硝子戸の中 夏目漱石 新潮社 2000年3月

 大正4年から翌年にかけて朝日新聞に発表したエッセイ集です。小説と呼ぶのは無理でしょう。
思いついたことや、記憶に残っていることを次々と書き残していったものです。彼を朝日新聞に推薦してくれた池辺三山も死に、かつてのような華々しいブームも去った場所に漱石はいます。
この後、『道草』『明暗』を書きますが、どちらも多くの人々に受け入れられるような小説ではありませんでした。
大衆はむしろ『坊ちゃん』や『猫』のような明るい向日的な小説を彼に望んだのです。
そうした意味で、大作家になったとはいえ、少し遠い場所に漱石はその位置をずらし始めていたのかもしれません。
このエッセイは今まで何度も読んできました。しかし今回は彼のところにやってきて、身の上話をした女の有名な挿話よりも、彼が母親について書いた部分に一番気持ちが動かされた気がします。
漱石は年をとって生まれた子だけに、あまり母親の記憶を持っていませんでした。それでも彼を心から可愛がってくれたという甘い思い出がどこかに残っていたのでしょう。そのことを何度も懐かしそうに書いています。
いくつもの挿話を読みながら、漱石の柔らかい心の襞に触れた後の心地よさを感じました。
もちろん、実に不愉快な読者の話などもごく自然にちりばめてあります。しかしそれよりも肉親の話、特に兄の思い出なども興味深いものです。
甘さと孤独という言葉が一番適当かもしれません。漱石という人は随分と遠い場所へ自然といってしまったのかもしれません。小説の勉強にきたという女性に向かって、全部自分というものをさらけ出さない限り、小説などというものは書けないものだという述懐まで正直にしています。
さらに彼の小説を読み続けていこうと思います。もう殆ど読んでしまいましたが、まだ幾らか未読のものも残っています。
今日も『趣味の遺伝』という小説をはじめて読みました。日露戦争の旅順攻撃について書いたものです。
漱石の視野の広さにはあらためて驚かされます。
この『硝子戸の中』というエッセイには、自分の境遇を知悉した人の哀しみも仄見えるのです。