旅行記

2004-08-05(木)

修学旅行シンポジウム

中国はここ数年のSARS問題で、旅行客の激減をみた。日本からの修学旅行生も同様らしい。そこで各省とも日本人の獲得に懸命である。そんな中、日本から関係者を招いてシンポジウムを行った。
今回は7月28日から4泊5日の日程。広州を中心に東莞市、中山市、仏山市などを訪ねるツァーである。
参加者は東京班が23人、大阪班が12人。
驚いたことに、数年前ザンビアでご一緒した埼玉県の先生もおられた。また日本修学旅行協会の関係者も同道した。
その他にはJTBから5人。これも錚々たるものだ。修学旅行の扱い高にかけても、また中国への配慮からみてもこの旅行社はつねに先を見通している。
今回の旅行で一番驚いたのは、なんといっても北京、上海に偏っている修学旅行をなんとか南に誘致したいということへの熱意だったろう。
参加者を5つ星のホテルへ宿泊させることに始まり、スルーガイドにもかなりのレベルの人をつけ、さらには広東料理の中でも全く味わいの違う高級店へ7回も招待した。
この人数でこれだけの接待をするとなると、かなりの出費になるというのが大方の見方である。それでも効果はあると踏んだのだろう。

見所

ではそれだけの見所が広州にあるか。
広州は香港から特急で1時間半ぐらいのところにある。一番最初に開けた港ということで、中国各地からたくさんの流入者がある。田舎から出てきて、なんとか職にありつこうとしている人たちをそれだけ吸収する力のある都市だといえるだろう。
気候は香港とほとんど同じで、とにかく暑い。それに湿気がある。もう少し南へ下がればもうベトナムだ。つまり亜熱帯の中国というわけである。そのせいか、バナナの作付け面積が非常に広い。
空き地があれば、だいたいバナナだ。1年中、実がなるという。
中国指導部もこの地域には並々でない関心を寄せ、最初の経済特区などをここに定めた。なんでも広州からというわけである。ここでうまくいくことは中国全土へすぐに広げることができるというわけだ。事実、その通りになった。ここから中国の躍進が始まったのである。
日本からの企業でいえば、広州ホンダなどは現在、年産24万台体制になっている。

修学旅行のスポット

今回は修学旅行で必ず行くというスポットをまず訪ねた。工場視察はヤクルト。アヘン戦争記念館、虎門砲台、孫文(孫中山)の家、中山記念中学、中山記念堂。
ここにあげた幾つかの施設はみな孫文とアヘン戦争に関わるものであり、旅行前に相当な事前学習を必要とする。
全く興味のない生徒にはなんの意味もない建造物になってしまう可能性もある。アヘン戦争にからんでは、林則徐の存在とイギリスの意図を学習させるべきだろう。
なかでもアヘンというものをどのようにして持ち込んだのかという具体的なジオラマが大変印象的だった。もともと粉状のものかと思っていたが、丸い玉になってそれがかなり大きな箱にいれられて、インドあたりから入ったというルートには大変興味をひかれた。またイギリスからの流入の他にアメリカ経由のものも多かった。
林則徐はそれをどのようにして廃棄するのかを考え、最初燃やしてみた。しかし地中に成分が残るということから、大きな池をつくり、そこに塩と消石灰を入れて、成分を破壊し、海へ流したそうだ。
記念館の入り口にその当時の池を再現したものがある。ここで学ぶ姿勢を持つ生徒は、イギリスの次に日本は何をしてきたのかということも当然考えるに違いない。
北京で見た抗日戦争記念館はあまりにつらかった。だが今回のは戦争当事者がイギリスということでもあり、立場としては比較的に楽ではあった。ガイドのレベルが高いため、歴史の説明が実に詳しい。相当、勉強をしている人のようだ。日本語も流暢である。
さて虎門砲台も海に面した東莞市でなければ、見られない歴史上の建造物であろう。
また近代中国のために孫文が果たした意義は大きく伝えなければならない。彼が長く日本にいたことなどや、『宗家の三姉妹』などの映画を通じて、内容を教えることも可能である。

文化の背景

さてここまできてやはり文化に触れないわけにはいかない。やはり寺だろう。仏山市にある祖廟は道教の寺として信仰の対象になっている。古いこうした寺を訪れることで中国人の根幹に触れることができる。境内では越劇も行われ、ここでも歴史を感じることができた。
京劇などの紹介をテレビで見た生徒も多いことだろう。越劇はそれよりも古く、広東語で行われるところが特徴である。
さらにいえば地元の高校生との懇親会を開いて欲しかった。夏休み中ということで、無理かもしれないが、ぜひ率直な話を聞きたかった。
中山記念中学は孫文の偉功をたたえるためにつくられたという実験中学である。とにかくすばらしい学校で、日本の小さな大学くらいの規模を持っている。校長も若く、約1時間の懇談会はどんどん時間が延びた。
特にカリキュラムや入試のシステムなど、現場にいるとどうしても知りたいことに話が集中した。
夜は食事の後、歓楽街を回った。
中国は比較的治安がよい。生徒達もきっと喜ぶに違いない。日本のアメ横に似たようなところも回ったが、その値段の安さは魅力である。しかし海賊品も多い。DVDがわずか30元ぐらいで買える。450円もしない。
しかし現地の人々にとってはけっして安いものではないということもあわせて教える必要があるだろう。なんといっても昼食が8元ですむのである。
またサービスということも考えなくてはならない。日本人にとって店員の挨拶や笑顔は当たり前だが、彼らにそうした観念はない。お釣りも面倒臭そうに投げてよこす。にこりともしない。
そういうソフト面での開発がこれからますます必要になる。

遊ぶ

ナイトサファリは面白かった。シンガポールでも立ち寄ったことがある。それよりも規模は大きいのだという。
雰囲気はかなり似ていた。相当、研究したあとがみえる。パンダがいるのはさすがに中国である。生徒はきっと喜ぶだろう。また大きな会場で見たサーカスは圧巻だった。ロシアからの人たちが多いらしく、いわゆる雑伎団とはまた違った傾向のものである。ものすごい空中ブランコだった。音響も照明もすばらしい。
このサファリのオーナーはかなり手広く仕事をしているようで、中国はもう共産主義国家の仮面を全部とった方がいいとしみじみ思った。
最後の晩餐会では再び感想などを述べる機会があった。英語の達者な人が多い。旅遊局に勤めている人はかなりのエリートのようだ。大学を出ないと本当にいい仕事には就けないという。
一番人気の学部はやはり経済系で、、貿易関係、会計士、公務員の人気が高いそうである。あとはコンピュータの技術者というところか。
ところで高速道路の入り口でキップをきっている人は大半が若い女性である。日本では考えられない。工場労働者も地方からの出稼ぎでまかなっている。求職者はいくらでもいるから、賃金は低くおさえられたままである。月に1000元から最高でも2000元というところか。その大半は親元へ送金される。
親の収入をあっという間に超してしまうのである。

修学旅行とは

日本人にとっての修学旅行は明治以来の伝統行事である。それだけに意義深いものでなくてはならない。
ことに外国へ行くとなると、パスポート取得などにからんで、外国籍の生徒の扱いをどうするかなどという生々しい話がすぐに飛び出てくる。
またそもそも外国への修学旅行を認めていない自治体もある。さらには費用の上限もある。こうした中でインフラが完全に整備されているとはいえない地域へ生徒を引率するのは大変な仕事である。

インフラの整備

まずトイレ事情。高速にインターチェンジというものがないため、休息をとる場所がない。仕方がないので、高速を降りてガソリンスタンドに立ち寄らざるを得なかった。女子生徒にとってはつらい状況である。
また施設にトイレはあってもその数が極端に少ない。こうした面をこれからどのように克服するかがポイントだろう。
どうしても目的地が北京、上海になってしまう理由もわからないではない。北京にはなんといっても紫禁城がある。そして明の十三陵や万里の長城もある。
それに比べて、どれだけ魅力的な見学地があるかということも、大切なポイントだ。
個人的には最終日に寄った西漢南越王博物館が面白かった。偶然発掘されたというものだけに、盗掘のあとがなく出土された文物も金印をはじめとして、2千年前のものとはとても思えなかった。同じ頃、日本は縄文時代だったといわれると、中国文化の底力をあらためて思わされる。
今回の旅行は短いものだったが、大変意義のあるものであった。自分の目で見ることは、人の話を聞くことの何倍もまさる。
これからも機会があれば、さらに見聞を広めたい。

番外編

食は広州にありという言葉は実に有名である。あまり辛くなく、どんな人の口にもあう。もう少しぴりっとした四川風の味付けがあってもいいと思うこともあるが、これがまさに広東料理なのだろう。
さて今回の旅でははじめて食べたものもかなりあった。机以外は四つ足ならなんでも食べると言われている通り、その食材の豊富さには驚かされる。しかしこれが原因でSARS騒ぎになったのだから、今後はもっと注意深くなるに違いない。
この地域がデルタ地域であることの所以か、川魚料理も多い。また生きたエビに紹興酒をかけて、客の目の前で暴れているところをみせてから、料理するものや、スッポン、鳩、なまこなども変わった食材のうちに入るのかもしれない。
日本でもこうした材料は使うが、やや調理の仕方が違う。また川魚のプリン体を好んで食べる地域もあるようだ。
また日本でも人気のある飲茶も手軽な食として好評らしい。家庭で料理をすること以上に、街のレストランへ寄るということが、中国人にとってはごく自然なことのようである。
どこへいっても必ず、ビールかコーラかスプライトかとまず訊かれる。紹興酒は頼めばすぐに来る。お砂糖にまぶした乾燥梅干しを中に入れると、実においしい。おそらくこれがもっとも普通の接待というイメージなのだろう。
お茶をわざわざ頼む人はいないようだ。これは後から必ず出てくる。つまり無料ということである。水はミネラルウォーターしか飲まないので、これはいくらかお金をとられるのかもしれない。
値段は本当に安い飲茶だと一皿5元(60円)からというところか。高い広東料理は日本円にして4000円くらいまである。最初に出た子豚の丸焼きは2000円くらいと聞いた。ぱりぱりに焼けた皮だけを食べ、それから身を切る。そのままの形で出てくるので、ちょっと気が小さい人はどうだろうか。
さて工場労働者の昼食は白いトレイにご飯とおかずが3品ぐらい添えられて、8元から10元くらいである。近ければ自宅に帰る人も多いようだ。同じ制服を着ているので、すぐにわかる。だいたい地方からの出稼ぎである。
驚くのはさまざまな記念館や博物館の入り口などにいる案内嬢や受付係、土産物販売員などが、その場で昼食を食べていることだ。多分従業員用の控え室がないからだろう。
日本でいえば、お客さんのいる前で食事をするというのは随分不思議な光景である。
お金を払うのもちょっとした店では何かレシートのようなものに書き込んで、レジに行き、お金を払ってからでないと現物はもらえない。混んでいる時はどうするのか。サービスという観念がまだないからこれでもいいが、もう少ししたら、必ず問題になるだろう。
いずれにせよ、細かいところは後から幾らでも修復はきく。問題はやはり根幹だろう。
13億人が毎日飢えもせずに暮らしていることだけで、まず素直に驚いてしまう。食料はどの店にも山と積まれている。
毛沢東の時代ははるか彼方だ。

2001-03-10(土)

タイ式生活のすすめ

タイの人々がよく口にする言葉、それは「マイペンライ」です。これは沖縄人の考え方「テーゲー」によく似ているといわれます。すなわち、その日がよければいいじゃないかという発想です。それほど先のことばかり考えてくよくよして、何が楽しいのかという意味でもあります。一言でいえば現世肯定、常にノープロブレムという訳です。この考え方はタイ人にとって最も親しみやすいものとみえて、どうやったら他の国の人と見分けられるのかという時の物差しにもなっています。
平均的なタイ人は以下のようだとよくいわれます。

①貸した金が戻ってくることはない。
②寺が好きで、お参りをすると心が洗われる。
③唐辛子の入らない料理は味気ない。
④金さえあれば何でもできる。
⑤割り勘などという考え方は持ったことがない。
⑥氷をたっぷり入れてくれないジュースやコーラはダメ。
⑦額に汗して働くのは貧乏人だ。
⑧カネがあれば金(きん)を買う。
⑨カネをせびる役人は悪い役人である。カネでいうことをきく役人はよい役人である。
⑩責任の所在を明確にしてはいけない。
⑪タイの男と生まれたからには愛人を一人は持ちたい。
⑫金持ちなのに愛人がいないのは変わり者である。
⑬とにかくタイは一番すばらしい国だ。

この話には少し誇張があるかもしれませんが、しかしぼくの見たところ、これはあながち大袈裟ともいえません。都会と地方の格差はあっても、誰もが平均気温30度、を超すあの熱帯で暮らしていれば、こんな気分になるのではないでしょうか。中には同じアジア人として、似ているところもありますが、しかしタイはやはりタイなのです。
バンコクは聞きしにまさる大渋滞都市です。現在地下鉄の工事も始まっていますが、いつ完成するのでしょうか。3年後という数字をどの程度信用していいのか、少し疑問が残ります。普通のタクシーにトゥクトゥクと呼ばれる窓のない三輪タクシー、さらにはバイクタクシー、一般の窓なし路線バス、クーラー付き路線バス、さらにはトラック、バイク、乗用車が、市内を縦横無尽に走ります。その騒音と排気ガスのものすごいこと。路線バスの停車場では多くの人が待っています。しかし時間通りに来ることはありません。もともと時刻表など誰も信じていません。来た時間が乗れる時なのです。仕方がないので、急ぎの人はバイクタクシーに乗るという訳です。しかし接触事故が頻発し、危険この上もありません。地下鉄がないため、幾つかのモノレールに頼るか、バスしか今のところ、交通手段がないようです。
驚くことに、その渋滞の脇には屋台の店が軒を連ねています。人々はスモッグと騒音を気にせず、そこで食事をします。独身者などは3食とも屋台で、家庭を持っている人もおかずだけ、そこで調達する人も多いようです。
どこへいってもアジアの匂いがします。ココナツミルクに唐辛子、香草、魚醤。どれも日本人にはあまり馴染みのないものばかりです。横町に入ると、どこからもこの匂いがしてきます。歌舞伎町に似ているといわれるパッポン通りにも足を踏み入れました。日本語でかかれた看板がたくさん目につきます。金持ち日本人の横顔が見えます。タイはエイズの患者が多い国としてもよく知られています。地方から売られてくる少女たちの存在も現実の話です。タクシーに乗れば、運転手はすぐにナイトクラブの名前を口にします。後でマージンをもらうのでしょう。それだけ日本人はあまくみられているのかもしれません。
免許証もお金でなんとかなるそうです。勿論違反もお金ですみます。車検もあるようなないような、ナンバープレートをつけていない車もかなり見かけました。全てマイペンライです。そうした意味で警察官はかなりいい職業のようです。表の給料はそれほどではないものの、違反などの罰則金をポケットに入れてしまうのだそうです。日本とは違ったシステムのあり方を感じます。
しかしそうした国でも王室と仏教に関することとなると、ガラリと様子がかわります。現在のラマ9世・プミポン国王は、日本の天皇などへの複雑な感情とは全く違い、多くのタイ人の尊敬を一身に集めています。紙幣のデザインは全て国王です。宮殿や、エメラルド寺院などをみていると、この国は全て王室が支配しているのだと感じます。あらゆる権益は王室とそれに続く人たちが握っているようです。貧富の差は歴然としています。しかしそれほどに文句もいいません。
もちろん、チュラロンコン大学、タマサート大学などのエリート校に入れるような人たちは幼い頃から、それなりのお金を使って環境を整えられる層の中からしか、出てきません。入学試験に関しては裏口ということはないようですが、付属の高校などにはやはり不正があると聞きました。以前は大学進学率も低いものだったそうですが、ここ数年の間に25%ぐらいに上昇しているとのこと。今までにない新しい層がこれから生まれて来るかもしれません。
さて仏教はこの国の大きな柱です。男子と生まれたら一度は出家をします。その間は仏に仕えるものとして遇されるのです。幾つかの厳しい戒律を守れば、あとは比較的自由なようです。朝の托鉢も大切な仕事です。国のなかに幾つ寺があるのか知りませんが、本当に見事なものばかりです。特に暁の寺院・ワットアルンはチャオプラヤー川の流れとよくマッチして荘厳なものでした。三島由紀夫の小説『豊饒の海』の中の一巻、『暁の寺』はここからの着想で執筆されたと言われています。かつて一読した時、どうしてタイにストーリーが飛ぶのか理解に苦しみましたが、実在の寺を見たとき、その気持ちが少しわかりました。ちなみに輪廻転生をモチーフにしたこの作品は失敗作であると評価されています。個人的には第一巻『春の雪』がやや、装飾華美ではありますが、好きです。

川をさかのぼってアユタヤにも足をのばしました。古い都市にはやはりそれだけの重みがあります。そこへ到る船の中で、添乗員たちがカードを始めました。お金を賭けているのは明らかです。船の従業員もそれに加わりました。これがタイです。皆一様に興奮し、最後にお金を精算した頃、船は目的地アユタヤに到着しました。アユタヤのすばらしさは、やはり見た人にしかわからないでしょう。ビルマとたたかい破れた時、寺にあった仏像の首は全て持ち去られました。その姿には時の流れを感じます。
哀しいぐらい美しい風景でした。
今回の旅を通じて、アジアの力を感じました。それはうねりとなってアジアの大陸を覆っているようです。すました顔で落ち着いてしまった日本と違い、タイには人間の勢いがありました。それがこの国の魅力です。何かいい知れない懐かしさを感じるのも、またそこに理由があるのかもしれません。

2000-04-10(月)

中国旅行記

はじめに

今年の3月28日から4月5日にかけての9日間、中国長春市第11中学校を初めとし教育施設、並びに北京市等を訪問してきました。これは以前から文通交流をしていた学校を実際に生徒が訪問するという計画が実現したものです。
前任校在勤中から文通を主とした親睦団体の代表、N先生と接触があり、毎年15~20名程度の生徒が文通をしていました。生徒たちは毎回どんな手紙がくるのか大変楽しみにしており、封筒や便箋の一つ一つもここ数年の間で、大きな変化が見られるようになっています。まさに中国の経済成長を目の当たりに見ているといっても過言ではありません。
生徒は私が届ける封筒を喜んで手に取り、友人と読みあいます。大変ほほえましい風景です。かなり達者ではありますが、教科書で勉強した日本語は時に不思議な印象をもたらすこともあるようです。しかし生徒は異国で日本語を一生懸命勉強している生徒の存在をそこで知るのです。
さて、現任校に異動とともに数年が過ぎ、NPOの資格をとったということの記念に、一度長春を訪問してはどうかという話が代表からありました。さっそく生徒に打診してみると、2年生の女子2人の参加者希望者が出ました。一人は文通を2年近くしている生徒、もう一人はその友人です。
というわけで一行はN先生と私、それに女子生徒2名ということになりました。

長春での日程

長春市は旧満州の首都、新京であり、今日でも発展を続けている大都市です。その中でも第11中学(日本の高校にあたる)はいわゆる実験中学と呼ばれ、かなり学力水準の高い生徒を集めています。総生徒数、約2700人。授業は朝8時開始。午前中一コマ45分、午後40分の9時間授業で、午後5時終了です。
ただし寄宿舎600人の生徒はその後、3時間の自習を課せられます。宿題の量が多く、予習をしていかないとついていくことができません。ちなみにクラブ活動はなく、まさに勉強漬けの毎日です。
生徒は全員、大学進学希望であり、一人っ子ばかり。一クラス70人というのはいかにも人口の多い国、中国そのものの縮図でしょうか。当初の予定通り、生徒2人は授業に参加させてもらい、日本語、国語(中国語)、音楽、体育、英語の授業を中国側の生徒と同じように受けました。殊に日本語クラスでは実際に教科書を読み、日本語の発音のデモンストレ-ションもしました。
また私自身も3時間ほど授業を行い、その中で日本人の持つ国家観や労働観などを引率した生徒とともに展開し、紹介しました。これは想像以上に、私自身にとっても貴重な経験であり、相互の文化の差などを知るチャンスであったと思います。
特に中国側の生徒の真剣さには目を見張るものがありました。真摯に何もかもを掴みたいとする意志を非常に強く感じ、今日の日本ではまずみられなくなった謙虚さとあわせて、大変強烈な印象を受けました。
また2日目の午後には生徒の家を実際に訪問し、餃子作りなどをして楽しみました。3DKの住まいは、いわゆる日本の団地と同じで、実際に中国人の家に上がるという貴重な経験をすることができました。生徒はなれない手つきで餃子をつくり、その後楽しく会食。クラスメート、先生などあわせて10人を越える賑やかなパーティであり、親睦がいっそう増したことは言うまでもありません。
授業の間も、食事の時も、第11中学の先生方は終始私達に好意的で、細かい配慮をしてくれました。
また長春での最終日には以前から文通希望のあった、長春外国語学校も訪問しました。ここでは主に彼らの質問に答える形で授業を行いました。日本のいじめの実態や、日本の教育の目標など、内容は本当にさまざまなもので、日本のことに強い関心を持っているのがよくわかりました。
昼食後はあらかじめ予定していた生徒3人と一緒に長春市内を歩き、実際の町の様子を肌で感じて、楽しい時間を持つことが出来ました。
さらにこの後、最後の皇帝溥儀がすごしたという偽皇宮なども見学し、衝撃的な写真も多く見ました。

北京市内散策

今回の目的のもう一つは、前年の修学旅行地、沖縄とあわせて、中国での戦争問題を考えるきっかけを得ることでもありました。その最大のものが、盧溝橋の近くにある「中日戦争記念館」見学ではなかったでしょうか。事実、後に生徒が書いた作文の中にも、そのことに関する記述がありました。
これは前年の秋に行った沖縄でひめゆり部隊の女性の話を聞いたことと、大きな関連を持っています。生徒は中国での戦争の意味を、あらためて考え続けたということの証左にもなりました。
今回、長春という土地を訪れるということで、引き上げ者の問題を考えさせるために、山崎豊子の『大地の子』と藤原ていの『流れる星は生きている』をあらかじめ生徒には読んでもらいました。しかし、それ以上に現地だけがもっている気配は強かったようです。
もちろん、この他にも故宮や、万里の長城など、多くの名所を見学することができました。夜は市内の屋台をひやかし、生徒達は生身の中国を体験するチャンスにも恵まれました。
今回、NPOの配慮で実現したツアーではありましたが、想像以上に得るものが大きかったです。これは現地の旅行社が以前から支部をかってでてくれていることなどもあり、スタッフが何度も日本を訪れ、会の皆さんとも信頼感でつながっている故に実現したと思われます。
実際、ただ普通の旅行社にここまで細かい配慮をしてもらうことは、おそらく不可能だったでしょう。現地スタッフとの連絡が常にとれる態勢があるからこその受け入れ実現ではなかったでしょうか。スルーガイドの女性も9日間、私達と行動を一緒にしてくれ、生徒とは姉のように強い絆で結ばれたようです。
今後、このような企画が長く続くことを願うとともに、中国側からも生徒や先生を招き、ホームステイなどもできればいいと心から思います。

1999-08-10(火)

マレーシア ホームステイ体験記

コタティンギ村では大歓迎を受けた。太鼓を叩いての小学校入場から、その後のセレモニーへと、なにやら突然異次元に迷い込んだ気分である。緊張感というのでもない。しかしこれから待ち受けている半日がなんとなく長くも感じられる。
お祈りに続いて、農業省の偉い女性のお話。というより演説に近い。村の人たちは神妙な顔をして聞いている。同じ音がよく出てきて、日本語の発音に近いような気もする。
そしてついにホストファミリーとのご対面タイムがやってきた。ちょっとどきどきする。ご主人はシャー・イスマルさん、そして奥さまのハスナ・ラジスさん。二人ともにこにこしている。奥様はちょっと小太り、それにひきかえ旦那様は細身だ。なんだか田舎の民宿に立ち寄ったという風情である。奥さんにぐいぐい手を引っ張られて、隣へ坐らされる。何を話したらいいのか皆目わからない。
さっそく息子さんの車で家まで案内してもらうことになった。歩いている途中もたくさんの人達が興味深そうにこちらを見ている。私も手を振る。みんな応えてくれる。やはり不思議な感じだ。村に突然現れた旅芸人かサーカス団のようである。後で訊いたら1942年以来、初めて村にやってきた日本人らしい。ここにもきっちりと戦争の爪痕は残っている。
車の中でスラマ・パギとテリマカシを連発する。しかし奥さん、もうスラマ・プタンの時間だと教え諭してくれた。とにかく声がでかい。どちらかというとガハハのタイプ。
5分ほどで着いた家はなかなか立派だった。広いリビングの床がタイル張りのせいか、ひんやりして気持がいい。シャー・イスマルさんには、8人の子供がいるとのこと。初め心配した言葉も、お嬢さんが小学校の先生をしているおかげで、英語が通じた。それに息子さんも喋れる。日本から持参のカラーペンや、羊羹を取り出してまずは国際親善から始まる。
それからはもういろいろな質問責めにあい、地震の話や、腹切り、芸者、日本語の発音(皆面白がって、一緒に発音してくれる)竹とんぼ、コマ回しとなかなか忙しい。とくに風呂に入る話では大いに盛り上がり、なんでわざわざ熱い湯に入らなければならないのかと訊ねられた。それもお金を払って温泉に行って泊まるのが楽しみだというと、実に怪訝そうな表情をする。
ご主人は私に向かって、『見よ、東海の空明けて』という軍歌を朗々と歌ってくれた。63才という年齢から計算すると、7、8才の頃に聞いた歌ということになる。それからしきりに首を軍刀かなにかで切るまね。これは私にも重かった。
その夜は皆と写真を撮ったりしながら、夜遅くまで語りあった。月給の話、おしん(お母さんの大好きなTV番組だった)フジヤマ、子供は何人、ちょんまげはいるか。返事する度に驚きの声。奥さんはそろそろ、お湯を沸かそうかとしきりに心配してくれる。いえいえ、水だけで十分と私。
マンディー(水浴び)をしに、トイレと風呂場が一緒になったところに赴く。カメに入った水を桶で頭からかぶること数度。当たり前の話だが、あたり一面あっという間にびちゃびちゃになる。勿論、便器も水浸しだ。
しかし、ローマに行ったらローマ人のようにするしかない。これが文化のギャップというものか。
さて汗を流してさっぱりしたところで、息子さんのお嫁さん(とってもチャーミング)に、マニキュアにあたるイナイ(木の葉をすりつぶしたものを、指先に数時間巻いておく)をしてもらう。最初、息子さんの指の先が何本も茶色だったので、これは何かと訊いただけのつもりが、よかったらやってみろということになり、ついお願いをしたという次第だ。ちなみにこれはちょっとやそっとでは色が落ちず、つまり今も指先はヨーチンを塗った状態のままである。
翌朝は心地よく目覚めた。まずお母さんにおはようを言ってから、お決まりのマンディー。これをしないと一日が始まったような気がしない。それからまたお話。特にラマダンの間、何も食べないのは本当につらいとのこと。 しかしそれが終わった後の祭り、ハリラヤ・プアサや、ハリラヤ・ハジは楽しみらしい。盆と正月が一緒に来たようなもののようだ。言葉がわからないお父さんは、息子さんに時々意味を訊ねる。そしてにっこり笑う。 さて朝食だ。春雨のようなもの(というより、ソーメンに近い)ものにスープ。どうやら鶏らしい。肉が浮かんでいる。それに名前は忘れたが、日本のおもちのようなもの。それと忘れてならないのは甘い紅茶である。マレーシアの人は糖尿病にならないのだろうか。とにかく前日のパーティーの飲み物といい、この紅茶といい、めちゃくちゃ甘い。
日本ならまず医者に叱られるのは確実だ。最近はお砂糖を入れて飲まない人も多いと言ったら、目を丸くして、どうかしてるんじゃないかというお母さんの不思議そうな顔。
息子さんのお嫁さんがいつまでも食べずに見ているから、一緒に食べようというと、ちょっとはずかしそうにしてやっと、食卓に向かう。やっぱり嫁と姑の関係はマレーシアにもあるのだろうか。
さて食卓には他にマンゴスチンとドリアン。食べろ食べろと勧められ、なんとか匂いにめげずいただく。おいしかった。これは掛け値なく。しかし妙な味であることには変わりはない。スイカやナシがやはり恋しい。味覚というのは実にやっかいなものだ。
家を出る時もきっと今度は奥さんと子供達をつれておいで、と皆が口にする。本当に連れて来ようかなと、ちょっと思い、本当に我が家族を説得できるかと少し不安になる。
別れる時も最後までバスの中を心配そうに、ずっと覗き込んでくれたお母さん。メッカ巡礼を終えた後のご夫婦の写真は本当に幸せそうだった。私は幸せな放蕩息子を演じたまま、いい思い出をたくさんつめこんで、村をほんの半日で後にしてしまった。
ちょっぴり残念だが、しかしほっとした安堵感も同時に漂う。家に置き忘れた上着をバイクに乗ってわざわざ持ってきてくれたお父さん、本当にありがとう。またいつか逢えるその日まで。
サンパイ・ブルジュンパ・ラギ!

1999-07-20(火)

ザンビア報告

1 ザンビアという国

ザンビアは遠かった。距離的にも心理的にも。19時間の飛行の果てには想像もつかない世界が広がっていた。
ザンビアは8つの国に囲まれたアフリカ中南部の内陸国で南緯9~18度、東経23~24度に位置し、面積は753千平方キロ、人口1000万人の国である。周囲の国は内戦状態にあるところが多い。銅製産にだけ頼ってきた経済は、銅の値下がりとともに壊滅的な打撃を受け、景気はひどく下降線のままである。GDPは264ドル(1994)。失業率、約50%。つねにインフレ状態にある。通貨クワチャの価値は下がる一方であり、外貨不足が続いている。現在ザンビアに流れ込む外国資金のおよそ70%が主に国際金融機関の負債返済に充てられている。
都市に人々が流入し、40%以上の人が都市に住む。それもコンパウンドと呼ばれる水も満足に出ない地域にである。医薬品も不足。医者も満足にいない。ちなみに12、000人に一人しか医者はいない。貧困層を中心に学校へ行っていない子も多い。平均寿命は47~48歳。潜在的なエイズ感染者も人口の2割はいるという。
農業はザンビアの国内総生産の15%貢献し、労働力の75%を雇用している。ほとんどが小規模農業でトウモロコシ中心。他には綿花、南京豆、煙草、キャッサバや野菜がある。
貧しいといってしまえば、それまでだが、貧富の差が激しい。中国人、インド人には金持ちが多い。なにも食べるモノがなく夕食のために売春をする人がいる一方で、五つ星ホテルで半日結婚式の披露宴をやる大臣の息子もいる国である。ある意味で矛盾が山積している。しかし現地の人はそれほどつらいと思っているようにも見えない。それが彼らの人生そのものなのだ。希望がないというのでもない。どの人も人なつっこく、いい笑顔だ。
一月、6000円の給料をもらうのがやっとという国の中で、一泊、9000円のホテルに泊まった。高い塀、バラ線、警備員の姿を見ながらJICAの事務所でのブリーフィングも受けた。治安の悪さ。昼間でも自動小銃を持った強盗がでること。夜は外を歩かないように。健康のために水を確保すること。蚊にさされてはいけない。マラリアになる可能性が大。どれも暢気な国で暮らしている日本人にとっては遠い話だ。しかしこれがザンビアの現実そのものなのである。

2 アグリカルチャー・ショー

着いた翌日、さっそくアグリカルチャー・ショーというものを見学に行く。これはいわば農業万博のようなもの。といっても日本のそれのように、きちんと内容が整えられているというのでもなく、文化祭の延長のような印象である。しかし会場にはチルバ大統領も顔を見せ、未来の農業にかける意欲を感じさせた。各ブースの展示コーナーには主食のメイズ(トウモロコシの粉)や、衣類、ポリプロピレンなどの容器が並んでいる。ただしこの国には主要な企業と呼ばれるものがなく、中小企業もほぼ壊滅状態であるという。
広いグラウンドでは軍隊の模擬演習も行われたらしい。これはホテルに戻ってからテレビで見た。国営ザンビア放送である。しかし機材がよくないのか、はっきり映らず、チラチラと画像が流れて見にくい。5000クワチャ(250円)の入場料を払える人はかなりいい階級の人なのだろう。とにかく月収の多い人で10~15万クワチャである。貧しい人はほとんどその日暮らしといった有様なのだ。ちなみに自転車が20万クワチャ。主食のメイズ(トウモロコシの粉)は25キロで15000クワチャである。5000クワチャの入場料がいかに高いか理解できるだろう。
農業に力を入れなければ生き延びられないところまで、追いつめられているようだった。しかし南アフリカなどの大きな資本が大農場を経営し、あとはごく零細なその日暮らしの農業である。肥料もない。灌漑施設があるというわけでもない。約4200万ヘクタールの潜在的農業適地のうち、実際に使っているのは250万ヘクタールだけである。ほとんどが灌漑施設をもたず自然の雨だけに頼っている。政府の農業セクター投資プログラムが成果をあげることを祈りたい。

3 リビングストンの大きな滝

翌日、首都ルサカから500キロ離れたリビングストンに向けて出発した。実に東京、大阪の距離である。それをただマイクロバスに乗って突っ走る。最初は大きな観光バスでもチャーターしてくれるのだろうと思っていたが、そんなものはどこにもない。クッションの悪い、しかしそれでも十分に走るマイクロバスである。運転手さんがいい人で、運転もうまい。JICA関係の運転はほとんど彼にまかせているようである。
舗装は日本の簡易舗装に近い。しかし道路に穴があいていないだけ良しとしなければならない。実際首都ルサカの町にはあちこちに穴のあいた道路があった。しかし修理する予算がないのだという。メインストリートはさすがにきれいだったが、これは日本の援助でなおしたとのこと。
道にはたくさん炭の入った袋がおいてある。車で誰かが積んで運ぶのだろう。それに歩いている人が多い。ヒッチハイクなのか、ただ手をあげている人、さらには焼き畑農業のために真っ黒になった野原。マッシュルームハウスといわれる農家の家々。どれも珍しい風景であった。なかでも黒い煙を上げている畑が道の脇まで続いているのは壮観だった。地球の資源、環境破壊といっても、ここにはなにもない。肥料を買う金もない。手っ取り早く草を燃やすしかない。真っ黒な草原を見て、悲しくなる。しかしこれが途上国の現実だ。煙が高くどこまでもたなびいている。
リビングストンではまっすぐで大きな滝を見た。ビクトリア・フォールである。ごく普通の旅行者なら、美しい、壮大だと感嘆し、それで終わりだろう。しかし私たちにとっての旅はまだ始まったばかりである。世界三大瀑布に数えられる滝は確かにすごかった。水しぶきにあたりながら、急いで虫よけスプレーをする。蚊に食われたら、マラリアになる。特に水たまりの多いこの場所が危険だと事務所で医療調整員のAさんに言われた。前に渡された薬を飲まなかっただけに、少し緊張する。
午前中、リビングストン博物館を訪れた。システムエンジニアのS隊員はコンピュータが自由に使えないことを嘆いていた。事前の話ではすぐに使えるコンピュータもあり、館内の収蔵品のデータベース化もはかどるものと予想していたらしい。しかし現実に与えられたものはなにもないがらんとした部屋一つと、つっかえ棒でなんとか窓にしがみついているおんぼろクーラーだけ。彼はなにもまだ仕事らしいことをしていないので、説明することがなくてつらいと語った。
ザンビア事務所経由、日本のJICA本部のOKがでて、実際にコンピュータが搬入されるまでには、まだ3ヶ月はかかるとのこと。とはいっても近くにコンピュータを売っている店は一つもない。ロンドンから運び込むために時間もかかる。さらには停電防止用の装置、電圧を一定に調整するための装置も必要となる。青年海外協力隊の任期は2年。毎日マラリアの薬を飲みながら、過ごす月日は長いのか、短いのか。辛いときはビクトリア・フォールを見て心慰めると言った彼の表情は、しかし少しも暗くはなかった。
あまりあくせくしても仕方がない。今はやれることをやるだけです、と彼はきっぱり語る。だがSさんがいなくなった後、データベース化された資料はどのように利用されるのか。結局はドナー国からもらったコンピュータ一台だけが残るということにならなければいいが。そのことを考えると、少し気が重くなった。しかしさすがにザンビア一の博物館だけはあって収蔵品はなかなかのもの。ルサカ市内にあった博物館とは雲泥の差である。
だがここでも給料の遅配とかで、数ヶ月も支給が滞っているとのこと。館長さんは優しい人だったが、個人の力ではどうしようもない国の現状を考えざるを得なかった。
一方、同時期に保健省自動車整備で入ったI隊員も穏やかな人柄の好人物だった。仕事場は博物館からすぐ。それほど離れていない。ほとんど村の自動車修理工場のような印象。周囲を高い塀で囲わなければ、なにもかも盗まれてしまうのだろう。中に入ると10台位の車が雑然と並べてある。新しいのはほとんどない。どの車も30万キロは走らせるとのこと。それだけ車は貴重である。修理もたいていは自分でなおしてしまうのが主だそうで、一番多い故障はバッテリー。とにかく値段が高いので我慢して使い、ヒューズがとんだら、そのまま直結してしまうために、走行中に突然燃え上がったりもするそうだ。
Iさんは暑い太陽の下で、ぽつぽつと仕事のことを話してくれる。口が重い。やはり文化の違いに参ったという印象のようだ。ザンビアの人はとにかく自分のやり方に固執していて、どんなアドバイスをしても意見を聞こうとはしないらしい。ボスのいうことだけを聞いていれば、とりあえず給料はもらえる。技術がどんなに稚拙でも、それはお構いなし。公務員の体質が露呈したままのようだった。今のままではじり貧なので、保健省以外の車を修理して日銭を稼ぐということを口にしても、誰も耳を貸そうとはしないという。時にボスが自分の顔で知り合いの車を持ち込み、修理代はポケットマネーにしてしまうこともあるという。しかし誰も文句を言わない。その技術水準もお話にならないと言った。
さらには部品を買おうと思っても、どこにもない。首都ルサカにいって、その度に探すのだそうだ。実に500キロ離れているのである。しかし最近の車はコンピュータ化が激しく、全くのお手上げ状態だといった。あるいはあっても車種にぴったりのものはなく、全部自分で改造するらしい。前任者が帰って1年が経過し、随分意識改革が進んだという報告書を読み、勇んで来たものの、すべては全く前の状態に戻っていたと、語ってくれた。ワーカーたちはどんな機械を今度JICAが買ってくれるのかと聞く。しかしIさんは、安易にものを買うのは厭だとはっきり言った。ここには援助馴れの実態をみてとることもできる。人よりもモノをという姿勢だけでは、自助努力ができないと思うのだが。

4 チョマ・セカンダリー・スクール

学校がやはり見たい。リビングストンから首都への帰り、チョマに寄った。ここまで約200キロ。乾いた土の中を少し走るとチョマ・セカンダリー・スクールがあった。中学と高校をあわせたという印象である。しっかりした学校のようだ。生徒数約700人。
教育はなんといっても国の根幹である。しかし予算不足ともあいまって、基礎教育の就学率も次第に下がっているという。小学校(7歳~14歳)までで終わってしまう子供が大半なのである。就学率約60%。言葉は最初の数年間部族語でそれ以降は英語になる。
事実後に訪ねた時に見た小学校は窓ガラスも電気もない教室3つ、教師10人、生徒数500人。一日3回に分けて授業が行われていた。そんな環境のなかで、高校にまで進めるということは、大変恵まれている。進学率が同世代の約2割という数字がそれを物語っている。大半が寄宿舎に住んで勉学を続けている。結構学費の負担が大きく、さらにはテキスト、制服、靴と物いりである。さらには試験の度に費用をとられる。成績もすべて張り出す。現在は女子生徒の妊娠が大きな問題であるとのこと。以前は退学にさせていたが、現在では通学可能であるという。男子におとがめなしというところが、この国の現状か。退学者の数はばかにできないものらしい。もともと15歳頃から口減らしのために結婚する国柄であり、一夫多妻の習慣、男尊女卑の考えが抜けないとのことであった。
また教師の待遇が悪い(月収約50ドル、最低80ドルないと生活できない)ため、特に理数系の教師は他の国へ行ってしまい、常に教師が足りない。事実JICAへの要請も理数系教師が大変多い。N隊員も大学院で教育哲学を勉強している最中に応募したという。もちろん教えているのは数学である。それも週に40分授業を30から35コマはやるらしい。日本では考えられないハードワークである。
生徒はテキストがないため、先生のいったことをすべてノートにとる。そしてどんなことでも手を挙げて訊く。その態度は日本人の高校生とは比較にならないほどよい。無論、授業中に携帯電話が鳴ることもない。授業終了後、生徒と話し合いをした。皆将来の希望を述べる。会計士、医者、獣医、科学者など様々である。しかしNさんによれば、現実にはほとんど不可能であるとのこと。ここから大学に行く生徒はほとんどいないらしい。国内にある二つの大学の生徒数はほんのわずかであり、両者あわせても一年に1400人が入学許可定員である。
ルサカのザンビア大学、キトウェのコッパーベルト大学に入ることがいかに至難かを改めて思い知った。多くの高校生は短期大学か、職業訓練校に入れれば、それだけでありがたいというのが実態のようだ。とはいうものの、高校まで出られただけで、親に感謝しなくてはならない。一家族7~8人の子供の中で満足に育ちあがるのは約半数。1000人中200~300人は5歳までに死んでいく。平均寿命が50歳に少し満たないという数字がそれを示している。エイズに感染している人の数も正確にはわからないものの、全人口の2割。感染症(結核、マラリア)などとHIVとが相互に関連して、若くして亡くなる人が多いのもこの国の特徴である。
司祭のお祈りの後、昼食をいただく。この国の常食、シマである。トウモロコシの粉を熱い湯の中でこねながら、固まるのを待つ。それを指の先で丸めながら、魚や肉などとともに食べる。正直、大変おいしかった。やや肉などの味付けが濃くて脂っこいが、それがちょうどシマにあう。ただし彼らはいつもこれほどのご馳走を食べているわけではないらしい。脇に添えられていた菜っぱのようなものと、テラピアという干し魚が普通というところか。
ちなみにこの昼食の費用をすべてSさんが出したという話を聞いてまた驚いてしまった。遠方からの客にご馳走しようにも、その費用が出せないというのが実態のようだ。教師の給料も遅配になり、かなり苦しい生活を強いられている。日本人教師との座談会の中で給料を日本人はいくらもらっているのかという話になり、その天文学的な(彼らにとってみれば)数字にただ驚いていた。しかし彼らの気持ちになれば全くよくわかる。隊員の給料は月500ドル。このことは現地の人に知られないようにしていたようだが、しかし自然と知れ渡ってしまっていたらしい。10人分の給料をもらう日本人教師の立場の難しさにもあらためて考えが及んだ。
お金についていえば、一度貸してもなかなか返さない。ダメモト精神で借りにくる。東洋人とはまた違った精神風土の中にいる彼らと2年間暮らすのはなかなか骨が折れただろう。最後に任期を終えるにあたって、協力隊員のおかげでビデオプロジェクターを買ってもらい大変感謝しているという校長の話があった。自分の国の理数科教師に逃げられ、その分をつねに外国人の教師によって補うという構図からどうしたら抜けられるのか。ちなみにザンビア在住の海外協力隊68名(シニア隊員を含む)中、理数科系教師21名(隊員の31%)という数字はなにを物語るのか。
銅という単一の天然資源に予算のすべてを頼りすぎていたために、そこからの脱却ができず、新たな指針をたててもなかなか思うようにはいかない、国の様子がみてとれるのである。モノカルチャーの政策から、全く新しい展開を求められる段階に入っている。

5 国立科学技術研究所

協力隊員の活動現場を訪れるため、国立科学技術研究所に向かった。ルサカ市内にある。広い敷地の中にポツンポツンと建物がたっている。最初になにを研究しているのか、興味津々だった。しかし豆炭製造と聞いて、少し驚いた。1987年から始まり12年、今日では着々とその成果が上がっている。豆炭製造の基本は森林資源の保護につきる。炭をなるべく使わずに豆炭を、そのために熱効率のいい七輪を開発する。現地の人が使っている鉄製の七輪は確かによく燃えるが、燃焼時間が短すぎる。それをザンビアの実状にあったものにしていくという気の長い研究である。「粘土コンロ製造技術普及計画」のために現在3人の日本人スタッフが働いている。
Kシニアによれば、コンロはできたものの、それを製造してくれる会社がない。資金がないということで、現地の人を何人かのグループで呼び、粘土の内釜の製造法を教えるというシステムをとったということであった。日本ならば少し儲かるということであるならば、どこかの会社が製造に乗り出すということがあるだろうが、ザンビアではそれもない。すべて自分で作って自分で使うのである。これではなかなか普及するまでに時間がかかる。おまけに今使っているものより、割高であるとするなら結果は見えている。
確かに熱効率のいいのはよくわかってる。しかし少しでも割高であるとしたら、長期的にみて得なのはわかっていても、なかなか使うということができない。炭ならばどのオープンマーケットでも手に入る。しかし豆炭となると、少し手間がかかる。その面倒さと効率の良さをどう天秤にかけるのか。 豆炭の製造も実際に無煙化する行程も見せてもらった。JICAのマークの入った機械がたくさん並んでいる。この国にはなにもないのだ。そのことが悲しい。粘土コンロ育成コースがさらにすすみ、どこかの業者がこれはいいということで、事業化に乗り出してくれないものか。現在のように炭をつかっていれば、砂漠化は予想以上にはやい。
確かに日本もかつては炭を使った。そして豆炭や練炭も使った。現在ではガスが基本のライフラインだが、ザンビアではガスを使う家庭はない。電気による調理器を使えればかなりいい方だろう。ガスについては現在、牛糞などを使ってメタンガスを利用する装置を考えているとのことだった。実際に屋外にあるセメントで固めた装置も見せてもらった。これも地方の農家にとってはありがたい研究である。しかし実用化されるまでには、まだかなりの月日がかかることだろう。採算性まで入れて研究している訳ではなさそうだった。
ところでこの研究所の現金収入の道は何か。それはずばりチョークの生産である。学校で使う、あのチョークである。石灰の粉を溶かし、かつて日本で使っていた機械に全て手で流し込む。固まるまで待って取り出し、2日ほど乾燥させると出来上がりだ。これが一番の現金収入源と聞いて、道は遠いというか、気が遠くなると言うか。しかしそれがザンビアの現状だと思い直した。しかし3人の協力隊員はめげるわけでもなく、黙々と自分の仕事をしている。最後に研究所で作ったという陶器の土産を買った。現地の人はただで持って行けと言ったが、市場調査で入っているS隊員がそれではだめだ、少しでもお金になることを考えなければ、とワーカーを説得し、結局金を払って買うことになった。一つ一つ現金収入の道を具体的に教えていくことが、ここではもっとも基本なのかもしれない。

6 カピニ村あげての大歓迎会

午後、市内から30分ほどのところにあるカピニ村を訪れることになった。首都ルサカから車で少し走っただけで、電気、水もない。赤土の乾いた道をマイクロバスはどんどん村の中へ入っていく。ここにはザンビア文化事業協会に配属された二人の協力隊員がいる。最初に説明してくれたのは、食用作物のS隊員。畑の畦道におかれた足踏みポンプの説明をしてくれる。50ドルをポケットマネーで買い、現地の人に利子をつけて返すよう指導しているとのこと。そうしないときちんと使いこなさないことが多いのだという。さっそく子供がポンプの上に踏み始める。すると近くの沼にある水が、畑に流れ込むという次第である。
現地の子は手分けをして、この作業をする。無論靴など履いていない。遠くからもらわれてきた親戚の女の子が一番、仕事をするという。要するに捨てられた子である。Sさんによれば、現地の人は他人のことを妬む気持ちが強く、なかなか指導にのりにくいという。多くの人で共同使用すればいいのだが、それはだめなようだ。どうしても自分一人で所有したいということらしい。つまり、どこまでいっても個人の世界であり、協同組合的な思想が根本にないという。このことが村落開発の一番の難しさだと言った。
これは文化の問題であり、もっとも厄介な点だ。彼らは相互扶助的な考えを持たないわけではなく、困っている人に食事を与えることはよくあるのだという。その時になにもしないで自分だけ富を蓄積しようとすると、最悪の場合、呪い殺されてしまうこともあるという。ウィッチ・クラフトというものをつくり、毒をもることもあるというから恐ろしい。
つまりザンビアの人々は、誰かが富を持つということに対して、かなり敏感なようだ。一族の中でそのような人がいれば、皆で押しかけて、財産を食いつぶしてしまうということもある。だからこそ村を良くしようとすることはなかなかに困難である。意識の内層までの変化ということになると、これは至難である。全体に男尊女卑の傾向が強く、男はあまり働かない。もっともその日食べるモノだけをなんとかすればいいという意識に立てば、それほどあくせくすることもないが。
事実、一日中木陰に座っておしゃべりをしている男たちの姿をよく見かける。焦らない、あわてないということがここでの生き方の根本なのだろうか。東洋人には全く理解できない、文化の深層である。
次に訪れたのが村落開発普及員のKさんの実施している洋裁教室だった。ふっくらとしたK隊員は、すっかり村の人気者で、皆に親しまれている。少し夕暮れに近い時間ではあったが、小さな建物の中では、女性たち数人が、一生懸命ミシンに向かって洋裁をしていた。一夫多妻のこの国では年をとった女性から捨てられたり、他の人のところへいったまま、男性が戻ってこないことも多いという。
そういう人の自立をめざし、少しでも現金収入があればいいということから、始めているプロジェクトである。しかし彼らには布を買う予算もない。ここでも隊員が自分のポケットマネーを出して、布を買い、それを貸し付けていた。たとえ、1ドルでも現金が入ればそれでいいという発想のようだ。無論技術は稚拙だが、それで彼らにとっては十分なようである。
ミシンはもちろん日本製でかなり昔のもの。電気がないので手回しと足踏み式である。これもJICAからの供与ということだった。子供がいても男たちは別の女のところへいってしまう。そしてそのことをあまりとやかく言わずに暮らしているという。この実態についてはこれがザンビアなのだと理解するしかない。子供は重要な働き手であり、女の人は口減らしもかねて割合早く結婚し、家を出ていくという社会の構造がなおっていかない限り、寡婦の生きる道は厳しい。
さてそこから歩くこと20分。いよいよ村の広場に出た。太鼓の音が先刻から鳴り響いている。村中の人が全て総出で歓迎してくれているのがよくわかる。さっそく踊り。これがアフリカだというエネルギッシュなもの。本当にここまで来て、目の前で見ているのが信じられない。村の人があっという間に踊りの渦の中に入り、広場は砂煙でよくみえなくなる。目の中に砂粒が飛び込み、喉ががらがらする。とにかく数ヶ月、雨は全く降らないのだ。湿度は20%をきっている。
村長の話。皆静まり返って聞いている。再び踊り。そして詩の朗読。教育委員会のお偉方の話。その度に司会者が笛を吹いて黙らせる。子供たちの大半は裸足だ。一緒に踊らないとつまらないと思っているのではないかと心配すると言われ、一緒に輪の中に入る。すぐに汗をかく。もう夕暮れだ。晩餐の準備がしてある。メニューは鹿の足。毛がついたままだ。それにネズミの肉。これはハツカネズミのような食用のもの。頭から食べるらしい。さすがにこれはパス。あとは酒。どぶろくのようなトウモロコシからつくったものだという。
子供たちが大勢見ている。彼らにとっては全く縁のない食事だ。ザンビアの人はシマをどんぶり2杯ぐらい食べる。後は少しの野菜とテラピアと呼ばれる小魚。肉などは滅多にお目にかかれない。せっかくだから村長の家を覗く。いわゆるマッシュルームハウスだが、少し高級である。お嬢さんが出てきて、どうぞ中に入れという。中は真っ暗。窓もなんにもない。ただの土間である。6畳あるかないかというところ。ここに7~8人寝るという。なにも敷かないようだ。風呂にも入らず、どのようにして暮らしているのか、全く想像もつかない。しかし幸せとはなにか、つくづく考えてしまう。彼らの顔は一様に明るい。明日への希望があるのかどうか。それもよくわからない。
子供たちはこれからどうなっていくのか。近くの小学校で、先生方と懇談会を持った。その席上、どこから共通の話題を探せばいいのか、苦労した。それほどなにもかも状況が違う。石でできた黒板はあちこち剥がれ落ちている。教室には電灯もない。窓にはガラスもない。机も椅子も満足に揃っていない。教科書もない。ないないづくしである。これで共通の話題を話し合うといってもどうしたらいいのか。
小学校の先生はセカンダリースクールを出ればなれるのだという。給料も遅配続きで苦しそうだった。しかし子供たちの歌や踊りは楽しかった。お揃いの緑色の制服を買うだけでも、親にとっては大変だろう。
村を出るときにはもう星が出ていた。真っ暗な道を歩いた。道がでこぼこである。自分たちで少しは直そうとしないのだろうか。確かに雨期になれば赤土はぐちゃぐちゃでどうしようもないのかもしれない。しかし少しは自分たちでやれることがあるのではないか。だが砂利を撒くには金がかかる。スコップ一つ調達するのにも金がかかる。

7 ジョージ・コンパウンドで見たもの

プライマリー・ヘルスケアという表現はこの国で初めて聞いた。市内では急激な人口増加が続き、特に低所得者居住区(コンパウンド)では住民の健康状態が悪い。その改善のために5人の日本人が働いている。
最初に事務所でリーダーのSさんより、全般的説明を受けた。下痢、マラリア、栄養失調、呼吸器疾患など、病気の種類は多い。特に安全な水の確保が最優先ということで、JICAは水道を設置。だが月1ドルの支払いを拒み、浅井戸を利用する人が多いとのこと。これが集団コレラ発生の原因と考えられる。また貧困対策として、職能訓練も実施している。これはミシンによる縫製が主である。
また毎週乳児たちの体重測定も行われている。彼らはグラフが書けなかったり、はかりの目盛りが読めないこともあり、専任のスタッフがそれにあたっているようであった。
さて実際に14万人が住むというジョージと呼ばれるコンパウンドに入って見たものはただ驚きの連続というしかなかった。掘ったて小屋のような家、裸足の子供、小さな店。テラピアという小魚に群がっている蠅の数。ここで一生暮らせと言われたらば、その場で卒倒してしまうだろう。子供たちはほとんどが学校へ通っていないという。汚れたままの服。それでもとにかくコンパウンドの中を歩いた。体重測定をしているところを見学してくれという。
広場のようなところで会ったS隊員は保健教育の任務で、以前モザンビークにいたこともあるとか。今の仕事は楽しいと語ってくれた。芯の強そうな女性だ。今回会った女性みなに共通していえることだが、この厳しい環境の中でよくやっているなあというのが、正直な感想である。都会を毎日おしゃれして歩き回っているような人ではとても我慢できないだろう。体力以上に精神力が強くなければ、できる仕事ではない。
子供が秤にかけられている。定期的に体重をはかることで、病気の予防になるというのはよくわかる。保健所のような施設があればいいのだろうが、ここの人はなかなかそのような施設にくることはないという。むしろ出張して、現場に出るということが大切なのだ。測定をしているのは地元住民の保健活動家ということであった。このような人々がいなければ、医者不足を解消することはできない。日本の母子手帳に似たシステムをとり、死亡率の高い5歳未満児のカウンセリングを行う。
それにしてもコンパウンドの中は汚い。いたる所にゴミが捨ててある。これが雨期になると流れだし、コレラの発生原因になるようだ。昨年も618件のコレラがこのジョージの中だけで発生したとのこと。簡易トイレの改善、排水溝の清掃、ゴミ処理などやらなければならないことが、山のようにある。しかし男たちは何をしているのか。あまり勤勉に働いているようにも見えない。
子供たちが大勢集まっている広場では、何人かの若者が太鼓を叩きながら、啓蒙的な内容の歌をうたっていた。手を洗うことの大切さや、きれいな水を飲もうといった内容だという。これもPHCの活動の一つである。すぐ近くにJICAの作った水道があった。清潔な水がでるという。しかしその使用料をけちって、彼らはなかなか使おうとしない。月に1ドルで下痢をせず、コレラにもかからないのにである。多くの住民たちは、社会主義時代のなごりなのか、国に税金を払うという意識をもっていない。そのことがまたこの国の発展を遅らせる要因にもなっているようだ。

8 感染症プロジェクト

引き続いて訪れたザンビア大学ウィルス研究所では、この国のもっとも深刻な問題であるエイズにぶちあたった。1992年、設立されたこの研究所はアフリカにおける研究の最前線となっている。従来はアメリカやヨーロッパに血液をおくっていたものが、今ではここでは検査できる。
内部は病院の検査室そのものであり、ほとんどの器具、検査機械、測定装置にJICAのマークがついていた。これはかなり高価なものばかりだというのが第一印象である。また人材の育成にもこころがけ、20名の医師や技術者が日本で研修をうけ、200人の地方の医者がここで研修をしたという。チーフアドバイザーのNさんは東北大を退官後、ここに来た。その他山梨医大や新潟大からも医師が派遣されている。
一日に一回シマを食べられればいいという環境の中で、血中のタンパク質が常に少なく、栄養不良であるという。特にエイズの人が結核などを併発して非常になくなるケースが多く、そのために結核の検査も迅速に行うと話してくれた。エイズは今日もっとも恐ろしい病気であるが、何人がHIVに感染しているのかをなかなか知ることができないという。アフリカ全体、昨年だけで400万人の患者が発生したといわれているが、この数字ももちろん正確ではない。ちなみに日本では6000人。実際はその5倍ぐらいはいると言われている。それでもこの数と比べてみると、この地域の特殊性がすぐに理解できるであろう。
2000年にはポリオを撲滅するというスローガンとともに、日本の援助がこの分野にはたした役割の大きさが実によくわかった。保健大臣がかつての同僚(ザンビア大学微生物学教室主任教授)ということもあって、関係はすこぶる良好なようである。しかし試薬から検査器具まで全て日本のものであり、医者の一人は特に試薬が常に不十分であると訴えていた。
この国のために定年後もがんばろうとしている日本人の医師がいることに感動したことはいうまでもない。ザンビア大学獣医学部を日本人のスタッフで全て立ち上げたことと並んで、大きな意味を持つ。

9 まとめとして

最終日、協力隊員や専門家との懇親会があった。無論、ホテルの中。入り口には無線機を持ったガードマンが立っている。治安の悪さ。それがザンビアだ。
席上JICAのS事務所長はザンビアという国の可能性を熱く語った。今より少しでもよくなれば、それはこの国のためになったということであると。全くその通りなのだろう。どこまでいけば終わりということはない。たくさんの水資源を持ち、耕作可能な土地を持ち、やろうと思えばやれないことはない環境を持っている。そこに少しでも種をまき、彼らの自助努力を喚起していくことで、この国はよくなれるはずだと語ってくれた。
何のための協力かというのは難しい。なぜ協力をしなければならないのかということにもすぐ結論はでないだろう。しかし同じ人間として何かをしなければならないという感覚は十分に理解できる。アジアへの協力と違い、アフリカは日本にとっても遠い国である。それだけに真の援助とは何かということが常に試されるだろう。パーティーに集まった多くの隊員や、専門家に暗さは微塵もない。そのことが救いだった。
何もかも満ち足りている国を出て、病気の可能性や、身の安全というリスクを背負ってまで、異国で何かをしようとする若者がいるというその事実があらためて重い。本当に頭が下がる。それもあまり大げさに声を出してというのではなく、ごく草の根のレベルで自分にできるところから始めるという態度がすばらしい。配属先でよく子供が死ぬのをみて、最初隊員たちはすぐに無線を使い、事務所に薬を要求してくるのだという。しかし本部は絶対に薬を与えてはいけない。一人にやれば、全員にあげなければならない。それにもしその直後死んだりしたら、かえって恨まれるだけである。彼らの民間伝承による医療に任せた方がいいという指示をするそうである。そうした事実を何度も目にしながら、隊員たちはどんどん強くなっていくという。現実をありのままにみて、そこから本当の援助のあり方を学ぶ。ただのヒューマニズムだけでは真の援助にはならない。
今回の旅行は従来にない重い課題ばかりを背負わされ、正直いってかなり疲れた。同じ教育の現場にいるものとして、教育の大切さを肌身で知るとともに、ジェンダー、技術教育、言語の問題もあらためて考えるよいきっかけとなった。英語を学ぶことの大切さを痛感した次第である。今後ザンビアで学んだことをさらに自分の中で発展させながら、教育の現場に戻していくことが大きな課題になるものと思われる。
十年たってもこの国は変わらないという人もいれば、ほんのわずかでも変わるのならば、そのために働きたいという人もいる。どちらが正しいのか、今の私にはよくわからない。その結論はこれからも考え続けなければならないだろう。

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