かにたくさんの才能はあちこちに転がっているのです。しかしそれを発掘し指導する人間はそう多くはありません。
またある人は才能というのは持続する志であるとも語っています。どんなにセンスがよくてもそれを一心に磨き上げていかなければ、一流のものにはなりえません。とすると自分の才能を信ずる心そのものが、才能に他ならないのかもしれないのです。しかしここには果てしない循環があります。信じられなければ、才能は枯渇し、疑えばやはりそこで闘いは終わるのです。
考えてみれば自分を信じるということほど難しいことはありません。十分な実力もないのにただ自らを恃む心だけが強ければ、それは醜悪な自尊心の塊でしかありません。誰に告げることもなく、しかもひっそりと自らの内側で炎を燃やし続けるというのは、いかにも大変なことです。しかしだからこそ、それが才能と言えるのでしょう。
中島敦の短編『山月記』には虎になってしまう李徴という男の話がでてきます。どうしても詩人になりたかった彼はせっかく科挙の試験に合格していながら、身分の低い官吏をしばらく続けるのが苦痛で職を辞し、詩作の生活に入ります。しかし自らを信じていくことに疲れたのかもしれません。気がついた時は兎を追いかけ、口のまわりを血だらけにしていたというのです。自分が虎になり、全てを後悔した時はもう手遅れだったのです。
才能を持つ人間は時に脆弱です。心が細い糸の上で危ういバランスを保っているのかもしれません。しかしそれでも自分を信じ続けなければいけないとしたら、才能とは本当に息苦しい葛藤の果てにある華だともいえます。

2002-01-13(日)

耳をすませて

武満徹の文章を読んでいると、次第に心地がよくなるのを感じます。それは彼の言葉がいつも透明で、より正確であろうとする努力を続けている結果だからでしょう。作曲家としての仕事は当然のこととして、その随筆が一級品であることを誰も否定できません。
特別な勉強をした訳でもない彼が、ある時から作曲を志し、それを貫き通したことは驚きに値します。戦時中一人の見習士官がこっそりと聞かせてくれた一枚のレコードが彼に啓示を与えました。ジョセフィン・ベーカーの『パルレ・モア・ダムール』という曲がそれです。武満ははじめて西洋の音楽を聴き、音が「楽」として成立することを知ったと言います。この曲は誰でも一度は聴いたことがあるはずです。日本名は『聞かせてよ、愛の言葉を』という作品です。優しい穏やかな曲です。戦争という緊張状態の中で、はじめて人の心を打つ音楽を身体で受け止めたのです。
その後、彼は紙のピアノをつくり、そこに具体的な音を見いだしていきました。やはり神は時にとてつもない才能を作り出すものです。若い時に詩人、瀧口修造と出会い、それがきっかけとなって多くの詩人や作曲家を知りました。後に親しくなった谷川俊太郎や一柳慧、湯浅譲二などとの交友は純潔なものへの憧憬に満ちあふれていました。
また彼の著作にはル・クレジオやガストン・バシュラールなどの本からの引用も多いです。それがたんなる思想の紹介ではなく、彼自身の言葉になっています。さらには作曲家ジョン・ケージとの交友などその活動の広さに比例して、他者との交わりも増えていきました。
その後、小沢征爾などと関係が深まるにつれ、新しい曲想も芽生えていったのでしょう。代表作『ノヴェンバー・ステップス』には尺八などの和楽器も取り入れられています。日本という土壌の中で育った耳が、いくら拒否しても身体の中に巣くっていたのです。満州で育ち、ドビュッシーなどの音楽をすばらしいと感じる心のさらにその奥には、不思議に日本人としての音感がありました。メトロノームで規則的にうち続けるリズムとは違う、日本の間としての音楽が、彼の中にはあったのです。
武満は言います。歌が生まれるとすれば、それは沈黙と、沈黙の中でももっとも恐ろしくてもっとも絶対なもの、すなわち死と向き合うためなのだと。音楽の周囲にはいつも沈黙がたちこめています。音楽が彼を悲しい気持ちにするのは、まさにそのためだったのでしょう。
確かに彼の著作にはたくさんの死がちりばめられています。どのエッセイにも死の想念が満ちあふれています。しかし不思議と快いのはなぜでしょう。きっとそれを真正面から取り上げようとする真摯な心を持っているからなのではないでしょうか。
彼は小学生の頃、父親が偶然木の下に立っているのを何度も見かけます。しかし誰にもそのことを告げようとはしません。そうしているうちに、本当に父の死が訪れます。あの時の姿と同じ父が家に横たわっています。これは実に奇妙な話です。しかしこのエッセイにはぼくの創造力をとても強く喚起するものがありました。
また自然を壊すものへの憤りにも強いものがあります。樹に対する思い入れにも、大変なものがあります。樹が大好きだという作曲家の心の中に成長していくもの、水を吸うもの、濃い影を宿すものへの憧憬があるに違いありません。バオバブが夢の樹だと呟く彼は、生命の表情を刻々とかえる広野の樹に限りない愛着を示すのです。
生前、ぼくは何度かこの作曲家が、新宿の中村屋の茶房で友人と話しているところに遭遇しました。繊細な神経の持ち主であることは、その容姿からすぐにみてとれました。安部公房原作『砂の女』の音楽など、それだけをとってみても、すごい人だったとしみじみ思います。

2002-01-13(日)

異形の街

ぼくは新宿の歌舞伎町で生まれました。実に不思議な場所に住んでいたものです。新宿区役所の前でした。昨日どうしてもその場所が見たくて、でかけてきました。なんとなく自分の足跡を探したかったからです。以前も何度か試みたことはありますが、数年たって、どれほど変化したのかを自分の目で確かめたかったのです。
結論から言えば、ぼくの知っている街がそこにあるとは思えませんでした。ビルの谷間は寒く、黒いコートを着た茶髪の男達が、何人も歩いていました。彼らは仕事帰りのホストでしょう。一目でそれと分かる姿をしています。何人かは女性を同伴していました。
ぼくの住んでいた場所には、何も当時の痕跡はなく、ただバーやクラブの名前の並ぶ看板だけがビルを飾り立てていました。風景にも風の匂いにも、当時を思い出させるものは何もありませんでした。
ところで子供のころのぼくにとって一番のヒーローは石井均でした。彼は後に大阪の松竹現代劇に移ってしまい、寂しい思いをしたものです。名前をあげても現在知っている人は多くないでしょう。漫才の西川きよしの師匠だと言えば、分かる人がいるかもしれません。
今でも芝居が好きなのは子供の頃からずっと石井均一座を見続けていたからだと思います。タレントの伊東四朗を知らない人はいないでしょうが、彼は当時ここの若い座員でした。
風呂屋に行った時、石井均に声をかけてもらったのは、ぼくにとって本当に懐かしい思い出です。ヒーローと直接会えた嬉しさは、今のおっかけファンと同じ心境かもしれません。
さてそこから小学校まで歩きました。途中にあった神社だけは何もかわっていません。そこでよくおじさんが粘土の型を売っていました。ぼくはただ見ているだけで、何を買ったということもありません。しかしふっと時間が戻るのを感じました。
ほんの少し細い道を歩くと、大久保小学校があります。4年生まで在学していました。中を覗いてみようとすると、当時の門柱に昔のままの陶器でできた校名が貼り付けてありました。懐かしかったです。
ぼくはその頃校庭がアスファルトで覆ってあることを何とも思いませんでしたが、後に転校した時、土がそのまま顔を出していることに驚いたりもしたものです。運動会で走ったり、お遊戯をした時のことを突然思い出し、しばらく校庭を眺め続けました。すぐ隣の空き地には小泉八雲のレリーフがあり、前には記念公園ができていました。しかし浮浪者が何人もベンチで寝ているだけです。まさにこれが現実なのでしょう。
そこからさらに大久保まで歩いてみました。ここは今や韓国人の街になろうとしています。あたりまえのように歩いていると韓国語が飛び交っています。マレーシア料理や、タイ料理の店もあります。中国の食材屋もあります。異質な場所に変身しているのを身体で感じました。韓国物産品を売っている店にも寄ってみました。食材、食器はもちろん古い家具までありました。
新しい場所で生きていくためには、皆が肩を寄せ合って協力していかなければならないのでしょう。横浜や長崎の中華街はそれをしてきました。マドリッドでもロンドンでも中国人達はしたたかでした。今度は韓国人たちの番なのかもしれません。ハングルの雑誌や、漢字だけの新聞も売っていました。
ぼくが生まれた新宿は今や異形の街です。しかしそれが現在の新宿です。あそこにもう一度住もうとは思いません。しかし懐かしい場所であることに変わりはないのです。

2002-01-03(木)

生き残る

新年になっていろいろな雑誌を眺めているうちに、生き残るという言葉がたくさん出てくるのに気づきました。一番多いのが「今後生き残る企業100」とかいう代物です。あたりまえのことですが、会社が失われれば生活の基盤がなくなってしまいます。それではという訳で少しぐらい給料が下がっても仕事を分け合って生き抜いていこうという思想も現れてきました。ワークシェアリングという考え方です。春闘という今となってはもう懐かしい響きを持つ賃金闘争の中でも、この主題が出現しています。
時代は確かに変わりつつあります。誰もがまんべんなく幸福になるというイメージはもう遠いものなのかもしれません。村上龍は新年のエッセイで、もう共通の幸福はないと書いていました。個人がどのように自分の幸福観をつくりあげ、そこで喜びを得るかが真の課題だというのです。高度経済成長の時代に夢見た、全体の幸せという考えは幻想でしかなかったのでしょうか。
さて生き残れる会社に所属していない人はどうすればいいのでしょう。やはりカメになってじっと耐えていくべきなのでしょうか。正月、箱根駅伝を見続けて、そんなことばかりを考えていました。法政大学の徳本選手は学生ランナーとして、屈指の逸材です。しかしその彼ですら、少し調子が悪ければリタイアせざるを得ないのが長距離走のつらいところです。
昨年も同じように途中で涙をのんだ大学がありました。身体が十分できていないのに走りすぎたためだと思われます。以前はこれほど途中で棄権するということがなかったといいます。破竹の勢いで進み続けた山梨学院大学が以前闘いを放棄した時は、本当に驚きました。が、今はそれほど珍しい光景ではありません。ここでもカメになる訓練が必要になりつつあるのではないでしょうか。
ひるがえってぼくたちの人生を見た時、生き残るということは何を意味するのでしょう。経済生活を最後までうまく行うということでしょうか。愛情にあふれた人生を豊かに送るという意味かもしれません。しかしどんな人間にも必ず死は訪れるのです。俗に死に方の理想は「ピンピンコロリ」だと言いますが、こうしたポックリ死を迎えるために、どれだけの修行をつむ必要があるのでしょうか。
いずれにしても身体がきちんと機能しているということが基本です。しかしその訓練を支えるものはやはり心でしょう。どんな人間にとっても自分がいる場所の確認こそが一番大切なのです。誰かのために生きているという実感がなくなった時、人は精神を荒廃させていきます。
藤沢周平の『三谷清左衛門残日録』は、隠居して仕事が全くなくなった清左衛門が主人公です。そこへわざと藩の難題を持ちかけては、生き甲斐を無理にでも掘り起こそうとする友人が登場します。どんな人間にも火種は残っています。そこへどう火をつけるか、後は一人一人の生き方の問題でしょう。
しかし自分で点火できなくなった時、少しでもそばにいて助けてくれるほんのわずかの友達、あるいはネットワークを持っている人は幸せです。
社会から抜け落ちた時、一番こわいのは今までの人脈が失われることです。特に利益だけでつながっていた人たちの間に、この傾向が強くみられます。市井の人間にとって、何が一番大切なのかをもっと考えなくてはなりません。そのためにリトマス試験紙のような年が一年ぐらいあってもいいのではないでしょうか。

2002-01-03(木)

時代

大晦日恒例の紅白歌合戦を少しだけ見ました。キムヨンジャの歌う「イムジン河」が聞きたかったからです。この曲は長い間、放送禁止でした。ぼくがはじめてこの歌を耳にしたのは、高校での送別会の時です。友人達がギター二本とベースだけの簡単なアンサンブルで歌ったのです。声が澄んでハーモニーがとてもきれいでした。
ところで日本の演歌のルーツは朝鮮民謡だとよく言われます。このイムジン河という歌もまさにそうした音階を使っています。「臨津江」と呼ばれるこの川は北緯38度線に分断された、ある意味では悲劇の川といえるのかもしれません。歌詞にもある通り、「誰が祖国を二つに分けてしまったのか」という問いは、今となってはますます重いものになりつつあります。
あれから随分時がたちました。そして視聴率が下がりつつあるとはいえ、NHKの国民的番組でこの歌が歌われる時代がやってきたのです。ぼくには張り裂けそうな声で歌うキムヨンジャの気持ちが痛かったです。おそらくこの雪解けは日韓のワールドカップ共催が一つの引き金になっていることは間違いありません。今年はいわば本当の意味での韓国元年といえるでしょう。少し前から韓国を舞台にした番組が随分放送されるようになりました。ドラマの数も今年はもっと増えるに違いありません。
多くの人々がたんなる買い物ツァーではない本当の韓国の良さを知る旅にでるのではないでしょうか。ぼくも今から25年ほど前に旅したことがあります。しかしあの頃と今では何もかもが違います。その間に世代が大きく変化してきました。若い人々が確実に育っています。かつての日韓併合時代の「恨」意識だけで成り立っていないということも明らかです。
しかし呉善花(オソンファ)さんの『スカートの風』などを読んでいると、日本人と韓国人はその考え方が大きく隔たっています。それでも似た部分が次第に増えつつあるのも事実です。特に若者文化のレベルではかなりの共通項も見られるようです。日本のアーティスト達も向こうでハングル語を操りコンサートをしています。今までのようなどこかぎくしゃくとした親たちの付き合い方から次第に変化しているのです。
その一方で北朝鮮は依然として不可解な存在であることはいうまでもありません。金成日の息子と称する人物の不法入国や、不審船との銃撃事件など生臭い話ばかりです。つねに38度線は火種になっています。警戒体制を最大限にしいておく必要があるのです。隣国中国は次回のオリンピックをとうとう手中にしました。周囲の国々が次第に外に開かれていく中で、北朝鮮は依然謎を多く抱えています。大韓航空爆破テロを実行したといわれる金賢姫(キムキョンヒ)の著書『今、女として』を読んでいると、一つの国という暴力が個人の幸せをどうねじ曲げてしまうのかを痛烈に感じます。リ・ウネと呼ばれるおそらく拉致された日本人に言葉を習い、完全な日本人に偽装する工作までさせられました。彼女は国家の完全な犠牲者ともいえます。
しかしそれでも時代は確実に変化しています。
イムジン河などという歌を哀しくうたわなくてもいい世の中がくることを、ぼくは今年の冒頭にまず祈ることにします。

2001-12-24(月)

黙打

21世紀幕開けの年もいよいよ終わろうとしています。一年をふりかえってみると、本当にいろいろなことのあった年でした。やはり9月のテロで世界が一気に暗くなったことを思わずにはいられません。今まで欧米を中心としたいわゆる西洋的価値観を抱いていた人は世界には多くの考え方があることを知りました。何が人間にとって幸福なのかというテーマは難しいです。人間の数だけ幸せの形があることも知りました。
さて電車の中では多くの人たちが、今もひたすら黙って携帯を打っています。かつて愛知県の学校では「黙働」という考え方を徹底的に指導したと聞きます。これは誰とも話さずに、ひたすら沈黙したまま、掃除などの労働をすることをさします。なんとなく耳障りで嫌な言葉です。ぼくははじめてこの言葉を聞いた時、抵抗を覚えました。個人の意志を無視した強制の匂いがしたからです。
かつて広島を訪れた時、ある店の人たちが、この黙働をしている風景を見かけました。かれらは近くのキャバレーの従業員でした。平和公園の中をひたすら黙ったまま、清掃していたのです。全く声もださずに沈黙したまま、箒を手にしている姿は修行そのものでした。きっと経営者か店長が思いついたのに違いありません。しかし大勢の人が何も喋らずにただ働いている姿には少し気味の悪いものを感じました。彼らは最後まで一言も発しませんでした。まさに無言の行です。
ぼくは授業中机の上に携帯をおいている生徒をみても、特に怒りはしません。生徒がそれだけ濃密な関係を多くの友人との間に結んでいるとも思えないのです。ごく日常の時間が携帯電話の中を漂っています。それが新しい通信の形なのかもしれません。コミュニケーションの大切さを訴えながら、一方で人間の関係は薄くなっていくばかりのような気さえします。
バーチャルフレンドとでもいった方がいいのかもしれません。自分は一人ではないということを確認するための手段として、今携帯は存在しているのでしょう。持っていない生徒を捜すことは至難です。つまりごくあたりまえな風景として、ぼくはいま、黙ってメールを打つ人々を眺めている訳です。
さて来年はどのような年になるのでしょう。全く予測はつきません。ただ今日という日を明日にしていくだけの日常を健気に続けなければなりません。先日ふらりと入ったラーメン屋さんにこんなことが書いてありました。それは毎日を一生懸命生きていくことの中にしか、未来はないというものです。あたりまえだと言ってしまえば、それだけのことです。しかし人間は本当にこの毎日の生活を苦しみながら、しかし半面笑いでつらさを吹き飛ばして、生き抜いていくものなのではないでしょうか。
誰の人生もつねに華やぎに満ちているわけではありません。同じようにみな葛藤があるのです。しかしその中で、どれだけ笑顔を保ち続けることができるのかが、本当の勝負ではないでしょうか。
先日藤沢周平の『密謀』を読みました。ここには上杉の家をどう次の代に残すかということに腐心した家老の姿が出てきます。豊臣が徳川の世へ移っていく中で謙信の家を残すために、並々でない苦労をした男の話です。
ぼくたちは今ダウンサイジングの波を被っています。小さくなっても生き残る手段をもっと考えなければなりません。しかし人との関係は今よりもなお密にしなければなりません。それしか生きていく道はないと思います。もっと会って人肌のぬくもりを感じながら話し議論しなければなりません。黙打ではもう間に合わないのです。

2001-12-24(月)

図書館の楽しみ

もともと本は買うものだと思っていました。学生の頃は何でも自分で買い込み、本棚に並べていったものでした。いわゆる「買っ読」(かっとく)という読書の方法です。それが何よりの楽しみでもありました。しかしいつの頃からしまう場所がなくなり、もうこれ以上は置くところがないということになって、買うのを断念せざるを得ませんでした。というより子供が生まれたりして、ぼくのお小遣いが激減したのです。それまで引っ越しをするたびに大変な時間とエネルギーを使ったのはいうまでもありません。
きっと手近なところに図書館があったのも一つの理由でしょう。一度に5冊ぐらいは借りられますから、それほど本を買う必要もなくなったわけです。ただしすぐに読みたいと思うものはなかなか手に入りません。それが難点といえばいえますが、しかしおかげで自分の興味ある分野以外の本も読むようになりました。特に最近の本屋は売れ筋のものしかおきませんから、図書館でさまざまな本に巡り会えるというのも新鮮な体験でした。
ところで中学時代、夏休みに何度も図書室侵入を試みたことがあります。入り口の脇の下の戸がほんの少し開いていて、そこから中に入れたのです。その時は一夏かけて吉川英治の『新書太閤記』を全て読みました。これは青い表紙のハードカバーで10冊以上はありました。また『宮本武蔵』全3巻も読みました。とにかく一冊読んだらすぐに返すため図書室に忍び込むのです。本を読むということより、むしろ無人の図書室に潜り込むことが楽しみだったのかもしれません。
書架に並んでいる本は、まだおまえにはこんなに読んでない本があるぞと、ぼくに無言で訴えかけていました。あの静けさも、独特の匂いもいやではなかったのです。しかも毎日本を読んでいると、すこぶる爽快な気分になりました。戦国の時代を駆けめぐる武将達の一端に自分も加わっているようでした。
あれだけ長編を読んだのは、きっとあの時が最初だったでしょう。今でもページをめくる時の感触をはっきりと覚えています。『宮本武蔵』は一冊が10センチほどあり、とても横になっては読めませんでした。良い紙に刷られていてかなり重かったのです。武蔵の相手、お通がなんとも魅力的に描かれていて、文章のうまさに舌をまきました。作家というものの、底知れない描写力を知り始めた頃だったのかもしれません。
さて近頃はもうあたりまえのように図書館に行っては、本を借りています。毎週通うのは空気を吸うのと同じくらい自然なことになっています。特に高い本などはリクエストをすると買ってくれ、それも大変ありがたいと感じています。以前どうしてもシュタイナー学校の生徒が描いた絵画集がみたくて、購入してもらいました。大変高価なものでした。
また最近では本の他にCDやテープの貸し出しもあります。これも意味深いものです。普段は滅多にみかけることのない雑誌や新聞もみることが出来、これも図書館ならではのものです。今の生活の中から図書館をとってしまったら、随分と味気ないものになってしまいます。学生時代、どうしてあんなに所有することにこだわったのか、今となってはよく分かりません。もう今は本を買おうとは思いません。今後はむしろ捨てることを積極的に考える必要がありそうです。
よく無人島に一冊だけ本をもっていくとしたら、あなたは何の本にしますかなどという問いがあります。しかしこうした質問にはなかなか答えられるものではありません。人生のさまざまな局面で出会った一冊一冊がいまのぼくを作り上げてくれたのです。そのどれもがそれぞれの瞬間にかけがえのない本であったと言えるのではないでしょうか。

2001-12-14(金)

ものを売る

不況が深刻です。ものが売れません。リストラの嵐が吹き荒れています。デフレ・スパイラルの圧力は当分の間弱まることがないでしょう。テロによる海外旅行の落ち込みも想像以上のもののようです。新聞には安いツァーが目白押しです。それでも飛行機に乗るのを嫌がって、遠出する人が減りました。不況に強いという食品業界の売り上げも下がっています。衣料品も同様で、1万円を切る価格でスーツが提供される時代です。今、ものを売るのは至難の業といえるでしょう。
ところで俳優小沢昭一の仕事に『日本の放浪芸』というものがあります。これはどうしても自分がやるしかないとして始めた放浪芸の集大成です。少し聞くだけで大変なエネルギーを使って集めたということがすぐにわかります。テープレコーダーを片手に彼は本当に日本中を歩きました。今はもう目にすることもない貴重な記録ばかりです。時代の流れの中で消えていった芸がここにはたくさん収録されているのです。是非一度聞いてみて下さい。本にもなっています。
その中の一つに俗に啖呵売(たんかばい)と呼ばれる香具師(やし)の口上があります。映画「フーテンの寅さん」の中で渥美清が演じたあの売り口上が、啖呵売そのものです。バナナ売りや、陶器売りなど、その多くは七五調のリズムを持ち、客の顔色を見ながら独特の間を持って商品を売る芸そのものでした。かつては神社などの縁日へ行けば、必ず香具師の巧みな言葉遣いを聞くことができました。何気なしに店をひやかした客は、不思議な言葉の力につい財布の紐を緩めてしまったものです。
これは形をかえ現在ではテレビ・ショッピングとして、復活しています。タレントを客の代表(さくら)と考えてみると構図は何も変わっていません。万能調理器も洗剤もお鍋も、全て全く同じシステムの上に成り立っています。彼らこそが現代の香具師と言えるかもしれません。価格を最初に言わなかったり、限定品だと勿体をつけ、さらに後からおまけをつけて安く見せる手法など、人間の心理を巧みに応用したものです。
ぼくが子供のころ見たものの中には、泣き売(なきばい)と呼ばれるものもありました。これは人前で泣くことで、人々の同情心を買い、その結果としてものを売るというものです。一番多いのが万年筆でした。濡れた灰で汚れたペンを往来に広げます。働いていた万年筆工場が焼けて首になり、退職金のかわりに製品をもらったものの、売れなくて困っているとしょんぼりした振りをします。デパートに出せば高く売れるのに本当に悔しいと泣くのです。
そこへ唐突にあらわれるのがさくらで、これがしきりに同情をします。昔は人情があったのか、不思議とこの程度の演出で、ものが売れたのです。ぼくはよくこの泣き売を見ました。品物は実にいい加減なものです。全くいい時代だったと言えるでしょう。
また競馬の予想屋も不思議な言葉のリズムを持っています。いつも新宿南口にいたのは黒いカバーで覆われた乱数表を売る予想屋でした。前にはずらりと万馬券が並び、それを買えば次々とあたるような幻想を撒き散らすのです。わざと胴巻きに1万円札が見えるように挟み、すぐにも大金持ちになれるかのように見せかけていました。この乱数表が1万円もするのに、よく売れたのです。冷静に考えてみればあれで万馬券がとれるのなら、人に売るはずがありません。しかしこの口上も実に見事なものでした。
ものを売るのは大変です。不況の中で彼らはどうしているのでしょう。ちなみにテレビ・ショッピングは今や大繁盛です。似たような番組が増え続けています。今、買いたい人は高齢者に集中しているのです。

2001-12-04(火)

ゆだねる心

心暖まる本を読みました。辰野和男著『四国遍路』(岩波新書)です。何の気なしに読み始めましたが、いい本でした。ぼくの心にすっと話が落ちるという感覚でしょうか。気持ちが穏やかになって癒されていく感覚を何度も味わいました。
辰野さんは長い間、朝日新聞で天声人語を担当した論説委員です。しかし今回の遍路はそうした自分の殻をすべて捨てて、ただ四国の道を一人の七十歳になった人間として歩きたいという願いから始めたものでした。俗に四国霊場八十八カ所千数百キロの旅と言いますが、それを徒歩だけで廻り結願する人は、それほど多くはないのです。
著者はかつて若い記者時代、遍路をしたことがあるといいます。その時は記事を書くという目的が先行し、少しも純粋なものではなかったそうです。しかし今回の旅は、その時とは全く様相の違うものでした。それだけに読んでいても気持ちがひしひしと伝わってきます。四国の何に心惹かれるのか。それは誰にもわかりません。しかし心身の衰弱を蘇らせるために、山の気を吸いたいという著者の気持ちには必死なものを感じました。
巡路は,仏教の思想にもとづいて,阿波を発心の道場,土佐を修行の道場,伊予を菩提の道場,讃岐を涅槃の道場とします。空海が死ぬ前に呟いたという「吾れ永く山に帰らん」という言葉を頼りに、彼は自己解放への旅に出るのです。
一番霊場は鳴門線板東駅近くの霊山寺(りょうぜんじ)です。民宿に着いたらまず購入したばかりの金剛杖の先を洗い、床の間に置きます。杖は弘法大師の分身だからです。相部屋も厭ってはいけません。同じ心の人との一期一会を知るためです。文章を読んでいると、どうしてこんなに人間は素直になっていくのだろうと感じます。虚飾をはぐという作業が歩くことによって生まれるからでしょうか。
途中、色々な人に会います。善根宿と呼ばれる無料宿泊所での出会いや、お接待と呼ばれる善意の施しもあります。時にはお金、みかん、おにぎり、コーヒー、また飴一つという時もあります。見ず知らずの人が、遍路をしている人に何かを施すという思想が、四国の土地には脈々と流れているのです。先祖たちがしてきたことを目の前で見ていた人がいるからでしょう。これこそが本当の文化です。
遍路はいわば生きている死者です。大地と同じ性です。そのまま行き倒れになってもいいという覚悟から始まります。だからこそ、普段の生活では見えないものが、見えるのかもしれません。
たった一つの椿の花に後を押されて山道を歩きます。海を眺めながら歩いていると、もう駄目だと思ったその場所から、また歩き出すことができたと辰野さんは書いています。
「お大師さんに後押ししてもらった」という表現には、実際に体験した人でなければわからない実感がこもっています。ゆだねるという感覚は自然のありのままの営みに、自分を溶け込ませていくという作業でしょう。すがるとは違います。ありのままという言葉を実践することがいかに難しいことか、それは誰もが日々感じていることです。
最後の寺、八十八番霊場大窪寺近くの宿屋では赤飯を炊いて、結願を祝ってくれるそうです。遍路を終えた人たちの感想が書かれたノートにはたくさんの思いが残っています。歩いてよかったという人もあれば、ただありがとうと書き残すもの、人との出会いがこれほどありがたいものだとは知らなかったなどと、さまざまな言葉がそこには綴られているのです。
別名「お四国大学」と呼ばれるこの不思議な行は、随分昔からあったと言われています。鎌倉時代に始まったという話ですが、完成したのは室町時代のようです。なぜ四国なのかといえば、弘法大師が42歳の厄年に四国を一巡して,八十八ヵ所の霊場を定めたと伝えられているからです。
今回この本を読んでぼくも遍路に出てみたくなりました。一度に全部廻らなくてもよいのです。螺旋のように少しづつ生き抜いて、道を歩くことが大切なのです。誰にもまっすぐな一本道の人生などないのです。そしてそれが何よりも自然なことなのですから。

2001-12-04(火)

くっつける・ふたたび

今日の新聞によれば、来年の4月に合併する予定だった大正製薬と田辺製薬が、統合を白紙撤回しました。売上高3位になるはずの新会社の夢は、発表からわずか数か月後に消えたのです。両社の年金事務や、子会社の扱いなどにかなりの温度差があったと記事は伝えています。しかし本当のところは主導権争いと見るのが賢明でしょう。
このところ会社の合併が盛んです。どの企業も生き残るためにはなんでもするという感じでしょうか。中でも一番激しいのは金融の世界です。少し前なら完全に敵同士だった三井と住友がくっついてしまう世の中なのです。これには本当に驚きました。なにしろそれぞれが大財閥の金融センターだったところです。お金の調達を一手に引き受けていた機関が訳もなく統合されてしまったのです。そういう時代だと言ってしまえばそれまでですが、やはりこれは衝撃的です。
太陽銀行と神戸銀行が一緒になったところに三井がさらにくっついてさくら銀行が登場したのはついこの前のような気がします。かたや、住友は平和相互を随分前に吸収していました。つまり今度の合併は5つの銀行がくっついたということになるのです。人事配置などはどのように行われているのでしょうか。難題が山積でしょう。もちろん営業店舗の見直し、リストラも現在進行中です。
一方、あさひ銀行も元は協和銀行と埼玉銀行が合併したものです。そこに今回の大和銀行との話が出てきました。大和は大阪の銀行を幾つか吸収しようとしていた矢先です。ニューヨークでの為替管理に失敗してから、どこも相手にしてくれる都市銀はありませんでした。またあさひ銀行自身も危ないという噂までまことしやかに広まっていたのです。全く薄氷を踏むような合併劇の展開でした。
富士、興銀などのフィナンシャル・グループを持ち出すまでもなく、そのうち、どことどこが一緒になったのかさえ、わからなくなってしまうでしょう。第一銀行と勧業銀行が合併したなどという時代が今となっては懐かしいです。元の会社からきっちり同じ数だけ役員を配置していたなどという「お伽噺」はもはや通用しないでしょう。今や昨日の敵は今日の友です。それでも生き残れるかどうかは全く未知数そのものです。
つまりくっつけばうまくいくという保証はどこにもありません。しかし誰にも頼らずに生きていけるのかと言われれば、これもまた疑問です。9月には石川島播磨重工と川崎重工の統合も見送られました。念入りな調査をしないで、単純に企業規模が増し、リストラ効果もあがるなどということでは全くやっていけません。それは外資との提携においても同じことでしょう。今や瀕死の生命保険業界も例外ではありません。
くっつく時の鉄則はやはり慎重なリサーチにつきるのではないでしょうか。企業にはそれぞれの文化があります。それは個人においても同じことでしょう。互いの生育歴が違えば、そこに生まれる文化も当然違ってきます。それぞれを尊重しあいながら、新しいものを育んでいく覚悟がなければ、根のない草に水をやるだけの空しい作業になってしまいます。
しかしどうしてもくっつく必要がない時は、やはり孤独でいるだけの覚悟も大切になるでしょう。「とかくメダカは群れたがる」とよく言います。小者ほど群れていなければつらいのです。一人では何もできません。本当に健全で優良な企業はむやみに合併など試みるはずがありません。人についてもそれは同様でしょう。大切なのは最後の最後まで調べること。そして決めたらあとは勇気です。一度飛び込んだらもう努力をどこまでも続けるしかありません。

2001-11-29(木)

くっつける

いつの頃からか毎日寝る時、枕元に懐中電灯を置くようになりました。元々ぼくにそんな習慣はなかったのですが、妻がそうしろというので、なんとなく従うようになったのです。妻は若い頃新潟地震を経験し、大変ひどい目にあったということです。全く立っていることさえできず、それがどうやらトラウマになっています。暗いところにいることの不安が強いのでしょう。必ず懐中電灯を用意しろとぼくに言います。
ところで今使っているこの大型懐中電灯にはラジオがついています。これが案外便利なのです。随分前からなんとなく寝る前に数分間、ニュースを聞くようになりました。はっきりとはいえませんが、得をしたような気がします。本来暗いところを照らすのが目的なのに、ついでにニュースも聞けるという感覚でしょうか。
以前はウォークマンでニュースを聞いていました。テープレコーダーにラジオがついているタイプのものです。これも何か得をしたような気分をもたらしました。英語のテープなどを聴いてくたびれると、すぐにラジオ局をさがすのです。この機種はテレビも全チャンネル入ります。もちろんFMもです。二つの要素が合体をするという発想が愉快なのかもしれません。電気製品にはこの種のものが今日山のようにあります。
ラジカセなどはその最たるもので、最近ではMD、CDの他時計はあたりまえで、中にはテレビ付きのものもあります。パソコンも同様でかつては事務機器の要素が強かったものですが、今では通信カラオケからビデオ、カメラの編集、CDの製作とその守備範囲は広がる一方です。
最近では携帯電話もその機能が拡大しています。ちょっと前とはまるで様相が違っています。小さなレンズがビデオのように情報を相手に伝えます。テレビ電話のミニチュア版でしょうか。このようにいくつもの要素を一つの素材に与えることで、付加価値をよりつけようとしているのが、今日の流れです。確かに一つの製品を買えば、それがいくつもの機能をもっているのですから、便利だとはいえるでしょう。しかしテレビデオはそのどちらの要素かがだめになると、まったくただの箱になってしまいます。
先日もビデオの部分がこわれ、直してもらおうとしたら買ったときと同じだけの費用がかかると言われました。一事が万事です。考えてみると「便利だが良くない」と思われるものがいかに氾濫しているのかということに、呆れてしまいます。シンプルライフの実践はそれほど簡単なことではありません。しかしもうここいらで、あれこれとくっつけるという発想をやめて、本当の素(す)、すなわち単体に戻ることを考えてみる時期ではないでしょうか。
あまりにも多くのものを現在ぼくたちは持ちすぎています。それを捨てることで、ひょっとしたら随分とフットワークの軽い人生を歩いていけるのではないでしょうか。今までこれだけは必要だと言われてきたものを、もう一度足元から見直してみる必要がありそうです。学歴しかり、名誉しかり、金銭しかり。何が人間にとって最低限必要なものかという原点に立ち戻る発想は、けっして無駄ではないはずです。その時自分にとって一番大切なものが見えてくると思われます。
なんでもくっつければ価値が高くなるという発想は、もうそろそろやめにしてもいいのではないでしょうか。

2001-11-22(木)

思い出

叔父が多摩川の支流近くに住んでいました。ぼくは子供の頃よく叔父の家へ遊びに行ったものです。おばあちゃんが大好きでした。とっても優しくて、なんだか傍にいると安心するのです。ぼくと同い年の従姉妹がいました。いつも川で遊んだものです。母がおばあちゃんの家へ行こうかと言うと、ぼくは二つ返事でうんと答えました。弟たちと京王線に乗ると、すぐに靴を脱いでずっと外の景色を眺めていました。
車窓にうつるものは、全てぼくにとって珍しいものでした。田園の風景がずっと続いていたり、家並みが途切れることなくあるのも、本当に嬉しかったのです。あの頃は何もかもが嬉しかったような気がします。ボルタ版というごく小さな印画紙に写るカメラを手に入れ、それを持って叔父の家へ行きました。緑色の電車を降り、踏切を渡り改札口を出ます。道には今ほど車が走っていませんでした。まだ舗道も不十分なままでした。
土手には草餅に使うというヨモギがたくさん生えていました。ぼくはもう多摩川のほとりの家へ行けるというだけで有頂天でした。そこには大げさに言えば何もかもがあったのです。網をもって一日中、川で遊ぶことができました。四つ手網を手に入れてからはそれも試してみました。どんな魚がとれたのか今ではすっかり忘れてしまいました。しかし都会の真ん中で暮らしていたぼくにとって、自然のもたらしてくれる恵みは本当に豊かなものだったのです。
網を投げて魚をとる大人達をみて、いつかあんなふうにできたらいいと心から願いました。夏はおばあちゃんがいつも井戸でスイカを冷やしておいてくれました。それを縁側でほおばりながら、もう次の瞬間には外へ飛び出していくことを考えていたのです。きっとどんなにものすごい娯楽施設がある遊園地より、ずっとあの川は豊かな場所であっただろうと思います。身体中びしょびしょになりながら戻ってくる頃には、もう夕暮れが近づいていました。
母はぼくたちがいない間、叔父と何を話していたのでしょう。ぼくは何も考えずただ魚たちと格闘していたのです。従姉妹の子ともよく遊びました。一緒にお風呂に入って、笑ってばかりいたような気がします。あまり遅くなる日は泊まることもありました。花火をやったり蛍を見にいったり、のびると呼ばれるネギ科の植物を取りにいったりしました。おばあちゃんがのびるを酢みそであえてくれ、それを食べたりもしました。
しかしその家も今では人手に渡り、叔父も先年亡くなりました。おばあちゃんはそれよりもずっと前に病院に入ったまま、やはり亡くなりました。今でもその家を大通りから見ることができます。川の土手は全てコンクリートで覆い尽くされ、見る影もありません。あれだけ豊饒だった川もいまでは死んでしまいました。
従姉妹とももう30年以上会っていません。何度か電話で話をしただけです。月日は残酷です。あらゆるものを彼方に運んでいってしまいます。ぼくが大切にしている多摩川の思い出も、やがて本当に遠い記憶の隅に追いやられてしまうのでしょうか。
しかし偶然のように現在の地に住んでいるのも、多摩川の思い出がどこかにあるせいかもしれません。なんとなしに懐かしさを感じ、この地にその足跡をつけたいと考えたからでしょうか。おばあちゃんと叔父の墓は、今の家からそれほど遠くない所にあります。今年も三回忌に訪れました。静かな霊園の隅にあるいいお墓です。
極楽の蓮の上で二人は今、何を話しているのでしょう。

2001-11-15(木)

花を何気なしに見ていると、本当にどきっとする時があります。先日も店先で売られているシクラメンに思わず見とれてしまいました。あの形といい、色といい、花弁のつやといい、いったい誰の意志で生まれたものなのか、つくづく感心してしまったのです。神の仕業だと言ってしまえば、それまでのことですが、やはり造形の美という以外にはないと思います。
子供の頃、よく花の絵を描きました。きまってチューリップだったような記憶があります。あの当時のぼくにとって、チューリップは本当に美しい花でした。その頃どんな眼で花をみていたのか、それを今思い出すことはできません。しかしきっと今よりはずっと澄んでいただろうと想われます。言葉を知ってから、ぼくの感受性は日増しに衰えてしまったような気さえします。
ところが時々ふっと子供の頃の感情が表面にあらわれてくることがあります。瞬間にやってくるのです。これは大きな驚きです。それでつい見とれてしまうのでしょうか。花はいつもその生命いっぱいに咲いています。先日植え替えたばかりのパンジーやビオラも次々と株を増やし、太陽にその花びらを一心に向けています。全ての花びらがみな同じ方向に向いているのを見て、つい微笑んでしまいます。一途で可愛いものです。
数年前に株分けしたシャコバサボテンもいよいよ花を咲かせ始めました。自然はみごとなものです。夜の時間が多くなり暗さが増してくると、自然に花芽がつき、それが次第に大きくなっていきます。そしてこれ以上は我慢できないと判断した時、咲き始めるのです。
かつて汚れた泥の中から蓮は白や薄桃色の花を咲かせるのだと聞いたことがあります。なぜ睡蓮というのかといえば、睡りながらいつ咲いたらいいのかを考え、季節になると急に朝目覚めるからだそうです。
花は本当に不思議です。生命の営みはそれだけで美しいものです。彼岸花のあの色に驚いたことはないでしょうか。「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」という山口誓子の句は空の青さと彼岸花の赤とを対照した名句です。彼岸花の赤はこの世のものではありません。人間がどうあがいてみても、創れる色ではないのです。それにあの形の精妙なこと。これもやはり大きな驚きです。
人間は万物の霊長だといってのぼせ上がっているうちに、自然はたくさんの仕打ちを今ぼく達にしています。アトピーも地球の温暖化もすべて、人間のもたらした破壊への反動です。多くの動物たちもその種の存続が危ぶまれています。これも根は同じでしょう。
年々歳々、花は咲きます。しかしそれはけっして同じ花ではありません。だからこそ今をいとおしむことが大切なのでしょう。花を愛する心は、森羅万象に通じます。ゆとりがなければ絶対に成り立ちません。そういう意味からすれば、ふっと花の美しさに惹かれた時のぼくは、人間のあたたかい心を取り戻していたのかもしれません。ゆとりのある心の時間をです。花はどうぞ見てくれといって咲いているわけではありません。
しかしそこに自然と目がいく時はきっと心が平安なのでしょう。そうした心のバロメーターとして、今日も花はそここで見事に咲き誇っているとも言えるのです。

2001-11-15(木)

教育の風景

昨日の新聞に山梨大学工学部の話題が掲載されていました。これは来年度から最低基準の学業成績を修められない学生を対象に退学勧告をするというものです。約5%の学生が成績不振者に該当するそうです。成績の振るわない者に共通して言えることは、自我の形成が未熟で幼児性が目立ち、自己管理能力が乏しいことです。また人生の夢を構想する能力にも劣っているといいます。
大学では一度退学させ社会に出た後でも、勉学の意志があれば無条件で復学可能であるとしています。大学生は大人であるという扱いをすること自体が今や難しくなりつつあるのかもしれません。もちろんこれは教員の指導力を問い直す契機にもなります。つまらない授業をなくし、生徒の興味をいかに引き出すのかという課題を教師もまた背負うことになるのです。
それにしても近年、学生の質は大きく変化していると言わざるを得ません。これは進学率の上昇と当然深い関係があるでしょう。社会全体から知的好奇心が急速に失われているのでしょうか。若い世代が社会の変化を敏感に感じ取っているという可能性もあります。今年は高校生の就職率もめっきり下がってしまいました。大学を卒業しても就職できない人がかなりいるのです。またフリーター志向の学生も多くいます。定職に就くという考え方そのものが重いのでしょうか。
今月号の月刊『文芸春秋』は教育がテーマです。多くの人が今の状況でいいのかという疑念を発し、それに対しての処方箋を語っています。新しい学習指導要領は週休2日制とからんで3割その内容を減らしました。円周率を3にするという話題は多くの人によってその賛否が論じられています。
しかしこの流れの一方で私学の進学校などは授業時数を減らさず、むしろ内容をさらに高度にしようとしています。公立との差は開いて行く一方でしょう。東京では都立高校改革の一環として学区制撤廃、自校作成の入試問題促進、先生の配置転換、新しいタイプの学校創設、特定の高校における土曜日の授業などという新しい試みを次々と展開しようとしています。
今や少子化の中で同じパイを私立6割、公立4割で食い合っているのです。これらの実験がどこへたどり着くのか、いまだその着地点は見えていません。都立高校では民間出身の校長をこれからも採用していくという話です。株式会社の持つ経営感覚をさらに導入したいという意図なのでしょう。
さて問題はそこで行われる教育そのものにあります。相変わらずイジメもなくなっていません。実体は背後に隠れてしまっているので、はっきりとは言えませんが、以前よりひどい状態になっているようです。小学校の先生に聞いたところ、クラスの運営そのものが最近殊に難しいそうです。
一人でクラスを担当するために学級崩壊になる可能性もより強いのです。ベテランの先生だからといって、HRがうまくいくという保証はありません。人間性を否定され疲れ切って退職してしまう教員もかなりいるのです。過去の経験が全く機能しません。親の世代も明らかに変質しています。
アメリカとの教育方法の違いについても多くの証言があります。日本では大多数を同じようにし、アメリカでは個人の差を生み出す教育をするという点です。授業中、手をあげる生徒の少ない日本と、9割以上が必ず手をあげるアメリカ。日本の大学に入るより、高校時代からアメリカへ行ってしまった方がいいと決断する人々も多いのです。
大学を中心としたヒエラルキー社会が変わらない限り、小手先の改革では何も変化しないのかもしれません。一度入ってしまうと勉強を放棄してしまう大学生の群像はその後の社会構造の反映かもしれません。学歴賦与機関としての大学の機能は今急速に衰えています。教育は今、嵐の中にいるのです。この船がどこへ向けて出帆しようとしているのか、誰にもまだその全体像は見えていません。

2001-11-15(木)

批評しないテレビ

『踊る大捜査線』をのシナリオを書いた君塚良一のエッセイを読みました。題して『テレビ大捜査線』です。彼は一時冬彦現象で有名になった『ずっとあなたが好きだった』や『ナニワ金融道』などの脚本も手がけています。大学卒業と同時にどうしても映画監督になりたかった君塚は、大学の先生の紹介状を持って当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったタレント萩本欽一のもとを訪ねます。そこで約3年間、構成作家として遊ばせてもらっているうちにテレビの面白さに気づき、知らない間に台本を書き始めていたというわけです。
成功するテレビドラマには幾つかの仕掛けがあると彼は言います。それは昔からそれほど変わっているわけではありません。言葉にしてしまうと実に他愛ないものばかりです。すなわち「愛」「友情」「勇気」の3つです。テレビは基本的に無料のメディアです。つけるのも消すのも自由です。ザッピングと呼ばれる他局へのチャンネルの変換が実に容易なのです。ちょっと見て嫌ならば、誰もそれ以上は我慢してくれません。
しかしそのことにあまり気を遣うと、パターン化した作品しか生まれてこなくなります。「水戸黄門」をはじめとする定番時代劇が高齢者だけに見られていることは承知の通りです。新しい知的な刺激に弱くなっている老人にとって、同じパターンの繰り返しは安心して見ることができます。しかしそのことが同時に若者の時代劇離れを生み出してしまいました。
視聴率という怪物はテレビにとって最大の強敵です。これがある故に冒険が困難になります。その結果、ライターは「愛」「友情」「勇気」の3つにテーマを自分から絞っていく傾向が強いのです。しかし残念なことにその果てに辿り着いた場所は無惨なものでした。殆どの作品から批評性が全く失われてしまったのです。
問題意識、危機感、時代や社会に向かって発信する機能をテレビドラマは今失いつつあります。視聴者はその一瞬に現実のものでない、甘い恋や、友情を夢見て心を躍らせます。しかし現実の空間において、それに似たことは滅多に起こらないのです。だからこそテレビは幻想を与え続けなければいけないというところに来ています。自分がそれほど清らかな心を持ったいい人間であるということをぼく達はもう信じられなくなっています。せめてテレビの中で起こることがらは、人間に対する希望を与えるものでなくてはいけません。
視聴者に刺激を与えることは簡単です。しかしその次にはもっと新しい今までに見たこともない刺激が必要なのです。ただのメディアは見るものを選ばず、見るものに何も要求しません。プロデューサーやスポンサー達がドラマやバラエティに多くのエネルギー使うにも関わらず、視聴者はあまりにも無関心で無表情です。
このメディアはわずか50年の歴史しか持っていません。これからどこへ進むのかも全くわかりません。今やテレビ受像器は純粋にテレビ番組だけをみる手段ではないのです。ビデオやゲームのためのデバイスでもあります。現在、草創期のテレビ界について小林信彦がずっと月刊『文藝春秋』に連載しています。内容が大変面白く、彼の記憶力の確かさにも舌をまきます。しかしあの頃と今とは明らかに制作者側の質において、大きな違いがあると言わなければなりません。一言でいえば「熱気」の喪失でしょうか。
醒めてしまった媒体としてのテレビには、多くの魅力を感じることができません。今はドラマよりも明らかにドキュメンタリーにテレビらしさの熱はシフトしています。しかしそこでも批評性が閉じられてしまう危険があるとしたら、それはテレビそのものの内側からの自殺行為を意味することになるでしょう。

2001-11-14(水)

言葉の森へ

言葉は文化です。というより時代の持つ潜在的な力を示す一つの指標ともいえます。そうした観点から見た時、今日の言葉は明らかに衰弱しています。今、単純な軽い言葉が表通りを我が物顔で闊歩しているのです。携帯電話の普及や漫画の影響もきっと背景にはあるでしょう。特にメールと呼ばれる通信手段はその性格上、より短く手軽な表現で相手に意志を伝えようとします。その極端な形が絵文字に象徴されているのかもしれません。
短く的確であることは決して悪いことではありません。しかし鍛えられた言葉を背後に持たず、ただすぐ相手に伝わる表現ばかりを多用していると、人間は考える能力を次第に弱めてしまいます。日常使う言葉そのものから奥行きがなくなっていくとしたら、何と寂しいことでしょう。漫画は絵で多くの情報を伝えようとします。逆に言えば、それ以外の表現部分は極端に省略されています。当然言葉の比重は軽いものになってしまいがちです。
言葉は思考を鍛えます。あるいはその逆も成り立つでしょう。つまり美しい表現や論理的な言語はそれぞれ背後にすぐれた思考の場を持たなければ、発生不能なのです。と同時に感受性も言葉によって鍛えられます。一度表現したことがらは新たな認識となって、自分に戻ってきます。だからこそ、書くという行為は貴重な経験でもあるわけです。実際文章を書いてみて、自分はこんなことを考えていたのかと愕然とすることもあります。しかしそれが新しい体験そのものなのです。
かつて日本人はたくさんの言葉を持っていました。あるいはそれを鍛えるための場を社会の中に用意していました。不見識な表現は大人達の世代によって常にチェックされていたのです。また漢文や古文の知識、あるいは和歌などの教養がそれらを背後から支えていました。ちょっとした言葉の端々にそうした表現が見られたものです。
しかし現代はどうでしょう。特に男言葉と女言葉の垣根は殆どなくなってしまいました。むしろ女性が男性的な話し方を好んでする傾向すらあります。ジェンダーの思想がそこにはあるのかもしれません。合理性を好む現代の傾向がこれに拍車をかけているのでしょう。英語を代表とする西洋の言語には男女別の表現はまずみられません。しかし日本語にはそれが数多くあるのです。これは善し悪しの問題ではありません。文化の差なのです。
言葉の持つ美しさを知っているのと知らないのとでは、そこに大変な違いがあります。古典の中に出てくる和歌に通じているだけで、同じ花を見ても感じ方は自ずと変わるでしょう。あるいは漢文や詩も大切です。そうした非日常的な言葉はぼく達を内側から活性化させ、鍛えてくれるのです。これはコミュニケーションを超えた、知性のレベルの話です。
相手に通じる言葉だけだったならば、なんと味気ない社会になってしまうことでしょう。詩句を知り、言葉の重みを知るだけで、人生は豊かになります。そこには長い時間をかけて培われてきた日本人の感性が脈打っているからです。ぼく達は日常の中で、古代の人々や中世の人たちと通奏低音を響かせ合うことができるのです。
たとえば和泉式部の代表的な歌に次のようなものがあります。
「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞみる」
この歌を知っているだけで、蛍が人間の魂、それも人を恋する時の当惑している心の様子を表現していることがわかるでしょう。ただ蛍を見てきれいだと思う気持ちも大切ですが、そこにもう一つ複雑な感情の襞を持つことは決して無駄なことではないはずです。このように感性を鍛えていくことで、言葉は幾層にも豊かな表情をみせてくれるのです。
生きることは常に寂しく孤独なものです。しかしそこに味わい深い言葉の森を持つことで、わずかな希望の光を人生に見いだすこともまた可能なのです。

2001-11-14(水)

新しい時代の君たちへ

21世紀は本当に嶮しい困難な時代です。今までの価値観だけではとてもやっていけません。ますます科学は進み、当然宇宙へもその歩みは伸びていくことでしょう。また生命科学の分野でも微細化が進行し、神の領域へ人間は入りかけています。新しい医学的試みは近い将来、クローン人間を実現させるに違いありません。
草食動物であった牛に肉骨粉を与えたことで、全く新しい病気がうまれました。遺伝子組み換え食品なども、ごく日常的な風景になりつつあります。
一方でイスラムを代表とする宗教戦争も終わる気配をみせません。またパレスチナとイスラエルの民族問題にも全く出口はみつからないのです。いやむしろ双方の憎悪は増す一方だといえます。常にテロの危険が世界中に満ちています。バイオテロなどという物騒なものがごく普通に話題にのぼる時代なのです。
今まで親の世代が築いてきた価値観が一つづつ毀れようとしています。経済優先で走り抜けてきた日本も失業率と高齢者の増大の前に声も出なくなっています。
これから世界はどこへ向かって行くのでしょうか。少し前なら親の後ろ姿を見て、彼らの行く道を辿っていけば必ず未来は見えたものです。しかし今や親の世代によってビジョンが容易に語られることはありません。日本にとってアメリカも既に目標とする国ではなくなっています。ぼくたちは全く自前で、新しい未来の図式を描かなければならないところへ来ているのです。
そのためには今までとは違った価値観を作り出していかなければならないでしょう。親の世代がこれでいいと判断したものを一度総ざらいして、そこから本当に大切なものだけを拾い上げ、それに新しい馥郁とした香りと質をつけ足していかなければなりません。そのために今しなくてはならないこととはなんでしょうか。それはありきたりの表現ですが「学習」です。それもインターネット時代にふさわしい新しい学問領域の開拓です。
インターネットは世界を一つの磁場にしてしまいました。どんな新発見についてもぼくたちはすぐにその情報を手に入れることができます。しかしあまりに多くの知識の中でもがいてしまうことになったら、それは全く意味をなさないでしょう。ここで必要なのはもう覚えることではありません。むしろ分析し組み立てる能力です。その情報が全体の中でどういう位置を占め、何を意味するのかということをパースペクティブとして捉える力です。
この方が、何かを覚えていくよりもずっと困難な道であることは明白です。もっともっとぼくたちは勉強しなくてはいけません。今までの先人たちがしてきたのとは全く違う新しい方法論で世界を切り開いていくために。
ここまで書いていて、本当にこんな大変なことがこれからできるのだろうかと空恐ろしくなりました。しかしやらなければなりません。そのために今があるのです。何を学ぶのか、それは新しい君たちに全て委ねたいと思います。時間は有限であり、人生は思った以上に短いのです。
飛躍するために必要なもの、それは想像力であり創造力です。この二つを持たなければ、困難な時代を乗り切ることは不可能でしょう。飛躍しなければなりません。そして新しい時代を切り開かなければなりません。もしそれができないとしたら、地球は次の世紀にはもうなくなっているかもしれないのです。これは大袈裟な話でしょうか。そこまでぼくたちを取り囲む情況は煮詰まっているとも言えるのです。

2001-11-14(水)

短気と船旅

ぼくは生来あまり気が長い方ではないようです。しかしそれほどの短気というわけでもありません。まあ、ちょうど頃合いというところなのでしょうか。年をとるにつれて、本来の性格が顔を出すとよく言われます。親に似てくるという側面もあるそうです。
実は先日100日間かけて世界一周をする大型客船「にっぽん丸」の様子をテレビで見ました。まさに世界一周というのにふさわしい贅沢な旅行です。南回りで東南アジアを回遊した後、スエズ運河を経て、地中海へ入ります。そこから北欧まで、イタリア、ギリシャなどを巡りながら旅は進むのです。実に優雅な旅行と言えるでしょう。船内にはプールはもちろん、温泉まであり、昼は英会話教室、ダンス、音楽鑑賞と休む暇もありません。
さらには合唱サークルまであり、指導者もいます。かなり歌を覚えなければならないようです。その他、赤道直下を通る時にはデッキを使っての盆踊り大会や、ディナーショーと盛りだくさんです。船旅がいかに時間と金銭を見事に使ったものであるかを実感できるというものです。
さて船はイギリスからロシアまで進み、エルミタージュ美術館などにも寄ります。そこからさらにフィンランド、ノルウェイに戻ってくるのです。次ぎに大西洋を渡りアメリカへ渡ります。海の上から自由の女神を見て、さらにマンハッタンを一望し、やがてパナマ運河を過ぎて太平洋に出てきます。
実際どんな人がこの旅に参加するのか、ぼくには大いに興味がありました。というのも費用がとても高いのです。全室個室ですが、最も低いクラスの部屋で一人340万円、最も高いロイヤルスイートは1200万円です。この数字を見ただけでも、参加できる人が経済的にいかに恵まれているかわかるというものです。
しかし実際に番組をみていた限りにおいては、それほど特別な人々という感じはしませんでした。というのも大多数の人が、定年退職を迎え、それまで妻にかけていた苦労の恩返しとか、あるいは一生独身で働き続けた自分へのご褒美のつもりで参加したという人だったからです。なるほどこれならばある程度理解もできます。30年以上一人でこつこつと働き退職をした女性は、結局お友達が欲しいから参加するのだと語っていました。
寂しい人たちが多いんですよというコメントを残していく人もいました。みなそれぞれに複雑な思いがあるのでしょう。だからこそダンス教室や、太極拳教室で汗を流した後は、お茶を飲みながら、人生の来し方を話し合うということになるのです。また面白いことに旅行中グループがいくつも生まれ、次々と変化をしていくということでした。
人間というものは誠に厄介なものです。仲間をつくりたいと切望していながら、時にそれがたまらなく鬱陶しい時もあるのです。ましてや、長い人生経験を持っている人たちばかりです。それぞれの考えもまた多様でしょう。あちらにもこちらにも輪が生まれ、また消えていくというのも人生そのものを感じさせます。
さてぼく自身、こういう旅行に参加する可能性があるだろうかと自問自答してみました。答えはどうもノーのようです。やはり毎日海ばかりを見ているというのは、どうも退屈で仕方がありません。それよりもはやく目的地に着き、そこを起点として、あちこちを経巡ってみたいのです。のんびりとデッキで書物を読みながら、時にホエール・ウォッチングという心境にはなれません。やはり短気なのでしょうか。あるいはせかせかと働くことしか知らない哀しい人間の性なのでしょうか。
先日新聞に来年の分の予約開始の広告が載っていました。またさまざまなドラマが船上で繰り広げられることでしょう。タイタニックの時代はとうに過ぎ去りました。無事な航海を祈りたいものです。

2001-10-21(日)

ガラスの動物園

同じ芝居を何度も見るということは、そう滅多にあるものではありません。ぼくにとってそうした作品の一つが「ガラスの動物園」でした。これはアメリカの劇作家、テネシー・ウィリアムスによって書かれた戦後のアメリカを代表する戯曲です。彼は南部ミシシッピ州に生まれ,ハリウッドでシナリオを書きながら、この傑作を完成させました。
ぼくはこの芝居を3度、全く違う劇団の演出で見ています。最初は新人会による長山藍子主演作品、もう1つはミルウォーキー・リージョナル・シアター(地域劇団)でした。当然全ての台詞が英語ですが、演出もすばらしく見入ってしまいました。3度目は数年前にシアター・コクーンで上演されたものです。
これは南部育ちで昔の夢を追う母、足が悪く極度に内気な姉、文学青年の弟の一家を描いた抒情的な追憶劇です。殊に足の悪い姉のために弟が自分の友人を夕食に誘う場面が全体を形作っています。なんとかして姉を外の世界に連れ出したいと願う母親は、苦しい生活の中で精一杯のご馳走をつくります。そして楽しい晩餐の時が訪れるのです。
しかし友人には既に結婚を決めている女性がいました。そのことがはじめて明かされる場面には当然重苦しい雰囲気が漂います。しかし姉はつとめて気丈に振る舞います。母を悲しませることはできませんでした。弟はとうとう母と姉を捨て、作家になるべく家を出る決心をします。息苦しい毎日の生活に嫌気がさしたのでした。このあたりの時間の流れはいかにも重苦しく、その背後にたえず流れるジャズのメロディとあわせて、暗く単調な都会の生活を想像させます。
足が悪く、外に出ることもない姉は大変に難しい役です。いつもひとりぼっちで心の中に大きな空洞を持っています。それを埋めてくれるのが、彼女の唯一の友達、ガラス細工の動物たちでした。最後に独り言を呟きながら、この小さな動物と語り合うシーンは圧巻です。それまでの屈折した感情がここで見事に吐露されるのです。ライトが背後からガラスの動物たちを照らします。そのきらきらと光る様子は、物語があまりにも哀しいだけに、本当に美しく救いに満ちたものに見えます。
きっとこの最後のシーンのために作者は戯曲を書いたに違いありません。ここではじめて観客は心が癒されます。彼女がそれまで苦しんできた生活が少しでも安らかなものになるのを、誰もが祈らずにはいられないのです。何度見てもこのシーンは本当にきれいです。彼女の心の中の風景に重なるのです。
彼にはこの作品の他に「欲望という名の電車」があります。アーサー・ミラーの「セールスマンの死」とともに、戦後アメリカ演劇を代表する傑作とされたものです。没落した南部の農園出身のブランチが、ニューオリンズに住む妹を頼ってきます。しかし粗野な妹の夫スタンリーに過去の秘密を暴露されたうえ、レイプされて精神に異常をきたすという悲劇です。ブランチの退廃していく美を描きながら、その分裂した心理をえぐりだし、強烈な南部のにおいを舞台に色濃く漂わせました。
文学座の故杉村春子のブランチ役はあまりにも有名でした。北村和夫のスタンリーととともに記憶に強く残っています。
2つの作品ともハリウッドの映画などにはない、ある意味で哲学的な暗さをもった名作です。戦後のアメリカがどういう場所から始まったのかを知るために、機会があったら是非見て欲しい作品だと思います。

2001-10-21(日)

作れない部分

家電製品などのすぐれた産業デザインに与えられるグッドデザイン賞が、TBS系テレビ番組「世界ウルルン滞在記」に与えられました。その上、審査委員長特別賞にもなったのです。元々、デザイン界のための賞をなぜテレビ番組がというとまどいは、むしろ制作者側にあったようです。作り手と視聴者の双方向性が、この番組の特徴として認められたということでしょうか。
ぼくの入っている研究会にも「ウルルン」のディレクターが取材にきたことがあります。コロンビアで行われる花祭りに参加するという企画のためでした。たまたまその日行われた料理講習会にコロンビアの人があらわれるという情報を知り、やってきたというわけです。彼の話によれば、実際の撮影はかなり大変だということでした。この番組のウリはなるべく演出をしないということです。そのため、どんな内容になるのか、やってみるまでわからないのだそうです。
もちろん多くのスタッフを現地まで行かせて撮影するのですから、そこそこのレベルを保たなければならないのは当然のことです。しかし他の番組に比べると、いわゆるヤラセの部分はかなり少ないようです。俳優山本太郎がアフリカへ行った時の内容など、まさにぶっつけ本番といっていいものでした。今や、こうした企画そのものが大変貴重です。
実際、ドキュメンタリーには必ず制作者の意図が入ります。というよりこれなしに番組はできません。ところがそれがあまりに強くなりすぎると、恣意的な内容のものになってしまいます。ディレクターはなんとかして自分の描く方向に映像と音を組み立てます。そうでないものは全面的に消してしまうという荒技をおこなうのです。
つまりどんな番組もつねに制作者の持つ方向性の元にあるということです。そこで泣くことが必要ならば、無理に泣かせてでも絵をつくります。つまり映像は嘘をつくということです。いまさら「世界残酷物語」などという映画を持ち出すまでもないでしょう。これにはかなりのヤラセが存在していたことは既に常識となっています。かつてテレビ朝日のアフタヌーンショーでは多摩川の河原で、暴走族同士をわざと喧嘩させました。あるいは朝日新聞のダイバーは沖縄の珊瑚礁に自分で傷をつけ、自然破壊の現状を憂うる記事にしました。
ここまでいかなくても似たようなことはいくらでもあります。先日テレビを見ていたら、ぼくの教え子が、酔ったサラリーマンの役で出演し、電話ボックスの中で何事かを叫んでいました。これは日曜日の夜放送されている、視聴率の高い番組です。そこでは酔った人にクイズを与えるのですが、その役までをエキストラにやらせるのはどんなものでしょうか。彼は放送関係の学科に進んだので、喜んでその役を演じたと思われます。
同じ番組の中で妙な英語を使うロケも、その前にきちんと事務所で打ち合わせ、テストをしてから行われるという話です。つまりさりげなく行われているように見えることの中に、シナリオが必ず織りまれているのです。そうでなければ毎回、あれだけ登場人物を確保することはできません。安い制作費でつくられるバラエティーものはまずまちがいなくこの範疇にあります。モザイクがかかっていたら、疑う必要があるでしょう。タレントを使ってそれらしく作ることなど、簡単なことです。もちろん、ルポなどの内幕ものにおいても一度行った会議をスタッフが頼んで、再現するのはよくあることです。
またコメンテーターと呼ばれる登場人物にも注意が必要です。すなわちディレクターの思惑通りに発言をする人だけが常に選ばれていることを忘れてはいけません。つい先日も稲垣逮捕について自分の意見をきちんと述べたいと言った有名な芸能評論家を、その日だけワイドショーに出さないという事件がありました。劇作家の山崎哲も犯罪者に対して同情的な意見を述べすぎるため、ついにコメンテーターの座を降ろされてしまいました。
確かに構成という思想はつねに大切なものです。それなしに番組がすすむことはありません。しかし作品を面白いものにしようという意志ばかりが先行すると、とんでもない落とし穴を生み出すことになります。作為だけが一人歩きをし始めるのです。時代は今やインタラクティブな方向に動きつつあります。誰もが自分の意見を述べられるシステムができているのです。
これからは「演出できない部分」「作れない部分」の量と質がより大切なものになります。だからといって何もしなくてもいいというわけではありません。知性と想像力が限りなく要求される、逆の意味で困難な時代になっているのです。

2001-10-14(日)

野口先生のこと

高校の時、野口武彦先生に出会えたのは、ぼくにとって僥倖と呼べるものでした。こうしたことがまさに一期一会と言えるのではないでしょうか。彼は当時大学院博士課程の学生で、講師としてぼくの在籍していた高校へ教えに来ていたのです。野口先生は現在、神戸大学で教鞭をとる江戸文学の第一人者です。その著書に触れられた人もいることでしょう。実に多くの本を上梓しています。
当時先生は小説も書き、その作品は主として河出書房の「文芸」という雑誌に掲載されていました。『ピケットライン』、『洪水の後』など、いずれも学生運動がその中心テーマです。時代は羽田闘争からやがて大学紛争へと進む入り口にさしかかっていました。
野口先生はいつも少し甲高い声で、淡々と授業を進めました。なぜあの頃もっと真剣に聞いておかなかったのかと今でも悔やまれます。現代文を中心にした授業でした。あの当時、ぼくはただぼんやりと時間の過ぎ去るのを待つ学生に過ぎませんでした。全く忸怩たる思いに駆られます。
それでも先生の書く作品には興味があったのか、友人と二人で、すぐに本屋へ行きました。『価値ある足』という処女作があることもその時知りました。デモの中で足を悪くしてしまった女性を後に妻にするという実話に近い物語でした。どの作品もテーマが重く、当時どれくらい理解できたのかはわかりません。ただ先生がぼくの知らない世界に深く入り込み、苦しんでいるのだけはよく分かりました。
ところで昼休みになると、多くの生徒は校舎の裏手にある食堂へ行きました。チャイムが鳴るのと同時に駆け込んだものです。というのもすぐに長い行列ができるからです。しかしほとんどの先生はその列に加わらず、特別な窓口で先にプレートにのせられた食器を受け取るのが常でした。ところが野口先生はいつもじっと生徒と一緒に食券を持って並んでいました。その姿が今でもはっきりと目の底に焼き付いています。あの時、ぼくは友人と何度かそのことについて話し合いました。なぜ彼は教師の特権を使わないのだろうか、と。
あたりまえのように前へ行って、生徒用の脇の窓口へ食券を出せば、素早くプレートにのせられた昼食を手にすることができたのです。しかし彼はそれをしませんでした。いつも短く刈った髪にスーツ姿で列に並んでいました。
今思うと、ぼくはそういう先生が好きだったのかもしれません。そこに彼の信念が宿っているような気がしました。小説の世界で読む彼の真摯な姿を重ねて見ていたのです。これは後になってから知ったことですが、先生は当時の学生運動の中で中心的な活動家の一人でした。というより殆どある一つの派を率いていたのです。いわばイデオローグという立場にいました。当然反対の立場の人が書いたものを読むと、批判の対象そのものでした。
さて高校を卒業する頃、ぼくは先生の著書『三島由紀夫の世界』を手にしました。その時あまりにも意外な感じがしたのです。というのもあれだけ技巧的生活を嫌う先生が、そして三島とは全く正反対の政治的立場に立つ彼が、こういうものを書くとは思ってもみなかったからです。しかし彼はあとがきでその理由を書いています。それは三島の持つ反動性こそが逆にある時魅力になりうるという美学の発見は、批評への意志を試す試金石であるというような文章でした。
先生はあくまでも三島を嫌っていました。しかしつきつめる必要はあると認識していたのでしょう。畏怖するわけでもなく、心服するわけでもない作家に対しての問題意識の持ち方は、ある意味で大変ユニークだといえます。この後、むしろ先生にとってはより親しみのある『谷崎潤一郎論』を中央公論社より刊行し、この時は随分長くNHKの文学講座で解説をしていました。
また神戸大震災では本当につらい体験をしたということをいつだったか、新聞に書いていました。人間にとって大切なものとは何かというのがその時のテーマでした。
随分と昔のことですが、ぼくにとっては忘れられない大切なことばかりです。男の子が生まれた時、先生の名前から勝手に「彦」という字を一字もらいました。

2001-10-14(日)

俳優という生き方

中村敦夫著『俳優人生』を読みました。普通、この種の本はゴーストライターによって書かれることが多いものですが、これはそういう類のものではありません。彼の感性によって貫かれていることが、読めばすぐにわかります。
役者としての中村敦夫はやはり変わり種といった方がいいでしょう。世間では「木枯らし紋次郎」として広くその名を知られているようですが、基礎を俳優座養成所できちんとたたきこまれた人です。いわゆるぽっと出の人とは違います。外語大を中退して、養成所に入ってはみたものの、鬱々として楽しめない日々が続いたようです。というのも当時の演劇界は路線闘争の真っ只中で、千田派、小沢派、中間派に分裂し、レパートリーも政治闘争の色合いを深めていたのです。
そんな中で彼はアメリカ国務省が所管する職業人のための奨学金制度があるのを知り、それに応募しようとします。先輩が受けるのを見て、翌年受験しようとしていた中村は、いわば付き添いの形で試験場にあてられたホテルに赴きます。そこでの試験はただのパーティでした。彼のところへも国務省の役人がやっては来たものの、少しお酒を飲んで気が大きくなっていたせいか、大胆になり使い慣れない英語で話をしたのです。
ところがそれが功を奏したのか、先輩ではなく、彼が合格してしまったそうです。最初劇団幹部達が渋るのではないかと危惧したものの、うるさ型の中村は敬遠されたようで、あっさりと許可が下りました。人生というのは本当に何があるのかわかりません。
時に1965年、彼ははじめて飛行機に乗りました。ハワイ大学での生活が始まったのです。カルチャー・ショックというのはまさにこのことだったと述べている通り、日本とは何もかもが違いました。女子学生の物怖じしない話しぶり、ホモの数、理詰めの授業。
中村はここで前衛演劇の演出なども担当しました。留学期間9ケ月はあっという間に過ぎ、それだけではあまりにももったいないので、主任教授に懇願して、アメリカ本土の旅を続けます。ここでも教授のユダヤ人ネットワークに助けられ、グレイハウンドバスの99日間、99ドルという学生用周遊券をもらい、その後アメリカへの旅を続けました。
帰国後の活躍もすんなりと始まったわけではないようです。かなりの映画などに出演してみたものの、ぱっとしたことはありませんでした。唯一、NHK『春の坂道』の中で演じた石田三成役に人気が出たという程度だったようです。
その後は笹沢佐保原作「木枯らし紋次郎」での活躍とともに記憶に新しいところです。この後、俳優座を退団し、プロダクションを市原悦子などとともに作ります。しかし基本的に一匹狼である俳優達がまとまるなどということはなく、まもなく解散してしまいます。この後彼は多くの作品に出るものの、既に映画の全盛期は過ぎ、現場の活気は急速に薄れていました。いわゆる職人肌のスタッフがいなくなっていったのです。
一方で、俳優達は自分の「格」を保つことに汲々とし、それがますます作品をつまらないものにしていきました。いわゆる看板の順序をめぐって、役者同士は熾烈な争いを続けます。格付けは一枚目と最後が最上格で、真ん中が次ぎ、それからは最初から二枚目、あとは特別出演、友情出演などという文字を書き加えて、なんとか場所をおさめます。しかし沢山のスターが出る映画の場合、場所の取り合いで喧嘩になり、混乱に拍車をかけるということも多いそうです。お金が飛び交ったり、マネージャーが暗躍したりと、世間とはかけ離れた世界であることは間違いありません。
中村は多くの役者の横顔をここでも見事に描いています。三船敏郎と一緒にいるだけで気詰まりだという人が多い中で、彼は二人きりで何時間でもいられたそうです。三船の関心は演技にはなく、このころ確実に事業にうつっていました。それが後の制作会社設立と失敗につながったと分析しています。また三田佳子、山本陽子、市原悦子などに対しての評価にも鋭いものがあります。女優がいかに男性的であり、俳優同士の結婚生活が破綻する理由も示してあります。
その後の彼の活躍は作家からキャスターへさらには議員へと続きます。テレビに対する失望感にも深いものがあるようです。芸能界への批判も厳しいです。またキャスター時代から続けている統一協会との戦いぶりもすさまじいものがあります。学生時代の友人を助けるために人権擁護団体、アムネスティー・インターナショナルの仕事も長く行っているそうです。
一人の人間の生き方としても学ぶべきところが多い本だと思います。一気に読んでしまいました。

2001-10-07(日)

世界の未来

昨日、日比谷公園で行われた「国際協力フェスティバル」へ行ってきました。これは10月6日の「国際協力の日」にちなんで毎年行われている催しです。国連関係の協力機関をはじめとして、国際協力事業団を主とする政府機関、さらにはたくさんの国際協力市民団体(NGO、NPO)などが一カ所に集まる大きな活動の紹介プログラムです。
数年前、ぼくはふとしたきっかけから青年海外協力隊東京OB会の皆さんと知り合いました。その縁で、昨年と今年行われたパラオ・スタディツァーに娘と息子が参加させてもらったのです。娘が今年は活動に参加するというので、遊びに出かけたというわけです。200もの団体のブースが所狭しと並び、なかなか壮観でした。ここ数年特に若い入場者が増えているような気がします。
民族衣装のファッションショーや、チャリティーオークションなどと並んで、なんといっても楽しいのは、各国の民芸品の販売です。特に女性は興味を惹かれるのか、よく売れています。アフリカの彫刻などにも面白いものがあります。また普段なかなか食べられないエスニック料理を味わうことも可能です。あるいは国際協力関係の本なども一覧でき、大変ユニークなイベントといえるでしょう。
援助団体の中心はなんといってもアジア、アフリカ、中南米に向けたものが多いようです。こんなにたくさんの市民団体があるのかと驚いてしまいます。宗教を中心とした団体、大学のサークルなどその性格も様々です。しかもそこで活動している人たちの多くが大変若いことです。このことには毎年あらためて感激してしまいます。今の若い者はとよく大人は口にしますが、そうそう捨てたものではありません。
この夏にある会議で出会った「めぐこ・南の子供達の自立を支える会」(上智大学生主体のNGO。毎年交互にインドとフィリピンを訪問し、顔の見える援助をしている)の女性とも再会しました。彼女は今年インドの地震のその後を見に行ったと言い、写真を見せてくれました。
一言で言えば悲惨な状況です。日干しレンガで作った家は完全に瓦礫の山でした。どこから手をつけたらいいのか全くわかりません。国際社会の中で貧しい国はますます貧しくなっていきます。情報がお金にかわる世の中です。情報を手にできない人たちは捨てられていく運命にあります。コンピュータもなく、文字すら書けない人々の存在をどうしていけばいいのでしょうか。教育の重要性があらためて問われます。その他、国内23の大学にまたがるインターンシップNPO団体、「AISEC」などの紹介もしてもらいました。
「アムネスティ・インターナショナル」の活動や、緑化活動と環境教育に携わっている「ケア・ジャパン」、社団法人「セーブ・ザ・チルドレン」、メコン河流域の人々の問題をともに考える「メコン・ウォッチ」など、その活動を紹介していたら、いくら書いても字数が足りません。「オイスカ」「シャプラニール」などの名前はもうかなりの人たちが知っているはずです。ODA予算は今年減額されました。援助馴れという問題も起こっています。自助という考え方をとれない国の人々もいます。
本当に必要な人のところへ援助が届かないという問題も深刻です。世界は本当に矛盾に満ちています。10年先、100年先を見て行動しなければなりません。皆が皆、善意にあふれた、いい人間だというわけではないのです。
おりしもアメリカのアフガニスタンに対する攻撃が始まりました。貧しい国がますます貧しくなっていきます。老人、子供、女性というもっとも弱いところへ、全てのしわ寄せがいきます。世界の現実はいつも失望と危惧しか与えないものなのでしょうか。国際協力のためのイベントのあった深夜に軍事攻撃が始まったという事実がぼくにとっては大変つらいものとなりました。

2001-10-07(日)

回転するということ

回転寿司が全盛です。少し前にはどことなくいかがわしい雰囲気を持っていたものですが、今や正統派の店を押す勢いです。たくさんの集客力を持った店舗が次々と街道筋に展開しています。200台以上の車がとめられ、一日に300万円売り上げる店もあるそうです。なかには完全にコンピュータ化され、注文も皿の枚数を数えるのも全自動というところもあります。さらには50分たったものを自動的に識別し、廃棄処分にする装置なども開発されています。全てはお皿の裏に書き込まれた情報をセンサーが読みとるのです。
最近では寿司ロボットも当たり前になり、もの凄いはやさで寿司を握ります。とても職人にはできない技です。米粒の数もほぼ均一だそうです。使用する酢や、塩などをすべて天然ものにする店もあり、いかに自然食品としての気配りをしているかを客にアピールする傾向も出てきました。さらには同じ単価で商品を出すために、大規模な冷凍設備を持った工場を設置し、その日の入荷状況に応じた魚の直送体制を整えています。そこまでしなければ生き残れないというのが、今の回転寿司業界なのです。
考えてみれば回転寿司というのは完全にアマチュアの世界です。長い間親方についてずっと修行をしてきた職人さんからみれば、まったく奇異なものに見えるでしょう。全て工場で切り揃えられたネタを、ただロボットのつくった寿司の上にのせるだけなのです。これならば誰にでもできます。ことさらに長い修練を積む必要など全くありません。
客単価が平均800~1000円ということになれば、それほど高い人件費をかけることなど到底できないでしょう。全てがアルバイトでいいわけです。正社員は店長1人で十分という訳です。回転寿司とは別の言葉でいえばアマチュアがもっともプロらしく見せて食べさせる装置なのです。
ちなみにぼくはこの種の店に今でも少し抵抗感を持っています。どうしても回るというのが嫌なのです。いつもせわしない状況の中で食事をしなければなりません。すぐに食べられるというのが実に日本的ではあるのでしょう。ハンバーガーショップよりはやいかもしれません。しかしどことなく食事というより「給餌」に近い匂いを感じてしまうのです。時々自分が鶏のように思われることもあります。カウンターで餌をついばんでいる鶏という連想は突飛でしょうか。
しかしこのやや暗い後ろ向きなイメージをあっさりと超えたのは子供達でした。目の前を好きなプリンや果物が通過するからではありません。子供はどうやら本能的に回るものが好きなのです。そのことを20世紀に解明したのはフランスの思想家、ロジェ・カイヨアでした。彼は『遊びと人間』という本の中で、「聖なるもの」を中心に旋回してやまない「遊び」の観念を論じてみせました。その根幹をなすのが「めまい」という発想です。これは子供の遊びを分析していった結果、かなりの喜びの部分が「めまい」から出発しているという分析によるものです。
彼の論理によれば子供はめまいの状態を好むというのです。ブランコ、回転木馬、その他遊園地にあるありとあらゆる乗り物の基本はめまいの誘発です。自分がいる場所を一時的に失うことで、子供達は喜びます。ジェットコースターもめまいへの参加以外のなにものでもありません。とすると、回転寿司がなぜ子供にヒットしたのかという理由も自ずと明らかになります。つまり回るから子供は好きなのです。大人はむしろ子供にひっぱられる形でこれらの店に行っています。
もちろんこのような形態の寿司が本道ではないとする人々も多いのです。しかし立って食べることをあれほど嫌った日本人も、今やハンバーガーショップの常連になりました。子供の味覚は以前と全く異なっています。「このお寿司屋さんはどうして回らないの?」と訊く子供達の姿を笑うことはもうできません。今や、日本人の多くは回る寿司を支持しているのです。プロを装う仕掛け人のマニュアル全盛時代がこれからも長く続きそうです。

2001-10-02(火)

「である」の威力

今やNHKの看板番組になりつつある「プロジェクトX」を時々見ることがあります。最初の頃の何が何でも高視聴率をという肩の力が抜けて、最近は内容も随分と落ち着いてきました。先週のヤマハ楽器を題材にした、「リヒテルのピアノ」もなかなかのものでした。
この番組が世に出るまでにはかなりの紆余曲折があったようです。そのことは9月号の月刊「文藝春秋」に載っています。特に会社名や商品名を出さざるを得ないという番組の性格を、NHK内部の人に理解してもらうための道のりが長かったのです。
スタッフは第1話をビクターのVHSビデオの話から始めたかったそうです。しかしそれを第2回目に放送したというところに、いかにもNHKらしい用心深さが出ています。最近出した単行本の売れ行きもよく、やはり技術立国日本の面目躍如というところでしょうか。あるいは皆が同じ方向を向いて生き、協力していくことの素晴らしさを多くの視聴者が感じているのかもしれません。
ところでこの番組の中でぼくがいつも気になるのは、あの独特のナレーションです。田口トモロヲという人の存在をこの番組ではじめて知りました。中島みゆきの印象的なエンディング・テーマと同時にいつも気になります。この語り手をさがしたのもNHKのディレクターだったそうです。最初にテストで語り口調を聞いた時、ひどく興奮したと書いてありました。
さすがに惚れ込んだだけあって、この番組の内容によくあっています。今はあちこちからCMの出演依頼などが舞い込んでいるようですが、この番組に入る前はまったく無名でした。人間の転機というのはどこにあるのかまったくわからないものです。
さてこの番組のナレーションを一度でも聞くとその「である」調というより「だった」調に不思議と引きずり込まれてしまいます。ぎりぎりまで言葉を抑制し、なるべく視聴者の想像力に訴えるというのが、担当者の意図です。したがって一見ぶっきらぼうな物言いが続きます。しかしそこには制作者の計り知れない思いが宿っているわけです。
正直に告白すれば、ぼくはこのエッセイを最初、「である」で書くか、「ですます」にするかでかなり悩みました。かつて評論家の中村光夫はほとんどの文を「ですます」で書きました。しかし圧倒的に多くの書き手は現在も「である調」です。読み比べてみればその文体の違いは一目瞭然です。通常、敬体、常体と呼びますが、ぼく自身、小論文などの指導では当然「である調」を勧めています。というより「ですます調」で書いてはいけないという指導をします。論理を最優先する論文にはやはり常体がふさわしいのです。
エッセイを書き始めるにあたって、ぼくもしばらく考えました。今まで「ですます調」で文章を書いたことなどなかったからです。どうしても冗漫になる気がしてなりませんでした。文のリズムが弱くなるだろうと考えたのです。今でも気がついたら、「である調」で書いていたということもあります。それだけに、田口トモロヲのナレーションには惹かれるものがあります。余韻といってもいい響きが耳に大変心地よいのです。
文学論の中には文体論という一分野があります。レトリックという考え方です。研究していくと大変面白いテーマです。また多くの作家の文体を研究するだけで、かなりの論文が書けます。野坂昭如と村上春樹は厳然と違い、吉行淳之介とも違うのです。もっと言えば句読点の位置までがそれぞれ違います。俗にブレスの量だといいますが、肺活量の違いがたった一つの点や、マルにまで大きく影響するのです。なんだ文体の話か、と軽く考えてはいけません。作家は点や、マル一つに命をかけています。想像以上に大変に深い世界だということを認識しておいて下さい。

2001-10-02(火)

江戸前落語はどこへ

昨日、古今亭志ん朝さんが亡くなりました。あまりにも早い死です。落語家は60才を過ぎてから芸の実りの時期を迎えます。63才という年はあまりにも若すぎました。彼の兄、金原亭馬生もお酒のせいで早くに亡くなってしまいました。本当に惜しい咄家をなくしました。この穴は当分誰にも埋められません。そのことを一番よく知っているのは、全ての噺家達でしょう。
彼は父親、古今亭志ん生の芸を幼い頃からずっと見て育ち、自然に江戸前落語の第一人者になっていきました。その気っぷのいい芸に触れれば、江戸っ子が目の前にいるような気がしたものです。清潔で気品がありました。志ん朝はいずれ父の名跡を継ぐべき咄家だったのです。本人はまだまだと言っていましたが、周囲の誰もがいずれは大看板を背負い、日本の話芸の粋を生きて体現する人だと思っていました。
こんなことならぼくももっと高座をたくさん見ておけばよかったと思います。最後に聞いたのは数年前、井の頭公園傍の公会堂ででした。丁寧な枕から次第に本題に入っていくにつれ、内容が昂揚していきます。人物の造形が確かですから、話の展開に訳もなく入っていってしまいました。父親譲りの「火焔太鼓」も好きでしたが、もっとのんびりとした「船徳」などの若旦那ものや「百川」「錦の袈裟」といったとぼけた噺が好きでした。これからは残された記録だけでしか話を聞けないのが本当に悔しいです。もちろん本格的な長い噺も捨てられません。「品川心中」「文七元結」「愛宕山」、どれも素晴らしいです。
あの独特の表情、スピード感が忘れられません。かつて立川談志の協会脱退騒動の際、「こんなことをしている場合じゃありません」と言って、落語界全体の団結を訴えていたのが今さらのように思い出されます。これから志ん朝の穴を誰が埋めていくのかと考えると、やはり柳家小三治しかいないでしょう。事実、志ん朝の病気休演の舞台を支えたのは小三治でした。しかし芸風が全く違います。
談志も確かに噺はうまいですが、品格にかけるところがあり、客の好悪が激しいでしょう。その点からいえば小三治です。噺の展開がやや理に傾きすぎて、それがとれていけばという条件を出せば、これからの第一人者は彼しかいません。いずれ小さんの後をつぐということになるでしょう。
逆にいえば、それだけ志ん朝の抜けた穴は大きくて深いのです。あれだけ毒舌で知られた談志が金を払ってでも噺を聞きたいのは志ん朝だけだと言っていました。全くその通りだと思います。昨日の夕刊の報道がまだ信じられません。あの勢いのある高座が見られないのは本当に残念でたまりません。大看板たちが次々と鬼籍に入り、名人と呼べる人はいよいよいなくなってしまいます。小さんも衰えました。この死は彼にとっても本当に大きな痛手でしょう。

2001-09-24(月)

アジア・ハイウェイ

1959年、国連はアジアを貫いている道を整備し、それぞれの国を結ぼうと計画しました。東南アジアから遠くイランまでを覆っている道路網、通称アジア・ハイウェイがそれです。ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、バングラデシュ、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランの首都を結び、さらにトルコからヨーロッパへと至る1万キロの道です。
1995年、NHKはスペシャル番組の中で8つの国境を越えて取材を敢行しました。途中かなり危険な目にもあったようです。ぼくは3冊刊行されている記録集の中から、今回、特にアメリカ同時テロに絡んでパキスタン、アフガニスタンに関する第3巻を読んでみました。
『アジアハイウェイ』(NHK出版会)にはさまざまな写真が載っています。「コーランの聞こえる道」という副題からも分かるとおり、まさにイスラムの論理が支配する国々ばかりのルポです。
パキスタン編では学校の施設が足りず、住宅街の路上までもが教室として使われている様子、ジルガと呼ばれるパシュトゥーン人たちの長老会議の決定までをメモしたもの、聖者の命日に行われる祈り、ラホールの街のバザールの賑わいなどが紹介されています。
特にインドとの戦争は多くの悲劇を生みました。パキスタン側に住むヒンドゥー教徒はやむなくインドへ移住していきました。その時、ヒンドゥー、シーク教徒はイスラム教徒を襲撃し、略奪や殺戮を繰り返したのです。もちろん、その反対も同様です。犠牲者は双方で50万から100万人にのぼると言われています。避難途中の難民達が恰好の標的になったのです。3度にわたる戦争は互いに憎しみだけを増す結果に終わりました。
またアフガニスタン編では首都カブールの様子が詳細に報じられています。あらゆる建築物が壊され、人の住めそうな場所はほとんどありません。1992年、反政府ゲリラたちがイスラム政権を樹立してから、ずっとゲリラ各派の争いが収まることはないのだといいます。また現在もタリバンの重要な基地であるジャララバードは、衛星写真から見ると、いくつもの地下に通じる道があり、そこには様々な兵器が隠されているそうです。
アフガニスタンは多民族国家です。大小あわせると10以上の民族が共存します。しかしそれぞれの民族間には微妙な貴賤関係があり、その階層が社会の内部に強く根付いているのです。その中でもパシュトゥーン族が最上級で、その後をタジク族、ウズベク族、トルクメン族、ハザラ族などと続きます。それぞれ就ける職業も自ずと決まっています。このことがアフガニスタンの難しさを象徴しているといってもいいでしょう。
タリバンも彼らをうまくイスラムという一つの教義でまとめようとはしているのでしょうが、何かことがあれば、内部の確執が芽を吹きます。同じイスラムの中も、スンニ派、シーア派、ワハーブ派などのグループがあります。また反タリバンの流れもあり、簡単に図式化できないといいます。バーミヤン遺跡の爆破という愚挙に出たのも、強硬派が一歩前に出たからということですが、アメリカなどの懐柔策によって再び彼らが力を失うことも考えられます。現に今、新しい流れもできていると新聞は報道しています。
父を失った子はたとえ母親がいても皆、孤児の扱いを受け、優先的に神学校への入学が認められるそうです。その子供達がまた聖戦を声高に叫ぶということになれば、未来の図式はまさに混沌としていくだけでしょう。
アフガニスタンはこの他、世界最悪の地雷地帯、ヘラートを抱えています。アメリカの統計によれば、世界60カ国には計8500万個の地雷が埋まっていて、その最大保有国はアフガニスタンの1000万個だといいます。その内の実に100万個がヘラート周辺に埋まっているのです。地雷除去員の作業は遅々として進まず、1日にやっと50個みつけられたとして、数十年の歳月がかかるということです。
しかしアメリカはかつてこの国をずっと支援してきました。そして今、北部同盟に加担し、タリバン勢力を押さえつけようとしています。昨日の新聞によれば、北部同盟は国土の2割を支配下に置いたとのことです。どこまでいったらこの戦闘は終わるのでしょう。その間にも子供や老人は次々と飢えて死んでいきます。
政治は非情です。必要な時だけ人民や国土を利用してあとは遠慮会釈なく切り捨てていきます。それが政治というものです。チャドルという真っ黒な布を頭からかぶり、外を歩く女性達の生の声はマスコミの報道でも全く聞くことができません。この国はいったいこれからどうなっていくのでしょう。素朴で心やさしいという彼らが、日常生活を無事に送れるよう今はただ祈るだけです。

2001-09-24(月)

世界がどんどん狭くなる

一昨日、NHKで放送されたドキュメントは、大変衝撃的なものでした。ぼく達が毎日使っている携帯電話が、遠く離れたアフリカ、コンゴ内線の火種になっているというのです。かつては別の物質から作られていたIT用のコンデンサーは今日ますます小型化への道をたどっています。そこで登場したのがギリシャ神話にちなんだタンタルという名のバナジウム族元素なのです。
タンタルとは灰黒色、等軸晶系の金属で1802年、スウェーデンのエーケベリが発見しました。タンタル石などの鉱物に含まれています。この金属を使えばコンデンサーは従来の60分の1に小型化できるのです。世界での需要は急増し、採掘時の千倍の価格がつきます。ところがこの物質がとれる場所が限られているのです。コンゴの東部ワリカレという地域がそれです。ここは反政府軍の支配地域でタンタルは重要な資金源になっています。
彼らはこの収益で武器を買い求め、内線を行っています。採掘人たちは3ヶ月働いて60~80ドル位をやっと手に入れます。タンタルを運ぶ途中でも反政府軍は上納金の形で一部を収奪します。また仲買人が空港へ運ぶ時にも同様です。さらには精製工場をたった一人の人間だけに許可し、そこから1月に数億円単位の税をとりたてます。
これだけの資金源を周囲の国がみすみす見逃す訳がありません。すぐ隣のルワンダは自国の軍隊を常駐させ、住民達を働かせてタンタルの採掘をしています。しかし大統領もこの事実を認めようとはしません。彼らはあくまでも国境警備という名目で、地元住民を搾取しているのです。その金額は国家予算に匹敵すると聞きました。国連もこの事実を確認しています。
そこへ一攫千金をねらう商人達が暗躍します。なんとか利権に食い込むため、政府の役人に近づき、どうしても反政府軍の監視が厳しくタンタルが手に入らないと知った男は、ルワンダの高官に近づきます。さらにロシア人が精製工場をコンゴ国内にたてないかと持ちかけ、資金はかつて一緒にダイヤモンドで大儲けをしたアメリカ人が出すというところまでまとまりかけます。
コンゴでタンタルを採掘している男達は一日働いても、黒い結晶一つ見つけられない日々が続くのです。彼らはその物質が何に使われるのかを知りません。利益は全て政府や高官、あるいは反政府軍の武器になってさらに内線をひどくしていきます。
貿易商たちは甘い汁を吸うために、利権に群がり、地元住民は失うものの何もない貧しい暮らしを強いられます。崖崩れなどで、時に何人もが生き埋めになるということもあるそうです。
ぼくはかつてコンゴの隣国、ザンビアへ行ったことがあります。しかしその時もさすがに木製の自転車は見かけたことがありませんでした。コンゴには今、資源が何もないのです。収入の道はタンタルしかありません。長い内線の結果、国民は殆ど難民化しています。それでも政商達の跋扈はやみません。
ぼく達が便利だとつぶやき、次から次へと新しい機種を求めていく間に、遠い世界の片隅では悲劇が次々と生まれていきます。世界が本当に狭くなりました。

2001-09-20(木)

緊張と解放

上方が生んだ異色の咄家、桂枝雀が亡くなってから、もう随分と日数がたちました。独特の表情や、間の取り方など、今でもやはり他の追随を許さないものがあります。英語での落語公演や舞台、テレビでの活躍を思い出すにつけ、早すぎた死が惜しまれてなりません。彼は相当なペシミストであったと思われます。笑いの中心にいると台風の目にいるのと同じで、案外静かなものなのかもしれません。突然厭世的な本来の性格が現れ、それが自裁を招く結果になったとも考えられます。少なくとも芸の行き詰まりというより、個人的な性格に負うところが多かったのではないでしょうか。あまりに先が見えすぎたということもあります。頭のいい人でした。
ところで彼の噺を聞いていると、いつも枕のところで笑いとは何かという哲学が紹介されます。その中で最も多いのが、緊張からの解放こそが笑いの真髄だというものです。つまりそれまで何が起こるのか分からない緊張状態を強いられていればいるほど、その後の弛緩が笑いを生むというのです。これはどれにも通用する最も根本的なドラマツルギーと言えるでしょう。
ぼく達はいつも主人公が陥る苦難を一緒に味わわなくてはいけません。この基本はテレビ、映画、芝居どれも全く同じです。できればその障壁は登場人物たちの正面に大きく強く立ちはだかった方がいいのです。多くの作家達はそこで苦労をします。最も現代的であり、なおかつリアリティーをもつ障壁を必死になって探すわけです。それは家庭内にあることもあるでしょう。あるいは職場、あるいは国家、警察、軍隊、学校、病院、裁判所、どんな場所でもいいのです。敵の姿が必ずしも見えなくてもかまいません。
極端な話、時間でも宇宙の運命でもいいのです。とにかく何かの障壁、障害を用意しなければなりません。家庭問題に関していえば、離婚、虐待、あるいは嫁姑の確執、子育て、老人介護などなんでもいいのです。そのことによって今まで築かれてきた家庭の中に大きな波乱の起きる必要があります。しかもそれが圧倒的な真実味を帯びなくてはならないのです。
つまり絵に描いた餅では誰の共感を得ることもできません。アメリカ映画に嫁姑の問題が殆ど取り上げられないのは、そういう社会的な基盤がないからです。13才になった途端嫁に出されてしまう女の悲劇を日本で作っても誰も共感しません。とにかくここで大切なのはそれが想像上、その社会環境の中で本当に起こりうることかということです。
廃校になる運命にある学校もいいでしょう。突然の事故にあう飛行機もいいです。親の離婚が子供に大きな影を落としつつあるという展開も考えられます。あるいは宇宙からの突然のテロや、時間軸を超えた世界からの攻撃もOKです。
とにかくあらゆる障壁を考えつくことがここでは大切なのです。さてその重さを観客に実感させた後、そこからの解放をともに味わっていくことで意識の参加が生まれます。もちろん必ず成功する必要はありません。しかし人間はつらいままでは心が鬱屈してしまいがちです。ですから興行的に成功したければ、当然解放に向かわなくてはなりません。とはいえ、中にはつらいまま終わることでかえって感動を覚えるということもあります。まさにリアリティーの質が問われるのです。「セブン」という映画は全く悲劇的な結末で終わりました。しかしああいうラストもあり得ます。
たとえ脱獄が成功してもしなくても、ある障壁に対して立ち向かっていくという行動は必ず取らなければなりません。時間がたてばなんとかなるという態度でいたのでは、作品にはなりません。何かの齟齬、勘違いによってたとえ失敗に終わったとしても、必ず障壁を取り除こうとする努力に観客は共感するのです。この視点からみると、たいていの成功した作品はこのドラマツルギーにそって成り立っていることがよくわかると思います。
笑うにしろ、泣くにしろ、たとえハッピーエンドではなかったにせよ、そこに最大の人間ドラマを見たい訳です。かつて「スライディング・ドア」という映画がありました。もしドア一枚で人生が変化するとしたらという仮定に多くの観客は全く今とは違う人生を見ようとしたのでしょう。しかしそこにもきちんと多くの障壁が用意され、登場人物は苦悩をし、解放を試みていました。あとはその作品に対する共感の量です。つまりリアリティーの勝負ということになる訳です。
桂枝雀の話から随分飛躍してしまいました。役者はよく言います。泣かせるより笑わせる方が数段難しいと。上方の咄家はその台風の目の中に入ってじっと客を見ている間に、何かを見すぎてしまったのかもしれません。

2001-09-20(木)

今いちばん気がかりな国

アメリカへの同時テロを受けて、今最も注目されている国といえば、パキスタンとアフガニスタンです。この両国はほとんどの日本人にとって全く馴染みがないといってもいいでしょう。元々イスラム教という宗教自体が日本人にとっては異教です。ぼく自身、何もこの国々について知らないので、パキスタンを紹介した本、『女性の見えない国』(松山章子・朝日新聞社刊)を読んでみました。筆者はユニセフのイスラマバード事務所で企画広報担当官として活躍した人です。
この本のタイトルはパキスタンを実に的確に表現しています。連日のテレビ報道を見ても、町に全く女性の姿はありません。たった一枚の写真を撮るのにさえ、夫の許可が必要なのです。信じられるでしょうか。殆どの女性は一日中、家の中にじっとしています。外出はいっさい許されません。男女差別という言葉を使うことさえためらわれます。超男性優位社会ということが言えるでしょう。
農村での女性の識字率は7~8%と言われています。小学校の3年生まで行ければ十分ということなのでしょう。その理由の一つが、8才を過ぎる頃から、むやみに男性のいるところへ行ってはいけないという考え方があります。つまり女子は男性の先生が教える学校には行けないのです。元々女性が先生になることなど考えられませんから、いつまでたってもこの悪循環が続くわけです。女性はとにかく早く結婚し、たくさんの子供を産むことを義務づけられます。そのうちの半分以上は小児破傷風などで死んでしまいます。信じられないことにへその緒を切った後にかまどの灰をかぶせたり、カミソリ、はさみが汚れていることもその原因の一つです。
またパキスタンでは妊婦に予防注射をするということそのものが難問なのです。というのも予防接種を行う医者や保健婦が男性であれば、殆どの女性は注射を拒みます。男性に二の腕を見せるということなど考えられません。だいたい女性が医者にかかるという習慣そのものがないのです。特に未婚の女性が医者にかかるということになると、それだけで妊娠したのではないかと男達に噂されます。それを恐れて彼女たちは医者にかかることもしません。ある程度の年齢になっても夫が代わりに病状を告げ、薬を処方してもらうというのが普通です。その薬も民間伝承のものが殆どで、効果には疑問が残ります。
ユニセフは保健、衛生、栄養、スラム開発、識字教育、職業訓練をプロジェクトの柱に据えています。しかしどれ一つをとってみても、難問が山積しているのは明らかです。この国では女性の誕生はあまり歓迎されません。とにかく男をたくさん産む女性が理想なのです。そのために15人も続けて出産するということもあるそうです。貧しいから子供を産むのです。労働力として、あるいは親の老後の保障として。また神からのさずかりものである子供の誕生を制限することなど、絶対に考えられません。しかし女医さんのところにだけは避妊注射をしてもらいにくる女性がいるそうです。彼らは夫や家族にも告げずにひっそりと来診します。
パキスタンはもともとインドの一部でした。宗教の違いが原因で1947年に分家独立しました。しかし元々は兄弟のような関係にあります。つまり現在も社会の深部にカースト制度が残っているのです。かつてブットという女性の首相が統治としていた時代もありました。絶対的階級社会では女性といえども、高位の家の娘として生まれ落ちれば、男兄弟とほぼ同等の特権を享受することができるのです。
女性の姿を全く見ることのない町の中を、男達はシャルワール・カミーズと呼ばれる白い民族衣装を着て歩いています。また極彩色の乗り合いバスも不思議な風景です。隣国アフガニスタンとともに、パキスタンは男性だけの国家です。昨日の宗教者会議の様子もそのことを強く物語っていました。この国は20年たっても何も変化しないのかもしれません。しかも貧富の差が激しいのです。女性が町を歩けないというのは、それだけで奇異な印象を持ちます。イスラムへ帰れという教えは、はたして彼らに平和をもたらすのでしょうか。予言者ムハンマドが生きていたら、今アラーの教えをどのように伝えるのでしょう。
当分の間、両国から目を離すことはできそうにありません。

2001-09-20(木)

サービスの極意

『帝国ホテル・感動のサービス』(宇井洋・ダイヤモンド社)を読みました。副題に「クレームをつけるお客様を大切にする」とあります。それぞれの担当者が開業110年目を迎えたこのホテルについて語っていて、なかなか興味をひかれる面白い本でした。
ぼくは以前、雑誌記者をしていましたので、いわゆる都市型ホテルへパーティや、記者会見などの用事でよく行ったものです。また学生時代は幾つかのホテルのドラッグストアでアルバイトをしました。英語の勉強をしたかったのと、ホテルの近代的なシステムそのものが好きだったからです。九段のホテル・グランドパレスでは開業の時から働きました。ここは現韓国大統領、金大中が誘拐されたので有名なところです。最初に訪ねた時はまだ絨毯にビニールの覆いがかかっていました。もう随分以前のことです。
またホテル・ニューオータニや新宿京王プラザホテルでも働きました。それぞれのホテルには独特の雰囲気があり、従業員の印象も違います。とくに関係者以外通行禁止と書かれたドアから先に入って行くわけですから、それぞれのホテルの差がよくわかります。社員食堂もホテルによって全く雰囲気が異なってみえました。
ニューオータニの社員食堂は地下で、長い厨房の廊下を歩いていった先にありました。いつも大変安くしかもおいしかったです。洋食が多くレストランで出すようなしゃれたものが多かった記憶があります。ご飯の量などいつも加減してくれました。一方、京王プラザホテルの食堂は9階で、こちらはごく普通の和食を中心としたメニューでした。
さて今回、この本を読んでいて一番面白かったのはなんといっても客室清掃に関するところでした。というのも今まで随分色々な外国のホテルに泊まりましたが、本当に国によってそのサービスのレベルに差があるからです。寸分の隙もないというところもあれば、実に雑なホテルもありました。中にはお湯が途中で止まってしまったりしたこともあります。
帝国ホテルでは3人1組で清掃をしますが、一歩部屋に入った時、まず匂いを嗅ぐことからするそうです。人間は案外微妙な匂いを嗅ぎ分ける能力を持っています。そこで前泊の客の匂いの元をすぐに消さなければなりません。タバコ、香水、お酒など少しでも匂いがあったらすぐに客室整備係がオゾン脱臭機や脱臭液を使って完全に匂いを消すのです。それでもダメなときはカーテンや絨毯を丸洗いすることもあるのだそうです。
これが客室清掃の第一歩でしょうか。次はお客が残したゴミの始末を簡単にはせず、ゴミ箱に棄てられたもの以外は全て保管するのです。どんな紙一枚でも大切なメモが書いてあるかもしれません。あるいは薬や新聞、レシート、使いかけの化粧品、すべてがひょっとしたら客にとってかけがえのないものである可能性もあります。客室の冷蔵庫などに入っていたものは、保管用の冷蔵庫にしまうそうです。一日100件の忘れ物にこれだけの神経をホテルは使っているのです。本当に頭がさがります。
それだけ入念にクリーニングをした後、点検係が全く違う視点から、全てを見直し、さらに各階ごとに配置されたフロアマネージャーがもう一度最終点検をします。床、テーブルなどの細かい汚れ、冷蔵庫の異音、見た目だけではわからない塵、ほこりなどを入念にチェックするのです。
清掃係は研修のため、自分たちも客として何度か部屋に泊まることもあるそうです。客の立場から冷静に見て、どこに問題があるのかを分析します。鏡ひとつでも、清掃だけしている時と客の立場では見え方が違うといいます。ここまでやることではじめて帝国ホテルのブランドを守るということなのでしょう。
これに似たことがホテル内の全ての部署で行われているわけです。クリーニング、ベルボーイ、フロント、料理人、それぞれがプライドを持って働くことで帝国ホテルという老舗の看板を守っているのです。
これだけ細かい気配りをするホテルはそうはありません。というより何事にも完璧を期す日本人だからできることなのでしょうか。マニュアルももちろんあるそうですが、しかしそれで対応できない事例も起きます。そんな時にも客の立場に立って、何をしてあげることが最善かということを第一に考えていくのです。徹底して客の側に立ち、サービスに徹し、その結果として代価を支払ってもらうという思想がこれだけ見事に貫かれている業種は本当に珍しいと思います。
ところでぼくが一番好きだった風景は、ボーイが人を呼び出すためのメモをプラカードにはさみ、脇の可愛い鈴を鳴らしながら、客の間を黙って歩いていく姿でした。今でも同じように行っているとしたら、これも老舗の伝統といえるかもしれません。

2001-09-13(木)

鳥の目と虫の目

世界はますます複雑になっています。アメリカへの同時多発テロは、正義という言葉の意味をもう一度考えさせる材料になりました。タリバンと呼ばれるイスラム原理主義者にとっては、今やアメリカ及びアメリカ人を攻撃することが正義です。かつて湾岸戦争の時、聖地メッカのあるサウジアラビアに女性のそれも短パンをはいた兵士達が駐留したという事実は、神への冒涜以外のなにものでもないのでしょう。イスラムでは女性が肌をみせるということを極端にきらいます。そのため殆どの女性が海水浴をしたことがないという事実さえあるのです。
しかしアメリカ側からみれば、彼らは狂気のテロリスト集団にしかみえません。またアフガニスタンに協力し、内部に原理主義者を多く抱えている隣国パキスタンにとっても大きな試練の時です。旧ソ連との冷戦時代、アメリカは多くのイスラム集団に対し、援助を行ってきました。かつてソ連がアフガニスタンに侵攻した時、アメリカはソ連に敵対する勢力のために軍事的協力を惜しまなかったのです。
つまり今日のゲリラ集団を作り上げたのは、ある意味でアメリカとも言えるわけです。ところがパキスタンが原爆の実験を行ってから、アメリカは一気に経済制裁へと向かってしまいました。今回の米軍への全面協力が、パキスタン国内の原理主義者にとって裏切りとうつるのは当然です。ここでムシャラフ政権が少しでも揺らげば、新しいクーデターの可能性も出てきます。そうなれば原理主義者をどう封じ込めるのかというレベルを超えて、戦争が拡大する可能性もあります。
世界は超大国アメリカを筆頭にして、いくつもの軍事的に強大な国によって支配されています。
そのような環境の中で、日本はどのような態度をとったらいいのでしょう。憲法の範囲内でという総理大臣の談話はこの国の立場の難しさを物語っています。幸い日本にはそれほどのイスラム教徒はいません。多民族国家ではないからです。だからといって対岸の火事ですませているわけにもいかないでしょう。まさに政府は正念場を迎えています。
しかし力と力を対立させていった時、結果は自ずと明らかです。果てしない泥沼になるのは目に見えています。アメリカはどのような報復攻撃に出るのでしょうか。空からも地上からも戦闘が広がっていくことは容易に想像できます。しかしベトナム戦争であれだけの爆弾を落としながら、アメリカは結局敗北してしまいました。
今回の正義はベトナム戦争の時とは質が違うという人もあるでしょう。しかし結果として市民が殺され、子供が傷つくのは目に見えています。かつて作家の小田実は「虫の目」ということを盛んに主張しました。空から鳥の目でみれば、ただの広い大地や草原の中にも、たくさんの虫が棲息しているのです。その彼らの目になってものを見なければ、けっして正義は見えないということです。「殺すな」というバッジをベ平連の活動に共鳴する人たちは胸につけていました。しかし今どちらの胸にそのバッジをつければいいのか。それさえも判断が難しい状況になってきています。
噂ではタリバンの少年兵達の中には孤児出身者もいると聞きます。
正義という概念そのものの判断を今や誰に委ねたらいいのでしょう。困難な時代が長く続く予感がします。

2001-09-13(木)

アメリカの大学

『なぜ宇多田ヒカルがコロンビア大学に入れるのか』(小山内大・はまの出版)を先日読みました。著者はジョージア南大学の助教授です。この中で著者はアメリカの大学はどのような仕組みになっているのかを詳しく説明しています。とにかくアメリカはなりたい者になれる国だというのが、基本的なスタンスです。またなぜノーベル賞受賞者がアメリカに集中するのかという秘密についても言及しています。
詳しいことはこの本を読んでもらうとしてその一端を少しだけ紹介しましょう。まずアメリカでは特別な勉強をすることなく、誰でも大学に入れます。さらに途中からどこにでも転校ができ、どこの大学をでたからといって、誰もあまり気にとめません。また文学部などまったくビジネスと関係のない学部は大変人気がなく、大学中退というのを学歴として認めない社会です。日本なら大学中退も一つの形ではありえます。しかしアメリカで中退は高卒を意味します。
それよりも日本の大学にはかなりはっきりとした序列があって、人々はそこで「自分の分を知る」といったような儒教的禁欲を強いられる場面さえもあります。途中で大学を平気でかわることや、難関と呼ばれている大学を蹴って、まったく無名の大学へ入学するということなど滅多にありません。
しかしアメリカではそれがごく一般的だそうです。というのも学費を親が払うという思想が全くないために、子供は奨学金をもらえる大学をまず優先します。さもないと学業を続けられない訳です。それに就職の時、出身大学を問うという姿勢がないので、わざわざ遠い奨学金のでない有名校へ通う必要はないわけです。ですから逆に無名の短大からでもハーバードへ進学する意志があれば十分可能なのです。
しかし将来どうしても学位が欲しいとなったら、俗に言われる有名校を出ておいた方が無難だということはある程度はっきりしています。しかしそれも途中でかわれる訳ですから、受験勉強のようなものはいっさい必要ありません。「リサーチ大学1」と呼ばれる有名校は今日大学院教育に熱心で、学部生には冷たいようです。アメリカでは修士号が基本で、学卒者の3分の1は進学します。成績はほとんどAかBしかつきません。もしCをつけると、教員の評価が下がります。また専攻が学部の時とかわることもよくあります。
ところで博士になるのはやはり大変で、その間生活をどう支えていくのかというのが難問中の難問です。最近ではちょっとした職業にも修士号が必要なようです。薄給で有名な教職でも修士と学卒では給料がかなり違います。また大学の教員は基本的に博士号がなければだめで、全て公募です。日本のように出身大学の学生を優遇したりすることもありません。もしそんなことをしたら、民主的でない水準の低い大学というレッテルを貼られてしまいます。
また最近では日本の大学の大学院をやめてアメリカに留学する人もかなりいると聞きました。というのも日本では序列の高い人に花を持たせるというおかしな風習があります。自分の研究テーマをそっくり主任教授にとられたという信じられないようなこともあるのです。その点アメリカは自由平等な国です。院生、講師、研究者、誰でもが自分の研究をそのまま発表できます。つまり研究の自由が保障されている訳です。教授の顔を見ながら、テーマを決める必要もありません。人間関係の桎梏がないのです。
そのかわり、他人の書いた論文を盗用したりしたら、追放され、以後研究生活は送れないという厳しさが常についてまわります。元の文の筆者、文献名、出版年などをつねに明らかにする必要があるのです。また引用できる資料も過去10~20年以前のものは受け付けないという姿勢もあります。いわゆるプレジャリズム(Plagiarism)に対する学問的な厳しさが、ある意味でアメリカの大学を支えている要素といえるのではないでしょうか。
すなわちここにノーベル賞の秘密もあるわけです。有意義な研究であることが証明されれば、東洋人であれ、黒人であれ、アメリカは排斥しません。むしろ白人以外の人がどれだけ在籍しているのかという数字が、その大学のレベルの高さとして評価される対象になるのです。
しかし日本人にとって難しいのは彼らの信じている自由の裏側にある、力に対する信奉です。警察は時にとんでもない行動に出ます。黒人に対しては特に厳しい面を持っています。大学校内に警察官が入ることはごく自然です。レイプなどの犯罪も頻繁に起こります。すなわち大学の自由と警察力の行使は表裏一体なのです。
その一方、教員は常に学生から審査される立場にあり、フレンドリーであることを要求されます。面倒な課題を与えれば、彼らの評価は下がります。ひいてはその後の待遇にも及ぶのです。ですから声を荒げて怒ることなど絶対に許されません。学生はそのことをよく知っているのです。
さらにアメリカ人は全て書いてあるもの、言ったことしか聞きません。シラバスにないことをすれば学部長に訴えられます。英語には尊敬、謙譲表現はありません。時に驚くほどストレートな物言いをしても、それがアメリカの精神なのです。ファーストネームで年上の人を呼ぶということもごく当たり前のことです。相手の立場を慮るという姿勢は全くありません。ある意味でこれに馴れることが日本人にとって一番難しいことかもしれません。つまり一朝一夕にはなかなか本当の意味での「アメリカ人」にはなれないのです。
今まで日本は長い間「タテ社会」の中で生きてきました。この表現は社会人類学者中根千枝さんの命名と言われますが、誠に見事なものです。先輩を尊重するという態度そのものは大切ですが、行き過ぎれば弊害ばかりが目立ってしまいます。一般に東洋人は序列意識を強く持つと言われています。その場での役割の中に自らの個を沈め、場と一体化することで、アイデンティティを確立する傾向が強いようです。
しかしこれも次第に変化の兆しをみせています。若い世代を中心にした地殻変動を確かに感じます。日本がこれからよりフレキシブルな社会を目指すのだとしたら、アメリカの大学像もある意味で参考になる部分があるのではないでしょうか。

2001-09-13(木)

イスラムとは何か

テロリズムが世界を席巻しています。世界貿易センタービルは聖戦を主張する人々によって、瞬時の間に瓦礫の山となりました。何人の人が犠牲になったのか、今の段階では全く不明です。一説には6千人を超えるという予想も出ています。しかし民間機をハイジャックして、それを世界規模のビルに突入させるという行為は、現実とはとても思えないものでした。まるで映画のワンシーンそのものです。あるいは大統領の声明通り、戦争と言えるでしょう。
アメリカ人作家の小説に似たようなテロの方法を扱ったものがあるという報道もありました。しかし何機もの航空機を同時にハイジャックし、それを高層ビルに真正面から激突させるという行為を平然と行うには、よほどの信念がなければできません。自爆テロの怖さは実行者たちがまさに命を神に預けているというその一点にあります。
さて今日、イスラム教徒は着実にその数を増やしています。現在世界で約6億の人がアラーを信じているとも言われています。その彼らが全て原理主義者という訳では勿論ありません。この考え方は西欧列強の侵攻や支配と、それに対抗できない伝統的体制の無力さから生まれました。しかし一般のイスラム教徒は大変穏健な人々ばかりです。だがそれにしても今回のような大事件があると、宗教とは何かということをあらためて考えてしまいます。
魂の平安を願うために存在する宗教が、多くの人を不幸にするという逆説は、やはり矛盾に満ちています。現代は民族と宗教の時代です。ほとんどの戦争がこの2つのキーワードの周辺に存在しています。こうなるとかえって宗教などない方がいいという極論さえ、出かねません。
ぼくはかつてイスラムの人の家にホームステイをしたり、また家に泊まってもらったこともあります。誠実で穏やかな人たちばかりというのがその時の印象でした。彼らは1日5回の祈りや、ラマダンなどの宗教行事をきちんと守ります。また一生に一度のメッカ巡礼のために、お金をため、晴れて巡礼の後に「ハッジ」という尊称を名前の上につけるのを楽しみにしています。お酒も飲まず、豚肉も食べません。また喜捨と呼ばれる行為にも大変心やさしいものを感じます。
つい先年、東京にも立派なモスクが出来ました。東京ジャーミーです。代々木上原から歩いて5分ぐらいのところにあります。トルコから専門の職人が来て、数年かがりで建築したとのことでした。外観はもちろん、内装も丁寧な仕上がりで、深緑の絨毯が大変美しかったです。
彼らの敬虔な祈りが、全世界を平和に導くのはいったいいつのことなのでしょうか。

2001-09-10(月)

真贋

小林秀雄の評論を読んでいると、思わず快哉を叫びたくなる瞬間があります。ことに美術品について書かれたものは大変面白いです。その中でも富岡鉄斎に関する部分は秀逸です。富岡鉄斎といえば、世にこれほど贋作の多い作家もいないそうです。それだけ多くの人が所有したいと思っているということの証しなのでしょう。彼の独特な絵の雰囲気を一度味わうと、確かに欲しくなるのかもしれません。
終戦直後、小林秀雄が『創元』という雑誌を編纂している頃、その口絵に鉄斎を入れようと思い、随分見たそうです。彼は鑑定家の友人、青山二郎が持ち込んだ絵をずっと座敷に掛けて眺めました。しかし少しも気分がよくならなかったそうです。その絵は画家梅原龍三郎までが模写したといわれている正真正銘の鉄斎だったのです。しかしいくら見ても納得のいかない彼は、あまりに拙い贋作であるために、かえって皆の目を欺いたのではないかと疑い始めます。
そこで彼は別の鑑定家に虚心坦懐になって見てくれと頼み、その作品が偽物であることを見抜きます。その後、小林は知り合いを頼り、本物の鉄斎だけを1週間もの間に250点ほど見て、さらに京都の富岡家にも泊めてもらい、そこでも鉄斎だけに浸ったのです。その結果やっと気分が晴れたという話を書いています。
古美術の世界には実際こういう話が数多いようです。
反対に一目見た瞬間、その美術品がどうしても欲しくなってしまう、いわば狐がつくといった状態もよくあると言います。しかししばらく時間がたつと、急に情熱が冷め、あとでなぜあんなものがいいと思ったのかと反省するということも、日常茶飯事のようです。
好事家と呼ばれる人達は、皆何度かこういう経験を積みながら、次第に目が肥えていくということなのでしょう。
ところで良いものばかりを見ていないと、真贋の区別はできないとよく言われます。対象物の持つ気品、時代の厚みなどを見てとることが肝要なのです。そこまでいかなければ、善し悪しはやはり分かりません。
最近は骨董ブームだと聞きます。テレビでもそうした関連の番組をよく見かけます。もともとイギリスBBC放送の内容を換骨奪胎して日本に移植した民放の番組も、随分長く続いています。よほど好評なのでしょう。なかでも本物だと信じて持ち込んだものが、真っ赤な偽物だとわかった時の持ち主の表情は圧巻です。その反対にこんなものがと思われる掘り出し物もよくあります。全てを金銭に換算しなければ、分かった気になれない寂しさは残るものの、ユニークな番組であることにかわりはありません。
古いものに何を見るのか、それは人さまざまでしょう。しかしものの真贋を見抜く目は、容易につくれるものではありません。最後はやはり心の問題に帰着するのでしょうか。

2001-09-10(月)

ある女性像

小説は風俗を表現した部分から腐るとよく言われます。実際、ぼく達の生活を取り巻く環境は、想像以上のはやさで日々変化しています。ものの値段や、着るもの、食べもの、乗り物などどれ一つをとってみても以前とは大きく違います。その点、時代小説の方が書き手にとってかえって楽なのかも知れません。
さて最近、遠藤周作の『私が棄てた女』を読む機会がありました。この作品はかなり以前映画で見た記憶があります。暗い作品だというのがその時の印象でした。しかし今回ページをめくりながら、内容以前に、描かれている社会風俗そのものの変化を強く実感として感じました。ぼく達の生活は本当に大きく変わってしまっています。描写になじめないところがあるのは、仕方のないことなのかもしれません。
ストーリーは大学生の遊び相手にされた女工、森田ミツをめぐる話です。女工という表現にはそれだけでもう時代を感じてしまいます。中学を卒業してすぐに小さな町工場に就職したミツは、大学生吉岡努に声をかけられたということだけで、もう有頂天です。漢字をいくつも間違えた手紙を男に送ります。結果は最初から明らかでした。
彼女は結局吉岡に捨てられてしまいます。ショックから会社を辞め、職を転々としたミツはやがて水商売に入ります。しかしすさんだ生活の中でも、男のことが忘れられません。
ある日、腕に奇妙な斑点ができたりすることから医者の診断を仰ぐと、ハンセン病と診断されます。彼女は一度御殿場の病院に隔離されるものの、誤診であったことが判明し、再び自由を得ます。しかしミツは自分からその病院に戻り院内の手伝いをするようになりました。献身的な修道女達の姿を自分の目で見たことと、同じ病棟にいた仲間達への憐憫の情が断ち切れなかったからです。
修道女たちにとっても彼女の決心は奇特なものにうつりました。ところがミツはある日、園内でとれた卵を配達している途中、車に轢かれて亡くなってしまいます。卵を大切に思う一心の事故でした。誠にあっけない死だったのです。
その彼女が最後まで口にしていたのが、最初から遊ぶつもりでつきあった大学生吉岡努への真摯な愛情でした。そのことをミツの知り合いを通じて偶然耳にした吉岡は、完膚なきまでに打ちのめされるという話です。
この小説にはデートの場所として下北沢が登場します。しかし現在の様子からは想像もできないうらぶれた街の様子が描かれているだけです。まさに社会の変化を感じる瞬間です。駅前の様子など、現在の賑わいからは想像もできない記述が続きます。
ところでこの小説の真骨頂はどこにあるのでしょうか。それはまさに森田ミツという存在そのものの中にあります。すなわち彼女の持っていた「聖性」にあるのです。遊ぶために女の心を弄んだ男は、その故に人間としての存在を否定されます。それは彼女があまりにも無垢で純真だったからです。どんな仕事に身を染めた後でも、彼女の心は澄んで清らかでした。そのことが男の心の汚れを逆に鋭く炙り出していきます。
この作品がどこまで成功したものかは別として、ここには遠藤周作が他の作品でも追求した宗教的愛とは何かという問題が色濃く反映しています。ぼくには森田ミツの造形が聖母マリアの影を限りなく反映しているものに思われてなりませんでした。今もこのような女性が存在するのかと問われれば、形は違うにせよ、いるとぼくは思います。

2001-09-10(月)

法隆寺を支えた木

最後の宮大工と言われた西岡常一が亡くなってかなりの歳月がたちました。彼の著書『法隆寺を支えた木』を読んだのは、もう15年以上も前のことです。この本は、ぼくにとって興味深いというだけでなく、人間の生き方を示す手本ともなりました。それまで木というものは皆材木にしてしまえば同じだとばかり思っていたのです。しかし西岡は一本の木にはそれぞれの歴史があると言います。
すなわち、どのように太陽があたっていたのか、どこから風が吹いていたのかによって、木はその成長の仕方をかえます。自然にねじれが生じるのです。特に北に向いていたものと南に向いていたものは、繊維の組成までが違うそうです。そのままもし同じ方向で使ってしまうと、必ず傾いていきます。北向きの繊維は密度が濃く、しまっているのです。反対に南向きの部分は組成が荒く、柔らかくできています。それを防ぐためにそれぞれの成長していた方向と逆に組み合わせるという方法をとるのです。このことは人間の組織や編成にも応用できる方法論かもしれません。
奈良に生まれた西岡は宮大工だった祖父に連れられ、毎日法隆寺を眺めにいきました。祖父は自分の仕事場に少年だった彼を伴い、その場から動くことを許しませんでした。
その後、祖父の意志で農業高校に入った彼は、自然への畏れを身体にいやと言うほどたたき込まれます。机上の理論だけでいい米はとれないということを学ぶのです。高校卒業後、西岡はとうとう宮大工になる決心をします。祖父の熱意に応える気持になったに違いありません。
ところでぼく達の家は普通数十年という単位で建て直していきます。俗に家は上ものと呼ばれ、不動産である土地とは全く価値意識が違うのです。しかし法隆寺などの寺社建築は最低千年の寿命を考えてたてられています。その規模の壮大さを想像することはほとんど不可能に近いのではないでしょうか。
現在の法隆寺は実に千三百年前の建築物です。その間、どんな地震にも揺らぐことはありませんでした。昭和の大修理を引き受けた西岡は、檜という木材の持つ力に圧倒されます。建築物を一つ一つ分解していくと、全く損傷のない檜材が目の前にあらわれたのです。剥がしたばかりの板はその場ではじき返すだけの弾力を持っていました。
千三百年を生きる檜は当然樹齢が同じ程度のものでなくてはなりません。しかし現在の日本にそれだけの木はもうないのです。彼が薬師寺の西塔建立を目指した時、木材は全て台湾から輸入しなければなりませんでした。おそらくこの仕事が西岡常一畢生の大事業だったと思われます。
その間病気にかかり闘病生活を余儀なくさせられました。しかしなんとか千年後に残る塔をたてたいという意志が彼を立ち直らせました。現在薬師寺の西塔は東塔に比べて30センチ以上、基壇が高いそうです。しかしこれも千年の後には同じ高さになると言います。彼は鉄製の釘を使うことを最後まで拒否しました。鉄は必ず錆び、そこから木が腐っていくからです。
今から2年程前、家族で法隆寺を訪れたことがあります。奈良は京都に比べればやはり鄙びた土地です。しかし飛鳥の建築物はその線も形も、京都とは違う味わいを持っています。なかでも五重塔は出色でした。しばらく見上げたまま、言葉もありませんでした。一本の木が千三百年の間、塔を支えているという事実はやはり重いです。
西岡家は彼を最後に宮大工を輩出することをやめてしまいました。しかし彼を生前慕った幾多の弟子によって、宮大工西岡常一の魂は今も生きているのです。

2001-08-28(火)

科挙という試験

考えてみれば人生は試験の連続かもしれません。ぼく自身、今までいったいいくつの試験を受けてきたことでしょう。そこそこ努力はしたつもりですが、たいていの試験に失敗しています。その中の幾つかに合格し、なんとか今生きているというのが実感です。
しかしお隣の中国は途方もない試験をずっとごく最近まで行っていました。科挙がそれです。科挙とは清末まで行われていた官吏登用試験のことです。隋、唐の時代に制定され、四書五経を基本にしたものです。これを真似して行われているのが、形は違いますが、現在の日本で行われている国家公務員上級試験、いわゆるキャリアの試験です。合格した後の出世のはやさも科挙にどこか似通っています。
もちろん、中国のそれは全く想像を絶するような苛酷なものでした。多くの優秀な子供達は小さな頃から科挙の試験を目指して勉強させられます。村をあげて優秀な子を育てるということもありました。年齢制限がないため、悲劇もたくさん生まれたのです。
さて最初の関門は県試(童試)、府試、さらに院試です。これに合格して、はじめて科挙の本試験に進む資格が与えられます。ここで不逮捕特権まで手に入れられるのです。すなわち官吏の末席に連なるというわけです。
ところで院試の合格は捷報という劇的な方法で行われます。府城の早馬が2通の捷報を携えてその家を訪れ、合格を告げるのです。ここからがいよいよ科挙の本番となります。さらに郷試、順天会試、最後に皇帝の前で行われる殿試へと続くのです。
郷試に合格するとその名は龍虎榜に連ねられます。大変名誉なことなのです。中島敦の『山月記』に出てくる主人公李徴は若くして名を虎榜に連ねたとありますから、よほど優秀な人だったということが、それからも推察されます。
さて、順天会試は3年に1度、首都に郷試合格者だけを集めて行われました。巨大な問題用紙にまず目を通すだけで大変なことです。試験は独房のようなところで何日にもわたって行われます。その間、退出は許されません。食事、夜具など全て持参するのです。第1日目の試験は「四書」から3問、1題につき700字以内で解答します。そして主題と音韻を指定した詩作が1篇です。
答案用紙は下書き用が7面、清書用が14面、1冊に閉じてあります。答案用紙に使う文章は唐以来の八股文と呼ばれるもので古典に通じていないと、全く歯がたちません。さらには少しでも答案を汚したらそれ以後の解答は無効になります。
この試験では発狂者、死者も少なからず出ました。最初の3日2晩の試験はこうして終わるのです。さらに会試第二場がすぐに始まります。5問の経題を3日2晩で終え、さらにまた会試第三場に臨みます。
こうして全科目が終わるのは実に9日後という苛酷な試験がやっと幕を閉じます。2万人受験して200人合格という100倍の試験です。ここを通過した者だけが、進士と呼ばれ最後に皇帝の前で行われる殿試に臨めるわけです。
なんと壮大で、ある意味ばかばかしい試験を中国は続けていたことでしょう。こんな試験を行ったのは、後にも先にもこの国だけです。まったく不思議な熱意としか呼べないようなものが、中国にはあるようです。試験には儒教の43万語に及ぶ文字を全て暗記するだけではなく、詩をつくる才能も必要でした。またレトリックもきちんとできていなければ、不合格です。最初と最後に書く文章や文字、行がえの仕方なども全て決まっています。
ところで、この答案を読む作業もまたとんでもないものでした。全ての答案をまず赤で写し直し、もしミスがあったらさらに黄色で校正し、名前は全て伏せ、最後に採点官に回されたのです。そのために数千人の人が毎日、答案を写す作業だけに没頭しました。
採点官は4人。全員が合格と認めなければ、不合格です。この後に続く殿試でその順位が決められ、ポストが配分されていくのです。こんなことをしていたから阿片戦争が起こったのかもしれません。いいように列強に国を蝕まれたのかもしれないのです。
科挙については宮崎市定の『科挙』(中公新書)が一番読みやすいです。中に面白いカンニングの実例なども紹介されています。どうやらカンニングは古今東西不滅なもののようです。下着にびっしりと文字を書き込んだりして、本当に涙ぐましいものがあります。
さて中国にあって、日本になかったもの、それは宦官制度です。さすがの日本人もこれだけは学びませんでした。なぜなのでしょうか。
この話はまた後日ということにしておきます。

2070-01-01(木)

鎌倉ふたたび

学生の頃、よく鎌倉へ行きました。京都の公家文化とは違う、鎌倉特有の落ち着きが好きだったからです。やはり武家の質実剛健と禅の香りがよかったからでしょう。
いつも必ず材木座海岸近くのユースホステルに泊まりました。値段も格安で学生には本当にありがたい存在でした。一日歩き続けると本当に疲れます。それでも時には江ノ電に乗りながら、やはり自分の足で歩きたいのです。
鎌倉は歩く町です。報国寺の竹はいつもさわやかでした。杉本寺の階段をのぼると、よく猫が居眠りをしていたものです。秋は鎌倉にとってもっとも華やかな季節です。
どんな細い道にも花が咲いています。切り通しの魅力も鎌倉ならではのものです。道の突き当たりに真っ赤な彼岸花が咲いているのを見て、不思議な気分になります。なぜか鎌倉にこの花はよく似合います。死者がたくさん土の下に眠っている気がする土地なのです。
材木座の朝はさわやかです。朝の空気は静かで凪いでいます。潮騒も聞こえます。長谷の観音までは歩いてもすぐでした。水子の霊を祀るという小さなお地蔵さんがたくさん階段に置いてあります。誰がこんなに子供を殺してしまうのかと思いながら、階段を上っていくと、観音様は大きくて静かです。いつもずっと遠くを見つめています。立像としてはこれほどに大きなものはないと聞きました。ここの境内は好きな場所の一つです。高台にあって海も見えるからでしょうか。心が落ち着きます。
さらにもう少し歩いて大仏へというのが、朝のコースです。いつぞやはここで知り合いの写真屋さんに会いました。小学校の遠足だということでした。そういえばぼくにもそんな写真が残っています。
ここからさらに歩いて、大仏裏の階段をずっとのぼります。かなり嶮しい山道に入り、山越えということになるのです。ずっと歩いて源氏山公園に着く頃には、かなり疲れます。だらだら坂を下って銭洗い弁天へおりていくのもよし、北鎌倉へ出るのもよし、どちらもいいコースです。山道を歩きながら、すばらしい家々を拝見するのもまた鎌倉の楽しみです。
本当に立派な家がたっています。どんな人が住んでいるのか、いつも想像をたくましくしてしまいます。文人墨客が好んで住むといわれるこの地には、やはり何かがあるのでしょう。立原正秋の小説を読んでいると、また鎌倉かと思わされるほど、この土地ばかりが出てきます。八幡様から出て鎌倉彫の店へ入ろうとする主人公は、そこで目の覚めるような美人に遭遇したりするのです。
しかしそんなことがあってもいいなと思わせるからやはり鎌倉なのでしょう。小林秀雄もこの地からでることはありませんでした。美術館もあり、アカデミーもあり、文化の香りはつきるところがありません。
また北鎌倉から歩き出すと、全く鎌倉も味わいが違ってきます。東慶寺のたたずまいも大変素晴らしいです。坂のようになった境内には本当にたくさんの墓があり、人の魂が安らいでいるのを感じます。作家や詩人達の墓を見るとき、それぞれがなんともいえない様子で、特に自分の存在をひけらかすわけでもなく、本当にひっそりとしていることに驚かされます。
死んだ人はよっぽど生きている人間より静かなものだとしみじみ感じてしまう瞬間なのです。ここからあじさい寺や寿福寺、さらにいくつもの寺を巡りながら鎌倉駅まで戻るのもいいでしょう。
鎌倉の魅力は禅の文化です。静謐な悟りを要求します。
かつて源実朝はここの海から船をしたてて渡海を試みたと言われています。世に言う「実朝出帆」です。彼は僧、陳和卿に勧められて何を海の彼方に見ようとしたのでしょう。詩人であった実朝にはきっと見たいものがあったはずです。
鎌倉は海と山に囲まれた豊穣な土地です。円覚寺の山門をみながら家路につく頃、必ず秋のうちにもう一度来ようといつも心深く決めてしまうのです。

2001-08-21(火)

メリル・ストリープの魅力

昨日、偶然に女優メリル・ストリープのインタビュー番組をみる機会がありました。彼女の演技観を俳優や、脚本家志望の学生の前で披露したものです。ぼくにとって一番印象的だったのは、魂という表現を何度も使う彼女の横顔でした。過去にアカデミー賞をとっている大女優というより、それは表現者の苦悩や喜びを示すという側面が強かったように思います。
彼女はどんな台本をもらった時でも、まずその役の内面が自分の中に存在するのかどうかを確認すると言います。その役柄の中に入っていけるかどうかを検証するのです。どのような性格の人物も必ず自分の中に存在するといいます。そしてあまり脚本だけにとらわれず、その役柄になっていくのです。多くの相手役は彼女が撮影に入る前には、その役になりきってしまっていると証言していました。仇役の時には本当に憎悪の感情が垣間見えるとのことです。
ぼくが彼女の映画で一番強く記憶に残っているのは、なんといっても『クレイマー・クレイマー』です。この作品はその年のアカデミー賞を獲得した代表作です。当時家族というもの、父と母というものの不確かさが言われ始めていました。その頃、彼女は親友に死なれ、精神的にかなり落ち込んでいたのだそうです。
それを知ったダスティン・ホフマンは相手役に彼女を指名しました。その神経の不確かさが役にあっていると思ったのでしょうか。もちろん、それだけが理由ではないでしょう。彼女の演技に、以前から注目していたに違いないのです。
作品の中で裁判に勝った妻は、それでも子供を夫に預けて家を去ります。裁判のシーンは彼女自身が全て脚本を書いたといっていました。たった3行だけしか監督はけずらなかったそうです。
俳優という仕事は多くの人格を使い分ける神の領域にいます。それだけにちょっとした一言で自信をくつがえされることも多いと語っていました。『ソフィーの選択』ではポーランド語の学校へ通い、家庭教師をつけ、わざとたどたどしい英語の話し方を学びました。母国語でない人の話し方をどのようにすればいいのか悩んだそうです。
彼女は奨学金をもらいながら大学院で演劇学を学び、『令嬢ジュリー』や『カラマーゾフの兄弟』など多くの芝居に主演しました。しかし演劇と映画は全く違うものだと言います。映画では俳優の演技も大切ですが、その背後にある沈黙した時間や背景が最も大切だそうです。そこがある意味では空間を大きく移動することのできない芝居との差だと言います。
子供4人を育て、25本の映画に出演した彼女はまもなく50才になります。しかしその話し方はユーモアに溢れ、後から学ぶ俳優や脚本家志望の人たちに対しても大変あたたかいものでした。話が核心に触れると、時に沈黙し、どうやったら本当に言いたいことを表現できるのかと悩む姿には真摯なものを感じました。あまりにも粗製濫造の気味がある昨今の日本の芸能界を見るとき、確かな手応えを感じさせる俳優には、やはり一本芯が通っています。
自分の中に全ての役柄の要素が宿っていると説明するとする女優メリル・ストリープはこれからも多くの作品に出演して、ぼく達に感動を与えてくれることでしょう。本当に生身の彼女は素敵な可愛い人です。一瞬にみせる表情には、はっとするような力強さと光沢があります。『ミュージック・オブ・ハート』でバイオリン奏者の役の時にはずっと楽器の稽古を続け、スコットランドの古いダンスを踊る役では、それだけを必死に練習したそうです。
芝居の中に宿る神は、謙虚と集中をつねに要求するものなのかもしれません。

2001-08-21(火)

向田邦子のこと

今日、台風が来るというので、なんとなく向田邦子のことを思い出しました。彼女が飛行機事故で死んでから何年の歳月が流れたのでしょうか。本当に惜しまれた才能の人です。風のように逝ってしまいました。死後すぐに出た雑誌「クロワッサン」を今でもずっととってあります。追悼号です。彼女が妹さんにさせていた一膳飯屋「ままや」の様子や、うまいものだけの包装紙をとっておいたという「う」という名前の抽斗など、なつかしい写真で構成されています。
また彼女が密かに思慕していたという男性への手紙など、幾つかが公開されています。
彼女はテレビの台本から次第にエッセイに手を染め、最後は小説を書きました。台風の話は父親の思い出の中に綴られているものです。
少し前、どの家の窓も今のように機密性の高いものではありませんでした。そこで台風が来るというと、父親の出番になったのです。窓や雨戸の外から、長い材木を斜めに打ち付けて、台風の風をよける準備をしました。どの家でもこの時は男としての父に期待したのです。もちろんヒューズやろうそくなどの準備もしておかなくてはいけません。
母親は食事です。おにぎりをいつもより余計につくり、いつ台風が来て停電になってもいいだけの支度をしました。子供達はそうした親の姿に庇護されることの喜びと、大人の知恵、確かさを感じたものでした。
彼女のエッセイは台風が来るという日の心の躍動感をありのままに表現したものです。戦前から戦後にかけてのごく平均的な日本人の家族像が見事に描かれています。普段はうだつのあがらないサラリーマンである父が、急に頼もしく見えるという記述には、リアリティーがあります。
ところで数ヶ月前の月刊「文藝春秋」には向田邦子の遺書という特集がありました。読んだ方も多いことでしょう。ここには彼女の長女としての一面が大変よく出ていました。妹と弟に対して、どのように遺産を配分するかという心配りです。とくに彼女が心配していたのは、あまり世渡り上手とはいえない弟さんだったようです。具体的な金額などを載せて、実に的確な分配をしています。妹さんはこれを公表することには最初かなり抵抗があったと書いています。しかし時が流れたということでしょうか。
向田邦子が得意としていた時代背景は今や、過去のものとなろうとしています。しかし時々思い出したように、彼女の作品がドラマ化されるところをみていると、人間の中身はいつの時代も変化がないものだと確信します。
テレビでいえば彼女の作品でもっとも成功したのは久世光彦が演出した「寺内貫太郎一家」でしょう。しかし内容の密度からいえば、断然「阿修羅の如く」です。これはNHKの和田勉が演出しました。その時、BGMとして使われたトルコの軍楽隊の音楽が、ぼくの耳の中で今でも鳴っています。男のだらしなさと哀しみがよく出ていました。そしてそれを支える家族の絆の強さともろさもです。
小説『思い出トランプ』、エッセイ『父の詫び状』『眠る盃』などどれを読んでも、うならされます。なんということもない日常を描かせたら、彼女の右に出るものはいませんでした。本当に何もかもをよく見ていた人です。彼女の出身大学、実践女子には「向田邦子学」という講座があると聞いたことがあります。もちろん、彼女についての蔵書、研究書も自慢のものだそうです。
善人は早や死にをすると言います。才能も同じでしょうか。

2001-08-16(木)

水と安全

イザヤベンダサンこと、評論家・山本七平の文化論『日本人とユダヤ人』の中には有名な論証があります。「日本人は水と安全だけはただだと長い間思い続けてきた民族である」というのがそれです。
島国であるこの国は、外国から攻撃されたという歴史をほとんど持っていません。元寇と呼ばれる戦いの時にも神風が吹いて、窮地に陥ることはありませんでした。それが明治以後、軍部の台頭を許した下地にもなっています。
戦後はアメリカの巧妙な戦略の中に、日本も喜んですりよっていきました。安保体制の元、安全はさておいて、経済一直線の時代が長く続きました。イラン・イラク戦争によってPKO、PKF活動が国連から要請されるまで、日本は長い間好んでカヤの外にいたのです。その代償がODAであったといえるでしょう。全国民一人あたり1万円という額はけっして少なくはありません。その結果、インドネシアは日本からの供与がなければ、国が崩壊してしまうところまできています。
ところで水はどうでしょう。最近ではペットボトルで水を飲む人の姿も珍しいものではなくなりました。ヨーロッパなどではカルシウム分が多く、とても飲めるものではありません。だが幸い日本は瑞穂の国と呼ばれ、水だけはただで供給されてきたのです。
しかしそれも今は過去の話なのでしょうか。最近ではスーパーで水を量り売りするところもあると聞きました。これが口コミでひろがり、来客数も増えているということです。コーヒーをわかすためにというのならわかりますが、これがペットのためとか、洗顔用ということになってくると、もう常識では理解不能です。
かつてJRは谷川岳の豊富な湧き水を天然水として、キオスクや自動販売機で売り、大ヒットを飛ばしました。あの頃は民営化したJRを象徴する話として、聞いたものです。
日本人の生活は変わりました。価値観も今や大きく変貌しています。
安全も警備保障会社に守ってもらう時代になりました。長嶋茂雄の登場する「セコムしてますか」というコマーシャルはその象徴的なものでしょう。ピッキング強盗に対処するため、鍵を付け替えた家が多いとも聞きました。
また社民党の提唱する非武装中立というテーゼにも多くの人が疑問符を投げる時代になりました。自民党ではなく、野党民主党の党首までが憲法改正を主張しているのです。基軸をどこに据えるのか。今ほど日本がためされている時はありません。
パレスチナとイスラエルについて、現地で長い間活動しているNGOの方に話を聞く機会がありました。それによれば日本で報道されることはごく一部に過ぎず、パレスチナ難民の生活は悲惨の一語につきるようです。
安全がただであったことのないユダヤ人は、今の日本をどのようにみているのでしょうか。大変気になるところです。

2001-08-16(木)

医学はどこへ

今日の新聞にHIVに感染した男性からウィルスだけを除去し、その後体外受精に成功したという話題が載っていました。今回の処置は血友病患者でエイズに感染してしまった男性に施されたものです。夫の精液から当該ウィルスだけを除去し、体外で人工授精させたのは日本でも初めてのケースだそうです。新潟大学のこの試みは、さきに鳥取大病院で行われたレベルを一歩進め、体外での妊娠も可能にしたという画期的なものだと新聞にはありました。
ウィルスの除去法についてはさきに荻窪病院と慶応大学が開発したということです。試験管内に、ある物質を注入し、さらに遠心分離器に入れて精子、不純物、リンパ球、ウィルスを分離するのです。
それを母親の胎内で受精させた例が鳥取大病院のもので、今回は体外受精だというところが最大のポイントのようです。それにしても医学の進歩のはやさにはただただ驚かされてしまいます。エイズの診断が下った瞬間に妊娠を諦めるのが当然のことであったのにもかかわらず、それが可能になるケースも出てきたのです。
自分の子孫をつくりたいというのは、生物にとってごく自然なことです。もちろん人間の場合は個人の感情が優先しますが、やはり子供がどうしても欲しい人にとっては福音です。この例をさらに進めれば、代理出産の可能性も十分出てきます。いったい医学はどこへ進もうとしているのでしょう。
ところでこのところ、賑やかなのはなんといってもクローンの研究です。牛やラットなどはごく自然に行われ、あとは人間の誕生を待つばかりです。生命倫理の問題は考え始めると、全く結論の出ない荒野へ踏み出してしまいます。
科学者としてはどうしてもやってみたいという衝動に駆られるのでしょう。それは原子爆弾の開発とよく似ています。倫理という目に見えないものと、現実の科学との狭間で、医学はどこへ向かっていくのでしょう。いくら人間のクローン化実験をやめようといっても、現実にはやはり進んでいくのではないでしょうか。自分の力を試してみたいと思う科学技術者は存在します。もちろんさまざまな欲望が、そこには跋扈するはずです。
願わくば、生命倫理に関する委員会が効果的に機能を発揮することを祈りたいものです。しかし国家や民族がかわれば、倫理も変化します。原爆開発も核拡散防止条約が十分に抑止力を発揮しているとは言い難い状況にあります。今後、生命に関する問題はだれもが深く関わらざるを得ないテーマに発展していくに違いありません。

2001-07-30(月)

面達のキーワード

『面接の達人』といえば、学生にとってはバイブルのような本です。今や「日経新聞」「インターネット」『面達』はさしずめ三種の神器というところでしょうか。さらに付け加えるとすればリクルートスーツでしょう。夏の暑い盛り、女子大生がスーツを着て歩いているのをみると、本当に頭がさがります。男子が一段落し、今は女子の出番です。
就職というのは学生にとってやはり大きな意味を持ちます。いくら終身雇用がくずれたといっても、社会への最初の一歩は慎重に決めなければいけません。先輩を頼り、就職課に相談し、メールを送ったりと本当に毎日忙しいことです。ぼく自身はマスコミ志向だったこともあり、会社訪問をしたことがないのでよくわかりませんが、さぞや神経をすり減らすことでしょう。
採用担当者たちはきまって、大学のブランド名にはこだわらず、個性派を揃えたいと言います。しかし、ホンネとは少々違うところもあるようです。あるいは試験をしてみると、やはり使える大学とそうでないところがあるということなのかもしれません。
さて、今年のキーワードは何かと考えていたら、日経の就職ニュースにこんな記事が載っていました。それは「かきくけこ」プラス「ね」が今年のトレンドだというものです。
現代を一言で表現するのは誰にとっても難しいことです。しかしマスメディアはよくこういう省略を好みます。すなわち、「環境」「規制緩和」「グローバル化」「景気」「高齢化社会」それにプラスして「ネット社会」ということです。これらは次の時代を見据えたキーワードでもあります。この一つ一つに対して、自分なりの表現ができれば、それは時代にかなり深くコミットしているといえるでしょう。というよりここにあげられたテーマは今後もぼく達をずっと悩まし続けるものだと言えます。
環境は京都議定書の批准になんとかこぎつけられるかどうかというレベルで、EUはアメリカに大幅な譲歩をしました。規制緩和も日本では輸入に絡んで深刻です。タオル業界もついに悲鳴をあげ、今や電気メーカーは中国製に追い落とされようとしています。松下、ソニー、富士通、NECの緊急なリストラはその典型だといえるでしょう。
また高齢化の波はとどまるところがありません。介護保険、年金は今のペースでいくと近い将来、支払い不能になります。つまり今のままでは破綻するのが明らかです。景気も株価の低迷で全く見込みがたちません。
何もかもが地球規模で動きます。それを支えるのはネット社会でしょう。メールは国境を数秒で超え、情報があらゆる場所にしみこんでいきます。こんな時代が来るとは予想もつきませんでした。誰もが発信者であり、受信者です。
しかしアメリカにおけるITの地盤沈下は想像以上のものがあります。光ファイバーをアメリカ全土に地中深く埋めようとした「ノーテル」のようなガリバー型企業でさえ、不況に見舞われ株価は低迷しています。これもネット社会の一面です。
さて面接の達人になるために何が一番大切なのか。そのことをここでもう一度考えてみなければなりません。実はぼくも何度か面接官をしたことがある経験から言えば、「立て板に水」式の発言はそれほど高く評価されることはありません。すなわち「ハッタリ」はそうそうきかないのです。最後はやはり人間性です。視線、話し方、雰囲気、身だしなみへの配慮も当然必要でしょう。しかし最後はあたりまえのことですが、その人にお金を払う会社の立場にたつことです。
自分から仕事をしてくれる人なのか、将来を背負える人なのか、独創性を持っているのか、協調性があるのか。人を選ぶ観点はいろいろとあるはずです。そのどれかを強調していくことで、自分も成長し会社も伸びるという安心感を面接官に与えられるかにかかっていると言えるでしょう。
就職は結婚とは違います。会社は「利益」というシビアな尺度で結びつく非情の世界です。日本には今まで家族型の会社が多かったのも事実です。しかしこれからは「利益」追求という会社自身のもっている本質をつきつけてくる機会がますます増えるはずです。今までなら「見合い結婚」のようなものだといえました。しかし今はもう無理です。

2001-07-24(火)

自立への道

今日、NHKで放送された「未来への教室」を見ながら、感じることがいくつもありました。これはアメリカで学位をとった経済学者で後に祖国バングラデシュのために銀行を設立したムハマド・ユヌス氏の足跡を紹介した番組です。彼が自分で高校生達に解説を加えながら、どのようにして祖国をこれからより豊かな国にしていくのか、という大きな課題をともに考えていこうとするものでした。
バングラデシュはパキスタンから独立したものの、世界最貧国の一つからいまだに抜け出ることができません。農業以外に主要な産業がないのです。農民達はわずかなお金にも不自由し、1タカ(2円)の現金ももっていない時代が続きました。飢餓で苦しむ人たちが大勢いたのです。ブローカー達は農民が作る竹かごや陶器などを安く買う一方で、利息の高い貸し付けをずっと続けていました。
字も書けない多くの女性達は貧困の中で日常を過ごす以外に手はありませんでした。そこでユヌス氏は実際、彼らがいくらあれば自立できるのか調べたのです。その結果、わずか10タカで材料を仕入れ、それを独自のルートで販売できるということを知ります。銀行にかけあって金をかり、それを農民に貸し、回収してみてもやはり銀行は農民を信用しようとはしませんでした。
大学で経済を教えていた彼は、自己矛盾に陥ります。自分が教えている経済学と現実とのギャップがあまりにも大きすぎたのです。
そこで彼は決心をして、学生達と調査に乗り出します。その結果から必ず貸した金が回収できるという自信を持ち、自ら最も貧しい人たちのための銀行を設立します。その名もグラミン銀行です。グラミンとは農民のことだそうです。もちろん土地を持っている人には貸しません。5人で一つのグループをつくり、連帯の環を広げていったのです。
その結果、最初に500タカを借りて、陶器の製造を始めた人、竹かごの材料を買った人などがいました。現金を渡すとき、彼らの手は電気が走ったように震えていたといいます。それまでの人生でみたことのない金額のお金だったのです。
多くの女性達は家族のしがらみの中でただ黙々と働くだけでした。しかしそれでも苦しい状況は改善されなかったのです。アジアの女性達は本当によく働きます。彼らに国の未来がかかっているといっても過言ではありません。子供の教育も女性達に負うところが大きいのです。
銀行の融資のおかげで短大や、大学へ行ける家も増えました。その彼らの中からグラミン銀行へ勤めたいという若者も出てきています。日本円にして1万円を見たことのない人たちが大半だという国を想像できるでしょうか。ぼく達にとって、それはひょっとすると一日のアルバイト代かもしれません。しかし世界は広いのです。彼らはその国に生まれた故に、貧困の循環から出られません。
もしぼくがたとえばバングラデシュに生まれたとしたら、どうなっていたのか。それを今想像するのは大変難しいことです。当然学校へ行くことも困難だったでしょう。教育は貧困の連鎖を断ち切る最大の武器です。しかしそれも学費が払えなければ、かないません。
多分、親の暮らしを再び同じように繰り返すしかなかったでしょう。文字など書けなかったかもしれません。何か矛盾があっても疑問など持つ能力がなかったかもしれません。しかしその方が幸せなのだというのは、先進国で安楽な生活をしている人間の奢った考え方です。
他の国からの援助ももちろん大切です。しかしそれだけでいいというものではありません。いつも自助が必要です。その国の人たちが自立の契機を常にみつけなければ、援助は砂漠にまいた水と同じです。ITをきっかけにして、次々と新しい戦略を練るアジアの国が増えました。インドなどはその代表といってもいいでしょう。アセアンの中も中国の台頭を経て、一枚岩ではありません。
先日もマレーシアのマハティール首相は日本は今、アジアの目標にはならないと明言していました。かつてルック・イースト政策を提唱し、日本を目指していた国からも今や疑問が多く寄せられています。
日本も難しいところにさしかかっています。
グラミン銀行をユヌス氏が設立した時のような、全く新しい視点が今どうしても必要です。

2001-07-24(火)

夏の思い出

高校3年の夏、友人の別荘へ行きました。場所は妙高高原です。数家族で共同出資をして建てたという別荘は草原の中にポツンと立っていました。友達が一人でいくのはつまらないから一緒に行かないかと誘ってくれたのです。受験勉強も思うように進まず、半分暑さにまいっていたぼくは、すぐさまこの誘いにのりました。
野尻湖はかつてナウマン象がいたという伝説の湖です。その湖畔にある木造の別荘はぼくの想像力をかきたててくれました。そこには何人もの大学生や、ぼくと同年代の高校生もいました。なかでも自由学園に通っていたN君は今まで、ぼくの周りにはいないタイプの人でした。なんでも小学校の頃からその学校に通っているとかで、文字通り自由な雰囲気を漂わせていました。
羽仁五郎夫妻が創立したというこの学校は、自由ということを第一に提唱しています。したがってカリキュラムはあるものの、それだけに深くとらわれず生徒の自主性を重んじるという態度を貫いているそうです。映画監督羽仁進と女優左幸子の娘、羽仁未央もここの卒業だと聞きました。最高学部という大学にあたるところも、無試験だそうで、当時のぼくからみると、なんともうらやましいことでした。
たまたまそこへ来た女性の一人がフルートをもっていたこともあり、ぼくはその夏、フルートの練習をすることができました。どうも楽器には相性というものがあるのかもしれません。その人のを借りて吹くと、とても澄んだいい響きがでるのです。あっという間に手の動きを覚え、自分でも気持のいい音がでるようになりました。高原の乾いた空気がよかったのでしょうか。
その後東京に戻ってぼくもフルートを買い、何度も練習をしましたが、妙高にいた時のようにいい音は出ませんでした。これも不思議な話です。
またそこへ来ていたオーナーの娘、Tさんはぼくと同い年でした。都心の都立高校に通う彼女は、受験に備え勉強していました。とにかく現役でどこか農学部へ入りたいというのが彼女の希望でした。当時なかなか現役合格は難しかったのです。しかし彼女はあせることもなくいつもマイペースでした。その姿はぼくとは全く違うもので、なるほどこういう方法もあるのだと感心したものです。
また大学生も何人か来ていました。いずれも優秀な人で、その時の会話の幾つかはいまでもぼくの中に残っています。というより彼らの持っていた雰囲気、気配は、ああ大学生は本当に大人なんだなと感じさせるに十分でした。二人とも4年生で一人は就職、一人は大学院への進学が決まっていました。彼らに教えられて、ぼくもはじめて水上スキーをやりました。ボートにひっぱられ水上にあがると、あとはごく自然に進みます。特に難しいということはありませんでした。とっても気持のいい波しぶきが顔にあたってははじけ散りました。
やがて夏が終わる頃、ほとんどの人はそれぞれの場所へ帰っていきました。残ったのはぼくと友人とオーナーの娘、Tさんでした。少しお金が余ったからレストランへ行こうということで、ぼく達は湖畔にあるしゃれたフランス料理のレストランを訪ねました。受験生のわりには随分優雅な時間を過ごしたものです。
その後Tさんとは何度か東京でも会いました。しかしあれから既に30年以上がたっています。今はどこで何をしているのでしょう。一度顔をあわせてあれ以後の生活について話をしたいものです。
ぼくにとって妙高の夏は大切な青春の1ページです。

2001-07-19(木)

コピー文化の怖さ

今やコピー文化全盛の時代です。新しい機器はかつて想像もできなかったことを次々と可能にしてくれました。文字通り世界中、コピーの氾濫です。最近はカラーコピーもごく普通のことになりました。ぼくのところへ持ち込まれるプレゼンテーションの書類などにも、大変カラフルで美しいコピーが増えています。
さらにコンピュータの世界ではCD-RW、DVD-RWのついた機種が次々と発売されています。今や自分の好きなCDを作ることはもちろん、ソフトのコピーも容易です。CD-ROMも信じられないくらい安価になりました。
マイクロソフトはさすがに業をにやして、この6月に発売し始めたオフィスXPから、特別の許可をしない限りコピーしても使えないプロテクトをソフトに組み込みました。これもある意味ではやむをえないことと思われます。そうでもしなければ、ソフトは全く売れなくなってしまいます。いくら開発投資をしても回収できない危険性さえあります。
しかしこのことが同時に新しいソフトを買う層に嫌われているという報道もありました。インストールした後にインターネットなどで認証を得るのが、なんとなく面倒くさいということでしょうか。
また将来はDVDなどのコピーも可能となり、映像ソフトの違法な大量生産も考えられます。DVDはビデオと違い劣化することがないので、いまのところ半永久的に使えます。現在は技術的に難しいようですが、しばらくすれば、それを可能にするソフトも現れ、いたちごっこになってしまう可能性もあります。
このことはもちろん音楽ソフトにも同様にあてはまります。今まではMDにコピーすることは可能でしたが、それを別のMDにはデジタル的にコピーできないシステムになっていました。これも一種のプロテクトといえるでしょう。
しかしCD-RWの出現で、この問題は簡単に突破されてしまいました。このことは今後ソフト産業にとって重大な問題となるに違いありません。ゲームソフトもCD形式のものなどは、将来コピーが可能になるかもしれません。今までも新しい技術が生まれるたびに、一つづつ問題がうまれ、業界はそれに対応してきました。もちろん、これからもその努力は続いていくでしょう。しかし技術の問題から、心の内側にまでこのテーマが忍び込んでくるとしたら、それは大変恐ろしいことです。
マスメディアは常にあらゆることに順位をつけます。それは効率ということが前面にあるからです。ある情報がつねに大衆にどの程度浸透しているのかを考える時、順位づけは必ず必要です。したがって少数派の考え方はたとえそれがすぐれたものであってもなかなか伝わりません。つねに多くの人間の考え方がコピーされ伝播するのです。第一位に輝く論理は、つねに隣の人間も知っているものです。このようにして大衆は操作され、自分の意見だと思っていたことが、他者と同じだということはよくあることです。
その日の朝、新聞で読んだことをつい誰かに自分の意見として語っているということに気づき、愕然とすることさえあります。しかし気がついているうちはまだいいのです。何も気にせずに、誰かの意見を自分のものにし始めた時から、危険な時代は始まります。まさにコピー文化の持つ最大の危機です。
自分のアイデンティティーをどう保つのか。他者との距離をどのようにとっていくのか。なんでもすぐに調べられ、すぐに語ることのできる社会だからこそ、その恐ろしさをつねに知らなくてはいけません。マスメディアの意見をそのまま自分のものにするのではなく、一度「自己」というフィルターを通す必要が常に求められる所以です。

2001-07-11(水)

基準ということ

スタンダードというものは常に変化するものです。ちょっと前までは異常だったものが、今ではまあ許されるということも、数え上げていけばキリがありません。かつて立ち食いなどということは、この国の道徳律の中にはありませんでした。ましてや、歩きながらものを食べるという文化は皆無だったのです。
しかしマグドナルドはそれを当たり前のことにしてしまいました。銀座の角に第一号店がオープンした時、炎天下、パラソルの下で立ったまま食べている若者の姿が新聞の記事になりました。それほど珍しいことだったのです。今では携帯電話をもっていることが基準です。だから公衆電話は次々と姿を消しつつあります。同様に車もクーラーも何もかもが新しい基準になっていきました。
さてぼくは毎年成人病検診を受けています。その中で必ずひっかかるのが、コレステロールの値です。現在は220を超えると二次検診の対象になります。毎年同じメンバーが同じ病院で顔をあわせます。お互いニヤっとしながら同病相憐れむという風情でしょうか。ただし今年はひっかかりませんでした。どうやらプール通いの効果があらわれたようで、随分値が下がって喜んだりしたのです。
しかしこの基準がどうやら240以下に見直されようとしています。高血圧、喫煙、肥満、糖尿病という心筋梗塞の危険要因がない場合、これでもまだ低いという医者もいるくらいです。他の危険因子がない場合、280まではいいのではないかということも言われています。コレステロールは動脈硬化の原因として、悪魔のように嫌われていますが、しかし体づくりには欠かせない「脂質」の一つなのです。
血中コレステロールが減ると、細胞の働きが鈍り、血管や組織がもろくなるという話もあります。また現在ではコレステロールの高い人はがんに強いということもわかってきました。つまり基準はかわるということです。値があまり高くなければ、薬を飲んで無理に下げる必要もないようです。
ところで京都議定書を持ち出すまでもありませんが、環境基準一つみてもそれをクリアするには並々でない努力が必要です。無理なら基準値を変えてしまうというのでは、あまりにも無策です。昨日トヨタはプジョーと技術提携をしました。これは明らかに欧州の環境基準に適合する車を作るための布石です。この開発には膨大な経費を必要とします。しかしそれをしなければ将来自動車産業が生き残る道はありません。排気ガス規制はますます厳しくなるでしょう。そこで環境先進国の技術を低コストで手にしたいトヨタの思惑が働いたのです。
基準は確かに変わります。あるいはかえなくてはなりません。今の日本をみていればそれがよくわかります。ほんの少し前まで、痛みを伴う構造改革はいやだといっていた多くの人たちは、それをある程度受け入れようとしています。そのことで自分の雇用や経済状態が悪化してもやむを得ないというところまで、意識が変わりつつあります。
しかし当然のことながら反動も大きいでしょう。この揺り戻しの繰り返しが、日本の新しい基準をおそらく作り出していくのでしょう。ブームに流されない基準とは何か、日々考えなければならないところです。

2001-07-11(水)

事実とは何か

芥川龍之介の掌編『藪の中』は大変に興味深い作品です。この小説の要はズバリ何が事実かということです。検非違使にとらえられた木こり、旅法師、媼は口々に藪の中で起こった惨劇の様子を語ります。しかしその後事件に関係した3人を呼んで話をさせると、その全ての独白の内容が全く異なり、どれが本当に起こったことかわからなくなってしまうという話です。
盗人多襄丸は確かに男を殺し、その妻を犯したと白状します。しかし最初から男を殺す意志はなかったのに、女は二人の男に恥をみせることができないから、夫を殺してくれと頼んだと言います。そこで卑怯なまねをしたくない多襄丸は男の縄をとき、太刀を持って戦いを挑みます。その結果多襄丸は必死の防戦の末、あやうく勝ったのだと告げるのです。しかしその時女はもう逃げて姿も見えなかったと付け足します。
しかし女に話を訊くと今度は全く様相が異なります。犯された自分を夫は冷たい蔑みの目で見たというのです。一緒に死んでくださいと夫にすがると、おまえなどといる気はない、殺すならさっさと殺せと叫ばれ、彼女はほとんど夢うつつのうちに夫の胸に小刀を突き刺したと告げます。
さて最後に殺された夫は巫女の口を借りて登場します。盗人に愛撫されている妻を見ながら、これほど恍惚の表情を浮かべたのをみたことがないと男は感じます。妻は確かに多襄丸に向かってどこへでも連れて行ってください、そしてあの夫を殺してくださいと懇願したというのです。その時、盗人は女の様子にあきれて夫のところへ駆け寄り、この女を殺してやろうかといいます。しかしその間に女が逃げてしまいます。そこで夫は縄をとかれ、疲れ果てた身体を起こすのです。そしてこの世の出来事に絶望し、自分から小刀を胸に刺して果てます。
たった一つの事件を違う角度からこれほど深くえぐり出した小説はそれほどありません。この話には3つの挿話があります。おそらくそれぞれの人間にとってはそれがまぎれもない事実なのでしょう。しかしだからこの話は怖いのです。どんな事件にもそれを見る角度というものがあります。各自の立場からものをみると、ぼく達が一つしかないと思いこんでいる事柄が多くの種々層をともなって突然現れます。
この小説の題は現在でもよく「真相は藪の中だ」というような使われ方をします。映画監督黒澤明はこれを『羅生門』というタイトルで映画化しました。三船敏郎、京マチ子、森雅之の熱演が光りました。この作品はベネッチア映画祭でグランプリをとり、黒澤が一躍日本映画の寵児になったのは有名な話です。
今回なぜこの話を思い出したのかというと、先日読んだ『柳田国男の民俗学』(谷川健一、岩波新書、2001年6月刊)の冒頭のところに『山の人生』のきこりの話が載っていたからです。この話は大変に有名で、西美濃の山奥で起こった実話です。
どうしようもないひもじさのあまり、子供二人がそれまで研いでいたマサカリを指さし、これで自分たちを殺してくれと父親に頼みます。それを聞いて父親は材木に仰向けになったところをほとんど無意識のうちに殺してしまったという凄惨な事件からとったものです。炭焼き小屋に夕陽がさしていたという話はとても印象的で忘れられません。
ぼくもこの作品を何度か授業で使ったことがあります。しかし事実はかなり違うということをこの本を読んではじめて知りました。後になって別の人が書いた『奥美濃よもやま話』という本で真実が明らかにされたのです。その詳細についてここでは触れませんが、動機はひもじさではなく、情状酌量を願うのに都合がいいようにと判断した取り調べ官が作った話だということです。
実際はもっと複雑な動機がそこにはあったのです。つまり、どんなに単純に見える事柄の中にも、多くの事実が存在する可能性があるということなのです。
自分の目を信じることは大切ですが、今日の情報化社会といわれる中において、実は事件のただなかにいる人が、最もその事件の全貌を知らないということはよくあることです。まさに台風の目に入ってしまうと、無風状態になるのと同じです。新聞もテレビも必ずしも事実を伝えている訳ではありません。そのことが今日、いちばん厄介な問題なのです。

2001-07-06(金)

読まれない本

詩人長田弘の最新刊『読書からはじまる』(2001年6月刊、NHK出版)を読みました。ぼくは大学時代、彼の講演を聴いたことがあります。独文出身ということで、どんな考え方をする人かとても興味がありました。あれは文学部主催の講演会でした。確か彼の他に、同じ詩人の三木卓、入沢康夫、それと小説家の黒井千次が出席していました。入沢康夫は『わが出雲、わが鎮魂』という詩集を上梓したばかりで、ひどく疲れて見え、詩を書くことは本当に大変なことなのだと強く感じました。
その中で長田弘は割合たんたんと話をしていた記憶があります。彼の作品の中には多くの詩集や、エッセイに混じって『猫に未来はない』といった童話的なものも数多く、それが横顔を他の文学者よりやさしくみせたのかもしれません。
ぼくはこの講演会の時、本当の意味で大学に入ってよかったなとしみじみ思いました。つい目の前に実作で苦しんでいる人たちの姿を見るというのは、何よりの刺激でした。それは本を読んで何かを掴み取る以上のものを与えてくれました。一言でいえば気配というものではないでしょうか。その人が独自に持っている雰囲気は、言葉以上に多くの事柄を伝えてくれるものです。
この後、黒井さんとは何度か芝居小屋で顔をあわせました。声をかけると気さくに応じてくれ、ぜひ家に遊びに来るようにと勧められました。大変芝居の好きな人で、自分でも民芸に一つ書いたと話していましたが、その頃は何かと気ぜわしくせっかくのチャンスを失ってしまいました。『時間』という彼の代表作は今、どのような評価の対象になっているのでしょうか。
さて今回、長田弘の本を読んでいて、一番面白かったのは、本は読まれないために存在するという逆説でした。数十万冊という蔵書をもった図書館を連想してみれば、この言葉の意味はすぐにわかります。つまりその中で自分が読む本はいったい何冊かということです。いくら読書好きな人でも、その数はたかが知れています。しかし読まれない本は厳然と目の前に存在し、その闇が暗ければ暗いほど、ぼく達は厳粛な気持になるのです。多くの読まれない作品があるからこそ、自分が手にとって実際に1ページ目から読んでいくという行為に重みがあるのです。その魂の静寂に心を十分傾けられる人間こそが、本当の読書をしている訳です。
本を読むことが読書なのではなく、実は自分の心の中に失いたくない言葉の蓄え場所を作り出すことが読書なのだと筆者はいいます。情報という言葉についのせられがちな昨今ですが、実は言葉の豊かさを失いつつあるのも事実です。その意味で子供の読む本にもう一度注目した方がいいと彼は主張します。
子供の本には本当に限られた言葉しか出てきません。しかしその中にどれだけ自分というものを埋め込んでいくのかということに、多くの作家達は苦心しています。すなわち豊かな言葉の響きがそこにはたくさん潜んでいるのです。
またどんな椅子に座って本を読めば一番心地よいのかという、面白い章もありました。本という手段を使えば、数千年前の哲学者にあうこともできます。人はきっと読書をする生き物なのです。読まないでいることなどできません。存在の感覚がずっと続く限り、ぼくはこれからも本を手にしていきたいと強く願っています。

2001-07-06(金)

項羽と劉邦

久しぶりに司馬遼太郎の本を再読しました。項羽と劉邦、楚漢の戦いは中国の歴史の中でも最もドラマチックなものです。今回はなぜ項羽は負けたのかという点に着目してじっくり読んでみました。劉邦は生まれも卑しいし、戦いも得意でありません。ほとんどの戦さで負けています。その彼がどうして勝てたのか、そこに一番興味がありました。
叔父の死後、全権を掌握した項羽は秦の主力軍を破ります。しかしそれより少し前に函谷関を通過し、関中に入ったのは劉邦でした。項羽の参謀范増は計略を練り、鴻門の会が実現します。このあたりは漢文の授業のハイライトでもあり、多くの人が読んだ記憶を持っていることでしょう。
一言でいえば、やはり項羽には自分を恃むところがありすぎたということでしょうか。どれほどの才能ある軍師がいても、それを十分に使い切れなかったのです。しかしなんと言っても生まれはよく、士卒に対する愛情ははかりしれないものがありました。それは虞と呼ばれた彼の愛妾にも同じように注がれたのです。ただし敵に対しては全くその一面が消えてしまうという不思議な側面も持っていました。生きたまま穴埋めにした人数も一度に20万人という単位だったといいます。
それに対して、劉邦は大きな空洞だったのかもしれません。その中には何もかもが入りました。おそらく自分自身をも含みこんで、彼の宇宙は膨張を続けたのでしょう。劉邦はなぜ自分が戦いをしてるのかさえ、時に分からなくなりました。いっそ故郷へかえって暢気に暮らしたいと何度も思ったことでしょう。しかし優秀な部下達は、自分の夢を目の前の男にかけました。とくに張良と蕭何の活躍は目立ちます。ほとんど彼等の力学の中で、劉邦は生きていたようなものです。なぜ張良自身が王として立とうとしなかったのか。そこにも不思議があります。一方の蕭何にはもともと食料の補給と法の秩序という観念しかありませんでした。
それだけ劉邦の真空が強かったということでしょうか。項羽は自分の血につながったものだけを優遇し、最後はそのことがもとで参謀范増にも去られます。戦えば必ず勝つ勇敢な楚の兵士と項羽が負ける訳はないのに、そこが歴史の面白いところです。最後は和議をして、故郷に戻ろうとする項羽を劉邦は裏切り追撃します。韓信という将軍を手にしていた劉邦の強みがいかんなく発揮されたのです。
ある夜包囲軍の中から楚の歌が聞こえてきました。項羽は数十万の兵士をあっという間に失い、最後は虞美人を自ら手にかけ、自刃して烏江のほとりで壮絶な死をとげます。このくだりは『史記』の中でももっとも詩的なところです。司馬遷が各地を訪ね、二千年の歴史を書く原動力になっていたのは、この場面ではないでしょうか。どこか『平家物語』に通じる美意識を感じさせます。滅びていくものの美は、それが雄大であればあるほど、人の心をうつものです。木曽義仲と巴御前に似た物語の系譜をついここには見てしまいます。
さて項羽の敗因は、何だったのでしょうか。その一つの要因として考えられることは食事にあったと思います。数十万の兵士に与える食べものということを常に考えていた劉邦と彼の部下蕭何。それに対して、食べ物はどこからか降ってくるか、略奪すればよいと考えていた項羽の差は歴然としています。
勇敢無比の項羽と仁徳の力だけで天下を制した劉邦。今の時代に生きていたら、どちらが覇者となるのでしょうか。他人のために命を捨ててもかまわないとする「侠」の思想など、久しぶりに新鮮でした。
ちなみに項羽がなくなったのは紀元前202年、31才の時です。

2001-06-26(火)

演歌は縁歌

星野哲郎という名前を知らなくても、「函館の女」「アンコ椿は恋の花」「涙を抱いた渡り鳥」「365歩のマーチ」「男はつらいよ」「雪椿」「夫婦坂」「兄弟舟」「昔の名前で出ています」などの作詞をした人だときけば、少しは親しみもわいてくることでしょう。先日なんの気なしに星野哲郎の人生を書いた『演歌、艶歌、援歌』(佐藤健、毎日新聞社、2001年1月発行)を読みました。
むろんぼくが大の演歌好きだという訳ではありません。時々口ずさむことはありますが、どちらかといえばフォークやジャズの方が今もしっくりきます。ではなぜこの本を読んだのかといえば、彼の歌には人生を応援する歌が多いと前から感じていたからです。とくに水前寺清子とのコンビで出された曲や、都はるみの「夫婦坂」などを耳にする時、多分この作詞家はものすごい苦労をした人なのだろうと思わせるものがありました。
その秘密を知りたくてこの本を読んだのです。案の定、周防大島に生まれ高等商船学校まで出た作詞家はその後、腎臓結核に見舞われ摘出手術をしたものの、経過は思わしくなかったそうです。その後知り合いから分けてもらったストレプトマイシンをうち続け、ほとんど寝たきりの数年間を過ごしました。その年月がどんな時にもくじけない精神力とやさしさを養ったといいます。その当時、彼に可能なことは唯一、詩を書くことだけでした。コロンビア・レコードの作詞募集に応募し、それがきっかけで作曲家船村徹と知り合います。その後クラウンにうつって、彼とのコンビで多くの歌手を育てたのは有名な話です。
これは偏見かもしれませんが、演歌はやはり肉体労働をして汗をかき、夜の街で働き、時に大声で泣く、どちらかといえばつらい境遇にいる人の魂の叫びだと思います。おそらく黒人のソウル・ミュージックに共通するものがそこにはあるでしょう。しかしホワイトカラーのサラリーマンや若い学生たちにも、古くさいといわれている演歌のメロディラインはしみこんでいるのです。新しいポップスばかりが流れるカラオケ・ルームからも時々演歌が聞こえてきます。朝鮮民謡にルーツがあると言われているこの5音階のメロディには、日本の土に長く暮らしてきたぼく達の祖先の遺伝子が宿っているのかもしれません。
ところでぼくは普段演歌を聞くことなど滅多にありません。しかしものすごく頭の中が疲れてしびれるような時、不思議に5音階のメロディが響いてくるのです。特に美空ひばりが亡くなる直前に歌った曲は、それまでのぎらぎらした衒いがなくなった分、実にいいものばかりです。「川の流れのように」「愛燦々」、星野哲郎の作詞した「みだれ髪」など、本当にしみじみとしています
音楽は時代を写します。その時に自分が何をしていたのかを教えてくれる鏡でもあります。今も毎日午前4時に起きて、空き缶拾いをするのが日課だという作詞家にもう特別の望みはありません。ただ愚直に生きていくだけだといいます。演歌は彼に言わせると縁歌だそうです。人の縁でここまで生きてきたという言葉にも重みがあります。数千曲の作詞をしたと簡単に書いてはありますが、そのためにどれほどの苦労をしたかは想像に余りあります。
この本の中で、今までフィクションだと思っていた「演歌の龍」というあだ名のレコードディレクターが実在していたことを知りました。五木寛之の小説に出てくるのです。ぼくの好きなキャラクターの一人でした。まさか実在していたとは思わなかったので、大変驚きました。
今も口をついて、「波の谷間に命の花が、ふたつ並んで咲いている」というフレーズが出てきます。「男はつらいよ」もあの歌詞がなかったら、きっと随分味気ないものになっていたことでしょう。やはり深いところで息づいている言葉には力があります。

2001-06-23(土)

みんな壊れるわけじゃない

よく考えてみると、ぼく達のまわりにあるものは、ちょっとずつ消耗していくのです。残りはまだ使える状態にあるものばかりです。最近の新聞で毛の部分だけをとりかえるという歯ブラシの話を読みました。確かにいくら使っても柄が壊れるわけではありません。少しでもゴミを減らしたいという環境先進国ドイツの商品だと聞くと、なるほどなとつい納得がいってしまいます。これもエコロジー志向ということでしょうか。
つい先日新聞にのっていた話ですが、今電気製品を買う人の大半は修理してまで使おうという気が全くないのだそうです。しかしこんなことは当然だろうとぼくなどは思ってしまいます。なにしろ修理代が高いのです。下手をすると買った品物より高いです。まったくバカにした話ですが事実です。
ぼくは今までにいくつも電気カミソリを買いました。いいのは結構な値段です。しかししばらく使っていると、あたりまえのことですが次第に切れ味が落ちてきます。そこで刃を交換をしようと電気屋へ赴くと、どうにも替え刃が高いのです。内刃と外枠をセットで買わないと、あまりきれいに剃れないので結局両方買うことになります。するとちょっと安いのなら二つも買えそうな値段になります。まったく情けないと思いながら、仕方なく買い求めます。完全に替え刃の方が、本体と刃のついたものより高かったりすることもあるのです。いったいどうなっているのでしょうか。
一事が万事です。電気製品をなおして使おうなどという気力を持ち続ける人はよほど肝のすわった人です。壊れたラジオやテレビに愛着があるか、マニアックな人以外には関係のない話です。今や電気製品は電子制御部品だらけで永遠のブラックボックスといってもいいでしょう。修理に出しても基板ごと交換のケースが多いのです。ちょっとしたステレオでも、CDはしばらくすると読み込まなくなり、テープは必ず中の回転部分が故障をおこし始めます。仕方なくクリーニング用のCDを入れてなんとかその場をしのぐものの、やがて調子が悪くなり、修理ということになります。
先日知り合いの電気屋さんで聞いたら、なんのことはありません。ぼく達が手にする研磨剤つきのCDより、もうちょっと強力なのでただ磨くだけだそうです。それでも5000円はするといっていました。
ところで携帯電話を一年も使い続ける人は本当に少数だという話を聞きました。電池の寿命以前に人間が新しい商品に飛びつくのです。メーカーは今日発売したものを少しでも古いものにみせるため、次から次へと新しいものを出します。おにぎりも化粧品も車も洋服も、なにもかもです。
日本人はそれでなくても新しいものが好きですから、今年のトレンドなどという甘い言葉にのせられて、財布のひもをゆるめます。皮肉な見方をすればちょうどいい時期に壊れる商品こそが待たれているのです。適度に熱中し、すぐに飽きる商品をつねに開発しなければいけません。
しかしなんとも寂しい世の中です。これは人間にも当てはまるのでしょうか。誰も全部壊れるわけじゃないのです。どこかでちょっとずつ歯車が狂っていくうちに、最後に大きな破綻をおこすのです。しかし人は使い捨てという訳にはいきません。修理をしてまた動くようにする以外に方法はありません。ただし社会というレベルからみれば、捨てられてしまう可能性もあります。リストラもあっちの方へ追いやられることを意味します。
しかし最後にこれだけはもう一度声を大にして言いましょう。
「それでもどっこい全部壊れてるわけじゃないのだぞ。」

2001-06-23(土)

賛美歌クリスチャン

高校の頃、隣に坐っていたTは将来必ず牧師になるのだとよく言っていました。実際クリスチャンだった彼は、何度かぼくを教会に連れていってくれたこともあります。ビリー・グラハムが来日した時など、一緒に後楽園球場で行われた伝道大会にひっぱり出されました。しかしぼくは生来の横着者なのか、ちっともその教義には感化されず、もっぱら賛美歌の美しさだけにひかれました。
Tは暇があるとよくいろいろな曲を教えてくれました。その中で最も気にいった曲が「主よ、みもとに近づかん」(320番)です。この4部合唱曲を何度も二人で練習しているうち、上のパートと下のパートでハモることができるようになりました。それからよく授業の合間などに、二人で歌ったものです。本当にきれいなメロディーで、今でも大好きな賛美歌の一つです。
その後Tは一浪し、本当に大学の神学部に入りました。その直後から京都にあったその大学の寮は、ぼくにとって恰好の避難所になりました。何度訪ねていったかわかりません。寮にはぼくの周辺にいないタイプの学生が大勢いました。一階の中央ホールにはオルガンがあり、時々そこで一緒に賛美歌を歌ったりもしました。この寮で椎名麟三などという作家の存在を教えてもらったのです。
友人はよく遠藤周作なども読んでいました。彼の代表作『沈黙』をどうしても読めといわれ、借りて読んだことを覚えています。すごい小説でした。ぼくにとっては食事が喉を通らないという程のショックではありませんでしたが、Tはしばらくご飯が食べられないと言っていました。確かにそれだけの衝撃的な内容でした。神の不在、沈黙というテーマは牧師をめざす友人にとってさぞ重いものであったことでしょう。『イエスの生涯』『キリストの誕生』などは後になって読みました。いい作品です。
その後Tは大学院に進まず、フィリピンへ留学してしまいました。牧師になることを諦めたのです。ぼくはいたって暢気に日々を過ごしていましたが、彼にとってはいろいろつらい決断をしなければならなかったのでしょう。
その後随分たってアメリカを旅行した時、ソルトレイクシティーに立ち寄る機会がありました。ここはほとんどがモルモン教徒の街です。彼らはアルコールを全く飲みません。街の中心には真っ白い大きな教会があります。その隣には有名な賛美歌を歌うためのホールもあるのです。紙一枚ちぎってもホールの中に響き渡るほどの残響があると聞きました。ここには世界中から多くの信者が集まります。長い旅の果てに安住の地を見つけた彼らの土地です。博物館には迫害の歴史が刻まれていました。
帰りにそのホールで録音されたクリスマスソングのCDを何の気なしに買いました。しかし家に帰って聞いた時、あまりにもいい響きなので驚いてしまいました。モルモン教会では40才以上にならないと聖歌隊には入れないのだそうです。それくらい声の質を大切にしているのです。かつてロンドンのウェストミンスター寺院で少年聖歌隊の賛美歌を聴いたことがあります。しかしそれとも違うやはり大人の音でした。
ところで友人や知人の結婚式を教会でやると聞くと、行く前から少し楽しみでもあります。「いつくしみ深き」(312番)を歌えるからです。これも本当に心優しいいい歌です。ぼくはただの賛美歌クリスチャンです。しかし音の連なりの中に、深い祈りの気持がこもっているのだけは感じます。
ちなみに今ぼくの携帯電話の呼び出し音は、高校の時の愛唱歌「主よ……」です。時々一人で歌っていると、時が突然あの頃に戻っていきます。

2001-06-21(木)

父親業の今

重松清の話題作『ビタミンF』を読みました。彼自身、あとがきに書いているように、これは人の心にビタミンのように働く小説集です。ごくささやかな話ばかりですが、確かにこんなことがあるなあとしみじみ感じます。キーワードは父と子です。あるいは家族です。作品の中では「なぎさホテルにて」のような危ういのも好きですが、やはり「げんこつ」「セッちゃん」の方により親しみを感じます。
「げんこつ」は子供の非行、「セッちゃん」はいじめをテーマにしています。いずれも40才になろうとするサラリーマンの子供達が引き起こす事件を契機にしてストーリーが進んでいきます。男40才といえば、勤め人になって自分の責任も増し、仕事の重圧が肩に重い時です。しかし同時に住宅ローン、子育て、夫婦、親、老後の自分までもが視野に入ってくる頃です。かつての若い頃のようにもう無理はききません。
会社によってはここからラインに入るか、リストラの対象になるかのせめぎあいが続きます。夫婦の関係も以前とは明らかに違ってくるでしょう。親の介護の問題もそろそろ考えなければならなくなります。それよりなにより、一番難しいのは子供との関係でしょう。小学校高学年から中学校へと入る時代の子供は多感です。受験の問題も出てきます。子供達は自分の身体の変化にとまどい、親を頼りながらも自立していきます。乳離れの萌芽がみられる頃です。
友人関係も同時に複雑さを増してきます。単純に近くに住んでいるからという形での友達ではなくなります。当然さまざまな誘惑も出てきます。子供達も大人と同じようにストレスの中を生きています。なんとかして親には知られたくないという秘密をつくることもあるでしょう。「セッちゃん」の中の主人公の女の子は、自分がいじめられているのを親に知られたくない一心で、架空の転校生セッちゃんをつくりあげます。そして自分の苦悩をいかにも友達の悩みのようにして、親に打ち明け相談します。
いかにも痛々しい、しかしどこにでもありそうな話です。なんにでもハキハキと答える主人公は、いつの間にかクラスの中から浮き上がり、運動会のダンスで変更したところさえ教えてもらえません。親に嘘を言って、来なくていいというために、彼女は本当に小さな胸を痛めます。しかし生徒会長に立候補する約束を結局、先生としてしまいます。他に誰もいないのです。人より目立つことを極度におそれる今の子供達の横顔が、この短編には色濃く反映されています。
「げんこつ」は自分の息子がちょっとした不良のグループに引きずり込まれそうになるのを、どうやって止めたらいいのか悩む父親を中心とした話です。これもどこにでもありそうな話です。ニュータウンの風景に巣くうある種の嘘寒さがいっそう話の展開に真実味を与えます。自動販売機にいたずらをしているグループの中学生たちにどう立ち向かえばいいのでしょうか。主人公は同じ階段の子が親に暴力をふるったという話を妻から聞きます。その子も仲間でした。いつも夜遅くまで階段下にたむろし、話をしているメンバーに顔をあわせたくない主人公は夜まで仕事をしたり、酒をのんで帰ります。ふとしたつまらないトラブルから殺人事件にまで発展する時代です。他人事ではありません。自分の子供がその中に巻き込まれそうになったとき、父はどこまで真剣にげんこつをふりあげられるのでしょうか。
今ほど、父と子供との関係が難しくなっている時はありません。きちんと自分の生きてきた軌跡を示し、人間として望ましい方向に導ける父親が今どれくらいいるのでしょう。この本がこれだけ多くの人に受け入れられるというその背景に、価値観の揺れをどうしても見てしまいます。と同時に毅然とした強さに対する憧れも感じます。かつて『定年ゴジラ』を書いた筆者が同世代に目を向けたこの作品は、世の父親たちよ、もっと自信を持てとエールをおくっている魂の叫びにも聞こえてくるのです。

2001-06-21(木)

直感のすすめ

世界が本当に狭くなりました。お金と情報が地球上を駆け回っています。ちょっと前には信じられないような風景の中を今、ぼく達は歩いているのです。だからといってはなんですが、もうだれにもこれから先どうなるか、わからなくなりました。雑誌の予測記事など今ではなかなか信じられません。
バブルだってそうです。あの時、日本中の人はほとんど不動産屋になって夢を見たのです。都会の人は土地がお金になるカラクリを知りました。そしてその怖さもです。その後の銀行や証券会社の惨めな様子をみていれば、大人の先見性のなさがよくわかるというものです。
中高年の人たちも今まで会社に面倒をみてもらっていたつもりが、あれよあれよという間にリストラの冷たい風に吹かれ始めました。終身雇用や年功序列はとうに過去のものになりつつあります。いくら仕事を探そうとしてもなかなかみつかりません。
大人達は今大きな価値の嵐の中をさまよっています。生きることに懐疑的になっています。子供達に尊敬されるような人間になれません。とにかく中高年の自殺が多いのです。年3万人です。これは年間の交通事故死者の実に3倍です。
かつて『青年は荒野をめざす』という恰好のいい小説を書いていた五木寛之も『人生の目的』『他力』などという本を書き、これがベストセラーになる時代なのです。つまり現在生きている意味さえ、誰にもわからない時代になりました。多くの地方都市へ行けばわかりますが、今や、駅前の商店街は壊滅状態です。昔からの人間関係はこわれ、人々は車にのってバイパス通り沿いにある量販店へものを買いに行きます。
近い将来、従来型のコミュニティはなくなっていくでしょう。近所の子供を叱るなどというのは大変恐ろしいことです。刺されてしまいます。少し前に近頃は『嫉妬の時代』であると精神分析学者、岸田秀は書きました。けれども今はもっとそれより進んでいます。嫉妬にはまだ動機がありました。今は動機もありません。衝動や一時の感情で人が動きます。突然襲いかかって人を刺すという事件の多発がその象徴と言ってもいいでしょう。
さてそこで「直感」の登場です。この表現がいやならば「第六感」あるいは「皮膚感覚」でもいいです。つまりこれはへんだ、怪しいと思ったら、すぐに逃げることです。自分が本当にやりたいのはこれだと感じたら真っ直ぐに進むことです。迷うならやめた方がいいでしょう。ヘンな宗教もたくさんあります。お金を必要以上に貸してくれるシンセツな会社もあります。直感を働かせないで、なにを駆使したらいいのでしょうか。
ただし他人の忠告を謙虚に聞く耳と自学の態度を持たなければいけません。知性の上に直感の花を咲かせるのです。これさえあれば失敗することはありません。何が勝ちで何が負けということは人生にはありません。生きるのはそれだけで大変なことです。今一番大切なのは「第六感」です。またそれを背後からしっかりと支える「想像力」なのです。

2001-06-18(月)

みんな違ってみんないい

日本は島国で単一民族ですから、案外外国の文化についてよく知りません。これほど多くの人たちが海外旅行をするのに、視線はつねに自分たちの仲間か、買い物に向いているようです。香港から来ている留学生と昨日も話をしていて、たまたまプレゼントの話になりました。中国人に贈ってはいけないプレゼントとはさて何でしょう。ヒントは音からくるイメージです。例えば「傘」はさんと読み、「散」につながるのだそうです。だから散り散りになってしまうというイメージなのでしょうか。贈ってもあまりいい顔はされません。
同じように「時計をあげる」という言葉は、発音が「死にそうな両親の世話をする」と類似し、プレゼントの中では最も避けなければいけないアイテムのようです。ただしこれも若い人の間ではあまり気にしない人が多くなったという話も聞きました。またハンカチも時に別れを示すのでいやがるそうです。数字でも日本や韓国では4と9を嫌います。ヨーロッパでは13が不吉な数です。
一般にアジアの国々ではプレゼントをもらってもすぐに開けるのは、貪欲ととられかねません。アメリカなどではよく他人の前ですぐに開けます。あるいはイスラム諸国では左手は不浄の手なので、右手で受け取らなければいけません。もちろん左手で、頭をなでるなどという行為は、考えられないことです。また挨拶でもお辞儀をする文化もあれば、軽く抱きあって、キスをする文化もあります。その国に行ったら、やはりその国のしきたりに馴れていかなければ、なかなか彼らの文化を理解することはできません。
豚がまったくダメな国もあれば、牛がダメな国もあります。そうかといえば、四つ足ならば、テーブル以外はなんでも食べるという国もあります。犬も蛇も蛙もまったく彼らは気にしません。ぼく自身、今までに何度か手で食事をしたこともあります。皆が器用に指を使って食事をしている時、逆に自分だけスプーンや箸を使うのはおかしなものです。
お隣韓国には食器を手に持って食べるという習慣がないそうです。全てテーブルの上に置いたまま、食事をします。日本人の発想でお茶碗などを手に持つと、それは大変品の悪いことであると聞きました。あるいはワリカンという思想もないようです。今日の食事代は出席者の中の誰かが持つと決めたなら、その人が全てを払うのです。
それが合理的でないという話は全く別のものです。とにかくそれが韓国の文化なのです。中国にも似たようなところがあり、相手の面子をつぶさないために、たとえ自分より収入が少なくても、相手が払うといえば、それに従わなければいけないのだそうです。
アフリカに行った時も、楽しいのならそれを身体で表現し、一緒に踊って欲しいと言われました。そうでないと彼らは納得しないのです。とにかく一緒に踊ることで、現地の人の感情が昂揚するのだといわれました。イスラム圏の国を旅した時は、朝からコーランを聞き一緒に水をかぶりました。しかしぼくはそういう違いを楽しむことが、本当の国際理解だと思います。皮膚の色も違い、考え方も違いますが、人間はどこか共通の感情を持っています。
相手に敵意を持っていない限り、なんとか自分たちの誠意を伝えようと必死になるものです。言葉が伝わらなくても、感情はきちんと気配でわかります。ネズミをたべろと勧められたことや、毛の生えたままの鹿の足を食べさせられたこともあります。しかしそれもこれも含めて、やっぱり違うことは楽しいです。それを認め合うことから本当の人間の付き合いが始まるのではないでしょうか。これからもたくさんの違いを求めてもっと驚くために、ぼくは世界中を歩いてみたいです。

2001-06-18(月)

薬は異物

最近薬に絡むニュースをよく耳にします。つい先日の大阪で起きた事件は精神安定剤が引き起こしたものとも言えるでしょう。今日、安定剤くらい乱用されている薬はないそうです。ちょっと精神の不安定を訴えれば、すぐに医者が処方してくれます。ストレスから不眠症になる人にも必ず睡眠導入剤が出ます。風邪の症状や、肩こりなどでも服用を指示されることがあります。現在医者にかかっている人の約三分の一はこの精神安定剤を使っているそうです。
この薬はそれほど強くはなく、マイナー・トランキライザーと呼ばれます。医者はあまり副作用はないと言いますが、さてそれはどうでしょうか。薬を毎日飲み続けるのが不安だと訴える患者も多いのです。むしろその不安を払拭するために、あまり副作用について話そうとしないのが実態かもしれません。実際はアルコール同様に禁断症状もあるのです。いらいらや不安が募り、痙攣や幻覚まであらわれることがあります。
つまり薬は人間にとって異物なのです。どんなにすばらしい薬も結局は身体の中に入った瞬間、何らかの副作用をもたらします。それは日常使っているあらゆる薬についていえます。ぼくは比較的に薬好きなので、いつも新しい薬をもらうと、必ずピルブックで確認することにしています。名前からもひけますし、薬剤番号からも確認ができます。最初の頃はあまり本の種類も多くなかったのですが、最近は何社からも出ています。CDーROM版や、インターネットなどにも専門のサイトができました。
医者は患者があまり薬に詳しいのをいやがる傾向があります。しかしインフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンといったことがごく常識になりつつある今日、患者にも十分知る権利はあるでしょう。医薬分業になって簡単な解説書を同時にくれる薬局も増えました。この流れをこれからも歓迎したいところです。
ところでぼくは何10種類もの薬を常時持っています。医者は収入増のため、少し余計に薬を出したがりますから、余りはいつもとっておきます。時々は薬を机の上に並べ、これは何の薬だったかを確認します。そうして副作用や、強さなどを記憶にとどめるのです。これはちょっとした自分自身に対する警告にもなります。カプセルや錠剤の色がきれいでなかなか壮観です。一度試してみてはどうでしょう。
高齢者などになると、10種類近くの薬を毎日のんでいる人もいます。しかしどこまで必要なのかをある程度は自分で判断することも大切でしょう。自分にあった薬というのは、それほどにないものです。たんなる腹痛でさえ、人にはよく効くのに自分には全くだめということもあります。その人の体質に大きく負っているのが薬というものなのです。人間には自然治癒力があります。どうしてもダメな時は別にして、やはり自然の力にまかせることも考えなくてはいけません。
アフリカに行った時、あまりにも薬がないのを自分の目で見ました。エイズウィルスの検査試薬さえ、日本から送っているのが現状です。少しでも発症を遅らせる薬は高価で、それを現地で安く提供するための活動などもあります。日本に生まれたぼくにできる最低限のことは、少なくとも無駄に薬をのまないということでしょうか。
薬価基準の見直しや、保険料の変更によっても薬の消費はなかなか減りません。薬害エイズ事件も記憶に新しいところです。高齢化社会を迎えつつある今、もう一度薬のことを考えてみる必要がありそうです。

2001-06-13(水)

PRと広告

かつてPRの仕事にたずさわっていた頃、よくバーやパブへ行きました。無論仕事でです。PRというのはパブリック・リレーションの訳で、広告(アド)とは厳然と違います。ぼくはその中で、ニュース・リリースを書く仕事をしていました。これは各メディアにニュースとなるようなクライアントの側の情報を提供する仕事です。簡単にいってしまえば、新製品の情報とかを写真と記事入りで送る、いわゆるパブ記事と呼ばれるものです。しかし宣伝臭を強く出してしまうと、採用されないことが多いので、かなりの神経を使いました。
当時随分いろいろな会社のものを書きました。いずれも大手のものばかりだったので、あちこちの会社を訪ねたものです。システム・キッチンの時は浜松のヤマハ工場へ行きました。その他、三菱商事の海外向けパンフの編集取材に、丸の内の本社へ行ったこともあります。当時爆破事件の直後だったので、警戒がものものしかったのをよく覚えています。カナダのチップ(製紙原料)をどのように三菱が扱っているのかという記事なども映画をみながらまとめました。後でこれを英訳し、クライアントへ流すということでした。当時7階の広報へ上がる途中、いろいろなセクションを見て回りましたが、あちこちで英語が飛び交っていました。皆があたりまえのように英語で電話している風景は、やはり商社のものでした。また当時の電電公社、あるいはニコンなどにも行きました。
ところでバーやパブの話ですが、これはサントリーの仕事でした。サントリーは多くのバーでウィスキー、その他を扱ってもらっています。その見返りにバーテンダーの養成や、店の管理運営などに、ノウハウを提供するのです。あるいは自社製品のロゴが入ったグラスなども提供します。さらに新規開店などにあわせ、媒体にその存在をアピールするため、ニュース・リリースを制作します。そのライターの一人がぼくだったのです。
取材はいつも夕方からでした。カメラマンと二人で、新しい店を訪れます。時にはサントリーの宣伝マンも一緒のことがありました。向こうは取材ですから、店の代表的なメニューなどを出してくれます。カメラマンがフラッシュをたいている隙に、ぼくは取材にかかります。新しい店のコンセプトや、ターゲットの年齢層など、あるいは他に特筆すべき特徴があれば、それを細大漏らさず書き留めます。
一通りの取材が終わると、あとは接待ということになりました。ぼくはこの仕事を通じて、ものを売ることの難しさをあらためて知ったのです。ただ造っているだけでは、お酒といえども売れません。いかにして自分の会社のものを使ってもらうのかということにしのぎを削る会社の横顔を見ました。テレビやラジオで商品の名前を連呼すれば、売れるというものではなく、現場をよく知っている営業マンの存在が欠かせないのです。
あの当時販促活動の一端に、ぼくもいたということでしょうか。この取材では本当にいろいろな店に行きました。随分見聞を広めたと思います。アメリアッチなどという南米の音楽も、この時はじめて生で聴きました。また時には取材の後、銀座へ連れていってもらうこともありました。いくら取られるのかわかりませんが、とにかくぼくの給料などでは到底歯が立たないぐらい高いだろうとはすぐに感じました。帰るときも女性たちが皆エレーベーターの外まで出てきて、本当に深々と頭を下げて見送るのです。名刺を渡すと、翌日にはすぐに礼状が自筆で来ました。これも厳しい世界だなと実感したものです。
いろいろなことをあの当時は本当にしていました。考えてみると、今の暮らしとの落差があまりに大きくて、とまどってしまいます。

2001-06-13(水)

映画館が学校だった

大学生だった頃、毎週映画館へ通いました。文芸座地下です。ある世代以上の人には本当に懐かしい名前でしょう。池袋駅で降りていかがわしいキャバレー街を通り抜け、入り口に掲げられたポスターと写真を見ながら階段を下ります。そこは日本映画専門の名画座でした。ちなみに一階は文芸座と呼ばれ、こちらは外国映画だけでした。
当時時間だけはふんだんにありましたので、本当によく通いました。入場料は150円でした。切符を買うと、小さな冊子というより、一枚の本当に紙の切れ端のようなものをくれます。そこに館主のコメントや次週の予告などが載っていました。
当時のぼくにとってあんパンを買い、それをむしゃむしゃと食べながら映画を見るのが至上の楽しみだったのです。この空間は本当に豊穣なものでした。名画と言われるもののほとんどをここで見たように思います。黒澤明はもちろん、小津安二郎、溝口健二、さらにはヌーベルバーグと呼ばれた大島渚、篠田正浩などさまざまな監督のものをめったやたらに見ました。どれがどれと選択するのでなく、あらゆるジャンルのもの全てをみました。
勿論当時一世を風靡していたATG系の作品もほとんど見ました。難解なものも確かにありました。しかしその中に時代が宿っていたせいか、むしろ楽しんでいたような気がします。今でも思い出す作品はとても多いのですが、やはり思想性に絡んだものは忘れられません。とくに大島渚の『日本の夜と霧』『儀式』などはなるほどこのようにして、人間は思想に絡め取られていくのかと、新たな認識をしました。特に『日本の…』という作品は当時の思想状況にぴったりとくっついたもので、現在のぼくの政治に対する認識の基本を形づくっているような気がします。「六全協」などという言葉が忘れ去られた今、党と個人の関係はどう変化しているのでしょうか。
また『サード』などATG系の映画は少ない予算で、しかし硬質な内容のものでした。『無常』という映画も忘れられません。その他、藤田敏八『八月の濡れた砂』や東映のやくざ映画なども多く見ました。その中で金、人間、地位、名誉などおよそ、ぼくがそれ以後知らなければならないことは全て教わったと思います。
新藤兼人の独立系映画も随分見ました。浦山桐郎の『キューポラのある街』も印象に残っています。また社会派と目される熊井啓の『地の群れ』は本当につらい映画でした。井上光晴の原作を映画化したものですが、本来差別されるべきではない人たちが、原爆病にかかることで、差別されていくという、人間の不条理を描いたものでした。本当につらい映画で、なぜ人間はこのように苛酷な現実の中にいなければならないのかと自問自答したものです。彼には『忍ぶ川』のような美しい作品もありますが、しかしここにも差別が顔をのぞかせています。
また勅使河原宏の『砂の女』も印象に強く残っています。このように文芸座地下がなければ、おそらく日本映画に触れる機会はなかったことと思います。もちろん外国映画も好きですが、なぜかこの時期のぼくには邦画の持つ力が強く働いていたようです。最近は時間がないためほとんどビデオに頼ってしまいがちです。しかし真っ暗な異空間の中を一人で漂う感覚はやはり映画館でなければ味わえないものです。
ぼくはその後芝居の世界にのめりこんでいくようになりましたが、それとあわせてさらに多様な映画をみるようになりました。ルキノ・ビスコンティなどはほぼ全てを網羅し、またアンジェイ・ワイダなどもほとんど見ました。娯楽映画も好きですが、やはり思想性の絡んだものの方が厚みがあり、見た後の印象が強いようです。しかいつも難しいものばかりを見ているわけではありません。ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』なども大好きで、わざわざザルツブルグまでロケ現場を見にもいきました。『太陽がいっぱい』という映画もなぜか悲しくて好きです。
いずれにせよ、あの暗い空間の中で、ぼくは本当に「世界」をみました。きっとあれ以上にはないくらい凝縮して人間を学ぶ時だったのではないでしょうか。映画評論家、佐藤忠男は満足に学校を出ていない分、全て足りないところを映画で補ったと書いています。ぼくにとっても映画館はもう一つの学校でした。

2001-06-13(水)

意地の効用

科学技術がどんなに進んでも、その基本はやはり人間です。NHKで昨日放送された「プロジェクトX」を見ながら改めてそう感じました。「H2ロケット」は金食い虫と呼ばれ、多くの批判にさらされながら、開発を続けてきました。なんとかして、国産のロケットを作りたいと願った人達の悲願は痛々しいほどのものだったのです。
当初は失敗の連続だったようです。若くして急死した人、あるいは実験の際に不慮の爆発事故で亡くなった人もいます。遺影を部屋にかかげ、それでも何とかして自分たちの手で空にロケットを打ち上げたいとする彼らを支えたものとは何なのでしょう。ロマンと言ってしまえばそれまでですが、責任者の一人は「意地」だと明言していました。
どんなに優秀な人でも意地のない人は、最後まで続かないのだそうです。途中不眠不休の徹夜が続くこともあり、それを乗り越える動機を持てない人は、やはり脱落していくのです。
350秒間、3000度の熱に耐えられるエンジンの開発は熾烈をきわめました。何度やっても爆発してしまう排気管。彼らは再び250カ所の総点検をします。そしてついに溶接部分が最も弱いという結論に達するのです。そこで30年以上溶接技術一筋に生きてきた人を招き、まさに管の内側に鏡を入れて、平らになるまで手でヤスリをかけました。こうなると人間の勘だけがたよりです。いわゆるスーパー職人の世界といってもいいでしょう。誤差はほとんどありません。コンピュータの入り込む余地は全くないのです。
その排気管をさらに1000度に熱して、耐性を作り上げます。その末に日本発の国産ロケットは大空をめざして飛び上がりました。まさに意地の見せどころだったと思います。その後気象衛星などの打ち上げに成功しますが、近年、失敗を余儀なくされました。今年の9月には新しいエンジンを積んだロケットが発射されるそうです。成功を祈らずにはいられません。
ところでこのような先端技術はいつも軍事と背中合わせです。それだけに機密事項も多く、アメリカはかつてスーパー301条をちらつかせて、日本の技術を封鎖することまで画策しました。その意味でもまさに困難な闘いだったのです。
さてこの番組は他にもいろいろな開発物語をぼく達に見せてくれます。以前放送された「スバル360」の話も大変面白かったです。大人4人が乗るのに車体を広くとるため、特にそれまで使ったことのない棒状のバネをどう作り出すのかという至上命題に取り組んだ富士重工業の技術者像には、ドラマを感じました。
またシャープの液晶に対するこだわりが後の電卓競争に勝利する背景にあったことなど、興味はつきません。
あらゆる技術の背景には人がいます。当たり前のことですが、その人間達がどれほどの意志力で、その開発に関わったのかということが、プロジェクトの成否を決めるのでしょう。評論家内橋克人のシリーズに『匠の時代』があります。これはまさにさまざまな開発への苦労を描いたものでぼくが好きなものの一つです。Gショック開発や、スイスの時計コンテストで一位を取るまで薄型の開発にいそしむチームの話など、どれをとっても面白いものばかりです。
ここではあらためて「意地」を強調しましょう。こんな飽食の時代だからこそ、きっと意地が本当に必要とされているのです。

2001-06-10(日)

幸せはどこに?

ベトナムの先生方と寝食を共にし、教育問題を語り合うセミナーへ行ってきました。その間、さまざまなことを感じたので、その一端をご紹介します。今回の企画はJICA(国際協力事業団)の招聘事業として行われたものです。山中湖での2泊3日のものでした。圧巻はやはり2日目の討論の時間でしょうか。実に4時間以上話し合いました。彼らの国で今問題になっていることと、日本での課題を持ち寄ってディスカッションしたのです。
その中で、いじめや、非行というテーマもありました。しかしぼくが一番興味を持ったのは自殺という概念がベトナムにはないということでした。日本では今年間の自殺者数が3万人を数えます。交通事故死1万人の実に3倍です。もちろん熟年世代がもっとも多いのですが、若年層もかなりあります。しかしベトナムには自殺をするものがいないという事実は、なにを物語っているのでしょう。
推察するに、それだけストレスのない社会ということになります。毎日努力をすれば報われる社会ということを意味するのでしょうか。かつての日本にもそんな時代はありました。誰もが家父長制の中に生き、子供達は父母を尊敬し、ものは少ないながら、その中で自足という観念をもっていました。全ての人が自分の持っているものの量で納得していたのです。人を羨む必要もありませんでした。誰にも何もなかったのです。だから不安の要因はありませんでした。誰かが何かを持ち始めた時から突然嫉妬が始まったのです。宮本常一『忘れられた日本人』を読めばそのことがよく理解できます。
また今のように情報がはやく伝わらない分、それぞれの地域性も守られ、独自の文化が形成されていました。しかし今、日本はどこもそれほど変化のない社会になりつつあります。唯一残っている違いは言葉だけになりつつあります。しかしそれさえもテレビの影響は大変強く、誰もがいわゆる標準語を話すことができるのです。
核家族化が進み、ベトナムでは恥とされる離婚も日本では増えました。ストリートチルドレンはいないものの、逆に心の中が空洞になった青年達が大量に生まれてしまいました。ちょうどセミナーの最中、大阪の小学校での大量殺傷事件が起こりました。彼らはなぜこのようなことが起こるのかと訊ねてきます。日本側は現在の精神病者のケアシステムについて説明しました。しかしそれだけではなかなか納得してくれません。全く信じられないと言います。かつてアメリカで起こった事件を、ぼく達は眉をひそめ批判しました。しかし今日本で同じ状況が始まっています。
ちなみにベトナムでは対教師暴力はないそうです。教師は薄給ではあるものの、人々に尊敬される対象だと言います。彼らは兼職も許され、家庭教師などで月給の4倍程度は稼ぐといいます。その意味でなかなかいい職業であるということがいえるのでしょうか。家から10分ぐらいで職場に行き、午後は2時間の休息を家に戻ってします。
子供たちと夫婦そろって夕食をとり、さまざまな一日のことを話し合う時が最も楽しい時だと話してくれました。日本はこれからどうなっていくのでしょうか。家で飼っている象にのっていた地方の家族の人の写真はとても幸せそうでした。何が人間にとって幸福なのでしょうか。学校へ通い、学び、父と母を尊敬し、皆なかよく暮らしていける社会以上に何が必要なのか、あらためて考えてしまいます。
ベトナムはきっと今のままではいないでしょう。必ず変化していくはずです。その時、どの国がモデルになるのでしょう。彼らに最も近い中国、あるいはアセアンの諸国かもしれません。その中に日本も入っていればいいのですが……。最近日本人の目つきが悪くなったといわれています。この国はもう安全ではなくなりました。そのことがぼくには今、とても悲しいです。
今回のセミナーのスタッフにはボートピープルとして日本の漁船にひろわれ、難民認定の後、日本人に帰化した人も混じっていました。その他、大変優秀な現在日本の大学へ留学中のベトナム青年達に会うこともできました。また一緒に参加した日本人学生も立派で真面目な人たちばかりでした。彼らを見ていると、この国も捨てたものではないと感じます。まっすぐにこのまま成長し続けてくれることをただ祈りたい気持でいっぱいです。

2001-06-07(木)

チーズって何?

スペンサー・ジョンソンの『チーズはどこへ消えた?』はなかなか味のある寓話です。登場するのは二匹のネズミと二人の小人。その名も「スニッフ」「スカリー」と「ヘム」に「ホー」。勿論これには意味があります。それぞれ「においをかぐ」「急いで行く」「閉じこめる」「口ごもる」という訳語をもっているのです。登場する彼らの性格を表したネーミングといっていいでしょう。
彼らは最初になんとかチーズの山を探し出し、毎日楽な暮らしをし始めます。しかし、そこから次第にチーズは消えて少なくなっていきます。二匹のネズミたちはすぐに迷路の中を飛び回って、新しくチーズのあるところを探すためのチャレンジをします。しかし小人の二人はためらったままです。やがてどうしようもなくなって、小人の片割れホーは勇気を奮い起こして進んでいきます。ところがヘムはずっと同じ場所にいるだけです。
さて、この物語にはいくつもの挿し絵が登場します。その中で最も中心になるのは、次の内容が載っているページです。きっとどの会社の壁に貼っても、少しの違和感もないでしょう。すなわち「変化は起きる」「変化を予期せよ」「変化を探知せよ」「変化にすばやく適応せよ」「変わろう」「変化を楽しもう」「進んですばやく変わり、再びそれを楽しもう」というスローガンです。
このチーズに書かれた太字をどう解釈すればいいのでしょう。ぼく達の生活にも常に変化が忍び寄っているのは、ごく自明のことです。しかしそれをつねに早く感じて、対応し行動できるのかといえば、これはなかなか困難です。
ここにあげられたのはどのようなケースにもそのまま適応できる言葉です。筆者はビジネス書を書いている心理学者です。どのようにすればストレスの少ない人生を送っていけるのかということを、つねに考えている研究者です。その彼が書いた寓話を今、多くの人が好んで読むというところに「現代」を感じます。誰もが変わらなければいけないことを知りながら、しかし同じ場所にいることの心地よさに酔っています。しかしそんな甘い時代はもう過去になりつつあるのかもしれません。
倒産、リストラ、デフレの嵐の中で、かつての論理は通用しません。どんな大企業にも失速の可能性があるのです。日産のCEO、カルロス・ゴーンはあれだけの赤字企業を、黒字に転換しました。しかしこれも今のところは工場閉鎖や人員削減の成果です。これから日産の社員は本当の厳しい「変化」を味わうことになることでしょう。ダイエーもユニクロを店舗展開の目玉にしました。しかしそのユニクロもそう遠くない将来飽きられる時がくるはずです。企業の寿命30年説は、あるいはもっとはやまるのではないでしょうか。ひょっとすると10年で会社の寿命は終わる時代がくるかもしれません。
殊にIT関連企業は厳しいと思われます。商社も同様です。今も動きが鈍りつつあります。金融、証券、保険などは言うまでもありません。不良債権の処理はまだ相当な時間を必要とします。中小や小売店はよほど個性化をはからないと生き抜けないと思います。地方の駅前の空洞化も言われて久しいものがあります。車社会はバイパス通り沿いに新たな店舗展開を要求しました。コンビニまで少し弱いと潰れていく世の中なのです。ガソリンスタンドなど今や惨憺たるものです。
それにしてもチーズとはいったい何の象徴なのでしょうか。仕事、愛情、財産、家、名誉……。ぼくの暮らしの中にある大切で失いたくないものとはなんでしょう。それを一つ一つ考えてみました。しかし結論は容易に出てきません。ぼくは二人と二匹のどのタイプにあてはまるのか、とても知りたいです。今、誰の周囲にもものすごい変化が押し寄せています。しかしそれに気づきたくはないのです。なぜかといえば、それは怖いからです。本能的な恐怖といってもいいでしょう。今まで培ったものが、根底からくつがえされる可能性だって、そこにはあるのです。暢気にかまえてチーズは絶対になくならないだろうと勝手に思いこんでいるのは、きっと理屈では変わらなければと口走っている、もう一人のぼく自身なのかもしれません。
変化に対応しなくてはいけないのは、まさに現在の今という時間なのでしょう。そのことに気づきたくない多くの人にとって、この本はちょっと耳の痛いベストセラーとなりました。はたして、変化にすばやく対応し、それを楽しむ心境になれるのかどうか。そこが勝負の分かれ目と言ってもいいのではないでしょうか。

2001-06-04(月)

縁側のある風景

端近(はしじか)というのはなかなか味わいのある表現です。これは平安の頃、廂の間と簀の子敷きとの境の御簾の傍に坐ることをいいました。そこは端近ですからといわれれば、決して縁側の近くに寄ることは許されなかったのです。『伊勢物語』の中にはそれまで一度も外に出たことのない深窓の女性が、はじめて葉の上におく露をみてあれは真珠なのと男に訊く話までのっています。
逆にいえばそれほど縁側の近くにでることははしたないことでした。『源氏物語』の若紫の巻でもはじめて源氏が後の紫の上を垣間見たのはまさにこの縁側です。「すずめの子をいぬきが逃がしちゃったの」といってべそをかいている可愛い女の子を見て、源氏は心穏やかではありませんでした。また源氏が正妻に迎えた女三宮を柏木がはじめて見てしまうのも、まさにこの場所です。このように縁側はいつもストーリーが始まる予感を与えてくれるところでした。
『枕草子』173段にも雪の降り出した日の夕方、突然男性が一人で様子を見にやってくるシーンが描かれています。「今日の雪でみなさんがどうなさっているかと思いまして」と呟く男は片足を縁側からぶらぶらと下げ、明け方近くまで、清少納言や他の女房たちと話に花を咲かせます。いつも女性ばかりで暮らしている環境の中で、このように風流を解する男性が、半分あぐらをかいてリラックスしながら、実に愉快な話をしてくれることは大きな楽しみであったことでしょう。
これもある意味で縁側のとりもつ会話なのです。しかし男性はけっして部屋の中に入ってこようとはしません。縁側で全ての用件が終わってしまいます。ここはある意味で男女が出会う結界なのです。これ以上の侵入はまったく別の意味を持つことになります。
しばらくすると、この縁側の端に閼伽棚(あかだな)が設けられるようになり、そこに花などがいけられるようになりました。これが後に書院造りの家に入って、床の間に発展していったといわれています。このように日本の家屋の中で縁側の持つ不思議な異空間的領域は、大きな意味を持っていました。それはその家でありながら、外との接点ともなりえたのです。
つまり外界との親和性をたくさん持っていたといえるでしょう。しかしかつて多くの家にあった縁側はいまや、過去のものとなりつつあります。井戸で冷やしたすいかを縁側でほおばり、子供たちは再び遊びに出ていきました。ご近所の人が訪ねて来る場所も、この縁側でした。ここでお茶を飲みながら、世間話をして、コミュニティを形成していったのです。しかし時代はそうしたゆとりを全く失ってしまいました。最近の家によく設けられるウッドデッキが果たして、その役割を担えるでしょうか。ぼくにはやはり難しいような気がします。この機能のベクトルの矢は外よりも、むしろ内側に向かっています。
核家族化された人々がさびしい思いを抱きながら、それでも個別化への道を歩むとしたら、なんという皮肉でしょう。日本にはよく広場がないといわれます。かつて井戸の周囲にあった語り合う場も今はありません。コミュニティセンターと呼ばれる行政の作り出した場が唯一、それにあたるのでしょうか。自然発生的に作り出したものでない公の場に、縁側や井戸端の持つ魅力に匹敵する何かがあるのでしょうか。しかしそこにしかすがる手段がないとしたら、現代は本当に寂しい時代と言えるのかもしれません。

2001-06-04(月)

なにげに微妙系

生徒の使う言葉を聞いていると、時代の感性を強く感じます。少し前は「ぶっちゃけ」という表現をよく聞きました。しかし最近はめっきり姿を見せません。「なにげに」はいまだによく耳にします。なにげなくという感覚が時代にマッチしているのでしょう。あまりそのことに首をつっこみたくはないものの、やはり気になるというところでしょうか。自分の意志とは無関係に向こう側からやってきたから、ついコミットしてしまったというニュアンスです。つまり人間関係を積極的に構築する意志はないものの、しかし一人でいるのは寂しいのです。とはいえ、あまり深く首をつっこんで疲れたくはありません。
人間は必要以上に接近するといわゆる「山嵐コンプレックス」と呼ばれる相互に傷つけ合う行動に出てしまいます。それを避けるためには程良い距離を保つことが大切です。つまり「なにげに」の関係が最も適当ということです。それと似た表現に「……系」があります。これは全てを明確に規定することに柔らかく拒否の姿勢を示している言葉です。つまりこちらの系列でもありうるし、もう一つの系列でもありうる。非常にフットワークの軽い位置に自分が立っていることをアピールできます。
生徒達はこれを実に様々な局面で見事に使いこなしています。最近もっともはやっている「癒し系」という言葉はまさにこの「……系」という表現の集大成でしょう。癒すという感覚はどこかに甘えと安らぎを感じさせます。これだけシステムががっちりと作り上げられてしまった社会の中で、どうそこからはみ出していくのかというのは、難問中の難問といってもいいのではないでしょうか。多くの人間はストレスの堆積の中で、身動きがとれなくなっています。そこへ「癒し系」と呼ばれる人間が登場すれば、格好の福音となるのです。彼らはある意味中世に存在した道化の役まで負わされるかもしれません。
そこまでいかないにせよ、自分の地位を曖昧なままにしておくために、この「……系」という表現は大切です。学問の分野でも境界が今や主流です。学際的な研究が「……系」という枠組みの中でまとめられていきます。誰も手をつけなかった領域がまさに時代の寵児となるわけです。
さて最近もっともよく耳にする表現の一つが「微妙」というものです。何が問題なのかという質問に対して、生徒は瞬時に「微妙」と答えます。これもある意味判断停止の表現です。自分では白とも黒とも断定したくないという感覚が明確に、ここからはみてとれます。つねに判断を他者に依存し、自分は安全圏にいたいという心の様子がよくわかります。
ここまで決断を留保しようとする心の底には何があるのでしょうか。誰が最終判断を下すにせよ、そこまでのレベルで関わりたくないという心理状態が、ますます強くなっています。ある意味で、これは大変危険なことです。多くの人間が判断することに疲れ切った時、一種の専制政治が始まるのです。会社の内部でも学校でも全く同じ構造です。小泉内閣の高支持率も似たような心理状態の中にあります。判断停止を自分から望み始めた時、全ての歯車は反対に回り始めます。
大人も若者だけを批判することはできません。

2001-06-01(金)

飛行機大好き

田口美貴夫さんという日本航空のパイロットが書いた『機長の一万日』(講談社)という本を読みました。やっぱり飛行機はいいなあとしみじみ感じます。あの狭いコックピットの中で、山のようにある計器を見ながら、世界中の空を飛ぶのは、男としての憧れでもあります。マッキンレーやオーロラを眼下に眺め、スラストレバーや操縦桿を握るのはいいものです。もちろん乱気流やハイジャックなど怖いものもたくさんありますが、それでもいいものはいいのです。
ぼくは最初の出版社にいた頃、よく取材と称しては羽田に行きました。先輩で、大変飛行機に詳しい人がいてよく教えてもらったのです。ほんの少しだけ形が違う型名を次々と言いながら、飛行機はいいなあ、とその先輩はよく呟いていました。時速1000キロという速さ、高度10000メートルにはロマンを感じます。ものすごい爆音をたてて、空に吸い込まれて行く瞬間が何とも言えません。
当時、日本にはあまりなじみのないデルタ航空の日比谷オフィスにもよく顔を出しました。その前にインタビューをしたのがきっかけで仲良くなった受付の女性がいたからです。英語の堪能な人でした。入り口に大きくデルタと書かれた広いオフィスでした。その後アメリカで何度もデルタの飛行機をバス代わりに使いました。とにかくアメリカは広いのです。これも何かの縁だったのでしょうか。
あの頃、あまり有名ではなかったユナイテッドなどの航空会社が今は太平洋線の中心となり、パンアメリカンが消えていったのをみると、時代の流れのはやさを感じます。
ところで学生の頃、どうしても飛行機に乗りたくて、スカイメートを利用したことがあります。大阪から東京までわずか50分ですが、乗りたい一心で空席を3時間も4時間も待ちました。料金が半額だったのです。京都の大学に通う友達のところへ行く時は片道は深夜バスのドリーム号、後の片道は飛行機と決めていました。とにかく飛行機に乗れるのが嬉しくて仕方がありませんでした。なんとなく空を飛ぶというだけで、偉くなったような気がするのです。途中ででるのは飲み物と飴だけでした。それでもなんだか嬉しかったのです。
まだ学生が海外へというような時代ではありませんでした。その後、会社に入ってから、すぐに韓国へノースウェストで行き、次にパラオへコンチネンタルで飛びました。それからはいろいろな会社のに乗りましたが、今までで一番すごかったのはイベリア航空です。これは小さな飛行機で、コックピットの中が座席から見えました。彼らはアイベリアと呼び、親しみを持っているようです。しかしその操縦は荒っぽく、後で聞いたら空軍のパイロットあがりだという話でした。いわゆるエアー・シックというのをはじめて経験したのもこの時です。
今となってはもう降りることもないアンカレッジ空港の免税店も懐かしいです。空港の中だけは大変な賑わいなのに、ふと外を見るとなんとも寒々としたところでした。英国航空北回りヨーロッパ線で、北極海をずっと眺めたことや、アメリカへ行くとき、北斗七星をすぐ傍で見たのもいい思い出です。なかなかファーストクラスという訳にはいきませんが、香港へキャセイ航空で行ったときはビジネスに乗ることができました。やはり席の広さから出てくる機内食、食器まで快適なものです。
最近では南アフリカ航空、中国東方航空、インド航空、マレーシア航空などにも乗りました。これからも大好きな空の旅はやめられそうにありません。

2001-06-01(金)

あの夏の日

かつてPRの仕事をしている時、何度か小田急線沿いのある大学を訪ねたことがあります。その夏は創立者である学長が高齢にもかかわらず授業をするということで、スクーリング風景を覗かせてもらうことになりました。どこかの新聞社に取り上げてもらおうという考えもあったからです。
その日は朝からとても暑く、多くの受講生が汗を拭きながら、大きな講堂で学長が登場するのを待っていました。そこに集まっていたのは、どうしても教員免許をとりたくて、しかし様々な事情のためそれがかなわなかった人々ばかりでした。普段は送られてくる課題を家で学び、それをまたレポートにして送り返す形で勉強するのです。他に仕事を持ちながら、学業を続けるのは並々のことではなかったでしょう。
さて、ついに学長が姿をみせた時、その講堂にいた人たちははじかれたようにして一斉に立ち上がり、拍手をしました。学長は何人もの人に見守られるようにして車椅子から降り、壇上におかれたオレンジ色の深々とした応接椅子に座ったのです。写真などでよく見かけていたのよりも少し痩せた白髪の人でした。その拍手がやっと終わった頃、学長はいきなりマイクを握り、「諸君、ペスタロッチを学びなさい」と叫びました。その声にははりがあり、とてもその後すぐに亡くなってしまうなどとは思えない力強さがこもっていました。
一代であれだけの学校を作り上げるには、勿論カリスマ性も必要だったでしょう。しかしそれを超える真の力がより要求されたと思います。幸い、その時の様子はある新聞社が大きく取り上げてくれ、ぼくの仕事は予想通りうまくいきました。あの時、あの講堂に集まっていた人たちの心の中には、まだ学長の勇姿が刻まれているのではないでしょうか。
ところで、あまりに退屈で何もすることがない時、ぼくは時々放送大学を見たりすることがあります。その中に「大学の窓」という広報番組があり、今勉強をしている人の横顔などを紹介するコーナーがあります。放送を聞いたり見たりするだけで大学を卒業するには、きっとものすごい忍耐力が必要なはずです。こんなことができる人は、今の日本の大学ならどこへでも入学できるのではないでしょうか。先生方も、本当に勉強したい人だけが集まっているので、スクーリングなどやりがいがあると聞きます。最近、放送大学院もできました。勉強する気になりさえすれば、道はいくらでも開かれています。
ぼくも昔、教員の免許が欲しくて1年半ほど通信教育をしたことがあります。ぼくのは足りない単位だけを取るというものでしたから、それほどのエネルギーを必要とはしませんでした。しかし最後に教育実習が2週間あり、会社に休暇願いを出したところ許可がおりなかったのです。それがきっかけで結局辞表を出すことになってしまいました。
時に26才でした。会社を辞めた翌日から、その大学の付属高校へ2週間通いました。もちろん、最年長の教師の卵です。しかし大変楽しい日々でした。生徒は思いの他、よく話を聞いてくれました。教材は辻邦生の言葉についての評論でした。ぼくは元々彼のファンで『夏の砦』『回廊にて』『背教者ユリアヌス』『パリ日記』などをそれまでに読んでいました。だからすぐにやれたのだろうと思います。特に『パリ日記』は全部で6巻ほどあり、ぼくの好きな本でした。タイトルがそれぞれ『海そして変容』『城そして象徴』などというしゃれたものでした。これは彼が長い留学の旅の途中、舟の上で考えたことなどを、つぶさにまとめたものです。森有正著『遙かなるノートルダム』の後に多分読んだのだと思います。あの頃はフランス人の持つ思考の明晰さに憧れていました。
話があちこちにそれてしまいました。最後にもう一度だけ。あの夏の日の老学長の姿は、やはり教育者のものだったと今でも感じます。

2001-05-30(水)

椎名町の話

そのアパートは西武線椎名町の駅から歩いて5分ぐらいのところにありました。ぼくの友達の友達が住んでいたのです。というよりその彼が親に勘当されかかって、一人暮らしを始めたところを、ぼく達がおそって秘密基地にしたという訳です。
どこにでもあるモルタル造りのアパートでした。一階の奥の部屋がぼく達の新しいアジトです。そこになんとなく似たような高校時代の仲間と、大学に入ってから知り合った他の高校の仲間が集い始めたのです。その時から「椎名町」はぼくにとって解放区になりました。
6畳の部屋にはいつもノートがおいてあり、そこへ皆が思い思いのことを書きなぐりました。時間があると駅前の喫茶店「アン」へも行きました。焼きたてのピザとそこのマスターの奥様が目当てです。
友人の中にはいろいろと難しいことを勉強しているのもいました。その反対にほとんどフリーターのようなのもいました。常時10人ぐらいが出入りしていたでしょうか。その仲間と霧ヶ峰に行ったこともあります。新宿発23時55分の鈍行列車がかっこいいというので、硬い座席に坐って行ったのです。二日目の途中あたりで中の一人が盲腸になり、慌てて戻ったこともありました。
そんなある日、一冊の本を抱えて少し興奮気味に部屋に入ってきた男がいました。既にこの世にはいなくなってしまった弁護士志望のIです。その日は妙にこざっぱりとした夏用のスーツを着ていました。暑い日でした。忘れもしません。その本のタイトルを今でもはっきり思い出せます。筑摩書房から出たばかりの真木悠介著『人間解放の理論』という本でした。彼は白い箱から中身を取り出すと、おもむろにここがすごいんだと言って解説し始めました。その頃は皆程度の差はあれ、なんとかして自分の周囲に漂うもやもやを少しは好転させたいと思っていました。そこで、この本を理解すれば状況が少しは改善されるのならと考え、今度はこれを皆で読もうということになったのです。著者は当時人気の出始めた見田宗介という社会学の研究者でした。真木悠介はペンネームだったのです。
ぼくたちはそれからしばらく読み合わせをして、何かをきっとつかみ取ろうとしたのだと思います。しかし今となっては何も覚えていません。ただその時の本当に解放され自由になりたいという気分だけは、強く記憶に残っています。今、内容を何も思い出せないのが、とても残念ですが、確かにあの時はこの内容で十分だと感じました。人間はこうやって楽になれるのだと信じたのです。いや、信じようとしただけだったかもしれません。
あれから随分月日が流れました。人間を解放してしまおうなどと、最近は夢見ることすらないです。人間はそれほど単純なものではないと気づき始めたからでしょうか。ちなみに大学を卒業して以来、一度も椎名町の駅に降りたことはありません。

2001-05-30(水)

教育家族の未来

『ついていく父親』(芹沢俊介著、新潮社)という本を読みました。現代はまさに形だけの家族が増えているという警告書です。ここには子供の安心してくつろげる場所が、家庭のどこにもないという最近の傾向がまとめられています。
実際この頃、いやな事件が多発しています。ひきこもり傾向の強い男の子が、時に感情を爆発させ、他人に襲いかかるという種類の事件です。つい先日も短大生をナイフで刺して殺害するという事件がありました。レッサー・パンダの帽子をつねにかぶっている青年がおこしたものです。自分というものを冷静に受けとめられず、すぐにかっとしてしまうとか、暴力に走る傾向が強まっています。電車のホームで口論になり殺したとか、席をつめるつめないでもめた果ての殺人とか、信じられないことばかりです。酒鬼薔薇聖斗を名乗った少年の事件も既に過去とものとなりつつあります。時が過ぎるにつれて、人々の記憶も薄らいでいきます。しかしその後も長期監禁事件や、バスジャック事件など話題には全く事欠きません。
いったい家族の内側はどうなっているのでしょうか。精神分析に携わる人や、青年心理学者はいろいろ分析を試みています。しかしその変化を明確に述べるのは大変難しいようです。概して言えることは、父親の影が薄いということでしょう。あるいは家族の中で両親があまりにも専制的に強く、いわゆる教育家族型になってしまっている点です。ちなみにこの表現は「子の保育と就学の成功を家族間での最大の課題とする人々」のことを意味します。子供の教育歴というものにばかり関心が向くと、いい成績をとってくることだけが至上命題となります。父親と母親は自分たちが思い描いたコースを子供に歩ませようとします。
横川和夫著『仮面の家』はまさにこのケースにぴったりの例を扱っています。これは中学時代、成績抜群で埼玉県内でも有数の進学校への合格を果たした子供の話です。しかし彼は高校をやがて中退し、その後私大に入ります。息子がミュージシャンになりたいと言った時、高校教師の父親はとりあえず安全策として、司法試験を受けることを勧めました。彼は父の意見を受け入れ、試験勉強を開始します。ところが数ヶ月後に酒をのみ出すようになり、何かにつけて母親に悪態をつくようになります。家庭内暴力も募る一方でした。最後に父親は自分の金属バットでとうとう息子を殴り殺してしまうという悲劇的な結末を迎えたのです。
ここにはつねに教育しようとする父の手からなんとか抜け出ようとして、できなかった優しい子供の横顔が垣間見えます。ある意味で「アダルト・チルドレン」的要素を多分に持っていたといえるでしょう。親のためにいい子でいようとする気持が強ければ強いほど、親の磁場から抜け出ることができなくなります。カウンセラーのように冷静な父親はつらいときには本を読めといったきりだったと言います。
ここで一番必要なのはもちろん「ある」だけでいいという子供の存在をまるごと肯定する態度でした。一緒に泣いてくれるだけで、子供は自分の存在が許されていることを感じます。しかしこの教育家族の中で、母親はお父さんに聞きなさいといっただけでした。子供は「ある」ことそのものが許されないことを知ります。親の期待通りの「する」子供になれないと知った瞬間、最大限親に毒づくことしか抵抗の手段はありませんでした。
現代は多くの家族が多かれ少なかれ、この危険性をはらんでいます。父親の影が薄い家では母親が前面に出ることになります。それが今日の多くの事件で引き金の一端になっていることは明らかです。この本の中で、芹沢俊介は「ついていく」だけの父親像を提言しています。家族の形は今や大きく変化しています。自分というものを価値の最上位におく以上、家族というものは次第に内側から解体していく運命にあるのかもしれません。核家族化、離婚、別居、単身赴任など、家族は現在もその姿を刻々と変えています。

2001-05-26(土)

スタバ式生活

シアトル生まれのコーヒーショップ、スターバックスが好調です。一説によれば、この喫茶店が近くにあると、それだけでマンションの売れ行きがいいそうです。コンビニとスタバさえあれば、という女性も多いと聞きます。その理由の一つは、もちろんここのコーヒーがおいしいからということでしょう。しかしもう一つの理由をあげるとすれば、この店が外のテラスをのぞいて、全面禁煙だという点にあります。あのいやな匂いのする煙の中でコーヒーを飲みたくないという、女性の支持を圧倒的に得ているのです。
今までは喫茶店といえば、必ず灰皿がつきものでした。紫煙の中で議論をしたり、音楽をきいたり、本を読んだりするのが当たり前でした。しかしスターバックスはこれにノーをつきつけたのです。数年前、アメリカへ行って驚いたのは、どの建物も内部はほとんどが禁煙だったことです。つまり屋根のついているものの中で煙草を吸うことは事実上困難でした。飛行機はもちろん、乗り物も全てだめです。スモーカーたちは駅舎の外に出たり、ビルの外に出るたびごとに一服しなければなりません。
しかし逆に煙草を吸わないぼくのような立場の人間からみれば、大変快適でした。セカンド・ハンディド・スモーク(二次喫煙)ということに対して、彼らは非常に神経質です。オフィスで働く人々はそこだけ仕切られた透明なガラスの部屋の中や、ビルの外で吸うこと以外は許されません。というより、最近煙草を吸うことは少しも恰好いいことではなく、むしろ意志薄弱な人間として扱われるという傾向が強いようです。
かつてエグゼクティブ達は、少し太めの人が多く、深々とした椅子に座ってパイプなどをふかしていました。しかしこれは今や全く過去の姿です。体重の管理ができない人は全く無能扱いされ、教養のレベルを疑われます。高脂血症やコレステロール値の高い人も同様です。また煙草を吸う人も現在では、知的レベルを疑われます。明らかに身体に悪いとわかっているものをやめられないのですから、意志力が弱いとみなされてもある意味では仕方がありません。
たばこ会社は高い税金を払わされ、違法なテレビコマーシャルを流したといって、罰金をとられます。ですから日本に上陸してきた喫茶店が店内全面禁煙にしたのは、なんの不思議もなかったのです。しかし愛煙家はたまったものではありません。そこでどうしてもスターバックスのコーヒーを飲みたい人はテラスということになります。あるいはとにかくコーヒーを飲みたい人はドトールでしょうか。こちらは逆に愛煙家の巣となりつつあります。将来棲み分けがますます進むでしょう。どちらに軍配があがるのかは大いに楽しみです。
よく日本の国会ニュースなどをみていると、平気で委員会の会議中に煙草をくゆらせている議員の姿が目に入ります。随分レベルが低いと思うのはぼくだけでしょうか。ちなみにこの国ではどこでも自動販売機で煙草を買うことができます。未成年に禁じているのにです。もし本当に未成年者が全く買わなくなってしまったら、この国のたばこ産業は壊滅的な打撃をうけるでしょう。お酒も全く同様です。ここにも日本人のホンネとタテマエが見てとれます。駅のホームなどで煙草を吸っている高校生の姿もよくみかけます。怖がって誰も注意などしません。若い女性にも結構喫煙者は多いようです。自分が吸いたいのだからという論理はもう通用しません。副流煙の害が声高に叫ばれるようになったからです。これからますます分煙化は進むでしょう。嫌煙権という考え方も既に市民権を得ています。
若い皆さん、もっとおいしい空気を吸おうではありませんか。高い税金を支払ってまでわざわざ身体をこわすことはないのですから。

2001-05-26(土)

背伸びのすすめ

大学全入時代の現象なのでしょうか、最近はあまり知らないことを恥じる風潮がなくなったといいます。以前の学生ならば予習もせずに講義にのぞみ、質問などされてわからないと少しは申し訳ないという表情を浮かべたものです。しかし今は知らないからなんだという態度に出る人が多いそうです。読書量も格段に落ちました。推薦入学で決まった生徒を一定期間予備校が預かって、本の読み方や論文の書き方、さらには英語などを教える時代です。また昨今では入試問題を予備校が受注して作るという話なども聞きます。大学そのものも内側から変化してきているのでしょう。
学生達の特徴として一番にあげられるのは、彼らの使う語彙の数が急速に減っていることです。この原因として論理的な文章を読む機会があまりにも少ないことが考えられます。少し難しい話題になると、もうついてこられません。しかしそれであまり痛痒を感じないのです。アルバイトにばかり精を出して、さっぱり学問の片鱗すら知らないというのでは、なんのための大学かといいたくもなります。たんなる「モラトリアム人間」収容所であっては困るのです。やはり学生時代には少し背伸びをして、わからないことにあえてチャレンジするくらいのパワーが必要なのではないでしょうか。
旧制一高の寮歌『ああ、玉杯に』の中に「栄華の巷低く見て」というフレーズがあります。確かに昔の高校生や大学生はエリートでした。彼らは必ずこの国の中枢にのぼることが約束されていました。だからこそ、栄華の巷を低くみながら、天下国家を論じることができたのです。しかし現在は同世代の半分以上が高等教育に進む時代です。昔と同じことをしろというのは、当然無理なことでしょう。だがここではあえてそれをしてほしいと訴えたいのです。誰でもが合格する時代だからこそ、その中身がもっと問われるということになります。
きれいごとを言うなと大学関係者は呟くかもしれません。とにかく受験生を集めることが、今や至上命題なのです。推薦もAO入試もなんでもやらなければ大学そのものがつぶれてしまいます。少しでも他大学に遅れをとったら、すぐに廃校の憂き目にあいます。まったく不思議な世の中になりました。かつて一浪を「ひとなみ」と呼んだ時代があったことなど、夢のようです。
ところで吉本ばななさんの父で、かつて多くの大学生から教祖のように扱われた人に吉本隆明がいます。『エリアンの手記』というぼくの大好きな長編詩を書いた詩人です。彼の数多い著作の中に『共同幻想論』があります。ぼくはこの本を人に勧められ、買った記憶があります。薄茶色の堅い箱に入った本でした。しかしいくら読んでも何が書いてあるかよくわかりません。「対幻想」とか「共同幻想」とか全く聞いたことのない概念ばかりが前面に出て、意味がとれませんでした。そこで仕方なく、文章中にある表現を一つ一つ図式にしてみました。これで少しは理解ができるのではないかと考えたのです。
しかし結果は同じでした。その後、この文章は柳田国男の民俗学をある程度読み込んでいないと、わからないということを友人から聞きました。そこで今度は柳田民俗学へ挑戦をしてみました。『遠野物語』をさっそく読み始めたのです。これはなかなかに面白いもので、日本人のいわゆる常民としての生き方に大変興味を持ちました。ちなみに『海上の道』は吉本の『南島論』への布石となりました。このようにして、わからない表現や、意味を少しづつ解きほぐしていったのです。ぼくにとっては大変な背伸びでした。とてもつらかったのをよく覚えています。
しかしその試みが後に評論を読むための布石となっていったことだけは確かです。少しかたいものも噛まないと、顎はすぐ弱くなってしまいます。学生時代こそ、思い切り、背伸びをしてもいいのではないでしょうか。それが許される唯一の時代だと思います。

2001-05-26(土)

ディズニーランドとユニバーサルスタジオ

以前フリーで広告代理店のライターをしていたことがあります。その時、最初に関わったのがディズニーランドの話でした。ご承知の通り、浦安というところはかつて山本周五郎の『青べか物語』にも出てきた海岸沿いの土地です。その埋め立て地に一大レジャーランドを作るという計画でした。このアイデアに参画したのは三井不動産と京成電鉄です。もちろん当時の千葉県も深く関わりました。
その日会議室ではじめて見せられたのは、実に大きな計画の原案でした。こんなものがいつの間に計画されたのかというものだったのです。それからぼくは何度か浦安市役所にも行き取材をしました。最初のうちはディズニーランドが日本のこんな辺鄙な場所(当時は本当にただの草っ原でした)にできるのか半信半疑だったのです。しかしそれはしばらく後本当のことになりました。あの時、あれだけの事実を知っていたのは、事業に参画する企業数社だけだったのです。その中でも広告代理店の果たす役割の大きさを知りました。実際にものをつくる企業はある意味で、実にわかりやすいのですが、企画力だけで莫大な利益をあげるコーディネーターの存在には驚きました。
『ディズニーランドの経済学』などをよんでいると実に面白いことがわかります。普段あまり気にしませんが、あの敷地の中にはコーラやジュースやハンバーガーの材料を運ぶ業者の車が入ることはありません。お客の目に触れては、夢の国でなくなるからです。そのために彼らがしたこと、それは全て地下道でした。あのディズニーランドの下には網の目のように地下道がはりめぐらされ、その中を従業員や車が動きます。楽屋を絶対に見せないというのが、彼らのコンセプトです。
このあたりは本家のマニュアルがよほどしっかりしているからでしょう。ミッキーやドナルドに代表されるキャラクターも実によく訓練されています。オーディションの後のレッスンはさぞ厳しいことだろうと思います。場内に入ったら全く外とは遮断されます。しかし外の風景の見えるところがたった一カ所だけあるそうですが、それは巧妙な手段で隠されています。今度行った時、探してみてください。
ディズニー・シーもまもなく始まるようです。リピーターに強いこの商魂を学ばなくてはいけません。特筆すべきことはたくさんありますが、道路の舗装方法ひとつをみても他の遊園地とは全く違います。わずか数分で水を吸い込み、水たまりができることはありません。滑らない特殊な舗装なのです。参考までにマニュアルの一つをあげれば、カストーディアルと呼ばれる場内清掃員は決してポップコーンをちりとりに入れる時にもかがむことは許されません。それが原因で子供を転ばせ、怪我をさせてはいけないからです。
さて一方のユニバーサルスタジオはどうでしょうか。ぼくはロスアンゼルスへ行ったことがあるので少しはその内容を知っています。確かに「ウォーター・ワールド」のような派手なスタントは面白いのですが、それを超える何かがないような気がしました。今は驚くだけではだめなのです。それにさらに付加価値をどうつけるのかが、戦いの正念場です。キャラクターの投入や、商品化など考えられることは全てやるでしょう。問題はリピーターをどう取り込めるかです。近畿圏は韓国、台湾などにも近く、その意味で観光客誘致には有望です。しかし近いだけではお客は集まりません。「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の暗闇の中で失神するのも面白いし、工場が燃えたり、ジョーズが襲いかかってくるのも面白いことでしょう。しかしその上に現代は神話を必要とします。
キティちゃんでもなく、ミッキーでもない、新しい神話の主人公か、まったく新しい魅力が投入されなければ長期的にはやはり苦戦を強いられるのではないでしょうか。

2001-05-24(木)

アルバイトの話

学生生活と切ってもきれないものは、なんといってもアルバイトでしょう。これを全くやらずに大学を卒業する人というのは、よほどのお坊ちゃんかお嬢さんということになります。ぼくも大学時代は随分とやりました。なかでなんといっても効率がいいのはやはり家庭教師ではないでしょうか。最近ではかなり大きな会社が組織的に乗り出していますが、一昔前はのんびりしたものでした。しかし相場はやはり格段によかったのです。
ぼくは入学後、さっそく電柱にビラをはることにしました。しかしあまり近所でやると、目立ちます。それで大きな街道を越えたあたりの電柱へ突如深夜出没し、ぺたぺたとはってまわったのです。今ならば警察からお目玉を食うのかもしれませんが、その当時はまだ何のお咎めもありませんでした。文面はいたって簡単です。とにかく何でもやりますというアピールだけはしました。今なら家庭教師の会社に登録するか、銀行の入り口に小さな広告を出すということになるのでしょうか。
さて一週間ほどしたある日、最初の電話が鳴りました。なんでも高校2年生の男の子で、週に2度ほど、数学や英語をみてほしいということでした。最初2年と聞いて、しばらくうなりましたが、元々物怖じしないところがあるせいか、まあ、なんとかなるだろうと引き受けたのです。
商船大学か海洋学部へ現役で入りたいというのが、その生徒の希望でした。とにかくやってみようということで、ぼくの最初の仕事は始まったのです。それからは次々と仕事が入り、毎日あちこちの家へ出勤ということになりました。その家の弟さん、さらには隣の家のお嬢さんというように、仕事がとぎれることはありませんでした。勉強というのは教えるほうが実はずっと学ぶものなのです。自分が本当に理解していないと、相手にそれを伝えることはできません。つまり自分なりに咀嚼しておく必要があるのです。
そのせいか、ぼくはお金をもらいながらずっと勉強を続けることができました。夏だけ見てほしいという家にも行きました。アーサー王伝説の英訳などに取り組んだのも懐かしい思い出です。また別の家のお嬢さんを一度上野の展覧会に連れていってほしいと頼まれ、出かけたこともありました。そのお宅ではよく、夕食を出していただき、今でも感謝しています。
ところで家庭教師だけをしていたのかということになると、それだけではもちろんありません。高校時代にはお正月に郵便配達をしたこともあります。また上野の駅でバナナや甘栗を売ったこともあります。当時よく名を知られていたテナー歌手の立川澄人さんにむりやりバナナを売ったのも今となってはいい思い出です。あるいはスーパーマーケットの品出しや、デパートの飾り付け、道路の舗装、ガソリンスタンドの店員などもやりました。
しかし一番面白かったのは、大きな外資系広告代理店のアルバイトでした。当時二枚刃のカミソリを使う日本人は大変少なく、フランスの会社は日本参入に迷っていました。そのため市場調査を実施したのです。実際、そのカミソリをもって日本中をまわり、使い心地などを聞くというのが仕事でした。これはぼくにとって大変刺激的な仕事でした。東北から、岐阜、白川郷、和歌山、大阪とまわりました。約2週間の旅をしたのです。とくに白川郷では大変村の人に親切にしていただき、バイクまで貸してもらいました。郡上八幡から美濃白鳥へと汽車は眼下に御母衣(みほろ)ダムをのぞみながら美しい日本の風景の中を進んだのです。
その後、しばらく同じ広告代理店の本社で働きました。通っているうちに広告というものの面白さを知ることができました。また外資特有の明るさも感じました。全てにわたってぼくが知っている日本の会社とは違いました。外国人の社員もかなりいました。3時になるとコーヒーブレークがあり、皆が一斉に職場を離れます。ここで仕事をさせてもらったことで、社会への目が随分見開かれたと思います。パッケージ一つで売り上げが大きくかわるということも大変な驚きでした。ここでの見聞は今のぼくにとって一つの原点となっています。

2001-05-24(木)

理と気

小倉紀藏著『韓国人のしくみ』(講談社現代新書)を読んでいたら、なかなか面白い記述がありました。この本は日本人と韓国人の違いを「理」と「気」で分析しようと試みているなかなかユニークなものです。簡単に説明すると、「理」は道徳性、倫理、真理、原理などです。それに対して「気」は肉体、本能、感情などを意味します。
日本人論はぼくも大好きで、『菊と刀』『甘えの構造』『日本人とユダヤ人』『スカートの風』『縮み志向の日本人』などどれも印象に残っています。世界中で日本人くらい、自分たちのことを知りたがる民族はいないそうです。それだけ他の人々との違いを大変気にする人間の集団なのかもしれません。この本は韓国人の特徴についてまとめられたものです。しかしその裏側には強烈な日本人論が展開されています。けっして韓国人のことだけを書いた本ではありません。
さて、この本で最初に興味をひかれたのは「理気学」による語学上達法のところでした。筆者は東海大学で韓国語教育に携わっている人です。ここではまず英語教育の話から始まります。彼によれば「理」の英語は大学入試に代表されるといいます。また「気」の英語は旅行英語です。この二つが日本では完全に分断されているそうです。たとえば利益という「気」の世界と言葉とが結びつくと、ぼく達は案外必死になって勉強します。実生活上の利益を求めてたとえば英語を磨こうとすれば、ある程度やるはずです。
しかしなぜか日本の学校ではこれが欠如しています。そういうことは神聖な学校でやることではなく、むしろ町の英会話学校でやるものということになっています。あるいは恋人ともっと話したいとか、外国人相手にビジネスをするとか、何かインターネットで調べものをしたいとか、直接利益につながることを前面に出さないと、あまり実利的な身になる勉強をしないというのです。そういわれてみると、確かに学校の英語はお高くとまっています。簡単に言ってしまえば、そこで教えられるのは入試を突破するためだけの英語です。ですから、当初の目的を達してしまえば、それ以上の進展はありません。全くもったいない話ですが、そこで完結してしまうのです。
さて、彼のいる大学には毎年夏に韓国から一ヶ月間、大学生が語学研修にきます。そこで合同授業をするそうです。その時の光景はいつもきまっています。すなわち韓国の学生が一生懸命、日本語でコミュニケーションを図ろうとするのに、日本人はみな、黙りこくってしまうのです。日本語を習い始めて、まだ一年にもならない生徒でも、かなり達者に喋るといいます。彼らは日本人の学生に対して、軽蔑や憐憫などの感情をはるかに超えて、純粋な驚きを覚えるようです。
しかし日本人はいったん紙に書かせると、実にきちんとやるのです。単語テストや、作文テストをするとよい点数をとるそうです。過去形もわかっているのに、会話には全くでてこないというのも不思議な話です。
ところで今、ぼくの勤めている学校にも香港から留学生が来ています。その彼女も、なぜあれほど難しい文法を知っているのに、この学校の生徒達は自由に英語が喋れないのかと驚いています。ぼくが毎週一度、彼女と日本語の勉強のために机を並べる時、彼女の口からでるため息がまさにこれです。意志の疎通がうまくいかない時、彼女のストレスも強くなるようです。きっと彼女自身、流暢に日本語を話せる日が来るまで、このいらいらは解消されないでしょう。香港からの留学生に英語で話しかけてくれる友達はほとんどいないのが実情なのです。
この問題は案外単純そうで、実は文化の深層に根ざしたテーマをたくさん含んでいる可能性があります。今話題になっているように、小学校から英語の授業を始めたら解決するのでしょうか。どうも言葉というものに対しての貪欲さが筆者の説く「気」とマッチしていないことからくる悲劇のようにも思われるのです。
この本にはその他、韓国人男性が「理」の世界に生きようとする背景についての解説もあります。なぜ彼らはあれだけ政治的な問題や歴史問題に原則的な態度を崩さず、臨んでくるのでしょう。ふにゃふにゃしたままで背中に一本芯の通っていない「気」だけで生きている日本の男性は、ある意味で世界の珍獣になりつつあるのかもしれません。

2001-05-22(火)

不思議いっぱい

文化人類学や民俗学というのは、実に不思議な学問です。ぼく達が当たり前に暮らしている日常生活にずかずかと入り込んできて、なぜこれはこうなのかと考え始めるのです。考えてみると、これほど妙な学問はありません。具体例を少しあげてみましょう。
例えば箸と茶碗の話があります。どの家でもたいてい箸と茶碗は一人一人決まっています。たとえ家族の中でも他の人の箸などを使うとおかしなものです。時には怒り出す人がいるかもしれません。もちろん茶碗も同様です。しかしこれがカレーライスを食べるためのお皿やスプーンとなるとどうでしょう。誰のスプーンか決まっている家もあるかもしれませんが、たいていは不特定多数のものではないでしょうか。
きっと使うときに端から順番に使っていくのが普通でしょう。この差はいったいどこからくるのか、考え出すと実に不思議です。しかし毎日そんなことを悩んでいる人はいません。ごく当たり前に暮らしています。しかし文化人類学や民俗学の手にかかると、これが恰好の材料になるのです。お皿と茶椀はその意味の構造がどう違うのか。スプーンと箸はどこが違うのか。その歴史的背景にせまっていくのです。
よく出棺の時などに、故人の使っていた茶碗を割るという風習が残っている地方もあります。ここにも米文化の残滓が残っています。いわゆる洋食器と呼ばれるものに対してぼく達が持つ感情と、米を盛る食器とは全く別の次元にあるものなのかもしれません。こんな身近なところから日本人の起源を探っていこうとするのです。
また、お中元やお歳暮という風習も、考えてみれば不思議なものです。そこにはつねに「お返し」という発想がついてまわります。日本人はすぐにものをもらうと、それとほぼ等しい価値のものを送り返そうとします。結納などでも女性側はもらった額の半分を袴料として男性側に返すのが普通です。それならば最初から半分にすれば合理的ですが、それはしません。
こういう風習はどの国にもある訳ではありません。ところがカナダ・インディアンの中には「ポトラッチ」と呼ばれる風習を持つ部族があります。これは相手の前で自分たちが大切にしているものを燃やしたりして、敵意がないことを示すのだそうです。たいていは毛布などの防寒具、時には家畜もその中に入るといいます。相手も同様に大切なものをわざと失います。このような例はお中元、お歳暮などとよく比較検討されるようです。贈り物をすることにより、相手にある種の威圧感を与えて、自分を優位にするか、あるいは相手とよりよいコミュニケーションをつくるためと解釈できそうです。
高層ビルの起工式などで神主を呼び、お祓いをする風景も考えてみれば不思議です。なぜこれだけ合理主義の進んだ時代に、謎めいた行動をとるのか、答えはなかなか出そうもありません。アフリカで広く行われている呪術を、馬鹿にしたりはできません。日本でもやはり同じようなことを行っているのです。
かつて山口昌男は文化人類学の連続講座を行いました。それをまとめたものが岩波新書から出ています。『文化人類学への招待』がそれです。この講座には大江健三郎も毎回かけつけました。最後に彼の談話が載っていて、これもなかなか面白いです。南海の島での話や、フィールドワークの話なども興味がつきません。

2001-05-22(火)

私のいる文章

以前NIE(教育に新聞を)の研究員をしていた関係で、幾つかの新聞社を訪れたことがあります。また日比谷のプレスセンターにもよく行きました。多くの人が記者会見をするので大変有名なところです。
ところで近年、新聞社は大きく変わりました。そこは以前とは全く違う世界です。懐かしい「事件記者」の時代はとうに去り、今は皆がパソコンやワープロ相手に戦う場所です。記事ができるとすぐに、自動システムで割り付けされ、瞬時に印刷にかけられます。この職場も今や時代の流れには逆らえず、コンピュータが幅を利かせています。
ぼく自身、新聞記者になろうとは思ったことは一度もありません。地方の警察まわりから始まる記者の生活そのものになじめなかったからでしょうか。友人にも何人か記者はいますが、なかなか東京には戻れないようです。当たり前のことですが、新聞記者も一介のサラリーマンです。会社の方針に反する記事が書けないのはもちろんのこと、その他にも制約が多々あります。自分を殺さなければならない場面が多いのです。
かつて記者志望の大学生の添削をみてくれと言われて、お手伝いしたことがありました。数人相手の臨時エッセイ講座です。タイトルはわざと「表と裏」といったようなものを出します。一見どのようにも書けるもので実力を試すのです。センスと正確さが要求されるのはもちろんのこと、味わいのあるうまい文を書かなくてはなりません。これが一朝一夕にできないのは容易に想像できるでしょう。教養、感性、道徳観など、さまざまなものが必要となります。その中である青年が無事に希望の社に入りました。これはと思っていただけに大変嬉しかった記憶があります。
これも随分以前のことですが、『北帰行』という作品で「文芸」賞をとった外岡秀俊という人が、突然新聞記者になった時は大変驚きました。リリシズムにあふれた作品を書く新進作家が、いわゆる「サツ廻り」で感性を磨り減らしていくのではないかと危惧したのです。しかしその後新聞紙上で何度か書名入りの記事をみるようになりました。今ではその新聞社の編集委員です。言葉の使い方が正確で、しかもあたたかい文を書く人です。
長い間、記者生活をしていた森本哲郎の著書『私のいる文章』によれば、新聞記者を長くしていて一番つらいのは、主語を常に消しながら、文章を書かなければならないことだそうです。自分はどう考えるのか、私はどうなのかということを記事の中に書くことは許されません。いつも自分というものの痕跡を消しながら、文を書くことが求められます。実はそれが最もつらいことだそうです。
その大変な苦痛に耐えられるかどうかで、その後の生活が決まると言ってもいいのです。つまり「私」のいる文章を真剣に書きたくなるかどうかということです。署名原稿など、普通滅多なことでは書かせてもらえません。こんな状態に長くいると、やがて自分がどこにいるのか見えなくなってくることもあります。そこが新聞記者稼業の一番の難所です。いきおい昨今の記者はサラリーマン化していく傾向が強くなります。彼らは一方で権力も持っています。記者クラブなどの排他性はよく話題になるところです。
忙しい場合、電話だけの取材で記事を書いてしまうこともあります。いつまでこの仕事を続けられるのかと悩む人も多いと聞きます。次第に身体がきつくなり、やがて外廻りの季節が終わるのです。自分で転職先を見つけられればそれもよし、あとは取材のネットワークを使い、再就職ということでしょうか。
記事を作る方が川の上流だとすれば、末端の配達システムは旧態依然のままです。洗剤をもって勧誘してまわる配達員の姿を見ない日はありません。朝夕刊を家まで届けてくれる日本のシステムは一見あたりまえのようですが、世界的にみても全く特異なものです。

2001-05-20(日)

青いバラは美しいか

最相葉月さんの新刊『青いバラ』をもう読んだ人もいることでしょう。先日ある番組で彼女のインタビューを聞く機会がありました。最相さんはこのノンフィクションを書くために3年をかけました。どうしても青いバラの存在が気になって仕方がなかったそうです。なぜそれほどに惹かれるのか、その理由がはっきりしないのにもかかわらず興味を持ったのです。現在世の中に出回っている青いバラは、正確に言うと、藤紫色です。ちなみにカーネーションにも青はありません。実際、この品種を作り出せたらそれだけで数億円、その後の特許料を考えると、法外な利益を生み出します。
青いバラの話はギリシャ神話にも出てくると言います。長い間、ずっと不可能の代名詞として使われてきました。ちなみに英語ではズバリありえないことを意味します。
彼女はどうしてもその秘密を知りたくて、バラの育種家では世界屈指の鈴木省三さんという人をアポなしで突然訪れます。品種改良の可能性を直接、鈴木さんに会って聞こうとしたのです。
なぜ青いバラが世界に存在しないのかという理由は、色の要素となる特殊な物質、アントシアニンがもともとバラの品種の中にないところから来ているようです。バラの遺伝子に酵素の発現命令がないということは、既に随分前からわかっていました。
しかしそのことより一番衝撃的だったのは、鈴木さんが最初に呟いた一言でした。
「もし青いバラができるとして、あなたはそれを美しいと思いますか?」という問いかけの前に最相さんは何も言えなかったのです。
現在、科学は様々な不可能を可能にしています。遺伝子組み換えによって、もしかしたら青いバラも生まれる余地があるかもしれません。実際サントリーは園芸部を中心にバイオテクノロジーを駆使して、この研究を行っています。ほぼ完成の領域に達しているという情報も一部には流れています。しかし可能だということと、それを美しいと感じることの間には大きな隔たりがあります。
長い間、育種家として生活してきた鈴木さんには、むしろ他人には見えない科学の先端が見えているのかもしれません。現在まだ青いバラは地球上に存在しないのです。しかしそれが目の前に現れたとき、美しいと感じる心が存在するのかどうか、それこそが最大の問題です。
つい先日、日本にも代理母が誕生しました。子宮を他人に貸すだけだといえばそれまでです。しかし人間には感情が残ります。産んだ子供に対して、愛情をどうコントロールすればいいのか、誰も教えてくれません。アメリカでは訴訟も起きています。科学は時に残酷な結果をもたらします。これからも似たような問題が日本でも起こることは間違いありません。
青いバラの非在は可能であることと、美しいこととは全く別のものであることを、ひそやかに示そうとしているのではないでしょうか。

2001-05-18(金)

(続)五月病のあなたへ

大学に入って最初のショックは、一時間目の授業でした。講義内容は「デデキントの切断」です。ぼくはそれまでデデキントなどという言葉を聞いたことなどありませんでした。人間の名前なのか、あるいはある種の暗号なのか、全く不案内でした。線型代数学の基礎では、なんでも直線が連続であるということはとても大切なことなのだそうです。先生は黒板になにやら見たことのない数式を書きました。その中には高校で全くみたことのないAを逆さまにした文字なども入っていました。
先生はそれをいきなり説明し始めたのです。皆わかっているのかどうか、とにかくノートを必死にとっています。ぼくもひたすら写しました。しかし何が書いてあるのかさっぱりわかりません。途中まで説明した先生は、ここまでやったのだから、あとはわかる人が解いてみなさいと言いました。誰かいないかなあと先生が学生の顔を見回した瞬間、ある学生が突然手をあげました。
その男子学生は大きな黒板を使っていきなり、右の端から解き始めました。ところがどこまでいっても終わりません。ぼくにはもちろん何をやっているのか皆目理解不能です。しかしとうとう左の端の下まで来た時、その学生は先生に向かってできましたと言ったのです。ぼくにはちんぷんかんぷんで、何をやっているのかわかりません。しかしその問題をきちんと理解している人がいるという事実にまず驚きました。本当にこの時のショックは今でもありありと思い出せます。入試の問題が解けるというレベルなど、たんなる子供だましだということがすぐにわかりました。
先生は実に優雅に黒板を眺め、ふんふんと頷きながら、これでいいねとすぐに呟きました。こんな衝撃的な授業から、ぼくの大学生活は始まったのです。五月病にかかっている皆さん、みなさんに比べて、ぼくの状況はかなり暗かったと思いませんか。同じ人間でありながら全く言葉が違う人と一緒に教室に座っていることのつらさを、ぼくはこの後2年間味わうことになったのです。なぜこの学科に入ろうとしたのか、我が身を呪いました。「群論」「ヒルベルト空間論」「トポロジー」などという名前を聞いただけで今でも寒気がしてきます。
それからの日々、ぼくはなんとかして自分のアイデンティティーを確立する必要にせまられました。このままではつぶされていくのが目に見えているからです。自分は何に向いているのか、必死で考えました。その時、ぼくは数式ではなく言葉が好きなのだということに気づいたのです。それまで考えてもみないことでした。高校時代はただ国語が嫌いではないというレベルに過ぎなかったのです。しかしそんな暢気なことをいっている場合ではなくなりました。とにかくなんとかしなくてはいけないのです。3年になったらゼミに入り、一対一の授業を受けなくてはなりません。卒業など夢のまた夢です。退学することも真剣に考えました。
時、既に五月でした。とにかく大学の相談室へ駆け込みました。転部の相談です。毎年この時期になるとたくさんの生徒が来ると先生が言っていました。ここは第一志望ではなかったとか、勉強する気がおきないとか、今の学部の雰囲気がいやだとか、それは多岐にわたる内容のようでした。その時のぼくもまさにそれだったのです。しかし相談窓口の先生は大変親身に話を聞いてくれました。
実際、日本の多くの大学では転部転科をいやがります。ここにも日本の大学の閉鎖性の問題があります。序列化した大学や学部意識を変えなくてはいけません。特に夜間部から昼間部にかわるのは至難の技です。この数を多くすると、学部の秩序が保てないと考えている担当者が多いようです。偏差値で輪切りにされた大学の横顔がよく見えます。アメリカなどでは全く考えられないことです。このことについてはまたいつか書く機会があることでしょう。
さて、それからの2年間、ぼくは仮面浪人のような暮らしをしたといっても過言ではありません。文学をするためなら、というより数式のワンダーランドから脱出するために、あらゆる方策を練りました。試験科目は、国語、論文、面接、英語、第二外国語でした。ぼくはフランス語をとっていたので、まずそのあたりからとりかかるしかないと決心しました。しかしその後の道はけっして平坦なものではありませんでした。
五月病にかかっているみなさん、まず自分を直視することです。つらいかもしれないけれど、そこからしか始まりません。今が脱皮の時です。痛みをともなうかもしれませんが、その後の喜びを想像してください。頼れるのは自分だけです。何をしてもいいと言われると、人間はつらいものです。哲学者サルトルはそれを「実存」と名づけました。元々人は一人で生きていく宿命を背負っています。その覚悟を今、ここで培ってください。
ぼくのこの後の顛末は、また後日に譲るとしましょう。

2001-05-18(金)

五月病のあなたへ

五月病の季節になりました。厳しい入学試験を突破して、希望の学校に入った人も、あるいは思った通りの結果を出せずに、第二、第三希望の学校に入った人も、当初の慌ただしさが消え、少し力が抜け、やっと自分が見え始めてきた頃です。連休の疲れも癒えて、さあ、これから何かをしようという時になって、本当に自分の選択はこれでよかったのか、もっと他にやりたいことはなかったのかと悩み始めるのです。
というより、自分が何をやったらいいのかわからなくなって、何も面白くないと思い始めている人も多いのではないでしょうか。まさに五月病真っ只中です。何かしなければいけないのはわかっていても、身体がだるいと感じたり、よく眠れない、食欲がないなど、さまざまな症状が出てきます。真面目な人ほど症状の強いのが特徴です。
生徒相談室に駆け込んで悩みを訴える人などはまだずっといい方で、今は「通年病」といわれる症状の生徒の方が多いのです。つまり一年を通して、五月病なのです。これは本当に厄介な話です。
一言でいえば今までは誰かが自分の方向を決めてくれていたのだと思います。しかし上級学校に入るにつれ、誰も面倒を見てくれなくなります。今までは担任の先生があれやこれやと手をかけてくれたかもしれません。しかし大学などでは科目の取り方もごくあっさりした説明で終わってしまいます。ましてや、掲示板を読んでいなかったなどというのは、理由になりません。
大教室で受ける授業は、無味乾燥で面白みを感じないものが多いものです。サークルの勧誘でも何にすればいいのか迷ってしまいます。まして、今まで真面目一筋にきた人などは、これから先の長い時間をどう使えばいいのか、まったくわからなくなってしまうこともあるでしよう。
ぼく自身もそんな時期を過ごしたことがあります。大学に入ってすぐ、失敗したと思いました。専攻した学科にまったく興味が持てなくなってしまったのです。それまで高校の勉強は一応やっていましたので、入試問題のレベルまではクリアしました。しかし大学の授業はぼくの想像をはるかに超えて、難しかったのです。分からない授業を聞き続けるということがいかにつらいことか、この時、骨身にしみて感じました。学科選択を完全に間違えたと思いました。この時、ぼくは理系の人間ではないということを知りました。その後、学校の相談室に行き、転部の相談をしました。夏休みになる前のことです。それからのことはいずれ、また書く機会があると思います。
いずれにせよ、五月病は自分自身をみつめる一つの契機になることは間違いありません。人間は失敗を怖れるものです。特に今まで大きなミスを犯して来なかった人は、これからもやはり失敗するのは怖いでしょう。しかしここはあえてミスをしても、そこから学び取るという姿勢を持ち続けていくことが大切でしょう。五月病につける薬はありません。時間が解決するという言い方は狡いかもしれませんが、失敗を続ける覚悟も必要です。
森本薫の戯曲『女の一生』の中で主人公、布引ケイはこんな台詞を吐きました。
――「私の選んだ人生ですもの、間違えたら間違えたように生きていかなくっちゃ」
ここには負け惜しみはありません。どんな選択の中からも、自分に最適な状況をつくり出していく人間のしたたかさが出ています。女優、杉村春子がこの台詞を呟きながら、客席をじっと見つめるシーンが忘れられません。力強い彼女の生き方が今こそ、五月病のあなたに必要なのです。

2001-05-12(土)

パーティは難しい

今まで随分とたくさんのパーティに出席しました。結婚式、表彰式、退職記念、送別会はもちろんのこと、以前出版社に勤めていた頃には、ほとんど毎日夜はパーティでした。都心の一流ホテルと呼ばれるところは全てまわりました。またぼくの在籍していた会社そのものもパーティを主催しました。毎年ビンゴ大会をやって、自動車を一台提供したりしたのです。どこからか誰か偉い人がくるといっては開き、販売促進のために関係者を集めるといっては開き、最後の頃は少々不感症になっていました。
出される食事も大同小異です。おいしいご馳走も、料理も毎日食べていればまたかということになります。結局模擬店のお寿司や、おそばに最後は到達するということになりました。今から考えてみるとあの頃はなんと贅沢な暮らしをしていたことでしょう。
パーティの手順は、会場に入る直前にわたされるビールやウィスキーを飲みながら、まず知り合いを探すところから始まります。どこへ行っても同じ記者仲間が必ず何人かいるので、彼らとの情報交換からスタートです。しかしこれも毎日しているわけにもいかないので、新しい人との出会いを待つということになります。しかし何枚名刺を交換しても、それほど簡単に親しくなれるというわけではありません。
よく新年名刺交換会とか、異業種名刺交換会なとどいうものがありますが、正直言ってどの程度効果があるのか疑問です。パーティは所詮パーティでしかなく、それ以上の関係をつくるということになると、もっと別のアプローチが必要になるのではないでしょうか。結局知っている人間同士が、再び顔をあわせて、久闊を叙すというレベルに落ち着いてしまいます。それほど難しい話をするわけでもなく、なんとなく食事をしておなかがいっぱいになった頃、周囲においてある椅子に腰掛けて、ひとまず休憩というところでしょうか。そこでも隣り合った人と語ることはあるでしょうが、人生が変わるというところまではいかないようです。
資金調達のために開きたがる政治家の場合はさておいて、普通の人間が普通に暮らしていくために、パーティは、あまり大きな効果を持つものはいえないのではないでしょうか。この考えがあまりにもペシミスティックだというのであれば、ぼくの経験がまだ浅いということなのかもしれません。
パーティというものは考えれば考えるほど難しいものです。挨拶は短めにと望むのは無理でしょうか。飲むものをもたされて長い挨拶をじっと聞き続けるくらいつらいものはありません。俗に日本人のスピーチはまずお詫びから、外国人のスピーチはまずジョークからと言われます。ユーモアのセンスは知性と直結しています。つねに感性を磨く必要もあるでしょう。いずれにせよ、パーティでエトランジェにならず心から楽しめるようになるためには、並々でない修練が大切なようです。

2001-05-12(土)

ああ、幻の大玉牛!

牛丼というものを意識して食べたのは、大学に入ってからです。今のようにチェーン店もなく、それほどにポピュラーなものではありませんでした。これはぼくがはじめて牛丼に出会った時の話です。
その店はほんとうにひっそりと大学の門の前にありました。カウンターが無造作にあるだけの学生街の食堂です。通称、裏門と呼ばれるその周囲には食堂が軒を並べ、昼時ともなると、多くの学生が次々とあたりの店に吸い込まれていきました。
ぼくがその店に入ったのも全くの偶然です。それまで牛丼というものがこの世にあることを知らず、まったくそれは唐突に注文されたのです。なぜあの時、牛丼などを食べたいと思ったのかといえば、それは隣に座っていた一人の学生が、実においしそうに食べていたからです。値段もきっと手頃だったのでしょう。その店では牛丼が一番の人気メニューだったようです。
何も知らないぼくはただ「牛丼ください」と言ったのでしょう。しかし店のおばさんはそんなことでぼくを許してはくれませんでした。「大盛り、中盛り、普通盛り?」とすぐに訊かれました。その他にもいくつかのバリエーションがあったかもしれません。「卵はどうします?」という問いかけもすぐに後から追いかけてきました。
そこでおなかがすいていたぼくは大盛りで、卵もつけてくださいとおずおず言ったのだと思います。というのもとにかく昔のことで、記憶がはなはだ曖昧なのです。すると、店のおばさんは突然「大玉牛一丁!」と叫びました。この時、「おおたまぎゅう」という名前がぼくの脳みそに刷り込まれました。なぜあんなに感動したのでしょう。さっぱり今となっては思い出せません。ただ語感がよかったことは確かです。とにかくいいネーミングだと感嘆しました。それから数分と待たずにすぐ「大玉牛」はぼくの前に姿をあらわしました。
テーブルの上にのっていた紅ショウガをたっぷりとどんぶりにのせ、後はただ無言でいただきました。大変おいしかったです。卵、ご飯、牛肉、タマネギのアンサンブルはみごとなものでした。味付けもなかなか凝っていました。
もともと牛肉をたべるという習慣が日本にはなかったのですから、牛丼などというものは明治になってからのものでしよう。福沢諭吉が牛鍋をつついているのを見て、暗殺を考えた人が何人もいるという話があるくらいです。当時、牛を食べると頭から角がはえると本当に信じられていました。きっと誰かが、牛鍋のあまりものをごはんにかけたのかもしれません。その試みにそれほどの時間はかからなかったのではないでしょうか。これは結構いけるというので、すぐヒット商品の候補になったと想像されます。
ところがそれほどに感動した牛丼にもかかわらず、それから何度も同じ店に行ったという記憶がありません。あるいは一度で終わったのか、二度目には失望したのか、そのあたりは定かではありません。
しかしいずれにせよ、あれからあの大玉牛の味に再会していないことだけは確かです。あれこそ、一期一会と呼べるものなのかもしれません。とにかく若い時代でした。なにもかもがむしゃらで、なにができるという訳でもないのに、へんに自信だけが身体中にみなぎっていました。

2001-05-12(土)

シェークスピアの新しさ

演劇の世界では、何をやってもだめな時はシェークスピアに戻ればいい、という話があるそうです。それくらい、彼の戯曲は世界中で多く演じられているということでしょう。それもどのような形で行っても、それなりに形が決まるというところに興味をひかれます。古くは坪内逍遙、その後多くの人の手をへて、福田、小田島、松岡訳などが現在世に出ています。
演出家、蜷川幸雄の『ハムレット』や『マクベス』などを見た人は、これがあのシェークスピアかと驚いたことだろうと思います。仏壇まで登場するセットはあまりにも奇抜なものでした。
ぼくも「シェークスピア・シアター」という劇団が『ヘンリー六世』を完全上演するというので、かつて見にいったことがあります。演出家・出口典雄が率いるこの集団は、全ての劇をジーパンとTシャツ、それにいくらかのマントだけでやってしまうのです。シェークスピアの処女作『十二夜』という喜劇を見て、この劇団の力量は知っていましたので、行く前からとても楽しみでした。しかしその後完全上演というのはこれほどに体力を使うものかということを、たっぷりと思い知らされました。
その上演時間は実に6時間を超えていたのです。普通どれほど長いものでも3時間が限度というところでしょう。しかしこの芝居の長かったこと。今までにぼくがみたものの中でも最長記録です。映画ならば、一度撮影すればいいのですから、それほど気にもなりませんが、演劇は全て生身です。多くの観客の目の前で6時間演技を続けるということの大変さは、想像するにあまりあります。
途中一度だけ休憩がありましたが、その時場内アナウンスが流れました。それは「役者もがんばっておりますので、みなさまもどうぞあと3時間がんばってください」というものでした。これには客席にいた人たちも思わず爆笑してしまいました。しかし役者の熱演とあいまってストーリーは大変面白いものでした。俗にバラ戦争と呼ばれるランカスター家とヨーク家との王位争奪戦を描いたものですが、昨日の敵は今日の友といった戦国絵巻がみごとに繰り広げられたのです。
その後、シェークスピアの作品を好んで見るようになりました。山崎努の『リチャード三世』など大変印象に残る舞台でした。もう少しはやく生まれていれば、名優芥川比呂志の『ハムレット』を見ることができたのに、大変残念です。せめて尾上松緑の『オセロ』を見ることができたことで良しとするしかないでしょう。また『リア王』などは黒澤明に大きな影響を与え、後年の映画『乱』のモチーフとなりました。『ロミオとジュリエット』はいうまでもなく、いつの時代でも定番です。オリビア・ハッセーやデカプリオの映画を待つまでもありません。劇団「四季」もまた『ハムレット』を再演するそうです。また鴻上尚史も『ウィンザーの陽気な女房たち』を演出すると聞きました。
最近では『恋におちたシェークスピア』という大変面白い映画もありました。このようにシェークスピアはつねに古く、つねに新しいのです。そこには一見強くしかし内面の弱い人間が登場します。しかしその人たちがごく些細な過ちを犯すことで、最後には取り返しもつかないような重大な結果を引き起こしてしまうのです。
どこにでもいるような人間に対する深い洞察力と愛情。それがこの偉大な戯曲家の最も長く愛される理由なのではないでしょうか。

2001-05-09(水)

生命の未来

遺伝子組み替え食品の話を耳にしてから、随分と月日がたちました。毎日食べるものですから、やはり気になります。虫がつかないとか、病気に強い品種を次々と改良していくのは、生産性を考えれば当然のことです。しかしそのために遺伝子を組み替えるということになると、これは少し話がちがってきます。やはり人体への影響が心配です。まだこれといった結果は出ていませんが、今後ダイオキシンなどのように、深刻な問題をひきおこす可能性が大いにあります。
ところで食べるものだけかと思っていたら、つい最近、とうとう人間にもこれが現実の話となってふりかかってきました。不妊治療の結果、両親の遺伝子に他の人の遺伝子をまぜて受精能力を高めるという実験が行われていたのです。アメリカではこの方法で既に30人以上の赤ちゃんが生まれているそうです。
その後、誕生した赤ちゃんを調べた結果、確かに別の遺伝子提供者のミトコンドリアが混在していたというのです。つまりわかりやすく言えば、合作人間誕生ということでしょうか。代理母というのはたんに産んでもらうためだけの人のことでしたが、今や、そのレベルを遙かに超えて、とうとう遺伝子まで少し分けてもらうようになったのです。
ミトコンドリアといえば、瀬名秀明が書いた『パラサイト・イブ』という小説がすぐに思い出されます。ぼくは素人なのでよくわかりませんが、なんとなくどろどろとした液体が培養器の中で自己増殖していくイメージばかりが先行して、なんとも不気味だったことをよく覚えています。
人間はどのように誕生すれば幸せなのでしょうか。この答えは大変難しいです。最近ではクローン動物の研究も盛んです。当然この研究の先にはクローン化した人間の存在があると思わなければなりません。ある人は、神の領域に入ってはいけないと主張します。しかし別の科学者は、それが人類の未来のために少しでも貢献する可能性があるのならば、当然研究すべきであると言います。
誰から生まれて、誰を父と呼び母と呼ぶのかという最も基本のところから、私たちは選択せざるをえなくなっているのです。科学の研究は誰にもとめられないと思います。それは原子爆弾の開発をみていればよく分かることです。今後、抑止力となるのは人間の理性、判断力だけでしょう。人間の未来に何が最も適したものであるのか、私たちはいよいよ深く考えなくてはならないところにきてしまいました。

2001-05-09(水)

行列考

毎朝の通勤途中、よく行列をみかけます。駅前のパチンコ屋さんの前です。多くの人がかなり早い時間から10時の開店をめざして待っています。学生の姿が目立ちますが、主婦もいます。なかにはパンを囓りながら、新聞を読んでいる人もみかけます。開店早々よく入る台をとるためには、やはり並ぶ必要があるのでしょう。とくに新装開店というわけでもないですから、その気力と体力にはやはり頭がさがります。
ところでテレビなどを見ていると、よく行列のできる店というのを紹介しています。多くの人が本当にじっと待ち続けている様子には感心するやら、驚くやらといったところでしょうか。ぼくはもともと江戸っ子なのか、あまり行列が得意ではありません。待つという思想がほとんどないのです。
かつてヨーロッパ旅行をした時、「ローマの休日」にあたったことがありました。どうしてもお金を両替しなければならないので駅にあるたった一つの窓口に並びました。しかし幾ら待っても少しも進みません。彼らは実にのんびりと作業をします。本当にこれで銀行なのかと思うくらいのスピードです。お金の勘定も実に優雅で、日本の銀行だったらすぐに首になるところでしょう。
しかしヨーロッパの人はあまり文句も言わずに根気よく並んでいます。スペインでも汽車の切符をとろうとして並んだことがありました。これもたいして人がいないにも関わらず、少しも進まないのです。本当にあきれるほどの時間を費やしました。文化の違いなのでしょうか。しかし日本でも似たような風景が生まれているとしたら、案外文化の壁はなくなっているのかもしれません。
哲学者G・バタイユはかつて「蕩尽」という思想を語りました。私たち人間は太陽から生きていくために十分すぎるほどのエネルギーを手にしていると彼は言います。だから使い果たさないと、私たちは疲れ切ってしまい、たえずストレスを感じるのだそうです。そこで消費が必要になります。
よくいらいらしている時に買い物をするとすっきりする、というのはここから来ているようです。難しい言葉ですが、「蕩尽」こそが人間を人間にしてくれるのかもしれません。ギャンブルはまさにその代表です。冷静に考えれば、それで一攫千金を得ることなど、不可能に近いのです。しかし人間はのめりこんでいきます。
まさにエントロピーを下げるという作用があるわけです。家の中にゴミがたまれば、人はそれを外に放出しようとします。それと同じことがギャンブルにもあるわけです。
ところで行列の話です。ここにも「蕩尽」の思想がどうやら忍び込んでいそうではありませんか。おいしいから並ぶというより、並んでいるから並ぶという方が正確な気がします。人は並ぶという行為の中にエントロピーを下げる効果があるのを本能的に知っているのかもしれません。あるいは無意識の行動でしょうか。しかし並ぶために並ぶという行為は、人間だけに許された最も高等な行為とも言えそうです。

2001-05-04(金)

メジャー狂想曲

巨人軍の長嶋監督が「松井よ、メジャーへ行くな」という記事を書いて話題になっています。毎日のスポーツ報道をみていると、まずメジャーリーグの結果からというのが当たり前になってしまいました。イチロー、新庄、野茂、佐々木の活躍ぶりをみれば、それも十分に納得がいきます。とくに開幕早々、野茂のノーヒットノーラン達成はすごいニュースでしたし、イチローの連続安打数記録、佐々木の月間セーブ数も驚異的なものです。逆に言えば、それだけ日本のプロ野球が薄味になっているということなのかもしれません。テレビ中継の視聴率も下がっているそうです。スター選手が次々とアメリカへ行ってしまえば、ますます日本の野球界はじり貧にならざるを得ないでしょう。
かつてプロ野球に多くの人材を輩出した都市対抗野球は景気の低迷と前後して、全く下火になってしまいました。唯一の救いは高校野球です。しかしこれも多くの問題をかかえています。甲子園が始まる頃、新聞などで生徒の出身中学欄をみていると、まったくあきれてしまいます。野球が学校のネームバリューを高めるためだけのものだとしたら、その内実はあまりにもお粗末です。池田高校の蔦監督が先日亡くなりました。教育の一環として、どこまで今の時代に野球を続けていけるのかは、大変難しいところです。
というのもスター選手はすぐに何億という現金を手にできるのです。それだけに魑魅魍魎が跋扈する余地は大いにあるわけです。それにしてもイチローは用意周到でした。随分前からメジャーへいく夢を持っていたにもかかわらず、その時期がくるのをじっと待ち、英語の堪能な女性を伴侶にしました。また彼が最初のヒットを打った試合の後、目を真っ赤にしてインタビューに応じてい