詩人への旅

1996-11-15(金)

のどやかな海の記憶  伊良子清白

伊良子清白の故郷は鳥取である。しかし実母をはやく失った彼は、父の再婚、転任に伴い十歳の年に三重県の津に移り住んだ。故郷との縁はとても薄かったとしか言いようがない。
三重の海はのどかであたたかい。幼い頃の鳥取での生活に比べて、何もかもが明るかった。伊勢の自然が清白の詩をつくりあげたといっても過言ではない。温暖な気候、風土が少年であった彼によくなじんだのであろう。
安乗は的矢湾に面した岬の突端にある小さな町だ。近くには真珠の養殖で有名な英虞湾もある。志摩半島の鵜方からバスで入っていくと、国府まではゆるやかな丘陵地帯を抜けていく。それだけに広々とした明るい海が見えた時の解放感は何とも言えない。
清白がこの地を旅したのは、まだ京都府立医学校に通っていた時分のことだった。

志摩の果安乗の小村
早手風岩をとよもし
柳道木々を根こじて
虚空とぶ断れの細葉

伊良子清白、本名暉造は明治十年十月美作藩の典医の家に生まれた。彼も医師になるべく運命づけられていたのである。だが清白は生来の文学好きであった。医学の勉強をしながらも詩のことが頭から離れなかった。
明治三十三年、父の猛反対をおしきって上京した彼は、その頃発足した新詩社の同人となり、創刊されたばかりの『明星』の編集にも参加した。清白はまさに詩神にとりつかれていたのである。
シラー、ハイネ、ウィーラントの訳詩、ドイツへの憧れ。文学への熱情はとどまるところを知らなかった。
処女詩集『孔雀船』は三十歳の時、完成した。訳百五十篇ほどの詩の中から、十八篇だけを厳選し、日本語の美そのものを表現しようと試みた。しかし彼の詩は自然主義文学全盛の時代に全くそぐわないものであった。
その年、清白は島根の病院に副院長として招かれ、生計のためいわば町医者としての生活に入る。彼の心の内側にはおそらく苦い思いが渦巻いていたことであろう。
だがそれも日々の営みが次第に癒してくれた。朝はやく起きると小鳥の声が聞こえてくる。昼の暑い時間にはよく眠った。夜更けに起こされて往診をすることもよくあった。彼はむしろそういう生活の中に自分を投げ込んでいったのである。
清白が懐かしい志摩の自然に戻ったのは四十五歳の時であった。鳥羽町小浜。小さな漁村である。海女達が真っ赤に焼けた肌をみせて病院の前を通り過ぎていく。彼女たちは快活に大きな声でよく笑った。また伊勢エビやアワビはことのほかうまかった。
それに若い頃親しんだ風土は、何ともいえない親近感を彼に与えた。幼い子供が磯辺であそんでいるのを見かけるたびに、清白は思わず目を細めて見入ってしまう。

荒壁の小家一村
反響する心と心
稚子ひとり恐怖をしらず
ほほえみて海に対へり

清白の住んでいた診療所は本当に粗末なつくりだった。彼はその家の二階に一人坐って、遠い伊良湖岬や神島をよく眺めていたという。
遙かな水平線の彼方に詩人が見たものは何であったのか。それを今知るすべはない。

1996-10-15(火)

空は遙かに青くすんで  高村光太郎

東北本線を北にのぼっていくと、白河、郡山を経て二本松に着く。光太郎の妻、智恵子の生まれた故郷である。
冬であった。プラットホームにはうっすらと雪がつもり、風が冷たかった。
光太郎は東京下谷の生まれで、東北に縁のある人間ではない。しかしその彼を後に北の地へ導いたのは智恵子であった。

あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川

郊外の霞ケ城址にのぼると、どっしりとした石に刻まれた詩碑がたっていた。あたりは雪に覆われた白銀の世界である。北面を望むと安達太良山、その反対側に二本松市内。山々は雪でその稜線を飾っていた。阿武隈川の流れも心なしか緩やかで、弱い太陽の反射を受けている。
それにしてもこの有名な山はなんと穏やかな表情をしていることか。幾重にも重なった山の襞の中に、多くのいのちが潜んでいるかのようだ。
高村光太郎が初めて女流画家、長沼智恵子に出会ったのは明治四十四年、二十九歳のときであった。雑誌『青鞜』に表紙絵を描いていた彼女は、既に女流画家としての道を歩き始めていた。
光太郎は智恵子を得て、はじめて一人の詩人となった。

をんなが付属品をだんだん棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか
年で洗われたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属

光太郎は愛する人を手に入れて、強くなった。彼女のために何かをしてあげることが同時に自分の人生を豊かにしていく。内面的に最も充実した生活を、彼はこの時期に心ゆくまで味わうことができた。
彫刻、詩、翻訳、そして愛の生活。光太郎には他の何も必要がなかったであろう。
室生犀星は『我が愛する詩人の伝記』の中で、二人の愛情生活を見事に描き出している。

夏の暑い夜半に光太郎は裸になって、おなじ裸の智恵子がかれの背中に乗って、お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた。愛情と性戯がかくも幸福な一夜を彼らに与えていた。

詩人の内面に一人の女が与えた影響ははかりがたいものがある。それは『智恵子抄』の詩のどれにも強く感じられる。
城址の広場にたったまま、智恵子があれほどに願った「本当の空」を見上げてみた。なるほど冬の二本松は空が高い。どこまでも青くすんで透明な色調を保っている。
冷たい風に身をまかせてしまうと、むしろ爽快な気分にさえなった。雪をかぶった木々の背後からは、時折聞きなれない鳥の甲高い声が響いてくる。
智恵子が生まれた家を訪ねようとしたが、その家はすでに人手に渡り、代がかわっていた。昔の造り酒屋だったらしい旧家の趣がわずかに残っている。陽が暮れかかり、北風が容赦なく頬をたたいた。
昭和十三年、智恵子が亡くなってからの光太郎には、冷たい冬しか残されていなかった。彼女の死と時を同じくして、制作中だった団十郎の首は九分通りできて、ひび割れてしまったという。
詩人は後年、十和田湖畔に乙女像をたてた。「裸婦でもいいだろうか」と訊ねた彼の内部には、智恵子への追慕の想いだけが熱くみなぎっていたのであろう。

1996-09-15(日)

故郷はいまだ遠く  中原中也

湯田は温泉の町である。その名の通り、田から微量の鉱分を含んだ湯が湧き出てくる。山口市や周防灘沿岸からも湯治客が訪れる遊蕩の町だ。
中原中也はこの谷あいの町に生まれ、そこで青春を送った。父が軍医であったため、旅順、広島、金沢の地を転々。故郷に戻ったのは七歳の時であった。
堪野川の流れは今も清く澄んでいる。少年時代の中也は水辺でよく遊んだ。

やがてその蝶が見えなくなると、いつのまにか、今まで流れてもゐなかった河床に、水はさらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました

『一つのメルヘン』の世界は彼の幼い頃そのままである。だが少年は遠い世界を夢見た。母に連れられていった旅順や、金沢の風景が胸のどこかに棲みついていたのかもしれない。
いったい故郷とはなんだろう。近代の詩人達に望郷の詩が多いのはなぜだろう。その抒情を故郷の何に見いだそうとするのか。
中也の詩碑は生家の近くにあった。高田公園である。黒みかげの美しい石碑で、思わずみとれてしまった。デザインも石そのものの形もみごとなものだ。背後の木立がおおどかな夕暮れの陽に赤く染まっている。意志的な字あった。小林秀雄の筆である。

これが私の古里だ。
さやかに風も吹いてゐる
「ああ、おまへは、何をして来たのだと」
吹き来る風が私にいふ

大岡昇平の文が側面に刻んである。二人とも中原を深く揺らした友人だった。
この詩はわずかに14行のものだ。碑には最も中也的な部分がひかれている。誠に心憎いという他はない。特に後半の二行がいい。
この部分に中也の悔恨、痛み、畏れなどが凝縮されている。他の部分に比較して、格段に暗い。
小林秀雄との間には一人の女が介在した。長谷川泰子である。彼女は中也との生活に別れを告げ、小林の許へ去る。しかしその後、彼からも離れていく。中原はよく小林秀雄や大岡昇平と歩くときに、こう呟いたという。
ぐでんぐでんに酔っていたときもあったろう。ああ、ボーヨー、ボーヨーと。
前途茫洋のことである。小林は「詩人を理解するということは何と辛い想いだろう」と何度も嘆いている。
それは中也自身にしても同じことだったろう。自分で自分がわからないというジレンマ。だがこの「帰郷」という詩にはどこか甘えにも似た優しさが潜んでいる。それが読む人間にとって救いにもなる。
中也の生家は今も残っている。ランボー詩集を訳した茶室もひっそりと佇んでいる。
小京都と呼ばれる湯田の地にはキリスト教の伝統や遺跡も多い。ザビエル記念聖堂や、祖父がその建設に努力したといわれるザビエル祈念碑、カトリック墓地など。山口線に乗ってもう少し奥へ入れば、キリシタン殉教の地、津和野に到る。
中也がもしキリスト教と深く関わっていたらと想像するのは楽しい。「汚れっちまった悲しみ」などという表現がその時もあらわれたかどうか。愛児文也を亡くしてからの彼は痛々しいだけである。中也に故郷は似合わない。しかし詩碑の黒々とした重量感が、帰郷への熱い願いを想わせる。
故郷喪失者がここにも一人いた。

1996-08-15(木)

夏を旅する者達は  立原道造

夏の盛り、信濃追分を旅した。
碓氷峠の急勾配をあえぎながら、上った汽車は軽井沢の駅に着くと、そこで多くの若者を吐き出した。
やがて浅間山が見えてきた。中軽井沢を出たあたりから、車窓には可憐な野の花が咲き乱れている。
道造が第二のふるさととして愛した追分は、この夏も穏やかな表情を見せていた。
信濃追分は江戸時代に本陣をはじめとして、数十件の旅籠が軒を並べ、賑わいを見せていた宿場町である。

北国街道と中山道の分か去れに立って、真っ白な花ざかりの蕎麦畑などの彼方に眺めやっていると、いかにもおだやかで、親しみ深く、毎日見慣れている私の裡にまでそこはかとない旅情を生ぜしめる。

この地を心底愛した堀辰雄は、その魅力をこう書いている。道造が中学以来の先輩であり、師と仰ぐ堀辰雄の招きで、はじめてこの地を訪れたのは、昭和九年、二十歳の時であった。
信州の風は肌に心地よい。木々の間を渡ってくる風には、草の香りもたち混じっている。

夢はいつもかへって行った
山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午下がりの林道を

立原道造はわずか二十四年の短い生涯の間に、二冊の詩集を残した。その詩のほとんどが油屋という旅館で書かれたものだという。
昭和十二年、脇本陣だったというこの宿は火災にあう。この時も逗留していた道造が、土地の鳶職に助けられたという話は今も語り伝えられている。
再建された油屋は、今、国道十八号線をはずれたところに、取り残されたように建っていた。晩年、この宿で胸の病を治していた彼は、気分のいい日、よく近くまで散策に出た。
諏訪神社や泉洞寺、あるいは芭蕉の碑のある浅間神社。このあたりには今でも旧い追分の趣が残っている。

吹きとばす石も浅間の野分かな

芭蕉の碑である。しかし野の草を分けて吹く風は道造の風景ではない。彼にはやはり夏から秋にかけての追分がよく似合う。
道造はまたこの地で、いくつかの恋も経験している。道造の詩にこの恋が影響していることは否めない。
雲、風、草の香り……。どこか甘くそれでいてやるせない彼のソネットにしらずしらず、我々は引き込まれてしまう。
道造は詩人である一方、別荘をつくらせれば日本一と折り紙をつけられた建築家でもあった。設計という構成的な才能を持つ彼が、詩作において十四行詩(ソネット)という形式を確立したのも当然のことだったのかもしれない。
廃墟になった時のことまでを意識して設計図をひいていたという彼は、自分自身の肉体の崩壊を感じていたのだろうか。昭和十三年九月からとたんに生き急ぐように旅を始めた。
九月初旬、療養先の追分から東京に戻った道造は、同月十五日、盛岡へと旅立った。ほぼ一ヶ月滞在後、再び帰京。十一月には長崎へと向かう。しかし東北の旅の疲れがたたり、長崎の友人宅で発熱、数日間病臥ののち、帰京し、病院での生活が始まった。
立原の手は生きる力のない手であった。彼は見舞いに訪れる友人に自分の手をみせては、
「ぼく、こんなになっちゃいましたよ。ほらこれ見てください」
と言っては痩せた腕を出してみせた。
昭和十四年三月、立原道造の短い生涯は閉じられた。
道造が死んだ時、三好達治は一編の詩をささげた。それには人が詩人として生きるためには、聡明に清純に、そして早く死ななければならないとある。
追分の道を歩きながら、石仏や、馬頭観音をあちこちで見かけた。
高原の太陽がやさしく、木々の間から洩れていた。

1996-07-15(月)

烈風の故郷へ  萩原朔太郎

昭和四年は萩原朔太郎の人生にとって、大きな意味を持つ年であった。親友室生犀星への手紙には彼の強い決意がにじみ出ている。
「僕はいよいよ生活上の決算をする。本年は著作上での決算をしてしまったからついでに一切を帳じめにして、新しく人生のページを書き出そうと思っている」
朔太郎の家庭は混乱しきっていた。日々繰り返し続けられるダンス。そこに入りびたって意味もなく踊り狂う男達。彼はとうとう妻の稲子を殴った。
「僕の田舎に行ってる留守の間に、若い男を家に引き入れ、一週間も同宿させていたのである」
離別はあっけないほど簡単に行われた。もはや家ではなかった。二人の子供達をマントに包んで、生地前橋への旅にたった。実生活の破綻、虚無、疲れ。そういったものが彼の内部でじっとくすぶっていた。
夜汽車の座席は堅く、灯りは暗かった。彼の傍らで眠っている子供の顔はぐったりと疲れ切っていて、生気がなかった。
(実家に帰ったとしても、どういう生活があるというのか……)
四十四歳の朔太郎にとって、喪失の実感は強いものであった。一人の人間として満足に生きていくことのできない後ろめたさが、彼を責めさいなんだ。

わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔は平野を
明るくせり
まだ上州の山は
見えずや

前橋は赤城山の南麓にある古い城下町である。上州と呼ばれるこの地では、冬、たえず冷たい風が吹く。人々は凍りつくような青空と、空っ風の中で日々の生活を営んできた。
「帰郷」の詩碑は利根の松原の名残をとどめている敷島公園の中にあった。松の梢が強い北風に吹かれて、たえず上下に揺れている。堂々とした碑であった。黒い板面に彫り込まれた詩の行間からは、詩人の苛立ちがあふれ出てくるような気さえする。
朔太郎はしょせん生活人にはなれなかった。父密蔵は有能な医師であり、町の名望家でもあった。家は豊かで、何不自由のない生活が約束されていたのである。
「朔ちゃんは金銭にはなんら関心を持たず、五十七歳で死ぬまで、生活については一度も心配したこともなく……」
と親戚の一人は書いている。
神経質で臆病だった彼は、医者になることもできず、音楽と詩の中に自分の世界をみつけていった。マンドリンやギターを爪弾きながら、書斎から茜色に輝く雲をよく眺めていたという。
彼は詩作に飽きると、時折前橋公園を訪れた。松林をふらふらとさまよい歩き、大渡橋を抜けて家路につく。そこは後年『郷土望景詩』に描いた彼の内なる風景でもあった。
広瀬川にそって町の中を歩いてみた。川の畔には黒々とした詩碑もたっている。水がゆったりと岸を洗うように流れていた。もちろん、車の騒音やビルの中にかつての前橋をさぐるのは難しい。しかし前橋刑務所の赤いレンガ塀や、二子山付近の土くれだった道には、朔太郎の詩の匂いが色濃く漂っていた。
彼は故郷に向かう汽車の中で何を考えていたのだろうか。上州の山、上州の山と念じながら、車窓を眺める目は冷たく光っていたのではないか。
憂愁は朔太郎にとって既に親しい友でもあったのである。

1996-06-15(土)

武蔵野に宿る郷愁  村野四郎

武蔵野の冬は寒い。空気がしんと冷えて、夜になると酒が恋しくなる。
東京府北多摩郡多摩村染谷。今の府中市白糸台である。村野四郎は代々酒問屋を営む家の四男として生まれた。現在では家が建ち並び、当時の面影を残す木々も少ないが、その頃の武蔵野には雑木林がたくさんあった。
低い丘陵と点在する農家、商家。四郎はささやかな日々の明け暮れの中に幼年時代を過ごした。
いったい東京人に郷愁はあるのだろうか。次々と家ができ、その間をぬって道がつくられる。近くを走る電車の音、車の騒音。実家のあった場所にたってみても、何の感慨もわいてこない。
いや、やはり故郷には違いないという人もあろう。生家の周囲には昔よく歩いた道がある。木造の校舎が鉄筋になり、近くの商店がビルに変わったとしても、そこは明らかに故郷なのかもしれない。
村野四郎の詩はどれも実存的な人間の不安を抱いている。ドイツ近代詩を学んだ彼は、人間の主知主義を貫いた。
「冬の抒情」という詩は、四郎の心に映った郷愁をそのまま言葉にしたものである。

渡り鳥がしずみ
地平が傾く
はじの葉が
火のようにもえ落ち
そのまま静寂

この詩にははりつめた時間が流れている。その厳しさは他に類をみないものだ。
詩人は当時の多摩についてこう書いている。
「数多くの古墳をいだいた低い丘陵は多摩川のほとりから起こり、白い砂原や、赤い崖を露出させたりして、北方の楢や、松の雑木林の中に消えています。その中を一筋の白い甲州街道が、庇の低い農家や、古い売薬の看板をかけた商家や、遊郭の白ちゃけた板塀などをその道筋に置いて、東から西へと長くつづいていました」
武蔵野には特有の穂打唄もある。少年だった彼の心に深く焼き付いたことだろう。甲州街道には何が走っていたのか。馬、牛、人力車。徒歩の人も多かったに違いない。
幼かった四郎はよく多摩川に魚をとりに行った。川底に足がつくと、ひんやりして気持がよかった。夏はいつも川で遊んだ。魚たちは水の翳のように明るく輝いてみえた。
彼の目は光った。時々痩せたイモリが足許を歩いていく。四郎はイモリが大嫌いだった。

古里は花なき樹々の茂りたる

詩人ははじめ、俳句を作って荻原井泉水の層雲社にも入っている。彼が故郷によせた気持がこの句にしみこんではいないだろうか。花のない木々であってもよい。魚のいない川であってもよい。やはり故郷はある。それはいつまでも心の中に生き続けている。
「冬の抒情」にこめられた寂寞の感情は彼が人生を真摯に生きようとしただけに、なおいっそう我々の心をうつ。地平線の彼方に沈んでいく黄昏の夕日を、少年村野四郎は帰途につくとき、よく見たのではなかろうか。
その日から彼は人間の哀しみを知る一人の詩人であったのかもしれない。

1996-05-15(水)

光の果てを夢見て  宮沢賢治

花巻は実りの季節を迎えていた。稲の穂が一面黄金色に輝いて、吹く風に頭をたれている。
北上川にそって旅をしていると、宮沢賢治の世界が流域の風景と強く響きあい、重なり合っているのを感ずる。遠くに早池峰山系の山々、広々と続く平野、そしてやさしく吹き渡る風。民話の故郷は同時に一人の詩人を生み出す風土でもあった。
宮沢賢治が生まれたのは明治二十九年。生前は一部の人々に知られるだけの農村詩人であった。盛岡高等農林学校時代の彼は特待生にもなった優秀な生徒で、つねに級長をつとめていたという。同人雑誌に短歌を寄稿したり、短編を書いたりする一方で、農業に対する研究にも人一倍力をいれた。
賢治の背後には東北の苛酷な自然に生きる農民たちがいたのである。毎年のように続く冷害、水害、旱魃。彼の脳裡から農村の疲れ切った姿が消え去ることはなかった。
そのうえ、大正十二年に最愛の妹トシを亡くしたことは賢治の一生に大きな影を落とした。彼女は兄の詩や短歌を誰よりも深く愛し、理解していたのである。臨終にあたってトシは力なくこういった。

うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのこどばかりでくるしまなあよにうまれてくる。
おらおらでしとりえぐも……

もう苦しみたくない、先に一人でいきます、と病床でじっと兄の目をみつめながらつぶやく妹に、賢治のしてやれることは何もなかった。
大正十三年に出版された詩集『春と修羅』の中には彼の複雑な内面が描き出されている。

四月の気層のひかりの底を唾(つばき)し
はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

「修羅」という言葉ほど、賢治のおかれていた立場を明らかにするものはない。父と喧嘩してまで彼は法華経の信仰に命をかけた。
だがともに最後まで祈ることを忘れなかった妹は既にいない。賢治は心底寂しかった。

とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きっとおまへをおもひだす

大正十五年、六年間も続けた農学校の教師をやめた彼は、自ら畑作りを始めるかたわら、「羅須地人協会」をつくった。農民の生活の向上を願って、農具の改良や肥料の設計を行い、農閑期には近くの子供たちに自作の童話を読んできかせた。
この協会の建物は現在復元されて、花巻農業高校の傍らに移築されている。秋の抜けるような空にはえて、どっしりと量感のある造りであった。玄関横には当時の彼の筆跡をまねて、

下ノ畑ニ居リマス 賢治

と白墨で書かれた黒板が打ち付けてあった。
今にも賢治自身がつっかけでもはいて出てきそうな予感がする。
彼は終生、岩手の地にイーハトーヴォ(理想郷)をみようとした。しかし夢はつねに挫折をともなう。
死後に発見された詩「雨ニモマケズ」の中には賢治のたどり着いた心境があふれている。

慾ハナク、決シテイカラズ、イツモシズカニワラッテイル……

高村光太郎の揮毫になるその詩碑を見ているうち、「ゆっくり休んでんじゃい」と最後に声をかけたという母親の気持がわかるような気がした。
昭和八年、宮沢賢治は愛する故郷の土に帰った。三十七年の短い生涯であった。

1996-04-15(月)

青春は短くも燃え  新美南吉

風光の地、知多半島。名鉄河和線半田駅で降りると、そこは童話作家・新美南吉の故郷であった。
「わが村を南にゆく電車は、菜種ばたけや麦の丘をうちすぎ、みぎにひだりにかたぶき、とくさのふしのごとき、小さなる駅々にとまり……」
と彼はこの鉄道のことを歌っている。昼下がりの駅はどこかけだるい感じで、日差しだけが妙に強かった。
桜並木の続いた坂道を西に向かってのぼっていくと、やがて雁宿公園にたどりつく。公園の東端からは半田の市街が一望でき、そのむこう側に海が見えた。衣浦港である。漁船が数隻沖合に停泊したまま、動かない。海面はいかにも初夏の暑さにうだっているように見えた。
南吉の詩碑は公園の入り口にあった。かたつむりとランプをかたどったその碑には「貝殻の詩」が刻まれている。

かなしいときは 貝殻鳴らそ
二つ合わせて  息吹をこめて
静かに鳴らそ 貝殻を

この詩は彼が中学時代、ひそかに憧れ続けた女性の思い出を綴ったものらしい。それにしてはどことなく物悲しい響きを持った歌だ。
新美南吉は大正十二年、下駄屋と畳屋を営む家の次男として生まれた。ところが四歳の年に母がなくなり、六歳で継母を迎える。だが父と継母・志んとの生活はすぐに破綻した。そこで仕方なく彼は亡き母の生家、新美家の養子となった。しかし南吉の祖母はさしてあたたかみのある人ではなかったようだ。
「私がそばへ寄っても、私のひ弱な子供心をあたためてくれる柔らかい、ぬくいものをもっていなかった……」と、後に南吉は記している。淋しさに耐えきれず数ヶ月で家に戻り、同じ年の暮れには継母も復籍して、異母弟をあわせた家族四人での生活が始まった。
わずか数年間の間におこったこの家庭内のいざこざが、多感な少年であった南吉の心に残した傷ははかりしれない。彼の作品にどこか屈折した心情が見てとれるのも、幼い頃のこうした事情によるのであろう。
中学の頃から文学に興味を持ち始めた南吉は、昭和四年、鈴木三重吉が主宰する「赤い鳥」にはじめて掲載を許され、一挙に文学への才能が花開き始めたのである。彼は東京に出て、一心に文学を学んだ。
しかし病魔は容赦がない。昭和十一年、初めての喀血。やがて血尿をみた。咽頭結核であった。
療養のため帰郷したが、それでも生計をたてる必要があり、仕事をみつけなければならない。中学時代の恩師がやっとのことで、女学校の教師の口を世話してくれた時、継母・志んは「もう明日死んでもいい」と心から喜んだという。
南吉は翌年の日記に書いている。
「ボーナスと貯金をだしてみせると、おふくろは親父を呼んだ。ぼくはいい息子だ。弟に十円、家にも余分に十円……」
つかの間の幸せだった。昭和十八年、三十歳の若さで南吉は不帰の人となる。
生家の近くには八幡社があった。たいして大きくはないが、落ち着いた社である。その社の裏手に離れ家がぽつんとたっていた。
南吉の亡くなった家である。彼はこの建物の一室に閉じこもり、実家から運んでくれる食事をとる時以外は横になったままで、童話を書き続けた。
八幡社には午後の暑さがまだ残っていた。まもなく盆踊りの季節がやってくる。南吉の大好きだったションガイナ節を今年はいったい誰が踊るのだろうか。

1996-03-15(金)

湖畔に眠る哀傷  金子光晴

昭和十九年、戦争は次第にその苛烈さを増していた。毎日のように鳴り響く空襲警報。東京への爆撃が開始されたのもこの年の十一月であった。
金子光晴はこの年の暮れ、山梨県山中湖畔に疎開した。当時を回想して彼はこう書いている。
「十二月はじめ頃に、すでに雪にとざされた平野村の家にたどり着いた。どこもかしこも白々とした景色だった。落葉松の林の中に安い借家普請のような、その別荘と称する家もたっていた」
平野は石割山の裾にある日本有数の避暑地である。最近ではテニスコート付きの民宿がたくさん立ち並び、ラケットを持った若い男女の姿をよく見かけるようになった。
しかし当時の湖には戦争のきな臭い匂いがつよく漂っていた。
金子は戦時中、この湖畔の家でひっそりと毎日を過ごした。零下二十度の寒さはインクを凍らせ、掛け布団は吐く息で白くなったという。発表すればすぐに特高にひっぱられてしまうような激しい反戦詩を書く一方で、彼は山中湖の自然そのものの美しさに目を見開いていった。
戦争は彼に人間と自然との関わりを考えさせる契機ともなったのである。

僕は、目を閉ぢて、そつと
のがれてきた
指先までまつ青に染みとほる
このみずうみの畔に

湖畔の風物は
嶮しい結晶体だ
つめたい石質のなかに湧立つ
若やぎ。

光晴はいつも朝はやく起きた。雨戸を思い切り開けると、富士の姿が目の前にくっきりとせまってくる。美しい斜面の両肩には小御岳と宝永山が見てとれた。

どうしてこんなに隙のない山なのか。

詩人はむしろ苛立ちに近いものを覚えたに違いない。
彼は弱いもの、崩れゆくものに愛着を感じていたのである。それにしても富士のなんと雄大なことか。落葉松の林を歩きながら、金子は途方に暮れることがあった。
頭上を時々かすめるように通る飛行機は、全て東京をめざして飛んでいく。その彼方に起こる悲劇。廃墟となった都市の姿が彼には見えただろう。
しかし山中湖の自然はあまりにも静かで落ち着いていた。平野には武田信玄の祈願所だった寿徳禅寺がある。光晴は時折気まぐれに山門を訪れた。
また気分の晴れない日、彼は湖面に自分の姿をうつして遊んだ。晩秋から春にかけての湖は、ほとんど静止したように動きをとめている。石を一つ二つ投げると、水面を波紋が這うように拡がっていった。
金子は反戦をめざして詩を書いたのではない。むしろ彼は愛をうたいたかった。だが国家の力は息子までを兵役と称して、唐突に連れ去ってしまう。
平野から足をのばして長池に出てみた。山中湖を眼下に一望しながら、富士の姿をみているうちに、言葉が妙にとぎれていくのを感じる。
太陽の光が雲間を抜けて流れ去るたびに、湖面の色が次々と変化した。薄い緑から淡い青へ、そしてやや赤みがかった灰色へと。
詩人の疎開した家はもうない。時は否応もなく過ぎてしまう。梢の中から鳥が一羽飛び立っていったような気がした。

1996-02-15(木)

海への憧れは限りなく  丸山薫

詩人ははるかな海を夢見た。エトランジェの言いしれない寂しさが、いつとはなしに少年の心を海に向かわせたのである。
丸山薫は明治三十二年、大分県荷揚町に生まれた。官吏であった父の仕事の関係で各地を転々。その度に小学校をかえ、満足に友達もできなかった。自分は異邦人なのではないだろうか。いつまで孤独の中に生きなければいけないのか。
少年の心は乱れた。しかしその頃から海への憧れだけは大きくなる一方であった。それは見知らぬ国への淡い夢であり、新しい抒情への出発であったのかもしれない。

私は遠い海が好きです。海の向こうに未知の国があるという期待がつながるのです。水平線の向こうにある陸地には、未来の体験がたたみこまれていると思うのです。

少年の日の憧れと挫折感は『帆・ランプ・鴎』に結晶した。深い悲しみと虚無感。ロマンチック夢と海のあおさ。輝かしい詩人の出発がそこにはあった。
「丸山君はデカダンスでニヒリストである。しかし彼の素質の中には、一人のロマネスクな騎士が住んでいる」
萩原朔太郎は彼の資質を高い調子でほめたたえた。

破れた羽根をひろげた鶴に
破れた羽根よりほかのなにがあらう
破れた羽根を
帆のやうに
いっぱいに傾けて
鶴よ 風になにを
防ごうとしてゐるのだ

どことなく投げやりで、それでいて甘い響きを持った詩だ。言葉の向こう側からふっと潮風が流れてくるような気さえする。
詩人は古風な船用ランプを部屋の壁にかけ、時折所在ないときは、それを指でおしては遊んだという。「どこか小さな汽船の船長」のようだと朔太郎は評した。
丸山は十二歳の時、五度に及ぶ転校の末、母方の祖父のいた愛知県豊橋に移り住んだ。そして、この地が彼の思い出に残る故郷になったのである。薫は祖父の話を聞くのが好きだった。漢学の素養を持っていた祖父は、世界中のおとぎ話や、童話をよく話してくれた。彼の文学的素質はこのころから芽生えていったのであろう。
豊橋は渥美半島から成り立つ土地である。その先端は鶴の渡りで有名な伊良湖岬だ。よく彼は岬にたった。そして遙かな沖合をじっと眺めた。大きな光の束が、その横顔に容赦のない熱を運ぶ。

鴎は窓から駆けこんで
洋燈を衝き倒し
そのまま闇に気を失ってしまった
嘗ては希望であったらう
潮によごれた翼が
いまは後悔のやうに
華麗に匂っている

丸山薫の詩と海が切ってもきれないのは、この豊橋での生活があったからである。父はとうに亡くなってしまった。母も既にない。来しかたを振りかえってみた時、詩人の心にはさまざまな想いが去来する。
彼は戦中、戦後の三年余を山形県ですごしたものの、再び郷里豊橋に住み、その地をでることはなかった。
「昔は船乗りになりたかった。しかしもし船乗りになっていたら、私には海はなかったかもしれません」
丸山薫にとって、海とは詩人の精神を自由に解き放ってくれる、もう一つの夢の世界であったのだろう。その中で彼は心からポエジーの水先案内人になりえたのである。

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