新訳風姿花伝 観世清和  PHP研究所 2013年12月

今までに何度も読んでいます。
そのたびに新しい。
そのことに驚かされます。
著者は31歳で観世宗家を継いだ能楽師です。

特に訳が難しいというのではありません。
ただ自らが舞い、謡う立場にいる人だけに、その言葉に裏付けがあるのです。
実際、芸道の厳しい道を歩いていなければ書けないことばかりです。
読んでいると、息苦しくなります。

父親左近は「なんのために能を舞っているのか」と繰り返し彼に訊ねたそうです。
能は観ている人の寿福増長に繋がらなくてはだめだ、と父は明言しました。
どんな時にも祝言の心を忘れてはならない、と。
それを世阿弥は「衆人愛敬欠けたるところあらんをば、寿福増長の為手とは申しがたし」と述懐しています。

また彼が二十歳を過ぎた頃、父左近は黄色い風呂敷包みを取り出し、万一大きな災害にあった時、これだけを抱えて生き延びなければならない。家族などはどうでもよい。わかったかと告げました。
中には600年近く守り抜いた『風姿花伝第六花修』が入っていたのです。
命にかえても守り抜く能の魂とはなにか。

その心髄がこの本には実にわかりやすく書いてあります。
花とはなにをさすのか。
何が花なのか。それは永遠に続くものであるのか。
世阿弥の言葉を一つ一つ咀嚼しながら、自分に向けて語っていきます。

学者の書いたものとは明らかに熱が違います。
風姿花伝の中の言葉を自分のものになんとしてでもしなくてはならぬという覚悟に満ちています。
それだけに切ると血のにじむような言葉が続きます。

家、家にあらず、継ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす。
家の芸を受け継げないものを家においてはならぬという厳しい掟です。その道を知ったものだけが人だという責務の大きさを感じます。
筆者、覚悟の著作といったらいいのではないでしょうか。
何度読んでも濃い内容に満ちた本です。
残念なことに現在は絶版です。

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