創作

2002-12-11(水)

   アゲイン

試験場にあてられた教室には200人以上もいるはずなのに、森の中のように静かだった。鉛筆と紙のこすれる音がして、時間が確実に進んでいった。ぼくは5月から何度も試験を受けてウンザリしきっていた。答案が返される度になんとなく、このあたりの大学なら合格しそうだという見当がつく。もともと、そう勉強が好きだというのでもなかった。しかし今、ぼくの身体から受験を取ったら、あとには何も残らない。
英語の長文を読んでいると、脳ミソの中で単語がはねた。覚えたばかりの言葉がいくつもあるのに、意味の回路とつながらない。隣の女の子は英語が得意なのか、しきりとうなずきながら長い文章に向かっていた。時々、髪を掻きあげると、輪郭がいっそうはっきりと見える。
斜め向かいにいる二番町がこっちを時々見た。せつなそうな顔だ。
隣の女の子は必死だった。ぼくは試験中何度も彼女の横顔をみつめた。用心深く視線を下げて。
エアコンはじんじんと一日中鳴り続けた。
英語の時間はとても長かった。次は80分の国語だった。古典が苦手なせいでぼくはなかなかいつもいい点数がとれない。しかしその日の問題は割合によくできた。文脈を追いかけながら、答を探していく評論文のタイプが結構好きだったからかもしれない。助動詞も過去と完了だけしかなかったので、なんとかしのげた。
昼の休憩をゆっくりとったせいか、午後の世界史もまあまあだった。もう一度問題を見直すだけの余裕を持つことが出来たのは自分でも意外だった。
二番町は昼休みの間中、正解はどれかとしきりに気に病んでいた。
「そんなことしてるより、めしをよく噛んだほうがいいぞ」とぼくは半分からかいながら、彼の豪華な弁当箱の中に入っている卵焼きをひとつ頂戴した。
「おれ、やっぱりだめだ」
二番町は昔から気が弱い。それでいて、そんなに成績が悪いというわけでもない。ただ思い込みが少し強すぎるのだ。なんだかんだいっても、最後には親父のつくった貿易会社を継ぐことになるはずだ。サラリーマンの伜に生まれたぼくなんかより、トータルにみればずっと条件はいい。
ぼくは午後の世界史の試験の間中、隣の女の子の様子が気になったが、それでも何気ないふうを装っていた。しかし相手の方もなんとなく気づまりなのか、視線を時々投げてよこす。長い髪はほどよくリンスされてつややかだった。一度位声をかけてみたいものだと思っているうちに、時間だけがどんどん先に進んでいった。
最後の小論文のテーマは「人類はどこへ向かって進むのか」という生物学者の書いた訳のわからない評論の一部だった。400字くらいの文をいくら読んでみても、どこから書き出したらいいものか、さっぱり検討がつかなかった。ぼくは鉛筆を握りしめたまましばらくの間、うなった。
ええい、どうにでもなれ、という気持ちで800字の制限字数を書き終えた頃には、心底疲れ果てていた。頭の中が干からびて、こめかみの辺りだけが妙に痛かった。隣の女の子も余程疲れたのか、しばらく天井を見上げてぼんやりしていた。時計を見ると、もう4時を過ぎていた。
ぼくが大きな欠伸をすると、二番町がそれを見て笑った。一緒に一日戦った同志だ。ぼくは何か言おうとしたが、口の中でモグモグと音が空回りしただけだった。
熱い風呂に入りたかった。身体中がエアコンの人工的な冷気で縮んで、血があちこちで止まってしまったかのようだった。とにかくそこいら中の筋肉を動かして、めちゃくちゃに汗をかき、それから風呂に入る。どうせなら、このままプールにでも入って、それからサウナもいい。喉がヒリヒリいうまで我慢して、冷たい水にドボーンだ。
筆記用具をバッグに詰めながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、二番町が、
「すっごい問題だったな」としみじみとした声で言った。
ぼくも思わず大きな声で、ほんとだと叫んだ。女の子はちらっとぼくの顔を見て、大急ぎで出口に向かっていった。立ち上がると思ったよりスタイルがよかった。頭もよさそうだ。もう会うこともない。元気でな、とぼくはこっそりその後ろ姿に声をかけた。
「なんか飲んでこう」
二番町が言った。彼の家は本当に二番町にある。どこにでかけるにも便利だ。どうしてそんな高級なとこに住んでるヤツとつきあってるのか自分にもよくわからない。
外はまだ暑かった。陽盛りの熱が低くこもって鬱血しているようだった。
「ビールぐらい呑みたいもんだ」ぼくが言った。
「ビヤガーデンか」
「いいね」
「まだ暗くなるには間があるよ」
「それもそうだな」
ぼくと二番町は結局近くの喫茶店でアイスコーヒーを飲むことにした。
「今日のあの問題、どういう意味だ。なんだかさっぱりわかんなかった」
二番町が小論文の問題をさっそくこき下ろし始めた。ぼくはまたいつもの癖が始まったと思いながらも、彼の意見を黙って聞いた。
「我々がどこへ向かって進むのかなんていうことがわかってりゃ、こんなふうに浪人なんかしてないよ。なんにもわからないから、とりあえずどっかの学校にでももぐりこもうとしてるのに、あんまりだ」
ぼくはアイスコーヒーのストローを神経質に回す二番町の手先が気になった。
「ああいう問題をつくるヤツのセンスを疑うよ。自分だってなんにも見えてないくせに、人に何か言いたがるんだ……。そのくせ、相手の言うことを信じようともしない。あれつくったのズバリ誰だと思う?」
二番町はゼミの講師の名前を次々とあげた。
「そんなことわかんないよ、おれには」
「きっとあいつだ」といって二番町があげたのは最近急に人気の出てきた若手講師の名前だった。
「言われてみりゃ、確かにそんな感じもするけど。そこまで言うなら、あれあんたですかって今度訊いてみたらいいんだ。あいつの特別ゼミとってんだろ」
ぼくがそう言うと、二番町は気弱な一面をみせ、急におとなしくなってしまった。
「でもとにかく難しかったことは認めるよ、おれもしばらくの間ボーゼンとしちゃった」
ぼくはどうやって書き出したらいいのか本当に迷ったことを、率直に二番町に告げた。ついでに、どこに向かってというテーマを見た時の暗い気分も……。
「あのテーマみながら、破滅することばっかり考えてた」
「どういうこと?」二番町が訊いた。相変わらずストローを回している。
「人間なんて思った以上にばかなもんだ。今、未来なんて信じてるヤツなんかいないさ。単純にギャグのノリだよ。とりあえず、おれたちが生きてる間だけなんとかなりゃいいってみんな思ってんだ」
ぼくは自分の思ったことをありのままに言った。無論答案用紙に書いたこととは似ても似つかなかったけれど……。
二番町はうんうんと相槌をうちながら、ぼくの話を聞いた。彼は元気だった。試験ができなかったといってるわりには、あまり気にしてるというふうでもない。
喫茶店の中は思ったより冷えていた。ぼくは身体がつらくなって外に出たくなった。一日中、人工の風の中にいたせいだろうか。
「どっかいこうか」ぼくはそのまま帰る気になれなかった。
「どこへさ?」
「どこでもいいけど」
「おれ、今日は帰るよ」
二番町は外に出ると、急にそわそわし始めた。
「どうしたんだ?」
「おれ、やっぱりもう帰る」
「ビアガーデンはやめるのかよ」
ぼくが訊くと、二番町は手をふって、すまねえなと言い、じゃまた、連絡するからと、改札口の方へ歩いていった。
「おい、ちょっと待てよ」とぼくは後ろ姿に声をかけたが、無駄だった。
「じゃあな」ぼくは仕方なく思いっきり大きな声を後ろからかけた。交差点に立っていた人が何人かぼくのほうを見た。
その瞬間からぼくは一人ぼっちになった。
仕方がないので、私鉄のターミナル駅まで歩くことにした。なんといったってまだ明るい。身体を思い切り動かしたかった。血を勢いよく流して、一日の戦いからはやく甦ること……。
ぼくは歩いた。電車の線路に沿って、ビルの間を抜けて。
もう4カ月近くも歩いていた。急いでいる時以外はなるべく歩いた。
1月毎に風景も変わった。花がこの前まではまぶしいくらいだった。チューリップもポピーもなでしこも。あっという間に柳の芽がでて、若葉がそろい始め、それもやがて色を濃くした。病院のたてものにからみついた蔦はずんずん先に伸びていった。
ぼくは真っ赤なつつじの花を見ては、その芯に向けてオナニーする自分を想像したりしながら、予備校に通った。歩くのは楽しい。ただ途中の踏切で時々またされるのだけが癪にさわった。
空は明るかった。いつになったら陽が暮れるのか想像もできないくらいだった。
しかしぼくは基本的にあまり愉快じゃなかった。デパートをのぞいてもカメラ屋をのぞいても、そんなに面白くない。パソコンやワープロの並んだ店の中をウロウロするのは好きじゃなかった。ゲーセンやパチンコにも興味がわかない。映画もそんなに見る気がしない。要するにどこにも行きたいところはなかった。大学にでもうまくもぐりこめれば、また気分もちがってくるのかもしれないけれど、今のところ何にも興味がない。
ぼくは仕方なくターミナル駅のすぐ脇にある本屋をのぞいた。気にいった本でも買って、帰りの電車の中で読むつもりだった。小説よりノンフィクションの方がいい。それも泣かせてくれるようなやつ。ぼくは少し泣きたかった。自分が受験勉強ばかりしている間に、干からびていくような気がして怖かった。
駅の階段をおりて、本屋の中に入ろうとした時だった。どこかで見たような女が、一生懸命地図に見入っていた。横顔が髪にかくれてはっきりとはしないが、どうもクミコに似ている。ぼくはできるだけ近くまで寄っていった。
その女は地図をじっと眺めていた。ぼくは静かに近くへ寄った。やっぱりクミコだった。去年まで同じクラスで一緒に机を並べていたのが嘘のように、女っぽくなっていた。口紅をしているせいかもしれない。ぼくはなんとなく、落ち着かない気分になった。
クミコがぼくを見た。そしてあっと言った。クミコは少しバツの悪そうな顔をした。
「アメリカに行ってたんじゃなかったのか?」
「うん、まあね」
彼女はとっくの昔に、アメリカの大学に留学するとかで、戦線を離脱していたのだ。クラスの連中が単語帳を必死になって眺めている時もクミコ一人、ウォークマンでロックを聞いていた。
クミコにはいつもどことなく背伸びをしているような、不安定なところがあり、周囲の人間を不安に陥れた。本当に留学なんかする気があるのだろうか、とクラスの友達と話し合ったこともあった。
「ひさしぶりだな」「うん」
クミコはまた地図に眼を落とした。伊豆半島の地図だった。真正面からぼくの顔をみるのがとても照れ臭そうだった。
「今日は買い物?」クミコが訊いた。
「模試だよ」
「えっ?」とクミコは少し訳のわからない顔をしてから、モシの意味がやっと理解できたのか「そうか、佐伯くんは受験生なんだ。わたしも来月あたり受けなくちゃ」と言った。
「どういうこと?」
「だからそういうことよ。嘘ついたってしょうがないじゃない」
「じゃ、またこっちの大学受けるのか」
「そういうことね」クミコは簡単に答えた。
ぼくはクミコの顔を正面から見据えた。
「今、暇か?」「うん」
「卒業してから何してたんだよ」
「うん、まあね」
クミコはていねいに本を畳むと、それを書棚に返した。
ぼくはクミコと一緒に歩き出した。どこにいくというあてもなかったが、なんとなく電車にそのまま乗る気分になれなかった。
「6月だったかな、おまえのうちに一度電話したんだ。おふくろさんが出てきて、今はだめだって。なんだか妙に慌ててておかしな感じだったから、それっきりにしてたけど。少し気にはなってたんだ」
「ごめんね。しばらく立ち直れなくて」
「どっか、身体の調子でも悪かったのか?」
「自分でもよくわからないのよ。佐伯くん、今までにそういうことない?」
「おれは単純だからな、今頃はてっきりアメリカに行って入学の準備でもしてるのかと思ってた」
その瞬間、クミコは目をしばたたきながら、ぼくの顔をのぞきこむようにした。
目が丸い。
クミコは高校3年の体育祭の時、クラス対抗応援合戦で衣装のデザインから、選曲までを一人でやってのけた。みんなは勉強してて、準備の段階までは私がやるから。そう言って、彼女は踊りの振り付けに没頭した。クラスから少し浮き上がっていたとはいえ、あれだけのことをやってのけるのは大仕事に相違なかった。あの時のクミコは澄んでいた。きれいだった。
今、目の前にいるクミコは確かにあの時とは何かが違っている。言葉でうまく言い表せないけれど、なにか微妙な点で変わってしまっているように見える。
卒業式まではあっという間だった。夜、コンパをやった。みんな結構飲んだ。カラオケもやった。そしてそこで全てが終わった。大学に入れなかった連中は、その後勝手にパンフレットを集めてきて、どこかの予備校にもぐりこんだ。ぼくはしばらくの間、クミコのことなど思い出しもしなかった。みんな自分のことで忙しかった。
クミコの口紅は薄い赤だった。ぼくは彼女と話ながら、何度も口元に目がいった。
ぼくは彼女をつれて、高層ビルの谷間にある広いテラスにいった。そこはけっこうぼくの気にいっている場所だった。妙に神経がいらだったりする時には何度か寄ることがあった。なんとなく空が四角に区切られているのがいい。都会の真っ只中にぽっかり穴が空いていて、不思議な感覚を味わえる。
日差しが強かったり、好きな本を読んだりする時は奥のコーヒーショップに入った。目の前でサイホンをつかって淹れてくれるコーヒーがうまかった。
人工の滝がまだ夕暮れになる前の太陽を目一杯反射していた。
クミコのブラウスが白い椅子に映えた。
「それでさっきの話だけど、もう立ち直ったのかよ?」
「うん、自分で感情をコントロールする訓練をしたから、なんとかなるの。でも時々まだね、うまくいかなくて」
「どっか病院にでも通ってたのか?」
「あんまり詳しく聞かないで。それよりなんか飲もうよ。喉がかわいちゃった」
ちょっと待ってて、と言うなり彼女はすぐテラスの隅にある店に立った。戻ってくるまでの間、ぼくは滝を眺めていた。石の間を水がただ流れ落ちていくだけの造り物にすぎないことは、十分わかっている。それでも、水を見ていると落ち着いてくるから不思議だった。
クミコは、一人前の女だった。ぼくはまぶしいものを見るような目で彼女を眺めた。テーブルにおかれたビールの缶には水滴がビッシリと付いていた。
「もう、半年もたつんだな。なんだか、すごく昔のことのような気がする」
「そうね、私も随分年をとっちゃった。ねえ、おばあちゃんになったでしょ」
「なに言ってんだよ、あんまり美人になったんで驚いてたんだ。女って変わるもんだな」
喉の渇きが少しづつ癒されていくにつれ、ぼくはクミコの様子をしっかりと目にとめることができた。前は、たしか眼鏡をしていたはずだ。コンタクトにかえたのだろうか。顔がやさしくなっている。
「誰かほかの友達に会う? 私、全然知らないの、みんなどうしてるのか」
「うん、ときどきな。でもみんな忙しそうだ。斜めになって走りながら生きてる」
クミコはその表現が面白かったのか、声をあげて笑った。ナナメ……、本当ね、と何度も繰り返した。しばらくの間、あれこれと友達の情報を交換しながら時間を費やした。懐かしいような、くすぐったいような時間だった。ビールがうまい。
ぼくの方が一方的に話していたような気もする。自分でも少し酔っているような気分だった。
「佐伯くんはどうして浪人なんかしたの? どっか合格したとこあるんでしょ」
目がきれいだ、とぼくは思った。輪郭のまわりがうっすらとぼやけて、クミコがその中に漂っていた。
「どこにも受からなかったんだ。頭悪いしな、おれ」
「ウソ。佐伯くんが頭悪かったら、私はどうなるのよ。前はそんなこと言わなかったじゃない」
「そうだったかな。浪人してからこれでもけっこう謙虚になったんだ」
クミコは大きな声で笑った。ビールの缶を持つ彼女の手が時おり小刻みに震えた。ぼくはなぜかその様子が気になった。
夕暮れが近づいていた。流れる水の周囲だけに、色のついた強いライトがあてられて、きれいだった。ただの水なのに、流れて行くだけで形がどんどん変わっていく。しぶきにライトが映えて、微妙な色合いを出した。
「なんだか、おまえとはいつもこんな会い方をするな。高校を受ける時だって、試験の日の朝、校門のとこでバッタリ顔をあわせて」
「あ、そうそう。あの時つい大きな声出しちゃった。だって意外だったもんね。大学の付属受けるとばっかり思ってたし」
「それに、まさか2年で同じクラスになるとも考えなかったしな」
「うん、ホント。でもここのところ、ずっと気になってたの。なんだか理由はよくわからないんだけどまた佐伯くんの声が聞きたくてね。だけど電話もかけられないし、どうしようもなかったのよ」
クミコは絶望的な顔をして、滝の水が流れ落ちるのを見た。
「そんなことより、私ねこの前モデルにならないかって誘われたの。ヌードのよ。びっくりした?」
クミコはいつも唐突だからくたびれる。
「そりゃ、いきなりそんなこと言われたらびっくりするけど。もちろん、引き受けたわけじゃないんだろ」
「うん、ただ頼まれたのよ。温泉につかっている時にね、突然」
「温泉?」
「そう、その人が画家とかでね、なかなかいいモデルがいないんだって」
「じゃ、おまえの裸を見て、その絵かきが気に入ったっていうわけか」
「多分、そんなとこでしょ、言っとくけど、その人、女だからね」
クミコは白いブラウスとジーンズを身につけていた。私服の高校だったせいか、いつもそんな恰好をしていたような気がする。身体を締め付けるような服を全く好まないようだった。ぼくは彼女の裸をほんの少しの間だけ想像した。
「世の中にはそんなこともあるんだな」
「まあね、おかしな話だけど。思ったよりすごく大変でくたびれるって人から聞いたことがあったし、それに厭だわ。なんとなく気持悪い」
クミコの話には温泉だとか、電話とか、ぼくにはよくわからないところが多すぎた。
陽が落ちるまでにはまだわずかに時間が残っていた。ぼんやりとまあるい空が薄赤く層をなして一面に広がっている。しばらく前まで予備校の教室で一心に問題を解いていたのが嘘のようだった。ぼくは久しぶりに解放された気分だった。
遠くからヘリコプターのプロペラ音が聞こえてくる。車の騒音の間をついて、それはするどく割り込んできた。
「もう帰らなくちゃ。暗くなるよ」
「うん、でももうちょっと。佐伯くんとなら平気よ。あなたって割合うちのママに信用あるのよ。前にも何度か家まで送ってくれたことあったじゃない。やさしい人ねって言ってたわよ」
「やさしい?」
「そうよ。ねえ、そんなことよりこれから先生のマンションへ行かない。本当は明日が予定の日なんだけど、かまわないと思うから」
「先生?」
「うん、私の先生」
クミコのペースにのせられると、ぼくはいつも調子を崩す。高校の頃もそうだった。本人が真面目なだけに、かえって周囲が疲れる。アメリカに留学すると言い出した時も半信半疑だった。しかし彼女が英語を得意にしているのは誰でも知っている事実だった。そう言われればそうかな、と人に思い込ませるだけのものをもっているだけにかえって話は厄介だ。
しかしアメリカぐらいならばまだいい。卒業間際になって一緒にバンドをやらないか、と誘われた時には参った。ぼくもキーボードを趣味で少しいじっていたが、なんで今頃そんなことを言い出すのかと思わず顔を見てしまった。受験勉強をしているのは、彼女だってよく知っているはずだった。
クミコはその時も今と同じような表情をしていた。断ってしまうのが気の毒なほど、真剣な目をしていた。他人のことを考えているようで自分しか結局、視野に入らないのかもしれない。
しかしぼくはそんなクミコのことが気になった。音楽に対する感覚にも鋭いものがあったし、なにより話をしていると楽しかった。よく放課後も教室に残ってあれこれと話をした。あの時も今のような空の色だった。教室からはテニスコートがよく見えた。クミコは本当に愉快そうによく笑った。
「ね、行くでしょ」
「おれは別にかまわないけど、家に電話しておかなくていいのかよ。それにその先生だって突然予定にない人間が来たら困るだろう」
「いいのよ、先生は友達だもの。家には向こうに着いたら電話するから」
「なんだかよくわからないけど、あんまり一緒に行きたい気分じゃねえな」
「行ってくれないの?」
ぼくはクミコといると次第に判断力が鈍くなっていくような気がした。いつも腰ぎんちゃくのように女のあとをついていくのはあまり気分のいいものじゃない。それにビールを少し飲んだせいか、試験の疲れがどっと出てきて身体がだるくなってしまっていた。
「おまえとはどういう関係の人なんだ、その先生っていう人は」
「なんにも先生のところにはないんだけど、いろんなものがいっぱいあって気分が休まるの。私、なに言ってるかわからないでしょ」
「うん、さっぱりわからない。それにもうすぐ暗くなる。それでもいいのか」
「いいのよ、どうせ……」
クミコは滝の水を再びじっと見詰めた。ぼくはなんだかとても遠い獲物を森の隅の方からのぞきこんでいるような、悲しい気分になった。夜が次第に背後から迫ってきた。

クミコとは結局駅まで戻ったところで別れた。四ツ谷だからすぐなの、とクミコは繰り返して言ったが、ぼくには先生と呼ばれる人にわざわざ会いにいく意味がよくわからなかった。どうしてもついてきてくれ、と頼まれればつきあったかもしれないが、ぼくは少し疲れていた。
別れ際に今日は楽しかったわ、とクミコは言った。それはぼくにしても同じだった。彼女はあっという間に雑踏の中に消えた。
車内は日曜日のせいか、買い物袋をさげた親子連れの姿が目立った。ぼくは随分長い一日を終えたような気分で吊革にぶらさがっていた。早く帰って熱い風呂に飛び込もう。いいかげん、くたびれた。クーラーが首筋にあたると、身体の芯がわずかに震えた。
家に着いた時には、外はもうすっかり暗くなっていた。街灯の明かりが冴え冴えとしてあかるかった。ぼくは湯につかりながら、ぼんやりと一日の出来事を振り返っていた。
頭に熱いシャワーの湯をかけて何度もごしごし洗った。汗が身体中にへばりついていた。身体を石鹸だらけにして洗っていると、
「お兄ちゃん、澤木さんっていう人から電話があったよ。今お風呂に入ってるって言ったら、出てからでいいから電話ちょうだいって」と洗面所で妹が叫んだ。
聞いたこともない名前だった。どこの誰か検討もつかない。
ぼくはそそくさと風呂から上がった。濡れた頭にタオルをかぶったまま、妹の書いたメモをみた。澤木などという人は全然知らない。相手が女の人だというので、ぼくは少し緊張した。どこの誰かもわからない相手に電話したりするのは趣味じゃない。
「あの、佐伯さんは新藤さんのお知り合いですよね?」
澤木と名乗った人は初めにそう言った。
「ええ、そうですけど」というまでに少し時間がかかった。新藤がクミコの苗字であるのを思い出すまでに、ほんのわずか空白があった。いつも彼女に語りかける時、姓を呼んだことがない。考えてみれば不思議なことだった。
「実は電話帳であなたの家の番号を捜したんです。ごめんなさい。彼女にだいたいの住所を訊いて調べてね。というのも、あなたが今日ついてきてくれなかったことが、よほどこたえたらしいの。偶然、駅で会ったんですってね。それはいいんだけど、ビールを飲んだっていうのは本当なんでしょ。今、少し薬を与えたから落ち着いてはきたけれど、お酒はまずかったわ。特にここのところ少し回復していただけにね」
ぼくは澤木という人がどうやら、クミコの言っていた先生であるらしいことが話の調子からわかった。やっぱりあの時ついていくべきだったと後悔したが、後の祭りだった。
「それで……」
ぼくは学校で叱られた子供のようにしょんぼりとなったまま、頭をゴシゴシとタオルで拭いた。
「今日はここで休ませますので、なんとかなりそうだけど。おうちの方にも言ってありますから。そうじゃなくって、なるべく近いうちに、できれば明日、本当に勝手なことばかり言って申し訳ないけれど、私のところまで一度来てくれませんか。明日しか休みをとれないんです。それがもしだめなら、来週になっちゃうけど」
「午後ならなんとかなると思いますけど」
「そう、よかった。さっき新藤さんのお母さまにも伺ったら、佐伯さんはとっても彼女と高校時代、親しかったそうね。少し助けてもらえないかしら。今がとっても大事な時期なものだから」
「ぼくなんかにできることがあるんですか?」
「ええ、たくさん。やっぱりお友達の手助けが一番なのよ」
「あの失礼ですけど、澤木さんはカウンセラーのようなお仕事をなさってるんですか?」
「ごめんなさい。申し遅れちゃって」
澤木と名乗る人は、年上の女性が持っている落ち着きを身につけていた。声の感じからすると三十代の中頃のような気がする。
ぼくは一通りのことを聞いてから受話器を置いた。やっぱりあの時厭だなんて言わないで、ついていくべきだった。ビールを飲みながら、話をしている時はあんなに嬉しそうのだったのに。難しい時期とはどういうことなのだろうか。あれくらい呑んだくらいでどうにかなってしまうとは、いったいどんな病気なのか。
妹がけげんそうな顔つきをしてぼくを見た。
いずれにしても、澤木というカウンセラーのところへ行かなくてはいけない。午前中の授業が終われば、午後はいつも空いているからそれはなんとかなりそうだった。ゼミからなら15分位で行けるはずだ。
ぼくはクミコの家に電話したほうがいいかどうか迷った。自分が彼女に外で偶然会ったことで、かえって具合が悪くなってしまったのなら、一言だけでもクミコの母親に謝っておかなくちゃいけない。しかしどうしてもついてきてくれと彼女は言わなかった。 妹が、再び怪訝そうな顔でぼくを覗き込んだ。
「うるさい、あっちへいけ」とぼくはハエでも追っ払うように、腕をひろげた。
翌日、さっそくぼくは澤木さんという人の教えてくれた場所を訪ねた。四ツ谷の駅で降りて、10分位歩いた。澤木クリニックとでもいう看板がどこかに立っているかと思ったが、なんにもなかった。
指定された場所にはマンションしかなかった。住宅街の静かな場所だ。造りもしっかりしている。エレベーターに乗っている間も、なんとなく心がざわついて仕方がなかった。外の暑さが音の全くしない廊下にも溢れていた。やっとみつけた澤木という表札の前で、ぼくは一回大きく深呼吸をしてからチャイムを鳴らした。知らない女の人のマンションを訪れるなどという経験は、ぼくにとって初めてのことだった。
数秒してからはい、といって出てきたのは落ち着いた感じの人だった。声の印象から、すぐにその人が澤木さんだと直感した。ワンピースの白さがぼくの目に飛び込んだ。胸がふっくらとしていた。
「ぼく……」と自分の名前をいいそびれていると、すぐに「佐伯さんね」と彼女のほうから声をかけてきた。
「昨日はどうもすいませんでした。なんにも知らなかったものですから。クミコ、いや新藤さんに迷惑をかけちゃって」とぼくは玄関口でまだ靴を脱がないうちに、それだけを言った。案内された部屋はクーラーがほどよくきいて、心地よかった。肌がすぐにさらっとした。
澤木さんは紅茶をすすめながら、
「やっぱり彼女の言う通りね。間違いないわ」と言った。
「どういうことですか?」
「とってもやさしそう」
そう言われてぼくは少し照れた。居心地が悪くなった。
「協力してください。もう少しなのよ、もう少しでなんとか形がつくの。今のまま外に出してしまうと、前よりも悪くなっちゃう」
澤木さんの顔は真剣だった。初め、少し緊張していたぼくはあっという間に、彼女の調子に引き込まれてしまった。紅茶の香りがとてもよかった。
窓に降り注ぐ強い光の帯を薄いレースのカーテンが、うまく遮っていた。クミコはこの部屋にはたくさんのものがあると言った。しかし部屋のなかは、普通の家と何も変わらない。ベンシャミンの緑があざやかだ。
「ここは澤木さんのお住まいなんですか?」
「そう。ここはわたしのおうち」
「あのう……」と言いかけた時、「なんかおかしいと思うでしょ?」と澤木さんが先に言った。「こういう仕事はプライベートな場所まで持ち込んじゃいけないんだけど。彼女の場合は本当に特別なケース……」
どう特別なのかということをぼくは聞きたかったが、澤木さんはそれ以上話そうとはしなかった。
「それで彼女はあれからどうなったんですか?」
「あの電話をするまでが大変だったの。ずいぶん泣いてね」
「お酒を呑むとそうなるんですか?」
「いつもっていう訳じゃないけれど、時々ね」
「それで、その後は大丈夫だったんですか?」
「ええ、薬をのませたから。ずっと眠ってたの。さっき帰ったところ。すっかり気分が良くなったみたいだったから、とりあえず帰したんだけれど。佐伯さんがみえるのは内緒にしておいたから、それはいいとして。そんなことより、あなた今日プールに行く約束をしなかった?」
あまりに唐突な話なので、ぼくは驚いて首を横にふった。
「彼女、昨日からすっごくそれを気にしてて、きっとあなたの家に電話をするでしょうね。やっぱりお酒を呑むことでパラノイア的な傾向が一時強くなるみたい。忘れられないのよ、なにもかもが」
ぼくはなんと返答したらいいのか迷った。澤木さんの目だけをじっとみつめた。
「私達だっていくらかそういうところはあるものだけれど、でもなんだかんだいって忙しいから、結局最後には忘れちゃうのよね。彼女にはそれが出来ないの。だから治りが遅くて。きっと高校時代にもそんなところがあったはず。今日はそのあたりのことを聞きたくて、来ていただいたの。無理に今日なんて言っていそがせちゃってごめんなさい。勉強だって大変なときにね。でもこう言うと失礼だけれど、彼女いいところで佐伯さんに逢ったわ」「はあ」
ぼくには曖昧な返事しかできなかった。
「ところでさっきの話ですけど、プールへいくなんていう約束は全然してませんけど」
「おかしいわね。彼女と昨日超高層ビルのテラスへいったでしょ」
「ええ、それは行きましたけど」
「近いうちにそこのビルの地下にあるアスレチックジムへ泳ぎに行こうって話がきまったとか言ってたけど。彼女すごくそのことを気にしてて、いつだったらいいかって何度もわたしに相談するものだから。そんなことはあなたから佐伯さんに直接うかがって決めなさいって言ったんだけど」
ぼくは半分狐につままれたような思いで、その話をきいた。いったいなんのことなのかまったくわからない。
「そんな話した覚えもないです。たしかにビルの近くには行きましたけど、アスレチックの話なんて全然でなかった」
「それ本当なの?」澤木さんはほんとうに驚いたようだった。
「ええ。誓ってもいいです」
「やっぱり、まだなおってないわね」
「何がですか」
「虚言癖よ。彼女にはどうも前からその傾向が強くて……」
澤木さんはそう言ってから、ソファーに座り直した。
「彼女、他になにか変わったこと言わなかった?」
「変わったったことって?」
澤木さんはクミコの話したことがみんな嘘だというのだろうか。人工の滝を見ながら楽しい時間を過ごしたことも嘘なのか。ぼくはクミコの言ったことをすべてひとつひとつ反芻した。
温泉のこと、モデルのこと、画家のこと……。伊豆半島の地図を見ていたこともなにかの関係があるのだろうか。箱根とか、熱海とか。そのあたりにずっと行っていたとも考えられる。ぼくはちょっとだけ気になった画家のことを切り出してみた。
すると澤木さんは笑いながら、
「それはきっとわたしのことね」と言った。
「あの、澤木さんは絵もおかきになるんですか?」
「そうじゃないの、その温泉に行ったのはわたしとなの。一緒に露天風呂にも入ったわ。たしかに絵のモデルになってもいいわねっていう話はしたけれど、そんな画家に出会ったなんて真っ赤な嘘」
「一緒に温泉にいらしたんですか」
「箱根に3日間ね。少しわたしも気分転換がしたかったし、彼女の方もなんだか気詰まりだったようだから」
患者とカウンセラーが一緒に旅行に行くなどという話はきいたこともない。ぼくはひょっとすると、その3日間という期間にも嘘があるような気さえした。クミコの家に電話をしたのはたしか6月だった。あの時、彼女の母親は言葉尻を濁しながら、今ここにはいないのだと言った。それ以上どこに行ったのかとは聞けなかったが、あの時ひょっとすると箱根に行っていたのかもしれない。それも3日間なんて短い間ではなく、何カ月もずっと。 もっとも暢気なぼくはクミコのアメリカ行きを堅く信じていたけれど。
「さっきから気になっていたんですけど、ここは先生の自宅なんですよね?」
ぼくはついクミコと同じように、澤木さんに向かって先生といってしまった。その方がなんとなく簡単だったからだ。しかし一度先生と呼ぶと、もう他の呼び方はないような気もした。
「そうよ、さっき言ったとおり」澤木さんはそれがどうかしたのかという顔つきをした。
「先生はさっき、クミコは特別なんだと言われましたけど、それはどういうことなんですか。そのことがさっきからすっごく気になってて」
ぼくはダージリンの香ばしいかおりがする紅茶を一口すすってから、それだけのことを訊いた。
澤木さんは微笑をうかべながら、「そうね……」と言った。「おかしいでしょ、わたしたち」
澤木さんは急に女の顔になった。
「いや、べつにそうは思わないですけど」
「なんと思ってくれてもいいの。確かに普通の患者と医者の関係じゃないことは確か。でも特別にどういうことがあったという訳じゃないの。言っても信じてもらえないかもしれないけど」
「それじゃ、どういう?」
ぼくはよせばいいのに、重ねて澤木さんに説明を求めた。
「一言じゃ言いにくいんだけど、彼女といると、私自身が活性化するの。その仕草とか、ものの考え方とか、話し方とか、どこかで通底するものをもっているということかしら」
通底……。あまり耳にしたことのない言葉だった。
しかし澤木さんの話を聞きながら、ぼくの中にもクミコを受け入れる場所が少しあったことに気づいた。彼女と話をしていると、どこか不思議な安心感を感じる時がある。もちろんそうとうにくたびれる時もあるけれど。ひょっとすると高校の頃、そんなところにひかれていたのかもしれない。ぼくは澤木さんの目をじっと見た。その中にもしかしたらぼく自身が潜んでいるかもしれないと思った。
「こういう仕事をしていると、本能的に相手を見分ける直感がすごくつくものなの。今までに何人かそういう人はいたけれど、彼女はとりわけそれが強かったということかしら」
澤木さんはそう言いながら、遠くを見るような目つきをした。
はじめ、ぼくは澤木さんとクミコの間を疑ったが、どうもそういう関係ではなさそうだった。しかしどこまで本当の話なのか、よくはわからない。
「それで、具体的にぼくは何をすればいいんですか?」
ぼくはやっと初歩的な質問を澤木さんにすることができた。自分の幼さが目に見えるようで少し悔しかった。
「そうね、とにかく可能な限り会ってもらえないかしら。もちろん無理は言えないけれど。彼女、私にみせない面がたくさんあると思うの。その時にどんなことを言ったとか、あるいはしようとしたかとかいうことを教えてもらえるとありがたいんだけど」
「でも、そういつもっていう訳にはいかないけど」
澤木さんは深くうなづきながら、「無理しなくっていいの。ほんとにできる範囲で」ぼくはその一言で安心することができた。澤木さんは病院の勤務日と、一月のだいたいの予定を教えてくれた。近くによると、白いブラウスの胸元に目がついいってしまう。少し息苦しかった。部屋の中の空気が一瞬濃くなったような気さえする。
澤木さんは結婚していないのだろうか。見たところ、男の気配を感じさせるものはどこにもない。
「彼女は、そのう、なんていう病気なんですか?」
「そうね、一種の神経症とでもいえばいいのかしら。佐伯さんは彼女のお父さんっていう人にあったことある?」
「いいえ。たしかちいさな時に死んじゃったって聞いたけど。あいつとは父親の話なんてしたことないです」
ぼくはその話がでた時、ちょっと意外な感じがした。
「そう、なくなってるのよ、既に。彼女が8つの時にね。ところが最近お父さんの夢を何度もみるんですって」
クミコの父親、夢……。どういうことだろうか。
ぼくは澤木さんのつけているオーデコロンの香りをかぎながら、クミコのことを再び考えた。クーラーの涼やかな風が、肌に心地よかった。

クミコの声を聞いたのはそれから一週間もたった後のことだった。
「どこにもいくとこないの」とクミコは電話口で呟いた。
「あっちこっちいって遊んでたんじゃないのかよ?」
ぼくは少しつっけんどんな言い方をした。予備校から戻り、くつろいでいる時間だった。
「そりゃ、遊んでるよ。でも行くとこない」
クミコはかなり疲れているような声を出した。
「勉強してないのか? 大学受けるんだろ?」
「うん、受ける」
「じゃあ、うちでじっと勉強してりゃいいじゃないか。今頃一緒になって遊んでくれるやつなんかいないさ。みんな忙しいんだ」
「ほんとね」クミコは感動したように言った。
「友達なんかに会おうとしない方がいい。みんな自分のことで精一杯だ。とても他人のことなんか、気になんかしちゃいられないよ」
「先生とおんなじこと言う」
そう言ってクミコは寂しそうに笑った。
「佐伯くんもだよね……」そう言ってから、クミコはしばらく黙った。
「少しぐらいならつきあってやろうか」
澤木さんになるべく一緒にいてやってくれと言われたことが、ぼくの頭の隅にひっかかっていた。
「厭よ。同情なんかで一緒に遊んでほしくなんかない」
「だれがそんなこと言ったよ」
「いま、そう言ったじゃない」
ぼくはクミコの出すサインをきちんと受けとらなくてはいけないと思った。この前もそれで失敗してしまっている。もしここで突き放したりしたら、とんでもないことになるかもしれなかった。
結局ぼくとクミコは一緒にアスレチックジムにいくことになった。そんな高いとこじゃなくていいと言ったのに、クミコが指定したのは超高層ビルの地下にあるスポーツクラブだった。それはつい先日澤木さんとの話の中にでてきた場所だ。彼女は自分で約束してそれを果していないことにずっと後ろめたさを感じていたのだろうか。
「いいの安いんだから。前話したでしょ。株主の優待券があるんだから」
ぼくはそんな話をクミコから聞いたことがなかった。また嘘かもしれない。
「今すぐいこうよ、暇でしょ」
「行ってもいいけど、ほんとに勉強しなくていいのかよ」
「いいの。もう少ししたらするから」
ぼくはそれ以上なにも言う気がしなかった。そんなことよりクミコの気持ちを少しでも楽にさせてやることが今大切なのかもしれないと思い直した。
一緒に電車に乗っている間も、クミコはよくしゃべった。少しでも間があいてしまうと、そこになにか邪悪なものが忍び込んでくるのを恐れているみたいだった。
ぼくは彼女の話に耳を傾けながら、外の風景を眺めた。家がとぎれると、そこに突然畑が見えたりする。ふだん全く気づかないビルの間に祠がポツンとたっていたりする。
「ねえ、わたしの話きいてるの?」
クミコはぼくの様子にじれて、顔を正面に向けた。目と目があった。吸いこまれてしまいそうな目だった。
「今日、泳ぎ終わったら先生のとこへ行かない」クミコが言った。
「この前のあの人のことか」ぼくは一週間まえに澤木さんのマンションを訪れたことなどおくびにもださなかった。
「じつは今日佐伯くんを連れていくって話しちゃったんだ。そうしたらぜひ会いたいからつれてきてもいいって」
「だってその先生は仕事してんだろ」
「そうよ。でもいいんだって今日は。しばらく夏休みをとるんだって」
彼女は泳ぎにいこうと言いながら、その実、澤木さんのところへ連れていきたいのが本音なのかもしれなかった。
「じゃあこのまんま先生のとこへ行こうか。おれべつに泳がなくたっていいんだぞ」
ぼくがそう言うと、クミコは「でもせっかくだから少しだけ泳ごうよ。サウナに入るとスカっとするよ」と手を無理やりひっぱった。

クミコの水着姿は悪くなかった。うすいブルーの水着の下にみえる彼女の身体はほんものの女だ。ぼくはすらっと伸びた足にしばらくみとれた。
「どこみてんのよ、佐伯くんたら」と言いながら、クミコはそれほど厭でもなさそうだった。
ぼくは久しぶりに何度もいったりきたりしながら25メートルのプールを縦横に泳いだ。オレンジ色のライトが昼のように室内を明るく照らしている。もともと泳ぐのは好きな方だった。できるだけ長く息を殺して潜り続けたりもした。
水の中に光の帯が浮かんでいる。プールの底に埋め込まれた幾つものライトが、光の縞をあちこちにつくった。遠くにいたクミコの足元によっていって、何度か下からひっぱった。そのたびに彼女は大きな声をあげ、手足をバタバタさせた。股のあたりを手で持つと、ひきしまった筋肉の弾力が掌に伝わってきた。
ひとしきり泳いでから、彼女のいったとおりサウナに入って汗を流すと、本当にさっぱりした。びっしり汗をかき、水風呂に何度もはいった。清潔なタオルや高級な整髪料がずらっと並んでいる鏡の前にすわって髪をとかしながら、ぼくは結構いい気分になっていた。どこか酔った時の感じに似ている。
ぼくはしばらくベッドに横になり、目をつぶった。クミコの身体が脳裡に浮かぶ。抱いてみたいと思った。しかしあとが厄介なことになるかもしれない。とくに神経の具合が悪くなったりしたら、澤木さんにあわす顔がない。
あの二人は箱根にいってなにもなかったのだろうか。わざわざ自宅まで患者に教えるなんていうことがあるとすれば、普通の関係じゃない。ぼくは一人で勝手なことを思い描きながら、深いソファーに横たわったまま、しばらく眠ってしまったようだった。
「なかなか出てこないんだもん。どうしたのかと思った」
ぼくはクミコによばれてやっと目を覚ました。
「男の人の部屋に入れないから、わざわざ係の人に頼んだのよ」
謝るしかなかった。彼女はつやつやした皮膚をしていた。
「なんか飲もうか」とぼくがいうと、クミコは「それより先生のとこへいこうよ」と言った。「あっちで飲んだほうがゆっくりするよ」
クミコにとって先生のところへ行くということは、よほど大きな意味をもっているのだろう。ぼくは澤木さんに会ったことを悟られないように、注意して応対しなくてはいけなかった。クミコは電車の中でもよくしゃべった。ぼくは少し眠ったせいか、身体がずっと軽くなっていた。

澤木さんはくつろいだ恰好でこの前と同じソファーに座っていた。ぼくは初対面の挨拶を装いながら、クミコに感づかれやしないかとヒヤヒヤした。しかし彼女は先生の部屋にいるという安心感が先にたつのか、まったくぼくのことは気にならないようだった。それ以上にぼくを澤木さんに紹介できたということの方が嬉しいらしかった。
澤木さんは終始、年上の女のゆとりをみせながら、クミコの話に耳を傾けた。喉が渇いていると彼女が言うと、すぐにオレンジジュースを持ってきてくれ、それからまた話を続けた。
ぼくはこの前よりもずっと注意深く、澤木さんの部屋を観察した。壁にかけられたヨーロッパの古い町の写真、花瓶、ピアノのカバー、横文字の本。そのどれもがぼくを刺激した。ひとつひとつに澤木さんの趣味が反映していることはまちがいがない。どんな人なのか、興味をもたなかったといったら嘘になるだろう。
「佐伯さんは、大学にはいって何を勉強するの?」
クミコの話が一段落すると、澤木さんはぼくに向かって訊ねた。
「まだはっきりとはしてないんですけど……」ぼくは曖昧な返答しかできない自分が情けなかった。「わたしもそうだったわ。いまでも何がいちばん自分に向いているのかよくわからないことがあるもの」
「だって先生は、クミコからみるともうなくてはならない人でしょ」
「そうね」といってから、澤木さんは少し寂しそうな表情になった。
「夏休みなんですってね。聞きました。うらやましいです。ぼくなんか毎日家と予備校を往復してるだけで……」
「いいじゃない。わたしにもそんな時があったわ」
クミコの姿がいつの間にかみえなくなってしまった。別の部屋にいってしまったようだ。「あいつ、先生のうちへ来たら、いつもこうなんですか?」
「ええ、そうよ。ピアノをひいてみたり、音楽をかけてみたり。まるで自分の家にいるみたい」
「そんなに甘やかしていいんですか」
「いいの、あの子には今いちばんそれが大切なの」
澤木さんは確信に満ちた言い方をした。それが医者としての自信からくるものなのか、もっと別なところからくるものなのかわからない。ぼくはクミコの父親という人の話を澤木さんとしたかった。
「この前、先生はあいつが父親の夢をみるといったでしょ。でもそんな話、今までに聞いたこともないです。夢にまでみるくらいなら、きっとどっかで話がでるはずだけど」
「そうね、でも確かにそう言ったわ。なぜ夢を急に見るようになったのかはわからないけど」
「神経症っていう病気はそうやって突然過去のことを思い出すなんていうことがあるんですか?」ぼくは澤木さんにあれこれと訊いてみたかった。
「デジャビュというのが症状としてはあるけど。聞いたことあるでしょ。昔みた風景や人を何度も目の前に思い出して、そのせいで頭が痛くなったりする……」
「ぼくが見た感じでは、ちっともあいつおかしくなんかないみたいだけど」
ぼくは思ったとおりを澤木さんに言った。
「ちょっと見た目にはそうかもしれないけど、まだだめ。不安の程度が強いから。また大学を受けるってあなたに言ったかもしれないけど、それも自分のアイデンティティーを確保するための作業にしかすぎないの。今の状態じゃ、無理」
ぼくはオレンジジュースを飲み、澤木さんの話をきいているうちに、なんとなく二人がかりでだまされているような気分になった。クミコはどこもおかしくなんかない。どっかおかしいのはむしろ澤木さんの方じゃないか。患者だかなんだかしらないが、自分の部屋に入れて好き放題に遊ばせている。とても医者のする行為とは思えない。
ぼくは家に帰ってゴロンと横になりたかった。クミコの相手は澤木さんがいれば十分だ。「あのう、そろそろ帰ってもいいですか。いろいろ用事も残ってますので」
ぼくがそう言うと、澤木さんはそうねと呟きながら、じゃ、なにかの話の時に出るかもしれないから、これだけ見てってとテレビのスイッチを入れた。
すると画面に突然ノイズがあらわれた。
「本当はこれを今日みて欲しかったの」
クミコはどこにいってしまったのだろう。眠ってしまったのだろうか。
澤木さんはビデオのリモコンを押しながら、「彼女はこれを見てる時が一番落ち着くらしいわ」と言った。
大画面のテレビに映し出された映像は、高校のグランドを走り回っているクミコのアップだった。音楽もなにもない。ただ時々訳のわからない歓声をあげながら、一心に走っている。ほとんど無音といってもよかった。
ぼくは突然あらわれたその映像に目を奪われた。懐かしい風景だった。体育の時間、冬になると、よくグランドを走らされた。白い息を吐きながら、周りの風景を見ながら走った。ビル、大きな欅の木、ガスタンク。
「彼女はいつもあなたのすわっているそのソファーに寝転んで、ずっとぼんやり見てるのよ。なんとなく幸せそうな顔をして。そんなに気にいったのなら、家にもっていって見てもいいのよって言っても、ここで見なくちゃだめだっていいはって、絶対にもっていこうとはしないの」
場面はそれから一転して、校舎の中にうつった。そこにはぼくの歴史もたくさん残っていた。化学実験室のうす汚れた壁にそって、クミコが歩く。隣の物理室講義室。その隣の地学室。カメラは時々手ブレをおこしながら、一階の階段をのぼる。すぐ目の前にみえるLL教室。
クミコはこっちこっちと合図して、カメラをを教室の中にまで引きづりこんでいく。消し忘れたままの黒板、そこに彼女は新しい絵をかいた。家の絵だ。大きな木の下に座っている女の子の絵。そこからカメラは急にグランドをうつす。だだっぴろい赤土の広場だ。
サッカーのゴールがポツンとある脇に、ラグビーのタックルダミーがそのままおいてある。
ぼくはよく教室の窓からグランドを眺めた。退屈な授業の時、サッカーをやっている他のクラスの連中の姿をじっと追いかけた。誰にも邪魔されなかった。自分だけの時間が光っていた。教師の声が全部わきをすりぬけて、外に流れ出していった。
「なんですか、これは?」
「彼女がどうしても撮りたいっていうので、連休の時、わざわざ学校までついていったの。こっそり入ってね。なんだか秘密めいてておもしろかったけど」
「なんでまた」
「とくに理由なんてないけど、ただそうしてあげたかったから。一種の治療になる可能性もあったし。あえていえば、自動記述のビデオ版というところかしら」
「あいつなんでこんなことにこだわるのかな」
「こんなことって?」
「過去にですよ」
ぼくはもう戻ってもこないことに夢中になっているクミコがあまり好きではなかった。
彼女は体育館の前に立って、中を覗こうとしている。バスケットの練習でもしているのだろうか。中からかけ声がする。ぼくはばか、もうやめろとおもわず怒鳴りたくなった。澤木さんはなぜわざわざビデオをみせようとするのか。何の足しにもならないことははっきりしているというのに。
ぼくはビデオを見せられてから、頭の中がとても疲れてしまった。もう帰りますというと、澤木さんはそれ以上、引き留めようとはしなかった。ちょっと待ってて、今連れてくるからと言いながら別の部屋にクミコを探しにいった。
澤木さんの叫び声が聞こえたのは、その直後だった。最初それは悲鳴のように聞こえた。ぼくはすぐに部屋を飛び出して、声のする方向にいった。それは奥のキッチンからきこえてきた。
「なにしてるの」
澤木さんは半分怒ったような声で、床に座り込んだクミコを見下ろしていた。ぼくが見たのは、明らかにいつものクミコではなかった。
「だって……」と彼女は何度も呟いた。
「なにがだってなの。どうするのこんなことしちゃって」
澤木さんはクミコの手元をおさえつけながら、慌ててティシュで手を拭いた。その態度は先刻までのものと明らかにちがって厳しかった。
床には真っ赤に色づいたイチゴがたくさん散らばっていた。クミコは一つのパックの中に手をつっこんだまま、それをグチャグチャになるまで、手で握りつぶしていた。スカートやブラウスにもイチゴのつゆがこびりついてしまっている。それは赤黒く変色し、血の塊のようにもみえた。
「どうしたの、こんなことして?」澤木さんは同じことをもう一回いった。
「ジュースつくってるの。おいしいから」クミコの目はどこかうつろだった。
ぼくはタオルで床や壁のクロスを慌てて拭いた。甘い匂いが身体に染みこんでしまいそうだった。
「どうしたんだよ、おい」とぼくが声をかけると、クミコは「なんで先生、なんで?」と金切り声をだした。細い涙を流していた。
クミコは普通ではなかった。澤木さんのいってたことは本当なのだ。しかしなんでとは何のことなのか。クミコの言おうとしていることがわからない。
澤木さんは奥の部屋から自分のワンピースをもってくると、着替えるようにいった。しかしクミコがいやいやをしたので、仕方なくブラウスを脱がせにかかった。
「ちょっとあっちへいっててね」という間もなく、クミコはブラジャー一枚の姿になった。それは水着姿とは全くちがって、妙になまめかしかった。乳房のふくらみにいやでも目がいった。ぼくはその光景を半ば呆然としながら見ていた。
澤木さんとクミコとは姉妹でもない。もっと別の関係だ。ぼくはその時強く確信した。
クミコは放心しきった表情で、身体をまかせていた。微かに笑みさえうかべていたように思う。澤木さんはスカートをおもいきりひっぱりながら、だめな子ね、と何度も呟いた。キッチンテーブルの上には潰されて形もなにもなくなったイチゴが、真っ赤なドロドロの液体になって赤く光っていた。
戸外に出ても、まだ目の前にクミコの下着姿があった。ばかやろう、いいかげんにしろ。ぼくは何度も歩きながら、独り言をいった。腋の下に汗がはりついていた。

ゼミの入り口のところで、二番町に呼びとめられた。随分と久しぶりにあったような気がした。二番町は真っ黒な顔をして、元気そうだった。
「山にいってたんだ」
どこのとはきかなかった。別荘にきまっているからだ。蓼科にある別荘にこないかと以前誘われたことがあった。
「いやに黒い顔してるな。あんまり浪人らしくねえぞ」
ぼくは自分が毎日、ゼミと家の間をいったりきたりしていることに、心底うんざりしていた。二番町はそんなに毎日がつがつやったって頭には入らないしさ、といった。まったくだと思えばおもうほど、腹が立つ。近くにいる人間にどうしても憤りがむかってしまうのは、どうしようもなかった。
「そんなことより、この前クミコに会ったんだ」とぼくはとっておきの話をする時の少し低い声になった。二番町はぼくの話を聞きながら、何度もふうんとか、それでとか言いながら、肝心のところをはやく知りたいという表情をした。
ぼくたちは結局地下の食堂まで、その話をしながら降りていき、少し遅い昼食をとった。二番町はその間、何度も信じられないといった。
「レズだよ、それは。間違いない」彼は確信に満ちた言い方をした。
「やっぱそうかな。そうだよな。あのクミコが……。おれだって信じたくはないけど、でも目の前でみせられちゃな」
「その先生とかいうの、本当に医者なのか。どうも話をきいてると嘘みたいだな。どこの病院だって」二番町がそう訊くのも無理はなかった。ぼく自身、半信半疑なところもあったからだ。
「電話してみろよ、その病院に。名前知ってんだろ。ほんとうにそういう女の医者がいるのかどうか訊いてみようぜ。常識的に考えてもみろよ。患者が医者の家で遊ぶなんてこと絶対ないよ。そんなことしてたら、医者は身体がもたない。やっぱり普通じゃないよ、そりゃ」
二番町に言われればいわれるほど、訳のわからないことには違いなかった。高校のビデオもあのぐちゃぐちゃになったイチゴも嘘だというのか。女どうしで愛しあっている姿が目の前に一瞬浮かんできえた。
「おい今日の午後つきあえよ。もう授業終わったんだろ」
ぼくがそう言うと、二番町は少し脅えた目つきをした。「まさかそこのうちへいくんじゃないだろうな」と言った。
「その通りだ。この前の話じゃ、まだ夏休みのはずだから。本人がいればの話だけど」
「どこかへいっちゃってる可能性だってあるだろ」二番町が言った。
「そりゃあるさ。でもクミコが一緒にいる可能性だってある」
ぼくは念のためにクミコの家に電話をいれた。出かけていた。どこへとはあえてきかなかった。今のクミコを相手にしてくれるような人はそういないはずだ。
ぼくは二番町に四ツ谷だと言った。大急ぎで食堂の階段をかけのぼり、駅に急いだ。外は暑かった。アスファルトに反射する熱で身体がどうにかなってしまいそうだ。
クミコにしがみついている自分がみえた。
交差点を渡って切符を買おうとすると、駅は人でごったがえしていた。午後の講習の連中がどっと交差点に向かって走りこんでくる。しかし明らかにいつもと様子が少し違っていた。駅員が何か叫んでいる。四ツ谷方面行きの総武線が人身事故で動いていないのだという。飛び込みらしいと誰かがいった。
その瞬間、血だらけの死体が目に浮かんだ。
ぼくはおもわず舌打ちをした。珍しいこともあるもんだ。いったいどうなってんだ、こんな大事な時に。駅員が汗をかきながら、迂回経路をしきりと説明していた。新宿まで戻って、中央線か地下鉄に乗り換えかえるしか手がなかった。事実、二番町はそれをすすめた。
しかしぼくはその事故のことを聞いた瞬間から、あれほど勢いたっていた気持ちがなんとなく萎えてしまっていた。なぜか自分にもうまく説明がつかなかった。ぼくはしばらく券売機の前にたちつくした。
「どうしたんだよう」二番町がいった。
「はやくいこうぜ」彼はぼくの手をつかんだ。
ぼくの目の前にはイチゴの赤い染みをつけたブラジャー姿のクミコがいた。尻の厚い肉がみえた。太陽の光が駅舎の中にまっすぐさしこんできた。
自動券売機の列に並びながら、ぼくはそのまま家に帰ってしまいそうな自分を強烈に予感した。
「どうしたんだよ」二番町はしきりとぼくの顔をみた。
「おれいいや。もうやめた。うちに帰って勉強するよ。おまえも帰れ」
「どうしたんだよ、急に」
「だから言っただろ。ガキにつきあってる暇なんかないんだよ、おれには」
二番町は驚いたような顔をして、ぼくを見た。
「おまえは御屋敷町へ帰れって言ってんだよ」
ぼくは怒鳴り声を出した。二番町はぼくの剣幕に驚いて、じゃあ、そうするよと気弱な声で言いながら、まったく訳がわからないという調子で手をふり、駅の中へ消えた。
ぼくはその瞬間からまたひとりぼっちになった。
暑かった。汗が目に入りそうだった。ぼくは陽炎のたつ道をターミナル駅めざして歩き始めた。トラックが排気ガスをふりまいて目の前を通り過ぎていく。
ぼくは知らない人にひどいことをしてしまいそうだった。

2002-08-11(日)

予感

左手の人差し指の先が痛い。皮がへんにめくれあがって、そこからうっすらと血が出ている。浩介は慌てて指先を口にふくんだ。その瞬間ふっと乳臭い匂いがした。子供の頃の匂いだ。まだ母親の胸に必死でしがみついていた頃、いつも嗅いでいたような気がする。
「どうしたの?」
「ささくれみたいだ」
「親不孝ばっかりしてるからよ」
圭子の言い方には説得力があった。母が死んで八年がたつ。今年の彼岸も墓参りに行かなかった。ピアノの音がどこからか聞こえてくる。ソナチネのようだ。子供の頃、姉がよく弾いていた。浩介はじっと音のしてくる方向に耳をすました。あの時、どうしてぼくもピアノを習いたいと母に言わなかったのだろう。
「少し皮を切っちゃった方がいいわよ。爪切りあったでしょ」
浩介は圭子に言われた通り、ささくれた皮を丹念に切り取った。血が最初に僅かだけ滲み、やがて止まった。爪の根本がひりひりした。
「バンドエイドでも貼っておいたら」圭子が言った。
「いい」浩介は指先をもう一度しゃぶった。
ピアノの音が消えた。風向きが変わったに違いない。東向きの出窓からは十一階だてのマンションが見えた。
浩介はかなり長い間、ソファーに座っていた。陽が西に傾いていく。この家にいると時間がよく見えた。時折思い出したように車の音が路地の奥に響き、すぐに静まってしまう。マンションは分譲を始めてからしばらくして完売した。あれ以来、この家は彼らに見下ろされている。それがなんとなく息苦しい。
「ねえ、あの双眼鏡どうした?」圭子が突然思い出したように言った。
「どうするんだ」
「鳥がとまってるの」
見ると、尾の長い鳥が柿の木の枝先にいた。熟した実をしきりについばんでいる。
「机の引き出しに入ってるだろ」
「仕事場に持っていったんじゃないの」
「いやあれから使ってない」
無言電話が時々かかるようになったのは、マンションに入居が始まってしばらくしてからのことだった。最初の電話は浩介がとった。しばらくこちらの様子を窺っている気配があった。そしてすぐに切れた。
朝と晩に一度づつの日もあれば一日一回だけの日もあった。一週間ぐらい間があいたかと思うと、毎日かかってきたりもする。浩介は自分がずっとどこかで見張られているのを感じた。圭子は一時ノイローゼ状態になった。電話のベルが鳴ると、ぴくっと身体を緊張させる。会社から家に電話してもなかなか出ない。後でどうしたんだと訊くと、怖くてだめなどと答えることもあった。電話の発信音を一番低いのにした。だがかえって耳につく。あまりひどいようなら、電話会社に頼んで、番号をとりかえてもらうしかなかった。
浩介はマンションを見張ろうと思って双眼鏡を買い、時々窓の中を覗いてみた。しかし犯人の見当は全くつかなかった。
「やっぱりここがいい。このソファーの上がいい」
「毎日誰かに覗かれてるっていうのに、おかしな人ね」
浩介は新聞を広げた。あふれるような陽射しが紙の表面に反射して、目にまぶしかった。
「天気になってよかった」
「空気が乾いて気持ちがいいわ」圭子が頷いた。
秋のはじめ、長い雨が続き、さすがに神経が疲れた。
「鳥っていいわね」圭子がぽつりと言った。
「電話のことなんかあんまり気にするな」
「それもあるけど」
結婚して五年がたつ。二年前に一度流産して以来、子供ができない。病院にも何度か行った。しかしあまり効果はなかった。買い物に出れば、幼い子供が母親に抱かれている姿を見かけないわけにはいかなかった。
「電話の犯人は必ずおれが見つける」浩介は力を込めて言った。
「そのことだけど……、近頃どうもあのマンションじゃないような気がするの。犯人はもっと近くにいるんじゃないかしら」
浩介も同じことを考えないではなかった。マンションの入居と無言電話は論理的につながらない。しかし浩介は十一階だての建物のどこかに犯人がいると確信していた。
圭子は理屈じゃないと言う。
「勘よ、勘。だってあんな高い所からこの家を見ても面白くないもの」
「面白くない……」
「そう、あそこからならもっと面白いものがたくさんあるはず。この前何にもすることがなかったから、あそこのマンションまで行ってみたの」
初めて聞く話だった。
「この家は全然面白くなかった。どこにでもあるただのありふれた家よ。あっちこっち修繕して、父と母が暮らして死んじゃったぼろぼろの家。ただ、それだけ。幾ら覗いたってちっとも面白くもない。それよりもっと面白そうな家がいっぱいあったわ。もっと高いビルがあの向こう側には二つもあるし。わたしなら絶対あっちを覗く」
「この家は面白くなかったのか?」
「うん、ちっとも」
その瞬間、浩介も自分の目で見てみたくなった。
「もう一度行かないか」浩介は圭子を誘った。
十一階のてっぺんからこの家を見る。そこまでがとりあえずの目的だった。無言電話をかけたくなる家なのかどうか。
「行くの、本当に?」
「行く、実際に見てみなくちゃわからない」
「へんな人ね」
「いいんだ、行く」
チャイムが鳴った。三時だ。すぐに小学生が道にあふれ出す。浩介はスニーカーを履いて、外に出た。圭子は半ば呆れ顔で見送った。

マンションへ行くためには小さな橋を渡らなければいけなかった。川といっても名ばかりだが、水はまだ流れていた。
会社へ行く時とは全く正反対の方角だった。駅からどんどん遠ざかっていく。初めての道だった。風景がいつもと違う。
陽を背中に受けた。影が前方に長くのびる。湿度が低いせいだろうか、むやみと喉がかわいた。
しばらくして、影が突然二つになった。浩介は驚いて後ろを振り返った。
圭子が走ってきた。
「どうしたんだ?」
「なんだか一人でいるのが……。さっきつまらないって言ったでしょ。でも自信がなくなっちゃった。もしかすると面白いのかもしれない。たまらなく覗きたくなる要素が、あの家にはあるのかもしれないし。もう一度自分の目で確かめてみる」
圭子は息をはずませながら言った。
並んで歩いていると、ショートカットの髪が上下に揺れた。
「マンションには誰でも入れるのか?」
「どういう意味」
「オートロックは?」
「さあ、この前はすぐに入れたけど」
浩介はマンションのエントランスに向かった。
エレベーターはすぐにやってきた。管理人の姿も見えなかった。十一階までは一瞬だった。揺れもしない。上にすごい勢いで引っ張られた。小さな金属音がして止まった。そこが最上階だった。長い廊下が続いている。ふと潮の香りがした。
屋上に出る階段の入り口はすぐに見つかった。しかし鍵がかかっている。
「どっから見たんだ?」
風が強かった。地上の音が交ざりあい、一気に吹き上がってきた。
「あっちよ、あっち」
圭子の指さしたのは開放廊下の一番端だった。
浩介はそこがどの方角にあたるのかよくわからなかった。
「こっち側が北なの。だから端っこまで行かないと、よく見えない」
圭子は住んでいる家の方向のことを言っていた。浩介は廊下の端にしばらく立った。高さに身体がすくんだ。
浩介たちの家は背後にゴルフ場の大きな林を背負っていた。低い川の周辺から次第に土地が高くなり、ゴルフ場になる。かつては大きな森だったのだろう。その名残が今も幾つか残っている。鬱蒼とした林が馬の背のように長く横たわり、その谷あいに家が点在している。初めて今の家を訪ねた時、まさか自分が住むことになるとは思ってもみなかった。
「たいして面白くもないなあ」
「でしょ」圭子が浩介を見た。
「子供の頃、こんなに家がなかった。ほら、あそこのアパート……」
圭子の指さした方向には、学生用に建てられたアパートが幾つも並んでいた。
「あそこには前、鶏小屋があったの。風が吹くとすっごくにおってね。母がいつも厭だ厭だって言ってた」
「そんなに田舎だったのか?」
「そう、今じゃ考えられないけど」
駅前から一直線に伸びた道の両側には、バスターミナルがあり、ひっきりなしにバスが出入りしていた。確かにこの町は変わった。浩介が圭子の家に遊びに来るようになってからの数年の間にも、次々と駅前にビルが建ち、人が移り住んできた。
どこの家を覗こうかと考えた時、浩介たちの家が目に入ることは確かだった。風景の中ほどに位置しているからだ。右側の奥にあるのは中学だろうか。青いジャージ姿の男女が校庭に群れている。ちょうど左右の視界から、ほぼ等距離のところに浩介の家があった。それだけでも目立つことは事実だ。しかし家の造りそのものは平凡だし、谷あいに抱かれている他にこれといって人目をひくわけではない。圭子がありふれていると言う理由もよくわかった。
浩介はさらに目を凝らし、林にそって視線を動かした。赤い屋根の家が幾つかある。だが面白くない。ありふれている。農家もある。しかしこれも面白くない。丸い形をした大学の校舎が、丘の上にかぶさるようにして建っている。しかしこれもつまらない。
むしろ人の目を引くのは林そのものだった。広葉樹の少し赤みがかった木の葉の陰から、すっと谷になった場所の襞の部分に、幾つかの家が点在している。風にそよいでいる林の木々に西陽があたって、そこだけが明るかった。急速に変わっていくこの町の中に、林がこれだけたくさん残っているということの方が、むしろ新鮮だった。
「あの林の向こう側はどうなってるんだ?」
「向こう側って」
「ゴルフ場のあっちだよ。森のように見えるけど」
「調整区域だもん、なんにもないわよ」
「今度行ってみるか。道ぐらいあるだろ」
圭子は浩介の気まぐれに少し呆れたようだった。
「そんなことより電話の犯人はどうなったの。やっぱりこのマンションに住んでるのかしら?」圭子にとっては、そのことの方が問題のようだった。
「わかんないな」浩介は既に興味をなくしていた。
強い風にあたって身体が冷えた。急いでエレベーターホールに戻った。圭子が慌てて後を追ってきた。
「やっぱりつまらなかったか?」浩介は圭子に訊いた。
「そうね、最初と同じ。でも紅葉がきれいだった」
「お父さんはどういうつもりであの家を買ったんだろう」
「どういうつもりって?」
「谷間にかくれるような小さな家をさ」
「わたしは好きよ」
圭子は怪訝な目をして、浩介を見つめた。

その女の顔をどこかで見た。通勤の途中ではない。同じ駅から乗る人間の顔なら、たいてい風景のようにして覚えている。浩介は女の顔を見ながら、どこで見かけたのかということにこだわっていた。
圭子に頼まれて糸を買いに出た。糸ぐらい自分で買ってこいと言ったが、シチューを煮込んでいるから台所を離れるわけにはいかないと言う。浩介は散歩がてら商店街まで歩いた。
女は駅から一直線に続く道に立っていた。年は圭子より幾らか若く見える。浩介が立ち止まると、女は急に歩き出した。しかし心持ち歩幅を縮めているのがわかる。浩介は直感的に無言電話の犯人ではないかと思った。見られているという感覚が電話の時と似ている。男だとばかり思っていただけに、少し意外だった。どこかで見た女だ。浩介は何度も同じことを考えた。
番号を告げると糸はすぐに買えた。他のはよろしいんですかと言われ、慌てて首をふった。浩介は用事を終えた気楽さから、本屋に入った。雑誌を立ち読みしながら、新刊本を眺めた。平積みになった台を覗いていると、先刻の女と目があった。女は道の向かい側にあるハンバーガーショップでコーヒーを飲んでいた。一瞬の間だった。しかし確かに浩介と女とは視線をあわせた。やはり電話の犯人だという直感が働いた。どこかで見たことがある。だが思い出せない。
空が高かった。風が肌に心地いい。
家に急いで戻った。圭子は台所に立ってシチューを煮込んでいた。晩に妹の祐子さんが来る。彼女はまだ独り身だった。というより、半ば婚約していた男とつい最近別れてしまった。時々圭子にそのことで相談の電話をかけてくる。
まだ男とつきあっていた頃、祐子さんは何気なく占いをしてもらったらしい。するとその易者は彼女の手を見ながら、この縁談は流れると予見したという。
「祐子さんが来るっていうと、おまえはいつも張り切るな」
「だって、あたりまえでしょ」
圭子はシチューを小さな皿に取って、味見をしろと言った。浩介は妙な女に会ったことを、圭子に言うべきかどうか迷った。だが結局シチューを黙って嘗めた。

久しぶりに会った祐子さんは、どこか生気がなかった。男と別れてからどのくらいの月日が過ぎたのか。食事をしながらワインをのんだ。途中からウィスキーにかえ、浩介も少し酔った。圭子も心地よさそうにのんでいる。浩介は努めて男の話題に触れないようにした。しかしかえって居心地が悪かったのか、祐子さんは自分からその話を切り出した。青白かった顔に赤みがさしていた。年相応に艶のある肌の色だ。時々浩介を見る目の奥に、不思議な魅力がある。
圭子は話を聞きながら、しきりに慰めようとした。
「あんまり気にしちゃ駄目よ。かえって良かったのかもしれないじゃない」
事情がわかっているだけに、浩介も何と言ったらいいのか迷った。男にはどうやら別の女がいたようだ。嘘か本当か、近々結婚するという話も耳に入っている。
「今まで占いなんかしてもらったことないのにね……」
「自分でもおかしいとは思う」祐子さんが言った。
「すぐに信じちゃったの?」
「ううん、そんなはずないって強く思ったけど」
祐子さんのグラスにワインを足した。彼女はそれを口に運んだ。薄紅色の口紅が、色鮮やかだった。首筋に血管が浮き出ている。
「占いなんて雑誌に載ってるのをたまに読むくらいで、信じてもいなかったの。でも掌を見せた瞬間、すぐに言われちゃった。もうだめだからって。このまま続けると不幸をしょい込むって。相手の家に行ったことがあるかって言うから、もちろんって答えた。でもそれは本当の家じゃないって言うの」
「それどういう意味よ?」圭子が訊く。
「よくわからない……。でも芯のない家だからって、しきりと言うから気になった」
「佐伯さんの家には何度も行ってたんでしょ」
「うん、ご飯だって何度もご馳走になってるし」
「幾つぐらい、その掌をみてくれた人っていうのは?」
「四十代のはじめぐらいだったかな」浩介は祐子さんの顔を見た。頬に赤みがさして、うるんだような目をしている。
「やっぱり縁がなかったのよ。時間がかかるかもしれないけど、諦めなさい。冷たいようだけどさ」
祐子さんはうん、と言ってから下を向き黙りこんでしまった。しばらくして、彼女は圭子の顔を真っ直ぐ見つめ、わたし、どうも身体が最近つらくって、もしかしたらどっか具合が悪いのかもしれない、と言った。
「あなた、まさか?」
圭子が思わず訊いた
「何?」
「妊娠してるとか?」
「……まさか。なんでそんなこと考えるの」
「だって……」
「もしそうだったら、産んでみたいな」祐子さんが言った。
「何いってるの、ばかねえ。病院には行ったの?」
祐子さんは首を左右に振った。
「なんですぐに診てもらわないのよ」
圭子は本当に呆れてものも言えないという顔をした。祐子さんは再び下を向いてしまった。
「佐伯さんには話したの?」
「ううん」
「本当にもし妊娠でもしてたら、どうするつもりなのよ?」
「産んで育てるだけ」
「そんなに簡単に言わないでよ、子供みたいに。後で大変な思いをするのはあなたなのよ」
浩介はグラスに氷を足した。圭子は信じたくないという表情をした。
どうなってんの、いったい。圭子の声が部屋の中に響いた。
その時、突然電話が鳴った。低い唸るようなベルの音だった。浩介はすぐに受話器をとった。しかし何の応答もない。いつもの無言電話だった。腹の底が熱くなった。ばかやろう、いい加減にしろ。電話口に向かって叫び、力一杯受話器をたたきつけたかった。電話は再びすぐに鳴った。いい加減にしろ、このやろう。
それきり電話は鳴らなかった。祐子さんは怖がって、浩介を見た。なんでもないんだ。平気だ。浩介はそれだけ言った。そんなことより食べなさい、もっと。
テーブルの上には冷めたシチューがあった。祐子さんは思い直したようにスプーンを持った。もう一度温めた方がいいと勧めると、これでいいですと言いながら、シチューを口に入れた。だがすぐに手が止まってしまう。
「これからどうするのよ?」圭子は姉だ。先のことを心配していた。
「わからない」
「佐伯さんが他の人と結婚するっていうのは本当なの?」
祐子さんはまだ電話の方をじっと見ている。
「本当なのかって訊いてるのよ」圭子はいらだちを隠さなかった。
祐子さんは何も答えようとしない。
「いいの、自分できちんと話をするから」祐子さんは同じことを繰り返した。
「……あなたがそこまで言うなら、まかせてもいいけど。最後までちゃんと話し合って、結論を出さないとね」
「うん、わかってる。占いをしてくれた人にもそう言われた。あなたにとっては特別なことかもしれないけど、こんなことは世の中によくあることだって」
「こんなことか……。でもその通りかもね。とにかく佐伯さんにもう一度会ってきちんと話をしないと」
「もう会いたくない」祐子さんはきっぱりと言った。
「そんなこと言ったって今のままじゃどうにもならないじゃない。今、自分で何もかもやるって言ったばかりでしょ」
「やるわよ……」
「やっぱり埒があかないから、わたしが電話する」
「やめて」祐子さんが甲高い声を出した。
遠くでサイレンの音がした。次第に近づいてくる。救急車のようだ。窓から首を出すと音が急速に高くなった。

「どうしてこんなことになるのかしら」
圭子は布団に入ってからも、なかなか眠れないようだった。障子に街灯の明かりが映っている。
「手相をみてもらったっていうのは本当かな?」
浩介は祐子さんの話をすぐには信じられなかった。
「常識で考えてもみろ。そこいらにいる占い師が見ず知らずの人間にそこまではっきり言うか」
「言うかもしれないじゃない」
「おれにはどうしてもそうは思えない」
「そうかしら、わたしはそんなこともあるような気はするけど……。とにかく明日、病院に連れてくわ」
「そうした方がいい」
「母が生きてたら、きっと今頃大変だった」
浩介が圭子と付き合い始めた頃、彼女の母親はまだ元気だった。この家で何度も食事をした。あの時、祐子さんはまだ音大生だった。その後、母親はすぐに脳溢血で入院し、この家に生きて戻ることはなかった。
「佐伯っていう、その男と何年つきあったんだ?」
「二年半ぐらいかしら」
「二股かけるなんて汚い男だな」
「祐子も薄々気づいてたんでしょ。だからなんとか自分の方に戻そうと苦心したみたい。占いをふっとしてもらいたくなった気持ちもわかる。そうしたらもう駄目だって宣告されたんだから、気もへんになっちゃうわよ。あの子、わりに一途なとこがあるし」
「おれが会うか」
「祐子の気持ちを確かめてからね」
「金のことだってあるしな」
「結局……そういうことになるのかしら」
圭子は寂しそうな声を出した。
「こうなったから言うわけじゃないが、できたら彼女もこの家で一緒に暮らした方がいいよ。元はといえば、ここはおまえの家なんだから。おれが彼女を追い出したようなもんだし」
圭子は少し意外だったのか、
「あの子がそんなこと納得するかしら」と言った。
祐子さんがこの家を好きなことはよくわかっていた。両親の思い出もたくさんしみついている。浩介に遠慮して家を出て行ったのだったら、なおさら戻るべきだ。
「明日、ゆっくり話してみろ。おれはちっともかまわない。二階を全部使ってもらえばいいんだ。改造する必要があれば、そうすればいいし……」
その夜、何度も目が覚めた。喉が渇いて仕方がなかった。

翌日、圭子は祐子さんを連れて病院へ行った。しかし反応はでなかった。医者は神経から身体の異変を訴える患者が最近増えていると圭子に告げたという。
浩介は圭子に促され、佐伯という男に連絡をとった。だが出張中で会えなかった。三日後、会社へ直接本人から電話が入った。その夜、浩介は今までの経過を男に詳しく話した。想像していたより、がっしりした肩幅の広い男だった。営業マンとしては適任かもしれない。
佐伯は瞬きもせずに話を聞きながら、そうですかと何度も言った。そして再確認するように、彼女がそんなことを言ったのですねと浩介に訊ねた。そうだと答えると、彼は複雑な表情を浮かべ、浩介の目を真っ直ぐ見た。
「一度彼女に会わせてください」佐伯は額に汗を浮かべていた。
帰ってから祐子さんにその話をすると、厭なものは厭なのと彼女は会うのを拒んだ。意外なほど頑なだった。自分で解決するって言ったでしょ、と圭子は祐子さんに何度も食い下がった。だがうまくいかなかった。浩介はその後電話で何度か佐伯と連絡をとった。
「そうですか、彼女はそう言いましたか」
「きみはどうなんだ、もう一緒にやっていくつもりがないんだね」
浩介が訊くと、佐伯はその問いには答えず、
「彼女がそこまで決心したのなら、もう会えないでしょうね」と呟いた。
「きみはそれでいいのか」
「だってしょうがないじゃないですか」男は強く反発した。
「どういうことだ、それは」浩介には相手の言おうとしている意味がわからなかった。
「これ以上は話せません」
「どういうことだよ」浩介は食い下がった。
「あとは直接彼女からきいてください」
浩介は途方に暮れた。
「きみたちのことなんだろ、そうじゃないのか」浩介は語気強く迫った。
「とにかくもう一度、彼女に会わせてください」佐伯は同じことしか言わなかった。
浩介もどうしていいかわからなかった。祐子さんにいくら話しても埒があかない。とにかくもう一度彼女に話してみる、と約束して電話を切った。だが彼女は会いたくないの一点張りだった。圭子からも説得してもらったが、だめだった。最後には浩介も根負けしてとうとう諦めざるをえなかった。電話で話し合うからと祐子さんは繰り返して言った。

祐子さんはその後しばらくして、浩介たちと暮らすことになった。同時にピアノ教室の講師もやめた。家でピアノを教えてもいいか、と祐子さんが言い出したのは、一月くらいたった頃のことだった。浩介も圭子もすぐに賛成した。
次第に日が短くなっていた。周囲の林の影も遠くへ伸びるようになった。西の陽を浴びて庭に立っていると爽やかだ。この家にいると、気持ちが落ち着くと彼女は何度も言った。それは浩介にしても同じだった。
土曜の午後、庭に出て草むしりをした。秋のはじめ、こまめにむしったつもりだったが、すぐにまた生えてきた。居間では最初のレッスンが始まっていた。小学生の女の子がやってきた時、祐子さんは素直に喜んだ。圭子が近くの知り合いに声をかけて頼んでおいたらしい。くりっとした丸い目の女の子だった。ピアノの音が庭に響いてくる。ドレミの音が何オクターブにもわたって聞こえた。浩介は草をむしりながら、その音色を聞いた。「この記号は?」祐子さんの声が聞こえてくる。
女の子の声は聞こえない。何度か聞き返している。
「そう、これは一回休む記号ね。ずっと働いたらくたびれちゃうもんね」
子供が小さく笑った。
「じゃ、もう一回弾いてみよう。きれいな音でね」

浩介は陽を浴びながら草をむしった。青臭い匂いが、むしる度に鼻をついた。
庭の隅にある根のはった大きな草を、シャベルでこじり取ろうとした時のことだった。何か堅い物に移植ベラの先があたった。鉢のかけらのようだった。こつんという感触が残った。なんだろうと思いながら、浩介は無理にその周囲を掘った。そこだけ幾分土が盛り上がっていた。次の瞬間、浩介は思わず声を失った。骨だった。最初それが何のものかよくわからなかった。しかし大きさからみて、犬か猫のようにも見える。少し気持ちが悪くなった。特に匂いはない。あるとすれば、それは湿った土の匂いだった。
茶褐色の土にまみれた骨は、意外なほどもろかった。へらで叩くと、すぐに粉のようになった。犬だろうか。しかしこんな場所に犬など埋めた記憶はない。浩介は大声で圭子を呼んだ。
「おまえ、こんなとこに何か埋めたか?」
浩介は移植べらの上にのせた泥まみれの骨のかけらを圭子に見せた。
「何よ、それ?」
「骨だな、犬のみたいだけど」
圭子は気味悪そうにして、目を背けた。
「こんなところに埋めたか?」
圭子は強く首を振った。
「犬なんて飼ったことなかったよな」
浩介が知っている限りにおいて、この家に犬がいたことはない。
「思い当たることはないか?」浩介は重ねて訊いた。
「どうして、そんなとこに」圭子は浩介の質問を聞いていなかった。
「祐子もわたしも生き物は嫌いなの。だめなの、犬も猫も。だから家で飼ったことなんかないわ」
浩介は仕方なく芝生の上にそのほとんど土に同化しかかってる黒々とした塊を投げ出した。
「やだ、気持ち悪いから、はやくなんとかしてよ」圭子が大声で叫んだ。
その声があまりに大きかったせいか、祐子さんが窓から首を出した。そして芝生の上に転がっている泥まみれの骨を見た。しかし最初はそれが何なのか、やはりわからなかったようだ。叫び声をあげたのは少したってからだった。いやあと大声を出した。そしてすぐに勢いよく窓を閉めた。ガラスがしなった。
圭子が気配を感じて、ピアノのある居間へ駆け込んだ。浩介は祐子さんがうずくまっている様子を窓越しに見た。圭子が何度も背中をさすっていた。顔が真っ青だった。
浩介は移植べらを土に突き立てて、さらに掘った。途中からスコップを使った。骨は幾つか出てきた。あばら骨らしいものや、足のようなものも出てきた。しかし変形していて十分によくわからない。誰が埋めたのか。嫌がらせだろうか。
祐子さんの声が窓の外にまで聞こえた。吐き気がなかなかおさまらないようだった。圭子がしきりと大丈夫と言いながら、介抱しているようだ。ピアノのレッスンは中途で止まってしまった。浩介は地中に埋まっていたものを、全て掘り出そうと思った。脇の下に汗をかいた。泥の湿った匂いが鼻をつく。芝生の上に次々と土まみれの骨を並べた。いつ頃のものだろう。原型をとどめないものが多い。
とにかくどこかへ捨てる必要があった。だが本当に犬だろうか。浩介はもう一度掘り出した骨の山を見た。
とにかくポリ袋にでも入れて、ごみ箱へ捨てるしかなかった。しかし誰がこんなことを。嫌がらせにしてもほどがある。丸い目をした女の子が玄関から出てきた。さよならと浩介に向かって言いながら、芝生の上に並んだ骨をしげしげと見た。この子は家に帰って、何と親に報告するだろう。もうレッスンに来ないかもしれない。浩介はまたね、と言った。女の子はうんと頷き、通りの方へ歩いていった。
台所へポリ袋を取りに行った。すると圭子が、祐子の様子がおかしいと言った。
「どうしたんだ?」
「顔が真っ青なの。今、吐き気だけはどうやらおさまったみたいだから、二階に布団をしいて、寝かしたけど」
浩介は圭子の顔を見つめた。
「いたずらかしら?」
「何のためにだ。理由もなしにそんなことやる奴なんかいないだろ」
「そうかしら……。思い当たることないの?」
「ばかなこと言うな」
「最近じゃないでしょ」
「二、三年はたってるかもしれない。骨がぼろぼろだ」
ポリ袋を何枚も持って再び庭に出た。掘った穴はかなり大きかった。人間一人ぐらいは楽に入れるかもしれない。浩介は手早く骨の塊を片端から袋に入れた。しかし頭にあたりそうな部分がない。浩介は全ての骨を入れ終わると、急いで穴をふさいだ。汗が背中から腋の下にかけて吹き出た。柔らかな湿った土が、穴の存在をかえって大きく感じさせた。 誰かが浩介たちの気づかない間に、生き物の死骸を持ってきて、わざわざ穴を掘り埋める。そんなことがあり得るだろうか。それも今から二、三年も前に。作業をするとしても一時間以上はかかるだろう。昼間なら誰かが通りかかる。やるとすれば夜だろうか。深夜にこっそりと持ってきて、穴を掘る。そして埋める。しかし何のためにだ。
全く思い当たる節がなかった。個人的な恨みだろうか。あるいは他に捨てる場所がなくて、たまたま浩介たちの家が選ばれた可能性もある。しかし本当に埋めようと思ったら、ゴルフ場につながる道には、幾らでも適当な場所があった。わざわざ他人の家の庭を掘るようなまねはしないはずだ。
ダストボックスに袋を捨てた。浩介はひどく疲れを覚えた。夕食の時間になっても祐子さんは二階からおりて来なかった。圭子が何度も声をかけた。
「まだ眠ってるのか?」
「わからない」
「ちょっと見てこい」圭子ははじかれたように、階段を上がっていった。
しばらくして、下りてくると、
「まだ寝てる。何かおかしいわ、あの子。まだわたしたちに隠してることがあるみたい」 と訝しそうな声を出した。
「佐伯さんとの間に何があったのかしら。だってさっきの様子普通じゃなかったでしょ。何か怖がってるみたいだった。身体が震えてたもの」
言われてみれば、確かにその通りだった。
「誰だろう、あんなことする奴は?」
「わかるわけないわよ。電話の犯人だってまだみつからないっていうのに」
圭子が投げ遣りな調子で言った。
翌朝、早く目が覚めた。霜がびっしりと芝の上におりている。庭の隅の一画だけが、茶褐色の土をさらけ出していた。祐子さんはよく眠れたのだろうか。一晩中何の物音もしなかった。あのまま寝てしまったとしたら、もう起きてもいい時分だ。浩介は新聞を取りに庭へおりた。空気が冷えている。手がつめたかった。
コーヒーをいれた。香ばしいかおりが部屋の中に満ちた。
「祐子はまだ?」圭子が目をこすりながら起きてきた。
「まだだ。見てこいよ」
圭子はうんと頷くと、二階の部屋へ向かった。しばらくして話し声が聞こえてきた。どうしてよと圭子が言った。はっきりとは聞こえないが、何か言い合っているようだった。「もう一回、あそこへ行ってきたいんだって。これからすぐに支度するって」
圭子が怪訝そうな表情を浮かべながら居間に戻ってきた。
「あそこ?」
「ほら、あの占いをしてもらった……」
「なんだってそんなとこに行くんだ?」
「もう一度みてもらいたいことがあるんだって」
「同じ易者にか」
「きっと、そうじゃない」
「とにかくここへ連れてこい。おれが直接話を訊く」
祐子さんはしばらくして、圭子に説得されたのか、髪を束ねたまま下りてきた。顔が一回り小さくなったように見える。顔色もどことなく冴えない。
「ちょっと訊いてもいいかな」浩介は努めて穏やかに言った。
「昨日はどうしたんだ。本当に驚いたよ」
浩介はゆっくり話した。だが祐子さんは黙りこんだままだった。
「どうしても行きたいの?」圭子の問いに、祐子さんは首を縦に振った。
「また運勢をみてもらうの?」圭子が重ねて訊いた。
「……うん」
「近くでみてもらえばいいじゃない」
祐子さんが口にした町の名はとても遠かった。
「あの人がいい」
「どうしてよ?」圭子は執拗だった。
「わたしのこと、一番よくわかってるから」
「祐子、よく考えてごらんなさい。相手は道ばたに座ってる赤の他人よ。どうしてあなたのことがそんなにわかるのよ」
「だってわかるんだから」
「口から出任せ言っただけかもしれないじゃない」
祐子さんはだから姉さんに話すのは厭なのと口走った。
「子供じゃないんだから、行きたいなら行ってもいいが、用事が済んだら今日か明日、連絡をくれないか。そしてなるべく早く戻ってきてほしい」
祐子さんは素直に頭を下げた。
「お金は?」
「あります」
「あなたは祐子に甘すぎるわよ。あんまり自分勝手じゃない。なにが占いよ。冗談じゃないわ」
「姉さん、嫌いよ」祐子さんはそれだけ言うと、二階に上がって支度を始めた。
後にはしんとした静けさが残った。浩介は新聞を取り、記事を拾い読みした。だがなんとなく落ち着かない。こんな形で祐子さんを外に出してしまっていいものかどうか。しかし本人が納得しない限り、止めることはできないだろう。圭子は不満そうな顔を隠さず、祐子さんが出かける時、玄関にも出てこなかった。
無言電話がかかってきたのは、昼を過ぎた頃だった。浩介はすぐ何も言わずに受話器をおろした。電話は再びすぐに鳴った。浩介はそのまま、受話器を置いた。何度でも相手が同じことをするのならば、浩介もやる。根比べだ。腹の底がかっと熱くなった。

車に乗るのは久しぶりだった。仕事柄タクシーには乗るが、自分では滅多に運転しない。あまり好きではないのだ。浩介は二十二才の時、大きな人身事故をおこしている。その記憶があまりにも強すぎた。
夜、遊びに出て家に戻る途中だった。国道をかなりのスピードで走っていた。その時、ふっと男が道に飛び出してきた。それは車に轢かれるためとしか思えない動きだった。まるで車に覆い被さるように道端から出てきた。危ないと思った瞬間、身体中に電気が走った。強い電流が頭から背筋を抜け、足の先端めがけて一直線に流れ去った。熱いと思った。身体が痺れた。その時のことは今でもスローモーションシーンのように、時間を区切って思い出すことができる。
とっさにブレーキを踏んだがだめだった。どんという鈍い音がして、男はそのままボンネットに跳ね上げられた。浩介は急停止して外に飛び出した。男が血まみれで、道に横たわっていた。しばらくの間、浩介はその場に立ち尽くした。救急車を呼ぼうと思ったのは、それから数十秒してからだった。
病院で延命治療を施したが、数時間後に息を引き取った。男は三十七才だった。助手席に女友達が乗っていたのが、結果的には幸いした。彼女が警察の事情聴取に対して一部始終を話してくれなかったら、今頃どうなっていたか。
男は生まれた時から脳に幾らか障害があり、それまでにも何度か危ない目にあっていたらしい。浩介は免許停止の処分をしばらく受けただけで済んだ。しかしそれでも通夜の席に行った時には、もう二度と車には乗るまいと思った。
年老いた母親が線香のむせかえるような匂いの中で、最初から最後までずっと押し黙っていた。いつかはこんなことになるのではないかと、覚悟だけはしてましたけど……。彼女は浩介が家を去ろうとする時、ぽつりと言った。浩介はただ深々と頭を下げるしかなかった。
その後、車をすぐに売りに出し、一年以上乗らなかった。事故の時、隣に座っていた女友達とも、その後あまり会うことはなくなった。互いに厭な記憶を早く消したかったのかもしれない。
今でも救急車のサイレンの音がすると、身体が自然に反応する。赤いライトを明滅させながら近づいてきた救急車のあの時の様子と、道路に流れていた夥しい血を忘れることはできない。

朝、どこかへ連れてってと圭子が言い出した。珍しいことだった。ドライブがしたいという。どういうつもりだと訊くと、たまには外の景色でも見ないと頭の中が、もやもやしちゃってと言った。浩介は圭子のために、車をガレージから出した。
祐子さんは出ていったきり、まだ戻ってこない。最初は多分二、三日したら帰るだろうと思っていたが、電話もなかった。結局浩介の読み通りにはならなかった。もう一週間がたつ。その間、何の連絡もない。
だが圭子はあんな妹、いいのよとそっけない。しかし言葉とは裏腹に圭子の神経がまいってきているのは、傍目にもよくわかった。
高速道路に乗ってから、車は快調に走った。百キロをすぐにオーバーする。圭子はドライブに行きたいとかなり熱心だったわりには、あまり嬉しそうでもなかった。浩介はアクセルにのせた足を時にゆるめた。スピードが出すぎる。視野の狭くなるのが怖かった。遠くの山がわずかの間に目の前まで押し寄せてくる。
「やっぱり帰って来ないかもしれないわ」圭子が外を見たまま呟いた。仕方ないという気持ちが、言葉の端に滲んでいた。
「どうしてそう思うんだ?」
「どうしてかしらね。なんとなくそんな気がする……。これは浩介の勝手な想像だけど、あの無言電話もひょっとしたら祐子になんか関係があるんじゃないかしら。あの子、わたしに嘘ついた。それが悔しい」
「嘘?」
「嘘よ、きっと。あなたの言った通り、自分で話を作ったんだわ。占いの話なんかしたりして。だってそうじゃなかったらすぐに帰ってくるでしょ。何のためにわざわざあんな遠くの町まで出かけてったのよ。目的があるからでしょ」
圭子はその目的が何であるのか言わなかった。
「一度行って見る必要があるな」
「ずっと戻ってこなければね」
祐子さんが戻ってこないとはどうしても考えられなかった。彼女は今の家が気にいっている。戻って来ないはずはない。
帰り道、圭子は眠り続けた。一週間の間、祐子さんからの連絡を待ち続けたのだ。疲れがでたのだろう。無理もない。家で寝ていればよかったのに、なぜドライブに行きたいなどと言い出したのか。浩介はアクセルを踏みながら、時折ふっと意識が遠のいていくのを感じた。ほんの僅かの間だが、気がつくとかなりの距離を走っている。スピードに酔ってしまったのかもしれなかった。
家に戻ると、あたりはすっかり暗くなっていた。一日を無駄に使ったような徒労感があった。家に入ろうとした瞬間、郵便ポストに何か入っているのが見えた。葉書のようだった。浩介はすぐに手にとって差出人の名前を見た。案の定、祐子さんからのものだった。住所は書いてない。M市の消印が押してあった。圭子宛になっている。

―――姉さん、ごめんなさい。もうしばらくしたら帰るから。捜さないで、絶対に。詳しいことはいずれ書きます。本当にごめんなさい。

文面はそれだけだった。圭子は何度かその走り書きのような文を読んで、どういうこと、これ、ばかにしてるわと吐き捨てるように呟いた。浩介も文面を読んで驚いた。ピアノはどうするの。また休みますってあの子に電話しなくちゃいけないじゃない。無理に頼んでお願いしたのに。これじゃわたしの立場がないわよ。圭子が不満そうに言った。
「男といるのかな?」浩介は思っていたことを初めて口にした。
「佐伯さんはきっと何もかも知ってるのよ」
「どうしてそんなことがわかる」浩介は圭子を真正面から見た。
「だって……」
「おまえ、まさか?」
「したわ、電話」
「何で言わなかったんだ」
浩介は圭子の態度に憤りを感じた。
「あのままじゃ、おかしいでしょ。祐子が言ったのなら、そうですなんていう言い方は普通じゃないし、後は祐子に訊いてくれなんてへんよ」
それは男と話していて、浩介も感じたことだった。しかし相手が何も言わない以上、無理に訊くのはためらわれた。
「何て言ってた」
「やっぱり言えないって」
「どういうことだ」
「わからない」
「もう一度だけ会ってみるか」
「きっと駄目でしょ」
「他に男がいるのか」
「そうかもしれない」
「彼女、まだM市にいるのかな」
「男の人と示し合わせておいて、向こうで会ったっていうことも考えられるし。今頃はもういないかもしれない」
「おかしな奴に騙されたりしてないだろうな」
「どうして祐子のことばっかりそんなに心配なの?」
圭子が突然目尻をあげた。
「おれが心配しちゃおかしいか」
「なんだか自分のこと以上に熱心だから」
「つまんないこと言うな」
浩介が少し声を荒げた途端、圭子が急に掴みかかってきた。何よと言った。悔しそうに歯を噛みしめて、浩介に挑んできた。浩介はとっさに片方の手首を掴んだ。圭子がもがいた。なにすんのよ、やめてよと金切り声をあげた。
みっともないからよせ。何がみっともないのよ。圭子は浩介の腹をめがけて何度も、もう一方の手で殴りかかろうとした。圭子にこんな力があるとは思ってもみなかった。何がおかしいのよ。そうやっていつも人をばかにしてるんだから。どうしてちゃんと答えてくれないのよ。祐子が来てからあなたおかしいわよ。
圭子は嫉妬しているのか。浩介は必死の形相で殴りかかってくる妻を相手にしながら、考えた。圭子は手が使えないとわかると、足で蹴りあげようとした。もうやめろ。浩介は叫んだ。
どうせわたしはばかよ。いいじゃない、ばかで。何が悪いのよ。
手がつけられなかった。しばらくもみあっているうちに、背中に汗をびっしょりかいた。息も切れた。浩介は圭子の腕をはなした。

その夜、夢をみた。庭に木蓮が咲いている。幾つかの白い花びらは既に落ちていた。どうしたのと母が浩介に訊いた。説明をしようとした。花びらが落ちていくよりも早く、自分の気持ちを伝えたい。風が吹いている。だから落ちると母に言いたかった。もっと周りを囲んであげなくちゃ木蓮がかわいそうだ。腐っちゃうよ。浩介は母にそれだけを言った。だめなんだから。だめなんだから、腐っちゃうよと何度も叫んだ。どうしたのよ、そんな顔して。母が悲しそうな声を出した。

仕事が立て込んで、帰りが毎日遅くなった。新しいパッケージデザインをどうしても十日以内に仕上げなければならなかった。赤系統の色を多めに使ってくれというクライアントの注文だった。浩介は毎日コンピューターの画面に首を突っ込んだ。新しい商品には新しい色がいる。二十種類くらいの似たような色を画面に出しながら、浩介は一人で黙々と赤に挑んだ。血の色もあれば、薄い橙に近い赤、赤銅色の赤もある。
目をコンピューターの画面から離すと、周りの壁がみえた。隣の仕事が見えないように、衝立で幾重にも仕切られ、浩介はまた自分の世界に戻る。新しい赤。目の覚めるような新鮮な赤。それだけを考えた。
圭子はあれ以来、自分からあまり話しかけてこない。機嫌が悪いというのとも違う。ただ色々なことが面倒になっただけかもしれない。祐子さんからの連絡もあれ以来なかった。不吉なことなのかどうか、それもわからない。判断の材料が何もなかった。だが圭子は様子を見に出かけるとは言わない。M市にはもういないかもしれない。その可能性も十分にあった。
浩介は食事が済むと、すぐ風呂に入り寝た。圭子はブラウスを作るといって、夜遅くまでミシンの前に座っている。無言電話がかかってくる回数は前よりも幾らか減った。本当に圭子が言う通り、祐子さんと何か関係があるのだろうか。相手は何も言わない。浩介も何も言わずにすぐ切る。しかし祐子さんからの連絡かもしれないので、とにかく受話器だけは取る。
圭子も馴れてしまったのか、最近では番号をかえようとも言わなくなった。昼間もカーテンを目一杯開けている。陽射しを部屋の中にいっぱい入れて、ミシンをかける。それが最高の気晴らしのようだった。祐子さんのことを話題にするのを避けているようにも見える。
遅い食事をしながら、疲れた時にはビールを呑んだ。頭の中に赤がたくさん詰まっている。浩介はミシンの前にいる圭子の顔を見た。寝不足気味なのか、顔色がさえない。
「ちゃんと寝てるのか?」
「寝てるわ」圭子は顔を上げようとしない。
「もう帰ってきていい頃だけど」
「だってもうあそこにはいないかもしれないじゃない」
「いなくたっていいさ。とにかく見てこい。それらしいのがいたら、訊いてみろ。市内のホテルを捜すぐらいのことはできる」
「そんなことわかってるわ」
「じゃあ、行って来いよ」浩介は努めて穏やかに言った。
その瞬間、電話が鳴った。浩介は受話器をさっと取り上げ、耳をすませた。相手は何も言わない。すぐに切ろうとした瞬間、あっという短い叫び声が聞こえた。その声には聞き覚えがあった。祐子さんのようだった。どこからかけてるんだ、祐子さんだろ。ちょっと待て、すぐお姉さんにかわるから。
圭子が飛んできて受話器にかじりついた。もしもしと大声で叫んだ。祐子、どこにいるの。どうして連絡してこないの。圭子は必死だった。何か一言でも言ったら、その後に続いて、話すことは幾らでもあるようだった。しかしもしもしという圭子の声だけが部屋の中に響いた。
「誰も出ないじゃない」圭子が浩介を見て不服そうに言った。
そんなはずはない。浩介は送話口に向かって叫んだ。
「祐子さんなんだろ、お姉さんが心配してるから、早く帰っておいで。今どこにいるんだ」 電話はそこで切れた。発信音が鳴った。
「本当に祐子だったの?」圭子が疑わしそうな目をした。
「間違いない。あの声は確かだ。誰かそばにいるようじゃなかったか?」
「わからない」
「行ってこい。とにかく。早く仕事を片づけて。後からおれも行く」
圭子はやっと決心したようだった。翌日の朝早い電車で出かけた。家を出る前に、見つかってもみつからなくっても、必ず夜電話するからと言い残していった。手がかりがあまりに少なかった。浩介は会社でコンピューターの画面を見つめながら、一日が過ぎるのを待った。すぐにみつからないにしても、夜までには何らかの手がかりがあるだろう。
いつもより早めに戻り、圭子からの電話を待った。八時を過ぎても連絡はなかった。テレビを見る気にもなれなかった。十一階だてのマンションに明かりがついている。あの中のどこかの部屋から犯人は、家の中の様子を覗いているのだろうか。黒い影の中にぼんやり浮かぶ電灯の光が、夜の冷たさを感じさせる。
その時ふっと写真で見た風景を思い出した。写真だ。写真を確かに見た記憶がある。祐子さんが見てといって、浩介の前に出したことがあった。運河沿いに古い倉庫が並んでいた。大学の卒業旅行のではなかったか。友達が一緒に写っていた。
大分前のことだけに、記憶が薄れている。倉庫の前に佇んで微笑んでいた。あれは祐子が口にしたM市から電車で三十分もあればいける町だ。確か男も何人か写っていた。
圭子から電話があったのは、夜の九時近かった。浩介はもしもしという妻の声を聞きながら、マンションの明かりを眺めた。
「どうしたんだ、遅かったじゃないか」
「ごめんなさい。あっちこっち捜したもんだから」
「いたのか?」浩介は急いでいた。結論を早く聞きたい。
「いないのよ」
「いない……」
「それらしい人を捜してみたけど、この町にはいないわ。駅の周りにも、商店街にも。いろんな人に訊いてまわったけど、手相を見る人なんか誰もいないって。だいいち寒くって」
「ホテルはどうした?」
「市内のビジネスホテルはだいたい訊いたけど、それらしい女の人は泊まってないって」「男と二人じゃないかな」
「この前の葉書、ここの消印だったでしょ」
浩介は写真のことを圭子に話した。五、六年前のことを思い出せと言った。写真、と圭子は素っ頓狂な声を出した。そうだ写真だ。あの時、誰と一緒に写っていた。その中におまえの知った男はいなかったか。M市の隣だよ。そこから電車に乗れば三十分で行ける。彼女はもうそこにはいないよ。ひょっとしたら隣の町にいるかもしれない。思い出せ。浩介は電話口で何度も叫んだ。圭子はとにかく明日も捜してみると言った。写真だ。何か思い出せることはないか。わかったわ。圭子は疲れたような声を出した。
浩介はビールを呑みながらマンションを見た。カーテンに遮られて、どの部屋の明かりも光は弱かった。

圭子は何の手がかりも得られないまま、三日後、疲れ切った様子で帰ってきた。頭痛がするといって、薬を飲むとそのまま倒れ込むようにして寝てしまった。とても話をするような状態ではなかった。夜、八度を超える熱が出た。浩介は何度か冷蔵庫に氷枕を取りに行った。汗をびっしょりかいて、パジャマも取り替えた。乾いたタオルで背中から胸まで丹念に拭いた。隣で寝ていても、つらそうなのがよくわかった。浩介は翌日仕事を休んだ。
昼過ぎになって、幾らか楽になったのか、圭子はお粥を少し食べた。浩介は馴れない手つきで、彼女の口元へスプーンを運んだ。目にまだ力がなかった。こんな風に疲れきった様子を見るのは珍しいことだった。とにかく医者へ連れていく必要があった。浩介は車の後部座席にぐったりした圭子を乗せ、近くの医者へ行った。着替えをするのもつらそうで、何度も後ろから手をかさなければならなかった。
圭子は座席の後ろで寒いと言った。そして気持ちが悪いから、あんまりスピードを出さないでと訴えた。浩介は慎重に運転をしながら、かかりつけの医者に連れていった。待合い室で座っている間も、身体に力が全く入らないようだった。熱がぶり返して出ているようだ。頭が痛いと弱い声を出した。ただの風邪ではないようにも見えた。
しばらくして圭子が診察を終えて出てきた。薬をもらうまでの時間が長かった。浩介は金を払うと再び圭子を後部座席に乗せ、家へ向かった。祐子さんが家に来た頃、まだ木の葉はそれほど落ちていなかった。だが今、褐色の葉が音たてて風の中を突っ切っていく。
「風邪か?」
「……喉が痛い」
圭子は何も話したくなさそうだった。浩介は家に戻って車をガレージに入れた。裏の林がかなり揺れている。高い竹の枝が縦横にしなっていた。鍵を開け、玄関に上がろうとしたちょうどその時、電話が鳴った。低い唸るような音だった。浩介は急いで靴を脱ぎ、受話器をとった。だが相手は何も言わない。浩介はひどく疲れを覚えた。ばかにしてやがる。腹の中で何度も同じ言葉を反芻した。
人があたふたしてるのを、どこかでほくそえんでいる。ガレージに車を入れたのを見ながら、ゆっくり電話のボタンを押す。その時間まで犯人は計っているのだろうか。浩介を女の顔を思い出そうとした。しかしぼんやりしてしまって、うまくいかなかった。それでも目の輪郭だけはかろうじて覚えていた。
電話はそれ以上鳴らなかった。浩介は圭子の着替えを手伝い、薬のための水を用意した。
「あの子、もうどこにもいないんじゃない」
圭子は下着を脱ぎ、パジャマに着替えた。身体が小刻みに震えている。
「きっともういないのよ」うわごとのように同じ言葉を繰り返した。
「隣の町まで行ったんだろ」
「行ったわ。でもどこにもいない。狐にでもさらわれたんでしょ」
氷枕を頭の上にのせた。それ以上喋りたくなさそうだった。圭子はしばらくして眠ってしまった。浩介はコーヒーをいれて飲んだ。頭の中が妙に疲れている。コンピューターの画面に浮かんだ赤のグラデーションが何度もはやい速度で回転した。圭子が最後に呟いた言葉が気になった。
夜になって、熱が幾らか下がった。顔に生気が少しづつ戻ってきた。
「完全に一日、寝ちゃったわね」
「ゆっくり休むといい」
「見つかればよかったんだけど」
「しょうがないさ。いずれ帰ってくる時もあるだろ」
圭子は浩介を見て、寂しそうに笑った。
「おまえ、さっき寝る前におかしなこと言っただろ」
「わたしが……」圭子は何も覚えていないようだった。
「そんなことよりあの写真の話、わたし全然覚えてないの。だからあなたに言われた時もなんのことかよくわからなかった」
「祐子さんが大学時代に行ったじゃないか。友達と運河の倉庫の前で撮った。あの中に今付き合ってる男がいるような気もする」
「覚えてない。わたし見てないわ、その写真」
「佐伯と付き合ってる時に、どうしてわざわざ一人であんな遠くにまでに行く必要があったんだ。それがまずおれにはわからない」
「そんなこと知らないわよ」
「どうもあの写真と関係があるような気がしてしょうがないんだ」
浩介の記憶にははっきり残っていた。あの時、圭子も居間にいたはずだ。
「やっぱりあそこまで行ってみる」
「無駄よ。やめた方がいい。帰ってきて熱を出すわ。たたられてるのよ、あの子は」
「いや行く。自分の目で確かめないと気が済まない」
「止めてよ、もうわたしたちに関わらないで」
圭子は布団の上に座ったまま、呻くように言った。
「わたしたちってどういうことだ?」
「わたしと祐子のことよ」
圭子は何を言おうとしているのか。
「あなた、出てっていいわよ。こんな家にいたら、頭がどうにかなっちゃうから」
「おまえ、何かおれに隠してるのか?」浩介は圭子の顔を上から、見下ろした。
「どういうことよ、それ」
「会ったのか、彼女に。そうだろ、会ったんだな。どうして隠す。どこにいたんだ。やっぱりあの町にか?」
圭子は幾らかだるそうな目で浩介を見つめ、首を横に振った。
「嘘つくなよ。おれにまで嘘ついて面白いことは何もないだろ」
「嘘なんかついてないわ。本当にみつからなかったの。悔しかったけど、本当にみつからなかったのよ」
はだけたパジャマの胸元から、乳房の谷が見えた。寝乱れた髪が、大きく広がっている。「本当に会わなかったんだな」
「くどいわよ。わたしだって真剣に捜したの。何よ、その言い方は。どうして信じてくれないの」
居間で電話が鳴った。浩介は慌てて立ち上がり、受話器を取りにいった。しかし相手は何も言わない。浩介は電話機を窓ガラスめがけて投げつけたくなった。きっと粉々になったガラスの破片が目の前で部屋に飛び散るだろう。
「祐子さんだろ。そうじゃないのか。どこにいるんだ。返事ぐらいしたっていいだろ」
浩介は何度も同じことを叫んだ。
「今どこにいるんだ。男がそばにいるんなら、電話口に出せ。おれが会う。どうして逃げ回る必要があるんだ」
「出てってよ、もう」圭子がガウンを羽織ったまま、居間に来た。
「もういいから、ほっといてよ」
「何言ってるんだ、おまえは」
「もういいのよ。祐子はいいの、どうなっても」
「そんなわけにいくか」
「どうしてよ。もう放っておいてよ。これはわたしたちの問題なんだから」
圭子は疲れ切った声を出した。
浩介はガラスの表面に反射した自分の顔を何気なく見た。
女がいた。ふっと目があった。庭に立っていた。あの目だ。女が浩介を見ていた。どこかで会ったことがある。にやっと笑った。おい、圭子。浩介は圭子に向かって叫んだ。あの女だ、あいつだ、電話の犯人は。浩介は何度も叫んだ。掌に汗が浮かんでいた。「やめてよ、もう。いいかげんにして」
「冗談じゃない。ほら見てみろ。あそこだ」
浩介は暗いガラス窓の向こう側を指さした。女が笑っている。
しかし圭子には何も見えないのか、あなた最近おかしいわよ、と言った。そして着ていたガウンの胸元を掻きあわせると、浩介が持っていた受話器を取り上げるなり、祐子、帰ってきなさいと大声で叫んだ。
「みんなわかってるんだから。とぼけたってだめよ。いつまでもそんな芝居がわたしに通用するとでも思ってんの」
圭子はゆっくりした口調で一語一語噛んでふくめるように話した。
女の目元には確かに見覚えがあった。あの目だ。ヘッドライトの明かりに引き込まれるようにして、飛び出してきた時の目……。浩介はアルミサッシの窓を思いきり開けた。冷え切った外気が、さっと部屋の中に流れ込んできた。
「何するの、寒いから閉めてよ」圭子が言った。
浩介は庭全体を眺めた。それらしい人影はどこにもなかった。芝生にうつった街灯が、心なしか青白く見えた。

2001-08-05(日)

青空


ぼくがどうして大きな姿見を買ってきたかなんて、誰にも分かりはしないだろう。
バーゲンで5000円だったのをアパートへやっとこさっとこ運びこんだ。
笑ってみたかった。思いっきり鏡に向かって。今まではこんな気分の時、ウィスキーの瓶を持って光司が来てくれた。ちょっと笑えた。あいつがいれば。
光司はいつもホンダの250CCに乗ってあらわれた。よ、元気か、とか言いながら。ぼくが家にいた頃にはひっそりと。大学に入って、どうしても一人暮らしがしたくなりアパートに引っ越してからは、かなり堂々と。それも頻繁に。
手土産のウィスキーが時々ビールに変わり、それにスルメやイカの燻製がついたりもした。
冬、小さな火燵に入りながら、よく女の話をした。学校の話もした。なにしろ一緒に浪人した仲だ。くる日もくる日も、フレミングの法則や微積をやった。接線の傾きも出した。
結局、光司は機械工学、ぼくは数学科に進んだ。
ところが一年目の冬が終わる頃から、光司はしきりに大学をやめたいと言い出した。
「もう学校やめたくなったよ、俺。なんだか面白くない。毎日、つまんなくてさ」
「おふくろさん泣くぞ」
ぼくは汚かった。今そう思う。あいつは映画をやりたいと言い出した。
「助監督のKさんっていう人と偶然知り合ったんだ。知ってるだろ、あのN監督の下についてるんだ。この前話したさ……」
光司がその時、話題にした作品はぼくも知っていた。女がとにかくよかった。
「今度Kさん、紹介するよ。いい人なんだ」
「食えねえぞ、映画なんか」
「ああ、分かってる」
あいつは毅然としていた。
光司のバイクはいつも大きな音を出した。バリバリと地面がひび割れてしまいそうだった。きっと街道を全速力で突っ走ったこともあるだろう。
だからぶつかるんだ。
光司のおふくろさんに呼ばれて病院に駆けつけた。ひきがえるみたいなあいつを見た。血だらけだった。笑ってた。確かに笑ってたような気がする。
光司が死んだ時、ぼくはパチンコ屋にいた。ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリお出しください、とパンチパーマの店員がマイクに向かって絶叫していた。
あの同じ時間に、光司はふっとんだのだ。ついでに後ろから走って来たトラックに轢かれるオマケまでつけて。
「平井くん、光司が死んじゃったのよ」
光司のおふくろさんは妙に澄んだ声を出した。アパートに帰った直後だった。ぼくは光司の顔を思い出そうとした。しかしもうできなかった。完全に忘れてた。
月命日には必ず墓に行ってやるからなと葬式の日、ぼくは自分に言い聞かせた。あの時から、光司はぼくの脇にいる。いつも見てる。何か言うと、必ず答えてくれる。そう信じてる。
光司は女を知らなかった。(少なくとも死ぬまで、ぼくはそう思っていた)
近いうちに金ためて、女を買いにいこうといつも言い合っていた。しばらくしてもうそろそろ行こうか、とぼくが誘うと、やっぱバイクに金かかるしな、と光司は笑って答えた。
照れたような、いい笑顔だった。
浪人した最初の夏、二人で素っ裸になってフラダンスを踊ったのが、あいつの裸を見た最初だった。尻の肉が厚く、あそこもでかかった。頭のいかれてしまいそうな暑い夜だった。最初に脱ぎ出したのは光司の方だった。
「こうやって、ここに腰ミノをつけて踊ったりしたら最高だな」
光司はそう言いながら、あっという間に素っ裸になった。その動作があまりにも自然だったので、ぼくは何も言えなかった。
こいつは女にもてるだろうと思った。

Kさんにはじめて会ったのは、光司が映画の話をするようになってしばらくした頃だった。Kさんはその日、ぼくたちがかなりできあがった頃、友達数人と連れ立って「ふるふる」にあらわれた。
ぼくは頭の具合が悪い時、いつも「ふるふる」に行くことにしていた。マスターとどこか馬があったからだ。
光司はKさんの姿を目ざとく見つけると、
「おい、紹介するよ」と言うなり、椅子をたって彼のところへ行った。
ぼくは初対面の人に会うのがあまり好きじゃない。なんだか神経が緊張して、いつもの自分らしくなくなるからだ。ぼくは急いでビールを二杯立て続けに飲んだ。
しばらくすると、光司がKさんを連れてぼくのところへやって来た。ジーパンがテカテカ光ってみえる。
「俺の友達なんです。この前ちょっと話した……」
ぼくは頭を下げた。
「はじめまして平井です」
ぼくはかなり緊張していた。
「この前撮った映画みせてもらいました」
「そう、ありがとう」
Kさんは笑顔ひとつみせなかった。
「映画をつくるのって大変なんでしょうね」
そうぼくが言った時、Kさんは急に大きく目を見開いて、まあねと言った。唇が少し震えたみたいだった。
「光司が世話になってるそうで」
「いや、俺はなんにもしてないよ」
Kさんには社交辞令が通じないようだった。不器用な人なんだとぼくは思った。
短く刈り上げた頭と濃い髭が印象に残った。
「やっぱり、一本撮り終わると寂しいもんですか?」
「そうねえ」
反応は曖昧だった。知らない奴とあまり話をしたくないという雰囲気がありありと表情に浮かんでいた。
「次の作品を楽しみにしてます」
ぼくが何気なくそう言った時だった。
「うるせえな、おまえなんかにわかる訳ねえだろ」と叫びながら、Kさんは突然ぼくの胸ぐらをつかんだ。
その瞬間、湿った汗の匂いがした。ぼくは胸ぐらをつかまれ、そのまま壁に押し付けられた。
「何すんだよ、俺の友達だぞ」
光司は大きな声を出しながら、慌てて間に入ろうとした。マスターが奥から飛び出してきた。
「やめてくれよ、Kさん」
光司の声は悲鳴に近かった。
ぼくは無理にKさんの腕を振りほどこうとした。次の瞬間、目の前が真っ暗になった。口の中が急に熱くなり歯が浮いたような気がした。顔をなでると、ネットリしたものが手についた。血だった。ぼくは訳もなく興奮したまま、床に投げ飛ばされた。
硬い怒りが後から後から噴き出してきた。
Kさんは仁王立ちになったまま、目の前に突っ立っていた。かかってくるならどこからでもこいという顔をしていた。目つきが暗かった。内側から何か得体の知れないものが溢れ出てくるような目だった。なんだこのやろう。ぼくは立ち上がると頭からつっこんだ。みぞおちをねらってそのまま突進した。このやろう、ふざけんじゃねえぞ。
Kさんの身体がほんのわずか揺れた。しかしすぐにまた壁ぎわまで押し返された。
ぼくは同じ言葉を何度も繰り返した。その度に怒りの量が増し、硬くなった。自分でも訳がわからなかった。ただどうしてもここで相手をぶちのめさなくてはいけないと思った。「来いよ、坊主」
Kさんが挑発するような、野太い声を出した。
「やめてくれよ」光司が再び叫んだ。
マスターがKさんを無理やり羽交じめにした。しかし彼はそれを力づくで払いのけようとした。ぼくは光司に抱きかかえられて、店の外へ出た。
「なんだ、このやろう、逃げるのか」
Kさんが叫んだ。
喉がゼイゼイ音をたてた。息をするのが苦しかった。ぼくは背中を激しく動かしながらしばらく地面を見詰めていた。唾を何度も吐いた。血が混じって粘り、赤くなっていた。「ちきしょう、ふざけんじゃねえぞ、このやろう」
Kさんは真っ赤な顔をしたまま、ぼくに向かってほえた。
ぼくはもう一度頭から突っ込もうとした。しかし光司に遮られてしまった。
「やめてくれよ、頼むから……」
光司は泣き声だった。それを聞いた途端、ぼくの力は急に萎えてしまった。
「もう帰る」
ぼくはそれだけを光司に言った。厭な気分だった。口の中がヌメヌメして、膨らんでいた。
「このやろう、逃げるのか」
Kさんが怒鳴った。光司はKさんに向かって、謝れよと何度も言った。ぼくはもう謝って欲しくなんかなかった。ただ寂しい気持がした。
「おい、こっち来い、逃げるのかよ」
Kさんの挑むような声が、遠くでした。もう一度やってやろうと思ったが、もう力が一点にかたまらなかった。どこかへ散ってしまっていた。
光司はすまなかったな、こんなことになっちゃってと言った。
「いいんだよ、よっぽど気にくわないことでもあったんだろ」
「いつもはあんな人じゃないんだけどさ」
「いいよ、俺もう帰るから」
「ごめんな、本当に」
「いいんだよ、気にすんなって」
ぼくは帰る道々、何が映画の助監督だ、ばかやろうと何度もブヅブツ独り言を言った。 どうせ下働きかなんかで、女優のメシの手配かなんかやってるだけだろ。監督にあごでこきつかわれた腹いせを、その度にこっちへ向けられたんじゃかなわねえよ。このばっかやろう。ふざけるな。
アパートに帰って、何度も顔を洗った。あごがいつまでもズキズキした。口の中を覗くと、あっちこっち切れて赤黒く膨らんでいた。舌で触るたびにザラザラする。
その夜、ぼくはなかなか寝つけなかった。
何故Kさんはあんなに急に怒りだしたのか。ふざけんじゃねえと思う反面、ぼくはどこか痛いところをつかれたような気もした。それにしてもやり方がひどい。あのやろう。ばかにしやがって。
ぼくは濡れたタオルを口の上からあてながら、暗い部屋の中で痛みをこらえた。
数日後、光司が夜中にフラリとあらわれた。バイクの音がいつもより低かったのか、全く気がつかなかった。生気のない顔だった。
「悪かったな、この前は」
「いいんだよ。俺もヘンなこと言ったかもしれないし」
「そんなことないよ。平井はなんにもおかしなこと言ってない。悪いのは一方的にKさんの方なんだ」
「よっぽど、おもしろくないことでもあったのかな」
「そうかもしれないけど、俺も初めてみたよ、あんなに荒れたとこ。いつもはおとなしい人なんだ。こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど。俺に映画の話をしてくれる時なんて、いつもすっごく真剣でさ、こっちのほうが恐縮しちゃう感じなんだ」
「きっと真面目な人なのかもしれないな。俺のいいかげんな言い方が、よっぽど頭にきたんだろう」
「俺には何がなんだかわかんない。いずれにしても本当に悪かったと思ってる。今度絶対に謝ってもらうからさ。いや、謝らせる」
「いいよ、もう」
光司はぼくにすまなそうな顔をしながら、
「ところで、話はかわるけどさ、やっぱり俺学校やめることにしたよ」と言った。
「どうしてもやめちゃうのか」
「ああ、なんだかもう勉強する気力がなくなった」
「親父さんみたいに車やるんじゃないのか」
光司の親父さんは車の修理工場をやっていた。板金から塗装まで何でもこなす。いつ行っても工場は活気に溢れていた。溶接の火花が飛び散るなかを数人の工員たちが自由に動いている様子は、傍で見ていても気持ちよかった。
「ああ、そのつもりだったんだけどな」
「親父さんに言ったのか」
「まあな、そんなにやってみたいのなら、一度やってみろって言ってくれたよ。でもだめだったらいつでも戻れるように心づもりだけはしておけって」
「いい親父だな」
「まあな」
「大学には相談したのか?」
「まだだ」
「もし可能なら休学扱いにしてもらうことも考えたらどうなんだ」
「ああ、それも考えてはみたけど、なんだか狡いような気がしてさ」
いかにも光司らしい考え方だった。光司はいつも一直線に突っ走る。
「Kさんにつくのか?」
「いや、一度学校に入る。やっぱり基礎から勉強したいし」
学校か、そんなもんで平気なのかよ、金だけとられてあとはポイじゃないのか。プロになりたくて入るヤツなんかいるのか。暇つぶしのボンボンならいいけどさ。
ぼくはよっぽどそう言いたかった。
光司だってそのボンボンの一人かもしれないのだ。これだけは言いたくなかったけど……。
その日、光司はちょっとしたストーリーをぼくに話してくれた。
「あのさ、カラカラって知ってるだろ。頭のおかしな皇帝が大昔にぶったてたやつ。ローマにある公衆浴場のことだ」
それはぼくにとってあまりに唐突な話だった。
「俺この前写真集見たんだ。1600人がいっぺんに風呂に入ってる様子を想像するだけでおかしな気がするけどさ。今はもう廃墟そのものなんだけど、少しだけ、まだ残ってるんだよ、壁がさ。茶色のレンガみたいなヤツがずっーと立ってて、それがストンとあるところに行くと切れちゃうんだ。それで俺そのカラカラにいる大昔の蟻を映してみたい気がしてな。読んだんだ。でっかい蟻がいるんだって」
光司はものに憑かれたように、一人で喋った。それまで映画の話は何度もしたが、たいていはああだこうだという批評にとどまっていた。それだけにぼくは一生懸命自分の考えたストーリーを説明しようとする光司に驚いた。おまけにその中身のヘンなのにも。カラカラなんて、どこからそんなこと考えたりしたのか。
とにかく光司の頭の中から急速に機械が光を失っていることだけは、よくわかった。
「おまえ、本当に映画やりたいんだな」
「ああ、自分の撮りたいものがとれるなんて思えないけどさ」
「Kさんみたいになってもか」
「あの人はいい人だよ」
光司はそう言い切った。
ぼく自身もKさんに殴られて、彼のことが嫌いになったかといえば、それはむしろ逆だった。不思議なことに日がたつにつれて好きになっていた。この感情は他人に簡単には説明できそうにない。だから光司がKさんにひかれるのもよくわかった。
匂いかもしれない。強い汗の匂いだろうか。

光司の撮りたかったという映画は結局完成しなかった。蟻よりも先に自分の方がこの世から消えてしまった。
しかし1本だけビデオが残った。(正確に言えば2本だけど)
あいつの世界がそこには凝縮されていた。ぼくは時々それを見ながら息苦しくなった。 映画の学校に通い初めて、2、3カ月した頃、光司はぼくの部屋を撮影に使わせてくれ、と頼みにきた。
「べつにかまわないけど。こんな部屋で映画なんか撮れるのか」
「ちょっとしたイメージビデオをやるんだ。クラスの競作でさ。みんなが1本づつ。それでコンテストをやるんだって。本物のフィルムをまわすまでには、まだ半年はかかるから、その前の腕試しってところかな」
「おもしろそうじゃないか、いいよ。でも台本かなんかあるのか」
「ああ、今考えてる。とにかく、ここのアパートの外階段から始めよう。コツコツ歩いてくる足音と、そのアップからな」
「ストーリーは?」
「あるさ、勿論。制限時間が5分だから苦しいけど。グランプリをとるよ、俺は。エイゼンシュテインも真っ青のやつをさ。だから協力してくれよ」
「できることならなんでもするけど。一人で撮れるのかよ」
「それは平気なんだ。それぞれ3人づつでチームを組んでお互いに手伝うことになってるから」
「この部屋なんか使ったって、ちっとも面白くないぞ」
「いや、そんなことはない。俺、平井の本棚にある数学の本にちょっと関心があってさ。いい雰囲気だよ、この並び方。『測度と積分』だろ、それに『群論概説』『位相解析』『線形空間論』『ブルバキ数学原論』……。なんだかものすごくいい」
「おかしな言い方だな」
光司はぼくがそう言った瞬間、大声を出して笑った。
「なにしろ鉄の外階段と数学の本との対比がおもしろいよ」
ぼくには光司の言うイメージがよく理解できなかった。
「どうせ5分だしさ。いつも、待ってる女のイライラした感じを出せたらと思ってるんだ。平井はベケットの芝居知ってるか?」
ぼくは何も知らなかった。ゴドーなんていう名前はその時初めて聞いた。
「あれよりもっと肉感的にしたい。女はやっぱり肉感的なものだからさ。哲学じゃない。もっと違ったアプローチから入らなけりゃ」
光司はいつの間にかぼくとは随分違うところを歩いていた。知らないことがいっぱい話の中に出てきた。でもぼくには面白かった。Kさんもそういうものに突き動かされて、映画の世界に飛び込んだのだろう。
光司はボンボンの道楽から、次第に脱皮しかかっているのかもしれなかった。しかしその時はまだぼくも半信半疑で、きっとそのうち音を上げるだろうとタカをくくっていた。 というより戻ってきて欲しかったのだ、機械の世界に。実際に目の前でひとつひとつ形を作り上げていく場所に。電気で光をあてなければ見えないのとは違う、実物の場所へ。親父さんの気持がぼくには痛いくらいにわかった。小さな頃から作業着姿の工員さんをずっと見てきた光司が、きっといつかは工場に戻ってきてくれるという確信を親父さんはもっていた筈だ。溶接の青白いスパークや、コンプレッサーの音、ジャッキの油の匂いが光司は人一倍好きだったから。親父の仕事をつぐんだと小さな頃から言ってた、光司だから。
それからほどなく、光司は約束通り学校の仲間数人と一緒にぼくの部屋を訪れた。丸一日、ああでもないこうでもないと言いながら、ライトを動かした。
主役を演じた女はなかなかいい体つきをしていた。
「そうじゃないだろ、そこは」
光司は何度も怒ったような声を出した。
ぼくは途中でコンビニに走って弁当とジュースを差し入れた。頼まれて、大砲の玉のシーンのために新聞紙を大きめに丸め、その上からアルミホイルでくるんだ。
「なんだよ、これは?」
「いいから、丸めてくれって」
ぼくは訳もわからずに新聞紙と格闘した。
光司が今生きていたら、映画の世界では苦しいだろうが、結構イメージビデオのプランナーぐらいにはなれたかもしれない。もっともそれであいつが納得するかどうかはわからないけど。
銀色をした砲弾の中に女が寝そべったシーンはきれいだった。思わず溜息が出た。長いスカートの裾が乱れて白い足がのぞいた。女は生々しかった。モノトーンの布が壁一面にかけられて、ぼくの部屋は今までと全く違う世界になった。
「そう、そこの本をアップにして、主人公と重ねてくれ」
光司はカメラをもった仲間に声をあげた。
「もうちょっとあかるくして、そこ反射させないで」
そのたびに2人のクラスメートたちはよく動いた。光司よりは明らかに若く、見ていても気持ちがいいくらいだった。
「ほんとうは主人公がここの階段から飛び下りるシーンも欲しいんだがな」
光司は差し入れのジュースを音たてて飲みながら、ぼくに話した。どうしてこいつが機械工学をやるために浪人したのか、もう理解できなくなっていた。もっと前から映画をやってればよかったのに。

光司のビデオは結局グランプリをとれず、やっとのことで3位にすべりこんだ。
「やっと編集が終わったんだ。ちょっと見てくれよ。できたから」
疲れきった顔をして、あいつがアパートにあらわれたのは、それから何日後だったろうか。目が赤く充血していた。
「タイトルはなんていうんだ」
「いろいろ考えてさ。『カラカラ王』だ」
「おかしなタイトルだな」
ぼくにはなにがなんだか訳がわからなかった。どうして砲弾が空を飛んでいくのと紫陽花のイメージがつながるのか、それにどうして蟻が登場するのか。
「グランプリ取れそうか?」
「どうかな、そんなことわからないけど、おもしろいよ、つくってる時は。メチャクチャにな」
「あの女何者だよ?」
ああ、あれかと言ったきり、光司は語尾を濁した。
「同じクラスにあんなのがいるんだな。羨ましいよ」
「ホントは脱いでもらいたかったけど、これは拒否されてな」
「そんな簡単に脱いだりするもんかよ」
「いや、案外女っていうのは予想を裏切るもんなんだ」
光司は妙に確信をこめた話し方をした。
ぼくたちはその夜、いい気持ちに酔っ払った。ウィスキーがなくなり、「ふるふる」にも行った。あの時、まだマスターの奥さんはいた。あれからしばらくして、奥さんはどこかへ消えてしまい、いつの間にかずっと胸のちいさなバイトの子に変わったのだった。
「今日はちょっとしたご機嫌だね」
マスターが光司に言った。
「うん、いいことがあったんだよ。マスターも飲んで」
「ああ、それならいただくけど。ところでKさん、最近こないみたいだね。どうしてるのよ?」
「沖縄でずっとロケだって言ってた。きっと真っ黒になって帰ってくるよ。俺もはやく現場に出て思いっきりやってみたい」
マスターは一人で何度も頷いてから、
「あれっきり来ないからどうしてるかと思ってさ」と言い、話の矛先を変えて、
「ところで平井さんはKさんと話ついたの?」と訊いた。
あのトラブルの時、マスターの奥さんは青ざめた顔をして店の中にいた。
「ああ、もうなんにも気にしてないから。俺、厭じゃないんだ、あの人のこと。むしろ親しくなりたくて。前よりずっとそう思う」
「おもしろいもんだな。人間ってのは」
マスターは光司のついだビールを飲みながら、感に堪えたように言った。
「Kさんは汚れてないもんな。危なっかしいぐらいだ。よくあれで生きていけるよ。わたしなんかにはどうやったってまねできないことだよ」
マスターの言葉に、ぼくは本当にその通りだと思った。それからしばらくの間、ぼくたちはKさんの話をした。
やがて、マスターが奥に入ると、
「ところで、平井、あの女とやってみる気持はないか?」と光司は急に低い声になって、ぼくに言った。
「あの女っておまえと同じクラスのあれか……」
「あれならなんとかなるぞ」
「俺はいいよ、おまえどうだ」
「いいんだ、ああいうのはタイプじゃないから」
「じゃあ、俺だってやめとくよ」
「一度くらい会ってみろよ。悪い女じゃない」
「もうみんなにまわされてるなんてことはないだろうな?」
「まさか……」
「断言できるのか」
「俺にはそんなとこまでわからないけどさ。これで案外直感は働くんだ。その気になったらいつでも言ってくれ。なんとかする」
光司はあの日したたかに酔った。
ぼくはあの後、何度もテープを回した。
光司、おまえが生きてれば、ぼくはあの女と本当に寝ていたかもしれない。

葬式の日は朝からカンカン照りで暑かった。あいつの家の前には親父さんの取引している会社関係の花輪が幾つも並んだ。
ぼくはなんにもあげなかった。あげるものかと思った。Kさんは下を向いたままだった。ぼくはKさんのことが、ますます好きになった。
「ばかなんです、あいつは。こんなことでしか、人を呼べなくて」
「ああ、ばかだ」
Kさんは数珠をじっと握りながら、何度も同じことを言った。そして目を真っ赤にした。あの女もいた。暑い路地に突っ立っていた。ライトとカメラを回したクラスメートもいた。みんな陽にさらされていた。
光司の骨は大きくて、かたくさらさらしていた。ぼくは箸でその一つをつまみあげながら、もう悲しくないと思った。悲しくなんかない。
空に上ってしまったのは、光司、おまえじゃないか。蟻じゃなかったぞ。
長い一日だった。神経がたかぶって、夜誰にも会いたくなかった。もし会ってもきっと誰かれの区別なく酷いことをするに違いなかった。
夜、一人でアパートにいるのがつらかった。死んだあいつを病院で見た時も、棺桶の中に入った光司を見たときも涙は出なかったのに、ただの骨になってしまってから、不思議と悲しみがこみあげてきた。いたたまれずに、公園まで歩いた。緑の木立に街灯の光がぼおっとあたって、不思議な色をしている。
少し歩くと、すぐに汗が出てきた。風に吹かれているだけで気持ちが楽になる。光司とよく行った公園だった。ベンチに腰掛けて、話をした。光司は興奮すると、少しどもった。それをじっと聞いてやれるのは自分以外にないと信じていた。
特に、相槌を打つときに、そう、そうと言えず、そそと同じ音を何度も発音した。しかしそんなに興奮することが最近はなかったような気がする。特に映画を始めてからは、ずっと落ち着き、時には内向していくような様子さえ見られた。
しかしそれもこれも、全てが終わりだ。もう二度とブランコに乗ってあいつが映画の話をすることもない。バイクの後ろに乗せてもらうこともない。

光司がいなくなって以来、学校へ行っても前のように授業を真面目に受ける気がなくなってしまった。夏休みを前にして、クラスの連中はそれぞれの計画を話し合っていた。秋まで完全に自分の時間がとれる。あと2年、ぼくは自由のはずだった。しかしなんとなく身体が重く感じる。自分の周囲に大きな垣根ができてしまったような気さえする。
数学をやっている連中の顔つきが単純で、子供っぽくみえて仕方がなかった。ぼくはいきおい寡黙になった。
亮子が授業中もぼくの隣に座るようになったのは、ごく最近のことだ。それまではむしろ人に気づかれるのを避けているようなところがあった。アパートに一度だけ遊びにきた時も、学校では別々だった。そこが結構ぼくには気にいっていた。しかし最近はそうでもない。
「元気ないのね」
ラウンジでコーヒーを飲んでいると、亮子が来た。
「わたし、あなたの友達に嫉妬してるの、わかるかな」
「わかんないね。全然」
「本当に嫉妬してるのよ。生きていてくれさえすれば、こんな形にならないのに」
「こんな形って?」
亮子はそんなこともわからないのかという顔をして、ぼくを見た。
「つまりね。授業をつまらなさそうに受けているあなたをみることで、いっつも反逆されてる自分を知るということかな」
ぼくには亮子が何を言いたいのか、よくわからなかった。
「いいのよ、あなたは、そのままで」
亮子は駄々っ子をあやすような顔をした。
「ねえ、気晴らしにどっか行かない? そうだ私のうちにくる。姉が会いたいっていうの。この前話したら」
「何を話したんだ」
「べつに、ただ平井くんっていう同じクラスの男の子がいて、その友達がこの前バイクで死んじゃったっていう話をしただけ。でもあの人、結構感づいてるかもしれない」
そう言ってから、亮子は少し笑った。
「俺はベタベタするの。好きじゃない」
「わかってる。平井くんのそういうとこ。それよりなんか、食べにいこうよ」
ぼくと亮子は結局、曖昧なままのつきあいが続いた。ぼくの気は少しも晴れなかった。 毎日、毎日、ナイターを見ながらビールを飲んだ。うんざりするような試合でも最後まで消さなかった。

朝から雨の降った日、女から電話があった。初め、名前を言われてもぼくには誰のことかわからなかった。
「あの、小山内と申します。あのう、撮影でお世話になった」
「撮影?」
「そうです。光司さんと一緒にアパートへお邪魔してビデオを撮った……」
女は確かに光司さんと言った。
「ああ、あの時の……」
ぼくは葬式の日、暑い路地に突っ立っていた女の表情を思い出した。
「式の時には大変失礼しました。途中で気分が悪くなってしまったものですから」
そういわれてみれば、出棺の時に女の姿はなかった。
「たしか光司と同じクラスだった?」
「光司さん、そんなこと言ってましたか」
「違うんですか」
「いえ、光司さんがそう言ってたのなら、その通りです」
女の言い方はどこか不自然だった。
「一度お会いできませんか、ちょっと渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
「はい、ビデオなんですけど」
「それならもうかなり前にあいつからもらったけど」
「それはこの前アパートでとった方のでしょう?」
「他にもあるんですか?」
「ええ。まあ」
女は曖昧なものの言い方をした。
「どうしてそれをぼくなんかに」
「平井さんにもらってもらった方がいいんです。その方がいいに決まっていますから」
ぼくには女の言おうとしていることの意味がよく分からなかった。
「どうしてぼくがもらった方がいいんですか」
「会うのが面倒だったら、お送りします。いいですか、それで」
「それでかまわなければ、それでもいいですけど」
おい誰だよ、小山内っていう女は。おまえと関係があったのか。てっきりこっちは学校の同級生とばかり思っていたのに。ぼくはいつの間にか、光司に話しかけていた。
そういえば女は他の仲間と撮影の間もあまり話そうとはしなかった。もともと撮影に来た連中と知り合いでなかったとすれば、そのことも納得がいく。光司が女のことだけは曖昧に語尾をにごしていたのはこのことだったのか。
言ってくれればいいんだ。自分の女ならそうとさ、水くさいじゃないか。
それから三日ほどして、小さな包みが届いた。中にはテープが一本と、簡単な手紙が入っていた。

今頃になってこんなテープを見せられると、迷惑するだけかもしれません。しかしいろいろ考えた末、やっぱり平井さんにもらってもらうことにしました。それでいいのです。 わたしはやっぱり光司さんが好きでした。なかにうつっている風景は、わたしが勝手に撮ったものです。だから厳密に言うと、光司さんのものではありません。でも撮った場所は彼が選んだものです。ごめんなさい。なんのことかわからないと思います。一度テープを見て下さい。これは光司さんの形見です。もうお電話することもないと思います。住所も書きません。お元気で。

ぼくは同封されてきたテープを見ながら、手紙を読んだ。静かな夜だった。光司が画面いっぱいにうつっていた。Vサインを出して笑っている。250CCのバイクが最初に俯瞰された。彼女がきっと撮ったのだろう。道がうつっている。大きな道路だ。
商店や、工場が流れるように進んだ。相当なスピードで走ったことだけは容易に想像できた。女は片手で撮ったのだろうか。
ぼくは光司が彼女に何を撮らせたかったのか、それだけを知りたかった。清掃工場がうつった。青く塗られたごみ収集車が整然と並べられている。
路地のバーがうつっていた。高層ビルと金網で囲まれた公園がみえる。白いゴルフボールが池にいくつも浮かんでいるカット。土管。学校のプール。風が吹いて、ほんの僅かさざ波がたっている。それに夥しい数の看板。電柱。
女とコーヒーを飲んでいる光司もうつっていた。椅子に手をかけながらはにかんだ表情で座っている。煙草を持つポーズもいつものものだ。手元におかれたレシートのアップ。全てのシーンがあまりにも種々雑多で、とても統一性があるとはいえなかった。しかし人の姿がなぜか見えない。うつっているのは女と光司だけしかいない。
せめて団地の公園で遊んでいる子供の姿ぐらい、映しておけよ、ばかやろう。
このビデオにどういう意味があるのか。ぼくはむしろいまいましい気分にさえなった。自分だけ先に死んでしまい、訳のわからない宿題だけを勝手に残して、まったくいい気なもんだ。
畳の上にゴロリと横になった。ひんやりとして気持ちがいい。この女とどういうつもりで、こんなビデオを撮ったんだ。ぼくはテープをみんな引きずり出して捨ててしまいたくなった。女をどっかにこしらえて、バイクに乗せて、何が面白かったんだよ。
ぼくは息苦しかった。
光司がこの世にいないと事実だけが妙に鮮やかに感じられた。

「紅茶がいいの?」
亮子が訊いた。彼女がアパートに来たのはこれで二度目だった。来るなというのについてくる。
「平井くんはコーヒーよりも紅茶の方が好きなのね」
ぼくは亮子が紅茶のティーバッグを何度も上下させている間、玄関の姿見を何度も眺めた。その鏡の前でオナニーをしたことを、亮子が知る訳もない。
「なんだか前より気難しくなったみたいね」
「俺がか」
「最近授業ちゃんと聞いてるの?」
「………」
「秋には試験よ」
確かに前より笑わなくなった。自分でもそう思う。紅茶はちっともうまくなかった。粉っぽかった。
「どうしてアパートまで来るんだ?」
「どうしてかな」
「聞かせてくれよ」
亮子はしばらく考えこんでいたようだったが、
「平井くんがあんまりしょげかえっててかわいそうだったからかな」と言った。
「光司のことでか」
「それもあるけど、それだけじゃないわよ」
「同情だったらいらない」
「だからそうじゃないって言ってるでしょ」
「もともと俺は数学やってる女なんか嫌いだ。普通の女は数学なんかやらないもんだ。頭の構造が少しおかしいんだよ、おまえは」
ぼくは意識して悪態をついた。青い清掃車が頭のどこかに並んでいた。工場の煙突が目の隅に見える。
亮子はさすがに腹を立てたのか、しばらく口をひらこうとしなかった。
「そんなこと私に言って何か面白いの?」
「べつに」
「だったら言わない方がいいわ。自分がつらくなるだけでしょ。それにおかしいわよ、いつまでもイジイジしててさ。男ならもっとしゃきっとしなさいよ」
「そんなこと言われる筋合はないだろ。厭ならさっさと帰りな」
「言われなくたって、帰りたくなれば帰るわ」
ぼくは身体の内側から溢れてくるような、脱力感をどうすることもできなかった。
「授業に出てこない時はどうしてるのよ」
「わからない」
「自分のことでしょ」
「自分のことなのかな」
「頭、平気?」
「平気じゃない」
ビールが呑みたかった。
ぼくは亮子を部屋に残したまま、外階段を駆けおりた。自転車のサドルがいつもより低い気がした。「ふるふる」に行くしかなかった。月が雲の隙間からのぞいている。ぼくはペダルをこいだ。階段の上から、亮子が自分の名前を呼んだような気がした。しかし振り向こうとは思わなかった。額に汗がながれた。身体が内側からどんどん熱くなっていった。
水銀灯が街路樹の緑をいっそう際立たせていた。
「ふるふる」は真っ暗だった。入り口に「しばらくの間休みます」と書かれた紙がはってあった。マスターの荒っぽい字だ。ぼくは瞬間的に行ったんだと思った。
今度潜りを始めてね。面白いんだ、これが。近いうちにサイパンか、パラオか、どっかの島へ行くから、少し店休むかもしれないよと言っていた。
ぼくは何度もそのマジックで書かれた紙を見た。生ぬるい風にひらひら揺れている。
この前来た時にはなにも言ってなかったのに、急に決まったんだろう。奥さんがいなくなってから、仕事より遊びに比重がかかり始めていた。やってるな。ぼくは胸の中でそうマスターに語りかけた。
入り口の戸を何度かげんこつでたたいた。握った指の間に鈍い痛みが走った。ぼくはそれでもたたくのをやめなかった。
マスター、生ビールくんないかな。俺喉かわいたよ。
ぼくは心の中で何度も同じことを叫んだ。

納骨の日は朝からいい天気だった。ぼくは光司の家を久し振りに訪れた。なんだか家の中がいつもよりしんとしていて、流れている空気が違っていた。あいつが生きている時は、何度この玄関に靴を脱いだか知れない。だがこれからはもうあまり訪ねることもないだろ
う。そう思うだけでたまらなく寂しい気がした。
おふくろさんが神妙な顔つきで、ぼくを仏壇の前に座らせてくれた。
「よく来てくれたわね」
「当たり前です」
ぼくは少し怒ったような口調で言った。そんなことは何もかも当たり前だった。
手を合わせてから、線香をあげた。頭の中が白くなって何も考えられなかった。
仏壇の中の光司は静かだった。目を大きく開けて笑っていた。その顔は光司の一番機嫌のいい時の顔でもあった。二人で山に行った時もあいつは同じ顔をしていた。奥多摩の山にテントをはって野営したことがあった。冬の寒さの中で焚火をしながら、光司は大きな声で笑った。あれはまだ高校生の時だったか。あの時と同じ顔だ。おおい大丈夫か、と先を歩いていた光司が声をかけてくれた。後ろを振り向いたあの時の顔だ。
何もかもが全部消えてしまった。ぼくの頭のなかにしかもう住んでいない。そのことがどうしようもなく悲しくつらかった。
広い和室の中は親戚の人でいっぱいだった。光司の血につながる人間たち。彼らの血を集めて光司が生まれたのだ。そして僅かの時間のうちに消えた。線香の匂いが身体の奥までしみこんでいきそうだった。ぼくははじめ正座していたが、それにたえられなくなり足を崩した。光司もきっとその方がおまえらしいよと言ってくれそうだった。子供もいた。姉さんの子だ。年が随分違っているせいで、ぼくが遊びにいくようになってからすぐに結婚してしまった。何人目の子なのか。光司はいつも姉ちゃんはよく子ばかりうむよと言っていた。彼女は喪服に身を包んで、実際の年よりずっと老けて見えた。
読経は長く、間延びして聞こえた。ぼくには低くいつまでも続く坊主の声が、ただの無意味な音にしかきこえなかった。こんなことして光司が喜ぶ筈はない。しかし人間が一人死ねばその後は決まったようにことが進んでいく。そのことがたまらなくくやしかった。 読経が終わってから、親父さんが少し喋った。
「息子は全て自分で片をつけて死んでしまいました。好きなバイクで死ねたのだから、きっと本望でしょう。おまけに自分の墓代まで残していきました。馬鹿なやつです。今日これから納骨に行きますが、あいつの新しい墓をみてやって下さい。大きくてきれいな墓です」
そこまで言って親父さんは絶句した。
ぼくも何か言いたかった。しかしいざ口に出そうとすると、全てが嘘になってしまうような気もした。涙が出た。くやしかった。身体の奥が興奮して、脇の下が汗でぐっしょりになった。どこかで蝉の声がした。幻聴かも知れなかった。耳元で何度も鳴いた。
「平井くんも行ってね」
おふくろさんがぼくのそばに来て行った。外に出ると、マイクロバスが下の通りに何台も並んでいた。
ぼくはバスにゆられている間中、脇を通り抜けていく車を見ていた。新しい乗用車が走り、うす汚れたバンが走る。その間に挟まって死んだ光司のことなど、もう誰も考えようとしない。すぐ脇を擦り抜けていくバイクに光司はついこの前まで、乗っていたのだ。しかしいなくなってしまえば、それで終わりだ。ぼくは人生の終わりということを何度も考えた。
通りは、車で覆われていた。
空が汚かった。

その日の昼近く、光司は大きな欅の木が深く覆って陰をつくっている墓地の一角に埋められた。新しくたてられたというその墓は、黒々と光って大きかった。
「寂しがるといけないからね」
そう言いながら、おふくろさんは包んであった花を二つに分け、丁寧に花いれに差した。佐伯家の墓と掘られたその黒みかげ石は、木陰に入って涼しそうだった。
「プライドが高かったのよね、あの子。平井くん、ねえ、そう思わない?」
姉さんがぼくに向かって言った。それはそれだけで十分な意味を持つ誉め言葉だった。 ぼくは曖昧にうなづいただけだったが、気持は伝わったようだった。光司はいつだって自分を捨てなかった。ひょっとすると死ぬということも、予定のうちに入っていたのかも知れないのだ。あのちいさな瀬戸物の骨壷に入って××居士という名前をもらうことまでも。
親戚の人達が一人一人手を合わせながら、親父さんに挨拶をしていた。こういうふうになるんだぞ、光司。死ぬっていうことは、こういうふうに血の中に戻っていくということになるんだ。一番それがいやだったんじゃないのか。ベタベタした血がさ。
ぼくはその日何度も頭を下げ手をあわせた。納骨の後、寿司屋にもつきあった。あいつの写真がおかれた座卓の前で酒も呑んだ。しかしちっともうまくはなかった。親父さんの手が油で黒くシミになっているのも見た。おふくろさんの皺が前よりもいっそう深くなっているのも見た。やりきれなかった。
これからずっと光司のいない時間をあの二人は過ごさなくてはならないのだ。互いに声をかけあったりする瞬間に、今までなら光司のことを話し合う時もあったろう。しかしこれからはもうそんなことを話すことも間遠になるに違いない。親父さんは工場を継いでもらうこともできなくなった。
ぼくは酒を呑んでいる間も、親父さんに声をかけにくかった。なにか言いたいのだが、なんと言っていいのかわからない。
「いい奴でした。かならず毎月、墓に行きます。約束します」
それだけ言うのがやっとだった。
その日の収穫は空が青く、風が気持ちよかったことだ。墓地の上の空だけはなぜかきれいだった。車の通る道は嫌いだ。
光司、よく眠れよ。

亮子がまたアパートまでついてきた。途中で何度も帰れというのに、戻ろうとしない。全く不思議な女だ。
電車の中でも、黙々と数学の本を読んでいる。
「家の人は何もいわないのか?」
亮子はどうしてそんなこと訊くのかといった顔で、ぼくを見た。
「姉さんがいるんだろ?」
「いるわよ」
「帰りが遅くなったりしたら、心配するだろ」
「そりゃね、でも平気なの。わたしはすっごく信用があるから」
「そんな問題じゃないさ」
ぼくはそれ以上喋べる気がしなくなった。亮子との間には何も接点がない。
アパートに戻って、すぐにテレビをつけた。
「消して、うるさいから」
「勝手なことをいうなよ。いやなら出てけ」
「また追い出すの」
「ここは俺のアパートだ」
「もう少しやさしくしてくれたっていいじゃない」
「俺はひねくれてるからな」
「嘘ばっかり」
そう言われた瞬間、ぼくは亮子にいきなりキスした。何するのよと言われて、ほっぺたを殴られる筈だった。しかし彼女は意外なくらい素直だった。
ぼくは戸惑った。
「こんなのいやだけどさ」
「いやだけど、なんなの……」
「どうしようもない時だってある」
「甘ったれてるのね」
ぼくは亮子の頬に何度もキスした。そしてさっきより幾らか彼女のことが好きになった。「泣けばいいじゃない」
「できない」
「男の人っていいわね」
亮子の髪は柔らかくて、いい匂いがした。
「きらいなんでしょ。数学やってる女は」
「ああ、大嫌いだ」
そう言ってぼくは少し笑った。
「酔いたい」
ぼくは本当に酔いたかった。
「ここじゃ、いや」
「どこならいいんだ」
「ねえ、外に出ようよ。ふるふるに行きたい」
「あんな店のどこがいいんだ?」
「嫌いなの」
「ああ、嫌いだ、あんな小汚いところ」
亮子がぼくの目を見て、唇を突き出した。
ぼくは亮子を一度だけ「ふるふる」に連れていったことがあった。最初にアパートにやってきた時だったろうか。マスターがぼくの顔を一目見るなり、うまくやってるなという顔をした。そんなんじゃないんだと慌てて否定しようとしたが、無理だった。マスターは奥さんがいなくなってから、前よりも人にやさしくなったように見える。
「今日はここで呑む」
亮子といると、不思議に溜息が多く出る。それでいて不満足かと言われれば、そうでもないのだ。腹の立つ瞬間は多い。意見も殆どあわない。亮子には細かいニュアンスをつかむ能力がないような気さえする。それでいて隣にいるとそれほど厭でもなくなってしまう。この前、彼女を部屋におきっ放しにして、「ふるふる」に行ってしまったときも、翌日学校では何事もなかったかのように、そばによってきた。今まで付き合ってきた女とはどこか感覚が違う。
「やだ、やっぱり外に出たい」
「どうして」
「どうしてかな」
「おまえ、俺に同情してんだろ。光司が死んじゃってかわいそうだから、自分で慰められるんなら、なんとかしてあげようって」
亮子は怒らなかった。というより怒ることを忘れてしまっているようだった。ただ悲しそうな目をして、ぼくを見た。口に出してから、打ちのめされたのはむしろぼくの方だった。
「もう忘れなさいよ。死んじゃったんだから。死ぬってそういうことよ。単純なこと、わたしもあなたもみんな死んで、ちょっぴりその時だけ悲しんでもらって、それからすぐに忘れられちゃうの。大きなお墓なんかにはいったって、それが何になるってもんじゃないわ。生きてる時だけよ、意味があるのは」
「分かってるさ。そんなこと。光司のことなんてとっくに忘れてる、俺は。月命日に墓の前へ行く時だけ思い出すことにしたんだ」
「嘘よ。前と全然違うもの。授業中だってぼんやりしてて、何にも考えてないみたい。わたしそういうさっぱりしてない人、嫌い」
ぼくは彼女がそう言った瞬間、亮子のブラウスを思いっきり剥がし、ブラジャーの上から強引にキスした。
「もう終わりなのよ。わかった。もう終わりなのよ」
「うるせえな」
亮子は何度も同じ言葉を口にした。光司が死ななければ、亮子みたいな女が近付いてくることもなかっただろう。三角関係だ、これは。亮子はいつまでたっても光司に嫉妬し続ける。相手は死んでいないのだから、このトライアングルは解答不能だ。ざまあみろ。
「もっと優しくして」
亮子は形のいいあごをずっとぼくの前に突き出したまま、首筋の白さを強調した。これでもあなたは死んだ人間に傾いていくの、とその身体と唇の柔らかさは言っていた。
ぼくは何度も同じことを亮子の身体に向かって吐いた。
あなたには権利なんかないわ。なんの権利だよ。女を抱く権利よ。もう一度いってみろ。何度でも言ってやるわよ、権利なんかないのよ。ぶっ殺すぞ、このやろう。
ぼくは訳もなく興奮していた。どうしてこの女はわざと人を挑発するのだろうか。ぼくに憤りを持たせて生命力でも復活させようとする腹づもりなのか。冗談じゃない。こっちはそんなに軽い人間じゃない。
ぼくは故意に亮子を荒々しく扱った。自分でも酷いことをしていると思った。しかし亮子はされるがままになっていた。このまま棲みついてもいいのよ、と亮子の身体はいっていた。その内側のあたたかさが皮肉なことに、ぼくには心地よかった。
それからしばらくして、ぼくたちは「ふるふる」に行った。
「どうしてた、平井さん」
マスターは相変わらず、やさしい。
「いつ帰ってきたんですか?」
「もうだいぶ前だよ。潜ってきた。面白かったよ」
亮子がカウンターの隣で、微笑んでいる。
「彼女がどうしてもここで呑みたいっていうんでさ」
「どうもありがとう。これからも仲良くやってよ。なにしろ例のことでがっくりきちゃって、傍目にも気の毒でさ」
「いいんです。この人は。強いから」
亮子がどういうつもりで言ったのか、ぼくにはよくわからなかった。
「最近、Kさんは?」
「ううん、ここのとこ見ないね。どっかで新しい映画撮ってるんじゃないの」
ぼくはKさんに会いたかった。光司の骨を一緒に箸でつまんだ時が最後だった。あれからどこへ行ったのか。
「海どうだった?」
マスターはその質問を待ってでもいたかのように、いいねを連発した。
「シャコ貝のでかいのをとったよ。なんであんなのがいるのかね。海辺で醤油かけて焼くんだ。これがうまい。もうあっちへ行って住みついちゃってもいいかなと思ったぐらい、いいね」
マスターは目を輝かせた。奥さんがいなくなって、身軽になってからマスターは元気になった。少なくても表面的にはそう見える。
ぼくはその晩、「ふるふる」でビールを何本も呑み、アパートに戻って亮子ともう一度セックスをした。身体が軽くなっていくような、セックスだった。
10
朝から頭が痛くて、バッファリンを2錠飲み、しばらく天井を見て過ごした。あれからもう一週間、学校に行ってない。外は暑そうだった。去年の今頃は休みになったらどこへ遊びに行こうかと考えていた。家庭教師のバイトを週に目一杯詰め込み、時々、夕飯とビールにもありついた。
ところが今年になってから、どうも調子が違う。光司のことも確かに一つの原因だろうが、それだけではないような気がする。もっともっと前から用意されていたようなだるさだ。
冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。頭の芯が冷える。もう少し寝ていれば楽になるに違いない。そうしたら、どこかへ行きたくなる。でもどこへ行けばいいのか。
ぼくはその日の午後も寝て過ごしてしまった。気分が幾らかよくなったのは、夕方に近いころだった。朝から何も食べていなかった。起き上がった時はさすがに腹がへって身体が少しふらふらした。
駅まで自転車にのっていった。身体が軽い。下から吹き付けてくるような熱い風に何度もあおられた。
「どうしたの、なんだか調子悪そうだね」
「ふるふる」のマスターは心配そうに、ぼくの顔を覗き込んだ。
「なんか、食べさせて。消化のいいの」
「風邪?」
「そうかも知れない」
ぼくは自分でそうじゃないとうすうす感づいていた。というよりはっきり分かっていた。ぼくは風邪じゃない。
「じゃ、おかゆと卵かなんかの料理つくってあげるよ」
「うん、頼む」
カウンターには、他に客がいなかった。店はあまり繁盛していないようだ。「ふるふる」は奥さんでもっていたのかも知れない。彼女がいなくなってから、どこか店全体にあたたかみがなくなってしまったような気がする。
「この前の子とどうあれから。平井さんと気があってたみたいだけど」
「ああ、あれ」
「学校の子だろ?」
「まあね」
亮子からこの一週間、電話もない。勿論ぼくもかけなかった。
「そう言えば、彼も何度か、女の子連れてきたことあったな」
マスターが思い出したように呟いた。
「光司のこと?」
「うん」
「初耳だな。そんな話、俺マスターに聞いたことなかった」
「そうだったかな、随分前だったけどね。ふらっと二人で入ってきてさ。なんだか消耗してたみたいだから、あんまり話しかけなかったけど」
「ふうん、そんなことがあったんだ」
マスターの話は意外だった。
「マスター、その子の名前聞いた?」
「いや、訊きもしなかったけど、髪の長い、結構大人びた人だったな。こんな商売してると、不思議と人を見る目だけはできちゃってね。なんだか長い付き合いみたいな感じがしたな。なんとなくだけどね」
ぼくはマスターの話を聞きながら、撮影しにアパートにやってきた時の女の表情を思い出していた。あの女に違いない。
終始あまり喋らず、ただ光司の言うことだけは聞き逃すまいとし、撮影が終わるといつの間にか消えてしまった。輪郭のはっきりした人だった。
いったい誰なんだ、光司。気持ちが悪いよ。幼なじみならおふくろさんや親父さんだって知ってる筈だ。しかしそんな気配はどこにもなかった。光司の話の中に、彼女の存在を暗示するものがあったかといえば、そんなことは全くなかった。以前きた手紙にもなんにも書いてなかった。どこの誰かもわからない。
ひょっとしたら光司の家に彼女からきた手紙の一つくらいはあるかも知れない。そのままになっている机の引き出しの底に住所ぐらいは残っている可能性もある。
「ごめん、厭なこと思い出させちゃったね」
マスターは本当に申し訳なかったという顔をした。
「こんな話するつもりじゃなかったんだけどね。つい平井さんの顔を見ちゃうとさ」
「いいんだよ、気にしないで。俺、もう平気だから。ところでさ、話は変わるけど、今度また海へ行くことある?」
マスターはどうかしたのという顔をして、
「そりゃまた行くけどさ、いったいどうしたのよ」と訊いた。
「一度連れてってくれないかな。一回潜ってみたいんだ」
「平井さんがやるの?」
「おかしいかな」
「そんなことないよ。始めてみると、やめられなくなる」
ぼくは身体を酷使してみたかった。素潜りでもいい。しばらくの間息をとめて、海の中に入ってみたい。塩をいっぱいに含んだ水を身体に浴びせ掛けて、皮膚の弛みをなおしたい。身体の中にたまった澱を削り落としたい。
「本当につれてってよ」
「いいよ。今度じゃあ行こう。来週あたりもしかしたら伊豆に行くから」
「頼んだよ」
マスターは嬉しそうな顔をして、何度も頷いた。
11
大学は夏休みに入った。秋までにゼミを決めなければならない。
ぼくは正念場を迎えていた。今までのように勉強することそのものに興味をもてなくなっている。ひょっとすると学校をやめてしまうところまでいくかも知れない。ぼくはなんとなくそんな予感まで持ち始めていた。
亮子からはあれ以来なんの連絡もなかった。当たり前のことだが、学校に顔を出さなければ会うこともない。ぼくは電話をかけたりしなかった。関係が切れてしまうのなら、それでいいと思っていた。
ぼくは時間を持て余し始めていた。暑い日盛りはじっと部屋の中で本を読んだ。今までに読んだことのないアメリカの作家にも手を伸ばした。そしてそれに疲れると横になった。時々実家からどうしてるの、用事がないんなら帰ってきたらと電話があったが、ぼくはバイトだと嘘をついて、家に戻らなかった。
8月の初め、亮子から手紙がきた。航空便だった。

どうしてますか。あれから全然電話がないし、いつも心配してました。実は休みに入る直前から姉と一緒にヨーロッパにきています。ユーレイルパスを使ってあっちこっちを移動してます。ロンドンから、マドリッドに飛んで、そこから汽車の旅になりました。
出掛ける前に電話だけはしておこうと思ったけど、なんだかまた喧嘩になりそうなのでやめました。元気出ましたか。毎日何してますか。
今日はフイレンツェに泊まる予定です。やっとローマの方まで来ました。でもすぐにホテルがみつかるかどうか。昨日は犬にほえられて泣きたくなりました。なかなか言葉は通じないし悲しいです。いま汽車の中です。前の座席に座った姉がぼおっと外を見ています。こんど紹介します。きっと気が合うんじゃないかな。
姉は数学が大嫌いです。数字を見るのもいやだと言って時刻表も見ようとしません。女はやっぱりこうじゃなくちゃいけないんでしょ。わたしには無理です。微分方程式や群論をやってる方が楽しいんです。でもこれから少しは料理も勉強するつもりです。
また東京に戻ったら電話します。今度はやさしくしてください。なぜだか平井くんのことが気になるんです。おみやげ楽しみにしていて下さい。お元気で。

ぼくは手紙を読みながら、完全に負けたと思った。何に負けたのかよくわからないが、負けたことに間違いはなかった。
背中に汗がたまって、Tシャツが濡れた。ぼくはその場で裸になると、風呂場に飛び込んだ。そして熱い湯を頭から浴びた。身体中の汗腺が開ききって、中から汚れた脂が吹き出してきた。頭にもしつこいくらいに湯をかけた。ペニスが勃起した。ぼくはしばらくうずくまったようにして、湯を浴びた。そして最後に冷たい水を何度もかぶった。身体中の筋肉がみるみる間に収縮していく。しかしそれがたまらなく心地よかった。
風呂場から出た時には、身体が生き返っていた。ぼくは新しいTシャツを出すと、それを頭からかぶり、外に飛び出した。濡れたままの髪に風が心地よかった。陽が西に傾いて、やがて夕暮れになるための準備をしていた。
ぼくはいつもより速足で歩いた。すぐに汗が額に流れ落ちた。しかしそれを拭きとろうとは思わなかった。
駅前の本屋の前を素通りしようとして、何げなく店頭の写真を見た。きれいな写真だった。海を俯瞰した大きな写真だ。珊瑚礁の海が目の前に開けていた。
夏はまだ始まったばかりだった。しばらくその写真に見とれていると、後ろから、
「平井くん」と急に声をかけられた。
慌てて振り向いた先にはKさんが突っ立っていた。
「ああ……」
おもわず声にもならない声がぼくの口をついて出た。
「どうしたんだ、こんなとこで」
「ええ、まあ」
「これからちょっとふるふるに顔出そうと思ってさ。撮影が一段落したもんだから。一人なんだ。暇だったら一緒にいっぱいやらないか?」
Kさんは真っ黒に日焼けして、髪を長く伸ばし、いっそうたくましく見えた。
ぼくは前からKさんに会いたかった。ずっと会いたかった。あれこれと光司の話をしたかった。Kさんしか知らない光司の横顔がある筈だ。それをじっくり酒でも呑みながら話し合いたかった。
しかしぼくの口をついて出た言葉は自分の気持とは裏腹だった。
「ええ、でもせっかくですけど」
そう言ってから、どうしてだろうと思った。どうしてあんなに会いたかったのに誘いを断ったりするのか。
Kさんはぼくの心の動揺を見て取ったのか、
「そうか、無理にとは言わないよ」と言った。
「すいません」
「いや、そんなこと気にすることはない。暇だったらと思ったけど、じゃまた今度にしよう」
「必ず今度……」
「いや、いいんだ。とにかく元気でやってくれ」
「はい」
Kさんの身体はぼくを圧倒した。シャツからのぞいた腕には筋肉がもりあがっていた。 ぼくはKさんが商店街の横町を曲がり、「ふるふる」の方に行くのを見送ってから、駅へ向かってどんどん歩いて行った。
すぐに汗が吹き出した。
久しぶりに街道を越えて、遠くまで歩いてみたかった。
光司、おまえは少し静かに寝てろ。俺はちょっとだけ先に歩いてみるから。
ぼくは電柱に貼られた選挙用のポスターを睨みかえした。若い男と女が肩を抱き合って、歩いてくる。ぼくは思わずアッパーカットを入れてやりたくなった。

2001-07-15(日)

夏の家

信吾が上の学年に進むに連れ、叔母の様子は目に見えて悪くなった。
サキは時々無銭飲食をした。知っている店ならば、はなから相手にしたりはしないのだが、よく後で問題を起こしては母の幸江をてこずらせた。
サキのことが近所の人の口にのぼらない筈はなかった。どこで何をしていたかということをそれとなく幸江に耳打ちしてくれる人に、悪気はなかっただろう。だが彼女はそのたびに肩身の狭い思いをした。
サキには男がいた。
堅気の人間ではなかった。しかし幸江はそのことをとやかく言わなかった。
「信ちゃん、おばちゃんどこ行ったか知らない。悪いけどロータリーの方、ちょっと見てきてよ。さっきまでそこいらにいたんだけどね。見つけたらもうお昼だから帰ってくるように、そう言って」
信吾は西口のあたりを歩いた。都電の線路を横切り飲食街にも足をのばした。太陽の照り返しが目にまぶしい。アスファルトの道が熱で柔らかかった。
額の汗を何度も手で拭きながら、幾つも横町を曲がった。飲み屋が密集した駅前のガード下には、男たちのむっとした匂いがこもっていた。
アコーディオンの音が引っ切り無しに耳をさす。いつもの軍歌だった。白い鍵盤を叩くように弾きながら、男たちは通行人の顔を覗き込み金をせびった。
信吾は途方に暮れた。身体が自然家の方を向いた。真っ黒なレンズの眼鏡の奥から、時々男たちの目が光った。
ガードを抜けて、デパートの中にまで足をのばした。
サキはみつからなかった。

信吾はすだれのかかった玄関を眺めながら、ほてった足を揉みほぐした。いつの頃からか、母の幸江がやるのを見ながら自然に覚えたのだった。指の先がしなるほど力を入れて、土踏まずの辺りを何度も押した。
路地の向かいからは時折、三味線の音が聞こえてきた。
割烹料理屋、山正が賑やかになるのは、いつも夕方からだった。昼はしんとして、たいてい何の物音もしない。信吾はよく店の前の桶のなかでどじょうが泳いでいるのを見た。
幸江はサキが案の定みつからないのを気にする様子もなく、奥の部屋で繕いものをしながら三味線の音に合わせて鼻歌をうたった。
「今のはなんていう歌?」
「端唄よ」
「なんで、そんなの知ってるの?」
幸江はその質問に直接答えず、
「今時分弾いてるのはだれかしら? お稽古なのかね」と首をかしげた。
風が心地よかった。
酢のはじけるような匂いが路地に満ちた。
山正の向かいには華寿司があった。
幸江はよく敷居のところで、華寿司の金造さんと話をした。腹のでっぷりと出た威勢のいい人で、頭に巻いた豆絞りの手拭がよく似合った。金造さんはいつも昼下がりになると昼寝をした。
「もうすぐお祭りだね」
幸江が言った。
祭りには小屋がけの芝居がいくつも出た。
信吾は一日中、神社から離れなかった。食事に戻るほんの僅かの時間を除いて、神楽を見たり香具師の口上を何度も聞いた。

あれは去年のことだ。
サキが金切り声を上げてバナナをつかんだまま、人込みの中から飛び出してきたのは。
信吾には忘れることのできない光景だった。
「このやろう、なにすんだ」
男は興奮していた。
「うるさいわねえ」
頭の先端から出たサキの高い声は、一瞬通りを歩いていた人たちの目をひいた。前に立っていた中年の男はサキに思いきり突き飛ばされ、よろけて倒れそうになった。
信吾は最初飛び出てきた女が、叔母だということに全く気がつかなかった。サキは人垣がほんの僅か切れたのを見ながら、目を大きく開け道路に座り込んで、むしゃぶりつくようにバナナの皮を剥いだ。
「こらなにすんだ。それは売り物だぞ」
サキには何も聞こえていないようだった。バナナはあっという間になくなった。
「おばちゃん」
それだけ言うのがやっとだった。
「おばちゃん、どうしたの?」
信吾の隣にいた女は好奇心をあらわにして、買い物篭をぶら下げたままじっとその場に立ち盡くした。
「おまえ、どういうつもりだ。それは売り物なんだぞ。食いたかったら金払え」
香具師の声は少し上ずっていた。サキは何事もなかったかのように、無言で二本目のバナナを口に入れた。
ブラウスの胸元が開いて、細い首の奥に豊かな乳房の谷が見えた。
「おばちゃん」
サキには信吾の声が聞こえないようだった。
「おばちゃん」
信吾は二度、三度と呼び掛けた。知らない間に人垣がどんどん増えた。
見物人の中の一人が
「もっと感じるように嘗めてやれや」と下卑た声で叫んだ。
「おばちゃん、帰ろう」
信吾は必死だった。
「ぼうず、このねえちゃんはおめえんちのか?」
信吾は黙ってうなづいた。
「このアマ、なんか今までにも見たことはあるけど、今日は最初からなんか目つきがおかしかったな。こら絶対にこれだよ」
男はそう言いながら、片方の手を上に挙げて大きく何度も廻した。
サキはしゃがみこんだまま、バナナを嘗めては口の中に入れて強く噛んだ。
「おばちゃん」と信吾は叫んだ。
だがサキはその場を動こうとはしなかった。男はいいかげん焦れたのか、ちょっと待ってろと言うなり店を離れた。信吾はサキの腕をつかんで引っ張った。しかしサキは動かなかった。
しばらくして、若い男たちが何人か現れた。
男たちはサキを指さした後、羽交い締めにしてその場から強引に連れ去ろうとした。サキは必死になって抵抗したが、彼らの力の方が格段に強かった。
信吾はあっけにとられて見ていた。サキの表情は青ざめてくすんで見えた。
「なあ、ぼうず、はやくうちに帰って、かあちゃんに言うんだ。事務所においとくからってな。遊ばれてしまわんうちがいいぞ」
香具師はそう言いながら掠れた声で笑った。
信吾は家まで必死で駆けた。
幸江は知らせを聞いてすぐに事務所と呼ばれた組のあるビルまで、サキを貰い受けに行った。一人ではとてもいけそうもないというので、華寿司の金造さんに付き添いを頼んだ。その日の午後遅く、サキは金造さんに肩を抱かれるようにして帰ってきた。
サキは急にひとまわり小さく痩せたように見えた。
幸江は金造さんに何度も頭を下げた。

サキは祭りが終わった頃から次第に落ち着きがなくなり、立ったり座ったりを繰り返すことが多くなった。洋服の着かたもどことなく崩れて、だらしなくなった。シャツの裾がスカートの中に入っていないことも目立った。醤油の染みを襟元に付けてみたり、袖口をたえず水で濡らしてみたりした。
幸江がそれとなく注意しようとすると、サキはふらりと外に出ていってしまう。
「おねえさん、私ちょっと頭が痛いからそこいらを歩いてきます」
そう言うがはやいか、サキは玄関に立ち靴を履く。幸江もあえて止めようとはしなかった。

「たまには寄席へでもいこうか」
幸江は下町で生まれたこともあってか、芸事が好きだった。時々用事で出かけたりした時でも気が向くと寄席に入ったりもした。しかし叔母のサキの具合が悪くなってからは外に出てあれこれ言われたりするのが億劫になったらしく、家にいることの方が多かった。
「演芸場じゃ、今何やってるの?」
「今週は、まだみてないから分からない」
「そうだったっけ、じゃあ行っておいで。どうせおばちゃんは帰ってこないだろうし」
外は暑かった。
金造さんが通りに水をまきながら愛想笑いをした。信吾はなんだか厭な感じがして、声も掛けずに飛び出した。家の中がなんとなく以前までとは変わってしまい、あまりいても楽しくなかった。
父の重男は晩酌をしながら前のように詩吟をうなったりすることがなくなった。時々幸江が一人で何か呟きながら細く泣く。
サキは幸江といるのをいやがってなかなか家に居着かない。

その日の夜、信吾は夢の中でサイレンの音を聞いた。初めのうちは遠くからカーンカーンという高い金属音がした。そのうち誰かが枕元を走っていく音で突然目が覚めた。重男の姿は見えなかった。幸江は外に出る支度をし始めていた。
しばらくして姉の加奈子がパジャマ姿のまま、目をしばたたきながら降りてきた。
「二人とも、はやく着替えなさい」
幸江の鋭い声で、信吾は完全に目を覚ました。
大勢の人が都電の引き込み線の上に立って火の方向を眺めながら、おおよその検討をつけていた。火は彼の目にもはっきりと見えた。火の粉が高く舞い上がり、風に乗って左右に流れた。
神社の方だ、と誰もが口にした。深夜だというのに路地の出口は人で一杯だった。
「あれは神社より少しはずれてるわ」
加奈子が言った。
「そうかね」
「あの人はまさか行ってないでしょうね」
加奈子は部落とよばれる神社の裏手にサキが通っていることを、よく知っていた。
「見にいこうよ、お母さん。こっちまでは火もこないでしょ」
加奈子の勢いに押されて幸江も同意した。
「もしものことがあるといけないから、大事なもんだけ出してくるわ。ちょっと待ってて」
幸江はそれだけ言い、家に引き返した。
消防車の音が引っ切りなしにあちこちからした。その度に信吾は加奈子の手を強く握った。
真っ赤な炎の中に橙や黄色が混ざり、それが火柱になって暗い空を焦がした。時々どーんという音がした。その瞬間、空が急に明るくなり火の粉が舞った。
目だけが異様に冴えて体が熱かった。加奈子は線路の枕木にしゃがみこんだ恰好で、しばらく黙ったままだった。
人々は引き込み線に沿って歩いていた。線路の右手には電力会社の貯木場があった。そこにはいつもおびただしい数の電柱の原材が並べられ、乾燥しきっていない生の木の匂いがした。幸江が風呂敷包みを抱えて戻ってきた。信吾は何も言わずにこくんとうなづいた。幸江の引っ張る力は強かった。野次馬たちは飲み屋街を抜けて皆、神社の方へ走った。どこかでたえず消防車のサイレンの音がした。神社の辺りだけ闇が淡く、赤かった。
参道の近くまで来た時、神社の鳥居が炎で赤く焼けただれた空に浮かんで大きく見えた。火の粉が足元へぱらぱら落ちてくる。幸江は前を見たまま急ぎ足で走った。木の燃える匂いが風にのって信吾の鼻を刺激した。闇の中に黒々とした煙が上がっていく。その様子を眺めながら、身体が震えるのを感じた。
大人たちは殺気だった表情で境内を駆け抜けていった。神社が危ないという声があちこちでした。放水ポンプの継ぎ目から水が勢いよく噴き出した。
信吾は幸江にしがみついたままだった。
加奈子は黙って後をついてきた。幸江は境内を走った。火の近くまでくると身体が急に熱くなった。消防車が何台も無秩序に並んでいる。トタン屋根が強い風に煽られて高く吹き上げられた。
消防士たちは社殿に飛び火しないようにと神経を配っていた。鳥居にも周囲の樹にも水がかけられた。参道から社殿までの距離がかなりあるため、少しの火では類焼は免れそうだった。
警察官がマイクで何か叫んでいた。信吾は息を切らしながら、火が燃えるのを見続けた。血管が火であぶられていくようで、身体が内側からどんどん熱くなり、下着が汗で濡れた。湿気をたっぷりと吸い込んだ風が肌にまとわりついた。
境内を埋めた人の数は減る気配を見せなかった。信吾は勢い込んで走ってくる大人に身体を何度もはじき飛ばされた。
「燃えちゃえばいいんだ」
幸江がぽつりと呟いた。彼女は身体を少し斜めにそらした恰好で、炎が舞い上がっていく様子をじっと見詰めていた。
「おばちゃんもいるの、あの中に?」
「どうかね、いたとしたら信ちゃん、どうする?」
「助けにいかなくちゃ。あのままじゃ死んじゃうよ」
幸江は何も言わなかった。
「燃えちゃえばいいのよ」
加奈子が言った。火の照り返しで顔を赤く染めていた。
その時、一台の救急車が目の前に飛び込んできた。赤いランプの点滅が闇に映えてきれいだった。急ブレーキの音がして、エンジンが止まった。中から男たちが数人険しい顔付きで降りてきた。担架が運び降ろされ、彼らは足早に部落の方へ向かった。
野次馬の中から、怪我人がかなり出ているみたいだという声がした。
担架に人が乗せられて運ばれてきた。顔まで白い布がかぶされ、男なのか女なのかも全く分からなかった。ホースから飛び散る水が風にのって時々しぶきになった。濡れた顔を慌ててハンカチで拭きとっているうちに、救急車は自分で鳴らすサイレンにあおられるように闇の中へ消えた。鳥居からはホースでかけられた水が威勢よく落ちた。背後の社殿は鬱蒼とした樹々に覆われて静かだった。
火はほんの少しづつその勢いを弱めていくようにも見えた。しかし時々どーんいう気味の悪い音が火の中から聞こえた。木の燃える匂いが絶えず鼻をつき、息苦しかった。
幸江は火が上がるのをぼんやりと眺めたまま、口を開こうとはしなかった。信吾は怖いという感情を既に忘れていた。ただ目の前で火柱が昇り、空が赤くなっている場所に随分前から立ち盡くしているように感じた。
加奈子が短くあっと声をあげた。信吾は黒い人影が急速に自分達の方へ近づいてくるのを見た。
「何をしてんだ、こんなとこで」
父の重男だった。顔が少し煤で黒くなっていた。上半身シャツ一枚で、額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「出てきちゃいけないと言っただろが。どういうつもりだ」
重男は母の幸江に向かって怒鳴った。
そして独り言のように、
「やっぱり放火かも知れんぞ」と言った。
「何か確証でもあるの?」
「いや、ない。俺の勘だ」

火の勢いは衰えそうもなかった。鳥居に絶え間なく放水が続けられている。消防士の数が知らないうちに増えた。足元の土がどろどろで、あちこちに水溜まりが出来ている。部落の建物は音をたてて燃え、数十メートルもの高さまで舞い上がった火柱が空を焦がした。信吾は眠気をあまり感じなかった。だがまぶたの周囲が次第に腫れぼったくなった。
「もう眠いね、信ちゃんは。もうすぐ帰るよ」
幸江が気づいて信吾に語りかけた。
何気なく重男が空を見あげた。信吾もつられて空を見た。先刻見上げた時には全く気にもならなかった月が背中の上に出ていた。ちょうど半月だった。炎で赤くなった空に浮かんでいるせいか、月がいつもと違う弱い透明な色に見えた。
信吾は鼻がむずむずして、思わずくしゃみをした。加奈子が笑った。シャツの裾で鼻の下をこすった。煙の匂いが繊維の中にまで染み込んでしまって、容易に落ちそうもなかった。闇が前よりも次第に濃くなっていくようだった。
「サキのことばかり心配しても始まらないよ」
重男は自嘲的な笑いをした。
「いいのよ、あんな人」
加奈子が唐突に言った。
重男は加奈子の方を向き、
「きっと明日あたり、ひょっこりと帰ってくるさ。そう気をもむな」と自分に言い聞かせるように呟いた。
布団に入ってもサイレンの音が耳の中で何度も鳴り響いた。いがらっぽい煙の匂いをかいだままで、すぐには眠れそうになかった。

翌日、信吾は学校を休んだ。目覚めたのは昼近くて、いつもより身体が重く頭が少し痛かった。
「おとうちゃんは?」
「もう仕事にいっちゃったよ。信ちゃんもくたびれたね」
顔を洗っても、まだ頭がすっきりしなかった。
「おばちゃんはどうしたの、帰ってきた?」
幸江は諦めたような声で、
「まだだよ」と答えた。
食事の支度をしながら、幸江は着替えの置いてある場所を指で示した。
「ご飯を食べたら、少し静かに家にいるんだよ。外は暑いからね。変な時間に起きてたから身体の調子がおかしくなっちゃったのよ。三時になったら、お風呂に行こう」
信吾は母の幸江にそう言われて、少し元気になった。茶袱台の前に座ると、幸江は外に出る支度を始めた。どこへ行くの、と訊こうとして思いとどまった。心当たりのあるところを捜してみるつもりなのだろう。
「捜してくるの?」
「すこしだけね。すぐ帰るから、ご飯食べてて」
通りの音がいつもよりよく聞こえた。車のエンジンの音に混じって、人の話し声が聞こえ、それに時々笑い声が加わる。信吾はいつも家の前の通りを真っすぐ学校まで歩いた。途中、坂をのぼりきった所にお稲荷さんの祠がある。そこまで歩くと学校はもうすぐだった。いつもなら、そろそろ給食の準備が始まる時間だ。どこか後ろめたいような居心地の悪さを感じた。
食事をしている間も信吾はなんだか落ち着かなかった。神社に行って昨日燃えたところを見てみたい。信吾は叱られるのを承知で食事もそこそこに切り上げ、家を飛び出した。玄関を閉めたきり鍵もかけなかった。
外はむっとする暑さで、少し歩くと帽子のわきから汗が流れ出た。
参道まで歩く間に飲み屋街を抜けた。ビニールの袋に入れられたゴミが無造作に外に積み上げてあった。店の名前を書いた小さな看板が、横町のそここにかけてある。窓には洗濯物が干してあった。小石を何度も蹴飛ばしながら、信吾は神社まで小走りに急いだ。
鳥居は朱色の鮮やかさを太陽に輝かせていた。

加奈子がいた。
屈託のない顔だった。
「どうしたの、お姉ちゃん、こんなとこで、学校じゃないの?」
「うん、ちょっと……、お母さんには内緒よ」
「先生にことわってきたの? こんな時間に学校が終わるなんておかしいよ」
「いいのよ、信ちゃんはそんなこと気にしないで。それより昨日の火事でひとり焼け死んだんだって。女の人らしいわよ。まだ誰なのかよく分からないって通りがかりの人が言ってた」
加奈子の指さした先には、確かにそこだけ燃え残った鉄骨の窓枠があった。そこに先刻までぶらさがっていた焼死体が信吾には見えるような気がした。加奈子からその話を聞いた途端、急に吐き気がした。
「あの人じゃないと思う。きっと他の人よ」
信吾は、もう一度窓枠が焼けて黒く残った辺りを眺めた。
陽炎の揺らめいているのが見えた。所々に残っている昨夜の水たまりに太陽が反射して、真っすぐな光線が目に飛び込んできた。
「お姉ちゃんはまだ帰らないの?」
信吾は気持ちの悪い胸のあたりを押えながら、訊いた。
「いいのよ、気にしないで。信ちゃんは先に帰りなさい。わたし、もう少しここにいたいの」
「遅くなると、お母さんに叱られるよ」
「分かってるわよ、それくらいのこと。いいから早く、さあ」
信吾はその場でしばらくの間ぐずくずしたまま、立ち去る気分にはなれなかった。
「だってまだほんのちょっとしか見てないもの。まだ平気だよ」
「お母さんは家にいないの?」
「おばちゃんを捜しに外に出て行ったよ」
加奈子は信吾の話を聞きながら、焼け跡をじっと見続けた。

姉の加奈子に追われるようにして、信吾は家に戻った。二階に上がってぼんやりしていると、すぐに眠くなった。
物干しに下着がたくさんかかっている。すだれ越しに、金造さんの家の中が見えた。
風鈴の音がした。金造さんの妹さんが時々縁日で買ってくるという話を聞いたことがある。江美子さんのことだ。風鈴が再びなった。
江美子さんの顔が何度も目の前で揺れた。
どこに行ってたのよ、という幸江の憤った声で信吾は目を覚ました。普段あまり大きな声を出さないだけに、信吾は驚いて階下の声に耳をすました。
「どこにもいってないです、ねえさん」
「そんなこと言ってもだめよ。どれくらい皆で心配したか、あなたわかってるの。行ったんでしょ、あの人のとこに。男はどうしたの?」
「少し寝かせて。すごく眠いの……」
「どうしてそんなに眠いのよ? おかしいと自分でも思わない」
幸江は余程腹に据えかねたようで、大きな声を何度も出した。するとサキは、再びヒーと泣いた。
しばらくして、サキは静かになった。
幸江はサキがしきりと眠たがるのに負けて、二階に布団を敷きに上がってきた。
「あら、こんなとこで寝てたの。風邪をひくわよ」
信吾を見るなり、声の調子を一段下げた。
「今、目が覚めたとこ。暑くて……。おばちゃん帰ってきたの」
「うん」
幸江は押し入れから素早く布団を出し、それから階下に向かってサキを呼んだ。風鈴が何度も鳴った。
鉄製の風鈴は乾いた真夏の音がした。
「サキちゃん、どうしたの。布団が敷けたわよ、聞こえているんでしょ」
本当に世話がやけるといった顔をして、再び階下に降りていった。

華寿司に警察の人が来たのは、夕方だった。母の幸江と風呂屋から帰ってくる時、路地の入り口に見慣れない男の人達がいるのに信吾は気づいた。金造さんは家の中にいないようだった。店の入り口にいつもならとうにかかっている暖簾がまだ見えなかった。
幸江は知りません、と何度も言った。慌てて首を振ったりしながらできるだけ関わり合いになるのを避けているようだった。刑事は開襟シャツの背中を汗で濡らしながらあれこれと訊ねた。
「おたくにサキさんっていう人がいますね。あの人にも話を訊きたいんだが、今家におられますか?」
幸江はこくりとうなづいた。
「信ちゃん、おばちゃん呼んどいで、ちょっと用事だって言って。もう起きただろうから」
江美子さんの顔が店の奥に見えた。身体ごと脅えたような顔つきで、少し青ざめた表情をしたまま質問に答えていた。向かいの山正の板前さんが心配そうに、信吾の方を見た。いつも大きな魚をさばいている人で、笑うと頬にえくぼができた。
サキは家にいなかった。二階で寝ていた筈なのに、どこにもいなかった。布団が敷きっぱなしのまま、脱いだ服が布団の上に散らばっていた。花の匂いがした。
「いないよ、おばちゃんは」
「そう、分かった。あっちに行ってなさい。子供は」
信吾は仕方なく手に持ったままの濡れた手拭で顔を拭きながら、家に入った。せっかく鉱泉湯に入って流した汗もすぐに無駄になった。首のまわりを何度も強くこすった。
二階へ上がった。江美子さんに会えるような気がした。いい風が入る物干し台にひょっとしたら彼女がやってくるかも知れなかった。
風鈴が鳴った。姉の加奈子がはやく帰ってきてくれればいいと思った。信吾は兄が欲しかった。外でキャッチボールでもしてくれる兄がいれば、身体ごとぶつかっていけるのに、加奈子ではそれができない。
階段の突き当たりが叔母のサキの部屋だった。入り口には鍵がかかっていていつも中に入れない、北向きの細長い部屋だ。隅に小さな整理タンスが置いてあるだけの、殺風景なところだった。
信吾はその部屋の中で何度も遊んだ。サキの布団にふざけてくるまっていると、優しくて甘い匂いがした。時々果物の香りに、サキのつかっている香水の匂いも淡く混ざった。ドアを開けた瞬間、サキは信ちゃん、ぶどうがあるから食べよ、と声をかけてくれる。やっと自分で種を出せるか出せないかの幼い頃だった。信吾がもたもたしていると、サキは小さな皿を出して、その上に種を取った粒だけを並べてくれる。
果肉は鮮やかな緑色だった。部屋にぶどうの香りが広がる。ドアを開け放したままでいると、風がよく抜けた。信吾はそのまま部屋の隅で眠ってしまうこともあった。

江美子さんの姿はとうとう見えなかった。刑事にまだ質問を受けているのかも知れない。信吾はなにもする気がしなくて、母の幸江が帰って来るまでの時間を持て余した。何か本を読もうとしても、手近には学校の教科書しかなかった。姉の加奈子の机の上には何冊か本がのせてあったが、漢字だらけで読めそうもない。信吾がしつこく訊いた時、一度だけ『牛肉と馬鈴薯』という題名を加奈子は勿体ぶった様子で教えてくれた。
「難しいのよ。中学校じゃ、こんなのが宿題に出るんだから、ぼやぼやしてるとついていけなくなるのよ」
「それ、何が書いてあるの?」
「私にだってまだ分からないわよ。読んでないんだもの」
「へんな題だね。ばれいしょって何のこと?」
「じゃがいもよ、信ちゃんはそんなことも知らないの」
父も母も本というものを読む習慣を持っていなかった。唯一教科書以外の本といえば、一月程前屋根の修理に来た職人さんが、わざわざ本屋まで連れて行って買ってくれたイソップ童話集があるきりだった。信吾はそれをとても大切にしていた。ザラ紙のようなのにわりと細かい字でびっしりと活字が埋まった厚い本だった。
信吾はサキが敷きっぱなしにしていった布団の上に、寝転がって本を読み始めた。何となく気持ちが悪いような気もしたが、敷布は殆ど汚れていなかった。
「さっきはびっくりしたわ。まさか刑事さんが華寿司に来るとはね」
幸江はしばらくして戻ってきた。二階に声をかけて上がってくると、洗濯物を取り込みながら、信吾に話しかけた。
「何のことだったの?」
「子供にはいいの」
「江美子さんがかわいそうだった」
「そういえば何か訊かれてたね。お母さんも顔だけは見たけど、少し青かったよ。なんだか元気がなくてさ。あれじゃあ今日は仕事にならないね」
風鈴がまた鳴った。
「おばちゃんさ、いつか入院しちゃうの?」
「どうして?」
「おばちゃんがかわいそうだよ」
「本当にね。でも仕方のないことだってあるのよ」
「しかたって何?」
「信ちゃんには少し難しいかね」
幸江は取り込んだ洗濯物をたたみ始めた。日向の匂いがする。
向かいの山正から三味線の音がした。額のあたりがなんとなく熱く、身体が少しだるかった。
「おかあちゃん、少し頭がいたい」
「どうしたの?」
幸江は彼の額に手を当てた。
その晩、信吾は熱を出した。
「風呂から上がって風に吹かれたせいだろ」
重男は母に向かって怒った。
「やっぱりこたえたんだね。無理に起こすんじゃなかった」
幸江は率直に謝った。信吾は全く食欲がなかった。身体の中が寒くて、真夏だというのに何枚も布団をかけた。掌が額の上にのると、冷たくて気持ち良かった。
「こりゃ、冷やさなくちゃ駄目だ。ちょっと行ってくる」
重男は近くの氷屋まで自転車に乗っていった。
氷枕は気持ちが良かった。ゴムの匂いが少し鼻を刺激する。尖った氷が残っていると、後頭部にあたって痛かった。
重男は晩酌をしながら、金造さんの家に刑事がきたことを一部始終、母の幸江から聞いた。信吾はうつらうつらしながら、どこからか聞こえてくる声を感じていた。
「やっぱりやってたんだよ。花札だけじゃなくてさ、馬も」
「そうか、それでサキの男はどうなったんだ?」
「捕まったのかも知れないね。そうでなきゃ、おかしいもの」
「なに、警察だってみんな知ってるんだ。よっぽどのことがなけりゃ、逮捕することはないさ」
「昨日の火事と関係があるのかね」
「あるかも知れんな。いずれにしたって金造さんとこは、当分店を開けられないだろう」
「そうね、もう駄目かもね。商売は一度ケチがつくと、立ち上がれないって言うし……」
「あの妹はどうした?」
「江美ちゃんのこと? いい娘さんなのに、奥さんの代わりになっちゃって」
「金造さんにしたってはやく後添えを貰えばよかったんだ。寂しかったのかも知れんな。それとも賭事の方が面白かったのか」
「本当にねえ」
「妹さんは幾つだった?」
「もうすぐ九かな。これでまた江美ちゃんも縁遠くなるわね」
「今頃、そんなこといったって始まらんさ」
幸江が時々頭にのせた手拭を取り替えてくれた。

サキが車に接触してはねられたのを、学校へわざわざ知らせに来てくれたのは、華寿司の江美子さんだった。その日は、両親とも祖母の葬式に出かけていて留守だった。姉の加奈子の中学に連絡をとっても登校していないとかで、信吾は授業中、職員室に呼び出された。祖母はずっと登戸の叔父の家で暮らしていた。
江美子さんはうっすらと化粧をしていてきれいだった。信吾は江美子さんの赤い口もとが動く様子ばかりを見詰めた。
「おばちゃんがね、自動車にはねられたのよ。ついさっき。それでね、すぐに救急車を呼んだけど、誰も叔父さんの家を知らないし、それでお姉ちゃんの学校に知らせようとしたら、いないんだもの」
「いない?」
「学校を休んでるっていうの、教頭先生っていう人が。それで信ちゃんのとこへ来たのよ。とにかくお母さんにはやく連絡をとって。すぐに行けるでしょ。お金ならあるから、これ持ってって。先生にそうお話してあるからね。すぐに駅まで行って」
信吾は駅まで行く道すがら、サキが事故にあった時の様子を江美子さんに訊いた。
「お店の前で声がしたから飛び出したのよ。そうしたら、おばちゃんが腕のところから血を流して倒れていたの。大きな車よ、相手は」
両方の腕を延ばして、江美子さんは車の大きさを示そうとした。きゃしゃな細い腕だった。
「それでね、お店からすぐ救急車を呼んだの」
江美子さんの声はいつもより上ずって聞こえた。
金造さんはあれ以来店に戻ってこない。仕方なく若い職人さんが一人で華寿司を切り盛りしている。お客さんの数がめっきり減ったようだと、近所の人がいつだったか話していた。
「どんなふうにしてぶつかったのかな?」
「分からない、見ていないもの。なんとなく接触したっていう感じじゃなかったわ。少し飛ばされたんじゃないかと思う」
「血、凄く出てた?」

電車に一人で乗るのは初めての経験だった。車窓の風景を楽しむ余裕などはなく、ただ降りる駅を間違えてはいけない、ということだけを心に念じた。
電車はなかなか目的の駅まで着かなかった。じっとシートに腰掛けていても、いつものように落ち着かない。母の幸江と叔父の家へ行く時は気分がたかぶって無闇とはしゃぐのに、多摩川の鉄橋を渡りきるまで、信吾の緊張はとれなかった。
小さな駅舎はいつもと何も変わっていなかった。しかし信吾にとっては、たった一人で同じ駅にたどり着けたという感覚の方がむしろ不思議だった。枕木を幾つも渡って改札口を目指す。間違えたら、もう二度と家に帰れないような気がした。
舗装のしていない道が長く続いた。幸江がいつも道端の蓬を指さして、これで昔はおばあちゃんが草餅をつくってくれたんだよと話す時の表情が、脳裡に蘇った。信吾は走った。一刻もはやく知らせなければいけないという気持ちで、身体中が一杯になった。途中で石につまづいて転んだ。膝からうっすらと血が出た。じんじん痛い。
何度も通った道だ。間違える筈はない。自分に言い聞かせた。小さな橋を渡る。多摩川の支流が見えた。
「おかあちゃん、おばちゃんがひかれたよ」
信吾は花輪がいくつも立っている叔父の家の前で、ありったけの声を出した。
幸江は驚いた顔で、玄関先まで飛び出してきた。
「どうしたの?」
「ひかれたの、おばちゃんが」
それ以上、話す余力が残っていなかった。玄関先には信吾の知っている親戚の人の顔がたくさん並んでいた。
帰りの電車の中で信吾はこんこんと眠った。隣に幸江が座っているだけで、安心して眠ることができた。
サキはそれから一ケ月近く入院した。腕が肘のところで複雑骨折をおこし、車に接触して倒れたの時全身をうったのが退院を遅らせる理由になった。
黒いカバンを持った区役所の人がサキの入院中、頻繁に家に来るようになった。父の重男はもう何も言わなかった。病院に見舞いに行って、以前より状態が悪くなっているのを感じざるを得なかったようだ。
晩酌をしながら、一人で溜め息をついていることもあった。
「もう他に打つ手はないかな」
「ないわよ。よしんばあったって、どうにもならないじゃない。この前だって、道の向こうで誰かが手をふってたっていうのよ。だから出てったんだって。きっとこれからだって同じようなことをするでしょ」
「そんなこと言ったのか?」
「そうよ。自分でもよく分かってないみたい。特にあの男がいなくなってから、ひどいわ」母がそう言うと、重雄は黙りこんで目だけを光らせた。
「いいよ、もう」
重男はそれ以上何も言わなかった。
「今なら幾つか空いている病院があるって。この前来た区役所の人がそう言ってた」
幸江が言った。
信吾は江美子さんの風鈴を聞きに二階へ上がった。
洗濯もののない物干し場はなんとなく寂しそうで、そこに風鈴が二つ動かずにじっと下がっていた。風もない。信吾は長袖のシャツのボタンを首のところまできちんととめた。
夕暮れになると、もう寒いくらいだった。
信吾はもう叔母のサキには会えないかも知れない、と思った。近いうちに姉の加奈子と両親との生活が始まる。
それからしばらくの間、風鈴の音が鳴りはしないかと耳をすました。
信吾は人気のない路地の入り口のあたりをじっと眺め続けた。

2001-08-05(日)

対岸


カルキの匂いがドアを開けると鼻についた。
私はその瞬間すぐに風呂のタイルにこびりついた黴を連想した。二カ月に一度ぐらい、黴取りのスプレー液を狭い浴室に振りまく。黒々としたタイルの目地がしばらくすると、嘘のようにきれいになる。
厚いガラス板の向こうには水から上がったばかりの女のコーチの姿があった。ビート板をコースの端に黙々と片づけている。あまりじっと見続けてはまずいと思いながら、私はついその身体つきに見とれてしまった。肉がしまっている。鍛えた身体はやっぱり違う。

「また黴が出てきてるわ。暇な時やってよ。汚らしくって……」
妻の佐知子に言われて私は仕方なく口と鼻にタオルをあて、風呂に入る。そうでもしないと後で鼻がつんとしてたまらなくつらい。
まさにあの匂いだ。ロビーのあたりに充満しきっている。
浴室にスプレーをまくのは本当に厄介な仕事だった。着ているものに原液が少しでも付いたりすると、すぐに色が変わってしまう。
「目に入らないようにしてよ。この前みたいなことがあると厄介だから」
私が一度だけ目の中に液を入れてしまった時のことを佐知子は今でも言う。あの時は涙がなかなか止まらなかった。
建物の中へ入ると、揃いの白いポロシャツを着た若い女が二人とも、一斉に私の顔を見た。シャツが同じせいか清楚に見える。
それほど広くもないロビーはプールから出てきた子供たちでごったがえしていた。皆何か食べている。おにぎりならまだいい。なかにはスナック菓子を頬張っているのがいる。アイスクリームもいる。隅に置かれた椅子には女が数人座って話し込んでいた。
子供の髪をしきりと拭いている女もいる。突っ立ったままの子供はしきりと親に何か話しかけている。少しは泳げるようになったところを誉めてもらいたいのかもしれない。髪が濡れて冷たそうだった。
私はそれからしばらくの間、ガラス越しにプールの水を眺めていた。オレンジ色の強いライトに照らし出された水はその色を忠実に反射している。天井に浮かんだ波状の模様が揺れる様子は、幻想的だった。

「休みの時くらい、たまには迎えに行ってあげてよ。雨降ってるからかわいそうだもん」
佐知子にそう言われてしまっては断る訳にもいかなかった。毎週水曜日に行く予定が、今週は歯の検診に行ったとかで、土曜日に振り替えてもらっていた。いつもなら循環バスで四十分以上かけ、帰ってくるのだと言う。冬はやはりつらいだろう。
洋平はいつまで待ってもなかなかロビーに現れなかった。次第にいらだちが募ってくる。息子は二月生まれのせいか、何をするのも遅い。いつも寝るまで妻にあれこれと怒鳴られている。しかし何も感じないのか、暢気なものだった。クラスでも一番背の低い方から二、三番目らしい。当然のことながら食が細い。食べる量が姉の由希子に比べると半分位しかない。それを何とかしたくてスイミングスクールに入れたのだ。泳ぎなど二の次だった。
私はソファーに座っている間に、だんだん待つのがつらくなってきた。他の子供たちは頭を拭きながら次々とロビーに出てくる。皆揃いのトレーニングウェアを着ていて、なかなか愛敬があった。胸にスイミングスクールの名前が大きくプリントしてある。やっぱり来るんじゃなかった。雨が降っているからかわいそうだとは思ったが、バスに乗れば帰ってこられない距離ではない。団地の中を走る循環バスも案外楽しいのかもしれない。以前、洋平はそんなことを言っていた。
佐知子に作ってもらったお握りを頬張りながら、バスに乗って帰って来るのだろう。時々買い物に行こうとして新しい道を通ったりすると、
「あっ、ここバスで走ったことあるよ」と突然叫び出すこともあった。
私はいよいよ待ちきれなくなった。講習が終わってからとうに二十分以上はたっている。他の子はみんな出てきているのに、いったい何をしているのか。靴が幾つも置いてある入り口から何度も中の様子を覗いた。しかし更衣室に通じる廊下に人影はない。私はしかたなく靴を脱いだ。下にプラスチック製の簀の子が敷いてあるものの、歩くと濡れてしまう。靴下を脱ぐしかなかった。
まったくどこまで手を焼かせば気がすむのか。更衣室の入口はつい目と鼻の先のところだった。しかし洋平の名前を大声で呼ぶのはやはりためらわれた。私は湿気とカルキの匂いが肌にぬめりつくのを感じながら、更衣室の中へ入った。
すると息子はロッカーに向かってもたもたやっている。まだパンツしかはいていない。「何やってるんだ。おまえは?」
私はつい詰問調になった。
「ゴーグルがどっかにいっちゃった」
「それで今までここにいたのか?」
「寒いからサウナにも入った」
「二十分もか?」
「ううん、早く出たけどゴーグル見つからないから」
怒る気にもなれなかった。
「もういいから早く帰ろう。上着を着ろよ」
私がそう言うと、息子はシャツとトレーナーを着込んで海水パンツをビニール袋に入れた。佐知子に何度も言われているのだろう。さすがにそれだけは守っている。ジャンパーがぶかぶかだ。もっとでかくならないとな。私は思わず、息子に向かって独り言を呟いた。
洋平は更衣室を出ると、すぐに私の手をつかんだ。子供の頃から妙に人懐っこいところがある。遠足の時も担任の先生にずっと手をつないでもらってるのよ、といつだったか佐知子が言っていた。息子は怒られると思っているのか、心なしか元気がない。
「いいよ、ゴーグルくらいまた買ってやるから」
その言葉に少し安心したのか、今日十五メートル泳げるようになったんだと胸を張りながら言った。本当はそのことを先に言いたかったのだろう。かわいそうなことをした。私は息子が少し不憫になった。
「そうか、そりゃよかったな」言葉に抑揚がついた。
「来週テストなんだ」
「がんばるんだぞ」
洋平は握った手を放そうとはしなかった。靴を履いてロビーに出る。
「ゴーグル誰かにとられちゃったのかな」
洋平はまだ気にしている。息子はどこか佐知子に似て几帳面なところがある。寝る時もきっちり胸まで布団をかけないと嫌がる。
「いつなくしたか覚えてるのか?」
「ううん」
「それじゃしょうがないじゃないか」
プールでは次のクラスの講習がすでに始まっていた。みな驚くほどうまい。あっという間に二十五メートル泳ぎきって、ターンしてくる。洋平はいつまでたってもこうはならないだろう。うまく泳ぐようになるのが目的じゃない。たくさん食べるようになるのが今は第一だ。
洋平は外に出る時、思わず寒いと呟いた。確かに寒い。もう六時を三十分以上も過ぎている。外は真っ暗だった。雨はちっともやみそうにない。
駐車場は出て少し行ったところを右に曲がる、隣あったビルの地下にあった。
「いいか、気をつけて降りるんだぞ」
階段は人一人が降りるのがやっとだった。傘も十分にさせない。私は後からそろそろと階段を降りた。足元が濡れている。滑らないようにな。気をつけるんだぞ。何度も声をかけた。
駐車場は十五台も入れば一杯だった。洋平は車を見つけると歓声をあげながらすぐに走りだそうとした。駄目だ、危ない。走っちゃだめだ。私は大声をあげた。
車の座席に座り、少しだけ気持ちがゆっくりした。すぐにエンジンをかけ暖房を入れた。寒さが少しづつ遠のいていく。プールの後じっとバスを待っているのはやはりつらいだろう。子供でなければとてもできない。出てくる時、入り口のところで待っている子供たちを見ながら、そう感じた。
「今日、パパが来ると思ったか?」
「ううん」
「嬉しかったか?」
「うん」
洋平の返事はいつも短い。男の子はみんなおんなじよと、佐知子は言うが、そうとばかりは言えないような気もする。
エンジンをかけ、いよいよアクセルに足を乗せようとした。と、その時だった。ビルの階段から一人の女が子供を連れて駐車場に入ってきた。初め私は全く気にもとめなかった。暗いせいもあったろう。どこかの母親が子供を迎えに来たとしか思えなかった。しかしその横顔には確かに見覚えがあった。じっと目を凝らしてよく見ると、それは私の知っている、というより忘れられない女だった。
金井朋子に違いない。
彼女はスリムのジーンズに上は黒のジャンパーを羽織っていた。つきあっていた頃には見たこともない恰好だった。しばらくの間、声が出なかった。時間が過ぎた。私は何度も彼女の顔を見つめた。間違いではないかと思い、もう一度確かめた。横顔の印象が以前と少しも変わっていない。やはりそうだ。間違いではない。どうしてこんなところにいるのか……。
私は十数年前、彼女に何度か手紙を出した。酒ものんだ。抱き合った。その時の住所は私が今住んでいるところから、そう離れていない。ということは今、実家に住んでいるのだろうか。父親は市議会議員をやっていた。しかし付き合いだしてしばらくした頃、脳溢血を起こし、運ばれた病院で数日後に亡くなってしまった。
養子でももらったのだろうか。そうでなくても実家の土地を貰って家を建てたということは十分あり得る。なぜ今までそのことを考えなかったのだろう。自分が今の場所に住むとき、ほとんど朋子のことは考えなかった。どこかへ嫁にいったものとばかり思っていた。
幸い彼女は私のことに気づいていない。車の中にいるせいで向こうからはよく見えないようだ。彼女が手をひいているのは小学校に入ったばかりくらいの男の子だった。洋平と同じブルーのトレーニングシャツを着ている。髪が濡れているところから見て、息子と同じ時間帯のクラスだろうか。それにしては出てくるのが遅い。ロビーで顔を会わさないでよかった。咄嗟になんと声をかけていいか迷ったろう。
あんな子がいたのか……。私は独りで複雑な感慨にひたりながら、アクセルをおもむろに踏みこんだ。
大通りに出ても私の心はまだ波立っていた。これだけ近くに住んでいれば、また顔を合わせる可能性がある。あの子の上にもう一人ぐらいいるのだろうか。なんという姓になったのか。元の住所にいるとすれば電話帳でも調べられる。おぼろげだが、まだ番地ぐらいは覚えている。いずれにしてもこれから先、暢気な顔をしてプールに迎えには行けそうもない。というより、どこかで顔を今まで会わさなかったのが不思議なくらいだった。
ミラーには後ろの席でしきりとお握りをほおばっている息子の姿が映っていた。
「うまいか?」
「うん」
「プールの後で食べるとうまいよな」
「うん」
何を訊いても洋平は張り合いがない。
雨足が強くなった。ワイパーが水を大きくはじいた。

家に帰っても気分が何となく落ちつかなかった。佐知子は夕飯の支度をしている。魚の焦げる匂いが台所に立ちこめていた。
「頭乾かしてあげてよ。寒くなっちゃうから」
私は仕方なしにドライヤーを出し、息子の髪を乾かした。洋平は私に似て毛がかたい。親子はどこか似るものだ。
彼女の子供も、どこか親に似たところがあるのだろう。顔つきがそっくりだった。どこか丸みをおびた輪郭、首筋から喉への線。
朋子とは一緒に食事もした。何度かホテルへもいった。一度など酒を呑んで気分が悪くなり、渋谷駅近くの旅館に泊まったこともあった。あれも確か雨の日ではなかったか。彼女は私の額に冷たいタオルをあてたりして、親切に介抱してくれた。家に電話をいれなくていいのかと言うと、うんすぐにするからと部屋の隅にあった受話器をとった。その時の応対を聞いていて、この女となら一緒に暮らしてもうまくいくだろうという予感が働いた。 私はしばらく横になったまま、吐き気と闘った。どういう加減であんなに気持ちが悪くなったのか。呑んだ量がそれほど多いというのではなかった。よほど体調が悪かったのだろうか。あるいはそれを材料にして、彼女と夜を過ごしたいという下心もあったのだったか。今となってははっきり思い出せない。
それでもしばらく横になっていると幾らか楽になった。吐き気がおさまるにつれ、部屋の中の様子がはっきり見て取れた。安っぽい壁紙、照明器具。男と女の欲望だけが目の前にあった。
「驚くかもしれないけど、私こういうところ初めてじゃないの」
朋子はシャワーを浴びてから、私にそう呟いた。その言葉は意外だった。とてもそんな風には見えなかった。
彼女は終始やさしい目をしていた。強く抱き合った。

あの時と同じ女が子供を連れてプールに行き、俺が子供を迎えに同じプールへ行く。ひょっとしたらあの男の子は俺の子であっても不思議はない。ほんのわずかの差だ。

「なにしてるの。暇だったら、手伝ってよ」
私は慌ててテーブルを拭き、茶碗と箸を並べた。漬物の皿を出した。
「休みの日は本当にぼんやりしてるんだから」
由希子が部屋から出てきた。難しい年頃だ。自分の殻に閉じ込もりたいのだ。暇な時はマンガを読んでいるか、次々と近所の図書館から借りてくる少女小説を読んでいる。私の聞いたこともない作家の名前を時々口にする。
「明日買い物にいかない。洋平の冬物も買わなくちゃいけないし」佐知子が私に向かって言った。
「私のは?」由希子がふくれる。
「あなたは自分で気に入ったのを買うほうがいいんじゃないの」
「それはそうだけどさ……」
由希子は自分の気にいらないものを着なくなった。少しでも少女風の恰好をさせると、「やだ、これ」と言ってすぐに脱いでしまう。
そこへ行けば、洋平はずっと単純だ。妻の佐知子も息子の方が扱いやすいようだった。一日怒っていても後に何も残らない。しかし買い物となると、やはり娘と行きたがる。
「パパと二人で行ってきたら。仲がいいんだから」
「行く?」佐知子が私に向かって言う。
「明日にならなけりゃわからない」
「それもそうよね」
食事中に佐知子の実家から電話があった。急に方言になる。佐知子は日本海に面した大きな町で生まれた。初めのうち、私には電話で何を話し合っているのか全くわからなかった。しかし馴れというのは怖い。今ではたいていのことが理解できる。
どうやら梅干しを送ったから食べろという話のようだ。こまごまとしたことを親子で話し合っている。身体の具合がどうだこうだと、いつもの話が続いている。
私は食事を終えると、隣の部屋に自分の布団だけ敷いて、横になった。寝転がりながら一人でテレビを見る。気分がリラックスして、楽になる。子供と一緒にアニメを見る気にはなれなかった。なにより音にまいってしまう。
「また寝てる」佐知子が部屋を覗きにきた。
「しょうがないだろ。うるさくて仕方がないんだから」
そう言うと、それもそうねと呟いた。
天気予報が始まった。明日は晴れるといっている。しかし、もう寒い。陽が出ている時間だけはなんとかなるが、夕暮れになるとすぐに冷える。今年の夏は特に寒かった。台風が立て続けにやってきてそのまま秋になり、やがて陽も高くのぼらなくなった。空が高いと感じていたのはついこの前だ。
「じゃあ明日買い物につきあうか」
「無理しなくたっていいのよ」
「たまには新宿にでも出てみるか」
「いいわね」佐知子が急に大きな声を出した。私にしたところでいつも近所の同じデパートばかり回るのでは飽きがくる。
「もうすぐ生まれるんでしょ?」
「信昭のとこか」
「そうよ」
「そうだな。 そうかもしれない」
「なに暢気なこと言ってんのよ。お祝いだってあげなくちゃいけないし」
「男だか、女だかわからないうちに祝いの品なんて考えられない」
「それはそうだけどさ……。あなたのとこの家系は万事にわたってのんびりしてるんだから、いいわよね」
佐知子の決まり文句だった。そう言われても無理はなかった。全くその通りだからだ。親の誕生日がいつなのかさえ私は正確に知らない。だから特別その日に贈り物など、したことがなかった。それでなんの不都合も感じたことがない。父親が八月生まれだということはたしか聞いた記憶がある。しかし何日なのか正確には知らない。そういう家なのだ。それでいいと思っている。
寝る前に少しだけウィスキーをのんだ。女のことなどとうに忘れていた。

翌日の朝、佐知子は新宿まではとても行く気になれないと言い出した。体調があまりよくないという。
「どうしたんだ?」
「なんとなくだるくてね」
「風邪でもひいたんじゃないのか」
「今日はやっぱりやめとくわ。頭が何となく痛いから」
佐知子は一昨年もそんなことをしばらく言っていて、ヘルペスだったことがある。頭が痛い、頭が割れるみたい、と何度も訴えた。頭痛薬も全く効かず、あの時は二週間も入院した。原因がしばらくわからず、何度か脊髄から液をとった。海老のように身体を曲げてじっとしているのがつらい、と佐知子は言った。ほとんど症状が出なかったせいか、ヘルペスだとわかったのは入院して四日もたってからだった。
私は仕事が終えてすぐに病院に行き、子供の食事の面倒から洗濯、買い物なんでもした。母も来てくれた。しかし年老いた父を抱えて、長くはいられなかった。一週間後にはどうしようもなくなって、家政婦を頼んだ。

「わかった。一日ゆっくりしてろ」
私は一通り家の片付けを手伝ってから、ちょっと本屋に行ってくるからといって家を出た。頼んでおいた教科書が来たという知らせを受けていた。
佐知子は英語の勉強にことのほか熱心だった。
「そんなに早くからやる必要があるのかな」
「だってみんな塾に行ってるわよ」
「英語もやってんのか?」
「当然よ。アルファベットなんかみんな書けるってよ」
「そんなに言うんなら塾にでも入れればいいじゃないか」
「さがしたのよ、私だって。でもいい塾がないの」
「どういうこと?」
「みんな受験を意識したようなのばっかりで、学校の教科書を中心にしたのはないの。厭だもの、塾に行ってヘンにこすっからくなってくるの。もっとのびのびした感じで勉強させたいのよ。ねえ、ちょっとだけでいいからあなたやってくれない」
「俺は厭だよ」
「ちょっとだけでいいから。少しお小遣い増やすからさ」
「厭なものは厭だ」
「だっていい塾がないのよ。最初のとこだけでいいから。あとは自分でやらせるからさ」「厭だよ。俺は」
佐知子の気持ちがわからないわけではなかった。中学に入るまでと言えば、三カ月ぐらいしかない。妙な塾に入って偏差値ばかり口にするようになられてもかなわなかった。
「由希子とだけじゃ熱が入らないっていうのなら、Kちゃんとじゃダメかしら。前からどこかいいとこないかしらってママと話し合ってたのよ」
「誰だ、そのKちゃんっていうのは?」
「由希子と同じクラスの子よ」
「冗談じゃない。他人の子なんか預かったら、もっと大変だ。だいいち責任があるだろ」「そんなんじゃないのよ。Kちゃんのママなら気心が知れてるし。ほんのちょっとアルファベットとか、単語の読みとかやって欲しいらしいの。そんなにかたく考えなくていいのよ」
「そんなに言うんなら、おまえがやればいいだろ」
「私だってやれればやってるわよ。でもあなたの方がずっと教えるの上手だもの」
佐知子は時折、私が娘に算数や国語を教えているのを知っていた。そんなやりとりが一週間近く続き、私も最後には根負けした。
「わかったよ。じゃあ、ちょっとの間だけやる。ただし金を取ったりする気はないからな。責任が重くなるのは厭だ」
「じゃあ、Kちゃんのママに電話していいのね」
「おまえの好きなようにしろ」
「本当に、いいのね。電話しちゃうからね」
佐知子はその日嬉しそうだった。

本屋が入っているビルの近くにはあっという間にデパート、ホテル、劇場ができ、十三年前、引っ越してきた時とは全く違う町になってしまっていた。駅から一直線に伸びたメインストリートには人がいつも大勢歩いている。それも皆若い。おしゃれだ。ブティックもできた。オフィスビルもできた。何十階もあるビルがあちこちにたっている。とにかくこの町は変わった。
風景が一年もしない間に変わってしまう。あんなところに店があったかと思っていると、すぐに別の高いビルになる。塾が乱立し、コンビニもビデオ屋もたくさんできた。できてはつぶれ、また別の店がすぐに開店する。ちょっと景気がいいかなと思っていると、脇に新しい店ができ、古いところは見向きもされない。情に流されない。誰もが損得で動く。その意味ではわかりやすい町だ。
喉が乾いた。茶を飲みたくなった。喫茶店に入ってコーヒーを注文した。通りに面した窓からは外の風景がよく見えた。本当にこの町は変わった。変わりすぎた。
引っ越してきた当時、駅前にはバラック建ての喫茶店が一つあるきりだった。あれから、スーパーができ、新しい線路が伸び、駅が増え、あっという間に便利になった。谷戸と呼ばれる崖になった場所もどんどんなくなった。道が太くなり、その両わきに続けて店ができた。
私は買ってきたばかりの英語の本を開いてみた。大判で驚くほど色彩が豊かだ。自分が中学の頃の教科書とは全然違う。今は本当にみんな英語を習っているのだろうか。佐知子の言うこともにわかには信じられない。
もうじき昼だ。なにかついでに食べていこうか。この町に知り合いがいない訳ではない。しかしみんな忙しい。日曜日は結局一人で過ごす他はなかった。
他人の領分を犯す人間を、この町は嫌う。

夢を見た。最近は滅多にその内容を朝まで覚えているということがない。起きた途端たいていはすぐに忘れる。しかしそれはよほど強い印象を与えたのか、すぐには消えなかった。
朋子の夢だった。抱き合うまでに随分長い時間があった。今までにほとんど彼女の夢などみたことがない。不思議なことだった。
何か論じあっていた。しきりと彼女は私の方を向いて怖い顔をした。何を怒っていたのか。場所が草原のようなところだったのはなぜか。昔、佐知子と行った雨池に似たところだった。八ケ岳を歩きたいというので夏に連れて行った。まだ子供が生まれる前のことだ。あの頃は白駒池も今ほど賑やかじゃなかった。静かな林の中をただ黙って歩いた。
雨池には誰もいなかった。水面に赤とんぼが群れて、交尾していた。佐知子は初めて見る音のしない風景に感動したようだった。
池のほとりに朋子が座っていた。なぜあんなところで抱き合ったりしたのか。彼女の身体は柔らかかった。私も若かった。明らかに時間が戻っていた。
朋子と知り合ったのは都心のビルの中にある旅行代理店だった。何度も出張の手続きを頼んでいるうちに、自然と親しくなった。
彼女はいつも微笑んで私を迎えてくれた。カウンターに座っている女の中で一際目立った。だから怒ったような顔をして、時に睨みつけたりする表情を見たことがない。それなのにどうして、夢の中であんな顔つきをしたのだろう。
朋子がまだ怒っているのではないか、という不安が心の底にあったからだろうか。それがこの前偶然出会ったことで増幅されたという可能性もある。酷い別れ方をしたというのでもない。自然に、本当に自然に疎遠になっていってしまったのだ。手紙も来なくなった。電話もかけなくなった。そしてそれで終わりだった。なにも劇的なことはない。
他に好きな男ができたのかもしれなかった。だがそれも確かめないままに終わった。
彼女は私を見て一人でなにか呟いていた。静かだった。音がしないということがかえって息苦しいくらいだった。しかしよく考えてみると、朋子ではなかったような気もしてくる。あの身体の柔らかさは別の女のもののようにも感ずる。何度か抱き合った感触とは明らかに違う。だが夢だからそう感じたのか。
確かにこれは夢だとわかっていた。隣には妻が眠っていること。向こうの部屋には洋平が、その隣の部屋には、由希子が買ってもらったばかりのベッドの上に寝ていることも、わかっていた。
私は自分勝手に夢を見ていただけなのだろうか。身体の感触がまだ残っている。どこかに触れた時の感じ……。首筋とか、乳房とか、背中とか。手を回した時の肌のなめらかさが、掌のどこかに残っている。だから彼女だと思ったのだが……。しかし違っているのかもしれない。自信がなくなった。
佐知子と行った夏の記憶の方が今は強い。頭が覚醒してきた。雨池から歩いた道のことが、急に懐かしく思い出された。細い道をずっとただひたすら歩いた。双子池の水の透明だったこと。あれから大河原峠を越え、蓼科へ抜けた。

目覚めて三十分たった。新聞を読む。どこを読むというのでもでもなく目が活字の上を這う。
「コーヒーでも飲む?」
私は午前中、滅多にコーヒーを飲まない。しかしその時は妙にコーヒーの香りが懐かしかった。
「遠くでサイレンがなっていないか?」
「わたしには聞こえないけど」
「そうか、空耳かな」
サイレンのような音が聞こえている。耳鳴りだろうか。キーンという音ではない。ウーウーと聞こえる。
「毎日、夜遅いから疲れてるんじゃないの。少し他の人に仕事をやってもらえばいいのよ。いつだって夜、芝居を見てきた後は疲れた、疲れたって。子供達の手前、あんまり言えないけど、いいことじゃないわ」
「神経が張りつめてるんだから仕方がない」
「だってそんなに面白いのはないんでしょ」
「ああ、ない」
「今日も夜遅いの?」
「うん、今どうしようか迷ってる。見たい芝居もあるしな」
「じゃ、遅いのね」
「多分な……」
夢の記憶はとうに消えてしまった。

ひと月が過ぎた。
その日私は会社に電話をしてから、十時過ぎに家を出た。家から乗る私鉄は一直線に地下鉄に入る。
その劇団が借りている稽古場は隅田川を越えたばかりの川のほとりにあった。スタジオの入り口には幾つもの稽古の予定が貼ってある。鉄製の外階段を上がって稽古場に入ると、外とは全く違った空気が流れていた。張りつめている。
その緊張感が私は好きだった。稽古場に顔を出したくなるのも、その匂いを嗅ぎたかったからだ。煙草と汗がないまぜになって、渾然とした部屋の空気を作っている。
芝居の出来不出来は、稽古場の雰囲気で大体わかった。駄目な芝居は、どこか稽古場にも活気がない。
顔見知りの制作の男に軽く挨拶をしてから、中へ入った。若い女の子がすぐにコーヒーをもってきてくれる。そばにあったパイプ椅子に腰を掛けた。隣では小道具係の手入れに余念がない。役者達は皆思い思いの恰好でくつろいでいる。ちょうど休憩時間のようだった。
制作の男がやってきた。
「予約の方はどんな具合?」
私は手短かに訊いた。
「ええ、おかげさまで」
いつになく嬉しそうな顔をしている。若くて元気がいい。
「そりゃあ、よかった。この前もよかったから……」
「あの時もよく入ったですね。この本はやっぱりよく書けてるし」
「あれは二年前?」
「そうです。初演の時とキャストが変わってません」
「ゲネプロ楽しみにしてるよ」
男はにっこりと微笑んで、また電話の前にたった。
私の隣で若い役者が何度も同じ台詞を繰り返している。身体の動きとあわせて、丹念に台詞をなぞっている。自分の出番がない間、ずっと同じ台詞の稽古をしていた。真剣な顔つきだった。
しばらくすると演出助手の合図で音楽が鳴った。稽古場に緊張が走る。出番のある人は舞台に割り当てられた上手と下手にさっと散った。ベニヤでしきられただけの殺風景な場所だが、劇場の大きさにあわせて計算され、テープがはってある。芝居の方はほぼできあがっているようだ。壁に張ってある予定表には、ゲネプロまでの日数が示されている。あと五日しかない。
二時頃までいて、稽古場を出た。一度公演しているだけに、役者の方も落ちついている。互いに力の入れ具合がよくわかっているようだ。それが安心感につながるのだろう。いい舞台になりそうだった。
外に出てから隅田川のほとりを少し歩いた。風が冷たい。小さな船が時折荷物をたくさん積んで過ぎていく。不思議と時間がゆっくり流れている。川の上を走る高速道路が先の方で幾重にも蛇行している。水面を眺めた。さざ波が白い。枯れた葉や木っ端、白いビニール袋などが水門の脇にへばりついている。
心なしか海の匂いがする。遥か先に潮の流れがある。私はしばらく、橋の上から向こう岸の風景を眺めた。ビルがどこまでも続いている。川面の反射を受け、ガラス窓が弱く光っている。
水を見ると私はつい子供の頃を思い出した。叔父の家が千葉の海岸にあった。駅からしばらく広い道を歩き、川にかかった橋を渡るとそこから海が見えた。子供の頃、夏になるとよく訪れては泳いだ。地元の漁師が網を引き上げるたびに、銀色の腹を見せておびただしい数の魚が跳ねた。同い年の従兄弟と一日中くたくたになるまで遊んだ。川には蛍もいた。祖母もまだあの頃は元気だった。

会社に戻った。机の上にはいくつかメモがのっていた。それを一つ一つ見ながら、すぐに片づけられるものは電話をしたり、他の部員に渡したりした。今週中にあと三本芝居を見なくてはならない。最近では食指の動くものだけにしているが、しかし義理で見なくてはならないものもある。そういう時は後で妙に神経が疲れたりした。
仕事の段取りを一通りつけてから、隣のビルにある歯医者に行った。このところずっと通い続けている。幾つも台が並んでいて、すぐに診てくれるのはいいが、その時その時で医者が変わる。同じ人に診てもらおうとすると、かなり待たなければならない。
三週間ほど前、奥の歯が痛んで仕方がないので行ったら、とうとう神経を抜かれてしまった。私は痛いのだから、とにかく痛くないようにしてくれと言った。
何度も細い先のねじ曲がった針を入れて、神経をとった。ぐるぐるとねじるようにして神経を引っかけて取る。ひりひりした痛みだ。頭に直接響く。痛い時は右手をあげてくれなどという言葉も、どこかに飛んでしまう。痛みは我慢できない。最初の日の晩はとうとう痛み止めをのんだ。
七時過ぎ、仕事もそこそこに家に戻った。電車に揺られて一時間立ち続けた。疲れが足にくる。吊革につかまった手が自分のものではなかった。どこか弛緩していた。本を読む気にもなれなかった。外の暗い風景を眺めながら、窓に映る家の明かりをぼんやりと見ていた。

駅のホームは寒かった。吹きっさらしに立った高台の駅である。丘陵を切り開いて作った造成地の上に駅のホームはあった。そのままバスに乗って帰れば家までは十分とかからない。しかしあいにくバスは出たばかりだった。どういう訳か、時々電車とずれることがある。仕方がないので少しだけ本屋に寄った。しかし疲れているせいか、あまり立ち読みをしようという気にもなれない。週刊誌のグラビアだけを見てやめた。私は足早に外に出た。またバスに乗り遅れると、十分以上待たなくてはならない。寒い時にじっと風に吹かれて待っているのはつらかった。
バス停まで歩いてふっと何気なく目を上げたその瞬間だった。
反対側のバス停に立っている金井朋子と偶然目があった。それはほんの一瞬のことだった。しかし相手も気づいたようだった。全身に驚きが浮かんでいた。一瞬身体が膨らんだような気さえした。
私はなんということもなく頭を下げた。彼女の方も頭を少し下げた。驚いた表情がしばらく続いた。私はどうしたらいいものか迷った。わざわざ向こう側のバス停まで歩いて行くのはおかしかった。彼女もそう思ったのだろうか。少しもその場を動こうとはしない。 時間が凍り付いたようだった。何か次の行動に出なくてはならないことは明らかだった。彼女は私がそばに近づいていくのを待っていた。その時は待っているように見えた。しかし私は動けなかった。歩いている途中でふっと目を合わせたのなら、何か話しかけなくてはならないだろうが、二人の間は思った以上に離れていた。
私は落ちつかない時間を過ごした。バスはなかなか来ない。時間がたたない。全身が彼女の目に射すくめられた。二分か三分ぐらいの間、私の身体はずっと熱かった。
そうこうしているうちにやっとバスが入ってきた。背中から汗が吹き出た。時間にすればたいしたことはなかった。しかし長い時間に感じられた。気詰まりだった。挨拶に行くべきかどうか迷った。しかしどうしても足が動かなかった。
私は救われるような気持ちでバスに乗ろうとした。彼女はじっと私の方を見ていた。何か言いたそうだった。やがてバスが動きだした。私は彼女に向かって再び頭を下げた。バスの中で私はずっと落ちつかなかった。相手が私の存在を知ってしまったということに、明らかに動揺していた。
朋子は私と過ごした時間のことをしばらくの間思い出すかもしれない。あるいは今日の夜、眠る前の数分間しばらく若い頃のことを思い出すかもしれない。私がこの前プールの駐車場で出会った晩のように……。
私はバスに揺られながら、バス停に立っていた彼女のことを何度も思い返した。こんな時間にバスに乗るということは外で働いているのか。彼女はきちんとしたスーツを着ていた。この前プールで見かけたときのラフな恰好とは全く違う。子供はどうしたのだろう。 身体の中がまだ騒いでいる。
バスの揺れがいつもよりひどい。

海岸線をまっすぐ走った。海の表面が風で時折白くめくれあがった。久しぶりの日曜日、どうしても鎌倉へ行きたいと朝、佐知子が言い出した。
「行ったっていいけど、少し寒いんじゃないか、今日は」
「そんなことないわ、結構あったかいほうじゃない」
洋平はついてくるという。由希子は友達とどこかへ遊びに行く約束をしていると言った。「そんなの断っちゃいなさいよ。みんなで行くときは行くの」
「やだ。昨日、約束しちゃったんだから」
「友達との約束を勝手にすっぽかす訳にもいかないだろ。いいから行ってこい」
「そんなの断ればいいのよ」
「ママみたいに、単純にいかないの」由希子がふくれた。
すったもんだのあげく、洋平だけをつれて行くことになった。しかし支度をしていると、由希子も友達に断るから一緒に行きたいと突然言い出した。難しい年頃だ。やはり自分にもこんな時があった。母親と一緒に歩くのが恥ずかしくて、随分と後ろの方からついていったものだった。佐知子は一人でまだぶつぶつ言っている。
高速道路はそれほど混んでいなかった。
サーフボードを抱えた若者があちこちに点在していた。彼らを相手にした店が、道路沿いにたくさん並んでいる。
「もうすぐ冬になるっていうのによくやるわね」佐知子が感心したように言う。
「だからかっこいいのよ」由希子がわかったような口をきいた。
「こういうとこでたまには飯をくわないか?」
私は道路沿いにあるレストランの一つを指さした。
「いいわね」
佐知子は即座に反応した。私が車を入れたのは、ちょうど海岸道路の真ん中あたりにあるこざっぱりした感じの店だった。イタリア料理の看板が大きく出ている。
「なんだか高そうね」
「そんなことはないだろ。とにかく入ってみよう」
いつもなら鎌倉へ来ても寺ばかり見ているので子供らもいやがるが、海に近いレストランは好評だった。
「やるじゃない、パパ」
由希子が生意気な口をきく。娘は少しでもこぎれいで、しゃれたところへ入りたがるようになった。
海を見ながらの食事はなかなか気持ちが良かった。爽やかな風が部屋の中に入ってくる。大きな出窓が海に向かってあちこちに開いている。サーファー達の姿が時に波の中に崩れ落ちると、子供達が歓声を上げた。
「人の失敗を喜ぶもんじゃない」
「でも面白いよ」
「おまえもやるか?」
「うん、やってみたい」洋平はやはり男だった。
私は妻に言われた通り出かけてきてよかったと思った。家族で外に出るのは滅多にないことだ。佐知子に向かって「よかったよ、出てきて」と言おうとした瞬間、こんな風景を前にも見たという記憶が私の脳裡を走った。確かに見た。もっと暑い日だった。砂浜がずっと続いていた。空の記憶がある。ずっと昔のことだ。しかし正確にそれがいつのことだったのか思い出せない。
朋子と歩いたことも確かあった。あれは房総の海岸だったか。たしか春だった。道を走っているとたくさんの花が咲き乱れていた。彼女はどうしても花摘みがしたいと言い、私は途中で車を止めた。赤や橙色のポピーが一面に咲いていた。あたり一面いい香りがしていた。
彼女は鋏を借りて、花畑の中にずんずん入っていった。
「どの花にしようかな?」
朋子は嬉々としていた。
「どれでもいいじゃないか」
「あなたも一緒に切らない。前からしてみたかったの」
私は花をバックに写真を何枚も撮った。

ホテルの部屋から見た海は光を絶えず空に跳ね返していた。
夜、遠くに船の明かりが見えた。彼女は浴衣を着たまま、ぼんやり外を眺めた。
「やっぱり来てよかったわ」
「俺もだ」
「こんな風にずっとやっていけるかしら?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「なんとなく……」
朋子には漠然とした不安があったようだ。
「わからない」
「だめになることある?」
「わからない、先のことは」
「そうね、先のことばっかり考えたって仕方がないものね」
私は彼女の肩を抱いた。身体のぬくもりが一番確かなものに思えた。掌を通じて、身体の形が伝わってくる。何度も抱き合った女のかたちだ。朋子は私の手を強く握り返した。 私は彼女の家が難しいところにさしかかっているのを知っていた。市会議員だった父親が急死し、家を継ぐものがいない。
朋子が窓を開けた。部屋の中に潮の匂いが染み込んできた。
「やっぱりいいわね」彼女は話題を変えた。ふうっと思わず溜息をついた。
あれが結局最後の旅行になった。今となってみれば、やはり一緒になっても無理があったかもしれない。
朋子の父親が死んだのは、付き合いだしてしばらくしてからのことだった。倒れるまでごく普通に仕事をしていたらしい。急死だった。病院に入って三日目には意識も戻らないままあっけなく死んだ。
葬儀場にあてられた寺の門前にはたくさんの花輪が並んだ。道からあふれでてしまいそうだった。黒塗りの車が何台も横付けにされた。それが彼女の父親の立場をよく象徴していた。私は読経の間、朋子を遥か遠くに見ながら、妹らしき人の姿を追った。しかしその姿はどこにもなかった。
空だけが高く、青かった。
礼服を着た男や女達は、妙に慇懃で胡散臭かった。
あの日の葬式は、朋子と私との距離をはっきり見せてくれた。しかしだから別れたというのでもない。あの後も彼女と私の関係は続いていた。決定的なことはなにもなかった。
「パパ、どうしたの?」洋平が私の顔を覗き込んだ。
「サーファーが恰好よくてさ」私はしばらくぼんやりしていたようだった。
「もっと食べない。わたしの」
佐知子がスパゲッティの皿を私の方へ出した。自分はビールを呑んでいる。私も呑みたかった。一杯だけというと、本当に一杯だけよとついでくれた。
「運転する気がなくなっちゃいそうだ」
「ダメよ、そんなのは」
「後で海岸に行こうよ」洋平が言った。由希子も海に行きたがっている。
「車おいたままで大丈夫かな」
「平気でしょ。そんなことで文句なんか言わせないわよ」
佐知子が言った。
食事を終えてから、海岸へ出た。思ったより風が強い。私は足だけでも海水につかりたかった。しかし冷たそうだ。洋平ははしゃいで、すぐに靴を脱いだ。由希子は一人で貝殻を拾っている。
「よかったよ。出てきて」
「そうでしょ。こんなにあったかい日は久しぶりだもの」佐知子も上機嫌だった。
しばらく二人で子供達の様子を黙って眺めていた。
「もう帰らない?」佐知子が突然言った。
「寺をどこもみないのか?」
「見たいけど、子供たちのいない時、一度泊まりがけでゆっくり来ない?」
「鎌倉にか」
「そう。わたし北鎌倉の方をもっと歩いてみたい。なるべく朝早く靄のたっている時間に切り通しを歩いてみたい。春でもいいし、そんなに寒くない冬の日でもいい」
佐知子は女学生みたいなことを言った。
「随分いろいろと行きたいとこがあるんだな。どうも相手が違うんじゃないか」
「そんなことないわよ」
佐知子は静かに否定した。もっと別の反応があるのではないかと思っていた私は、つい拍子抜けしてしまった。

信昭の子供が生まれた。しかし生まれるまでにかなり時間がかかったことから、医者は帝王切開をした。二千九百グラムの女の子だった。私は子供が生まれたということと、帝王切開だったということのどちらをどう評価すればいいのか迷った。
「少し小さいんじゃないか?」
「それはそうだけど、でも平気よ。よかったじゃない」
電話は母からだったという。私はすぐ実家に電話を入れた。母はとにかく無事に生まれてよかったと喜んでいた。
佐知子は二人の子を生んだ。しかし本来最初に生まれるはずの子は、胞状奇胎でだめだった。心音の聞こえない腹を何度も妻はさすった。寒い冬の日、三カ月で子供をおろした。あの日帰ってきてから佐知子はずっと泣き続けた。
その後一年近く病院に通い、やっと生んでもいいという許可がおりた時はさすがに嬉しそうだった。その間私は何度も病院につきあった。一緒にバスに揺られながら、まだ当分許可は下りないだろうかとか、お腹の大きな人の中に混じって診察を受けるのは厭だなどと話し合ったりもした。昼に食べた病院の食堂での光景もよく覚えている。
薬が出るまでの時間を利用してよく食事をした。看護婦や医者に混じりながらの食事は病院に行くときの一つの楽しみでもあった。
帰りによく駅前のスーパーへ入った。その日の夕食の支度を考えながら、あれやこれやと話し合った。二人ともまだ若かった。今度こそ元気な赤ちゃんの顔が見たいと心の底から思った。あれからすでに十年以上がたっている。いや正確には十三年か。由希子ももうすぐ中学生になる。
信昭の子もやがてはすぐに大きくなってしまうだろう。親が年をとっていることなど少しも知らないで。
私も知らなかった。ふっと気がついた時、親ははるかに年をとっていた。あんなに元気だった父親が釣りにも行かなくなり、家でじっとしていることが多いという。母は驚いていた。
一年が早い。

確かに燃やした。佐知子と一緒に暮らし始めた頃、朋子から来た手紙をすべて。きっちりとした楷書で書いてある手紙は彼女の性格をよくあらわしていた。私はその字の形が好きだった。文章はけっしてうまくはなかったが、しかし真心がこもっていた。庭に小さな穴を掘って一つ一つ燃やした。今から考えてみるとまったく子供じみたことをしたものだ。感傷にひたりたかったのだろうか。

私を避けるのは家のせいですか。やっぱりあなたはずるいです。どこかでしっかり計算をして、帳尻があわなくなると、すぐに切り捨ててしまう。あなたは頭のいい人です。いいえ、やっぱり狡賢い人です。

弟に電話をした。
「よかったな、本当に」
信昭の声は明るかった。
「ありがとう」心の底からそう言っていた。すぐにわかった。
弟の声を聞くのは久しぶりだった。
「どうだ、彼女の具合は?」
「いいみたい。もう少し入院してるようだけど」
「そうか。子供はどうだ? まだかわいいっていう気分じゃないかな」
「今のところただ保育器の中で寝てるだけだ。たまに時々ぼんやり目を開けたりしてるけど。まだガラス越しに見てるだけだから」
「どっちに似てる?」
「さあ、どっちかな」信昭は本当に嬉しそうだった。
「退院したら当分向こうの実家に行ってるのか?」
「たぶん、そうなるんじゃないのかな。こっちにいてもなんにもしてやれないし」
男の兄弟同士の話はそれ以上先へ進まなかった。佐知子が横あいから受話器をとった。弟とあれやこれや話している。信昭も話しやすいのか、会話が弾んでいる。時々笑い声がおこった。
名前はどうするの、いつ頃退院できそうなの。佐知子の質問は矢継ぎ早だ。
「信昭さん、やっぱり嬉しそうだった。なにかお祝いをしなくちゃね」
「今度は本当に考えてやろう」
「木のおもちゃはどうかな。ずっと使えるし飽きがこないから」
「なんでもいいさ。とにかくほかのものとダブらないようにすればな」
由希子が生まれたときにもあちこちから祝いの品をもらった。洋平の時ももらった。今度は贈る番だ。

金井朋子にはあれから会っていない。町のどこかでふっと顔をあわせることもない。意識しているわけではないが、なんとなくバス停でも反対側に目をやることがあった。近くのスーパーやデパートでもそれとなく気にしている。しかしその姿を見かけない。どこかへまた引っ越してしまったのだろうか。
プールに迎えに行くこともあれ以来なくなった。普段の日は仕事で帰りが遅くなるので無理だった。もうしばらくすると別の仕事が回ってくる。新しい雑誌をまた創刊することになった。そうなればもっと忙しくなる。今はまだ幾分暢気である。
遅くなるのは、せいぜい月に一度の出張校正の日ぐらいのものだった。昼過ぎから印刷工場に缶詰になっていると、外の空気をたまらなく吸いたくなる。周囲を壁に囲まれた部屋の中にずっといるだけで、気分が重くなった。青焼きの中に一つ一つ赤を入れていく作業は神経を使う。再校をもらう。もう一度読む。ただ同じことの繰り返しだ。
ちょっとだけ気晴らしに外に出る。するといつの間にか夕暮れが迫っている。もう随分と時間がたったということだけがわかる。ビルの谷間に金粉を撒き散らしたような夕陽が落ちる。ガラス窓が光を反射する。帰り支度のサラリーマンたちが家路を急ぐ。少し羨ましく、それでいて自分自身結構気が張っている。
スタッフミーティングの時間がせまっていた。新しい雑誌のコンセプトをこのところずっと話し合っている。写真はどうしてもはずせない。今までと違うもの、新しいもの。  次々と新しいアイデアが出てくる。
失敗はしたくなかった。ライターを何人使うか。会議室へ急がなければ。始まれば二時間では終わらない。
私はなにげなく外を眺めた。交差点が見える。もう黄昏だ。人が暗くなりかけた陽に淡く浮かんでいる。車がひっきりなしに走っている。しかし不思議と静かな光景だった。
陽が遠くに見える。反対側のビルに赤くなった光がわずかに映っている。道路がふっと川に見える。底が昏い。じっと見続けていると、光の残滓にふっと吸い込まれそうになる。大通りに群衆がいて、その頭の上に自分が落ちていく図が何気なく浮かぶ。
これからますます人に会わなくてはいけない。不意に電話が鳴る。手が自然に伸びる。ビルの輪郭が急に見えなくなる。
受話器をとった。佐知子の声だ。
「どうしたんだ、こんな時間に?」
「おじいちゃんが、さっき倒れたんだって。今おばあちゃんから電話があったの。救急車で運ばれたらしいわ。Y病院だって。すぐ行ける?」
「えっ?」私は一瞬大きな声を出した。周りの連中が私を見た。声を低くした。
「親父がどうしたって?」
「倒れたのよ、さっき」
「どんな様子なんだ?」
「詳しいことはわからないわ。さっきおばあちゃんから電話もらったばかりだから」
「これから会議だよ。すぐには出られそうもない」
「なんとかならないの」
「そりゃ事情を言えばなんとかなるだろうけど、しかし大事な会議だからな」
「会社の人にそういって出てきてよ。緊急のことなんだから」
「わかった。事情だけは話してみよう。なんとか行けるようにする。Y病院だな」
父親の容態がどの程度なのかはっきりしない段階では上司にも話しにくかった。しかし朋子の父親のような例もある。そんなことは考えたくないが、もう二度と話ができないことになってしまう可能性だってある。
会議室から大きな声が聞こえてきた。既に皆集まっているようだ。
やはり会議を抜けることはできない。失敗したくなかった。必ず売れる雑誌にしなければならない。
ミーティングが終わったのは、それから3時間後だった。頭の中が疲れでじんじん鳴った。私は編集長に事情を話し、すぐに会社を出た。編集長はなぜ早く言わなかったと私の顔を正面からにらんだ。
急いで地下鉄の乗り場へ向かう。もう外は真っ暗だ。水銀灯の明かりが白く目にまぶしい。車のヘッドライトが道を舐めるように照らしていく。
朋子の父親が倒れたとき、俺も病院へ行くべきだった。あの時見舞いに行っていれば、母親にも会えたはずだ。そうすれば彼女の家族に対して、もっと親近感を持てたにちがいない。
ネクタイがいつもより首に強く巻き付いていて苦しかった。指をねじ込んで少し緩める。親父が死ぬ。死ぬかもしれない。あるいは命をとりとめても、これから衰弱していく可能性は強い。好きな釣りにも出かけなくなったというのも一つの前兆だろう。年が年だ。そう遠い将来の話ではない。母親一人になったときどうすればいいのか。
また血を吐いたのだろうか。以前父は洗面器一杯ぐらいの血を吐いたことがあった。あれからもう十年はたっている。しかし今度はもうだめかもしれない。

病院のロビーには母がいた。蛍光灯の明かりの下に座っていると、前よりずっと小さくなったように見えた。
「どうなんだ、様子は?」私は急いで容態を訊こうとした。
「もうすぐ検査が終わるでしょ」
「頭?」
「そうみたい」
急に痛みだして倒れたというところからみて、脳梗塞の可能性があった。父は私が子供の頃から毎晩酒をよくのんだ。胃や肝臓もかなりやられているはずだ。
「もうだめかね?」
母は弱気になっていた。いつも気丈なだけに、急に力がなくなる。
「医者に会えるかな?」
「検査が終われば、様子を話してくれるでしょ」
ロビーには人の姿がまだあった。看護婦が時折せわしげに歩いている。
「おばあちゃんの時もこうだった」
母が急に昔の話をし始めた。
「あの時、おまえは知らないだろうけど、もう老衰で頭の中の水気がだんだんなくなっていっちゃってね。というより身体がひからびちゃって、骨になってもなんだか少なかった。どれが喉の骨かわからないで苦労したんだよ」
「いつのこと?」
「おまえがまだ小学校の三年だったかな、覚えてないの」
母に言われなかったら思い出すこともなかった。確か死ぬ前に一度病院をたずねたこともあった。祖母は以前と比べものにならないほど痩せ、皺だらけだった。それはもっと私が幼なかった頃にいつも優しくしてくれた祖母とは似ても似つかなかった。
私は自動販売機で買ったばかりのウーロン茶を音たててすすった。
喉が乾いて仕方がなかった。
弟はいつになったら来るのだろう。
廊下の蛍光灯だけが、いやに青白く光ってみえた。

2001-07-15(日)

ゆるり、と

達彦は少しのみすぎた。まったく博多の女は酒をすすめるのがうまい。というよりラヴィアンのママについでもらうと、ついのんでしまう。だめですよ先生、これくらいじゃ帰さないからとママが耳元で呟く。でも、そろそろ明日の講義の準備だけはしなくちゃ、あんまり飲むと、翌日喉の調子が悪くてさ。またそんなこと言って、いつも頭のなかで予習してるようなもんじゃないの。東京で教えてることを同じように繰り返してるだけなんでしょ。だったらなんでもないわよね。ねえ、ミドリちゃん。
ママはミドリちゃんの助けを求める。そうよ、先生はいつも口先ばっかりなんだからとミドリちゃんが間髪をいれず答える。夏と冬の休みの時だけ福岡に通うようになって、かれこれ3年になるだろうか。飛行機に乗ってふらりとやってきては集中講義などといういい加減な授業をする教師だからな、俺は……。
少しふらつく足でホテルに戻り、フロントに自分の顔を覚えてもらっている気安さから、部屋番号も言わず、すぐにキーをもらって、エレベーターに乗り、四角い金属の箱の中に入る。
急に寒気がした。あわてて部屋の暖房を強くして、しばらくぼんやりしているうちに、少し元気が出てきた。しかし頭の中はあいかわらずぼんやりしている。達彦はコップにからまっているパラフィン紙を手荒くひきちぎり、水を二杯飲んだ。カルキ臭くて生ぬるい。
達彦は毎年夏と冬、必ずこのホテルからネオン街を眺める。博多の街は夜になると急に賑やかになった。部屋は毎回同じ5階の隅だ。調度品も何もなく、あるのはテレビとポット、それに電話。そうだ、そろそろ家に連絡だけはしておかなければ。
彼はベッドの上に大の字になった。柔らかい毛布の感触が心地よい。はやく電話しないと、また久美子がうるさいから。もう一杯、水を飲む。幾らか気分が楽になった。
家の番号を押す。どこにも墜落しないで無事空港に着き授業を終えてきました。どうしてる、みんなは?
達彦の訊き方はいつもこうだ。長男の隆は小学校4年、長女の彩は6年、それにまもなく38歳になる久美子。二人目をうんだあたりから、体形も崩れだした。今日は彩の塾がない日だから、みんなでご飯食べてるわ。最近あんまりないもの、こんなこと。スキヤキにしちゃった。なんとなくゴージャスそうなわりに、作るのは簡単だし。今時、スキヤキがゴージャスかね?
そりゃそうよ、肉高いんだもの。でももっと節約しなくちゃ。はやく広いとこに引っ越したいしね。
今の3LDKのマンションがいくらか手狭になってきたことを、最近よく久美子は口にする。達彦も自分の書斎は欲しい。前は北向きの6畳の部屋を占拠していたが、それもいつの間にか息子と共用ということになり、ついに今年からとられてしまった。仕方なく夫婦の寝室に使っている部屋に机を置いて仕事をしている。今のマンションも早めに買っておいてよかった。相場より少し値をさげれば、買い手もきっとつくだろう。じゃ、切るよ。来週の土曜日には帰る。明日は3コマでしょ?
達彦は大学に週4日出ている。その他、集中講義という名目の出張がこれだ。かなり飲んでるわね。そんなことない、おとなしいもんですよ。これから風呂に入って寝るだけです。
ゲップがひとつ出た。頭が依然としてボーッとしている。ミドリちゃんを一度誘ってみるか。案外ついてくるかも知れない。気をつけて帰ってきてね。久美子はいつもと同じことを言って、電話を切った。

さあ今日も元気に始めようと階段を上りながら自分で勢いをつけ、いつもの調子で話し始めた。だが達彦はもう一つ授業にのりきれない。耳の中に綿でも詰めたようで、自分の声が遠くに聞こえる。やっぱり昨日飲み過ぎたかな。ミドリちゃんにつくってもらった水割りは妙に濃かった。ひょっとすると身体の具合が少し悪いのかも知れない。最近だるいのも気になる。飛行機に乗ったりしてくれば疲れも出るしな。授業が一段落したら、人間ドックにでも入るか。
90分の講義が終わった頃には、脂汗が出ていた。講師室にもどって、何度もうがいをする。何人か顔だけは知っている講師と顔をあわせる。会釈ぐらいはして、時には世間話もするが、あんまり親しくなるということもない。時折一緒に酒を飲むのは、やはり日高ぐらいのものか。授業が終わると、みんな一斉に鏡に向かってガラガラとやる。脇に置かれたうがい薬に手をだすのもいる。無理もない。ずっとしゃべり続けるのは想像以上につらいのだ。イソジンの匂いが鼻を刺激する。
達彦は講師室の棚に入ったインスタントコーヒーの瓶に手を伸ばす。
彼がコーヒーをすすっていると、長い髪をきれいにリンスした学生がテーブルの前に立った。髪がつやつや光っている。
「あのう、先生、少し質問してもよろしいでしょうか」
珍しいことだった。今まで質問などに訪れようとする学生の姿など見たことがない。
達彦はコーヒーカップを手前に引き寄せた。
女の目はきれいだった。澄んでいる。
質問はかなり厄介でこみいっていた。達彦は相手の目を見ながら丁寧に答え、最後にふうと息を吐いた。これでいいかなと彼が言うと、難しいですねと女が言った。達彦は学生が何を難しいと言ったのか、よくわからなかった。
「きみはどの専攻に進みたいの?」
「まだ特に決めてはいないんです。でも先生のお話にはすごく興味があって。それから一つだけ教えてください。やっぱりマスコミに就職するのは難しいですか」
専門から就職に話題がうつったので、達彦は少し気分が緩んだ。
「みんな必死だよ。採用の枠が少ないし……」
学生は彼の返事を聞いて緊張した表情をした。
「どんな職種につきたいの?」
「出版です」
女子学生の答え方にはよどみがなかった。
「私、活字の周辺にいたいんです。だからどんなところでもいいんですけど……」
「東京にいてもなかなかきついよ」
コーヒーがいつの間にか、冷めている。
日高に連絡をとっておかなければ。少し暇になったら一杯やる約束になっている。どうやらあいつにも講師の口がかかったらしい。いつまでも予備校で授業をしてくすぶっているようなやつじゃない。
その日の午後、3コマ目の授業を終えると、少しめまいがした。風邪でもひいたのだろうか。東京でやったテキストだからよかったようなものの、これが最初だったら、つまらないミスをしたかもしれない。達彦は何度も顔をゴシゴシ手でこすってから、タオルで力いっぱい拭いた。まだ顔に脂が浮いている。
もう一週間は福岡にいなければいけない。

「彩がさ、今頃になって、やっぱり私立はいやだっていうのよ」
長女の彩は私立中学の受験を目指して2年間過ごしてきた。久美子は最近イライラしている。家の中もどこか落ち着かない。きちんと掃除をしているのかどうか、時々、部屋の隅に綿ごみが舞っていたりする。
「どういうことだ?」
達彦が福岡から戻ったのは12月の中旬だった。九州と東京ではかなり気温も違う。まだ身体の調子が戻らない。
「友達と別れちゃうからかしらね」
「そんなこと初めから、わかってたじゃないか、だからあんなに行っただろ。大学へストレートで行けるんならともかくとして、猫も杓子も私立なんてばかげてるよ」
「だって本人がそういうんだから」
本当に彩が私立にいきたいと言ったかどうかさえ、怪しかった。しかしそのことを口にすれば、また喧嘩になる。
「なんか、他に理由はないのか。俺が直接訊くから、ここへ連れてこい」
「頭から、怒っちゃいやよ」「わかってる」
ララちゃんがピーと鳴いた。全身がカナリアのように黄色いセキセイインコである。どうやらメスらしい。インコの飼い方という本を買ってきて調べたら、オスはくちばしのあたりが青くなるという。まったくその気配がないところをみると、やはりメスなのだろう。相棒を同じカゴに入れてやりたいが、気にくわないと、つついて殺してしまうと書いてある。その記事を読んで以来、相手をさがす情熱は消えた。
ララちゃんと呼ぶ。ピーとこたえる。達彦に一番なついている。長い間そう信じていたら、彩が呼んでもピーと鳴く。手乗りにするつもりだったのに、それにも失敗してしまった。
彩が居間にやってきた。肌がつやつやしている。
「私立いやなんだってな」
「ああ、その話」彩はなんだという顔をした。
「その話じゃないわよ」と久美子。結局一番怒っているのは久美子なのだ。
「もともと公立と二股かけてたんだろ」「まあね……」
「じゃあ、それでいいじゃないか」
「そうなのよ、それなのにお母さんが……」
「合格したら行くのか?」「わかんない」
彩はどこまでもアッケラカンとしている。
「軽いんだなあ」達彦はあきれてものが言えない。
「好きにしろよ。俺が行く訳じゃないんだし」
「本当に私立はいやなの?」久美子はしつこい。
「どっちだっていいじゃないか」
「あなたに訊いてるんじゃないんです」
「とにかく、よくお母さんと相談してから、決めろよ」
「また、そうやって逃げる」
「逃げちゃいないさ。やれるだけのことはやってみりゃいいんだ。あとは学校選びなんてフィーリングだよ、フィーリング」
「お父さん、若い」
彩はピースサインを投げてよこした。
「話をまぜっかえすもんじゃありません」と久美子。かなり怒っている。
「だってF中とG中じゃ、全然中身が違うのよ、公立なんかいったら、それこそ彩はいじめられちゃうし。この子は人一倍目立つんだから。それでもどっちだっていいっていうの?」久美子は怒りだすと怖かった。
「そんなことは言っちゃいないだろ」
達彦はそう言いながら、どうせ彩のことだ、私立が駄目なら近くの公立にいくだろうとたかをくくっていた。
「私立はF中だけしか受けないのか?」
「わたしはK中とN中も勧めてるのよ」
「やだ、あんなとこ。制服、ダサイもん」久美子はよほど腹にすえかねたのか、飲みかけのお茶を思い切り音たててすすった。
達彦は次の講義のレジュメを急いで作らなければいけなかった。同じ内容のものは二度としたくない。夫婦の寝室に使っている6畳の部屋に引っ込んだ。早く広い家に引っ越さなくては。
達彦はあっちこっちの資料の山を探し始めた。新しい話題で学生の興味をひきそうなものを探さなくてはと思う。
「夕飯のおかず何にしようか?」
しばらくして、まだ怒りのおさまっていない様子の久美子が、きつい顔をして部屋を覗き込んだ。
「なんだっていいよ」
「やっぱりF中の方がいいわよね。あそこはカリキュラムがしっかりしてるもの。英語だって、週に6時間はあるし。K中やN中じゃ、物足りないわ。今のままいけばなんとかF中をねらえるんだし」
「またその話か。もういいかげんにしろよ。本人の好きなようにさせてやりゃあいいじゃないか。K中やN中は厭だって言ってんだろ。俺はこれから仕事をするんだから、静かにしててくれ」
「なによ、人の子供のことばっかり気にしてて、自分の家の子はどうでもいいの?」
「そんなことは言ってないさ」
ララちゃんがまたピーと鳴いた。達彦は大声でララちゃんと呼んだ。またピー。
達彦は障子を開けて外を見た。隣のマンションまで、道を隔ててかなりの距離がある。
気がつくと外はかなり暗くなっていた。
久美子はもう買い物に出かけてしまったのだろうか。家の中が妙に静かだ。

日高に呼ばれて久しぶりに飲んだ。まぐろの刺身がうまい。日高はカウンターに座ると、おしぼりで首筋まで拭いた。20年も前、同じ教室で席を並べていたのが嘘のようだった。
「仕事のこと決めたのか?」
「ああ、決めた。もう断れない」
「そうか、4月からはライバルだな」
日高は軽く笑ってから、ざっくばらんな話、今の仕事どうだ、外から見てるだけではやっぱりわからないところが一杯あるし、と言った。
「だって毎日、講師連中とつきあってるじゃないか」
「予備校の仕事とは違うだろ、大学は」
達彦は曖昧に笑って、
「金の方はなんとかなるのか?」と訊いた。
「まあなんとかな……。少しだけ予備校にも出るよ。専任になるまで1、2年待ってくれって言われたし。しかし予備校だってこれから何年もつかわからない。生徒がいないし。ぼやぼやしてりゃ、こっちが年をとる。その前にはやく専任にはなっておかないと」
日高は神妙な顔つきになった。
「すぐになれるさ、そう心配するな」
「俺の実感じゃ、予備校は40までだな。今じゃもっと早くだめになるケースも多い。授業の内容だけじゃない、今の生徒が求めてるのは。言葉にするのは難しいけど、ただ授業をしてりゃいいってものじゃない。熱くなれないとだめなんだ」
「とにかくしっかりコネだけはつけておけよ」
「先輩のご忠告だ。ありがたく拝聴することにしよう」
日高は頭を丁寧に下げた。
たまにはバーへでも行こうかという日高の話にのせられてその後、新宿へ繰り出した。あちこちの店がクリスマス・イルミネーションで飾られ街全体が明るい。細い路地を幾つも曲がった。達彦は日高の後をついていった。
小綺麗なビルの4階でエレベーターは止まった。
「学生時代からの友達だ。S大の先生」日高はそう達彦を紹介した。
「あら、やだ」新しく入ったばかりだというミニスカートの女が、突然すっとんきょうな声をあげた。「あたしいつも前を通ってる」
日高は女の調子に拍子抜けしたようだった。
「1浪したけど、どこにも受からなかったの。だから専門学校に入っちゃったけど。でもS大は憧れだったの、そうなんだ、先生なんだ」
椅子が10脚もあるかないかという小さな店だった。女はS大がよほど気に入ったのか、愛想よく水割りをつくってくれた。達彦はミドリちゃんはどうしてるかとふと気になった。
「予備校にもいったのよ、あたし、先生のいるとこ」
「どのクラスにいたんだっけ?」日高が女に訊いた。
「もう忘れちゃった。たしか午後よ、授業が始まったのは。学校に行ってるより、友達と帰りにお茶のんだり、買い物行ったりして、そっちの方が楽しかったけど。あたし、小説読むのが好きでさ。文学部に行きたかったの。それで小説家になりたいなんて、本気で思っちゃったりして。若かったのよね」
女はそう言ってから勢い良く煙草の煙を吐いた。
「今だって若いよ」日高が言うと、女はまあねと軽く受け流した。
「どんな小説が好きだった?」日高が訊ねた。
「中学の頃は、あれよ、ほら。なんて言ったっけ。あのう、ほら、誰だったっけ。ほら」
女は悔しそうにしばらく宙をにらんだ。
「そうだ、誰が書いたのか忘れちゃったけど『わたしが棄てた女』っていうの。あれ好きだった」
達彦は女がそう言った瞬間、昔見た映画の場面がすっと頭の中を駆け抜けるのを感じた。
日高はどうしてその小説が好きだったんだと女に重ねて訊いた。
「なんとなくね、その頃あたし好きな人にふられたから。文庫本の背表紙を見た時、ああこれ読んでみたいなって思って。だって男の勝手な言い草でしょ、捨てたなんて、くやしいじゃない。女は品物じゃないもん」
日高はオードブルが来るまでの間、ポッキーチョコをカリカリいわせながら食べ、女と話した。どこが面白いのか。達彦には日高の気が知れない。氷の上にのせられたレーズンバターにたくさん水滴がついている。
女はそれから少し文章を書くマネをしてみたが、結局あまりに難しすぎて、作家になるのはあっさりと諦め、OLになってみたものの、退屈で仕方なく今の仕事に入ったという話をした。日高はそれに根気よく付き合い、時には笑いながら、相槌を打ったりもした。 達彦はちっとも気乗りのしない話を聞きながら、4杯目の水割りを勝手につくって飲み、かなり酔った。
日高はその間、何度もポッキーチョコを神経質にカリカリいわせた。しばらくして女が別のテーブルに行ってしまうと、日高は本当につまらない話をして時間をひどく損したという顔つきになり、急に押し黙ってしまった。
「よくつきあうな、あんな女に」「まあな」
「頭がおかしいよ、ありゃ」「面白いじゃないか」
「どこが」「おまえも年をとったな」
「そうかね。下手物趣味についていけないだけだ」
すると日高は急に視線を落として、女房がとうとう実家に帰ったんだと言った。達彦は日高の目を覗き込んだ。
「本当か?」「嘘ついてどうする」
「どうして最初に言わなかったんだ」
「言ったからどうなるってもんじゃないしな」
「そりゃそうだけどさ……」達彦はつい問い詰める調子になった。
彼女と日高の間には女の子が1人いた。達彦が結婚式の司会をしたのは、何年前のことだったか。
「子供は幾つだったかな?」「8歳だ」
「奥さんが連れてったのか?」
「ああ。俺が引き取っても何もしてやれないし」
「今ならまだ間に合うだろ」
「何度もそう思ったんだけどな」
「奥さんは実家に戻ってどうするつもりなんだろ?」
「わからん、なんにも。今のとこを処分して、金を少し作らないと」
「うまくいってたじゃないか」「そのつもりだったんだけど……」
「何が原因なんだ」
「わからん。他にいい男でもできたかな」
日高は他人事のような喋り方をした。
「冗談言ってる場合じゃないだろ」
「帰らんものは帰らんさ」日高は吐き捨てるように言った。
達彦は目の前のポッキーを一本つまんだ。しかし口に入れるのが面倒臭くなって、それをテーブルの上に放り出した。
女は別のテーブルでまたキャッキャと叫んでいる。

大学の広報誌にエッセイを頼まれた。達彦は人の文章を読むのは好きだが、書くのはあまり得意ではない。
「3月号に載せますので、すいません1月の末ぐらいにもらえますか」
学生課の男の声はひどく間延びしていた。毎月自宅に送られてくるその雑誌をペラペラめくっていると、教師連中が本当に勝手なことを書いている。
達彦は何冊か読んでからとりあえず、お茶を1杯飲んだ。
あと10日で12月も終わりだ。
どこかにポカンと穴があいている。その中を覗き込むとかなり仄暗くて深い。
達彦はペンをとった。
「人は空を飛べない。それなのに私は必ず夏と冬、空を飛ぶ。正直あまり気持ちのいいものではない。なぜか。当たり前のことだが、やはりいつか落ちるだろうからである。先日もかなり揺れた。あのジャンボ機の羽が上下に揺れるのは、あまり気持ちのいいものではない。腰が上下に動く。お茶やジュースを配っているスチュワーデスまでが、立ち往生する」
と、そこまで書いて、ひどくつまらないと思った。これならまだ新聞を読みながら講義の素案を作っている方がずっと生産的な気がする。
「おい、もう1杯お茶くれないか」達彦は居間でパッチワークをしている久美子に声をかけた。「それくらい自分でやりなさいよ」
「たのむからさ」
「そういうのが、女は一番いやなのよ」
新宿で飲んでから、もう3日が過ぎている。あの晩家に戻ってから、達彦は久美子に日高のことを話した。久美子は思ったより冷静に、理由なんかなくたって、今は経済力さえあれば別れられるのよ。日高さんの奥さんは高校の講師もやってたんでしょ。わたしなんか、食べていく手段がないからなんとなく一緒にいるけどね。わたしとたいして年が違わない筈よ。きっとほんの少しハードルを越えたっていう感じじゃない、と言った。
「そんなもんかな」「そうよ、そんなもんよ」
「子供はたまらないな」
「昔とは違うのよ。子供のために女が我慢するってことがなくなったの」
「おまえは彩の受験で狂ってるっていうのにな」
「狂ってなんかいないわよ。子供はそのうち親を捨てるもの」
「じゃあ、なんであんなに私立、私立って騒ぐんだ」
「時代よ。時代が悪いのよ」
時代か。達彦は同じ文句を呟いた。しかしなんだかわかったようでよくわからない。ついにパッチワークの手は休むことがなかった。お茶も出てこない。達彦は原稿用紙に字を埋めていくのが、なんだかばかばかしくなってきた。まだ締め切りまでには時間がある。 外に出て気晴らしでもするか。そう思うと、机に1分でも座っているのがいやになった。
「ちょっと出掛けてくる」
「夕飯までには帰ってきてよ」
達彦は何か言いたかったが、言葉を呑みこんだ。外はかなり冷えていた。風も冷たい。どこへいこうかと考えてみたものの、達彦にはこれといって行きたいところもなかった。若い頃は随分行きたいところが多かった気がするのに、年をとるにつれてだんだん行きたいところが少なくなってきた。本屋に行っても気がつくと、専門書のコーナーに立っていたりする。他にどこか行きたいところを一つや二つはつくっておかないと。
とりあえず彼はデパートをのぞくことにした。暮れの賑わいの中に自分をおけば、少しは気も晴れるだろう。幸い近くに大きなデパートが2つある。引っ越して来た頃は田舎だと思っていたが、今ではちょっとした都会になってしまった。
立体駐車場のある隣のビルに車をとめて、渡り廊下づたいにデパートの中に入ろうとすると、向こうから歩いてきた若い女があっと驚いたような表情で、思わず先生と言った。 達彦は今までにも外を歩いていて、何度か声をかけられるようなことがあった。久美子は時に厭ねという表情をするが、彼はたいして苦にもならない。たいていは大学で教えている学生よりも、以前私立の高校にいた時の教え子の方が多かった。
大学の学生はよほどのことがなければ、外では声をかけてこない。教室の中だけでの付き合いでしかないのを、達彦はむしろ小気味良いとさえ思ってきた。
ところが先生と呼ばれて、達彦はその女の顔をまじまじと見た。どこかで見たような気もするが、誰なのかよくわからない。
「覚えていらっしゃいますか?」
達彦はかろうじて顔だけは覚えていた。しかし名前は思い出せない。
「ええと、どなたでしたっけ」
「先生が辞める年に教えていただいた今野ですけど……」
まだわからない。「あの2年3組の」
そこまで言われて、なんとなく顔の輪郭が濃紺のセーラー服の上にくっついた。
「ああ、思い出した、思い出した」
「あの年、大学に行かれたんでしたよね。確か?」
「相変わらずです。まだ教えてる」
達彦はしばらくの間、そこで立ち話をした。女の目は澄んで輝いていた。デザイナーになる勉強をずっと続けているのだという。できれば外国にも行ってみたいと言った。なるほど着ているもののセンスがいい。色の使い方もしゃれている。高校を辞めてから、もう随分と日がたっていた。女はじゃ、お元気でと言いながらあっという間に人込みにまぎれてしまった。達彦はもう少し話をしてもよかったかなと後からしみじみ後悔した。
女が消えてから、急に肩の周囲が寒くなった

構内を歩いていると携帯にメールが入った。すぐ連絡して、久美子とある。達彦はちょっと急ぎの用事を終え、研究室に戻ってから家に電話を入れた。久美子がいない。かわりに彩が出た。
どうしたんだ? 何かあったのか。いまお母さん、お風呂に入っちゃった。もう少ししたらかけ直してくれる。彩もいっぱしの口をきくようになった。ああ、かまわないけど、どうだ、勉強してるか。まあね。
彩ははいつも軽い。それが達彦にとっては救いだ。F中受かりそうなのかよ。わかんない。一応やってることはやってるけど、伸び悩みね。偏差値もそんなに変わんないし。駄目だったら裏のG中でいいじゃん。公立のが気が楽。へんにお嬢さんするの、疲れるしね。お母さんはきっと怒ると思うけど。わたし、そんなに気にしてないんだ。結構不良っぽい子ともうまくやってく自信あるし。お母さんはいじめられるって言ってたじゃないか。そんなことないよ。これでも人間関係はバッチリよ。
人間関係という言葉が彩の口から出たのには少なからず驚いた。そこへ何話してるのよ、と久美子の声がからんできた。ごめんなさい、今髪洗ってたもんだから。久美子は彩を部屋に追い立てようとした。電話が時々聞こえにくくなる。どうしたんだ、なんかあったのか?
実はね、さっきおばあちゃんから電話があったの。久美子はいつもより少し声を低くした。彩に聞かれたくないようだ。今日の1時に麻子さんがなくなったんだって。
達彦はしばらくの間、口を開けなかった。死因は何だって? 何も言ってなかったわ。母には死因などどうでもよかったのだろう。叔母がいなくなるということの方にむしろ意味がある。
久美子は自分の係累にそんな叔母がいるというだけでも迷惑だという声を出した。葬式は明日か。そうみたいね。お義兄さんもいくのかしら。そりゃそうだろう。そんなことよりうちに香典袋あったか。何言ってんのよ、縁起でもない。自分で買ってきてよ。
電話を切ってから、達彦はソファに腰を下ろした。麻子叔母さんが死んだか。確かに親父の妹には違いなかった。祖父が脇ではらませた子だ。幼い頃から人とは違うおかしなことを口走っていたらしい。麻子をうんだ女はその後しばらくして死に、家具職人だった祖父が仕方なく引き取った。
麻子叔母さんは人目につかないように、こっそりと病院に入れられてしまった。達彦にはだから殆ど叔母についての記憶がない。幼い頃、なにかそんな人がいたという程度だった。血はつながってないのよ、と母はよく兄と達彦に言ってきかせた。だからおまえたちは何も心配しないで結婚をし、子供をたくさん持ちなさいと母は言外に言っていた。死んだか、とうとう。

「おまえと会うのも正月ぶりだな」
兄は達彦と6歳違う。頭に幾分白いものがまじり始めた。「これで俺達の仕事は終わりだ。親父も送ったし、麻子叔母さんも送った」
達彦は兄の言う通りだと思った。兄はそれ以上言わないが、あとは母親だけである。病院の近くの寺で営まれた葬式は質素なものだった。世間には誰にも知られたくない死者もいるのだ。祭壇には花がしつらえられ、看護婦や身の回りの世話をしてくれていたヘルパーたちが何人か焼香に来てくれた。
「おまえは叔母さんのこと覚えてるか?」兄は読経が終わってから、達彦に訊ねた。
「なんとなく、いたかなっていう感じだけだよ、覚えてるのは」
「そうだろうな。おまえはまだ小さかったから。俺ははっきり覚えてる」
「話だけは聞いたことがあるけど」
「あの頃は大変だった」
「さっき顔見ても記憶がないから、あんまり実感がなかった」
達彦は柩に入れられた叔母の顔をあまりよく見なかった。しばらく何も言わずに見詰めていたのは母だけだった。涙も流さずにただじっと見ていた。
「俺はよく覚えてるよ。あのまま年をとったんだなってしみじみ思った」
達彦にはそう言われても実感がなかった。
「義姉さんとはうまくいってる?」
「まあまあだ。あいつもあれで結構気の強いところもあるが、馬鹿じゃないからなんとかな。おふくろさんも最近は折れることが多いし……」
その日の午後、麻子叔母さんは骨になった。
兄の運転する車は首都高速から、環状線に入った。
「仕事の方はどうだ」
「好きなようにやってるから」
母は骨になった叔母を抱きながら終始無言だった。。

「どうだった?」久美子が何を訊こうとしているのか、達彦にはよくわからない。
「どうってことないさ。今日は親父の位牌の隣で叔母さんも寝るんだろ」
「おじいちゃん、安心したかしら」
「そうかも知れん。だけどまた近くにやってきたんで、迷惑そうな顔してるかもな。もう勘弁してくれって」達彦は軽い調子で言った。
「何のために生きてたのかわからないみたいね」
「何十年も檻の中にいたんだからな」
「納骨はいつ?」
「わからない。兄貴とおふくろにまかせといた。俺が行くこともないだろ」
夕飯を食べてから、急に眠くなった。疲れが出たのかも知れない。大学から戻って、すぐに寺を訪れたのだ。無理もない。それに昼、少し酒を飲んだせいか、身体がだるくなってしまった。
「お母さん、爪切りない?」
彩が居間に入って来た。
「夜になんか、爪切っていいの」
「関係ないわよ、そんなの。ただの迷信。お母さん、ちょっと最近ヘンよ。隆もこの前そんなこと言ってた。ねえ隆……」
「それは隆がちゃんと漢字の宿題をやらないからよ」
「やっても怒るよ」隆が口をとがらせた。
「みんなこのうちのせいよ。あなたたちが皆お母さんの言うことをきかないからです」
久美子は断言するように言った。
達彦はグラスに残ったビールを呑み干してから、布団を敷きに部屋に入った。
はやく眠りたい。

久しぶりに新宿まで歩いた。地下鉄の工事が道を縦横に切り刻んでしまっている。地下水を汲み上げるポンプや、クレーンが道路をふさいでいてかなり狭い。彼は時に気が向くとこの道を歩いた。蔦のからんでいた古い病院もいつの間にか消えて、しゃれたレンガ張りの高いビルになってしまっている。新宿のネオンがまぶしかった。マフラーの隙間から冷たい風が忍び込んでくる。
達彦はこのまま電車に乗って帰るのが何かもったいない気がした。まだ夜が始まったばかりである。日高を呼び出して、あれからどうなったのかを訊いてもみたい。この前行ったバーはどこだったか。確か狭い路地を幾つも抜けた。酔っていたせいか、あまりよく覚えていないが。
「どうだ、出てこられるか?」
日高は授業を終えたばかりのところだった。
「今日は無理だ。今年の予想をしなくちゃならない。これから会議だよ」
「そうか、最後のご奉公っていう訳だ」
「まあそんなところかな。この前言えなかったこともいろいろ聞いてもらいたいが、また今度にしよう」
達彦は携帯のボタンを押すとそのまま、街道を渡って裏通りに続く階段を降りた。パチンコ屋が軒を並べ、その一画だけ妙に明るい。軍艦マーチが歩道を占領している。ポルノ映画のどぎつい看板が目に入った。いくつも横町を曲がった。路地のつきあたりを抜けて、別の小道に入った。

その店は入り口に誰も客引きが立っていなかった。まだ時間が早いからか。原色のネオンが何度も点滅を繰り返して、店の名前を引き立てている。達彦はフラリと中へ入った。まるで何かに吸い込まれたかのようだった。
入り口でご指名はありますかと訊かれ、達彦はぶっきらぼうに、ないと答えた。自分でも驚くほど素っ気ない言い方だった。待合室でテレビを見ながら、女がくるのを待った。不思議と静かな時間だった。時代劇のシーンを目で追ってはいるものの、心はそこにない。
「お客さん、なんか飲む?」女は部屋に入るなり、そう訊いた。
「いや、いい。喉はかわいてない」
達彦はいつもよりずっと愛想がなかった。女は真っ赤なガウンを着ていた。いくつぐらいか、年はわからない。24、5というところだろうか。いやもう少しいっているかも知れない。
「身体洗ってあげる。脱いで」
言われるままに、洋服を脱いだ。ネクタイをとり、シャツのボタンをはずし、ズボンのベルトをゆるめた。
「お客さん、サラリーマンね」
女はガウンを脱いで、風呂の湯加減をみながら言った。横から見ていると、乳房の形がほどよく整っていて美しい。
「ああ、そんなとこだ」
「最近サラリーマンの人ばっかり」
女は一人で納得したように頷き、こっちへきてと彼を湯船の近くに招き寄せてから、身体を擦り寄せるようにして洗ってくれた。背中から足や腰、下腹部までを細い手が動き回り、乳房のふくらみが背中を這った。彼は特に頼んで頭を洗ってもらった。
こんなこと普通しないのよ。床屋じゃないんだからと言いながら女はひとりで笑い声をあげ、頭から何度もシャワーをかけた。前にまわって洗髪してもらっている時、両方の乳首を手で軽く触ると、女はくすぐったそうな表情でやめてと叫んだ。
頭の芯が軽くなった。疲れがとれていく。
「お客さん、どうする?」
「なんでもいい」
「マットでもういちど洗ってあげようか」
「なんだか、くたびれそうだな」
「疲れてんだね。じゃあ少しお酒あげる。本当はいけないんだけどさ」
女はそう言うなり、タオルの入っている戸棚をあけ、そこからウィスキーの小瓶を出した。「ストレートでいいよね。マネージャーに言わないでよ。これあたしのなんだから」
「すまないな」
「いいの、お客さんが来ない時、暇つぶしに時々自分でやる分だから」
女のついでくれた酒を喉の奥に投げ込むと、胃がかっと熱くなった。血が身体中から一気に噴き上がってくる。
「いろんな客が来るんだろう」
「来るよ、いろんな人。でもみんなおんなじ」
女は自分でおかしくなったのか高い声で笑った。
「厭な客の時はどうするんだ?」
「こっちも仕事だからね、なんとかうまくやるけど……」
「仕事か」「お客さんはのんでから来たんじゃないからいいけど、酔っぱらってる人は厭よ。くどいしさ」
「少し触っていいか?」
「胸だけならいい」
女はバスタオルをとって、達彦の前に身体を投げ出した。彼はしばらく乳房のふくらみをもてあそんでから、乳首を吸った。女はくすぐったいと言いながら、無理に引き離そうとはしなかった。達彦はその行為に熱中した。足を開いて女の身体を挟みつけるようにした。体温が足の内側から次第に伝わってくる。懐かしい温もりだ。しばらくしてから寝てちょうだいと女に言われ、達彦はそのまま横になった。
彼は女を目の前で見ながら果てた。広い草原が見えた。白い雲が浮かんでいる。
達彦は湯につかりながら、しばらく放心していた。
「お客さん、来た時より、少し血色がよくなったみたい。さっき青い顔してたよ。なんだか幽霊みたいだった」
「そうか、そんなに顔色悪かったか」
「うん、なんだかね。でも気にしないで。今いい色してる」
風呂から上がると女は肩と腰を揉んでくれた。
「サービスいいな」
「そう、よく言われる。あたし結構力あるのよ」
「もう長いのか?」
「ううん。そんなでもない」女は語尾を濁した。
「1日おきぐらいに出てるから、気が向いたら来て」
達彦はそれから言われた金を払い、服を着た。上着がいやに重い。ネクタイをしめるのはやめにした。これ持ってってと帰りに渡された名刺には女の名前が小さく印刷されていた。
店を出た。達彦は横町を曲がると、すぐにその紙を道端に捨てた。もう来ることはないだろう。それは確信に近かった。髪がまだ濡れている。
風に吹かれると寒さがいっそうしみた。酒を呑みたい気もしたが、身体の芯がもうどこかに吹き飛んでしまっていた。眠い。街道を渡り、達彦は地下道に入る階段を目ざした。 入り口にさしかかると、どこからか異臭がした。ものの饐えたような厭な匂いが温まった空気にのって運ばれてくる。案の定、階段を降りきったところで、ダンボールにくるまった男たちが車座になって酒盛りをしていた。垢で汚れた首筋、抜けた歯、長い間手入れをしていない髪。達彦は一瞬吐き気を覚え、その男たちの脇を足早に通り過ぎた。
電車に乗っても厭な匂いが身体に染みついているような気がして、彼は手のひらの匂いを何度も嗅いだ。しかし石鹸のほのかな香りしかしない。
身体の中にはまだ女がいる。

彩がF中の試験に落ちた。久美子は合格者名簿の中に娘の名前がなかったことが、まだ信じられないようだった。
「発表を見にいったわたしの気持ちを察してよ」
「しょうがないじゃないか。落ちちゃったんだから。みんな思うように入れるわけじゃないんだ」
「人のうちの子なんてどうだっていいのよ。彩よ、問題なのは。あれだけ頑張ったのに」
「試験できなかったって言ってただろ」
「そんなことないでしょ、あなたの子だもの」久美子の言い方には皮肉が混じっていた。
「いいよ、もう。俺はしつこいのは嫌いだ。それより彩はどこへ行ったんだ」
「友達のとこよ、他にも落ちた子がいるんだって。二人で今頃慰めあってるんじゃないの」「それだけ元気がありゃ立派なもんだ。K中の発表だってもうすぐだろ」
「あそこは受かるでしょ。ずっとやさしいんだから」
久美子は厭がる彩をなんとか説得して、K中だけは受験させていた。
「わからんぞ、試験はそう甘いもんじゃない」
「そんなもんかしら」
「よし、今日は俺が奢るよ。彩が帰ってきたら、どっかレストランへでも行くか。うまいステーキでも食おう」
「あなたはいつも暢気ね。どこにそんなお金があるのよ。あったらちょうだい。いつだってまるで他人事みたいなんだから」久美子は半分呆れたような顔をした。
彩は日が暮れてから帰ってきた。玄関でララちゃんがピー、ピー鳴いている。冬の間だけベランダから玄関に夜、引っ越しさせた。外は寒い。残念だったなと達彦が慰めると、しょうがないわ、あんまし勉強しなかったんだからと言った。
「結構やってたように見えたけどな」
「だって難しかったんだもん、試験が。学校でも4人しか受かんなかった」
「そうか、あそこはやっぱりな」
彩にはどこか、自分に似たところがあると達彦は思う。諦めるのが妙に早い。
「今まで一緒に落ちた子のうちにいたのか?」
「ううん、そのつもりだったけど泣いてばかりいるから、やめちゃった」
「じゃ、今までどこにいたのよ?」久美子が話に割って入る。
「どこでもいいじゃない。ヒミツ」
久美子は彩の言い方にまた腹をたて、それからしばらくの間怒りを隠さなかった。こんなに心配してるのにどうしてあなたはそう暢気でいられるの。この家の人はどうしてこう何にも感じないの。私だけが一人で心配してるなんて馬鹿げてるわ。もう厭。
達彦は嵐がおさまるまでの間、机のある部屋へ逃げた。やはり引っ越しをしよう。少し広い所を探そう。机も変えて、そこに新しい電話機を置いて。脇机も買えたら、そこに最新のパソコンも揃える。そうすれば新しいテーマを検索するのも楽だろう。これからは先行投資が必要だ。俺の城を早く作らなくちゃ。窓の外は真っ暗だった。自分の顔が窓に映る。額だけが妙に脂ぎっている。玄関でララちゃんが何度もピーと鳴いた。
達彦はその声を聞きながら、ふっとララちゃんのために冬用の家を作ってやろうかという気になった。朝日があたれば、それをすぐに感じることのできる風の抜けない暖かい、家を。玄関に置いておいたのでは、いつ朝が来たのかさえわからないに違いない。
今の鳥籠の外側にもう一つ囲いをつけて、一日外に出しておけるような家をつくってやろう。昼は覆いをとれば陽が燦々と注ぎ、寒い時には風と雨を避けることのできるようなやつ。彼はその考えにしばらくの間熱中した。そのための材料は近くの店で揃えればいい。大学の休みの間に作ってやることができれば、ララちゃんはもっとゆっくりと陽を浴びていられる……。

外出先で携帯が鳴った。
久美子の声が弾んでいた。受かったわ、K中が。やっとよ。今ちょっと前に電子郵便がきたの。すぐ知らせようと思って、こんな時、どこに行ってるの。学校じゃないでしょ。そうか、彩はどうしてる。どっか行っちゃってて、まだ帰って来ないわよ。いったいどうしたのかしら、あの子。最近おかしいわ。好きな男の子でもできたのかしら。何訊いても本当のこと言わなくなっちゃったし。それだけ大人になったんだ。しょうがないじゃないか。またそんなこと言って。おまえにだって少しは覚えがあるだろ。どんどん親なんか捨てていかれるんだ。おまえ、この前、そう言ってたじゃないか。冗談じゃないわよ。まだこの後も勉強してもらわなくちゃ。そう簡単に引き下がる訳にはいかないんだから。   隆だっているしな。達彦はわざと久美子をけしかけた。しかしこの前の調子とは大分違う。そうよ、まだ10年や、15年は遊んでられないわ、あなたも頑張ってよ。
この先、15年も人を相手にする仕事はしたくないと達彦はその時思った。俺はこの商売に入ってからますます人嫌いになっている。
今度の休みに動物園にでもいかないか?
久美子は何を言い出すのかといった調子で、どうしたのよ急に、と軽くあしらう風をみせた。なんとなく動物でも見たくなってさ。いつも幸せよね、あなたはいいわ。そんなことよりどっかレストランにでも連れてってよ。今度は本当のお祝いだから、わたしもワインくらいのむわ。彩もきっと喜ぶでしょ。あいつはK中に行く気があるのか、ほんとに。行くでしょ、そりゃ。公立なんかに行くよりずっといいわよ。先生がおざなりじゃないもの。そりゃF中より格は落ちるかも知れないけど、公立なんかとは比べものにならないし。そんなもんかな。あなたは一番学校の内情をよく知っているくせに、いざとなるとすぐタテマエばかり言うんだから。そういうとこ嫌いよ。わかったよ、おまえの好きにすりゃいい。
また金がかかる。しかしどんなことがあっても引っ越しの金だけには手をつけたくない。携帯のスイッチを切ってから、窓越しに外の風景を眺めた。
遠くで救急車の音がした。誰かがまた事故にあったのだろうか。

久美子から再び電話が入った。今さっき、彩が帰ってきてね、K中に行かないっていうのよ。今まですったもんだやってたんだけど、どうしても厭だって言うの。あなたからなんとか説得して。お父さん、わたしいやだからね。彩がすぐに出た。久美子との間でかなりやりあったのだろう。口調がかたい。せっかく受かったのにもったいないじゃないか。おまえはいいのか、それで。だって初めから度胸試しのつもりで受けたんだもん。お母さんがあんまりうるさいから、それもいいかなと思って。でもやっぱりやだ。わたしG中がいい。皆行くんだもん。一人だけ遠くに行くのはやだ。学校中で行くのはおまえだけなのか。ううん、そんなことはないけど、わたしの友達は誰もいないの。わかったよ、そんなに厭ならやめろ。無理してまでいくことはない。ちょっとお母さんにかわれ。
久美子は怒っていた。どうしてあなたは子供の言うことをそう簡単に認めちゃうのよ。どうしてそうなのよ。わたし厭よ。せっかく合格したのに。あの学校だって随分たくさん受けたのよ。なかなか受からないんだから。あんまり簡単にOK出さないでよ。
久美子の声がまだ耳の中で反響している。

真っすぐ家に戻る気がどうしてもしなかった。帰れば親子喧嘩の仲裁役をしなくてはいけない。いずれ結論を出さなくちゃいけないだろうが、最後は久美子が折れるという筋書になるか、それとも粘りに粘って彩がいうことをきくか。結局はどっちだっておんなじことなのに。一喝して、たまには父らしいところをみせるか。
日高と一杯やろう。それくらいしか俺にはもうない。その前に、ララちゃんの家のために材木や、ビニールを買わなくては。すぐだめになるのではかわいそうだから、頑丈なやつを作ってやろう。そのために少しの出費は覚悟しないと。
達彦は山の手線に乗り換え渋谷で降りた。材料を買い込むという目標ができて、少し気が楽になった。
日高はすぐにつかまった。「あとで会えるか?」
「今日は暇だ。俺もちょうど一杯やりたいと思ってた。いろいろと話したいこともある。実は女房が帰ってくるかも知れないんだ」
詳しい話は後で、と言いながらもどことなく日高は嬉しそうな声を出した。よかった。本当にそうなればなによりだ。
駅を出ると大きな看板ばかりが目についた。とりあえず坂を上ろう。材料品の専門店を幾つか覗いて、気にいったのがあったら買う。ララちゃんの新しい家だ。ていねいにつくってあげないとかわいそうだし。
達彦は悪い気分ではなかった。
限られた休日とはいえ、冬休みが確実に目の前に横たわっていた。その間は誰に気兼ねをすることもないのだ。達彦は通行人がいなければ、大きな声をだしたかった。気持ちが軽くなっていく。彩の受験がどうなろうともう知ったことじゃなかった。何もかわらない。そんなことでかわる訳がない。
喉が渇いた。どこかでコーヒーでも飲みたい。しかしあたりに落ち着いた雰囲気の店はなかった。人が怒ったように急ぎ足で歩いている。寒いせいだけではない。達彦は襟巻をもう一度オーバーの中に押し込めた。
パトカーがけたたましいサイレンの音をあげて、道を通り過ぎていく。タクシーが脇に避けるのももどかしそうにその場で停車する。続いて2台、覆面パトカーもいる。なにか事件が起きたのだろうか。しかし通行人は無関心を装って立ち止まろうともしない。もう馴れてしまっている。
達彦の脳裡にふっと麻子叔母さんの横顔が浮かんだ。どんな顔つきだったかはっきりと覚えている訳ではない。ただひっつめにした髪だけを思い出す。あれはいつのことだったか。ほら達ちゃんも嘗めるとアイスクリーム片手に叫んだ顔が、そこだけストップモーションのように出てくる。ほら、達ちゃんも嘗めなよ。
派手な色のオーバーを着込んだマネキンが、意味ありげな表情でエスカレーターに乗ろうとする達彦を見ている。目を半ば閉じ、手は宙をさまよっている。あの時の顔だ。麻子叔母さんの顔だ。あんな顔をして叔母は俺を見た。その時なぜそこにいたのかということさえ、何も覚えていないのに、表情だけははっきりと焼き付いている。あれから僅かで叔母は入院してしまったのだ。その後のことは何も思い出せない。
墓参りを一度ぐらいはしてやらないとな。おふくろがいなくなったら、誰も思い出すものはいなくなるし、それじゃあんまりかわいそうだ。
4階まで上ると、階段の脇に静かな喫茶店があった。大きなガラスの向こうに渋谷の街が見える。夕刻が次第に迫ってくる。さっきまで明るいと思っていたのに、もう暮れなずみ始めている。太陽の光が弱い。人が駅に向かって放射状に流れていく。
ケーキとコーヒーが運ばれてくるまでの間、達彦は弱くなっていく太陽と、人の流れだけをぼんやりと眺めていた。不思議と飽きない。いつの間にかネオンがつき始めた。
少ししたら日高とうちあわせたいつもの呑み屋へ行こう。
外でケーキをたべたりするのは本当にひさしぶりのことだった。いつもならコーヒーだけで十分だった。久美子は時々気が向くとアップルパイやケーキを焼いた。それもなかなかうまい。俺は案外暢気にやってる。確かに久美子の言うとおりかも知れない。あなたぐらい幸せな人はいないわよ。
ララちゃんの家のために材料を買い込むのは次の機会に譲ることにした。このままタクシーに乗って呑み屋へ行く。なんだか電車に乗るのが面倒になった。音楽が頭上を流れていく。バイオリンの響きが耳に心地よかった。
それから1時間以上、達彦はデパートの中にいた。外に出るともう暗かった。タクシーをつかまえようとしたものの、すぐ目の前で止まらない。達彦は電話ボックスの脇でしばらく空のタクシーを探した。しかしなかなか止まりそうもない。諦めて駅まで戻った方が早そうだった。電話ボックスの中にいた男が達彦の顔を見ながら、外に出てきた。ふいにボックスの中が空になった。達彦は何の気なしにその空いた箱を覗き込んだ。
携帯を取り出す。もしもし、どうしてる。今日は遅くなるからな。それだけ言って切るつもりだった。すると電話には彩が出た。あっ、お父さん大変なの。隆がうちの前の樹から落っこちたの、ついさっき。今お母さんが救急車で一緒に乗って行ったわ。なんで連絡してこないんだ。そんな大事なことを。
彩の声は半分震えていた。
いいから落ち着いて話せ。
あのね、そばにあったゴミ箱におなかぶつけてから、そのまま下に落っこちたの、ついさっき。達彦は急に自分の身体がしんとなる音を聞いた。
いつも隆がのぼってる樹があるでしょ。あれでずっと遊んでたらしいんだけど、なにかの拍子に落ちたのよ。突然大きな声で誰かに下から呼ばれて、すぐにお母さんが降りてったけど、じっとうずくまっているだけで。
隆は泣かなかったのか。うん、よくわかんないけど。それですぐに救急車を呼んで、そのまま病院に行っちゃった。どこだ、その病院は。こっちから連絡するからって。そのまま私には待ってろって言って。そうか、それから電話はないんだな。うん、病院に着いたらすぐそっちに電話すると思うけど。
樹から落ちた時泣かなかったというのが気になった。腹を打っているらしい。すぐに帰る。おまえはうちで待ってろ。途中でもう一回電話する。お母さんからこっちにかかってきたら直接病院へ行くから。うん、わかった。今どこ? 渋谷だ。駅前だ。すぐ電車に乗るから。
達彦はそのまま交差点に突っ込んでいきたかった。赤の信号がもどかしい。ばかなやつだ。あれほど注意しろといつも言っているのに。なんでまた落ちたりしたんだ。身体が内側から熱くなった。改札口まで走ってはみたものの、電車はいつもと同じように動いている。ドアのそばに備え付けられた液晶テレビには、タレントの顔が何度も映った。天気予報は明日晴れだと告げている。
新宿に着いてから、日高に電話を入れることを思い出した。すまないな、そういう事情で今日はだめだ。達彦の頭の中を断りの文句が走る。奥さんが帰ってきたら大事にしてやれよ。娘さんもな。
特急の時間が迫っていた。家に電話をする暇もなく、ホームを駆け降りる。電車の中はもう乗客で一杯だった。こんなところで携帯がなったらいやだな。額にうっすらと汗が滲む。あと1分で発車しますの合図。車掌の声がいつもより上ずって聞こえた。
達彦は後から人に押されながら、急に醤油味のラーメンを腹一杯食いたくなった。

2002-08-11(日)

鳥の影

中原さんと知り合いになったのは、ふとしたことがきっかけだった。
ある日、庭に咲いていた花を一人の男が見ていた。綿のズボンに無地のシャツを着て、いかにも散歩をしている途中という風情だった。それが中原さんだった。
彼はふっと居間に座っていたわたしを見た。そしてごく自然に頭を下げた。わたしは一面識もない人に挨拶されて、少し戸惑った。はじめその人は何か落ちていたものを拾おうとしたのかと思った。
彼の視線の先には、つい先日園芸店で買ってきたばかりのサフィニアがあった。ちょうど見事に咲いているところだった。いぜん植えたことのあるペチュニアと同じ種類らしいが、花が幾らか小ぶりで愛らしく、値段も手頃のわりには長く楽しめそうだった。
店の人の話では、伸び過ぎた枝を切ってしばらくすると、また花が咲くという。以前ペチュニアを栽培したとき、枝がどんどん伸びて汚らしくなったことを思いだし、ちょっと訊いてみたのだった。
店員はペチュニアよりこっちの品種の方がずっといいですよ、色だって鮮やかだしとしきりに勧めた。それで十株ほど試しに買ってみる気になった。
いつの頃からか、庭をいじるのが休みの日の仕事になった。何も考えずに土を掘って肥料を足し、そこに種をまいたり、苗を植えたりしていると不思議と心が安らぐ。仕事が立て込んでくればくるほど、わたしは土の上に立ちたくなった。
サフィニアの他には、ゼラニュウムが一面に咲いていた。真っ赤なのもあれば、幾らかピンクがかったのや白いのもある。まさに色とりどりだった。いずれの花も手間があまりかからないわりに、たくさん咲く。わたしはつとめてゼラニュウムを花壇の周りに植えるようにした。
彼は目できれいですねと囁いた。そして微笑んだ。それからしばらくして中原さんは坂を下り駅の方へ歩いていった。わたしはコーヒーを飲みながら通りを眺めた。だが彼は後ろを振り返る様子もなく、そのまま坂を下りていった。

二度目に中原さんに会ったのは、偶然床屋でだった。彼はわたしの座っている椅子の隣に腰をかけていた。髭を剃ってもらっている時には全く気がつかなかったが、椅子が元の位置に戻った時、ふっと互いに視線があった。中原さんはすぐにわたしのことがわかったらしく、あっと大きな声を出した。わたしは驚いて隣の席に目をやった。彼は鏡越しにわたしを見つめながら、ぺこりと頭を下げた。
穏やかな目だった。
「先日はどうも……」中原さんはごく自然に話しかけてきた。
「いやあ、こちらこそ」
「いい庭ですねえ、おたくのは」
「いえ、それほどでも……」
「いや、あれだけにするのは大変だ」
「時々暇にまかせていじってるだけです」
わたしは自分のつくった庭を褒められて悪い気はしなかった。
「このお近くですか?」
「駅の向こう側の団地に引っ越してきたばかりなんです」
どうりで見かけたことのないはずだった。
「この前はどうして……」
「ああ、あの日はなんだか妙に朝早く目が覚めちゃいましてね。それでちょっと散歩しようかと」
「……そうでしたか」
「あんまり花が見事に咲いてたものだから、ついみとれちゃいました。確かあれはインパチェンスでしたよね、あの真っ赤なちっちゃいのがたくさん咲いているやつ」
「ああ、ニューギニアインパね」
「あれはインパチェンスとは違う品種なんですか?」「いや、同じです」
中原さんは花が好きなようだった。
「ここは空気がいいでしょう」
「前に住んでたとこに比べたら、ずっといいです。朝もどことなくあたりがひんやりしていて、森の匂いがしますし……」
「気にいりましたか?」
「ええ、すっかり」中原さんは力をこめて言った。
わたしの家の裏側にはゴルフ場があった。そのせいもあってか自然林が丸ごと残されている。東京の中では珍しいくらい空気が澄み、野鳥がたくさんいた。
「わたしもそのうち、ベランダに花でも植えたいです。まあ引っ越しの片づけが一段落してからですけど」中原さんが言った。
「花はいいですよ」わたしは思っているままを口にした。
「これからもいろいろと教えて下さい」
「とんでもない、こちらこそ。これも何かのご縁ですから」
「わたし、中原といいます」「瀬野です」
「この前ちょっと表札を拝見しました」
「ああ、そうでしたか」
それから十分程して、中原さんが先に店を出た。
ドアのところで、また折りがありましたらと彼は頭を下げた。

駅前から続くだらだらした坂をしばらくのぼると、マンションが幾つか見えてくる。それがやっと途切れたあたりに、家並みがあった。その最初の角から二軒目がわたしの家だった。表札にはわたしと義父の姓が並んでいる。いわゆる二世帯住宅と呼ばれるものだった。
有子の父が一緒に住まないかといってきたのは、かれこれ三年ほど前のことだ。わたしはどちらでもよかったが、いずれ一人娘の夫としては、そんなことがあるかもしれないという腹積もりだけは持っていた。
気をつかったのは、わたしよりもむしろ有子の方だった。本当に平気かしら、かえってうまくいかなくなっちゃったらどうしよう、と彼女は何度も口にした。そんなことは自分次第でなんとでもなるだろ、きみの親にしたって実の娘なんだから、とわたしが言葉を足すと、そうよ、そうよね、なんとかなるわよね、と妻も少し気を取り直して元気になった。
義父が住んでいた家を売って、それに退職金の一部を足し、それでも足りない分はローンを組んで、わたしが払うことにした。
瀬野と澤口という二つの名前を見ていると、やはりそこには三年間の重みがあるように思う。どこに住むかを決め、実際に工事を発注するまでには、約半年かかった。その間ああでもない、こうでもないとやりあい、やっぱり一緒に暮らすというのは厄介なものだ、としみじみ感じた。
わたしが工事の前に願ったのはただ一つ、少しだけ庭をいじらせてくれということだけだった。幸い、自分の好きなようにやってくれと義父に言われ、前から欲しかった紫木蓮を注文して玄関の脇に植えた。この木には特別の思い入れがあったからだった。
わたしの生まれた家にはずっと以前から、白と紫の木蓮が一本づつあった。門をあけるとすぐ右手に二本の木が立っているのを、物心つくはるか昔から見てきた。
春先になると、庭の隅に植わっている沈丁花がまず特有の匂いを放つ。それにつられるようにして、二本の木蓮が大きなつぼみをふくらませ、やがて花がふきこぼれるようにして咲いた。
だから今の家をたてると決まった時、最初に約束をしてもらったのは玄関のわきに木蓮を植えるということだった。幸いといっては語弊があるが、義父はあまり植物に関心のない人だった。根っからの技術屋のせいか、暇があれば通信関係の本や、時に翻訳を頼まれる技術情報に関する本に目を通していた。
家は真ん中から二つに分け、玄関も別にした。一日に一度だけ夕飯を一緒に食べるのが、二世帯になってからの唯一の決まり事と言えた。娘の亜矢は時に塾やクラブで遅れたりすることもあったが、おおむね七時から八時の間に、わたしを除いて集まった。

家に戻ると、妻の有子はでかけていていなかった。
庭の花が風に揺れていた。土がひどくかわいている。わたしはすぐに水道の蛇口をひねった。ホースの先についている器具を散水用にして、水をまいた。しばらくすると土が湿り気を帯び、匂いがかわった。濡れた葉の一枚一枚から、したたるように落ちるしずくが陽をはねかえした。木蓮の根元にもたっぷりと水をふくませた。
風が心なしか、涼やかになった。

中原さんがひょっこりと顔を出したのは翌々週の日曜日だった。わたしは午後、花に肥料をやっていた。「お久しぶりです」
彼は大きな帽子をかぶって、門の脇に立っていた。
「ああ、どうも。先日は」わたしは頭を下げた。
「あれからいろいろと忙しくて。もう一度お庭を拝見したいと思いながら、なかなかうかがえませんでした」
わたしはなんと返事をしていいのか、少し迷った。特に親しいという訳でもなく、ただ花を見たいという人に対して、どんな態度をとればいいのかよくわからなかった。
「これ、つまらないものですが……」
中原さんは袋に入った包みを出した。とんでもないと辞退すると、そんなたいそうなもんじゃありませんから、と彼は首をふった。
「女房の実家から送ってきたもんなんです。山形の漬け物です。お口にあうかどうか」
中原さんはそう言って、わたしの前に包みを差し出した。
「あれからやっと片づけが終わったもんですから、花を何鉢か買いまして、ベランダに置いてみたんです。やっぱり瀬野さんのおっしゃるとおり、いいもんです。居間から外を見ても、なんとなく落ち着いて……」
「そうでしたか。それはよかった。花は何を?」
「ええ、とりあえず安いマリーゴールドを幾つも買って。あとはこれからゼラニュウムをやりたいです。なにしろ丈夫ですから」
「ゼラニュウムなら、うちのを持ってってください。ベゴニアもよかったら」
「いやあ、そうですか、それはありがたい……」
わたしは庭のを少し掘って、苗を袋に取り分けた。中原さんは、恐縮したようにじっとわたしの手元を見ていた。
株分けが一段落すむと、急に喉がかわいた。わたしは中原さんに何か冷たいものでもと思い、居間に上がってもらった。
有子は一面識もない人があらわれたので、最初少し戸惑ったようだった。しかしわたしが事情をあらかじめ話していた人だと知ると、中原さんの人柄のせいもあるのだろうか、すぐに打ちとけて話し始めた。彼はどうもお手を煩わせちゃってすいません、奥さん、すぐにお暇しますからと恐縮しながら、庭を見て、いいですねえとしみじみ呟いた。
「わたしもこんな広い庭のある家にいつか住めたらと思ってはいるんですが、なかなか……。もっと遠ければなんとかなるんでしょうけど、あんまり仕事場から離れても大変ですし」
「おつとめはどちらまで?」有子が訊いた。
「信濃町なんです。朝、新宿までが一仕事で……」
「毎日こみますからね」有子が相槌を打った。
「こっちへ来る前は勤め先に近かったんですけど、なにしろ家が手狭になっちゃって。子供はだんだん大きくなるし。うちは男と女なもんですから」
中原さんは、自分から引っ越してきた理由を説明した。
「お子さんはおいくつで?」
「上が中三の男で、下が中一の女なんです」
「この時期に転校するのはね……」
「ええ、かなり悩みました。子供はどこにも行きたくないっていうし」
「そうですよね、進学のこともあるし」
有子は子供の話になってから、急にいきいきし始めた。中学二年の亜矢のことではかなりまいっている。他人事ではすまなくなるようだった。
中原さんの喋り方にはほんのわずか東北なまりがあった。二人とも山形から出て来た人なのかもしれない。わたしは勝手な想像をしながら、自分はどうして何度か会っただけの人を家にあげて、お茶をだしているのだろうと思った。
中原さんはコーヒーを飲み終わると、どうもごちそうさまでしたとていねいに礼を述べた。有子は彼が帰るなり、面白い人ねと言った。
「なんだか不思議な人だ。ふつう、あんな漬け物なんか持ってわざわざ訪ねてくるもんかな。いちど床屋で一緒になっただけだしさ。ついこっちもつられちゃってあれこれあげたけど、いつもの自分じゃなかった気もする」
「そういわれてみるとね。でもいいじゃない。それで喜んでくれるんだったら」
「まあな。……でも」
「でも、何?」有子が訊いた。
わたしは何と答えたらいいのかわからず、再び庭に立った。
蛇口をひねり、水をまいた。たっぷりと水が地面にしみこんでいくのを見とどけてから、居間に戻った。
中原さんが現れてからの自分は、いつもと明らかに違う。

兄から電話があった。父の具合がまた悪いらしい。三年前に癌で胃を四分の一ほど切り取ってから、父は確実に弱っていた。本人には胃潰瘍だと言ってあるが、ひょっとすると既に気づいているかもしれない。
手術した直後は随分よくなったようにも思われた。だが一年半後に再び入院し、それからめっきり具合が悪くなった。その後、老衰も重なってか、なかなかよくならない。母が元気でいるから、まだ少しは安心もできるが、これで母も倒れるようなことがあったらどうなるのか。
だが二人でいられる間は、兄も母を引き取るつもりはないようだった。母にしたところで、息子の嫁に気をつかうのはやはり厭だろう。ひょっとすると動けなくなるまで、一人で暮らしたいと言い出すかもしれない。
兄は少し疲れているような重い声を出した。
「もう一度、入院するしかないな」
「かわいそうだよ」わたしは父の痩せた顔を思い出した。
「しょうがないさ。なんだか夜も苦しいらしくて。最近何度も目を覚ましてるって、おふくろが言うし……」
この前実家に行った時には、そんなことを何も言ってなかった。とするとあれから、急にだろうか。昔はあれほど元気だったのにと思うだけに、かえって胸の薄くなっていくのを見るのはつらかった。
一緒に病院に行こうかと訊くと、兄はおれ一人で明日はなんとかするからと答え、電話を切った。
「お父さん、かなり悪いの?」有子が心配そうな顔をした。
「また入院するかもしれない」
「……かわいそうね」有子が呟いた。
「覚悟だけはしておかないとな」
「あんなに元気だったのに」
「澤口のお父さんはいくつだったかな?」「七十二になったばかり」
「まだ若いな」
「そうかしら……」有子は言葉の語尾をあげた。

夕食の時、義父が食卓の漬け物を見て、おっと声をあげた。
「山形のだろう、確かこれは」
大きな声で突然喋りだした父に有子は驚いたようだった。もともと電信関係の技師だった義父は、あちこち転勤を繰り返していた。
有子は父親が何のことを言ったのか、やっとわかったようだった。
「ああ、これ。もらいものだけど」
「おまえも覚えてるだろ」そう義母に確かめてから、義父は何度かその漬け物を口に運んだ。
「有子、なんていう名前だったかな、これ?」義父が訊ねた。
「菊春漬けって書いてあるけど」
有子は台所に立ってビニールの袋を見た。
「ああ、そうだ。そんな名前だった。山形にいくまで菊の花なんか食べたことはなかったからな」
義父は菊の漬け物がよほど懐かしいのか、一人で昔話を始めた。有子は父の表情を盗み見ながら、くすっと笑った。わたしも箸をのばしてその漬け物を食べてみた。別にこれといってうまいというようなものではない。
「昨日ある人が持ってきてくれたの」有子が説明した。
「そうか……。暑いとこだった、あそこは」義父は遠くを見るような目をした。
食事の後かたづけをしながら、有子はなんかへんだったわね、今日のお父さんとわたしに言った。
「山形でなにかあったんだな」
「何かって?」有子が目を見開いた。
「あんな漬け物を見て、突然懐かしがるなんてな」
「ほんと」「女かな?」
「まさか」「いや、わからないぞ」
「へんなこと言わないでよ」有子はそそくさと風呂を沸かしに立った。
暑い日が続いていた。梅雨が終わったと思ったら、毎日太陽が出て、今度は夕方になってもなかなか涼しくならない。

土曜日の午後、病院を訪れた。
父は結局あれから数日後に入院した。
午後の陽がアスファルトの表面に反射し、かなり暑かった。駅から歩道橋に上って、ほんのわずか歩くだけで、汗がふきだした。わたしは歩道橋の上から車の流れを見つめながら、最初に父が入院した日のことを思い出していた。
確か初冬だった。兄が運転する車に乗って、雨の降る首都高速を走った。飯田橋のランプで下り、駅前まで来た時、どっちに曲がるのかわからず道を訊ねた。傘をさしていても、肩のあたりがびっしょり濡れた。ひどい雨の日だった。
あの時、道を教えてくれた警察官は歩道橋を指さし、先を右に曲がったところだと教えてくれた。
あれから既に三年が過ぎている。
二度目の手術の時も控え室で週刊誌を読みながら、予定の時間よりも長いのは、きっと悪いところが多くて、切り取るのに手間がかかっているからだろうと心配したりもした。 しかし今度は検査をした後、もう一度手術をしようと医者は言わなかった。諦められたのかなと兄に訊くと、そんなことはないだろ、あの先生はやるだけのことはやってくれるから、と自分に言い聞かせるような喋り方をした。

父は四人部屋の一番窓際に寝ていた。空調がきいているせいか、外よりはずっとしのぎやすい。ベッドのそばにあった椅子に座ってしばらくすると、気配を感じたのか、父がふっと目を覚ました。
「どう、具合は?」わたしはそれだけ訊いた。
「うん……」
父の目には勁さがなかった。
「痛くはない?」「ああ、なんでもない」
「空がよく見えるね」
「………」「今日はすごく暑いよ」
その時、父が見ている空とわたしの見ている空は違うのかもしれない、と思った。
「仕事は忙しいか?」父が言った。
「うん、まあ」
「向こうの親御さんとは?」「適当にやってるよ」
父は安心したような顔をした。
「はやくよくなって、みんなを安心させないと」
父は何も言わなかった。
「なんか欲しいものある?」「何にもない」
「なんにも?」
「ああ、昨日お茶をたくさん買ってきてもらったから」
見るとベッドの脇の棚の上には、ティーバッグの箱が二つ置いてあった。
「他になんか必要なものは?」「今はそれだけだ」
父は空を見上げたままだった。
しばらくして、父はぽつんと、昔はたくさんあったけどなと呟いた。
「昔?」わたしは思わず訊き返した。
「さっきちょっとうとうとして夢をみてた」
「何の?」「子供の頃のことだ」父はいかにもつまらなそうに言い捨てた。
「子供の頃?」わたしはあえて訊ねた。
「自転車に乗りたくって、親父にせがんだことがあった」
「自転車……」「ああ」
「それで?」「だめだった。仕方がないから、おふくろに頼んで、貸し自転車屋へ行って乗った」父は懐かしそうに空を見上げながら言った。
わたしは父の話に聞き入った。はじめて聞く話だった。
しばらくすると看護婦が点滴の様子を見に来た。チューブの具合を見て、それから液量をはかった。具合はどうですかという問いに、父はええと静かに答えただけだった。
「おじいさんは頑固だったんだ」わたしは独り言のように呟いた。
「偉い人だった。おれはあんな風にはとうとうなれなかった。どうしても職人になるのが厭だといったら、それ以上何も言わずに学校へ行かせてくれた」
そこまで話して父は急に疲れを覚えたのか、おまえも忙しいんだから、はやく帰って休め、おれはもう寝ると目を閉じた。
父の寝顔は弱々しかった。眼窩がくぼみ、顔が一回り小さくなっていた。わたしは血管の浮き出た父の腕にタオルケットをそっとかけ、椅子をたたんで洗面台の側へ置いた。窓の外にはビルが並んでいた。学生の頃、アルバイトをしたことのあるホテルがすぐ近くに見えた。
病室を出ようとすると、向こうのお父さんによろしくなと父が言った。それから安心したようにすっと眠りについた。わたしはナースセンターへ寄って、看護婦に挨拶をし、エレベーターホールへ向かった。

庭に出るとサフィニアの枝がだいぶ伸びていた。買ってきた時は花でいっぱいだったが、少し花数が減ってしまったようだった。わたしは枯れた花を一つ一つ手で摘み、水と液肥をやった。
娘の亜矢がアルミサッシの窓をあけて、顔を出した。中学に入ってから、急に背がのび、生意気なことを言うようになった。
「また花の手入れ?」「ああ、枯れたのを摘んでるんだ」
「お父さんは本当に花が好きなのね……」
亜矢はそこまで口にして、後は言いよどんだ。
「おじいちゃんのとこに、今日おかあさんと行って来る」
「そうか。おまえの顔を見ると喜ぶからな」
亜矢はうんと言った。
わたしは一通り、萎んだ花を取り終えると、居間にあがった。

実家に電話を入れた。母の様子が心配だった。いくら強いところをみせても、一人になれば心細くもなる。
「どうしてる?」
「どうしてるって、大丈夫よ。少しぐらいのことでへこたれてる訳にいかないでしょ」
「相変わらず、元気だな」
わたしは少し安心した。三度目の入院ということになれば、母の神経もかなりまいっているはずだ。それに父の容態がだんだん悪くなっているのは、誰の目にも明らかだった。「うちのがさっき、亜矢と病院へ行ったよ」
「そう、それはそれは。おじいさんは亜矢ちゃんが好きだから」
「昨日、ぼくも顔だけは出してきた」
「そう……。どうだった?」
空を見てじっとしていたとも言えず、元気そうだったよと答えた。
「おじいさん、今年の冬を越せるかね?」
母の問いは唐突だった。わたしはふっと息がつまった。
「どうして?」
「なんだか、そんな気がしてさ。前は煙草をあんまり吸うなとか、随分言われたんだけど、今度は主治医の先生もうるさくないの。もう諦められたのかなと思って……」
「そんなことはないだろ。医者だって注意するのを忘れることくらいある」
「そうかしら」
母は既に覚悟をしている、とわたしは思った。
「病院には何日おきぐらいに行ってるの?」「一日おきよ」
「あんまり無理すると疲れるぞ」
「いいのよ、洗濯物だってあるし。わたしの気の済むようにやるから。そんなに心配しなくても大丈夫。どうしても困ったらそっちにも電話するから。それよりここんとこ、ジンの具合があんまりよくなくってね」
ジンは夫婦二人きりになってから飼いだした犬だった。どこからか生まれたばかりの雑種をもらってきて、飼い始めた。母がもっぱら朝と夕方、散歩の相手をしていた。
わたしはあまり犬が得意でないせいか、最初のうち遊びに行くと随分吠えられた。しかしそのうち犬の方で馴れたのか、わたしの顔をみても鳴かなくなり、くうんくうんという。 わたしの顔を見るときの目にもやがて、甘えが見えるようになった。
亜矢は子供の頃からジンによくなつき、顔を見るとすぐに近寄っていった。
「医者にみせた?」
「もう年だっていうのよ」
「どんな具合?」
「足がぴくぴくしちゃって、よく動かないの。ご飯やってもそんなに食べないし。ここんところ暑いでしょ、小屋の中に入ったきりぐったりしててね」
わたしはジンが犬小屋のなかで荒い息を吐いている様子を想像した。
近いうちに一度行くからと言って、受話器を置いた。

再び庭に出て、雑草をとった。暑いせいか、伸びるのが思った以上にはやい。土がかわいていることもあって、かなり力が必要だった。最初のうち、少しだけやるつもりだったが、始めるとそういうわけにもいかず、つい夢中になった。麦わら帽子を途中で玄関までとりに戻ったが、すぐ汗ぐっしょりになった。
根からしっかり抜かないと、雑草はすぐにまた生えてくる。しばらく草をむしってから、休んだ。今年はできたら秋に色づく木を植えてみたかった。楓はどうだろうか。紅葉したら色の変化も楽しめる。
「お父さんの具合、かなり悪そうだね」
澤口の父がひょっこりと玄関から顔を出した。わたしは頭を下げながら、ええ、今度は長くなるかもしれません、と答えた。風が少しもなかった。
「さっき、うちのが娘と病院へ行きました」
「聞いたよ。近いうちに一度顔だけは出そうと思っているけど」
「すいません。いろいろと気を遣わせちゃって」
「お父さんももう高齢だから、心配だ」
そう言ってから、義父はしばらく黙り込んだ。
「前よりは少し痩せました」
「とにかくよくなってもらわなくちゃ」
わたしは義父の顔を見て頷いた。
汗が少しひいたようだった。
洗面所で手を洗っていると、兄から電話があった。少し話しておきたいことがあるという。おふくろのことだと言った。
「おふくろをあのまま、おいておくわけにもいかないだろ」兄は落ち着いた話し方をした。「そのことは前から気になってはいたけど」
「うちへ呼ぶかとも話し合ったんだ。勿論今すぐというのじゃなくてさ……。しかしあれだけ住み慣れたとこだしな。知り合いもたくさんいるだろ。どうしたらいいのか、よくわからない。親父がいなくなったら、いくら気の強いおふくろだってそうそうはな。やっぱり一人でおいておくのは心配だし……」
「だけど動けるうちは一人で暮らしたいって言うと思うよ」わたしは母の気丈なのをよく知っていた。
「きっとおふくろはそう言い張るだろ。おれもそんな気がする。でもな。本当のことをいえば、おれたちが引っ越すのが一番いいんだ。おまえがいまそっちで暮らしてるような形でさ……」
「できる?」「できるだろ」
兄はそれほど難しくないような言い方をした。
「どうしてもだめになったらっていう腹積もりでいいんじゃないかな。今からあんまり無理しちゃうと、義姉さんもかわいそうだし」
「金のこともあるしな」「金?」
「これからの暮らしのことを考えてやらなくちゃいけないだろ。今度の入院にしても、結構金がかかる。おれもできるだけのことはしてやりたい」
兄の心配はもっともなことだった。
受話器を置き、何気なく庭先をみると、木蓮の枝先にとまっていた蝉が突然鳴き始めた。

隣のS駅近くにできたばかりのサウナに立ち寄った。
細かい霧の中で、熱風に耐えていると、身体の表面にすぐ汗が吹き出てきた。それを拭わずに、じっとしているうち少し息苦しくなった。水に慌てて飛び込んだが、あまり楽にはならなかった。外に出てしばらく休んだ。しかし動悸はなかなかおさまらなかった。わたしは早めに切り上げて出た。
外は暑く、むしていた。
通りを渡って、駅の方へ行こうとした時、礼服をきた中原さんが階段を下りてくるのを見かけた。ネクタイに目をやると黒かった。中原さんはとても急いでいるようだった。のんびり歩いている姿しか見たことのないわたしには意外だった。
そのまま真っ直ぐ進むのがためらわれ、横にあった電柱の陰に身をよせた。そこにいれば彼の視線からはずれるはずだった。
中原さんはわたしの脇を通り抜けて、タクシー乗り場へ向かった。彼を乗せた車はすぐに高架の下の道を抜け、交番の脇を右へ曲がった。

家に戻ると、有子がわたしを見て、ジンが死んだんだってと低い声を出した。
「たった今、おばあちゃんから電話があったの。亜矢がこれからどうしても行くっていうのよ」「一人でか?」
「あの子、妙に感じやすいところがあるから」
「小さい頃からかわいがってたからな」
ジンが死んだか、とわたしは独り言を呟いた。すぐに電話を入れた。母は朝食事をやっても小屋の中で丸くなったまま動かないので、ひょっとしたらと思い、よく見たら、既に冷たくなっていたと説明した。
「人間ならもう八十過ぎだもの。仕方がないよ」母は寂しそうな声を出した。
「亜矢がこれから行くって」
「そう……、わざわざいいのに」
「一人じゃあれだから、連れてこうか」
「無理しなくたっていいわよ。わたし一人でやれるから」
わたしは自分の調子があまりよくないと、思わず口に出しそうになった。しかしまた心配ごとを増やすだけだと思いなおした。
「じゃあ、一人で行けそうだったら出すよ。どうしてもだめなら、車で連れてく」
母はそう、じゃ待ってると言い、すぐに電話を切った。いつもより明らかに気落ちしているのがよくわかった。
亜矢はどうしても一人で行くと言い張った。
「おばあちゃん、かわいそうだもん。そばにいてあげなくちゃ」
「わかったわ。それなら、明日お父さんと行くから、今日泊まってらっしゃい」
有子が言った。亜矢はとうに支度をすませていた。わたしは庭へおりて幾つか花を切った。コスモスが咲いていれば、それを持たせたかったが、早咲きのもまだだった。仕方なくダリアを幾つか切って、それを小さな束にした。
亜矢の頭の中はジンのことでいっぱいのようだった。花束を受け取ると、一瞬悲しそうな表情をした。これをジンのそばにおいてやれと言うと、うんと素直に答えた。
亜矢のいない夜は静かだった。テレビを見る気にもなれず、ソファーに寝転がっていると、調子が悪いのと有子が訊いた。サウナでの様子を話すと、心配そうな表情で一度調べてもらったほうがいいわよと勧めた。
「ガンって遺伝するっていうじゃない。胃とか腸とかよく診てもらってよ」
わたしがあまり乗り気でないのを見て、少し苛立ったらしく、勝手に予約してもいいの、と訊いた。
「休みなんかとれないだろ」わたしはぶっきらぼうに答えた。
「人間ドッグだって言えば、許可してくれるわよ」
「一応話だけはしてみるけど」「ほんとによ」
有子はわたしが何もしなければ、本気でやりかねなかった。
「今日中原さんを見かけたんだ。礼服着て隣の駅からタクシーに乗ってった。あんな方に知り合いがいるのかな」
「お葬式?」「だろうな……」
「あっちの方は昔からの農家が多いのよ」
「なんだって、あんなとこを?」
「いいじゃない、そんなことどうだって。それよりさっきの話だけど……」
わたしはわかったからと言って、話を早々に切り上げた。

翌日、有子とわたしは亜矢を迎えに実家に出向いた。母はそれほど気落ちした様子も見せずに、私たちを出迎えた。
「やっぱりもう寿命だったんだよ。心臓もかなり弱ってたんだって。でも苦しまないで死んだから、なによりだった」
「親父には知らせない方がいいな」「かわいそうで、言えないよ」
亜矢は、いつもよりずっと憔悴したような表情で、母とわたしの会話を聞いていた。娘にこれほどの感情があるとは思ってもみなかった。
「寂しくなるね」
「うん、それはそうだけど。散歩にいかなくてもよくなるから、いくらか助かるけどね。とにかくおじいさんの具合が悪くなってからは、朝晩、ジンをあっちこっち連れ歩かなくちゃならなかったから、手が痛くなっちゃって。とにかくすごい力なんだから」
わたしはひとしきりしてから二階に上がった。南側に面した六畳は学生時代から使っていた部屋だった。壁際に本棚を置き、そこに片っ端から読んだ本をつっこんだ。あの頃は建て直したばかりで壁も柱もきれいだった。
窓を開けると、庭が見えた。木蓮の枝が風に揺れていた。少し枝を切らないと、一階の部屋に陽がささなくなってしまう。
この家は母にとってもう広すぎる、とわたしは思った。
父が入院している間中、母はずっと一人で食事をつくり、それを自分一人で食べることになるだろう。ジンがいなくなった今、誰も話しかける相手はいない。気丈に振る舞ってはいるものの、寂しさはひとしおに違いない。
亜矢が階段の下からわたしを呼んだ。
「犬小屋をなんとかしてくれないかって。おばあちゃんが……」
「壊せっていうのか?」「とにかく下へきてよ」
わたしは階段をおりた。母と有子が茶を飲みながら話をしていた。
「ほんとに壊しちゃうの?」
母に訊いた。
「だって……」
いつまでも小屋があれば、ついジンのことを思い出してしまう。それが母はつらいのだろう。わたしは庭の物置から、釘抜きと鉈を出した。
犬小屋はかなり長い間使っていたせいか、ペンキもはげ落ち、隅のあたりは少し腐っていた。わたしは鉈で屋根の真ん中を何度も叩いた。すると鈍い音をたてて板が割れた。あとは力任せにやった。どうしても剥がれないところは、釘を抜き足で蹴った。二十分もしないうちに、ジンの小屋は跡形もなくなった。
シャツが背中に張りついた。汗がふきだした。
亜矢は最後までずっとわたしの傍らに立って見ていた。何も言わなかった。
「終わったよ」わたしは奥に向かって叫んだ。
本当に何もかもが終わったような気がした。
有子がタオルを持って出てきた。水で何度も手を洗い、顔を濡れたタオルで拭いた。シャツを脱いで背中をごしごしこすった。気持ちが良かった。
「いいのかな、こんなに早く壊しちゃって」「なんだかかわいそう」
「どっちが?」「どっちも……」
「ここにジンを葬ってあげられればな」
亜矢は一言も口をきかず、静かな目でわたしを見上げた。

「またいつでも遊びにおいで。今度はおばあちゃん一人だから、また泊まりがけで来てよ。昨日は嬉しかったわ、本当に」帰り際、母が亜矢の目を見て言った。
バックミラーにうつる母は小さかった。これで確かにジンの散歩や食事の世話は必要なくなった。小屋もない。
亜矢は帰りの車の中で、ジンのことを口にした。
「最初は庭に埋めてあげようかって、おばあちゃんと相談したの。でも……」
「でも?」有子がすかさず訊いた。
「子犬ぐらいなら、それもできるけど。ジンは大きいし……。それで、獣医さんに電話したら、保健所でもやってくれるけど、専門に引き取ってくれるところがあるって紹介してくれて」「そう……」
「わたしは庭に埋めてあげたかった。お母さん、さっき言ってたでしょ。ジンはずっとあそこで遊んだんだからって……」
わたしは、昔縁日で買ってきたひよこが大きくなって困ったことを、その時ふっと思い出した。はじめのうちは餌をやって世話していたが、あんまり毎朝鳴いてうるさいので、父はある日鉈を持ち出した。
その瞬間、急に背筋がひやっとした。
あの鉈だ。確かに覚えがあった。先端が少し丸くなってえぐれているあの鉈。そうだ、間違いがない。あの鉈だ。
母はやめてと何度も言ったが、父はうるさいと止めるのも聞かず、とうとう鶏の首を切った。わたしは二階の自分の部屋から、一部始終を見ていた。鶏の声は高く、何度もひーひーと叫んで抵抗した。首は一度では切れなかった。鶏はばたばたと狂ったように足を動かした。
首を切った時、真っ赤な血しぶきが、父の着ていたシャツに飛びちった。だが父はそんなことにかまわず、いきなり足を持って逆さにした。血がその瞬間土の中に吸い込まれていった。切り放された首が草むらの中で動き続けた。それから父は毛を一心にむしった。黒い袋に詰めるそばから、血のついた毛が庭に飛び散った。
父が鍋に入れて煮たスープは、脂が表面に浮き、茶っぽい色をしていた。肉のわずかについた骨だけが、鍋の底に沈んでいた。うまいから飲めと言われても、誰も口にするものはなかった。結局父が何杯か飲んだだけで、残りは全て捨てられてしまった。
あれから鶏小屋はすぐに壊された。

家に戻ったのは五時を過ぎていた。
わたしは車をガレージに入れると、居間にあがって、茶を一杯のんだ。喉が乾いて仕方がなかった。七月に入ってからも時々雨は降るが、すぐにかわいてしまう。ソファーに寝転がっているうちに、少しうとうとしたようだった。目が覚めると、外が幾らか暗くなりかけていた。
洗面所にたって顔を思いきり洗い、手で何度か乱れた髪をなでつけていると、両脇の毛が耳のあたりにかかって重苦しかった。
わたしはサンダルを履いて、駅の方へ坂道を下った。
床屋は結構混んでいた。二十分程待たなくてはならないという。やっぱり電話をしてからくればよかったと少し後悔した。じゃその頃また来るからと予約だけして、駅の反対側へ歩いた。
一面の夕焼けだった。遠い空から赤い光の帯が降り注いでいた。わたしはサンダル履きのまま通りを渡り、小学校へ続く遊歩道に出た。道の斜めはす向かいのあたりには団地が二十棟ぐらいたっていた。大きな公園を挟んで、その近くにスーパー、酒屋、本屋、蕎麦屋などが軒を連ねている。
陽はわずかな時間の間に、色を次々と変えた。赤から、やがて暗い煉瓦色になった。その陽の束が団地の壁を次々と複雑な色に染め上げた。
いくらか風が出てきたようだった。

夜、亜矢の持っていたウォークマンで、ピアノ曲を聴いた。居間の食卓の上にのっていたのを、ちょっと借りたのだった。耳をふさぐようにして小さなイヤホーンをつけた時、少し圧迫感があった。だがその時はたいして気にはならなかった。
わたしはピアノの澄んだ音が好きだった。だがその直後から、突然耳が痛くなった。最初奥の方がはれぼったく熱をもったようになった。それから血の流れにあわせて、痛みがじんじんと身体中に響いた。何度も耳たぶをふさいだりしてみたがだめだった。わたしは耳の中の重いものが、どこかへ消え去るのを待った。しかし痺れたような感覚がいつまでも続いて、元のようにはならなかった。
耳の奥に小指の先をつっこんで、何度かぐるぐる回転させた。すると、うなり声が前より強くなった。痛みも気のせいか増した。
翌日、会社近くの耳鼻科に寄った。検査だと言われ、狭い部屋の中で何度も様々な音をきかされた。ヘッドホンの奥から小さな音がするのを、一つ一つ聞きわけるのだった。  医者は検査の結果を見ながら、耳の器官が他の人に比べて少し弱っているようだと言った。
「外に音が漏れない状態で音楽を聴いたりすると、ときたま鼓膜をいためたり、内耳を悪くする人がいるんですよ。一種のヘッドホン難聴です。普通はよっぽど大きな音でかけてないと、たいしたことにはならないんですけどね」
中年の医師はしきりと首をかしげ、ストレスかなと呟いた。
薬の処方箋をもらい、ビルから出る時もめまいを覚えた。仕事をしていても、厭な気分だった。歯が痛いのとも違う。どことなく痛みの芯が薄く遠くへ拡散していく。わたしはすぐ会社に戻る気になれず、近くの本屋へ入った。しかし新刊を何冊かめくってみても、耳に神経が集中して、厭な気分だった。
外へ出た。空が暗く、雲がはやく動き出していた。雨が降る。直感的にそう感じた。足早に歩いた。それから降り出すまでに二十分ぐらいはあった。自分の机に座って細い雨を眺めた。
雨の音がガラス窓越しに聞こえた。耳の具合が悪いせいか、高い音が時折強く響いた。近くで電話がなる度に耳の奥が震えた。
一日が長かった。
帰りの電車に乗った頃には、立っているのもつらかった。線路のつなぎ目に車輪のあたる音が耳の中で唸る。その瞬間、じんという鈍い痛みが耳の奥に広がった。
駅からの道も遠かった。傘をさしていても肩のあたりがかなり濡れた。少し寒気がした。家の前までたどり着いた時、水銀灯に照らされた木蓮がいつもより鮮やかに見えた。
玄関を開けた途端、廊下の端に置いてあった段ボール箱がすぐ目に入った。
「なんだ、これ?」わたしは靴を脱ぎながら、大きな声を出した。
有子がすぐに出てきた。
「これでしょ。いただいちゃっていいのかしら」
差出人の欄には中原雅之とあった。
「どういうことだ?」
「この前、中原さんにお花をあげたじゃない。あれのお礼よ、きっと」
箱の中身はメロンのようだった。山形のものらしい。
「高いんだろ?」「一つ千円じゃ買えないわよ。二千円ぐらいするかも」
「どうしたらいいんだ?」「どうしたらって言ったって……」
わたしは途方に暮れた。中原さんは礼のつもりでくれたのだろうか。それにしては少し値段が張りすぎる。
「電話してよ、すぐ」
「おれがか」「他に誰がいるのよ」
有子は箱の上に貼ってある住所欄をはがし、わたしの目の前に突き出した。
わたしはとりあえず段ボール箱を居間に運んだ。梱包をといた途端、独特の甘い匂いが鼻をついた。庄内砂丘メロンと横に大きく印刷してある。三つも入っていた。山形からわざわざ送らせたものらしい。
わたしは背広を脱ぎながら、面倒だなと呟いた。中原さんは軽い気持ちでくれたのかもしれないが、気が重かった。
仕方なく受話器を取った。発信音が耳に痛い。
奥さんが出た。まだ中原さんは会社から戻っていないのだという。わたしはていねいに礼を述べ、もうこんな気遣いは二度としないでくれと告げた。すると奥さんはとんでもないです、主人はこの前親切にしていただいのが嬉しかったらしくて、とても喜んでました、と朗らかな声で言った。
わたしはくれぐれもご主人によろしく伝えてくれと繰り返してから、受話器を置いた。「どうだった?」
「とりあえず礼だけはしたけど。このままっていうわけにはいかないだろうな」
「そうね、何かお返しをね……」
身体がだるかった。この前サウナに行った時から、なんとなく調子が悪い。風邪でもひいたのだろうか。寒気がおさまらない。耳の具合が急におかしくなったのも、ひょっとすると体調が崩れたせいかもしれなかった。
「調子が悪い。すぐに寝るよ」
有子は驚いたような顔をして、「耳のせい?」と訊いた。
「わからない。少し寒気がする」
体温計を出して計ってみたら、七度三分あった。
「耳からきてるのかもしれないわ。お医者さんには行ったんでしょ?」
「ああ、ちょっと弱ってるらしい」
「薬は?」「何種類かもらった」
「じゃ、何か食べてから、横になった方がいいわ」
有子がお粥をつくってくれた。わたしは茶碗半分だけ食べた。食欲があまりなかった。額が火照った。
すぐ床についた。薬のせいか眠気がやってきた。目が覚めたのは夜中だった。時計をみると、十二時を過ぎていた。有子は寝入っているようだった。下着が汗で濡れている。わたしは布団から出て、下着を手早く取り替えた。身体の火照りがなくなっていた。熱が少しひいたのかもしれなかった。
水を飲みに台所へ立った。唇がかわいてひりひりした。再び横になったが、すぐには眠れなかった。耳の痛みも幾らかやわらいだようだった。やはり微熱の原因は耳だったのかもしれない。
何度も寝返りをうった。その気配に有子が目を覚ました。
「具合が悪いの?」「いや、さっきよりはいい」
「そう……、薬が効いたのよ、きっと。耳はどう?」
「いくらか楽になった」「よかったじゃない。汗もかいた?」
「今着替えた。すごかった」「そのせいよ。やっぱり汗かかないと」
わたしは喉の渇きを感じた。
「もうあのメロン切ったか?」
「食べたいの?」「そういうわけじゃないけど。もう食べたんだろ?」
「ちょっとね。亜矢が言うから」
「甘かったか?」
「すっごく。こっちのとは全然違う。きっと高いわよ」
「じゃあ、少し食べるかな」
「今?」「ああ」
「冷蔵庫に入ってるから。でも平気なの?」
「平気だろ、別に」
有子は眠いのか、布団を抱きかかえるようにして再び背中を向けた。わたしは台所のあかりをつけ、冷蔵庫を開けた。
メロンは有子の言った通り甘かった。かわいた口に冷たさが心地よかった。中原さんにはビール券でも送っておこう。わたしは冷たい果肉を口に入れながら、そう思った。どういう人かよくわからないが、悪い人ではなさそうだ。
静かだ。亜矢もとうに寝たらしい。雨は止んだのだろうか。
カーテンを開けた。水銀灯の光が雨がうつした。しとしと降る雨のしずくが、葉から真っ直ぐに落ちて光った。

数日後、中原さんから電話があった。送っておいたビール券が届いたらしい。
「本当にすいません、かえって気をつかわせちゃって」
「とんでもないです。こちらこそ」
「いやあ、おかげさまでこの前いただいた花、きれいに咲いてます。やっぱりいいもんですね」中原さんはしみじみとした口調で言った。
わたしは少し酔っていた。それでメロンの礼と一緒に訊かなくてもいいことをつい口にしてしまった。
「この前、駅のところでお見かけしましたけど、急いでいらっしゃるようだったので、声もかけませんでした」
「朝ですか?」
「いや、あれは十日ぐらい前だったかなあ。隣のS駅で。礼服を着ておいでだったから。なんだか随分急な用事のようで……。お葬式かなにかだったんですか?」
すると、中原さんはちょっと慌てたような声で、人違いじゃありませんかと言った。
「いや、確かに、おたくだったような気がするけど」
「それはわたしじゃないですよ。十日ほど前は出張で名古屋へ行ってましたから」
「そうですか、じゃあ、わたしがぼんやりしてただけかもしれない」
「よくあることです。わたしみたいな顔はどこにでもいますから」
中原さんは、大きな声を出して笑った。
近いうち、また庭を見せてくださいという彼の声を聞きながら、あまりこの人には深入りしない方がいい、と直感的に思った。中原さんは明らかに嘘をついている。わたしには確信があった。いくら調子が悪いからといって、人違いをするはずがない。
「駅の向こうにあるのは大きな農家だけか?」受話器を置いてから有子に訊いた。
「どこのよ?」「S駅のだ」
「よく知らないけど」
「歩いていくにはかなりあるだろ。あの上までは」
「バスよ、多分。いったい、どうしたのよ?」有子はわたしの顔を覗き込んだ。
「いや、ちょっと気になって」
「この前のこと?」「うん、中原さんが人違いだって言うから」
「じゃあ、きっとそうなんでしょ」
あの時、目の前を急いで歩いていったのは確かに中原さんだった。間違いない。
「うちに地図あったか?」「車の中でしょ」
有子はわたしの言ったことを全く気にしていないようだった。わたしはガレージへ行って、道路地図を持ち出した。しかしそれは三年も前のもので、かなり様子が違っていた。近いうちにS駅のあたりを一度走ってみよう。中原さんは何か隠している。先刻の慌て方は普通ではなかった。

次の日曜日、わたしは車に乗った。S駅までは十分とかからなかった。駅前からの道を真っ直ぐ走り、左へ曲がればすぐだった。
道はすいていた。しばらく走ると、すぐにS駅の高架橋が見えた。あの時、中原さんを乗せたタクシーは交番の脇の道を確か右へ折れた。
とりあえず、交番まで走った。右に曲がると上り坂がしばらく続いた。丘の上には有子の話に出てきた豪壮な家が幾つも並んでいた。総桧の大きな家の門はどっしりしていた。瓦が黒々と重なり、塀の奥にはしっかりした土蔵が見える。敷地もかなりのものだった。 よく見ると同じ苗字の家が多い。互いに親戚なのだろうか。大きな屋敷森に囲まれた一帯はしんとして、蝉の鳴き声だけが異様に熱っぽかった。 中原さんがもしこの大きな屋敷のうちのどこかへ来たとしても、別に人に知られて困ることはないはずだ。だがそのことを隠そうとするのはなぜか。
わたしはさらに丘の上の道を走った。すると広い造成地があらわれた。ブルドーザーが何台も無造作に置き捨てられたままになっている。塀で囲まれた土地の隅にプレハブの事務所が三棟並び、一番端のところに、ジュースの自動販売機があった。わたしは急に喉の渇きをおぼえ、車からおりた。
人の姿はどこにもなかった。茶褐色の土があちこち掘り返され、大きな土管が顔をのぞかせていた。かわいた土は埃っぽく、見るからに息苦しかった。しばらくすれば、たくさんの家が建ち、どこからともなく人が集まってくる。駅からバスが走り公園や学校ができるに違いない。
谷が幾重にも続いていた。家が全く見えなかった。しばらく走るうち、調整区域に入りこんだようだった。道も急に悪くなった。少し走ると少し上り、またすぐに下った。こんもりした森の中にやっと小さな家が一軒だけあり、また似たような道が続いた。わたしはあたりの風景をよく見ながら、注意深くエンジンブレーキをきかせて走った。幹の太い木がたくさんあった。風がないのか、どの葉も枝に張り付いたように動かなかった。
坂の途中から、さらに一段下っていくあたりに幾つか家があった。その中の何軒かは佇まいが妙に古かった。わたしは坂の途中の空き地に車をとめた。少し歩いてみる気になった。車をおりると草の匂いが鼻をついた。坂の途中にあるせいか、土地を盛ったきつい階段の奥に家がたてられていた。
大きな川が遠くに見えた。その支流がすぐ近くまで流れてきている。わたしは川の方まで下りてみることにした。車で走ってきた道のすぐ脇に、川へ出る道があった。思ったよりも急で、何度か足を滑らせた。蝉の鳴き声が背後から幾重にもなって覆いかぶさってきた。
道を下りきったところに小さな祠が見えた。木が朽ちて、屋根が崩れかかっている。石の地蔵が、中に二体置かれていた。よく見ると顔の輪郭はほとんど消えてなかった。ただ卵に似たつるりとした石の感触があるだけだった。一方の頭には赤い毛糸で編まれた帽子がのっていた。色が褪せて、破れ目が目立った。五円玉が祠の前に放り投げてあった。
川へ出た。細い川だった。左右に道がずっと続いていた。岸の反対側へ渡る橋は、だいぶ先のようだった。しばらく川の表面を眺めた。反射光が目を貫いた。蝉が重苦しく鳴き続けた。わたしは再び坂を上った。下ってきた時には気がつかなかったが、左に入る細い道のさらに先に竹薮があり、その奥に墓が幾つか見えた。なんとなくじめじめした竹薮は仄暗く、中へ入っていく気にはなれなかった。
坂道を再び上った。雑草の上に木の葉がつもり、歩く度に音がした。車のところまで戻ろうとすると、畑の中に老人がしゃがみ込んで、しきりに茄子をもいでいた。
その瞬間、頭上を真っ黒な塊が飛び去った。黒い筋が一直線に山の方へ走った。
鳥だった。それはわたしの視界を抜け、森の中へ進んだ。すっと現れて、一瞬の後に消えた。背後でさわさわと音がした。竹の揺れた音のようだった。わたしはあたりを見回した。風はなかった。ふっと寒気がして畑を見た。先刻と同じように老人は茄子をもいでいた。
わたしは車に戻り、またくねくねとした道を上った。家に戻って早くシャワーを浴びたかった。かなり汗をかいていた。

「どこへ行ってたのよ。こんな大事な時に」
車をガレージへ入れようとすると、有子が玄関から飛び出してきた。
「何だ?」
わたしの顔を見て、妻は口をとがせながら、
「今、お義兄さんから電話があったのよ。お義父さんの具合が急に悪くなったんだって」と言った。
わたしは有子の口元をぼんやり眺め、そうかと答えるがやっとだった。
「どうしたの。ぼんやりした顔しちゃって」
目の前にまだ鳥の影があった。
「すぐに行く」
「わたしも一緒に行こうか?」
「いい、病院に着いてから詳しいことは知らせるから」
顔を何度も洗った。わたしは下着だけを取り替え、すぐに出かける支度をした。
電車に乗っている間も、わたしの気分は不思議なくらいに静かで落ち着いていた。急に具合が悪くなったというからには、ある程度覚悟をしておかなければいけないかもしれない。これから少しぐらい生き長らえたとしても、そう遠くない将来に父は逝くだろう。
わたしは葬儀の席に座っている自分の姿をぼんやりと想像した。アルバムの中にいい顔をした父の写真などあっただろうか。
車内はクーラーが程良くきいていて、心地よかった。
わたしは中原さんの礼服姿を思い出し、それに自分の姿を重ねた。あの時は誰の葬式に行ったのか。わざわざ嘘をつく理由は何だったのか。

市ヶ谷の駅で降りて、歩道橋を渡った。暑かった。光がうねっていた。ひょっとするとこれで本当に病院へ来ることもなくなってしまうかもしれない。
バーゲンセールと書かれた原色の旗がひらめいている洋装店の脇を早足に歩いた。
足元の敷石が妙に不揃いで、わたしは何度か躓いてよろけそうになった。
太陽が離れずに後からずっと追いかけてきた。

2001-08-05(日)

グラデーション

カーソルの点滅するディスプレイはあんまり好きじゃない。眼がチカチカして頭が痛くなる。どうして一カ所にじっとしていないのだろうか。ぼくは新しいワープロソフトをインストールする度に、自分好みにカスタマイズしなおす。
どんなに短い文を考えようとしている時でも、あのチカチカがあるともうダメだ。早くしゃれた文をおまえのちっぽけな脳味噌からひねり出してこい、とせっつかれているような気がする。レポート用紙1枚だって書きたくない。
ぼくは子供の頃からなぜか諦めるのが早かった。とにかく諦めることにはすごく馴れていた。お菓子やおもちゃを買ってもらう時にも我慢した。本当に欲しいものはきっと買ってくれないだろうとなぜか母の背中を見つめながら諦めていた。
小学校4年の秋、家を引っ越して友達がなかなかできなかった時も我慢した。いや友達をつくることそのものを諦めたといっていい。
それに比べたら、カーソルが点滅することくらい大したことじゃない。きっと大切なことはもっと他に山ほどある。
ぼくはとりあえずキーボードに置いた手を離す。お茶の時間だ。コーヒーをここのところやめて、最近は紅茶、それもダージリンにしている。オレンジペコもうまいけどやっぱり基本はダージリンだ。
インド紅茶は水から煮出すと友達にきいたが、そんなことしたらイッパツで胃をやられる。ぼくの胃袋は刺激にすぐまいってしまうのだ。とにかくミルクをたっぷり入れる。それも少し温めて。そうしないとお茶が冷める。冷めちゃダメだ。香りのエッセンスがみんな逃げてしまう。
ディスプレイの中では魚が泳いでいる。ぼくがお茶を飲んでいる間中、気持ちよさそうに泳いでいる。全てぼくが育てた魚たちだ。今7匹いる。ついこの前も1匹増えた。生まれたのだ。生命の誕生に遭遇するというのはそんなに悪い気分のもんじゃない。
しかし相手はプラスとマイナスの交差する味気ない世界の産物だ。でもそうは言ってもやっぱりかわいい。エンゼルフィシュのように尾の長いのも、胴体の小さなグッピーもいる。それに名前のわからない得体の知れない連中たち。
餌はもちろん毎日やる。酸素もやる。弱らないように栄養剤も時々やる。やらないとどうなるか。そんなことは考えたくもない。それは常識だ。生き物の世話が大変なことぐらい、ぼくだって知っている。でももう始めてしまった。だから終わるまでは絶対に終わらない。世界に終わりが来るか、それとも長い長いストが続いて永遠の停電が始まるか。
CD-ROMについていたマニュアルには毎日きちんと魚の状態を観察してください、とあった。弱っていたら薬を、水槽に藻がついているようだったら、必ず水を取り替えてきれいにクリーニングして、それからたっぷりと酸素を、そうでないと彼らは死んでしまいます、と脅してある。
これは脅しそのものだ。そうに違いない。事実、夜の間も彼らは生き続けている。ぼくが電源を切っても知らんぷりをして、コンピュータの中を一晩中泳ぎ回っている。Cドライブの中、それもわずかな容量の命の谷間を。
彼らが一番恐れているのはフォーマットそのものだ。その命令が実行に移された瞬間、全てが白紙になる。つまりそれをするぼくの意志が一番怖い。それは不意にやってくる。何の前触れもなくいやになった、飽きたというほんの気まぐれから。
試験の点が悪くて気分がくしゃくしゃするとか、面白くもない映画を見て腹が立ったとか、あまり日差しの強い道を歩きすぎて疲れたとか。
あるいは少し紅茶で痛めすぎた胃が、要求するかもしれない。消せ。全部消せ。泳ぎ回っている魚が急にうっとうしくなった。今度は回る地球がいい。緑の地平線を見ながら、ゆっくりお茶を飲みたいとぼくが突然思う。そんな時がきたら、それがきっと彼らの死の瞬間だ。
おい。
魚たちがぼくに突然話しかけてくる。気のせいか、中の1匹がぼくの方を見た。こっちは快適だぜ。酸素も餌もたっぷりある。ないのは、そうだな、光だな。あふれるくらい燦々と降り注ぐ光だ。夏の海辺にはやっぱり負ける。あの太陽は特別だしな。暑い日差しを身体いっぱい浴びてみたいよ。

メールが来た。
今日遊ばない。ママが朝からいません。会えるんだったらいつもの時間、ラウンジに来てください。これから学校へ行きます。今おにぎりをつくっているところ。中身はおかかと梅干し。これって食べあわせが悪いんだったっけ。何のためにつくってると思う? そう。ピンポーン。ミミちゃんのため。あの子最近へんだから。おかかだけじゃなくって、梅干しをすっごく欲しがるの。

サトミは一人前の女だ。ぼくはいつも彼女とセックスできる。可能性という意味においては、そう確かに。事実今までに3回した。しかしそこから先は全く関係が深くならない。見えない、サトミのことが。彼女は時に怒る。この前は一緒にシャワーを浴びながら髪を洗ってあげた。でもぼくたちはそれ以上深く知り合えなかった。
サトミを後ろから見るというのは不思議な光景だった。大きな背中が頭の下にまっすぐはりついている。長く隆起した背骨。そこから尻が突き出て、足に至る。柔らかいいい形の胸は見えない。前を向けば、それはぼくの目の前にあるとしても、とりあえず後ろ向きでは何もみえない。
「やめてよ、ふざけるのは。本当に洗ってくれる気がないんなら、先に出て」
そう言われ慌てて、ぼくはまたサトミの髪を洗う。大きな背中を抱え込むようにして、背骨の隆起が少し曲がっているのを気にして。
シャンプーはいつもいい匂いだ。一面に広がったラベンダーの花畑をイメージしながら、ぼくはサトミにちょっと体重をかける。ぼくは途方にくれながら、背中から覆い被さって、髪を洗う以外にはない。
自分の身体がどこかにいってしまったかのようで少し頼りないが、それがサトミの心からの願いなのだ。
「男の人って力があるから好き」
「ぼくみたいなんでもか?」
「そう男の人はやっぱり力持ちだもん」
しばらくすると自分の手がサトミの手になり、その髪に分け入る。頭皮に爪を立てないようにしながら、ひっそりと静かにそれでいて、細心になる。二人とも湯気の中で窒息してしまいそうだ。でもぼくはそれが好きだった。それほど広くもない浴室は二人の身体から出る湯気とシャンプーの匂いで満たされる。
息苦しいくらい二人の距離が近くなる。
「難しく考えないで。そのままでいいの」
「いつだってそのままだ。何にも考えてない」
「嘘よ。あなたは考えてる」
そう言われると確かにそんな気がしてくるから不思議だ。しかしそんなことはない。断じてない。

カーテンが揺れる。サトミが突然窓を開けた。
寒い。
ぼくはまだ何も着ていなかった。慌てて布団に潜り込む。シャンプーの甘い香りがシーツの上にたっぷり残っている。
「早く何か着て。もっと開けたいの」
サトミはいつも何かに駆られている。でもその正体は見えてこない。彼女自身にもそれが何なのかわかっていない。
カーテンがまた揺れた。季節を正直に表した風の冷たさだ。冬が来る。確実にだ。
「やめろよ、そんなに開けるな」ぼくは強い口調で言う。
「わかった」
サトミは観念して窓を閉める。自分だってまだ何も着てないくせに……。
ミミがくる。どこから入ってきたのか。いつの間にかベッドの上にちょこんとのっている。サトミがその背中をなでる。何度も何度も執拗に撫でる。
「早く何か着ろよ」
サトミは色が白い。肌の色がぼくとは全然違う。

携帯に再びメールが入った。
あのさ、今日あのお魚たちを私のにもインストールして。この前あなたの話を聞いてからずっと気になってたの。一日中見ていたい。いいでしょ。ひょっとしたらミミが食べたがるかもしれないけど、それもおもしろいじゃない。
質問その1。今全部で何匹いるの?
質問その2。何が一番大好物なの?
後で会えたら教えて。でも今日は無理しなくてもいいわ。ママは朝からいつものおさらい会です。表向きにはね。でもこの前話した通り、きっと帰ってきません、きっとね。賭けてもいいわ。

ぼくはダージリンを飲む。ゆっくり飲む。魚たちの空中移動。これはなかなか面白い計画だ。ディスプレイの上を泳いでいるのとは全く違った形と勢いで、彼らがサトミの部屋を泳ぐ。その姿をミミが追いかける。
きっとサトミのディスプレイを爪でひっかくのだ。ほらおいしいよ。こっちのは。ミミ、こっちのはどう、とかなんとか言いながら。
ぼくはお茶を飲み終えて少し気分がゆっくりしたところで、サトミの部屋へ持っていくCDを探す。ぼくのハードディスクの中に入ったのをそのままあげるわけにはいかない。ぼくのはどこまでいったってぼくのだ。サトミは自分で育てなくちゃいけない。
彼女はぼくと同じように水をとっかえ、薬をやり、時に生まれて来る子供のことを想像しなくてはいけない。きっとサトミのことだ。立派にやってのけるだろう。そしてコンピュータの中を魚たちでいっぱいにしてしまうだろう。
しかしあまり増やしすぎてはいけない。
共食いを始めますとたしか注意書きにはあった。

足首を捻挫した。駅前の歩道橋を一気に2段飛び下りようとした時、ふっと足が前に滑った。朝降った雨で階段が濡れていたのだ。ばかなことをしたもんだ。瞬間、ぎくっと足首が音をたてた。尻餅をついた。
右手で慌てて身体全体を支えた。最初鈍い痛みがやってきた。そして次にすぐ鋭いしびれるような痛みがきた。ぼくは仕方なく足をひきずりながら家に戻ることにした。
靴下を脱いで調べてみると、足首が腫れてふくらんでいた。湿布を大きく足の甲全体に貼った。しかし痛みはひかなかった。
その日の午後、ぼくはとうとう整形外科の長椅子に座る羽目になった。診察、レントゲン、二度目の診察、薬と全部クリアーするのにたっぷり二時間半はかかった。その間につまらない推理小説を一冊読んでしまったくらいだ。
それからの数日間、ぼくは外出することができなくなった。歩こうとすると足首のまわりが痛くてしょうがない。松葉杖なんてついて外出するくらいなら家にいた方がずっとましだ。仕方なくまた魚たちとつきあうことになった。
あんまり退屈なのでぼくは彼らに名前までつけてみた。一番小さいのにチビ。一番でっかいのにデカ。あんまり平凡なので、後で思わず笑ってしまったくらいだ。
デカの背びれは驚くほど大きい。ついでにその背びれをピンクに変えちゃおうと思い立ったところへ、サトミから電話がかかってきた。これにはかなり救われた。
「階段から落っこちたんだってね」
「妹がそう言ったのか」
「そう、今2階でうなってるって、教えてくれたの。面白い妹さんね」
サトミはどうして最初から携帯にかけてこないのか。へんなやつだ。
「どうなの、調子は?」
「痛いよ、とにかく。どこにも出て行こうなんて気分にはなれないね」
「たまにはいいじゃない。部屋でのんびりしてるのもさ」
サトミは暢気なものだった。
「これから家に来ないか」
「ダメよ、もう1時間、授業があるもの」
「そんなのすっぽかしちゃえよ。どうせ何の役にも立たないだろ」
ぼくは少しも勉強する気になれない自分を持て余していた。面白い授業がないというのは本当じゃない。これはもっと深いところにあるぼく自身の問題だ。
「ねえ、ちょっと聞いてくれる?」
サトミは突然調子を変えた。
「ママが昨日から帰ってこないの。最初はまたいつものかなと思ってたんだけど、今日クローゼットの中を見たら、ほとんどなんにも入ってないのよ」
そこまで言ってから、サトミは短いため息を一つついた。
「どういうことだ。もう少し詳しく話せよ」
「前に話したことあるでしょ。ママの大切な人のこと。最初はその人のマンションに行っちゃったのかと思って、結構のんびりしてたの。そうしたらその人から昨日電話が来て、いまどこにいるっていうから、そっちに行ってるんじゃないですかって言ったら、そうじゃないって。それですっかり慌てちゃって。その人もあっちこっち探してくれたんだけど、どこにもいないの」
「前にもそんなことあったっけ?」
「時々はあったけど、いつもはその人と一緒だから。でも今度みたいなのは初めて」
「置き手紙とかは?」
「全然……」
ぼくはなんと言ったらいいのか迷った。確かに大変なことには違いない。でも一人でふらっと旅に出たくなることだって人間にはある。突然、家にいるのが厭になって遠くへ行ったって何の不思議もない。誰だって絶えずどっかへ行きたいもんだ。しかしそんなことを言ったところで、何の解決にもなりはしない。
サトミは受話器を持ったまましばらく何も言わなかった。その静かな時間がとても長く感じられた。
「こんなこと言うと怒るかもしれないけど、少し待ってみる以外に仕方がないんじゃないか。おふくろさんだって子供じゃないんだから、そのうちきっと戻ってくるさ。1月たっても帰って来ないんじゃ、ちょっと問題だけど」
ぼくはわざと少し軽い調子で言った。もし自分の母親が消えちゃったらどうするか、と同時に自分に問いかけながら。
「……そうね。きっとそうよね」
サトミはその一言で少し元気になったようだった。
「やっぱり授業さぼっちゃおうかな」
「そうしろ。どうせつまんないよ」
「そんなこと言われちゃったら、ますます出る気がなくなっちゃう」
ぼくはサトミにとってあまりよくない友人の1人に違いなかった。結局それから1時間ほどして彼女はぼくの家へ現れた。首の回りにさりげなく巻かれた赤いマフラーが、とっても温かそうだった。話の中心はいきおい消えたママに集中した。
「いったいどうしたっていうのかな」
ぼくは当たり障りのない表現でサトミの気持ちをなんとかなごませようとした。
「ほんとにね、こう見えてもかなり動揺してるんだ、今」
「ママの恋人だっていう人は?」
「なんだかしょんぼりしてた。とっても優しい人なの。いつも私に何か買ってきてくれるし」
「足長おじさんみたいだな」
「ほんと。そう言われてみれば、ほんとにそう」
「でもきみの話を聞いてると、なんだか現実感がない。どうしてだろう?」
「嘘ついてるっていうこと?」
「いや、そんな意味じゃなくて……」
ぼくはサトミと何の話をしたらいいのか迷った。あれほど遊びに来いと言っておきながら、いざ本人が現れるとどうしたらいいのか困ってしまう。仕方なくぼくはお魚たちの話をした。ついさっきデカとチビという名前をつけたこと。尾ひれの色まで変えようとしたこと。すると、サトミは急に難しい表情になった。
「そういえばこの前もらったお魚たちね。まだ生きてるの。でも1匹仲間に食べられちゃった。あっと言う間だったの。インストールして4日目に見たら、少し小さいのが弱ってたの。だから慌てて栄養をあげたんだけど、もう遅かったみたい。大きいのにねらわれてるなってわかったから、少し離そうとしたんだけど、ダメだった。あっという間にパクリ。なんだかあいつおいしそうな顔して食べてたな」
サトミの話を聞いて、ぼくは半信半疑だった。そんなことが本当にあるのだろうか。共食いを始めるなんて。それが本当だとしたら、というより本には確かにそう書いてあったが、なんだかとっても寂しい。
妹の玲子が紅茶とケーキを持って二階に上がってきた。サトミのことをそれとなく観察しにきたのは明らかだった。玲子の目は案外鋭い。それだけにぼくはちょっと緊張した。
玲子は後できっと何か言うに決まっている。あの人はどうだとか、あの人とはきっとうまくいかないだろうとか。今までにも何度か予言めいたことを言われたことがある。高校生のくせに勘をはたらかせるのがうまい。残念なことにはそれがたいてい当たってしまうのだ。半年は持たないわねと言われた女の子とはその後すぐに別れてしまった。少し意地になって付き合おうとしたがやっぱりだめだった。
サトミは妹に向かってていねいに頭を下げた。
玲子が階下に下りると、サトミは、
「かわいい妹さんね」と言った。
「とんでもない。あれでなかなか……」
「何年生?」
「高二だ。生意気でさ」
「いいわ、兄妹がいるのって」
サトミはしみじみとした調子で呟いた。ずっと一人で生きてきたという彼女の過去の時間が、その時背中からふっと立ち上ったような気がした。
それからしばらく妹について喋ってから、サトミは再び魚の話に戻った。
「それでね、共食いしちゃった魚を何とか助けようとしたの。時間を戻すのは無理だから、もう一度最初からインストールして」
「そこまでやったのか?」
「やったの。でもだめだった」
「何が?」
「すぐにまた共食いを始めちゃうのよ。どうしてだかわからないけど」
「だって同じソフトを使っててそんなに違うわけないだろ」
「だって本当にそうなんだもの。じゃあ、やってみてよ。うちに来て最初から」
サトミはけっして嘘じゃないと執拗に言い続けた。ひょっとしたらそんなことがあるかもしれない。コンピュータの性能が良ければ、それだけ魚たちは生き急ぐ。本当ならゆっくりと藻を食べ大きく成長し子供を残せるのに、生まれたそばから時間がどんどん過ぎて、めまいに似た瞬間ばかりが続く。最後には近くに来た別の魚に食いついてしまうのかもしれない。
ぼくはふっと自分自身のことを想った。子供の頃からいろんなことを諦めていたぼくのことを。
「そんなことより今はおふくろさんの方が大事だろ」
ぼくはサトミにせっつくことで、自分の不安を無理に消した。
「そうだけどさ。でもなんの手がかりもないんだもの」
「置き手紙なんかなかったって言ったよな」
「うん」サトミはやはり元気がない。
「考えてみたら、おれ、きみのお母さんっていう人に会ったことない」
「そうだったっけ」
「だっていつも誰もいない時にしか、きみのうちに行ったことがないし」
ぼくはサトミの話を聞きながら、本当はママなんていう人がいないんじゃないかと疑い始めていた。もしかして今まで何度か訪ねたあの家もサトミの家じゃないような気がする。 何となくよそよそしくて妙にこぎれいな調度品が揃いすぎていた。人の住んでいる気配がなかったと言ってもいい。サトミを抱いたあのベッドの感触。あれはデパートの家具売場にあるベッドの冷たさだ。
そう考え始めると、ぼくはどんどんサトミを疑うことに熱心になった。本当は名前だって違うのかもしれない。学生証で確認したわけじゃないんだし。たまたま体育局の授業で聞きたくもない体育理論の講義をとった時、隣に座っていたというだけの間柄だ。
理論2単位の授業をとらなければ卒業できない大学なんて、どうかしてる。今思い出しても最悪のプログラムだった。胸板だけが妙に厚い中年の教師が黒板に向かってたえずわけのわからないことを口走っていた。ぼくは毎週学部の隣にある体育局に向かい、時間だけが過ぎ去るのを必死に待った。
そこで初めて顔を合わせた彼女とどんな話をしたのだったか、今ではなにも覚えてもいない。しかし紛れもなくその彼女が、今ママがいなくなったとぼくに不安な顔をして、目の前で呟いているサトミだ。
「ママはね、たった一人で私を育ててくれたの。パパが事故で死んじゃってからはたった一人で」
サトミはそう言ってほんの少しだけ涙を流した。ぼくはぼんやりした頭のまま、苺のショートケーキを片方の手でつかむとそのまま口に頬ばった。なんだか退屈だった。
サトミはぼくの様子を見て、愉快そうにふふふと笑った。
「なんかおかしい?」
「ううん、別に」
それからサトミはママのことをすっかり忘れたのか、あれこれと違う話をした。ぼくはその間、適当に相槌を打ち続けた。

また1匹生まれた。シマシマのついたのが。デカとチビがいつの間にか交尾したようだった。ぼくはそれがいつ行われたのかを知りたかった。あのチビがどうやってデカに仕掛けたのか。その瞬間が見たい。
あるいはどちらからということもなく近づいていったのだろうか。サトミが来てからもう一週間がたつ。あの時にはそんな気配などどこにもなかった。
今朝目覚めてみたら生まれかかっていたのだ。はじめ、それはうっすらとした縞模様で、半日もした頃、はっきりとした横縞が身体全体に浮き上がってきた。これでとうとう8匹になった。幸いなことにまだ共食いをしていない。餌が十分にあるせいだろうか。それとも水がきれいで魚たちも心が落ちついているからか。
サトミとはあれ以来会っていなかった。やっと学校へ行けるまでに回復したのに、ちっとも足は駅にむかわない。電車に乗るなんてとんでもないことだった。ぼくは本当に怠け者になってしまっていた。母が心配してそれとなく食事の時に学校はいいのと訊くが、ぼくは今はいいんだと言ってとぼけていた。
「この前お見舞いにきてくれたお嬢さん、すてきな人だったじゃない」
母は思ったことしか言わない。それだけにちょっと怖いところがある。妹の玲子よりもっと鋭い言い方をする時さえある。
「ほんとにそう思う?」
「そう思うわ。きれいな目をしてた。今時珍しいくらい。玲子もそう言ってた。こういう人もまだいるのかなってちょっと羨ましかったって」
「何が羨ましいんだろ?」
「何かしらね」母はそう言って少し笑った。
「同じクラスの子?」
「そうじゃない。体育の授業で一緒だったんだ」
「そう、大事にした方がいいわね、あの人は」
ぼくはどういう意味で母がそう言ったのかを訊こうとしたが、結局やめた。ひょっとすると母はもう感づいているのかもしれない。ぼくとサトミはなるべくそうじゃないように振る舞ったつもりだったが……。
澄んだ目か、そうだよなと独り言を呟きながらぼくは自分の部屋へ引き上げた。あの目に吸い込まれてしまったのだ。最初のセックスの時もそうだった。自分から誘ったというより、知らず彼女のベッドに潜り込んでしまっていた。これは言い訳じゃない。吸い寄せられたのだ。というより射すくめられたようでどこにも逃げられなかった。
あの時もたしかママなんていなかった。よく考えてみるとサトミがママと呼ぶ人はいつもいない。本当なのだろうか。初めからいない可能性の方が強いような気さえする。だまされてる。ぼくはそう確信した。
ついでに言えば、ママの恋人とかいうのもだ。そんなのがいるとはとても思えない。
あれから1週間、サトミからの音信はなかった。メールも無論ない。ぼくの方から連絡を取らない限り、関係が永遠に断ち切られてしまっているかのようだった。しんとした時間が二人の間を流れている。ぼくは彼女になにも望まなかった。胸に顔を埋めて泣く必要もない。ぼくは完全に一人で生きていけた。

サトミの知り合いだと名乗るYさんという人から電話がかかってきたのは、ぼくがいつものようにダージリンを飲みながら、魚たちに栄養剤を与えている時だった。ぼくは細心の注意を払いながら、数字とアルファベットで構成された栄養を与えた。多すぎてはだめだった。必要以上の栄養は彼らを急に弱らせた。特にぼくが眠っている間、彼らはそれを次々と貪欲に自分の血と肉にしてしまう。それが一番いけないことだった。
血管の硬化、心臓への負担、それに肥満。ばかげているが、それが事実だ。マニュアルにない部分は自分で想像しながらキーボードに向かって打ちこんでいった。チビならばいくらのカロリーが最適か。デカはどうか。そして生まれたばかりのシマシマは。
Yさんはぼくに向かって突然電話したことの非礼を詫びた。
「……私はサトミさんの知り合いなんですが」とYさんは確かにそう言った。
声が随分と遠くから聞こえてきた。
「澤田くんはサトミと同じ学部なんだそうですね」
Yさんは最初、ぼくにそう訊ねた。
「ええ、まあ」ぼくは曖昧な返答をした。Yさんがなんの目的で電話をかけてきたのかを、全身で知りたかった。
「あのう、どういうご用件なんでしょうか?」
「サトミがいつもお世話になってます」
声の感じではかなり年輩の人のようだった。50代だろうか。ぼくは曖昧な相槌を打った。
「もうご承知かと思いますが、サトミの母親がここしばらく入院をしております。そんな関係で、どうも学校へ行っている気配がなく、部屋にこもっているらしいんです。いくら知り合いに電話してもらっても出ないようですし、全く困っています。あの子には前からああいうところがあって……」
ぼくはサトミさんと言ったり、サトミと呼び捨てにしたり、あの子と言ったりする男の正体をはかりかねていた。
父親なのだろうか。あるいは親戚か。ひょっとするとママの恋人だとかいう可能性もある……。
「今までは彼女のマンションの近くに住んでいる私の知り合いに時々様子を見てもらっていたのですが、あいにくその人も先日から出張で、ここしばらく家の方に顔を出していないんです。しかし幸い、澤田くんの名前をサトミが何度か口にするのを聞いていたようでして、ご迷惑かとは思いましたが、少しお話を伺おうと……」
「ぼくのことをですか?」
「ええ、澤田くんのことだけはサトミが何度も話していたらしいんです。どうもあの子にはあまり友達がいないらしくて」
サトミが部屋のなかにじっとこもっている。母親が病気。サトミの知り合い。マンションに時々顔を出す人。
情報は次々とぼくのなかにインプットされ書き換えられた。しかし脳のどの回路にもつながらない。知り合いに向かってぼくのことを喋るサトミをすぐには想像できなかった。
ぼくは仕方なく大学でサトミと知り合うようになったいきさつ、その後の付き合いの程度などをところどころポイントだけつまみ上げるようにして説明した。もちろん彼女がママの失踪を告げたことも、ママの恋人の事故死について語ったことも、全てカットしたし、サトミとのセックスのことなどおくびにも出さなかった。
「こんなことをお頼みするのは、まことに非常識なことですが、少しあの子を見ていてもらえないでしょうか。いえ、何をというのではなく、時々様子を知らせてくれればありがたいのですが。なにしろあの子の母親が入院した頃から、様子がなにもわからなくなってしまって」
「あのう、さしつかえなかったらでいいんですが、サトミさんのお母さんはどんな病気なんですか」
ぼくがそう訊くと、
「それが詳しいことは私にもよくわからないんです」と言葉尻を濁した。
「サトミさんはそのお母さんのお見舞いに行ったりしてるんですか?」
「ええ、時々は行ってるんじゃないでしょうか」
ぼくはつまらないことを訊ねた。どっちだっていいことだった。
「もう一つだけ訊いてもいいですか?」
「はあ」
「Yさんは先ほどサトミさんの知り合いとおっしゃいましたけど、どういうご関係なんですか。もう少し具体的に教えていただないと、ぼくとしてもどうしていいかわからないんですが」
「ああ、そのことですか。ごもっともです。今度私が東京に戻りましたら、こちらから一度お電話します。その時はゆっくり付き合ってください。申し訳ないが今は勘弁してもらえませんか。」
Yさんにそう言われ、ぼくはそれ以上何も付け足すことができなくなってしまった。
「私もはやく今の仕事にけりをつけて東京に戻りたいんです。しかしなかなかわがままも言えなくて。それで本当に勝手なお願いで恐縮なんですが、なにか変わったことがありましたら、お手数ですがちょっと電話をいただけませんでしょうか。本当はこんなことを見ず知らずの方にお願いするのはどうかしてるんですが、他に頼める人がいなくて……。全く自分勝手なお願いで失礼だとは思いますがどうかよろしくお願いします」
Yさんは自分の連絡先を告げ、何度も申し訳ありませんがと言いながら、電話を切った。ぼくはYさんとサトミの父親の姿を一つの像に結ぼうとした。もし父親でないにせよ、話し方から見て親戚には違いない。ママの恋人という人にしては話の調子が少し違うような気がする。
どちらにせよYさんが本当に弱り切っているということだけはよくわかった。しかし自分の正体を明かさないで人にものを頼むというのは、あまりにも常識はずれだ。
受話器をおいた時、ダージリンの入ったカップは既に冷たくなっていた。
チビとデカが目の前のディスプレーの中を気持ちよさそうに泳いでいる。サトミの飼っている魚たちはまだ元気にしているだろうか。

Yさんの言った通り、その日サトミは何度かけても携帯には出なかった。メールもやはり無駄だった。
ぼくは1時間ほどしてから、久しぶりに外に出た。足首を捻挫して以来、1週間以上外の空気を吸わなかったことになる。考えてみれば、サトミとまったくおんなじだ。案外彼女とぼくは似たところがあるのかもしれない。
靴を履こうとして玄関のたたきに立った時、一瞬めまいがした。おまけに電車に揺られたせいで、サトミのマンションについた時には、猛烈に気分が悪かった。
ぼくはサトミのいる部屋を目指して一直線にエレベーターを上った。とにかく何から何まで訳がわからず、あれこれ考えるとまた気分が悪くなった。
チャイムなんか鳴らしたってどうせ出てこないかもしれない。合い鍵を持っているわけじゃなし、顔を見せなかったらどうすればいいのか。ぼくは少し吐き気の残る胃のあたりをさすりながら、彼女の部屋のチャイムを鳴らした。
だからサトミが何度目かのチャイムに応答して出てきた時には、いささか拍子抜けしてしまったくらいだった。
あっ、澤田くんと言いながら、彼女は眠そうな目を何度もしばたたいてぼくの顔を見た。そして今何時かなと訊いた。ぼくはあきれてなにも言う気がしなくなった。パジャマ姿のサトミは本当に眠りから覚めたばかりのようだった。まるで冬眠していたカエルが久しぶりに陽を浴びたような顔つきをしている。
「どういうことだよ、これは」
ぼくは少し切口上になった。
サトミはくしゃくしゃに丸まった髪を手でかき上げながら、ぼくの顔をじっと見続けた。
「どういうことって?」
「ママが失踪して、捜索中じゃなかったのか」
「そうね、あっ、そうだった」
ぼくはサトミがそう言った瞬間、マンションのドアを思いっきり閉め、その場をすぐに立ち去る気になった。ふざけるな。どこの誰かわかんないけど、Yさんとかいうのが見てきてくれっていうから、わざわざ電車に揺られて出かけてきたのに、そうだったはないだろう。サトミが女じゃなかったら、顔面に一発入れているところだ。
「じゃあな、おれ帰る」
ぼくはエレベーターの踊り場まで勢いよく走った。バカにするのもいい加減にしろ。胃がむかむかして気持ち悪かった。
ちょっと待ってよとサトミが飛び出して来るのを、ぼくはそれでも少し期待していた。しかし、後には静けさだけが残った。廊下はがらんとして、寂しかった。ぼくは一人でぶつぶつ言いながら、北風の吹く道をまっすぐ駅まで歩いた。商店街が妙ににぎやかで、そのことにも無性に腹がたった。

「ごめん、怒ってるでしょ」
サトミから電話があったのは、その日の夜遅くだった。
「あったりまえだろ」ぼくは無愛想だった。
「ごめん。あれからずっと考えてたの」
「何をだよ?」
「私とあなたのこと……。夢もみたわ」
「夢か。それもいいな」
「どういう意味?」
「それだけの意味だ」
「怒ってるのね」
「ああすごく、ずうっと頭にきてる」
「ごめんなさい」
サトミはなぜ自分が謝らなくてはいけないのか、よくわかっていない。ぼくは直感的にそう感じた。
「そんなことよりいなくなっちゃったとかいうママはみつかったのかよ。随分心配したんだぞ」
ぼくはわざととぼけ続けた。少しいじめてみたかった。
「ごめんね。なんだかさがしてたら疲れちゃって」
「本当にさがしたのかよ」
「さがしたわ。親戚なんて少ししかいないけど、それでもあっちこっちに電話して」
「あっちこっちって」
「いろんなとこ。一口じゃ言えないわ」
「……それで最後は病院にいたっていう訳か」
ぼくがそう言うと、サトミは一瞬身体を硬直させたかのように、押し黙ってしまった。その様子がまっすぐに伝わってきた。かすかな雑音だけが、長く耳の底に響いた。
「どういうことなの?」サトミはようやく本当に目を覚ましたようだった。
「だからそういうことだよ」
「意地悪しないで詳しく話して」
「きみが知らない訳ないだろ。Yさんとかいう人に全部聞いたんだから」
「Yさん?」
「そうだ。だから何を言っても無駄だ」
「それだれのこと?」
サトミは不審そうな声を出した。
「きみの知り合いだって言ってた。なんでもきみのとこに時々いく知り合いがいるんだってな」
「近藤さんのことかしら?」
「ぼくは誰だか知らないけど、とにかくその人の知り合いで、S市にいるんだそうだ。なんだか複雑な話だけどさ。とにかく電話があったんだよ、昨日。Yさんっていう人から。それでその人に君のことを頼まれたっていうだけのことだ。何であんな嘘をつかなくちゃいけないんだ。ぼくはあんまり人を信用しないたちだけど、きみの話は結構信じてたんだ」「私、本当のことしか話してない。誰そのYさんっていう人。私知らない。本当に。初めて聞いたそんな人のこと。どこに住んでるって?」
「S市だって言ってたよ。ほんとに知らないのか。まだそんなこと言ってるのかよ。いい加減にしてくれ。それがママの恋人だなんていうわけじゃないんだろうな」
「ちょっと待ってよ。私にはYさんなんていう知り合いなんかいないわ。ねえ、どういうことなの。詳しく話して」
「これはぼくの勘だけど、なんとなくきみの親父さんのような気がした。事故で死んじゃったっていうのは本当にほんとなのかよ」
「ママはずっとそう言ってたから、私は信じてたけど」
サトミの言っていることはおそらく本当かもしれない。しかしそうだとすると、サトミの母親がずっと嘘をついていたということになる。
「まあ、いいや。それじゃあ、そのママが病院にいるっていうのは本当なんだな」
「うん、それは」
サトミは素直に答えた。
「なんでどっかに消えちゃったなんて嘘ついたんだ。おれ結構心配してたんだ」
「ありがとう。やっぱり澤田くんだけ」
サトミは急に嬉しそうな声になった。
「ママっていう人はいったいどこが悪いんだ?」
ぼくは自分の怒りが別の方向に傾いていくのを感じた。それは微妙な感情の流れだった。
「ごめん、今そのこと話したくない。あんまり細かいこと話す気分じゃないの。なんだか眠たくて」
「薬でものんでるのか」
「うん」
サトミの話は要領を得なかった。
「睡眠薬?」
「そう……。だってここんとこ全然眠れないんだもの。生理が終わってからずっとだめ。何時になっても目が開いたままで」
サトミが毎晩薬をのんで眠っている様子が、ぼくの脳裡に浮かんだ。
「もう一度聞くぞ。きみの親父っていうのはS市に単身赴任してるんじゃないのか。時々お母さんがそこに電話してて。きみのことで連絡をとりあっていて……」
「S市? 知らない。私のパパはもういないもの」
ぼくは少し自棄になって、
「わかったよ、わかった。じゃあ、さっき言った近藤さんとかっていうのはいったい誰なんだ」と訊いた。
「ずっと前から時々来てくれるの。部屋の中を片づけてくれたり……」
「メイドさんなのか」
「そう、そういう感じの人」
「その人にぼくのこと話したことあるか?」
「覚えてない」
「本当だな」
「本当。でも話したことがあるかもしれない。よく覚えてない。なんだか眠い。頭の中が痛くなってきちゃった」
「睡眠薬中毒のお嬢さんはどうしようもないから、妄想で頭の中を一杯にして早く寝た方がいいよ」
ぼくはぼそっと思ったことを口にした。
その瞬間、電話口の向こうからサトミの甲高い泣き声が聞こえてきた。それは今まで聞いたこともない細い声だった。
「どうしたんだよ?」
ぼくがいくら訊いても返事はなかった。そしてすぐに切れてしまった。
ぼくはS市で心配しているYさんに電話して、あんたの娘は睡眠薬で頭がいかれちゃってるとでも告げたかった。そうすれば、仕事を放り投げて、戻ってくるだろうか。
ぼくは少し疲れた。サトミの泣き声が耳の奥で何度も反響した。
妹の玲子が話の途中、部屋を覗きに来た。しかし相手がサトミだと知ると、すっと自分の部屋に戻った。きっと耳をすませて話の一部始終を聞いていたに違いない。ぼくとサトミの関係をどう思ったのだろうか。
ぼくはコンピューターの電源を入れた。懐かしいファンの音がする。チビやデカに会いたかった。食事をきちんとしているだろうか。水は汚れていないだろうか。
ハードディスクがカリカリッと心地よい音をたてて回る。ここだけは全てぼくの知っている世界だった。ここには無駄なものがなにもない。あらゆるものが、ぼくの意志でコントロールされている。その心地よさに浸っていられる。
しばらくして画面が完全にぼくの世界になると、チビがすぐに現れた。デカは大きな藻の陰に隠れて出てこない。シマシマはどこへいってしまったのか。その姿がどこにもみえない。チビは明らかに媚びていた。何か言っている。ぼくは耳をすました。
ほら急いで水の状態を見てごらん。瀕死の状態になったっておかしくはないぐらいの酸欠だ。今欲しいのは酸素だ、酸素。それに栄養も。いつもの倍くらい入れてくれ。さもないと、みんな死んじまうよ。
ぼくは慌ててキーボードに向かう。今何時だろう。サトミからの電話はかなり遅い時間だった。たぶん11時を過ぎていたろう。この調子じゃ全ての環境を設定し直すのに、一時間以上かかる。レベルは確かに悪くなっていた。今までで最悪の数値だ。
キーボードの感触がいつもより粘っこい。指の先に前の数字のタッチが残る。どの数字を入力してやればいいか。最適の値をはかる。そのためのツールまでついている。いいソフトだ。ぼくは次々と画面の指示に従って新しい数を入力していった。そのたびに魚たちの動きがよくなっていく。その様子がはっきりと見える。それは小気味いいくらいだった。
デカが藻の陰からすっと現れた。いつもより動きがゆったりとしている。よく見ると尾ひれに色がついている。前にはなかった色だ。何もかもが次々と新しく変わっていく。ぼくは自分で水槽の中を支配しているつもりでいたが、実際は彼らに裏切られているのかもしれない。時間が進むたびに内容が刻々と変化していく。その動きについていけない。ぼくの中に確信のようなものが芽生えた。一人取り残されてしまったような寂しい気持ちになった。
消してしまおうか。全てのファイルを消去してしまう。
ぼくはその考えにしばらくの間、熱中した。身体が熱くなった。
サトミが耳の奥で突然泣き出した。その声がずっと響き続けた。ぼくはもう一度電話して謝らなくてはならなかった。メールでもいい。すぐにしなくてはいけない。しかし手が動かない。
死んでしまうかもしれない。眠ったまま、目が閉じたままになる可能性もある。消去されてしまう。自分の意志とは全く関係なく……。その結果を誰も知らない。気にもならない。
遠くでサイレンの音がした。

サトミと連絡がつかなくなって、1週間がたった。ぼくはやらなければいけないことをたくさん抱えていた。学校に行きたくないと思い始めてから、部屋の中でなんとなく文章を書き出した。もう2週間近くになる。
最初の書き出しからみると、登場人物が次々と変わった。最後はとうとうサトミ自身が主人公になってしまった。それも彼女の少女時代を勝手にぼくがイメージして。
これはもしかすると必然だったのかもしれない。なぜかうまく説明できないけれど、思いつきだけじゃない。確かにイメージが広がらなくて、無理にサトミを登場させはしたが、しかし後で考えてみると、それはやはり自然なことだった。。
サトミが出てきてから、ぼくの文はどんどん進んだ。自分でも不思議なくらい内容が生き生きとし始めてふくらんだ。
無論、カーソルには少しの瞬きもない。いつもぼくの入力をただじっと待っている。眠れない女は登場させない。全ての登場人物たちが眠る。それも目一杯に脳の疲れを休めるための眠りを眠る。
サトミは少女の息づかいを強く感じさせる女だった。
もう一つ、ぼくの中では完全にYさんが父親の役をしていた。あれ以来電話をしてない。Yさんにもサトミにも。気になる。確かに気にはなるが、どうでもいいという気分がぼくの半分以上を支配している。どうでもいい。結局なるようになる。
メールもやめた。
ぼくがキーボードを叩いている間、水槽の魚たちはずっとディスクの中で生き続けていた。ぼくはそのことをたえず意識しながら、ディスプレイに向かった。言葉を紡ぎ出すたびに、魚が画面の裏側で踊る。
この感触は気持ちがよかった。透き通った水の中を魚が泳ぐ。透明なあくまでも澄んだ水だ。
ぼくは水の粒子の中に意識を移動させながら、言葉を次々と生み出していった。魚たちが次の生命を生み出すよりずっと早い速度で。
この言葉はやめた方がいいよ、とどこかで誰かが囁く。ぼくはその感覚に身を浸しながら、指をキーボードのあちこちに移動しながら、文を作った。
もちろん、ぼく自身もその中にいたと思う。明らかにぼくの中の少年もいた。いつも母の後ろで我慢をしていた自分を文章の中に封じ込めた。今まで封印されて息苦しそうにうめいていたぼくを文の中にたたき込んだ。なぜ我慢したのだったか。諦めていたのか。その時のことを何度も反芻し、思い出しながらぼくは書いた。
もう少しだった。どこに収束していけばいいのか。ぼくにはよく見えていなかった。しかしなんとなく終わりの予感だけは、ぼくの中にあった。もう少しだ。何度も息詰まった時、ぼくはそう独り言を呟いた。
ぼくは外に出たくなかった。意識の持続を奪われてしまうような気がした。
風の音も時折は聞こえた。バイクの甲高い排気音も時に耳に響いた。しかしそれはぼくからずっと遠いところにいた。
Yさんから再び電話があったのは、ほとんど原稿が完成しかかって、最後の推敲に入っている時だった。前よりもずっとくぐもった声で、心なしか元気がなかった。Yさんはなぜ電話をくれなかったのかとぼくを少し責めた。ぼくはしたくなかったからしなかったと返事をした。
「こんなこと言える義理じゃないんですけど……。やっぱり澤田くんも現代っ子なんだなあ」
Yさんは感に堪えたような声を出した。
「ぼくがあなたには理解できないっていうことですか」
「はっきり、そうとは言えないけど」
Yさんはそう答えながら、はっきりそうだと肯定していた。
「でもおかげで、私も東京に戻れそうです。あれから電話が全然ないので、サトミのマンションに結局顔を出しました。いくらチャイムを鳴らしても何の応答もなく、仕方がないので最後は知り合いの家に顔を出して鍵を借りました」
「彼女、どうしてました?」
「寝てました。スースー寝息をたてて。ただそれだけのことです。薬でした。前から少し使っているのは知ってましたけど、かなりの量をのんでいたようです。知り合いの医者に頼んで、診てもらいました」
ぼくは眠いと言いながら、泣いていたサトミの声を思い出した。あの後ひょっとしたらと思ったのも事実だ。すぐに駆けつけてドアを開けてとも思った。しかしぼくは少しも動こうとはしなかった。
「で、医者はなんて?」
「ええ、まあいろいろあったんですが、結局入院させました。あの後すぐ。あのまま一人でマンションに置いておいたら、取り返しのつかないことになるだろうということだったもんですから」
「取り返しがつかない?」
「薬の……。まだ軽い症状だったけれど、あのままおいておいたらもっと重くなるというので」
最後に言った言葉をぼくは思い出した。
「それで、病院に入れてしまったんですか?」
「はい、母親と同じ病院にしばらく預かってもらうことにしました」
「親子でですか?」
「ええ、病棟は全く違いますけど」
サトミはどんな顔をして、寝てるんだろう。病院のベッドはよく眠れるのだろうか。
「失礼ですけど、Yさんはサトミさんの……」
「澤田くんが想像しているような関係じゃありません。ひょっとしたら私がサトミの父親だと思ったんじゃないですか。無理もありません。しかしそうじゃないんです。たんなる知り合いなんです」
「サトミさんがママの恋人と言っていた人とは?」
「なんのことかわかりませんけど……。きっとそれは別人のことでしょう」
「じゃあ、サトミさんの親戚の方なんですか?」
「いえ、ただサトミの母親とは昔からの知り合いです。べつに学校が同じとか、家が近いとかいうのではなく。ただ昔かなり親しかったということだけは事実です。その関係でサトミのことは他人の子供のような気がしません。時々、彼女のマンションに行ってもらってるのも、実は私の妹なんです。割合近くに住んでますから。でもサトミはそんなところまでは知りません。妹は彼女のママの知り合いということになってますから」
「なんだか随分複雑だな……」
ぼくは思わず独り言を呟いた。もしサトミのママとかつてYさんとの間に何かあったとしたら、その女の娘のとこにわざわざ自分の妹をやったりするだろうか。
「だから初めにそう言ったはずです」
「なぜわざわざ他人の娘のために?」
「なぜかわからないと言ったら、きみをバカにしたことになるよね」
Yさんは急にそこだけくだけた物言いをした。
「答えたくなかったら、無理に答えなくていいです」
ぼくはYさんの言い方に少し腹が立った。
「いや、答えたくないという訳じゃないけど、ただ説明するのに時間がかかるし、へんな誤解をしてもらいたくもないんで」
「誤解も何も、ぼくには全然わからないんです。サトミさんがどういう苗字だったのかということさえ、今はあやふやなくらいなんですから」
ぼくが口にしたことはその時の実感にものすごく近いものだった。なんという苗字だったのか。サトミなんていう知り合いがいたのかどうか。そのことさえもう怪しくなっている。今ぼくに確かなのは、少年だったぼくが母の後ろに隠れていた時の表情と、おずおず十円玉を握りしめていた時の掌の汗だけだ。
「全く申し訳ないです。要領を得ない話ばかりですみません。やはり一度お会いしましょう。実は今、東京なんです。久しぶりに戻ってきました。これから出てこられますか。時間が時間だから、無理にお誘いはできませんが……」
「どっちでもいいです。あなたが来いと言うのなら。行ってもかまいません。でもぼくはひょっとしたら歩けないかもしれない。ここのところ全く外に出てないんです」
妹の玲子の姿が、ちらっとドアの向こうに見えた。じっとぼくの話を聞いている。
やはり外に出るのは億劫だった。ぼくはわざわざ電車に乗って、外出すると思っただけで、気分が重くなった。
ぼくはサトミの入院先をメモしただけで、結局電話を切った。あんまり愉快な内容ではなかった。
玲子がやってきた。
「お兄ちゃん、最近へんね」
「どういうことだ」
「なんだか、キーボードばっかり叩いてて、全然外にも出ないし。天気が毎日どうなってるのか知らないでしょ」
「ああ、興味ない。だからどうだって言うんだ」
ぼくは電話の内容を盗み聞きしていた妹に腹を立てていた。
「べつに……。でもお母さん心配してたよ。あの子を家に連れてきてからだって。私があの子を大事にしなくちゃいけないねって言ったのが、いけなかったのかって」
「関係ないよ、そんなこと」
「そうかな」
「あったりまえだ」
「あの人、入院しちゃったの?」
「おまえはいちいち他人の話に首を突っ込むんじゃない。関係ないだろ。自分のことだけやってりゃいいんだよ。ほんとにうるせえな」
ぼくがそう言うと、玲子はぶつぶつ言いながら不服そうな顔で、二階に上がっていった。
手元には走り書きのメモだけが残った。そこには横浜にあるという大学の付属病院の名が書かれていた。
リノリウム板の床板に、反射している青い蛍光灯の明かりが窓の向こうにふっと見えた。

朝食の時、ミミのことを急に思い出した。ミミは大丈夫だろうか。いつもベッドの脇にちょこんと座っていた。Yさんはミミをどうしただろうか。もしその存在に気づかなかったとしたら、とうにひからびて死んでいるだろう。一緒に家まで連れていったのだろうか。ミルクでもあげてくれただろうか。サトミが自分の病室にまで連れていったとはどうしても思えない。
ミミはどうしただろう。ぼくは食事をしながら、そのことばかり考えていた。
「お兄ちゃん、今日も学校へ行かないの?」
玲子がパンをかじりながら言った。
「わたしも早く大学生になりたい」
妹の言い方には皮肉がたっぷりつまっていた。
ぼくは少し気が立っていたせいか、怒りがこみ上げてきた。
「うるさいんだよ、おまえは。いちいちおれのことに口だしするな。これ以上何か言うようだったら、本当に殴るからな」
「お兄ちゃんにそんなことできるの?」
玲子はどこまでも挑戦的だった。
妹が学校に行ってしまうと、ぼくの中でミミの姿がふくらんでいった。
急に思い出したのだった。それまでは猫の存在など頭の隅にもなかった。見に行こう。見に行って確かめなくちゃいけない。まだ生きていたら、まずミルクをやって、身体を洗って、それから……。ぼくの気持ちはなぜか際限もなくミミの方に傾いていった。
柔らかいあの毛の感触が掌の中に残っていた。くにゃっとした背骨も、鳴き声も。
母に出かけるとだけ言って家を出た。本当に久しぶりの外出だった。厚手のジャケットにオーバーを着込み、寒さに耐えられるだけの支度をした。
電車に乗った。身体が不安定でカーブのたびに左右に揺れた。車内で読もうとした本も結局開かないままに終わった。ぼくはずっと目を閉じて、ただ電車の揺れに逆らわないようにした。そうする以外に方法がなかった。
管理人に断らなければサトミのマンションに入ることはできない。そんなことはよくわかっていた。何とか事情を話して入れてもらうしかなかった。しかし猫の話なんかしたくらいで信じてもらえるだろうか。
サトミのマンションは冬の陽を浴びて、赤茶けたレンガ色をいっそう薄赤く染めていた。何度目だろう。初めて来た日、あの時にもママはいなかった。ママの恋人もいなかった。いたのはミミだけだ。あの子猫だけは確実な存在だった。タペストリーの模様は忘れてしまったが、ミミの身体の柔らかさは覚えている。爪で手をひっかかれたときの痛さも。
ともかくも管理人に事情だけは話してみよう。ぼくはそう一人で勝手に決めて、大きなガラスのはめ込んであるエントランスに向かった。
管理人室には誰の姿もなかった。チャイムを鳴らすと、しばらくして若い女の人が奥の部屋からあらわれた。ぼくはそんなに若い人が出てくるとは思わなかったので、少しびっくりした。
「あのう、ぼくは大野サトミさんの大学の友達で澤田といいますが、実は今彼女入院中なんです。それで昨日病院から電話があって、飼っていた子猫のことが心配だから、見てきてくれないか、と言われまして……。ところが鍵を預かっていないもので、部屋に入れないんです。開けてもらえないものでしょうか。もしかしたら、もう死んじゃってるかもしれないんです」
ぼくは話を少しわかりやすくするために嘘をついた。ちょっと間の抜けた役だと自分でも思いながら。
管理人室の若い女は、最初不審そうな顔をしてぼくを見た。仕方がないので、ぼくは自分の身分を証明するために、学生証を出した。そこにはほぼ一年前のぼくがうつっていた。なんだか妙に若くて、自分でも気恥ずかしかった。
女の人はおもむろに受話器をとると、一応確かめるためにサトミの部屋に電話を入れた。しかし当然誰も出なかった。
「猫ですね?」女はそう言った。まだ納得していないようだった。ぼくにはその女の人の顔が一瞬猫に見えた。ソバージュの髪型をした猫がいたっておかしくはない。
「ミミっていう名前なんです。すごくかわいがっていたので、ひょっとしたら病院に連れていったかと思ったんですが、そんなことがありえないことは、昨日の電話でわかりました」
「706号室の大野さんですね?」
「そうです。この前から入院してるんです」
ぼくは必死だった。なぜそんなことに熱心になったのか、自分にもよくわからなかった。
「わかりました。ちょっと待っててください。あなたのおっしゃっていることに嘘はないと思いますが、よほど緊急の事態でないかぎり、お部屋に入ることはできません。こちらでは鍵はまったく預かっていませんので」
「マスターキーはないんですか?」
「ええ、ありません」
「猫が干からびちゃいますよ」
ぼくがそう言うと、管理人の女の人はくすっと笑った。いくら話しても無駄だということは、話の途中でだいたいわかった。ということはサトミのいる病院へ行くしかない。彼女に話して鍵を預かり、それで部屋に入る。
そこまで考えてなんだかバカバカしい気もした。干からびた猫だっていいじゃないか。魚の餌ぐらいにはなる。ひょっとしてディスプレイの中の魚たちがカラカラになった子猫を食べちゃったとしたら、それも面白いかもしれない。
ぼくはなんとなく諦めきれずに、7階までのぼった。エレベーターホールの前はいつもどうり静かだった。猫の姿なんかどこにも見えない。706号室のドアは前と何も変わってはいなかった。
ぼくはやけになって思いっきり何度もチャイムを鳴らしドアを叩いた。
しかし中から応答があるわけもなかった。ベランダづたいに外から部屋の中の様子が見られないものだろうか。もしできるならやってみたい。そう考えながら、ぼくは仕方なくエレベーターホールに向かった。
その瞬間、突然廊下の奥の方で猫の鳴き声がした。それは確かにミミの声だった。最初幻聴かと思ったが、甲高くて鋭く、澄んでいる声だった。ぼくはその鳴き声をよく覚えていた。
ふっとその声に引き寄せられたように、振り向くと706号室のドアが開いていた。そこにはパジャマ姿のサトミが立っていた。濡れたままの髪から、蒸気が立ち上っていた。 ぼくはしばらくサトミの目を見つめた。声が出なかった。そこに立っているのは本当のサトミだった。
「どうしたんだよ?」
ぼくは大声で叫んだ。サトミに会えたことがすごく不思議だった。
「お風呂に入ってたの。ミミがあんまり鳴くから誰かしらと思って」
「チャイム何度も鳴らしたんだ」
「全然聞こえなかった」
「いつ帰ってきたんだ?」
「さっき。一度家に戻りなさいってお医者さんに言われて」
ぼくはその話をすぐには信じられなかった。睡眠薬中毒の患者を一週間足らずで家に帰したりしてしまうものだろうか。きっと逃げ帰ってきたに違いない。それ以外に考えられない。しかし嘘だろとは面と向かって言わなかった。
「Yさんに連れて行かれちゃったのか?」
「よく覚えてないの。気がついたら病院のベッドで眠ってたから」
「おふくろさんには会ったのか?」
サトミは首を横に振った。ぼくはドアを思いきり開けると、中に入った。散らかっていたら片づけてあげてもよかった。しかし部屋の中はいつもと同じように整頓され、人の住んでいるような気配はどこにも感じられなかった。
「ミミは連れてったのか?」
「ううん、忘れてた。……っていうより知らないうちに入院しちゃったから」
「よく今まで生きてられたな」
その言葉をミミにもサトミにも言いたかった。
「そう、ほんとに。ミルクをさっきあげたばっかりなの。おいしそうにずっと舐めて……」
サトミはそう言いながらバスタオルで頭を何度も拭いた。少し涙ぐんでいた。シャンプーの香りがあたりに散らばって、ぼくの鼻をくすぐった。パジャマを着たばかりのサトミの肌からは、湯の温もりが漂っていた。ぼくは突然キスをしたくなった。
今まで忘れていた感情だった。
サトミは甘かった。あたたかかった。ぼくは彼女の乳房を片手で強く押しながら、その口を思いきり吸った。時間がしばらくとまった。ぼくはサトミが突然好きになった。そのままベッドに誘おうとすると、サトミはいやいやをした。その拒否の仕方はそれほど強いものではなかったが、ぼくは無理強いしようとは思わなかった。
「さっき帰ってきて最初に何したと思う?」
サトミはお湯を沸かして紅茶を入れてくれた。ダージリンだった。ぼくが好きなものをよく知っている。
「ミミにミルクをあげたんじゃないのか」
「ううん、だってミルクなんて冷蔵庫に入ってなかったもん。何にもなかったの。泥棒に入られた後みたいだった」
「それでどうしたんだ?」
「買ったわ、下のコンビニで。でもそんなことより最初にしたこと訊いて……」
ぼくはサトミをじっと見つめた。前より身体全体が細くなったような気がする。顔が一回り小さくなった。
サトミはぼくの手を握ると、強引に机のそばまで引っ張っていった。そこにはミミの写真があった。生まれた頃の写真だろう。本当にちいさい。手の中に入ってしまいそうな大きさだ。
「見て」
サトミは大きな声を出してパソコンのディスプレイを指さした。
「帰ってきてすぐにスイッチを入れたの。お魚を見たかったの。とっても。なぜだかわかんないけど、病院にいるときからすっごく気になって。そうしたら、ほらあれ、あんな風だったの」
サトミの指さしたディスプレイには何もうつっていなかった。真っ白な画面がただ惚けたように、うつっている。
「お魚がいなくなっちゃったの。とけちゃったのよ。どこかに。共食いならまだいいけど。そうじゃなくてどっかにとけて消えちゃったの」
サトミに言われて、ぼくは画面を注意して見た。確かに何もない。ひょっとしたらと思ってバックアップのファイルをさがしてもみた。しかしどこにもない。Cドライブの中にもDにもどこにもなかった。
全てのファイルを検索してみた。しかしその姿は本当にどこにもなかった。
ウィルスにやられたのかもしれない。しかしもしそうだとしたら自分のが真っ先にやられるはずだ。魚たちは自分の入っていたファイルまで食いつくしたのだろうか。ピラニアに似た魚も確かにいた。しかし自分の記憶まで食い尽くさなければ我慢ができなかったのか。
ぼくはキーボードから手を離し、サトミに声をかけた。
「ダメだ、こりゃあ。きっとミミが食べちゃったんじゃないか。そうじゃなきゃ、あいつ今まで生きてなんかいられなかったよ。きっとそうだ。そうにちがいない」
ぼくはふっと言葉を吐いた後でその想像が、案外はずれてはいないような気がした。何かの拍子にミミが電源を入れることを覚え、その後カリカリとディスプレイに爪をたてながら、一匹づつ食べ始めた。これはおいしい。こっちのはまずいとか言いながら……。初めに頭から、堅い骨の部分だけは残して。次第に残りの魚が少なくなった頃、藻を食べることも覚えた。
そして全てを食べ尽くしたちょうどその日、サトミが突然部屋に戻ってきた。それも病院から脱走して。
ばかばかしい想像だった。サトミに何言ってるの、どうかしてるんじゃない、と言われて照れる自分の姿まで考えた。
サトミは窓の外をじっと眺めていた。ぼくの話など聞いている様子もない。
ぼくはサトミがあんまり真剣に外を眺めているので、つい黙ってしまった。風景に見とれているというより、自分の内側をじっと覗いているようにもみえる。
「見て」
サトミが言った。
ぼくはその声に促されるようにして椅子から立ち上がり、サトミの傍らへ行った。
「鳥がたくさんいるでしょ。ほらあのマンションのベランダ。手すりにたくさんとまってる」
サトミの指さす方向に、ぼくは目を凝らした。しかし指の先には何もみえない。
「どこだよ」
「ほら、あそこ、あのマンションのベランダ」
サトミは真剣だった。
ぼくにはしかし何も見えない。陽が随分と赤く大きくなって西に傾いていた。
ミミはどこへ行ったんだろう。泣き声もしなくなった。ぼくはもう一度サトミにキスしようとして彼女に近づいた。
サトミはまだ一心に外を見ている。

2001-04-22(日)

       ソナチネ

昼からすべてがうまくいっていた。
高速を150キロで飛ばした。遅くなってからとった昼食も悪くはなかった。
それなのにミユキは高速を降り脇道に入ってからしばらくすると、急に降ろしてくれと言い出した。
「どうしたんだ?」
「降ろして、いいから」
その言い方はあまりにも唐突だった。
「ここでか」
「そう」
「アパートまで送ってってやるよ。どうしたんだよ、急に」
「どうしたっていいでしょ。いいからここで降ろして。歩いて帰りたいの」
達彦には訳がわからなかった。
「今日、あの人が来るの」
ミユキがさりげなく言った。
「あの人って?」
「母よ……」
ミユキは前を向いたままだった。達彦には表情が見えない。
「なんで最初に言わなかったんだ」
「なんとなく……」
「本当なのかよ?」
「本当よ」
「あやしいもんだ」
「信じてくれなくてもいいわ」
達彦が同じ言葉を繰り返した途端、嫌いよとミユキが吐き捨てるように言った。
道はそれほど混んではいなかった。
「どうしても降りるのか」
「うん」ミユキは強情だった。
「ガキみたいなこと言うな、いい年しやがって」
達彦は頭を下げてまで女のわがままに付き合う気はなかった。ハザードランプをすぐに点滅させて車を脇に寄せ、ミユキを降ろした。
ドアを開けた瞬間、生臭い海の匂いがした。浜に打ち上げられた海草の匂いだ。台風が来る、とラジオが叫んでいた。
達彦はミユキを道端に捨ててから、一気に走った。スピードが上がった。信号をふたつ無視した。家までの道のりはたいしてなかった。昼前に電話した時、高速を思いっきりぶっ飛ばそうと言ったら、嬉しそうな声を出してたのに。
その瞬間だった。
横町の狭い路地から犬が飛び出してきた。はじめそれが何だかよくわからなかった。ただの黒い塊にみえた。視界の中になにか浮かび上がったなと思った時はもう遅かった。急ブレーキをかけた。鈍い音と一緒に衝撃がすぐやってきた。
達彦は急停車した。慌ててドアをあけた。しかしどこにも犬の姿はなかった。
風の音がする。台風が来る。今のは錯覚だったのだろうか。確かにどんとあたった感覚がまだ身体の中に残っている。
達彦は生臭い風を浴びながら、台風がはやく来ることを願った。

ミユキから電話があったのは、それから3、4時間ほどした頃だった。達彦はソファーに寝そべったまま、眠りこんでしまったらしい。呼び出し音が鳴ってもしばらく気がつかなかった。
「大変なの……」
ミユキは甲高い声を出した。先刻、別れた時の調子とは全く違っている。
「どうしたんだ?」
「すぐ来て。今救急車を呼んだとこ。急に頭痛いって苦しがって」
達彦はまだぼんやりしていた。
「何いっても反応がないの」
誰のことをいってるのか、最初のうちはよくわからなかった。
「そんなことどうだっていいから、すぐ来て。足が痙攣してる。まだ来ないのよ、救急車が」
ミユキが母親のことを言ってるらしいということは、しばらくしてやっとわかった。半分泣き声だった。
「死んじゃうかもしれない」ミユキは何度も叫んだ。
達彦はミユキの話を聞きながら、ふっと犬のことを思い出した。
外に出ると風が強くなっていた。雨が顔に斜めからぶつかってくる。達彦はどうせミユキのとこへ行くのなら、さっきと同じ道を走ってみようと思った。
キーを入れてアクセルをふかした。エンジンの調子はいい。達彦は尻のポケットにいれてあった皺くちゃのハンカチで顔をゴシゴシ拭った。
彼はライトに反射する濡れた路面をじっと見続けながらミユキのアパートまで走った。時に目を細め、光るライトの先端を見た。道の脇にも目を凝らした。
アクセルにのせた足を心持ち軽くした。スピードが落ちる。雨がフロントガラスを激しくたたいた。
達彦は暗い道に再び目を凝らした。

「わたしはあの人に捨てられたのよ」
ミユキは前にちょっとだけ家の話をしたことがある。高校の頃、母親の再婚した先にしばらく同居していたが、いずらくなって出てしまったのだという。
「わたしだけを残して父は死んだようなものなの」
ミユキはかたくなだった。
「あの人の夫が時々あの人にお金をもたせてよこすの、それが厭で……」
「断ればいいじゃないか」
「……そうね」
「断れよ。断っちまえよ」
「どうしてそんなこと簡単に言えるのよ、わたしのことなんかよく知らないくせに」
「だったら俺にそんな話するな」
達彦が少し強く言うと、ミユキは放り出されたような寂しさを顔にあらわした。

ミユキのアパートは真っ暗だった。
鉄のドアに張られた紙が風に激しく揺れていた。
「部屋の中で待ってて下さい。病院に着いたらすぐ電話します」
達彦はミユキのいない部屋が嫌いだった。一人でぼんやりしていると、時間を持て余してしまう。
食卓に食べかけのブドウがのっていた。母親が来たというのは本当なのだろう。ソファーに座っていると、ミユキの匂いに幻惑された。ヘヤームースの匂いだろうか。そこかしこにこびりついている。
達彦は部屋の窓を思い切り開けた。花柄のカーテンが一斉になびく。雨が吹き込んできそうだった。
達彦はテレビをつけた。
コマーシャルの間に臨時ニュースが挟まった。アナウンサーの声が、窓から吹き込んでくる風に混じる。最大瞬間風速40メートル。もっとも西よりのコースをとると、今日の未明、伊豆半島に上陸、雨風ともに強いので要注意。それだけのことを繰り返している。
汗が出た。湿気がかなりある。達彦は窓を閉めに立ち上がった。

ミユキから連絡があったのは、それから5、6分してからだった。
「どこにいるんだよ?」
「市立病院」
「そっか」
達彦はやっぱり本当だったんだなと思わず口に出しそうになった。
「わかった。……とにかく行くから、待ってろ」
「お願い。わたし一人じゃ心細い」
ミユキは珍しく弱音を吐いた。
「具合はどうなんだ?」
「注射うってもらったわ。全然意識がないの。今スキャナーとってるとこ。もしかしたら手術するかもしれないって」
喉が渇いた。達彦は生ぬるい水を一杯飲んだ。
雨が強くて前がよく見えなかった。ワイパーを一番はやいのにした。大粒の雨がたえず目の前で交差する。
台風は今どこにいるのだろう。達彦はラジオをつけた。広い通りを一直線に進む。前を走る車から水しぶきが飛んだ。
外気との温度差でフロントガラスがすぐにくもってしまう。達彦は何度もハンカチで内側から拭きながら走った。ちょっとでも気を抜くと、信号を見落としてしまいそうになる。
掌が汗で濡れた。
駐車場から正面玄関に走っていく間に、ズボンがびしょびしょになった。救急外来の赤いランプがそこだけ回転している。
ミユキは奥まった待合室の長椅子に腰掛けてじっとしていた。髪を後ろで束ねているせいか、いつもより輪郭がはっきり見えた。
「来てくれたのね」
「あたりまえだ。それよりどうなんだ?」
「検査が終わりしだい、説明してくれるって」
「向こうのうちの人は?」
「あれから電話してみたけど」
ミユキの話し方にいつもの元気さはなかった。達彦はハンカチを出してズボンの裾を拭いた。
「びしょびしょね」
「すっごい雨だ」
「そうみたい、ここにいても音がするもん」
「それより今日の話は本当だったんだな」
「わたし嘘なんかつかないわ」
リノリュウムの床に蛍光灯の光が映る。
「とにかくもう一度電話してみろ。帰ってるかも知れないから」
ミユキはこくりと頷くと素直に電話機の前に向かった。救急外来の診察室だけがいやに明るい。看護婦が絶えず出入りして、慌ただしかった。
「すぐ来るって、やっとつかまった」
しばらくするとミユキはホッとした顔つきで戻ってきた。
「連絡がついてよかったな」
「いれば必ず来るわよ。あの人は大事にされてるんだから」
「どうしてわかる?」
「男の子をうんだのよ、今から4年前に。あの人はその子の大切な母親だもの」
達彦は思わず、彼女の表情を覗き見た。しかし顔色ひとつ変える様子もなかった。玄関の隙間から漏れてくる風が唸った。

男が病院にやってきたのは、それから4、50分たった頃だった。達彦に軽く会釈をした後、ミユキに病院に運びこまれるまでの様子を訊ねた。肩幅が広く、やや小太りで、一見して勤め人風ではなかった。
「急に苦しがって。おまけに痙攣まで起こしたものだから……」
「そうか」男は一瞬天井を仰いだ。
「最近、調子悪いとかいってた?」
「そういや、血圧は高かったけどな」
「きちんとみてあげないと」
「ああ、わかってる」
「もうすぐお医者さんの説明があると思うけど」
ミユキはそこまで言ってから、今日、ヒロくんはどうしたのと訊いた。
「隣の奥さんにあずかってもらってきた」
ミユキと男との間には、達彦の入り込めない別の世界があった。

急性の脳梗塞だった。すぐに手術をすると医者は言った。
30分程して、達彦はミユキをアパートまで乗せて帰った。
手術が終わるまでは残っていてやれよといったが、あの人がいるからといったきり、いうことをきかなかった。達彦は仕方なく、男に挨拶をして病院をあとにした。帰る途中、ミユキは助手席に黙って座ったきり、ほとんど口を開こうとはしなかった。
風が生ぬるかった。時折、車体が煽られ、達彦はハンドルを強く握りしめた。
「おなかすいたでしょ、ごめんね。なにかつくるから寄ってって」
「そんなことよりいいのか、お母さん、今頃手術の真っ最中だぞ」
アパートの輪郭が街灯の光に照らされてぼんやり浮き上がってみえた。街路樹の枝がひぎちられそうに左右に揺れている。
外階段の濡れた手すりにつかまりながら、達彦はミユキを部屋の中に押し込んだ。
「明日、また電話するから」
彼がそう言った時、ミユキは恐ろしい目をして達彦の顔を睨み、今日、死んじゃうのよ、いてよ、お願いだからと叫んだ。
「医者はそんなこと言わなかっただろ」
「ううん、死ぬのよ……」
「そうか。それならそれでもいいけど……」と言ってから、達彦は部屋の中央に座り込んだミユキを見下ろし、とにかく明日また来る、電話するからと告げた。
するとミユキは「逃げるの?」と必要以上に高ぶった言い方をした。
達彦が再び目をあわせた瞬間、ミユキはふっと身体の緊張をゆるめた。彼はとっさにミユキの唇をおもいきり吸いたくなった。達彦はそのまま絨毯の上に座り込んだ。ミユキは予感に満ちあふれた表情をしていた。
海の匂いがした。海岸に吹き寄せていた風の匂いだった。高速道路を思いっきり飛ばした午後の記憶が一斉に立ち上がってきた。まだあれからそんなに長い時間はたってない。
達彦はミユキを占領したかった。

頭から熱い湯をかけた瞬間、すっと身体が軽くなった。一日の疲れが抜けていく。ミユキのシャンプーで頭をごしごし洗った。その日一日の記憶をそのまま忘れてもいいくらいに強く洗った。
今頃、ミユキの母親は苦しんでいるかもしれない。いつ病院から電話があっても不思議はない。達彦は石鹸を身体中にぬりたくった。どうなったって、俺の知ったことじゃない。
達彦は頭から熱い湯を何度もかけた。風の音が風呂場にいてもはっきりと聞こえてくる。
シーチキンのいっぱい入ったトーストサンドはうまかった。ビールが身体にまわった。酔いが頭の隅にそこだけ空白の場所をつくった。達彦は何度もうまい、うまいと同じことばかりを言った。その様子を見ながら、ミユキは嬉しそうにうなずいた。
「昼めし食ったのは何時だったかな。あれからなんにも食べてない」
「ごめんね、わたしのせいで」
「そんなつもりじゃない。気にするな」
「他に誰もいないし」
「もういいって。とにかく、おふくろさんがよくなってくれることを祈ろう」
達彦は風呂場のなかで考えたことと、全く違うことを口にした。
「本当のことを言うとね……」ミユキは達彦の目を見ながら、複雑な表情をした。
「もう死んでもらってもいいの」
ミユキはかたくなだった。
「わたしおかしいね」
ミユキはふっと冷静になったのか、ビールを一杯呑んでからそう呟いた。
「よくわかんないの。本当のこと言うと……。憎いの、すっごく。でもそれだけでもないから。人には話したことないの、家のことは」
「言いたくないことは無理して話すことはない。俺は難しい顔をして話するミユキなんか見たくないよ」
「そうね、ごめんなさい」
酔いがしらずにまわっていた。
風の音が一段と強く耳にとびこんできた。台風だ。
「俺、やっぱり帰るよ。サンドイッチうまかった。また明日連絡する」
ミユキは止めようとしなかった。しかし寂しそうな顔をして、
「勝手なことばっかりいってごめんね」と言った。
「そう謝るな、厭なら来ない」
「ほんとに電話くれる?」
達彦はうなずいた。
「今日はとまっていってくれないでしょ」
達彦は今までにもミユキの部屋にとまったことはなかった。
「とにかく帰る。なんかあったら電話くれ」
「なんかって?」
「別に深い意味なんてないさ。ただ……」
「ただ何?」

達彦はズックを勢い良くはいて部屋を飛び出した。玄関のドアを開けた途端、生ぬるい風が首筋にはりついて離れなくなった。湿り気をたっぷりふくんだ熱い風だった。汗が額から吹き出た。
彼は外階段をすべりおちるようにして、車のドアまで一目散に走った。なかなかキーがうまくささらない。すぐに身体が濡れた。傘なんてあってもなくても同じだった。
シートに腰を下ろしてやっと自分のポジションが定まった。
酔ったわりに不思議と頭の中は澄んでいた。ワイパーを高速にした。そうでないと前が見えない。家まではたいした距離ではなかった。エンジンをかけた。ギヤーをローに入れる。アクセルを踏む。
風に向かって走り出す感触がよかった。気持ちがいい。ワイパーのスピードより雨の量が多い。ほとんど何も見えなかった。対向車のライトがまぶしい。達彦はスピードを落とした。エアコンが湿気を吸う。家までの道のりがいつもより長く感じられた。

翌朝、ミユキの電話で起こされた。
「まだ死んでないみたい。あの人」
達彦はその瞬間なんといっていいのか迷った。少し腹もたった。
「冗談でもそんなこと言うな」
「ごめんなさい」ミユキは案外素直だった。達彦は時計を見た。まだ7時だ。
「手術、成功したんだって」
「親父さんがしらせてくれたのか」
「うん」
「そうか、そりゃよかった。ゆうべはよく眠れたか?」
「まあね……」その言い方には明らかに嘘がまじっていた。
「風すごかったな」
達彦は一晩中、風の音を聞いていたような気がする。窓ガラスにふきつける雨に重なって風が怒ったように一晩中吹いていた。クーラーを弱くかけて横になったが、それでも寝苦しかった。
外がいやに明るい。庭が一面に濡れてあちこちに水溜りができている。
緑がまぶしかった。

ドアを開けると、ミユキは髪をとかしていた。
「来てくれたのね」
「約束だからな」
「ありがとう」ミユキは素直だった。
「昨日、ずっと風の音きいてた。父がどうして死んじゃったのか、そればっかり考えてた」
「親父さんは病気だったのか?」
「よくわかんない」ミユキは途方に暮れたような顔つきをした。
達彦は狐につままれたような気持ちでミユキの顔を覗き込んだ。
「前に死んだっていったのは嘘なのか」
「ううん、父はもういないの。だから死んじゃってるの」
「おふくろさんに今まで訊いたことないのか?」
「訊いたわ、何度も。でも死んじゃったって、それだけ」ミユキは呻くように言った。

2時少し前、市民病院へ向かった。車から降りると湿った熱気が身体にこびりついてきた。広い駐車場の隅にはほんの申し訳程度の池がつくられていた。噴水の水が四方に飛び散り、涼感を誘った。
「親父さん来てるかな」
「わかんないわ、仕事で忙しいっていってたから。それに子供のこともあるし」
ミユキは病院へ着いた途端、覚悟ができたのか、急に背筋をのばした。
待合室は外来の患者でごった返していた。昨日の静けさが嘘のように、フロアーは人であふれている。いくつもの色に塗り分けられた線があちこちの階段の先にまで伸び、それに沿って人が歩いていた。
ICUの待合室は外来の入り口からは遠い、病院の奥まったところにあった。
ミユキはナースセンターへ行って、面会を申し込んだ。彼女が看護婦とやりとりをしている間、達彦はあたりを見回した。昨日来たときと同じ場所にいるというのに、どこか風景が違ってみえる。
ミユキが廊下の向こう側から手招きをした。達彦はソファーから立ち上がると、ICUの入り口をめざした。自動ドアをはいったところで手を洗う。そして白衣に着替え病室に入った。機械のメーターが最初に目に入った。普通の病室とは明らかに違う。看護婦と医者がなにか話をしていた。ベッドが周囲にいくつも並んでいる。
この部屋から生きて帰れるものはそう多くないはずだ。消毒薬の匂いばかりが病室にこもって、息苦しかった。
ガラス戸でしきられたそれぞれのカプセルの入り口に、患者の名前をかいた札がぶらさがっている。そのひとつにミユキの母親の名前もあった。たしかに名前は小野寺ではなく、武井としてある。ミユキはこの名前が厭で、最後まで拒否し続けたのだ。
達彦は頭の上にある計器が気になった。心拍計や血圧計がたえず心臓の動きをチェックしている。病人は嘘のようにおとなしかった。ミユキは達彦が想像していたより冷静だった。最初に看護婦に頭を下げてから、病室に入り、じっと母親のわきでその眠った様子をみていた。彼女はそれから思いついたように、母親の手を握り、何度かさすった。
昏々と眠っているミユキの母親は、生きていても死んでしまっても同じようにみえた。
ミユキは何度も手や足をさすってから、母親が生きていることを確かめ、ベッドの脇を離れようとした。
「もう少しいいよ」
「いいの、これで。また明日くればいいんだから」
ミユキは彼の手を強く握った。
白衣を脱いで、ICUを出る時、達彦は次にここにくることがまたあるだろうかとふと思った。
達彦がふと待合室の方を振り向いた瞬間だった。彼より少し先に出たミユキが突然、大きな明るい声を出した。
「ヒロくん」
その声は病室にいた時のものとは全く違っていた。そこには昨日会ったばかりのミユキの義父と男の子の姿があった。
「今日は幼稚園休ませて連れてきた」
男は達彦に軽い会釈をしながら、ミユキに向かって話しかけた。
彼女は大きくなったと何度も子供の頭をなでた。
「どうだった、様子は?」
男は病室のなかのことだけが気になるというふうに、性急な訊き方をした。
「ずっとただ寝てるだけ。顔色はそんなに悪くなかったけど……」
「そうか、手術はうまくいったらしいけどな」
「長くかかったの?」
「終わったのは1時近かった」
台風が上陸した頃だ。達彦はぼんやりとそう思った。
「少し寝てきたの?」
「いや、ほとんど寝てない。これからの仕事の段取りもあるし……」
男の子は二人の間に挟まって、上を向いたきり、終始何もいわなかった。
「お母さんに会いにいくか?」
男がそう訊ねると、子供はうんとうなづいた。柔らかそうな髪がその瞬間左右に揺れた。

駐車場は熱した鉄板のようだった。コンクリートの照り返しが容赦なく、身体に食い込んでくる。台風が汚れを吹き飛ばしたせいか、空から降ってくる光の束が直線的で、少しの隙間もなかった。

「あの人、死んじゃった」
ミユキの電話は翌々日の昼過ぎかかってきた。
達彦はそうか、とただ思った。
「なんにも言わないまま、死んじゃった」
ミユキはいかにもつまらないことを話すように、抑揚のない声を出した。達彦はなにか慰めの言葉をいおうとしたが、頭がうまく回転しなかった。彼女の母の死が実感として身体のなかに飛び込んでこない。
どこか遠い場所で起こっていることのようだった。
考えてみれば、彼は一度もミユキの母親と話をしたことがない。どんな人かも知らない。現実味がなくてもなんの不思議もなかった。確実なのは、ただ一人の人間が死んだということだけだった。
「これから行く。ちょっと待ってろ」
「いいわ、無理に来てくれなくても。わたし平気だから。それにあの人が全部やってくれるって言うし。ただお手伝いをするだけ。なんとかやれるから、心配しないで」
ミユキは妙にかたくなだった。
「いいよ、とにかく行くだけはいく」
達彦は大急ぎで車に乗った。ガレージに入れっぱなしにしておいた車は、サウナそのものだった。ドアを開けた途端、こもっていた熱が一気にあふれかえった。キーをさす。クーラーのスイッチを全開にする。その瞬間、熱い空気の層が顔にあたった。
道はいつもより混んでいた。やがて橋の手前で車は全く動かなくなってしまった。達彦は正面から吹いてくるクーラーの風に身体を投げだしたきり、ギヤをローにしてじっと待った。事故でもあったのだろうか。いつもの流れ方とは明らかに違う。
あっちこっちの車からドライバーが顔を出して前方を見ている。事故だ。達彦は覚悟を決めた。いまさらUターンするわけにもいかない。救急車のサイレンが青い空に吸い込まれていった。
しばらく走ると、やっと警官の姿がみえた。パトカーの赤いランプがたえず明滅している。曲がり角だった。脇にとめられた車のフロントガラスが四方に散乱して、ひしゃげたバンパーには血糊がべったりとついていた。
倒れたバイクに乗っていた人の姿がどこにもみえない。道にかかれた白いチョークの後が生々しかった。人間の形がそこだけ浮き上がったようになっている。達彦はミユキの母親のイメージをその白い線の上に重ねた。
達彦は警官の指示する方向へ車を迂回させながら、事故の一部始終を目のなかに焼き付けた。病院へ着いたのは家を出て40分後だった。

ミユキはヒロくんと呼ばれた弟と一緒にロビーでアイスクリームをなめていた。達彦の顔をみると、食べかけのアイスクリームを上にあげてここだという顔をした。
「何してるんだ、こんなとこで?」
額から汗がふき出た。急いでいたためハンカチを忘れてきてしまった。
「まだ何もすることがないの」
「お母さんは?」
「地下よ。地下の霊安室。あっという間に運ばれちゃった」
と言ってから、達彦の顔を下からじっと見つめた。
その目を見た瞬間、彼は言葉につまった。ミユキは自分の感情がどの方向に向かうのかを、じっと確かめてでもいるようにみえた。
「お姉ちゃん、アイスクリーム」と男の子が言った。ミユキの手にしたアイスが溶けかかって、スカートの上に落ちそうだった。
彼女はあわてて、本当ねとそれを口に入れた。達彦はその様子をじっと見つめた。ミユキがアイスおいしいと訊くと、男の子はおいしいと嬉しそうに答えた。
男の子はアイスクリームを食べ終わると、退屈なのか、待合室のなかを行ったりきたりした。ミユキは危ないから走っちゃだめよと言いながら、とめようとはしなかった。
待合室は患者で混雑し、誰も男の子が走り回っていることなど、気にとめようともしなかった。

父親が戻ってきたのは、それから2、3分もしたころだった。達彦の存在に気づくと、頭をさげ、ミユキに向かって、用意できたからと一言だけ言った。男は前に会った時よりも、頬がこけたようにも見えた。
達彦はていねいに頭をさげた。男は何度も小太りの身体を折り曲げた。ミユキは挨拶が終わるのもそこそこに、どうすると言った。達彦は一緒に同じ車でいくわけにも行かず、後で時間を見計らっていくよとだけ告げた。
「無理しなくたっていいのよ」
「無理なんかしてない。ただお線香をあげさせてもらうだけだ」
男は名刺の裏に簡単な地図をかいた。それは達彦の家から電車で1時間以上はたっぷりとかかるところだった。

翌日は朝から暑かった。
達彦はスピーカーから聞こえる読経を聞きながら、夏の葬式はにぎやかでいいと思った。蝉の声があちこちから聞こえてくる。
あの人とミユキが呼んでいた男の家はかなりのつくりで、一代でたたきあげたという男の生きざまがみえるようだった。向日葵が庭に咲いていた。丈高い黄色の花がいっそう暑さを感じさせた。
ミユキは「来てくれたの」と言って、さきに焼香だけをさせてくれた。黒い礼服に真珠のネックレスがはえてみえた。いつもの彼女ではなかった。親族の席に座らされることを拒否しなかったのだろうか。男の子がじっと彼女のわきにくっついて離れようとはしなかった。
頭にまいた白い包帯が達彦の目に焼き付いていた。しかし遺影にはもちろんそんな包帯などなかった。少し斜めを向いて微笑んでいる。病院で見たときよりもずっと若く、よく見ると面立ちがミユキによく似ていた。白い菊の花が祭壇をおおっていた。
喪主のあいさつも型どおりだった。
頭上から、太陽の光線が容赦なくあたる。黒い服は熱を身体の中にたっぷりとくわえこんだ。
達彦はこの場所にもしかしたら、ミユキの本当の父親があらわれるのではないかと、少し期待もした。もし男がミユキの父のことを知っていたら、連絡ぐらいはするかもしれない。式の間中、それらしい人の影を追った。しかし予想はすべてはずれた。
告別式は1時間たらずで終わり、葬儀屋が手際よく後片付けをし始めた。霊柩車にのせられたミユキの母親はあっという間にその場をあとにした。達彦には火葬場まで一緒にいく心づもりもあったが、彼女に訊ねられた時、なぜか首を横に振ってしまった。ミユキはそれ以上頼み込んではこなかった。
彼女は幼い男の子の手をじっと握ったまま、喪主の挨拶を傍らで聞き、最後に深々と頭をさげた。
蝉がずっとないていた。

「あんな台風の日に、どうしてお母さんは?」
「お金よ、お金だけ。毎月のお金をただ渡しに来たの。いつだって面倒臭そうに茶封筒に入ったお金を渡して、そそくさと帰ろうとするの。面倒だったのよ。だから何度も郵送してきたこともあった。今月は忙しいからっていって。でもわたしは持って来てって、何度も言った。顔を会わせるたびにつらいのなら、何度でもつらい思いをしてもらおうと思って……」
「そんなことして、なにか楽しいことでもあったのか」
「ううん、何にも」

車の中で達彦はミユキとの会話を反芻した。
太陽が熱かった。
達彦はアクセルを思い切り深く踏み込んでから、急に車線をかえた。

2002-07-30(火)

      クリック

靖子の声だ。いつもよりずっと甲高い。
事故おこしちゃった。それが最初の言葉だった。
「事故って?」
「車、ぶつけた」
「どこで」
団地のそばの交差点だった。ちょっと脇を見て出ればよかったのに、反対側にいた人のことを気にしているうち、直進してきた車の横っ腹をこすったらしい。もっともこれはかなり後になってわかったことだ。
その時は気が動転していたのか、靖子の話はあちこちに飛んだ。
「すぐにお巡りさんが来るって。今電話したの。相手の人もここにいる。ねえ、どうしよう」
「ちょっと待ってろ。今いくから。勝手に示談なんかするんじゃないぞ。落ち着け」
靖子も相手の運転手にも怪我はなさそうだった。癇癪を起こして出ていったりするからだ。いらいらしている時は、運転などするもんじゃない。
車はどうなんだと訊いたら、ランプがつぶれて、前から水が出ていると言う。もう修理する段階ではないかもしれない。八年も乗っているから、そろそろとは思っていたが。まさかこんな形で廃車になるとは。
とにかく一目散に自転車置き場へ直行した。坂を下りる。事故の現場は目と鼻の先だった。パトカーの姿がすぐにみてとれた。赤いランプの明滅が別の生き物のようだ。そのそばで靖子が何か訊かれている。警官の制服がいやに立派に見えた。靖子が寄ってきた。少しは落ち着いたのだろうか。事情を話して、その場に一緒に立ち会わせてもらう。相手の人に何度も頭を下げた。厭な役回りだった。
車は靖子の言ったように、前半分がぺしゃんこだった。相手の車もかなりへこんでいる。相手は直進で、こっちは右折しようとしたのだから、かなり分は悪い。ほとんどこっちの負けだろう。
これから面倒な交渉が待っている。両方に怪我のないことだけが救いだった。警官は必ず、写真をとっておけとアドバイスしてくれた。とにかく駐車場までは持っていかなければならない。
しかし車は動きそうもなかった。一通りの事情聴取が終わったところで、キーを入れてみる。すでに電気がショートしてしまって、くうくうとしか鳴らない。警察官が様子を見て、署に電話をしてくれた。
しばらくして、牽引車がやってきた。その間、靖子は呆然と立ちつくしたままだった。
警官は、親切にも団地が近いと聞いて、靖子を乗せて送ってくれた。
相手はへこんだ車に乗って、ひとまずその場を去った。エンジンはなんでもなさそうだ。会社の車でよかった。もらった名刺には静岡にある聞いたこともない会社の名前が刷り込まれてある。
「とにかくきちんと保険屋さんを通してやりますから」
浩一はそれだけを言った。
やっぱりいざとなれば頼りになるのは保険だった。それも天井なしの無制限に入っていなければ心配だ。将来にわたって何人も人を轢き殺す可能性だって、靖子にはありそうだった。
今までかけた分ぐらいは、これで払い戻してもらうことになるかもしれない。ペダルをこぎながら、一人で賠償額を想像した。
やっと坂をのぼりきって家に戻ると、靖子は布団をかぶって横になっていた。起きていられないという。
「塾に電話してよ。晴生を迎えに行ってやれないから、自力で帰って来なさいって言ってちょうだい」
そう呟くなり寝込んでしまった。
窓から下を見ると、反対向きになった廃車寸前の車が既に置かれている。写真をとらなくてはいけない。保険屋にも電話しないと。臨時の仕事が急に増えた。
とにかくぺしゃんこになった愛車の写真をとることにした。慌ててカメラを引っ張り出す。緑色の液体が脇からまだもれている。壊れた車を直視するのはなんだかいたたまれなかった。
次に塾。
「お母さんが事故起こして車が使えないから、自力で帰ってこいってさ」
「だってお金ないよ」晴生が元気のない声を出す。
「塾の先生に借りてこい。今度返しますって」
「うん、わかった」
最後に保険屋。慇懃無礼だった。八対二か、九対一で当方負けとのこと。必要な書類をすぐに送りますという。示談はすべてこっちでやりますから。なにかよけいなことを言わなかったでしょうねと念を押された。
靖子は思いの外、だらしがなかった。いつも大きなことをいってる割には、よほどショックだったのか、なかなか起き上がってこない。子供が塾から戻ってきたのはそれから三十分後だった。
夕飯の時間が近づいていた。靖子は寝たきりだ。
結局二人で外へ行こうということになった。幸い通りに食事のできるファミリーレストランもある。
「お母さんの分はなんか買ってくるからね。それでいいでしょ」
息子は久しぶりの外食がよほど嬉しいらしくはしゃいでいる。
靖子は全く元気がない。布団の中から、
「なんにもいらない」と低い声で言った。
せっかく手にした優良ドライバー免許もこれで振り出しに戻った。それよりなにより、次の車を手配しなければいけない。なにもなければ、夜の真っ暗な道を歩いて、塾に行かなければならないし、不意の用の時はやはりないと不便だ。すぐにディーラーを回ってなんとかしないと。

浩一は結局二年のローンをまた背負った。これで家のローンとあわせて借金はいくらになるのか。返しきれないうちに、また新しいのを借りる。いつだってこの繰り返しだった。
母からの電話もない。こっちからもかけない。
それが一番いい便りなのだろう。

     クリック

靖子の声だ。いつもよりずっと甲高い。
事故おこしちゃった。それが最初の言葉だった。
「事故って?」
「車、ぶつけた」
「どこで」
団地のそばの交差点だった。ちょっと脇を見て出ればよかったのに、反対側にいた人のことを気にしているうち、直進してきた車の横っ腹をこすったらしい。もっともこれはかなり後になってわかったことだ。
その時は気が動転していたのか、靖子の話はあちこちに飛んだ。
「すぐにお巡りさんが来るって。今電話したの。相手の人もここにいる。ねえ、どうしよう」
「ちょっと待ってろ。今いくから。勝手に示談なんかするんじゃないぞ。落ち着け」
靖子も相手の運転手にも怪我はなさそうだった。癇癪を起こして出ていったりするからだ。いらいらしている時は、運転などするもんじゃない。
車はどうなんだと訊いたら、ランプがつぶれて、前から水が出ていると言う。もう修理する段階ではないかもしれない。八年も乗っているから、そろそろとは思っていたが。まさかこんな形で廃車になるとは。
とにかく一目散に自転車置き場へ直行した。坂を下りる。事故の現場は目と鼻の先だった。パトカーの姿がすぐにみてとれた。赤いランプの明滅が別の生き物のようだ。そのそばで靖子が何か訊かれている。警官の制服がいやに立派に見えた。靖子が寄ってきた。少しは落ち着いたのだろうか。事情を話して、その場に一緒に立ち会わせてもらう。相手の人に何度も頭を下げた。厭な役回りだった。
車は靖子の言ったように、前半分がぺしゃんこだった。相手の車もかなりへこんでいる。相手は直進で、こっちは右折しようとしたのだから、かなり分は悪い。ほとんどこっちの負けだろう。
これから面倒な交渉が待っている。両方に怪我のないことだけが救いだった。警官は必ず、写真をとっておけとアドバイスしてくれた。とにかく駐車場までは持っていかなければならない。
しかし車は動きそうもなかった。一通りの事情聴取が終わったところで、キーを入れてみる。すでに電気がショートしてしまって、くうくうとしか鳴らない。警察官が様子を見て、署に電話をしてくれた。
しばらくして、牽引車がやってきた。その間、靖子は呆然と立ちつくしたままだった。
警官は、親切にも団地が近いと聞いて、靖子を乗せて送ってくれた。
相手はへこんだ車に乗って、ひとまずその場を去った。エンジンはなんでもなさそうだ。会社の車でよかった。もらった名刺には静岡にある聞いたこともない会社の名前が刷り込まれてある。
「とにかくきちんと保険屋さんを通してやりますから」
浩一はそれだけを言った。
やっぱりいざとなれば頼りになるのは保険だった。それも天井なしの無制限に入っていなければ心配だ。将来にわたって何人も人を轢き殺す可能性だって、靖子にはありそうだった。
今までかけた分ぐらいは、これで払い戻してもらうことになるかもしれない。ペダルをこぎながら、一人で賠償額を想像した。
やっと坂をのぼりきって家に戻ると、靖子は布団をかぶって横になっていた。起きていられないという。
「塾に電話してよ。晴生を迎えに行ってやれないから、自力で帰って来なさいって言ってちょうだい」
そう呟くなり寝込んでしまった。
窓から下を見ると、反対向きになった廃車寸前の車が既に置かれている。写真をとらなくてはいけない。保険屋にも電話しないと。臨時の仕事が急に増えた。
とにかくぺしゃんこになった愛車の写真をとることにした。慌ててカメラを引っ張り出す。緑色の液体が脇からまだもれている。壊れた車を直視するのはなんだかいたたまれなかった。
次に塾。
「お母さんが事故起こして車が使えないから、自力で帰ってこいってさ」
「だってお金ないよ」晴生が元気のない声を出す。
「塾の先生に借りてこい。今度返しますって」
「うん、わかった」
最後に保険屋。慇懃無礼だった。八対二か、九対一で当方負けとのこと。必要な書類をすぐに送りますという。示談はすべてこっちでやりますから。なにかよけいなことを言わなかったでしょうねと念を押された。
靖子は思いの外、だらしがなかった。いつも大きなことをいってる割には、よほどショックだったのか、なかなか起き上がってこない。子供が塾から戻ってきたのはそれから三十分後だった。
夕飯の時間が近づいていた。靖子は寝たきりだ。
結局二人で外へ行こうということになった。幸い通りに食事のできるファミリーレストランもある。
「お母さんの分はなんか買ってくるからね。それでいいでしょ」
息子は久しぶりの外食がよほど嬉しいらしくはしゃいでいる。
靖子は全く元気がない。布団の中から、
「なんにもいらない」と低い声で言った。
せっかく手にした優良ドライバー免許もこれで振り出しに戻った。それよりなにより、次の車を手配しなければいけない。なにもなければ、夜の真っ暗な道を歩いて、塾に行かなければならないし、不意の用の時はやはりないと不便だ。すぐにディーラーを回ってなんとかしないと。

浩一は結局二年のローンをまた背負った。これで家のローンとあわせて借金はいくらになるのか。返しきれないうちに、また新しいのを借りる。いつだってこの繰り返しだった。
母からの電話もない。こっちからもかけない。
それが一番いい便りなのだろう。

    木洩れ日のように

アップルパイの香ばしいかおりが鼻をついた。
これぐらいの年頃の娘がいたら、心配事も多いだろうが、楽しみもまた人一倍だろう。 どうして子供ができなかったのか。
あの時無理をしてでも検査をしてもらうべきだった。そうすればなにかいい手だてがあったかもしれない。だが、わたしはついそのままにしてしまった。仕事に手ごたえを感じ始めていた時期と重なってしまったことも一つの理由である。
一口食べ終えると、冴子が心配そうな顔つきで、
「お口にあいます?」と訊いた。
「おいしいよ、とっても」
冴子はうれしそうな表情をした。
「冴ちゃんはどこでこういうのを覚えたの」
「なんとなく、本で読んだりして」
「そうか……。すごいなあ」
「そんなに褒めてもらえるんだったら、今日あたり張り切ってなにか作ろうかな」
そう言いながら、冴子は和子の顔を覗き込んだ。
「もちろん、大歓迎だわ」和子も明るい表情になった。
「いいね。冴ちゃんの作ってくれるものならなんでもいい」
わたしも調子をあわせた。自分でも自然に言葉を軽くしようと努めている節がある。なにか心を浮き立たせるようなことを言おうと、妻が腐心しているのをそれとなく感じるからかもしれない。
「わたしの作ったものなんか、ただ黙って食べてるだけなのに」
和子があきれたように言った。冴子がつられて笑う。
わたしは冴子がついこの前まで勤めていた銀行の保証人になっていた。短大を出てすぐ、母親に連れられてやってきた頃が懐かしい。
印鑑を押した用紙を渡すと、冴子は神妙な顔をしてありがとうございましたと頭を下げた。あれから既に3年がたつ。いつの間にか年頃の娘になった。
「じゃあ、ビーフシチューでも作りましょう。おいしいパン屋さんも近くにあったし。洋食はお嫌いですか?」
冴子はわたしの方を向き、少しあらたまった調子で訊いた。
「いや、そんなことはないよ。いつもこの人の妙な料理ばかり食べさせられてるから、たまには変わった新しいのも食べたいな」
「 シチューなんかちっとも新しくないけど」と冴子が恐縮すると、
「いいのよ、この人は冴ちゃんの作ってくれるものなら、なんでもおいしいんだから」
と和子が話をまぜっ返した。
「おやおや、まだいじけてる」
わたしがそう言うと、二人は顔を見合わせて笑った。それにつられてわたしも久し振りに大きな声で笑った。

その日の夜、風呂から出てビールを一杯のんでいると、和子は自分から冴子のことを切り出してきた。
冴子が風呂に入っているわずかの隙をどうやらつかまえたようだった。
「どう思う、あの子?」
そう言いながら、和子はわたしの顔を覗き込んだ。
「どうして突然、家に来たのかという程度のことなら気にはなるけどな……」
わたしはかなりひかえ目に自分の気持ちを言った。
「それだけ?」
「前より神経質になったような気もする」
「やっぱり、そう見える」
和子は少し声を低くした。
風が出てきたようだった。
葉ずれの音が時折り耳に届く。わたしはコップに入っていたビールを一息でのみ干した。
「あの子、もうしばらくこの家においてあげてもいい?」
「ことと次第によるさ。義兄さんに申し訳のたたないことはできないしな」
和子は納得したように頷いた。
「あの子、今年の春に会社を辞めたでしょ」
冴子は姉の玲子が嫁にいってから、自分も結婚したいと急に言い出すようになった。好きな男がいたらしい。
ところが結納をする頃になって、ふっと会社に行きたがらなくなった。
その後も落ち着かず、家からあまり出ようともしなかったという。
「世間では時々そんな話も聞くけど、まさか冴ちゃんがな」
「そうなの。何があったのかも口にしないらしいのよ」
「その男に別の相手がいたとか」
「わたしもちょっとそんな気はしたんだけど」和子は語気を強めた。
「それが原因なのか?」
「全然はっきりしないのよ」
「冴ちゃんはそんなわけのわからないことをする子じゃないだろ」
義兄にしてみても戸惑っていることだろう。先入観を持たずに話を聞こうとしても、つい気苦労を重ねてしまうことになる。
「冴ちゃんは今の子じゃないみたいだな……」
「よっぽどその人のことが好きだったのかしら」和子が言葉を重ねた。

わたしはその夜、床に入ってもすぐには寝つけなかった。冴子がまだ幼かった頃の様子や、中学に入ってからも時々家に遊びにきた時のことが、目の前から離れない。
風が吹いている。冴子も床の中で同じ葉擦れの音を聞いているのだろうか。わたしはしばらくの間、耳をすませた。それは時に高く唸るように吹き、次の瞬間にはしばらくなりをひそめる。
冬が来る。その実感だけが胸に響いた。

どこでもない、ここ

実家から突然姉が出て来るという。もうすぐ師走になるというのにいったい何の用事なのか。姉の和子は朋子より7つ上だった。
電話は土曜の夜、朋子が風呂から出てテレビを見ようとした時にかかってきた。姉はそっちへ明日行くから、と言った。
「どうしたのよ?」朋子は姉の語調が少し堅いのにすぐ気づいた。
「そっちへ行ってから詳しいこと話すわ」
「どうしたの、急に?」
「邦男がね……」
朋子は瞬間、いやな予感がした。
「お兄ちゃんが、どうかしたの?」
「店の物持ち出したらしくて……」
朋子のすぐ上、2才違いの兄のことだった。高校を出ていくつも仕事をかえ、やっと都心のこじんまりした宝石店に仕事を見つけた。人当たりがいいだけに、誰ともすぐにうちとけられる。だが、どこか芯にだらしのないところがあった。朋子は兄ならそんなことをしても不思議ではないような気がする。
「いつのこと?」
「それがつい、この前らしいの。調べればすぐわかることなのに、ばかよ、邦男は」
「どうしてお兄ちゃんが犯人だって?」
「詳しいことはよくわからないけど、自分から喋ったみたい」
「すぐ認めたの?」
「そうらしい」
「なんで?」
「わからない……。指輪が3つ、全部で200万だって」
200万と聞いて、朋子も驚いた。
「どういうこと?」
「こっちが訊きたいぐらいよ」
「アパートにいないの?」
「何度電話したって出やしない。帰ってないみたいなのよ」
朋子はそう、と返事するしかなかった。
「朋ちゃん、何か食べたいものある?」
「うん、じゃあ、どんがら汁」
朋子はそう答えてから、ふっと父と母のいた食卓を思い出した。床柱を背負って父が座り、姉の和子と兄の邦男、それに朋子が母の隣に座って食べた。
父は酔うと、太い声で必ず詩吟をうなった。小さな頃はよく膝の上にものせてもらった。父の膝は大きくてあたたかかった。
白子のふわふわした歯触りがあれほどいやだったのに、今では不思議と懐かしい。東京で暮らし始めてから、何度も鱈の内臓を近くの魚屋で買って作ってみた。だが実家で食べるような味にはならなかった。

翌日、朋子のマンションにあらわれた姉は、疲れた顔をしていた。
「とにかくなんとかしなくちゃ。会社の方で警察に届けを出すのだけは待ってくれたから、とりあえず安心はしたけど……」姉の声には力がなかった。
「やっぱりアパートにいないみたいね」
「電話してくれた?」
「何度も。でも出なかった」
もう一度かけてみようかと言いながら、姉の和子は食事をしている間も受話器をとった。しかしいくら試みても、結果は同じだった。
兄の邦男はあまり成績がいい方ではなかった。地元の商業高校を卒業すると、すぐ東京へ出た。だが学校で世話してくれた会社を2年でやめ、その後プレハブ会社の営業などをした。だが、それも長続きしなかった。死んだ父は邦男のことが心配だといつも口にしていた。
「邦男はどうしてああなのかしら?」
朋子は姉のつくってくれたどんがら汁を久しぶりに食べ、ビールをのんだ。姉と一緒で気がゆるんだのか少し酔った。
姉はどこかで邦男を軽く見ていた。それが言葉の端々に出た。朋子は兄が嫌いではない。兄には心の優しいところがたくさんあった。

翌日の深夜、突然兄から電話があった。
声ですぐにわかった。
「お兄ちゃん?」
「ああ」
「どこ行ってたのよ。さがしたんだから。お姉ちゃん、こっちに来てるよ」
「そうか」兄はばつの悪そうな声を出した。
「今、いるのか?」
「今日は柏の叔母さんのとこへ行った。遅くなっちゃったから泊まらせてもらうって」
「そうか」邦男は少し安心したのか、幾分柔らかい語調になった。
「どうしてあんなことしたのよ。義兄さんに迷惑がかかるって考えなかったの」
朋子は姉の分まで、思っていたことを口にした。
「うん……」兄の声には張りがなかった。
「とにかく明日そっちへ行くから。いてよ。どっか行っちゃだめよ」
朋子は自分がひょっとしたら一番兄の邦男に近いのではないか、と思う。小さい時から一緒に遊び、兄の性格もよくわかっている。あまり一つのことに長くこだわらないところもよく似ていた。
朋子は叔母のところにすぐ電話して知らせるべきかどうか迷った。
だが時間が遅すぎた。

朋子は翌日、朝食の時間を見はからって姉に電話した。
「きっとお金がなくなったのよ」
姉の和子は朋子の話を聞きながら、そう言い切った。
「どうする、わたしこれからアパートへ行ってみるけど」
「わたしも行くわよ、もちろん。今後のこともあるし」
朋子は兄のアパートで落ち合う約束をしてからマンションを出た。駅まで急いで歩けば5分で着く。バスがいやで、少し家賃は高かったが、今のところに決めたのだった。
車窓からの風景は暗かった。細い雨が斜めに電車の窓を濡らした。朋子は読もうと思ってバッグに入れておいた本を、最後まで開く気になれなかった。
兄の邦男は布団を敷いたままの部屋で、テレビを見ながらカップラーメンをすすっていた。床屋に行っていないのか、髪がぼさぼさだ。
「どこ行ってたのよ、お兄ちゃん?」朋子はそれだけ言うのがやっとだった。
テーブルの上にあったテレビのリモコンを奪い、すぐにスイッチを切った。
邦男はしばらく朋子の顔を見つめ、それから視線をゆっくりはずした。
「もう会社には戻れないな」兄がぽつんと言った。
「あたりまえじゃない。お義兄さんにだってあんなに迷惑かけて」
兄は外の雨を見た。
急に強く降り出したようだ。くぐもった音が部屋の中に響いた。
「指輪、どうしたのよ?」
「金にかえた」
「まさかみんな使っちゃったんじゃないでしょ?」
「取り立てがきつくて」
朋子は思わず言葉をのみこんだ。
「ほとんど利息だよ。ばかばかしい」
兄はカップラーメンのつゆを再び音たててすすった。
「ばかばかしいじゃないでしょ」
「はじめはちょっとだったんだ」
朋子は何と返事していいかわからなかった。
「どうして、そんなお金借りたのよ。なんで自分のお給料だけでやれないのよ?」
「そんなことはおまえに言われなくてもわかってる。おれだって子供じゃないんだ」
「わかってるんならできるはずでしょ」
「そういかないことだってあるんだよ、うるせえな」
兄は大声を出した。そして再び窓の外を見た。
大粒の雨が朋子には冷たい。

姉が帰った。
その日、朋子は朝早く起きた。
兄がひょっとしたらまたサラ金に手を出すのではないかと心配になって、目が覚めてしまったのだった。当座の生活費を姉と2人で出し合ってきたが、すぐに底をついてしまうだろう。兄の性格を考えると、また同じことを繰り返してしまいそうな気もする。これから働き口を探すといっても、すぐにいい仕事がみつかるかどうか。
姉はかなりきついことを言った。兄の邦男は、姉が喋っている間、じっと下を向いていた。しかし途中でこれからはもうこんなばかなことはしないから、と何度か低く呟いた。
「あたりまえよ、こんなこと何度もされてたまるもんですか」
姉は大きな声で怒鳴った。

昼過ぎ、朋子は新宿まで出た。
いつものようにデパートや、専門店を歩いてみた。だが気持ちが少しもはずまない。芹澤と暮らし始めた頃は、一緒に歩いているだけで心が浮き立った。朋子は自分が思っていた以上に家庭的な女であることに驚いた。食事の支度や、日常の細々としたことが少しもいやではなかった。
芹澤の仕事は芝居の演出が中心で、時間が不規則だったから、劇団が稽古に入ると、いつ帰ってくるのか全くわからなかった。おれはいいから、自分のことだけ気にしてりゃいいから、飯なんか適当に食べるよ、といつも彼は言った。
確かに公演中は忙しく、戻ってこないこともあった。しかし稽古場を訪ねると、最前列の椅子に座って、役者にだめ出しをしている彼の姿はいきいきしていた。その様子を見ているだけで、朋子は自分のいる場所を確認できた。

平日の昼間、誰を誘うというわけにもいかず、兄のアパートに電話を入れた。
「お兄ちゃん、新宿まで出てこない。なんかおいしいもの食べようよ。ボリュウムのあるもの食べたいんだ」
朋子はなぜか身体に目一杯力のつくものを食べたかった。
「これからか?」兄の邦男は驚いたような声を出した。
「新宿じゃやだ?」
「別にいいけど」
朋子は兄と新宿の駅ビルで待ち合わせ、そのまましゃぶしゃぶの店に入った。兄は肉をつまみ上げながら、どうしたんだ、と何度も訊いた。
ビールを兄についだ。そして自分ものんだ。朋子は子供の頃のことを思い出した。もう戻ってこない時間が、目の前にうずたかく積み上げられている。兄の表情を見ながら食事をしていると、ずっと昔のことがあれこれと思い出されてならなかった。
庭のザクロに、午後の陽がたくさんあたっていたこと。かわいがっていたインコが突然死んで、それを木の下に埋めたこと。雨の日に、二階の窓からずっと近所の家並を眺めていたこと。椿の梢からしきりに落ちたしずくの音。春の風の匂い。
あれもこれも、もうずっと昔のことに違いない。父が死んでしばらくしてから、建てかえた家は、もう彼女の家ではなかった。今では何も懐かしいものがない。兄にしてもそれは同じだろう。ただ庭のザクロと椿の花だけは今も咲く。
兄はもう少しのんでいいかと言い、ビールを追加した。

時計を見ると、明け方の4時近かった。1時に寝ついたから、まだ3時間ぐらいしか眠っていない。少しだけカーテンを開けた。外はまだ真っ暗だった。耳をすますと、遠くから車の走る音が聞こえてきた。
なんとなく頭の芯が重い。コーヒーを朝からいれて飲みたくなるのは、決まって生理の前だった。なんとなく下腹にどんよりとした感覚がたまっている。いつ始まってもおかしくない。
買ってきたばかりの豆をひいて、ペーパーの上にのせた。鼻をつく香りがこうばしかった。
朋子はその日の朝、テレビを見ながらぼんやり過ごした。ほんのしばらくまどろんでいたらしい。朝食の後かたづけもせず、そのままでいられるのも今の気楽さだ。母は人一倍だらしないのが嫌いだったから、散らかったままの部屋を見たらなんと言うだろう。

姉の和子と相談し、朋子も50万だけ出すことにした。はじめ義兄が全額出すと言ったが、それではあまりに申しわけなかった。
暮れの29日、朋子は銀行で200万円の小切手をつくり、兄の邦男と一緒に勤めていた宝石店を訪れた。彼女は今までにも一度だけ、その店に出向いたことがある。兄が就職した時、お祝いに真珠のネックレスを買ったのだった。それほど高いものではなかったが、兄はとても喜んでくれた。
店はそれほど大きくないが、置いてある品物は悪くないと、一目見た時思った。あの時、嬉しそうな顔をしていた兄が、と思うだけで朋子は複雑な気持ちになる。
兄は事務所の中でも終始下を向いていた。その姿を脇で見ていると、朋子も悲しくなった。子供の頃の兄はもっと強かった。走るのも人一倍速かったし、泳ぎもうまかった。だが朋子の隣に座っている兄は、あまりに無力だった。
兄は最後に深々と頭を下げ、申しわけありませんでしたと小さな声で呟いた。
営業部長の名刺をくれた男は、髪をきちんと分け、終始落ち着いていた。
帰りの道を歩きながら、悪かったなと兄は謝った。
「今度同じことしたら、もう面倒はみないからね」
「わかってる。いくらおれだって、これ以上尻ぬぐいしてもらおうとは思ってない」
「これからどうするのよ?」
「仕事はさがしてるんだけどな……」
兄の話ぶりから察すると、職探しもあまりうまくいってないらしい。
「お正月は?」
「これじゃ、田舎にも帰れないだろ」
「でもお義兄さんのとこには謝りに行くしかないでしょ。お金まで出してもらったんだし。きちんと挨拶しなくちゃ、お姉ちゃんだって納得しないわよ」
朋子は一人で帰りにくいのなら、一緒に行ってあげようか、とつい口に出してしまいそうになった。しかしそれをすれば、また兄を甘やかすことになる。
「帰るお金ある?」
「ああ、それぐらいはな。それより今日の分、なるべくはやく返すから」
「いいのよ。すぐ使う予定もないし」
兄はそれ以上何も言わなかった。

朋子は芹澤と暮らしていた半年間のことを、時々思い出す。
夏、地方公演にいくという芹澤にくっついていった時のことが、今となっては懐かしい。
彼は来るかとだけ言った。朋子は即座に頷いた。

時々夕刊に芹澤の演出した作品の劇評が載っていたりすると、つい真剣に読んでしまう。最近は戯曲以外に評論を書いていることも、新聞で知った。だがどうしても劇場まで足が向かない。ロビーの隅で後ろ姿を見かけたら、またつらくなってしまう。派手な喧嘩をして別れたというのでもなかった。ごく自然に、気がついたら芹澤は朋子のいる場所に戻ってこなくなっていた。
最初は寂しかった。稽古場に電話もした。しかし電話口には滅多に出てこなかった。どうしてると朋子が訊くと、相変わらずだ、またそのうち行くからと言った。
10月頃、3日も続けて帰ってこない時があった。地方公演の予定もないのにおかしい、と朋子は思った。
芹澤は夜中の2時過ぎ、突然チャイムを鳴らした。朋子が寝入りかけた時間だった。彼は少しも酔っていなかった。
「おれもうここへ来ない」彼は少し青ざめた表情で朋子を見ながら言った。
朋子はどうして、と訊くのが精一杯だった。
しかし芹澤がもう帰ってこなくなる、とその時確信した。
あの日は一睡もできないまま、朝を迎えた。
あれからもう2カ月近くたっている。

兄とすぐ別れるのがいやで、なんとなく食事を一緒にした。あまり食欲がなかった。刺身の盛り合わせと、ご飯をすこしだけ食べた。兄の邦男はビールをのみながら、しきりにすまないと言った。
「お兄ちゃんさ、悪いこと言わないから、結婚したら。しっかりした女の人と一緒にいれば、こんなことにならないよ」
「ばか言うな」
「誰かいるわよ、きっと」
「それはおまえの方だろ」
朋子は芹澤と一緒にいたかった。
朋子は彼がいなくなってから、しばらく身のおき場に困った。芹澤がいないという事実が歯の痛みのように長く尾を引いた。
「ねえ、お兄ちゃん、一緒にお正月帰ろうか」
「いいのかよ」
朋子は兄の邦男を一人で田舎に帰すのが、急にかわいそうに思えてきた。それでなくても兄にとって実家の敷居は高くなる一方だ。
「なんだかおまえにやさしくされて、ちょっと気持ちが悪いな」
「いやならやめるよ」
「そんなこと言ってないだろ。ほんとのこと言うと、一人でどうしようかと思ってたんだ」
「去年は帰らなかったから、今年は顔だけ出そうとは考えてたけど。お母さんがかわいそうでしょ」
母のことを口にした途端、兄の邦男は急に静かになった。朋子は自分が兄を甘やかしているのを強く感じる。しかし誰かに優しくしたいという感情を自身でもてあましていたのも事実だった。

そのまま家に戻るのがなんとなくつらかった。何気なく本屋に入った。しばらくぶりに演劇関係の本の前で立ち止まった。無意識のうちに、朋子は芹澤の新刊書を探した。新聞の書評欄で見たのをふっと思い出したのだった。
朋子と一緒に暮らしていた頃から彼は戯曲と並行して、演劇論を書き始めていた。しかしいつまとまるのか、その時はまだ目途がたたなかった。
朋子は目当ての本を手にとると、レジに向かった。
近くの喫茶店に入って、買ってきたばかりの本を読んだ。そこには芹澤の息づかいがあった。
去年の夏、朋子は芹澤からペンダントをもらった。それは彼がその前年、カンボジアへ行った時買ってきたものらしかった。こんなのしかないけどさ、と言って芹澤はおずおずと朋子に象の形をしたペンダントを差し出した。
あの頃が一番よかった。あれからどんどん芹澤は一人で遠くへ行ってしまった。朋子にはとうとう後を追うことができなかった。
彼女は芹澤の息づかいを感じながら、しばらく時間を潰した。しかしそれからどうするというあてもなく、再び電車に乗るしかなかった。

駅からマンションまでは歩いてわずかだった。
朋子は駅前のスーパーで買い物をしてから、坂道をのぼった。
もう兄をかまうのはよそう。自分のことだけ考えよう。
郵便受けには、不動産の広告が入っていた。朋子はそれを無造作に掴み、すぐエレベーターに乗った。
ストーブのスイッチを入れ、いつものように留守中の電話をチェックした。だがボタンを押しても、誰の声も入ってはいなかった。
ブラウスを脱ぎ、部屋着に着替えた。それから洗面所に行って髪をとかしながら、鏡にうつる自分の姿をしばらく眺めた。
朋子は水道の蛇口を思いっきり開けて手を洗った。
水がはねてスカートをひどく濡らした。

            ブルー

1

フランクが来た。
7月の暑い日だった。山崎はバリ島の添乗から戻って、一息ついていた。フランク・クラインです、よろしくと2メーター近い男が握手を求めてきた。
なかなかうまい日本語を喋る。
山崎はバリ島で陽を浴びすぎたせいか、身体の芯まで黒く焼けていた。
「いつも話してるでしょ。どうしても一度あなたにあわせたくってさ」
彼はソルトレイクシティーの生まれだという。もともとは教会の仕事で日本へ来たらしい。それをひょんなことから英会話学校に拾われた。
フランクは色が白かった。皮膚そのものが薄くて、内側に流れる血が顔の表面から透けて見える。
山崎は冷蔵庫からビールを出した。喉の奥がひりひりして渇ききっている。しかしフランクは、ぼくいいですと断った。
「ぼく、のまないんです」
「そんなのつまんないじゃん」葉子が言う。
彼女はそれまでフランクが酒をのまないことを知らなかったらしい。レッスンの中でそんな話が出なかったのか。
「別につまんなくないです。コーヒーものまない。とにかく刺激するものはみんなだめ」
「すごいね。それで全然つらくないの。どうしてもお酒がのみたくなったり、大声で騒ぎたくなったりすることないの?」
葉子が真剣な顔で訊いた。フランクはちょっと顔をしかめ、うーんとしばらく唸って、天井を見上げた。年は27、8というところか。髪を短く刈り上げてスポーツ刈りにしている。身体の奥から体臭の成分がもれてくる。Tシャツからのぞいた腕も太い。白い産毛が薄赤い皮膚の上にびっしりと生えている。
「ぼく踊る。そういうときは。ディスコっぽいの」
「それでいいの?」
「うん、それでいい」
「すごいね」葉子は感動したような声をだした。
「そんなことより山崎さんは一年の半分、外国に行ってると聞いたけど、本当ですか?」
葉子はフランクに仕事の話をしたらしい。
「まあ、そんなとこかな」
「面白そうですね」
「仕事だからいやな時もあるけどさ、でもあっちこっちの国へ行けるし……」
「そういう仕事、ぼくもやってみたい」
フランクは真剣な顔で言う。
「今と違う仕事もしてみたいです。でも会社に入ると勉強の時間なくなるし、伝道もできなくなる。それはいや。山崎さんみたいに自由なのがいい」
「フリーはけっこうきついよ。今の方が楽だって、絶対」
英会話学校の給料は案外いいと噂で聞いたことがある。
「それに葉子みたいにおかしな生徒にも、時々は会えるしさ」
山崎がそう言うと、彼は嬉しそうにウィンクをした。

フランクはその日、5時過ぎまでいた。
山崎と葉子は彼を駅まで送り、ついでに近くのカラオケへいった。フランクも一緒に来るかと訊いたら、教会の仕事で立ち寄るところがあると言って断った。
「今日はとっても楽しかった。今度また誘ってください」
「もちろん。いつだって歓迎するよ」
「今度はどっかでアウトドアしましょう。キャンプもいいけど……」
葉子が何度もうなづいた。
フランクの印象は悪くない。

翌週、葉子がフランクの仲間をもう1人連れてきた。彼よりも少し背は低いが、それでも190センチ近くはある。濃いあごひげをきちんと刈り揃えていた。
「トム・ブランスタッドです。いつもフランクと一緒に教えてます。今日は葉子さんの後をくっついてきました。よろしく」
トムはにこにこしながら握手を求めてきた。葉子は今、食べるもの用意するからねと言いながら台所へ行き、野菜を切り始めた。
「トムはお酒のめるから、ビールだしてあげて」
山崎は彼の前に缶ビールを出し、自分ものんだ。
「トムはユタ出身じゃないんだ」山崎が言う。
「ぼくはニューヨークで生まれました。フランクみたいな田舎者じゃない。あんな山に囲まれた寒いところはいや」
ニューヨークだって寒いじゃないか、と彼が話をまぜっかえすと、トムはビールをぐっとあおってから、確かに冬は寒いけどユタとは全然違うと反論した。
山崎もニューヨークは好きだった。
本当のことを言うと、おれもニューヨークは好きだよと山崎が話すと、トムはにっこりと微笑んで、
「今までに何度ぐらい行きましたか?」と訊いた。
「正確には何度かわからないけど、多分20回以上かな」
「すごい。じゃあ、ぼくより詳しいかもしれない」トムは感心したように言う。
「旅行者の行くところなら、だいたいは知ってるけど。でもヘリコプターに乗ってエンパイア・ステートビルを見たことはないよ」
「あっ、それ、ぼくもない。いつも下から見上げてるだけ」
トムは天井を見ながら、おどけた顔つきをした。山崎もその表情を見て、思わず笑った。
彼はフランクと全く違う。芝居や音楽がことのほか好きなようだった。
「山崎さん、仕事でつらいことある?」
「そりゃあるさ、もちろん。でも仕事だから我慢するよ。アウトバウンドは楽なんだ。インに比べればね」
葉子が鉄板を出し、肉と野菜を焼き始めた。
「トムは今の仕事、気にいってる?」山崎が訊いた。
「うん、でもぼく英語喋る機械じゃないから。他の仕事もやってみたい。でもなかなか日本の会社は雇ってくれないです。だからどうしても英語教える機械になっちゃう。それが一番早くお金稼ぐ方法みたい」
「生徒はみんなちゃんと勉強する?」
「このへんに住んでる人、頭いい。だからわりにすぐ覚えちゃう。宿題だすときちんとやってくるし。でもヒアリングは難しいみたい」
「葉子はどう?」彼は重ねて訊いた。
「ヨーコさんはフランクの生徒。ぼくのじゃない。だから勉強のコメントはできないけど、でも好き、とってもいい人。他の女の人とは違う」
葉子が話を聞きながら、笑った。
「どうしてわたしがフランクの生徒なの?」彼女がトムに言う。
「だって……」トムはそこまで言ってから、一人で笑った。
肉が音をたて始める。
ビールをのむ。乾杯を何度もした。喉がかわいて、なかなかおさまらなかった。

8月の前半、続けて東南アジアへ添乗に出た。出かける前、葉子は嬉しそうに、夏休み短期教室の間、正式にインストラクターになれたのと告げた。今までも時々頼まれて、スイミングのコーチをしていた。葉子は体育大を出ている。
「9月からの本科でも専任になれるようがんばらなくちゃ。そうすればお給料も増えるし。でもその前にもう一度テストがあるけど」
「とにかくやれるだけやってみろよ」
「うん、そうする」
葉子は暇があれば、ヒアリングの練習をしている。
スイミングの本は閉じられたままだ。

2度目の添乗から戻った日、山崎は会社に顔を出し、それからマンションへ帰った。しかしドアには鍵がかかったままだった。新聞が郵便ポストに重なって入っている。彼が出かけた日の日付からちょうど4日分だ。葉子はどこへいったのか。
すぐに、アスレチックジムに電話を入れる。葉子の名前をいい、出勤していたら電話口までと頼むと、3日前から来ていないらしい。何か言っていたかと訊くと、何の連絡もなくて、こっちでも予定が狂って困っているという話だった。念のため、英会話教室につないでもらった。ところがトムはいるがフランクは今、休暇中だという。
台所はきちんと片づけられていた。普段着ていたものもそのままだ。スーツケースもあった。下着もたたまれたまま、タンスに入っている。山崎は一つ一つ部屋の中を見てまわった。どこもいつもとかわりはない。
山崎は車をとばして、ジムの前まで行った。夏休み短期教室受付中と書かれた大きなビラがドアに貼ってある。入り口にはバスが何台もとまっている。山崎は思い切って駅前のビルに向かった。
トムに会って話をきけば、何かわかるかもしれない。
彼はちょうどレッスンの最中だった。山崎は部屋の外でしばらく待った。飛行機に揺られ、成田からのバスに揺られ、かなり疲れていた。いつもなら、すぐにシャワーを浴び、ビールでものんで寝てしまうところだ。そう考えると少し腹立たしかった。
10分ほどして、トムが部屋から出てきた。
「フランクは一週間前にユタに戻ったよ。ソルトレイクの教会で大きな集会があるらしい。その準備のためだって」
山崎はなんの手がかりもないまま、マンションへ戻るしかなかった。

いつの間にか寝てしまったらしい。電話の音で目が覚めた。最初それは遠くから聞こえてきた。やがて次第に近くなり、目が覚めた時はかなり鳴った後らしかった。
トムだった。トムはヨーコさんから何か連絡あったと訊いた。
「ううん。なんにも」
「山崎さん、絶対フランクじゃないよ。あいつは真面目なやつだから」
トムはフランクをかばった。
彼は何かあったらここに連絡してといって、自分の携帯の番号を告げた。
横になっても、神経が高ぶってなかなか寝つけなかった。
山崎はしばらくの間、暗い天井をじっと眺め続けた。

翌朝、山崎はいつもより早く目が覚めた。まだ時差ボケが続いている。仕事がら、いつも時差には悩まされる。しかしそれだけが原因ではなさそうだった。
コーヒーをのんでいると、トムから再び電話があった。
「どうした、あれから」
「何もかわらないよ」
トムはそうと言ってから、きっとしばらくしたら帰ってくるから、そんなに心配しない方がいいと言った。
「そうは思ってるけど」
「相手はフランクじゃない。これは確実。ヨーコさんはきっとどこかへふらっと行きたくなったんだ。少し待とうよ、山崎さん。きっと帰ってくる」
「ああ、そうする。だけど3日したら、また南へ行かなくちゃならないし」
「忙しいんだね」トムが羨ましそうな声を出した。
山崎はとにかく待つことにした。
本当に探すとすれば、添乗から戻ってからだ。
1日、ぼんやりと何もせずに過ごした。クーラーをかけっぱなしにしておいたら、夕方頃、少し頭の芯がいたかった。
葉子はたしか杉並で生まれたと言っていた。
彼女はあまり子供の頃のことを話さなかった。
シャワーを浴びた。汗が額から吹き出る。
郵便受けに何か入っていないか確かめた。だが何もない。
全ては南への旅行から帰ってきてからだ。

客を送りだした後、山崎はホテルのラウンジでしばらく休んだ。スキューバダイビングの客をポイントまで運ぶのは現地のエージェントの仕事だった。
山崎はジュースを飲みながら、海の向こうにひろがる空を眺めた。広い。何も遮るものがない。点々と浮かんでいる島に、海水がじっとはりついて動かない。太陽が大きく見える。光が強く、たくましかった。海が陽炎の中に浮かんでいる。
しばらく景色を眺めていると、ボーイがやってきた。黒い肌がつやつやと光っている。東京から電話だといった。山崎はチップを男にやった。ボーイはサンキューと言葉尻を軽くあげ、すぐに彼を電話室へ案内した。
葉子だった。目の前にいるのと同じ感覚で山崎は話した。肩に手を回し、乳房をまさぐることができる距離にいる。声は近かった。
「ごめんなさい」葉子はそれだけ言った。
「いったいどうしたんだよ」彼はつとめてやさしい声を出した。
「急に出かけるつもりじゃなかったんだけど」
「どこに行ってたんだ」
「ごめんなさい、今は言いたくないの」
葉子は仕事先に電話してきたことはなかった。
山崎はフランクと一緒じゃなかったのかとつい訊きたくなった。
山崎は自分が見ている風景の上に、葉子の表情を重ねようとした。しかし彼女がどんな顔つきをしていたのか、少しも思い出せない。だが身体の形だけは覚えていた。
光が揺れる。海が反射する。太陽が真上に近づく。
「ねえ、あともう1度だけいいでしょ。3、4日ぐらい行ってくれば、もうあとはずっとここにいられると思うんだ」
「どういうことだよ。説明してもらわなくちゃわからない」
「うん、そのうちにね」
「フランクはもうアメリカなんだろ?」
葉子は一瞬言葉をのんだ。
「フランクは関係ないわ」
彼は言わなくてもいいことを、つい口にしてしまった。
「トムはそうじゃないって言ってたけど」
「あたりまえよ」
「今、言えないのか」
しばらく空白があった。電話の向こうに海がある。
「ごめんなさい」
「わかった。じゃあ、待ってるよ。おれもあと3日で帰るから、その後しばらくは家にいるし」
「うん……。ごめんなさい」
電話はそこで切れた。山崎は珊瑚礁の海を見ながら、まぶしいと思った。自分の部屋に戻っても、気分が落ち着かなかった。
クーラーの程良くきいた部屋でベッドに横たわっていると、眠気が襲ってきた。まだ客の戻ってくる時間ではない。少し寝ることにした。
だが実際横になってみると、なかなか眠れなかった。30分ほどうとうとして仕方なく起きた。陽が高く、レースのカーテン越しに届く光は強い。
気分転換に海まで歩いた。葉子の言っていることは全くわけがわからない。一人ででかけるのか、誰か相手がいるのかも電話でははっきりしなかった。
帽子の縁がじりじりと焼けついた。汗がすぐに流れ落ちた。桟橋までは歩いて5分とない。モーターボートが何台も繋留してあった。若い男が山崎を見て、ハーイと甲高い声を出した。シャツから厚い胸がのぞく。
「乗らないか?」彫りの深い目だ。
「幾らだ?」山崎は少し気分をかえたかった。客はまだ帰ってこない。1時間ぐらいなら、自由に使ってもいいだろう。
男はにやっと笑って、ディスカウントと言い指を4本たてた。山崎はすかさず、ノーとどなった。40ドルは高い。ふっかけてるな、こいつ。彼は相場がだいたい幾らなのか知っていた。せいぜい半額というところだ。男は次第に値を下げ、最後は結局指を2本にした。山崎は金を払い、モーターボートに乗り込んだ。
風が心地よかった。汗が吹き飛ぶ。風景が走った。
珊瑚礁の島の間をモーターボートはすごい速さで駆け抜けた。海水が顔に当たった。彼は水の色だけを見た。島の周囲だけ微妙に色が違う。海の深さにあわせて、次第に青が濃くなる。透明な海水に太陽が反射した。男はどうだいと言った。いいねと山崎は答えた。
「島に寄るか? ちょっとぐらいなら待ってる。でかい貝がとれる。少し潜れば」
男はガムをかみながら、山崎を見た。
「いや、いい。このまま走ってくれ」
ボートは速かった。頭の中を風が抜けていく。太陽が彼の行く先を追いかけた。どこへ行っても、陽光がある。塩が口のまわりにこびりついた。

20分も走ったろうか。
もう帰ってもいいか、と男が訊いた。ああと彼は答えた。
男はエンジンの回転数を小刻みにかえた。モーターが大きく唸り声をあげ、方向をかえる。船着き場に戻った時には、身体の中にたくさん風が入っていた。山崎は男にチップをやった。女はいらないかと男が言った。欲しかった。だが山崎は即座に断った。ホテルまでかわいた土の上を歩いた。足の裏が地面にぴたっとくっついて気持ちがいい。
客はまだホテルに戻っていなかった。山崎はミネラルウォーターを注文した。喉がかわいた。ラウンジには観光客が何人かいるだけだった。なかにフランクに似たような男がいる。髪が金色で目が青い。顔のつくりがフランクより、少し小さかった。しかし横から見るとそっくりだ。
窓の外にはまだ熱気がこもっている。いつ激しいスコールがやってきても不思議ではない。熱い雨が欲しかった。

        シエナ

バスは曲がりくねった道を、幾度も左右に揺れながら進んだ。街の中心は小高い丘の上にあった。一度、城壁のところまで行って、突き当たったかと思うと、そこでUターンして、再び坂を上っていく。
停留所に着くたびに、初老の男や、買い物篭をぶら下げた女たちが次々と乗り込んできた。純朴な感じのする人が多い。
終点に着いたのは、それから十五分ぐらいたった頃だった。ぼくはバスから降りて、しばらくの間、街並みを眺め回した。
古い街だった。赤煉瓦が既に変色して、茶褐色になってしまっている。家々の軒先から突き出た木の枝も、心なしかくすんで見える。石畳の道が細く続いている。小さな広場が、そこここに点在していた。
ぼくはいつものように、観光案内所を訪ねた。カウンターに座っていた髪の長い女は、ホテルの手配を頼むと、ぼくの恰好を見ながら、
「季節が悪いわね。今は一番混むシーズンだし、それに料金も高くなってるわ」と言った。Gパンと汚れたTシャツを着たぼくの姿をみれば、誰もが同じことを言っても不思議はなかった。
「幾らぐらいならば出せるのかしら?」
女の話す英語はブロークンで、だらしなく聞こえた。しかしお互いに母国語でないせいか、ざっくばらんな調子で話せるのは好都合だった。
「街の外れで良かったら、少し安いのがあるけれど、それでも三万はするわ」「そこでいい」
女は少し意外そうな顔をして、
「ここから二十分以上は歩くわよ」と言った
「歩くのは別に苦にならないから」
「あなた、日本人ね」
「そうだけど」
「今年は多いわ、日本から来る人が」
案内所の中は静かだった。女は受話器を取り上げると、馴れた様子でホテルに予約を入れた。そして一万リラを前金として払ってくれ、と言った。
「こうしないと、予約したままいなくなっちゃう人がいるから」
と弁解する調子で付け加えた。
「カンポ広場へはどう行けばいいのかな」
「この前の道をまっすぐ歩いていけば、十分位で着くわ。途中まではホテルへ行く道と同じだから、この地図を持っていくとよく分かると思う」
ぼくはイタリア語でありがとう、と言った。女はまぶしそうな顔をして、ぼくの顔を見た。

外に出ると、雲の動きが速くなっていた。空が急に暗くなり、今にも雨が降りだしそうだった。ぼくは近くにあった店に入って、雨宿りをしたほうが賢明だ、と思った。お茶でも飲んでいるうちに、きっと止むだろう。濃いエスプレッソが飲みたい。喉が乾いた。
幸い、バス停の脇にある店が開いていた。慌てて中に飛び込むと、ぼくはザックを下ろして、ウェイターの来るのを待った。
雨が降り出したのは、それからほんの僅か後のことだった。古い石畳の道がみるみる間に、黒々と変色し、滝のような水が低い場所を求めて流れていった。大気の温度が下がっているのか、窓ガラスが曇り始めた。今までも雨に降られたことは何度かあったが、雷は初めてのことだった。雲が次々と形を変え、強い風に乗って移動した。雷鳴が何度も頭上で破裂すると、椅子に座っていた女は、耳を慌ててふさいだ。
運ばれてきたエスプレッソは、どろっとして苦味が強かった。店の主人らしい男は何度も空を見あげては、独り言をつぶやいた。窓に空の色が映った。
雨はそれから十分程激しく降り続き、やがて次第に力を弱めた。ぼくはザックから傘を取り出して、いつでも出られる支度だけはしておいた。
窓越しにみると、十二、三軒先の建物から向こうは、道が折れ曲がっていて、よく見えない。店の主人は、まだやみそうもないねというような表情をして、ぼくの顔を見ながら、両手を左右に大きく開いた。その仕草が妙に芝居がかっていて、ぼくは思わずおかしくなって笑った。

雨が止んだのは、それからさらに五分後くらいだった。
カンポ広場に行きたかった。貝殻のような形をした広場だと聞いた。馬に乗って旗をとりあう祭りが近々そこであるのだという。街の中にはいたるところにポスターが貼ってあった。
道はどこまでもくねくねしていて、目指す広場はなかなかみつからなかった。どこかのアパートの窓からチェロの音が聞こえる。ぼくはそのくすんだ音色を聞きながら歩いた。カフェの入り口から笑い声が洩れてくる。濡れた道に声が反射した。古い石畳の道は急に曲がったかと思うと、突然階段になって下がる。湿り気を含んだ街はどこか安らいでみえた。しかし寒い。急に温度が下がり、手足が冷たくなった。
広場についたのはしばらくたってからだった。材木を積み上げて既に観覧席ができている。祭りの準備は終わっているようだった。木の匂いが鼻をついた。店が幾つも並んで、観光客を呼び込んでいる。しかし人の数は少なかった。
広場を見下ろしている高い塔に上りたかった。
しかし寒い。温度が随分さがっていた。
ぼくはそれでも塔に上ることにした。広場を横切って足早に歩く。少し傾斜してへこんだようになった広場の真ん中に、風船をもった子供が佇んでいた。母親をしきりに探している。今にも泣き出してしまいそうだった。ぼくは少しやさしい気持ちになっている自分に気づいた。この広場のせいだ。そう直感した。
塔の上からの眺めは悪くなかった。褐色の屋根がどこまでも続いている。よく見ると、むしろ橙色に近いかもしれない。柔らかい湿気に包まれて、街は静かだった。ぼくはしばらくホテルで休んでから、もう一度、広場にくることにした。
ピザが食べたい。それにビールもだ。

ホテルにたどり着いたのはそれからさらに十分も歩いた後だった。案内所で渡された紙を渡すと、若い男が鍵をくれた。とにかくシャワーを頭から浴びたかった。ここへ来るまでずっと歩き通しだった。途中汽車が遅れて、二時間も見知らぬ駅で待たされた。身体が疲れているのは自分でもよく分かった。
熱い湯が身体の中を駆け抜けていく。気持ちが次第に大きく柔らかくなっていくのが、手にとるようにわかった。ごしごしと乱暴に頭を洗った。たっぷりと湯につかってから、ベッドに横になった。毛布の感触が心地よく、暖かさが足の先から這い上がってくるようだった。
ぼくはしばらく眠ってしまったのかもしれない。気がつくと、城壁の周囲に西日がさしていた。真っ赤で大きな太陽だった。見たこともないオリーブのような果実に、その赤い夕日が強く映えて、きれいだった。ぼくは窓辺に腰かけたまま、しばらくその陽の傾きを眺めていた。
力が身体の内側に舞い戻っていた。
ぼくは広場に行くことにした。まだ眠り込んでしまうにはもったいない。
道がわかると、不安も消えた。ただ古い家々の壁を目で確かめながら歩いた。昔からの街だ。中世の匂いがする。煉瓦づくりの壁に、時間がしみこんでいる。ぼくはゆっくりと歩いた。八百屋の店先に、色とりどりの果物がおいてある。

広場に面した店には、先刻より人の姿が多くなっていた。椅子が道いっぱいにあふれている。そのうちの一つに座ってしまうと、もう動きたくなくなった。やがて腹の出た主人がゆっくりとぼくの前にあらわれ、注文をとった。大きめのピザを頼むと、主人はしきりと頷きながら奥へ引っ込んだ。
ビールが喉を通り抜ける。
ぼくは椅子に深くもたれながら、塔を見上げた。陽が次第に落ち始めている。やがて夕暮れがやってくる。静かないい時間だった。
「こんなところにいたの」
その時、突然後ろから声をかけられた。ぼくが振り向くと、そこには案内所にいた若い女が立っていた。長い髪を時折掻き上げながら話すしぐさはごく自然なものだった。
「仕事終わったんだ」
「これから友達の家に遊びにいくの」
「あれはアルバイト?」
「そんなとこかな。夏休みだけ。今が一番忙しいの。パリオがあるから」
パリオというのがその祭りの名だった。
「これからがすごいのよ。この街は観光客だらけ。今はまだこれでも静かなほうだけど。どうしてパリオの時に来ないの?」
「いいんだ」
ぼくは微笑んで答えた。知らなかったとは言えなかった。
「ホテルすぐにわかった?」
「うん、まあ。ありがとう。助かったよ。少し眠ったら楽になった」
「あそこはちょっと遠いけど、いいところよ。城壁が見えて、すごくきれいだし」
女の話す英語には特有のアクセントがあった。それがむしろ耳に心地よい。
「じゃ、あたし、行くから」
「ありがとう」
「この街はいいわよ」
ぼくは女の目を見ながら、親指を上に向けて、全くその通りだという意思表示をした。
彼女はふふと笑い、それから手をふって広場の向こうへ歩いていった。

ぼくは気分が次第に高揚し始めていくのを感じた。
ビールをそれから立て続けに5杯も飲んだ。
中世の騎士のように、夕暮れに沈む塔を眺め、少しも飽きることがなかった。

2001-04-22(日)

イマジナル・タイム

「ねえ、ハニーマンっていうの知ってる?」
ミキはいつもより嬉しそうな顔をしている。何かよっぽどいいことでもあったのだろうか。
通りを人がたくさん歩いていく。男も女も皆忙しそうだ。店の前に駐車してあるBMWのフロントガラスに、陽があたってまぶしい。
タツオは何も答えない。
日差しが心地いい。暖かい日だ。
「100メートルぐらいの断崖を軽くスイスイのぼっていって、蜂の巣をとってくるのが仕事なんだって」
ミキは真っ直ぐに、タツオをみる。彼女の瞳は黒い。それもとびきりにだ。
「聞いたことない。蜜でもとるのか」
「ううん。それで蝋をつくるんだって」
「蝋……」
タツオにはあまり興味のわかない話だった。蝋っていうのはそんな風にしてつくるものだったのかどうか…。
ビルが大通りをはさんでびっしりと立ち並び、ブティックや骨董品店、ハンバーガーショップなどがその一階を占領していた。
クラクションの音が時々店の中にも響いてくる。信号が赤になるまでのわずかな間に、どの車も先を競ってカーブを曲がった。タイヤがきしむ。
「大きいのよ。直径が2メートル以上もあってね」
「もういいよ、その話は」
「いいから、聞いてよ」
ミキはハニーマンの話をやめようとしなかった。
「うん…」
「聞いてるの?」
「ああ」
タツオは面倒臭そうに相槌だけを打つ。
「それでそいつらは蜂に刺されないのか?」
「ハニーマンって呼んでよ」
「ああ、そのハニーマンはさ」
「さされるでしょうね、だからササの葉を燃やしてね。みんな麻痺させてから、棒でそぎ落とすんだって」
「どこの話だよ」
「ネパールよ、ネパール」
「ネパール?」
「カトマンズっていうところだって。ヒマラヤの奥」
地名ぐらいは、タツオも知っていた。しかしどんなところなのか。さっぱり見当もつかない。
「どこでそんな話仕入れてきたんだ?」
「美容院よ、週刊誌に載ってたの」
「女はいいなあ。たまには美容院でのんびりとできて」
ミキは長かった髪をばっさり切った。輪郭がはっきりして顔立ちが少しきつくなった。「そんなんじゃないわよ。ボンヤリ見てたら、ふっとね。あっ、面白そうだなと思って」
タツオは、飲み残しのコーヒーを啜った。
時計は2時半をさしていた。
「俺はそのハニーマンとやらにはなれそうもないな」
「どうして?」
「蜂に刺されたくはないしな。それに高いところは御免だ」
ミキが笑った。頬が急に丸くなる。
「映画でも見に行かないか?」
タツオが訊いた。ハニーマンより映画の方が面白い。
「どんなの」
「いつもみたいに訳のわからないやつだよ」
「厭だ、そんなの」
「いいから、ついてこいよ」
「厭よ、へんなのは」
「ならいいさ」
「有希子でも連れてったら、あの子なら行くわよ、きっと」
タツオはその瞬間、有希子と菜の花畑を見に行く気になった。
半島はもう一面、菜の花に覆われている筈だ。タツオは受験に合格した途端、何もする気が起きなくなっていた。
ミキは現役で音大に入った。4年間、ピアノを弾き続けて、それからさてどうするのか。本人はそんな先のことまで考えているようには見えない。
タツオはやっと今年1年生になれる。浪人した分、ミキよりは遅れた。有希子もそれは同じだった。どうしても母と一緒のところに行きたいの、と彼女はいつも言っていた。そしてその通りになった。いざとなったらやる女だ、有希子は。
「夕方まで映画でも見て、どっかで飲もうか」
「二人だけじゃね、有希子も呼んでよ」
ミキはいつも有希子に遠慮をする。高校時代からそうだった。
タツオはミキのピアノが好きだった。とても柔らかないい音がする。そして時にたっぷりとふくらむ。タツオ自身、子供のころにピアノをやっていたから、大体の見当はついた。かなりいい線までいくんじゃないか。ひょっとしたら、ほんもののビアニストになれるかもしれない。
コンサートに呼ばれて、真正面の席へ座り、拍手を送る。その頃、ミキはもう遠い人だ。

2001-04-14(土)

         夢人

初めに女ありき、と夢の中で何かに囁かれた時、私はそれほど不愉快な気分にはならなかった。むしろ両の掌の中にしっかりと包み込んで大切にしたいと思った程だ。足を心持ち下の方へずらすと、太股のあたりに妙な息使いがあった。はあはあ、と喘いでいるような、快楽に浸りきっているような切ない声であった。私は起き出すのがひどく勿体ないことのように思え、そのままじっとしていた。しばらくすると胸のあたりにも息使いがあった。首から肩にかけてのなだらかな斜面にも似た類の声がした。
全てが唐突のことに思えた。私は眠ったふりをした。障子が時折り、がたがたと意味もない音をたてた。風だろうか。錯覚なのか。障子は確かに揺れていた。部屋にいるのは私だけではなかった。妻がいた。四十数年も一緒に生きてきた妻がいた。私はそのことを危く忘れかけていた。つい手を伸ばせば妻の夜具が冷え冷えと横たわっている。その中に彼女がひっそりと眠っている。その想いは私を震わせた。まだ揺れている。本当に風だろうか。
腹這いになって煙草に火をつけようと思った。六十を過ぎると眠りが浅くなっていけない。いつもなら、思った通りに身体も動くが、その夜は硬直しきっていた。胸から下腹にかけて重いものがよどんでいた。ははあ、と私は一人ごちた。どうやら死んでいくのかもしれない。そう思うと随分と気が楽になった。蓮に坐った仏の姿を想い描こうとした。だが無駄だった。どこにもそんなものは見えなかった。静かだ。
どこからか声がすればいい、と私は思った。静寂を突いて破り捨ててしまうような声がすればいい。しかし、部屋の中は物音一つしなかった。時折り、妻のかすかな寝息が耳に届いた。だが、それは静けさを破ってしまうほどのものではない。全くあえかなものだ。私はもっと力強いものを欲している。
腹這いになってみた。思ったより身体が楽に動く。太股のあたりにあたたかなものが流れている。私はその快感に浸った。息使いは依然として消える気配をみせない。一服すると、血液が管の中を動きだす気配があった。まだ当分、死にそうもない。私は思わず声に出して呟いた。妻が目を覚ましたようだ。
「あなた、何か今、言った?」
「いや、別に」
「そう、それならばいいんだけど。ちよっと変な夢な見たものだから」
また夢か、と私は半ば諦めきったような表情で妻の顔を覗き込んだ。暗くてよくは見えないが、何かを怖れている声であった。
「どんな夢だ?」
「いいの。あなたに話すようなものじゃないから」
この女には自分というものが見えすぎている。それがいけない。
「そこまで話して何も言わないのはおかしいよ。それに気にもなる」
「でも、いいわ」
妻は結局、何も語ろうとしなかった。結婚して以来、いつも、この調子の連続だった。私にしてみれば若い時こそ気にもなったが、年をとってみれば、むしろ楽な事この上ない。それ以上、訊ねるのも無駄のような気がして、再び天井を見上げた。妻はじっと息をひそめている。怖しい夢か。なんと魅惑的なことだろう。どこかに秘んでいた宝を夢中で掘り起こす作業に似ている。
しばらく時間があった。妻はまた眠りに落ちたようだ。私はじっとしていた。動けば太股のあたりに宿った快感が逃げていく気がして怖ろしかった。いつもの感覚でないものだけにいっそう、失った後の空白が怖かった。初めに女がいた、と夢の中で呟いたのは誰のことだろう。私には思いあたる節がない。
母親のことだろうか。分娩される以前、私は確かに母の中にいた。
髪に思わず手をやると、数本が指の間に挟っていた。色素を失ってしまった白髪の束。額には雛が寄っている。目の周囲には隈が出来てしまった。きっと醜悪なのだろう。
股のあたりで声がした。あうあう、と嬰児のような声を繰り返している。妻がまた寝返りをうった。左の乳房を下にして眠るのが妻の癖だ。右の乳は大部以前に癌の手術で失っている。自分こそが本当の女だと思っていたい、と彼女は私に話したことがある。乳房の張りを感じるために左を下にしないと眠れないのだそうだ。圧迫される感じがえも言われない、と言った。私にはわからない。
「また妙な夢なみました」
妻が突然、跳ね起きるようにして言った。着物の襟元が寝乱れてくしゃくしゃになっている。
「さっきと同じか」
「いいえ、もっと変な夢。思わず汗が吹き出てきたわ」
「そうか。話してはくれないだろうな」
「話しましょうか」
「いや、いいさ」
「そう…。そうよね」
私はじっと息をこらえていた。もう少しで妻に何かを言いかけるところであった。しかし、辛うじて止めることが出来た。彼女は寝つけない様子を見せている。私はその呼吸音だけに耳を傾けていた。
そう言えば昔、会社の同僚に三途の川の話を聞いたことがある。死にかけて三途の川を渡りかけた男が、向う岸に這い上がろうとしたが、遮られて渡れなかった。大きな掌の霊が躯全体の力を使って押し戻したという。男は結局、息を吹き返したが、不思議と快かった、と言ったそうだ。その時も今夜のような快感があったのだろうか。
私はその話を聞いた時、そんなものか、とただ思っただけだった。しかし今になってみると、その男とは同僚自身のことではなかったかとふと思う。彼は仕事にも息詰まっていたし、たった一人の娘は家出したまま音信不通だった。
あの男は自殺をしようとしたに相違ない。だが果たせなくて私に語った。第三者の話として語る以外に方法がなかったのだろう。あの時の同僚の目つきを今でも覚えている。力なく枯れきった馬のように、ただ、肉になることだけを願っていた。確かにそうだ。いや、あの頃から感づいていたのかも知れない。言いたくなかっただけだ。
しばらく疲れて、うとうとと眠ってしまった。その間のことは何も覚えていない。風もない穏やかな闇夜を一人ぼっちで歩いていた。誰もいなかった。雨にでも叩かれれば、また違った昂揚を味わうことになったかも知れない。ただ穏やかだった。
女が歩いて来ればいい、と思った。二十歳を幾らか過ぎたくらいの和服姿の女に出逢いたかった。甘い肌を持った伏目がちの女が通れば、きっと私のことだ、夢の中でも抱こうとしたに違いない。しかし、女は通らなかった。穏やかな闇ばかりが続いていた。
どれぐらい眠っていたのであろうか。気がつくと妻が夜具を片付けようとしていた。
「もう、そんな時間か?」
「いえ、どうも今夜は眠れないものだから。もう起きてしまおうかと思って」
「今、何時だ」
「まだ、三時を少し回ったところでしょう。陽も上がっていませんもの。陽が出るには、まだ二時間くらいもあるわ」
「そうか、起きるのか」
「ええ、その方がなんとなく、はっきりするような気がして」
「何が、はっきりするんだ」
「別にこれといったことじゃないのよ、ただ、なんとなくね、気にしないで」
妻の口調は抑揚のないものだった。私は夜具を畳もうとする彼女を制して、もうしばらく横になっているように言った。
「もう一度訊かせてくれ、何がはっきりするんだ…」
「わからない、でも妙よ、今夜は」
「そうか。……それはひょっとして人じゃないだろうね」
「人?」
妻は不審そうな様子で訊ねた。
「そうだ人だ」
「何か変なの。あなたに言ってもわからない、何かが絡んでくるの。まといつく、と言った方がいいのかしら。とにかくしつこいの」
私は私で何かが絡んでくるのを感じていた。股のあたりから聞こえる声に、人の匂いを感じたのは、妻が二度目に目を覚ました時のことだ。温かい匂いであった。獣のものではない。あの声と匂いはやはり人間のものだろう。
「夢の中には人間なんて出てこなかった。ただ、原っぱのような広いところにいたの。花も咲いてなかったし、鳥も鳴いてなかった。ただ、歩いていた。そうしたら急に空が明るくなってきて。私は暗い方が良かったけど。だから怖ろしくて涙が出なくなって。お腹の周りがぐるぐるして気持が悪かった。でも人間なんていなかった」
「いや、いたんだ。おまえの背後からじっと見ていたはずだ。思い出してごらん」
「そう…。でも覚えがない」
「川があっただろう」
私は唐突に訊ねた。
「ええ、確かに。いや、川よりもっと広い感じ。あれはむしろ海じゃないかしら」
「そんなに広かったかい」
「ええ、とても」
私は妻と話している間、夜着に包まれた彼女の胸が片方だけふくらんでいるのを珍らしいものでも見るように眺めていた。それは本当に片端な感じでゆらゆらと揺れていた。
妻の話には結局、人が誰も出てこなかった。私は少し失望したが、きっと背後に人間がいたと信じたい。さもないと、泣いていた嬰児のような声の主に、あまりに気の毒な気がする。いや、気の毒というのは正確ではない。何かが絡んできた代償に、私は何かを差し出したかったのだ。何よりも捧げたい気持で一杯だった。しかし、私は不幸なことに、そうした配慮には馴れていなかった。
「もう起きてもいいかしら」
妻が再び口を開いた。私は仕方なしに首を振ったが、決して心から賛成した訳ではなかった。私はもっと眠りたかったのだ。見とどけたかった。だが、私の後ろにはいつも心地よさが横たわっていた。
股の付け根を両手でさすってみる。不思議な快感がかすめるように脳裡を揺すった。私は明日の夜まで白昼の中に生きなければならない。息使いが止んだ。人が去ってしまったように、嬰児の声も、はあはあという、ひしゃげた声も止んだ。
光の帯を両の眼にとらえた時、私は心から憎悪が沸き上がるのを感じた。

シェアする

フォローする