愛人 マルグリット・デュラス 河出書房 1994年9月

 久しぶりに読み返しました。この作家の文体にひかれるからです。一言でいえば、散文詩に近いと形容できるかもしれません。独特の文体です。過去と現在が入り乱れ、けっして読みやすい小説ではありません。 彼女の文章にはいつも死の匂いが染みこんでいます。それが懐かしい響きをともなって遠くから聞こえてくるのです。 初期の傑作『モデラート・カンタービレ』では労働者階級の男との恋愛が描かれました。『愛人』では彼女の...

後世への最大遺物 内村鑑三 岩波書店 1984年2月

 この本は今までに何度か読み直しています。一番最初に知ったのは、森敦の講演の中ででした。そこで森は、人間は生きている間に何をし、死後に何を残せるのかということを、この本を例に出して語りました。 森の結論は文章を書けということだったと記憶しています。 その後、内村のこの著作に触れ、文章を書くということも確かに勧めてはいますが、それ以外にも別の視点があるということを知りました。 人間は何を後世に残せる...

花筏 たゆたう記 鳥越碧 講談社 2008年11月

谷崎潤一郎とその妻、松子について書かれた本です。小説の形をとり、かなり筆者の想像力に負っている部分の多い作品でもあります。しかしその背後にある二人の愛情の形はおそらくこのようなものだったのだろうと、十分納得させられるだけのものを感じます。 鳥越さんの作品は時代小説大賞の第一回作品、『雁金屋草紙』以来でした。読んだのは随分と以前です。尾形光琳の風貌が実に見事に描かれていた記憶があります。 なぜ今回こ...

人間の条件 立岩真也 理論社 2010年8月

 著者の本をはじめて読みました。社会学者ですが、その切り口は通常のそれではなく、生存学とでも呼べるものです。 発想の基本は能力主義を根本原則とする社会に対しての疑問です。つまりできる人間はその対価として、財を得てよいのかということです。ここでいう「できる」というのはあらゆることに対する能力をさします。 計算能力しかり、技術、言語、身体能力、IT技術…。およそ人間が扱う能力に差があるという紛れもない...

いつも旅のなか 角田光代 アクセスパブリッシング 2005年5月

 旅行記というのはだいたいが自己満足に終わってしまうものです。そこによほどの共感を呼ぶだけの質がなければ、読み飛ばされるだけです。 読むに値するという数少ないものの中には司馬遼太郎の『街道を行く』なども入るでしょう。あるいは沢木耕太郎の『深夜特急』も入るかもしれません。すなわち、そこに人間そのものがいて、その目の確かさと同様に書いている作家そのものが真実揺さぶられていなければならないのです。 柵の...

奇貨居くべし 宮城谷昌光 文藝春秋 2004年4月

 全5巻をやっと読み終わりました。『呂氏春秋』を編纂した人として、また始皇帝の父ではないかと言われている男の生き様を描いた本です。 著者の本はこれで何冊目にあたるのでしょうか。春秋戦国時代に生きた人々を描かせたら、宮城谷の右に出る人はいないでしょう。大変な勉強家です。それが筆のあちこちにさりげなく滲み出ています。 読者の中には教訓臭を感じ取る人もいるといいます。しかしそれが時に心地よいのです。なる...

海炭市叙景 佐藤泰志 小学館 2011年2月

彼の『移動動物園』という小説を以前に読んだことがあります。その時の印象を残念なことに今思い出すことができません。 しかしこの海炭市という不思議な名前を持つ町を題材にした小説には心惹かれました。 一口に言えば、これは小説の体裁をした詩だろうと思います。一つ一つの話は誠に短く、そこで語られている内容は地球上のどこにでも起こる、ごくささいな事柄ばかりです。 作品では男、女、親子、兄弟の間に次々と日常の風...

清冽 茨木のり子の肖像 後藤正治 中央公論 2010年11月

 いい本に出会えました。詩人茨木のり子の横顔を縦横に描いています。詩集『倚りかからず』は彼女の代表作となりました。73才の時の詩集です。 もはや できあいの思想には倚りかかりたくない もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない もはや できあいの学問には倚りかかりたくない もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立...

茜色の空 辻井喬 文藝春秋 2010年3月

 以前途中まで読み進めましたが、その時はなぜか挫折してしまいました。今回なんとしても読もうと決心して、再度挑戦しました。なぜ、大平正芳なのかということが、前回は自分の中で噛み砕けませんでした。 今回じっくりと読み味わいながら、筆者が彼の生き様の中に何を見ようとしたのかを少しだけ垣間見た気がしています。 一言でいえば、政争の中を生きた政治家というより、人間大平正芳の持つ誠実で人徳のある側面にスポット...

阿呆者 車谷長吉 新書館 2009年3月

 車谷長吉は不思議な作家です。自分というものをあくまでも客観的に突き放す目を持ちながら、しかしそのことに諦念を抱いてもいません。つまり死ぬその日まで、だらだらと生きていく自分というものの存在を認めています。だから読んでいて疲れません。 なるほど、この人のいう通りだと感心させられます。私小説家というものが今も生きられるとしたら、この人のような形以外にはないのかもしれません。それくらい腑抜けの自分を知...